突然の雷華の出現に、海斗は思わず本をパァンッ! と閉じた。
「お、おう、鮫島。戻ったのか」
「戻ったのか、じゃないわよ。何してんのかって聞いてんの」
そう尋ねる雷華の髪は……翠と同じく、ツインテールに結われていた。
幼い愛らしさを放つ翠とは異なり、雷華のツインテール姿にはアイドルのような華やかさがあった。人気グループのセンターで歌っていても違和感がない。なんなら、今この場で一曲披露してもらいたいくらいだ。
先日のポニーテールもそうだが、髪型一つでここまで目を奪われるとは……俺って実は、髪型フェチなんだろうか?
そんなことを考え、海斗が返事を忘れていると、
「おまじないの本を見ていたの。ほら」
代わりに翠が、海斗の手から本を奪いながら答えた。
雷華は訝しげな顔をして聞き返す。
「おまじないィ?」
「そう。雷華ちゃんともっと仲良くなるための、友情運アップのおまじないを探していた」
なんて、雷華にとって効果抜群な殺し文句を放つ。
案の定、雷華は目をキラッと輝かせ、
「ほんと?! んもう、そんなことしなくても既に仲良しじゃない! 髪型もお揃いだし!」
「でも、もっと仲良しになりたい」
「うへへー。そこまで言うなら試してみてもいいわよ。どんなおまじないなの?」
ここまで、僅か二十秒。
雷華が現れてからこの短時間で、翠は彼女におまじないをかける場を整えてしまった。
もちろん、友情運アップのおまじないというのは詭弁だ。
何故なら、翠が手にしている本には恋愛向けのおまじないしか載っていないのだから。
(八千草……なんて恐ろし……否、なんて心強いんだ)
味方にいるとこの上なくありがたいが、決して敵には回したくないタイプである。
海斗はごくりと喉を鳴らしつつ、翠の芝居に乗ることにする。
翠は表紙のタイトルが見えないように本をめくり……一つのページに目を止めた。
「……うん、これを試してみよう」
恐らく、恋愛運アップのおまじないを見つけたのだろう。
翠は本から顔を上げ、
「このおまじないには、人柱が必要。温森くん、お願い」
「人柱……?」
流れるように指名され、戦慄の声を上げる海斗。
おかしい。タイトルには『今日から使える!』と書いてあったはずだ。生け贄が必要なおまじないが今日から使えていいわけがない。それともこの本の著者にとって、生け贄の調達などは日常茶飯事なのだろうか?
ファンシーな表紙とは裏腹に、底知れぬ黒魔術の匂いを感じ、海斗は震える。
人柱だなんて、一体何をされるのか……そう怯えていると、
「まず、背中をこっちに向けて」
翠が、淡々と指示する。説明もなくおっ始めるつもりらしい。背中を向けるなんて怖すぎる。何をされるのか見えないじゃないか。
「黙ってないでさっさと背中見せなさいよ! あたしと翠の友情のために!」
痺れを切らした雷華が海斗の肩をガッと掴み、無理矢理身体を反転させる。
あわれ、『お友だち作り隊』隊員その一は、お友だちができた途端、用済みとばかりに隊長から生け贄になるよう命じられたのだった──
……などという下手なモノローグを脳内に流しながら、海斗は背中を向け、腹を括る。
何をされるのかわからない恐怖はあるが、自分が人柱になることで雷華の呪いが上書きされるなら、まぁいいかと思えた。
「それで? ここからどうするの?」
「まずは……」
ごにょごにょとおまじないのやり方を共有する雷華と翠。
そして、準備が整ったのか、雷華は海斗の背後に立ち……
「…………いくわよ」
ごくっ。
と、喉が鳴ったように聞こえた──その直後。
「……ひっ」
背中にこそばゆい感覚が走り、海斗は情けない声を上げた。
雷華が海斗の背中を、指でなぞり始めたのだ。
それも……撫でるように優しい、緩慢な手付きで。
「そうそう。大きく、ゆっくりと描いて……あと四回、それをやって」
翠の指示が聞こえる。
指の軌道が二周目に差し掛かった時、その形がハートマークをなぞらえていることを海斗は悟る。
しかし、そんなことはもはやどうでもよかった。
薄いワイシャツ越しに細い指で、つぅ……っと撫でられる感触に、ゾクゾクとした震えが止まらなくなっているから。
誰かにこんな風に背中を触られるのは初めてだった。
だから、自分がこんなに背中が弱いのだということも、初めて知った。
しかも、この焦らすような緩慢な刺激が、雷華によって齎されているのだと思うと……殊更こそばゆいような、妙な気持ちになった。
(これは……ある意味、拷問だ)
しかし、雷華の呪いを上書きできるというなら、ここは耐えるしかない。
ムズムズとした疼きを震えながら我慢していると、雷華が五周目のハートマークを描き終え、海斗の背中から指を離した。
ようやく解放された。
そう思い、ほっと身体の力を抜くと……
雷華の手が、海斗の両肩にそっと置かれる。
そのまま、彼の耳元に唇を寄せて、
「な……仲良くなぁれっ。にゃんにゃんきゅん……っ☆」
……という、訳の分からない呪文が囁かれた。
耳にかかる吐息。
鼓膜を直に震わす、可愛らしい声。
海斗は、もう……限界だった。
「ぐぅ……っ!」
囁かれた方の耳を押さえながら、膝から崩れ落ちる海斗。
耳から入り込んだ甘い痺れが全身を駆け巡り、鼓動をバクバクと揺さぶっていた。
それを見下ろし、翠が淡々と言う。
「温森くん、腰砕けになってる場合じゃないよ。雷華ちゃんに何か言ってみて」
腰砕けって言うな。
そう言い返してやる余裕もない程に、腰砕けだった。
海斗は顔が上気しているのを自覚しながら、雷華の方を振り返り、
「…………今日は、天気がいいな、鮫島」
と、当たり障りのない言葉を投げかけた。
もちろん、雷華の『否定の呪い』が上書きされたのかを試すための言葉だ。
今日は雲一つない晴天。普通なら否定する余地もないはずである。
さぁ、身体を張ってかけた恋愛運アップのおまじない。
その効果や如何に。
海斗が、固唾を飲んで雷華の返事を待つと……
彼女は、いつものように眉を寄せ、
「どこが? ぜんっぜんいい天気じゃないし」
そう、全否定した。
おまじないは失敗に終わったようだ。
「言われた通りにやったけど、翠との友情はさらにパワーアップしたかな? あたしはなんとなくそんな気がするけど……翠はどう?」
脱力する海斗をよそに、雷華はわくわくした様子で尋ねる。
それに、翠は真顔で首を振り、
「うーん、『いつも喧嘩ばかりしちゃう彼と素直に話せるようになるおまじない』……雷華ちゃんにぴったりだと思ったけど、効かなかったみたい」
「えっ?! ちょ、どういうこと?! 話が違うじゃない!」
翠の言葉に、詰め寄る雷華。
そのままヒートアップしそうだったので、海斗は保護者である未空に助けを求めることにする──が。
「……あれ? そういえば、弓弦は……?」
図書室を見回すが、姿が見えない。
どうやらまだ帰って来ていないようだ。
「友情運アップのおまじないは?!」
「ひぃ……」
などとやり取りする二人を尻目に、海斗はこっそり図書室を出て、未空を探すことにした。