──しばらく未空は、逃げるように無言で歩き続けた。
そうして、本館と別館を繋ぐ外廊下に辿り着いたところで、ようやく足を止めた。
野鳥の囀りと、中庭の池に水が落ちる涼やかな音が響く。
それらに紛れるように、
「……なんで、あんなこと言うの?」
ぽつりと、未空が呟いた。
そして、雷華の方を振り返ると、
「おばあちゃんもお姉ちゃんも、びっくりしてた。次女の私に女将になる資格なんてないんだから……いい加減、小学生みたいなこと言うのやめてよ」
そう、語気を強めて言った。
未空がこれほどまでに感情的になっているのを、海斗は初めて目にした。
だからこそ、雷華の言葉が真実なのだと悟る。
いつもクールな未空が苛立ちを露わにする程に、彼女の中には『女将になりたい』という強い気持ちがあるのだ。
しかし、未空の本心が垣間見えたのはその一瞬だけだった。
海斗たちの驚いた顔を見て、未空はハッと我に返り、
「ご、ごめん、大きな声出して。こんなことでムキになるなんて……小学生みたいなのは、私の方だよね。あはは……」
そう言って、笑う。
困った時程そうして笑う未空のことを、海斗は『大人で余裕のある性格』だと思っていた。
しかし、今は……
何もかもを諦めたような、乾いた笑みに見えた。
「……『こんなこと』じゃ、ないだろ」
海斗は、静かな声音で言う。
「弓弦にとって大切なことだから、怒ったんだよな。なら、無理に誤魔化さなくていい。そうでなくとも、最近の弓弦はいろいろ気を遣って遠慮しているんじゃないかって、鮫島も八千草も心配していたんだ。たまには本音を見せてくれた方が、二人も安心すると思う」
未空が「え……」と掠れた声を上げると、翠はもじもじと指を合わせながら、
「み、未空ちゃん、最近わざと雷華ちゃんから離れていたでしょ? わたしと雷華ちゃんが仲良くなれるようにって……ごめんね。わたしがコミュ障の元引きこもりだから、未空ちゃんに気を遣わせちゃって……」
「違うよ、そんなんじゃない。私はただ……」
「そうよ、翠は悪くない。未空が勝手に思い込んで、勝手に離れただけ」
未空の言葉を遮るように、雷華が言う。
「昔からそう。なんでも先回りして考えて、本気で向き合う前にすっと身を引くの。自分の気持ちはいつも後回し。どーせ『幼馴染の自分と一緒じゃ雷華も新しいお友だちを作り辛いだろう』とか思ったんでしょ?」
「それは……」
「女将のこともそう。次女だから女将になる資格はないって、先回りして諦めてる。本当はなりたいって、家族に本気で話したことあるの?」
未空は唇を噛み締め、俯く。
その顔を、雷華は覗き込み、
「今日の未空を見てわかった。やっぱり未空は、女将の仕事が好きなのよ。そう感じたのは、あたしだけじゃないはずよ」
海斗と翠は小さく頷き、同意を示す。
未空がこの旅館を愛し、客をもてなす仕事に誇りを持っていることは、今日の案内を見れば明らかだった。
「一度、家族に話してみなよ。未空だって好きで二番目に生まれたんじゃない。女将になりたい気持ちがあるってことを知ってもらった方が……」
「言ったって、変わらないよ」
俯く未空が、低い声で言う。
「……昔、おばあちゃんとおじいちゃんが話しているのを聞いちゃったの。『未空は二番目だから女将にはなれないし、好きなようにさせてやろう』って。『初実に才能がなかった時の予備にはなるかもしれないけど』って……冗談っぽく笑っていたけど、本心だったと思う」
言って、笑う。
自分を嘲笑うように、何もかもを諦めたように。
「どんなに本音を叫んでも、お姉ちゃんが次の女将になる未来は変わらない。私は次女で……『予備の二番目』だから」
それを聞き、海斗は理解する。
『予備の二番目』。
その言葉は、こうした経緯で未空の心に刻まれ、ずっと彼女を縛り付けてきたのだ。
自分は一番にはなれない、なるべきではないと思い込み、あらゆる場面で彼女の言動にブレーキをかけている。
まるで……『呪い』のように。
「……だから、私は一生二番でいればいいって、そう思っているの?」
雷華が、震える声で問う。
「何番目に生まれようが、未空は未空じゃない。やりたいことがあれば一番を目指していいし、二番目はイヤだって叫んでもいい。だって、未空の人生でしょ?」
そして、雷華は未空の両肩を掴み、言う。
「頑張って努力した結果二番になるのと、最初から諦めて二番になるのは違うじゃない。大人なふりして、傷付いていないふりして、勝手に自分の立ち位置を決めつけるのはもうやめてよ」
「雷華……」
「未空がどんなに『二番目』でいようとしても……あたしの『一番』の理解者は、間違いなく未空なんだからね。これまでも、これからも!」
その言葉に、未空の目が大きく見開かれる。
「……いち、ばん?」
「そう!」
「……これからも?」
「そうだよ! だからヘンな気を遣って勝手に離れるのはやめて。未空がどこに逃げたって、地の果てまで追いかけるから。あたしだって、未空の一番の理解者なんだからね!」
叫んだ直後、雷華は未空を抱き締め、泣き出した。
未空は、放心したような顔をして……雷華の背中にそっと腕を回す。
「……一番になることが全てじゃないって、思おうとしてた」
そして、独り言のように語り始める。
「一番になれなくても……女将になれなくても、旅館で働く方法はあるって、自分に言い聞かせてきた。でも、本当は……自分の好きなことでは、やっぱり、一番になりたくて」
切れ長の瞳の端から、ぽろっと、一筋の涙が溢れる。
「雷華に友だちがたくさんできて、近くにいられなくなったとしても、雷華が幸せならそれでいいと思った。一番じゃなくても、友だちでいることに変わりはないし、雷華の幸せを邪魔したくないから。だけど……本当は寂しかった。離れたくなかった。雷華のこと……一番の親友だと思っているから」
涙を溢しながら、ぽつりぽつりと、未空は本当の気持ちを吐露する。
「……いいのかな。一番になりたいって、思っても」
うわ言のような問いかけに、雷華は抱き締める腕にさらに力を込める。
「そんなの、いいに決まってるっ……未空は、なりたい自分になっていいんだよ……っ」
その背中を、未空はぎゅっと抱き締め返す。
「……私、本当はすごくわがままだよ?」
「いいよ……っ」
「雷華の意見を否定して、自分の意見を貫くかもよ? それでもいい? 嫌いにならない?」
「なるわけないじゃん!」
「かき氷も、自分が食べたいやつを迷いなく選んじゃうけど……それでもいい?」
「それは…………っ、うぅ」
「そこは迷うのかよ」
と、未空は思わずツッコんで、そのまま二人してクスクスと笑い出した。
抱き合いながら泣き笑いする二人を、海斗と翠は顔を見合わせて眺める。
そして、
「……いいなぁ。こういう友だちがいるって」
ふと、翠が呟いたのを、二人は目敏く聞きつける。
「何言ってんの? 翠は、いま『一番』仲良くなりたい友だちなんだけど!」
「私にとっては、一緒に雷華の手綱を握ってくれる『一番』の同志、かな」
「手綱ってなによ!」
「ふふ。とりあえず、こっちにおいでってこと」
そう言って、未空が手招きする。
翠は目を見開いてから、嬉しそうに頬を緩め……
「……おじゃましますっ」
雷華と未空に駆け寄り、手を広げ抱きついた。
身体を寄せ合い、楽しそうに笑う三人。
それを、海斗が微笑ましく見つめていると、
「……なによ、混ざりたいの? ふふん、両手に花でいいでしょー」
と、雷華が未空と翠の腕を引き寄せながら、見せつけるように言う。
確かに、美少女二人囲まれているその状況は『両手に花』と言うに値するが……
(……俺からすれば、お前も十分『可憐な花』だけどな)
という言葉はさすがにキザすぎて口にできず、海斗は静かに首を振る。
「違うよ。いつか弓弦が旅館の女将になったら、こうして遊びに来れたらなって思っただけだ」
しかし、今度は未空が首を横に振る。
「残念ながら、それだけは本当に叶わないんだ。お姉ちゃんは随分前から修行を初めているし、大学で経営学も学んでいる。今さら私がなりたいと言ったところで、家の方針は……」
「だけど、『旅館』はここだけじゃないよな?」
未空の言葉を、海斗が遮る。
「確かに『つるや旅館』の女将になることは難しいかもしれない。でも、『旅館の女将』になることはできるはずだ。旅館は日本中にあるし、なんなら自分の旅館を立ち上げることもできる。そう簡単なことじゃないとは思うが……諦めるのは、まだ早いだろ?」
海斗の提言に……未空は、ぱちくりと瞬きをし、
「……目から鱗が落ちるとはこのことだね。そんな当たり前のことに、どうして今まで気付かなかったんだろう」
そう、呆けたように言う。
その隣で、雷華は得意げに胸を反らし、
「あたしは気付いていたわよ? だから『つるや旅館の女将』とは言わなかったんだもん」
「ほんとかなぁ? あやしい……」
「翠、なんか言った?」
目を逸らす翠と、睨み付ける雷華。
未空は、「あはは」と笑って、
「……ありがとう、温森くん。君の言う通り、諦めるのは早いよね。お母さんやおばあちゃんに話して、私も女将の修行を受けさせてもらうよ」
「あぁ、それがいい。応援してるぞ」
「うん。今日、みんなが来てくれて本当によかった。本音で話すことで見えてくるものが、こんなにあるんだね。雷華も翠ちゃんも、ありがとう。私、いつかきっと素敵な旅館の女将になるから。みんなは最初のお客さんになってね」
はにかんだように微笑む未空。
その笑みからは、もう諦めも自嘲も感じられなかった。
「楽しみにしてるよ。と、言いたいところだが……その時も俺は混ぜてもらえないのか? 鮫島」
なんて、海斗が冗談混じりに尋ねると……
雷華は、むっと唇を尖らせて、
「……いいえ。仕方ないから混ぜてあげる。あたしの荷物持ちになる覚悟があるならね」
頬を淡く染めながら、海斗の言葉を否定した。