鮫島さんは否定形で全肯定。



「──残念だけど、彼女が本気で嫌がっているのなら、これ以上は無理に誘えないよね。予定通り明日はこの三人で、午前十時に『つるや商店街』の入口に集合しよ」

 何とも言えない空気のまま、未空の締めの言葉と共に、残された三人も教室を出た。
 すると、雷華は廊下に出るなりくるりと背を向け、

「あたし、先帰る。また明日」

 返事も待たず走り去ってしまった。
 栗色の長髪が靡くのを、海斗が呆然と眺めていると、

「はぁ……またお節介が暴走しないといいんだけど」

 海斗の隣で、未空がこめかみを押さえながら息を吐いた。
 そのため息の理由を、海斗は……翌日、思い知ることになる。




 * * * *



 ──明くる日の朝。午前七時。
 海斗は、来客を告げるチャイムによって叩き起こされた。

 ピンポンピンポンと無遠慮に鳴り続ける呼び鈴。
 昨夜は、雷華が呪いをかけられたという『深水(みすみ)神社』について調べていたため、寝るのが遅くなってしまった。
 取材の待ち合わせに間に合うギリギリまで寝ていようと思っていたのに、一体誰がチャイムを連打しているのか。

 新聞の勧誘なら即断って二度寝しよう。

 そう決意しながら、海斗は玄関を開けた。
 すると、

「おはよ。表札、付けたのね。いい感じじゃない」

 そこには、寝ぼけ眼には眩し過ぎる美少女──鮫島雷華が、朝日を背に受け立っていた。

 白いシフォンブラウスに、ハイウエストなレモンイエローのショートパンツ。
 制服姿ではわからない腰の細さや脚の長さが際立つ、ガーリーなファッションだ。
 さらに、いつもハーフツインにしている髪はポニーテールに結われ、彼女の溌溂とした魅力を最大限に引き出していた。

 初めて見る、雷華の私服姿。
 その麗しさに、海斗の意識が一気に覚醒する。

 どうしてこんな時間にうちへ来たのか、そう尋ねることも忘れ固まっていると、

「ぼーっとしてないで、とりあえずこれを読みなさい」

 斜めがけのポシェットから一枚の紙切れを取り出し、突き付けてくる。
 起きて一分足らずで怒涛の展開が続いているが、海斗は黙って受け取り、紙に目を落とすことにする。

 サメのキャラクターが描かれた、可愛らしい便箋。
 そこに、丸みを帯びた字で、こんなことが書かれていた。


『今日の取材に八千草翠を同行させたいから、彼女の家まで一緒に来て。
 自宅の場所は昨日尾行したから特定済み。
 未空にバレると怒られそうだから、仕方なくあんたを誘うことにした。
 八千草翠とはちゃんとお友だちになりたいし、あんたも説得に協力して』


「…………」

 なるほど、これが未空の言っていた『度を過ぎたお節介』と『なかなかに重い行動』か。

 と、第三者の目線に立ったことで、初めて雷華の異常さを実感する。

 翠の言葉には心配な点もあったし、『足手まといになる』などと言わず取材に同行してもらえたらと海斗も思っていた。
 が、説得するために尾行し、自宅を特定しようという発想には、どう転んでも至らない。
 しかも未空にバレないようにしているということは、雷華もそれが異常な行動である自覚があるのだろう。
 その上で、自分一人じゃ説得できそうにないと判断し、海斗に協力を仰ぐことにした。
 口で会話すれば否定の呪いが発動してしまうため、ご丁寧に文まで(したた)めて。

 たった一人友だちを増やすのに、この執念と行動力。
 呆れるべきか感心すべきか、それとも同情すべきなのか……

「読んだ? なら、これが協力の報酬よ。受け取りなさい」

 と、今度は後ろ手に隠していたトートバッグをずいっと押しつけてくる。
 その途端、香ばしいバターの香りがふわりと漂った。

「朝食のパン。お母さんから焼き立てをもらってきたから、冷めない内に早く食べ……は、はっくしゅ!」

 言葉半ばに飛び出すくしゃみ。
 やはり風邪気味なのではと、海斗は雷華を覗き込む。

「おいおい、大丈夫か? 最近ずっとくしゃみしているし、あまり無理しない方が……」
「無理なんかしてない!」
「もうすぐ五月とはいえ朝はまだ冷えるんだから、もう少し暖かい服装で来てもよかったんじゃないか?」
「別に寒くないわよ。これが一番可愛い服だと思ったから着てきたの!」
「確かに可愛いし、よく似合っているが、体調を崩したら元も子も……」

 そう言いかけたところで、海斗は言葉を止める。
 まだ寝ぼけているのか、つい本音を溢してしまった。

 しかし、雷華の耳にはしっかり届いた後だった。
 彼女はみるみる内に顔を赤らめると、犬歯を剥き出しにし、

「かっ、可愛くないし、似合ってない!」

 全力で、否定した。

 今までの海斗なら事を穏便に済ませるため「そうだな」と適当に合わせていたかもしれない。
 だが、彼は変わった。
 ここはきちんと本心を貫かなければと、雷華の目をじっと見つめ、


「いや、可愛いし似合っている。これは、否定しようのない事実だ」


 駄目だ、やはり寝ぼけている。
 でなければこんなセリフ、恥ずかしくて言えるはずがない。

 なんて、どこか他人事のように思いながら、さらに爆発するであろう否定に備え身構える。

 しかし、これ以上ないくらいに顔を火照らせた雷華から返ってきた否定は……


「そっ、そんなこと…………ないってば……っ」


 この距離でも聞き逃してしまいそうな程、小さく弱々しいものだった。

 ポニーテールの毛先をもじもじといじる雷華。
 どうやら本気で照れているらしい。

 その茹で蛸のように赤く染まった顔があまりにも可愛くて、海斗は思わずじっと見つめる。
 本当に、雷華の表情や反応は見ていて飽きない。彼女を知れば知る程、海斗はもっといろんな顔を見たいと思うようになっていた。

(もし、否定の呪いが解けたら……俺にも、笑顔を向けてくれるのだろうか?)

 そんなことを考えていると、雷華が顔を背け、

「な、なによ……そんなにジロジロ見られると、恥ずかしいんだけど……」

 そう言うので、海斗は見つめすぎていることに気付き、慌てて目を逸らし、

「いや、このパン、随分とたくさん入っているようだが……俺一人で食べていいのか?」

 心臓の高鳴りを誤魔化すように尋ねた。
 すると、雷華はパッと顔を上げ、

「ダメっ、あたしの分も入ってるんだから! 冷める前に食べるわよ。早く家に入れて!」

 ポニーテールを揺らしながら、否定の声を響かせた。
 
 


 そうして、海斗と雷華は朝食を共にし、翠の自宅に向けて出発した。

 雷華の話によると、海斗の家の最寄り駅から二つ離れた駅で降り、十分ほど歩いたところに翠の家はあるらしい。

「あの子、家に帰るまでに四回も躓いたのよ? もう心配で、何度も声をかけそうになったわ。いつもあんな感じなのかしら?」

 乗客もまばらな各駅停車の中、雷華が言う。
 向かいの窓ガラスに映る、並んで座る自分たちの姿を見つめながら、海斗は耳を傾ける。

「『絵しか取り柄がない』なんて、絶対そんなことないと思うの。きっと本人が気付いていない長所が他にもあるはずよ。それを見つけてあげるのが友だちの役目だと、そう思わない?」

 雷華が一方的に話しているのを聞く分には、否定の呪いは発動しない。
 だから、雷華が調子良く話している間は、極力返事をせず聞くことに徹しようと海斗は思った。

 それに……
 出会ったばかりの頃に比べ、遠慮なしに喋るようなった彼女の変化が嬉しくて。
 他の男子は知らないであろう、この可愛らしい喋り声を、もっと聞いていたいという思いもあった。

 だが、

「……ちょっと。さっきから黙り込んでるけど、ちゃんと聞いてるの?」

 隣から顔を覗き込むようにして、雷華が文句を言ってきた。

 長いまつ毛の一本一本まで見えそうな近さ。
 至近距離で見ると、ますます可愛い。
 しかも、言いようのない甘い香りまで漂ってくるので……海斗はドキッとして仰け反る。

「……俺が何か言ったら、鮫島は否定でしか返せなくなるだろ?」
「そんなことない」
「ほら、言わんこっちゃない」
「そんなことないってば!」

 むっと口を尖らせる雷華。
 すぐ目の前にある血色の良い唇に嫌でも視線が奪われ、海斗は咄嗟に目を逸らす。

「……確かに、相槌も打たなかったのは悪かった。俺も八千草のことは心配だ。本当に絵が好きで、それを仕事にしたいというのなら素晴らしいことだと思う。だが、他に取り柄がないからと消去法のような考えで他のことを諦めているなら、それはもったいないな、とも思う」

 翠がどうしてそう考えるようになったのか、そうなるに至った理由があるのだろうが……
 そこに触れられる程、心を開いてもらえるかはわからない。
 だけど、

「こっちから働きかけなきゃ、きっと八千草は閉じこもったままだよな。これも何かの縁だ。鮫島が八千草と本気で友だちになりたいのなら、俺も協力するよ。鮫島の友だち二号としてな」

 もちろん、一号は未空だ。
 こう言えば、「さすがに二人以上は友だちいるわよ!」とか、「別にそこまで友だちになりたいわけじゃないし!」といったわかりやすい否定が返ってくるだろうと海斗は踏んでいた。
 が、実際に返ってきた否定は、

「……え。別にあんたのことは、友だちだと思っていないけど」

 ……という、悲しいくらいに淡々としたものだった。

 あ、そこを否定するんだ?

 と、海斗は猛烈な虚しさに襲われる。
 雷華には『イエスマンの呪い』を解いてもらった恩もあるし、こうして頼ってもらえる間柄になったので、少なくとも友だち判定はもらえていると思っていたのだが……とんだ思い上がりだったようだ。

 そもそも他人の心配ができる程、自分に友だちがいるわけではないことを思い出し、海斗は静かに落ち込む。
 すると、雷華が続けて、

「だって…………男の子との友情なんて、成立するとは思えないし」

 そう、独り言のように呟いた。
 思わず雷華の方を見るが、逃げるように顔を背けられる。

 男女間の友情の是非については世論でも度々議論されるところではあるが、彼女の場合は、呪いによる苦い経験の末にこの結論に至ったのだろう。

 異性だけではない。この厄介な呪縛のせいで、彼女はこんな風に同性の友人を作るのにも空回りしている。
 本当は人一倍、他人を思いやる優しい心を持っているのに。

 やはり、この呪いから解放してやりたい。
 そうすればきっと、彼女には男女問わずたくさんの友だちができるはずだ。

 昨日未空から聞いた神社については、まだ調べ始めたばかり。
 情報を徹底的に洗い、呪いを解く方法を探し出さなければ……

 そう決意を新たにし、海斗は顔を背ける雷華に向けて、

「……そうか。なら、今は『下僕その一』でもいい。とにかく、鮫島の『お友だち大作戦』には協力させてもらうからな」

 否定されるのを覚悟の上で、そう伝えた。
 雷華は、窺うように海斗の方へ振り向くと、

「……『下僕』は却下。それじゃあたしが女王さまみたいじゃない。『お友だち作り隊』の『隊員その一』に改名しなさい」

 ほんのり頬を染め、口を尖らせ言った。

 ……まるで、小学生が考えたような呼び名だな。

 というツッコミを、小さなため息に変えながら、

「……仰せのままに。鮫島隊長」

 海斗は、満更でもない顔で、そう答えた。
 
 


 ほどなくして目的の駅に着いた二人は、電車を降り、翠の家を目指した。

 海斗には土地勘のない場所だったが、雷華が迷いなくずんずん進んで行くので、その背中に『隊長』の頼もしさと執念を感じつつ、黙ってついて行った。



 そして……
 十分ほど歩き続けたのち、雷華が急に足を止めた。

「……ここよ」

 少し緊張感のある声で、一つの家に目を向ける。

 二階建ての一軒家だった。
 住宅街の中に見事に溶け込む、極普通の家。
 ポストの上の表札には『八千草』と記されている。

 ここが、八千草翠の家……
 実際に目の当たりにすると、昨日知り合ったばかりのクラスメイトの自宅に早朝から突撃訪問しようとしている異常さを再認識させられる。

 そもそもインターホンを鳴らしたところで、出るのが翠本人だとは限らない。
 もし家族が応対した場合……しかも、それが男性だった場合、雷華の呪いが発動してしまう。
 否定が暴走するようなことがあれば、問答無用で追い返される可能性すらある。

 とりあえず、一旦作戦を練ろう。
 海斗がそう切り出そうとした……その時。

「これがチャイムかな。えい」

 ぽちっと、雷華が迷わずインターホンのボタンを押した。
 瞬間、海斗の顔面が蒼白になる。

「……隊長。さすがに斬り込むのが早すぎでは? 家族が出てきたらどうするんです?」
「はぁ? 速くないわよ、ゆっくり押したわ」
「速度の話じゃなくてだな」

 などと言い合っていると、インターホンのマイクから「はーい」という声が聞こえてきた。
 女性の声だ。雰囲気からして、翠ではない。母親だろうか?

 父親が出てこなかったのは不幸中の幸いだった。
 雷華はにこっと微笑むと、表情通りの明るい声色で、こう挨拶した。

「おはようございます。翠ちゃんのクラスメイトの鮫島雷華といいます。今日は活動行事の準備を一緒に進める約束をしているのでお迎えに来ました。翠ちゃんいらっしゃいますか?」

 好感度百パーセントの、完璧な口上。
 クラスメイトを尾行し、自宅を特定するヤバイ奴だということを知っている海斗ですら、その事実を忘れる程の品行方正ボイスだった。
 もしかすると、インターホンについた小さなカメラで顔を見られているかもしれない。であればなおのこと、彼女を不審者だと疑う者はいないだろう。

 案の定、翠の母親らしき声も「あらあら」と嬉しそうに答え、

「わざわざありがとうね。あの子ったらお寝坊さんで……今、呼んでくるわね」

 と、すんなり受け入れてくれた。

 通話が切れたことを確認してから、海斗は半眼になって雷華を見つめる。

「……すごいですね、隊長。訪問販売の経験でもあるんですか?」
「あるわけないでしょ? ふん。未空の優等生っぷりを何年も隣で見てきたんだもの。こういう時に取るべき態度は弁えているわ」

 なるほど、確かに未空は最高にして最強の手本に違いないと、海斗は納得する。

 ファーストコンタクトは成功したものの、二人はそこから数分待つことになった。
 母親の口ぶりから察するに翠はまだ寝ているようだったから、まず叩き起こされているのだろう。
「高校のお友だちが来てるわよ!」と言われ、混乱する翠の姿が目に浮かぶ。
 おかしい、家の住所は誰にも教えていないのに。
 そう頭を捻りながら着替えでもしているかもしれない。

 果たして、海斗の予想は概ね当たったようだった。
 ガチャ、と控えめな音を立て、玄関のドアがゆっくり開く。
 その隙間から、恐る恐るといった様子で、翠が顔を覗かせた。

「あっ、来た来た! おはよー!」

 まるで本当に待ち合わせをしていたかのような朗らかさで手を振る雷華。
 翠は、あからさまに顔を引き攣らせる。

「なっ、なんで……どうしてうちに?!」

 もっともな疑問である。
 どう話せば穏便に済ませられるかと、海斗が考え始めた矢先、

「昨日、あんたの後を尾けたのよ。何回も転んでいたけど大丈夫?」

 雷華が、ド直球にそう答えた。
 ストーキングの事実を悪びれることなく明かされ、翠は眼鏡の奥の瞳に恐怖を滲ませる。

「な、何のためにそんなことを……まさか、お金を強請(ゆす)りに?! 確かに絵の依頼を受けているとは言ったけど、子どものお小遣いみたいな額しかまだ貰えていないので……!」
「そんなわけないでしょ。今日の取材、一緒に行こうって誘いに来たのよ」
「え……それこそ、何のために? 言ったでしょ? わたし、役に立たないから……」
「何のためって、決まってるじゃない。あんたとお友だちになりたいからよ!」

 雷華の高らかな声が、住宅街にこだまする。
 強引だが、これ以上ないくらいに純粋な叫びだった。
 先ほど『お友だち』認定を受けられなかった海斗としては、少し羨ましいと感じてしまう程の真っ直ぐな言葉だ。

 しかし翠は……ぐっと唇を噛み締めると、

「……わたしじゃ、無理だよ。さよなら」

 そう言い残し、扉を閉めようとする…………が。


「──奴奈川(ぬながわ)すだち!」


 閉まる直前、雷華が妙な呪文を唱えた。
 それを聞いた途端、翠はバッと扉を開け、わなわなと震え出す。

「なっ…………なんで、わたしのペンネームを……?!」

 どうやら『奴奈川すだち』というのは、翠のペンネームらしい。
 それをどうして雷華が知っているのか、海斗も疑問に思っていると、

「ふふーん。昨日イラストを見せてもらった時、はじっこに小さく『すだち』ってサインが書いてあるのを見つけて、調べたの。SNSに載せてる絵もぜんぶ見たわ」

 ぞわわっ、と翠の肌が粟立つ。
 さすがの海斗も、いよいよ雷華の粘着気質に恐ろしさを覚えるが、彼女は止まらない。キラキラとした瞳で、興奮気味に続ける。

「すごかった! どの絵も綺麗で可愛くてかっこよくて、見てるだけでワクワクした! 中にはちょっとえっちな絵もあったけど……あたし、すっかり奴奈川すだちのファンになっちゃった!」
「わぁぁああ! やめて! それ以上言わないで!」

 ご近所中に知らしめるような雷華のセリフに、聞いたことのないボリュームの声で制止する翠。
 感情表現に乏しいはずの顔が、これ以上ないくらいに赤くなっている。

 しかし雷華は、謝罪するどころかにんまり笑って、

「あんな素敵な絵が描けるんだもん、あなたがどんな人間なのか、ちゃんと知りたいの。ね、一緒に取材に行こうよ」

 そう、あらためて誘いかけた。
 その真っ直ぐな視線から逃げるように、翠は目を逸らし、

「だから無理だって……きっと、知れば知る程、わたしが何もできないゴミ人間だってわかるよ。絵を気に入ってくれたならなおさら、幻滅されたくない」

 ドアに隠れるように、小さく答える。
 そこで、雷華は海斗をジトッと睨み付ける。
 その視線に「あんたからも何か言って!」という圧を感じ、海斗は咳払いをしながら言葉を探す。

「あー……その、八千草には発表にあたってイラストを描いてもらいたいと思っているが、俺たちから話を聞いて描くのと、実際に自分の目で見て描くのとでは、やはりリアリティというか、説得力が違うんじゃないか?」

 そう言う自分は棒人間を描くのが精々の画力しか持ち合わせていないけどな。
 と、偉そうな自身の発言を内心恥じる。

 しかし海斗の言葉に、翠は再びドアの隙間から顔を覗かせ、

「……一理ある」

 と、呟く。
 どうやら心に響くものがあったらしい。

 海斗はもう一押ししてみることにする。

「俺たちだけで現地の写真を撮ってくることもできるが、八千草が欲しい構図を持ち帰れる保証はない。実際目の当たりにすることで浮かぶ構想もあるだろう。メンバーとして、作画担当として、今回の取材には同行して欲しいと、俺も強く思う」
「…………」

 俯き、考え込む翠。
 あと少し。取材に出向くことの意義をもう少し伝えられれば、彼女はきっと「うん」と言ってくれるはずだ。

 恐らく雷華も同じように考えたのだろう。
 ぐっと拳を握りしめ、「もう一押し!」と言わんばかりの表情を浮かべ……こう続けた。


「ね、やっぱり一緒に行きましょ! でないと…………あんたのペンネームとサイトのURLを載せたビラを、ここいら一帯に貼りまくるから! ちょっとえっちな絵を描いていることをご近所中にバラされたくなかったら、大人しくついてきなさい!」


 一押しというか、一撃必殺だった。

 もはや脅迫。
 海斗の説得により開きかけた心のドアを問答無用で蹴破るような、清々しいまでの脅迫である。

 翠は「ひぃっ」と哀れな悲鳴を上げ、額に青筋を立てると、

「い、いいい今準備してくるから! それだけはっ、それだけはどうかご勘弁を……っ!」

 目に涙を浮かべ、バタンッ! とドアを閉めた。

「ふうっ。説得成功ね!」

 額の汗を拭い、達成感満載の表情を浮かべる雷華。

 ……連れ出すことには成功したが、『説得』ではなかったぞ。決して。

 海斗はため息をつくと、すべてのツッコミを飲み込んで、

「……隊長じゃなく、これからは『組長』と呼ぶことにしよう」

 当人に聞こえないように、小さく呟いた。
 
 


 ──家から連れ出され、電車に乗っている間も、翠はビクビクと怯えた表情を浮かべていた。

「もー、靴ひも解けてるよ? ほら、こっちのリボンも。三つ編みも結い直してあげるから……は、はっくしゅっ」

 震える翠の装いを、くしゃみをしながら整えていく雷華。
 ハタから見れば妹の世話をする姉のようだが、海斗にはいじめられっ子を人形にするいじめっ子にしか見えなかった。

 一方で、雷華が手を出したくなる程に翠の装いが乱れていることも事実だった。
 スニーカーの紐は右も左も解けているし、白いワンピースの胸元のリボンも結目がぐちゃぐちゃだ。
 昨日と同様に黒い長髪を三つ編みおさげにしているが、それもよれてガタガタである。

 慌てて身支度を整えたにしても、なかなかの乱れっぷり。
 そういえば制服のネクタイも変な結び方をしていたなと、海斗は思い出す。

「もしかして苦手なの? こうやって結んだりするの」

 雷華が尋ねる。
 三つ編みを結い直されながら、翠は渋い顔をして、

「うん……わたし、死ぬほど不器用だから」
「ふーん。あんなに絵が上手いのに、不思議なものね。ていうか、紐のある靴や服を着なければいいのに。三つ編みも、無理にする必要ないんじゃない?」
「それは、結ぶ練習するためにあえて選んでいて……三つ編みは、キャラ付けというか……」
「キャラ付け? ってなに?」
「古の時代より、ドシでオタクな女キャラは『三つ編み眼鏡』と相場が決まっている」
「そうなの? よくわかんないけど、要するに一種のこだわりってことね。リボン結びも三つ編みも、慣れれば簡単よ。あたしが教えてあげるから……ふ、ふぇっくしゅ!」

 綺麗に結い直した髪をくしゃみと同時に離す雷華。
 直後、電車は『つるや商店街』の最寄り駅に到着した。

 ホームに降りるなり、海斗と雷華は、

「くしゃみ大丈夫か?」
「大丈夫じゃない!」
「じゃあ帰るか?」
「帰らない!」

 という、いつもの応酬を繰り返す。
 その後ろ姿を不思議そうに見つめてから、翠は綺麗に結われた自身の三つ編みに目を落とし……

「…………」

 唇をきゅっと結んで、電車を降りた。





「……これは一体、どういうこと?」

 待ち合わせ場所には、既に未空が立っていた。
 白いシャツに黒のスキニーパンツという、ラフながらにスタイルの良さが際立つクールな装いだ。

 しかし、その私服姿を褒める間もなく、未空は合流した瞬間こめかみを痙攣させた。
 来る予定のない翠がいることに困惑しているだけでなく、雷華がどんな手段を講じて翠をここへ連行したのか心配している、といった様子だ。

 怒られることを察知したのか、雷華は翠の後ろにサッと隠れる。
 と言っても、翠の方がだいぶ背が低いので、隠れ切れてはいない。

「絵を描いてもらうにしても、実際に現地を見た方がリアリティのあるものが描けるんじゃないかってお願いして来てもらったんだ。な、八千草」

 海斗のフォローに、こくこく頷く翠。
 雷華の都合の良いように話を合わせなければまた脅されると思ったのだろう、顔が引き攣っている。

 未空は、海斗と翠、雷華の顔をじーっと見つめたのち、

「……ま、どうやって連絡を取り合ったのかは聞かないでおいてあげる。翠ちゃん、本当に困ったことがあったら言ってね。特に雷華関係」
「どーいう意味よ!」
「そのまんまの意味よ」

 抗議する雷華をバッサリ切り捨て、未空は翠に微笑みかける。

「何にせよ、来てくれて嬉しいよ。絵を描いてもらうと言っても、まだ具体的な発表方法は決まっていないし、現地を見た上で相談したいと思っていたんだ。それに、個人的にも翠ちゃんとは仲良くなりたかったしね」

 爽やかな風を受け、ショートボブの髪がさらりと揺れる。

 圧倒的なまでの人当たりの良さ。
 いや、包容力と言うべきか。

 きっと同性からもモテるんだろうなと、海斗は噛み締めるように思う。
 現に、翠の陶器のように白い頬がほんのり赤く染まっていた。

「では、全員揃ったところで。言い出しっぺの温森くん、先頭は任せた」

 未空から指名され、海斗はアーチ状の屋根に覆われた商店街の先を見据える。
 毎日のように来ているはずなのに、取材となると少し緊張感が込み上げて来た。

「あぁ。それじゃあ……行こうか」

 海斗は、三人を導くように歩き始める……
 が、直後。

「……ぶべっ」

 翠が、顔から地面へ倒れ込んだ。
 足元に段差や障害物はない。何もない所で転んだようだ。

「あーもう。大丈夫? 血出てない?」
「……ほらね。わたしってほんとにポンコツダメ人間なの。どっかで転んで動かなくなっても、そのまま放置していいから……ふふ、あはは」

 心配する雷華に、狂気すら感じる笑みを返す翠。

 歩くペースを考えつつ、転びやすい物が落ちていないか常に注意を払わなければ……

 と、海斗は別の意味での緊張感を高めるのだった。
 
 


 ──週末ということもあり、『つるや商店街』にはそれなりの人通りがあった。

 日用品を買う近隣住民。
 食べ歩きを楽しむ学生。
 観光客らしき人の姿も見受けられる。

 雷華と未空は「勝手知ったる」といった様子で海斗の後ろをついて行くが、翠だけはきょろきょろと周囲を見回していた。

「八千草は、来るの初めてなのか?」

 歩くペースに気を配りつつ、海斗が尋ねる。
 翠は無言で、こくんと頷いた。

「そうか。気になる店があったら遠慮なく言ってくれ。初めて訪れた人の視点も知りたいから」

 翠は小さく「うん」と答え、再び眼鏡の奥の瞳をきょろきょろと動かし始めた。



 程なくして、最初の目的地である店に辿り着いた。
 店先に並ぶ艶やかなナス、トマト、ピーマン。「特売」の文字が掲げられたキャベツやネギ。
 海斗御用達の八百屋、『くまだ青果店』だ。

「あら、いらっしゃい。今日は随分とお早いお買い物だね」

 海斗の顔を見るなり、エプロン姿の中年女性が声をかけてくる。海斗は軽く頭を下げ、

「こんにちは、おかみさん。実は今日は買い物ではなく、取材に伺いました」

 と、今回訪問した理由について説明した。
 おかみは嬉しそうに頷き、校内の発表で紹介することを快諾してくれた。

 早速、事前に決めていた質問内容に沿ってインタビューをしていく。
 店を構えて何年になるのか。
 一日の客の数や、よく売れる商品について。
 どうして質の良いものを安く提供できるのか、などだ。

「うちには同じ商店街で店出してる人がよく仕入れに来るんだよ。あそこのクレープ屋のいちごもバナナも、斜向かいの定食屋のキャベツやほうれん草も、パン屋のフルーツサンドのキウイも、みんなうちの店で買って行ったものさ。良いものを安く売って、他の店の食材になって、それがまた安くて美味しければ、お客さんがたくさん来てくれるだろう? 結果、商店街全体が活気付くし、うちにもお客さんが増える。商品の値段を上げることは簡単だけど、それじゃあお客さんの喜ぶ顔や、商店街全体の賑わいは手に入らないのさ」

 おかみの言葉に、海斗たちは感銘を受ける。
 きっと他の店も同じような気持ちで商いをしているから、この商店街にはまた来たくなる温かさがあるのだろう。

「ありがとうございます。大変参考になりました。翠ちゃんは、何か聞きたいことはある?」

 ずっと黙ったままの翠に、未空が投げかける。
 翠は「えっと」と暫く目を泳がせてから、

「こ……このお店は、何色ですか?」

 そう、控えめに言った。
 おかみが「えっ?」と聞き返すと、翠はさらに声を小さくして、

「イメージカラーです……おかみさんが思う、この店の雰囲気に合う色が知りたいな、なんて…………いや、きもいですよねごめんなさい。もう黙ります……」

 ただでさえ狭い肩幅をさらに縮こませ、俯く。
 しかし、おかみは「あはは!」と笑い、

「イメージカラーね。考えたこともなかったけど……強いて言うなら、緑かな。フレッシュで優しくて、瑞々しい色。うちにピッタリだろ? 八百屋だし」

 そう、楽しげに答えた。
 それを聞くなり、雷華と未空は嬉しそうに顔を見合わせる。

「翠、良い質問ね!」
「うんうん。さすが、イラストレーターならではの視点だよ」
「そうだな。他の店でも、同じように聞いてみようか」

 海斗も、そう続ける。
 三人の反応に、翠はぽかんと目を見開いてから……

「……あ、ありがとう」

 と、恥ずかしそうに呟いた。


 こうして、一軒目の取材は無事に終わった……
 と、思われたのだが。

「さて……海斗くん。今日もいつものやつ、やっていく?」

 おかみが、拳をにぎにぎと動かしながら不敵な笑みを浮かべる。
 未空が「いつもの?」と首を傾げるので、海斗は説明する。

「じゃんけんして勝ったら、冷凍パイナップルか冷凍チョコバナナをおまけでもらえるんだ。ここで買い物する時にはいつもやっている。って、今日は何も買っていないのにいいんですか?」
「もちろん。うちの店を学校で紹介してくれるんなら、これくらい安いもんさ。普通にあげてもいいけど……それじゃあつまらないだろう?」

 言いながら、おかみは拳を高く掲げる。
 まるで歴戦の武闘家のようなオーラが、その小太りな身体からゆらりと放たれる。

「そうですね……では、今日も正々堂々、やらせてもらいます」

 対する海斗も拳を引き姿勢を低くする。
 こちらも熟練の拳闘士のようなオーラを放ち始める。

 ただのじゃんけんに、この気合いの入れ様。
 未空は苦笑いするが、隣で雷華がうずうずしているのに気が付き、

「……雷華もやりたいの?」
「うんっ。冷凍パイン欲しい!」

 目を輝かせ、何度も頷く雷華。
 おかみはニヤリと笑い、腕をぐるぐる回す。

「いいねぇ。なら、全員相手してあげるよ。まずは海斗くんから……いくよ!」

 その掛け声の直後、二人は更なるオーラを放ち……


「「──最初はグー!!」」


 戦いの火蓋が、今、切られた。
 
 


 ──などと大層な雰囲気を作っておきながら、戦いは一瞬で終わった。

 手を振るおかみに未空はぺこりと頭を下げ、青果店を後にする。
 その手には、戦利品の冷凍パインが握られていた。カットしたパイナップルに割り箸を刺し、アイスキャンディーのように凍らせたものだ。

「……温森くんと雷華ちゃんが負けるの、キャラクターとして『解釈通り』って感じ」

 そう呟く翠の手には、やはり割り箸に刺した冷凍チョコバナナが握られている。
 そのセリフの通り、じゃんけんに勝ったのは未空と翠の二人だけだった。
 羨ましさと恨めしさを込めた目で翠を睨み、雷華は「どーいうイミよ!」と抗議する。

「仕方がない、勝負の世界に負けは付き物だ。俺は明日も買い出しに来るが、一緒にもう一戦挑まないか? 鮫島」
「もうやらないわよ!」

 負けた者同士、傷を舐め合おうとする海斗のセリフをばっさり否定する雷華。
 よほど食べたかったのか、悔し涙を浮かべる彼女に、未空が「一口いる?」と言いかけた……その時。

「おい、坊主。こっちこっち」

 どこからか、そんな声が聞こえた。
 明らかに自分に向けた声であることを察し、海斗は周囲を見回す……と、狭い路地の隙間に、見知った顔が挟まっているのを見つけた。

 鉢巻のように額に巻いたタオル。
 黒い前掛け。熊のようにずんぐりした身体。

 今しがた取材した『くまだ青果店』のおかみの夫……つまり、店主である。

「大将。店にいないと思ったら、こんなところで何してるんですか?」

 海斗が近付くと、店主は「しーっ」と人さし指を立て、

「かーちゃんに見つからないように、静かにこっちへ来てくれ」

 何やら切羽詰まった様子で、ひそひそと言う。
 海斗は女子三人と顔を見合わせてから、暗い路地に足を踏み入れた。

「お前ら、この商店街の取材に来たんだってな」
「なんだ、聞こえていたんですか」
「商店街をあちこち回るなら、一つ頼みがある。猫がいないか、見てきて欲しいんだ」

 海斗が「猫?」と聞き返すと、店主は深く頷く。

「ずんぐり太った三毛猫だ。先週、うちの店の裏にある空のダンボールを寝床にしているのを見つけてな。具合が悪いのか怪我でもしているのか、俺が近付いても逃げる素振りもなかった。数日経っても退かねぇから、流石に動物病院に相談しようかと考えていたら、何も知らねぇかーちゃんが三日前にダンボールをまとめて処分しちまってよ。以来すっかり姿を見せなくなっちまったから、ちょっと心配してんだ」
「なるほど。怪我や病気かもしれないなら、確かに心配ですね」
「だろ? もちろん商店街にとっちゃ猫も鳩もカラスも害獣だから、居座られるのは困るんだが、調子が悪いんなら話は別だ。どっか別の、迷惑にならねぇ場所で寝られていればいいが、店の仕事ほっぽり出して探しに行くわけにもいかねーし、どうしようかと思っていたところだ」

 そこまで言うと、店主はパンッと手を合わせて、

「頼むっ。取材ついでにここいらを軽ーく見て回るだけでいい。『親方』がいないか気にかけておいてくれ。もちろんタダとは言わねぇ。冷凍パインだろうがチョコバナナだろうが、食いたいものなんでもやるから」
「……親方、とは?」
「あぁ、俺が猫につけたあだ名だ。身体がデカくて、顔もVシネ俳優みたいにイカついんだ。ひと目見ればすぐに『親方』だってわかるはずだぜ」

 などと、得意げに猫の特徴を語る店主。
 あだ名まで付けるとは、よほど愛着が湧いているようだ。面倒見の良い大将らしいなと、海斗は思う。

 こんな話を聞かされては、海斗も猫が心配になった。
 加えて、雷華に冷凍パインを振る舞える大義名分を得られるならば、もはや断る理由もなかった。

「わかりました。それらしい猫がいないか、気にかけておきます。また後で報告しますね」

 海斗は店主の熱い感謝を受けながら、路地裏から元の大通りへと戻った。

「何の話だったの?」

 未空に尋ねられ、海斗は三人に一通り説明する。

「……というわけなんだ。商店街を回るついでに、猫がいないか気にかけてもらいたい。もちろん……」

 報酬もあるぞ。
 そう言いかけたところで、翠が静かに手を上げる。

「待って。八百屋のおじさんは、『太った三毛猫』だって言っていたんだよね?」

 神妙な面持ちで尋ねる翠に、海斗は「あぁ」と頷く。
 翠はそのまま考え込むように俯くと、

「……その猫、お腹に赤ちゃんがいるのかもしれない」

 と、思いがけないセリフを呟いた。
 雷華は「え?!」と声を上げ、翠に詰め寄る。

「赤ちゃんって、その猫オスなんじゃないの? 『親方』って呼ばれているんだし……」
「それは怖い顔のせいでしょ? 三毛猫がオスである確率は三万分の一と言われている。つまり、三毛猫のほとんどがメス。そして、妊娠したメスは出産が近付くと静かな場所に寝床を作る習性がある。単純に太っている可能性もあるけど、ずんぐりしているというのも……」
「妊娠していて、お腹が大きくなっていた、ってこと?」

 途中から言葉を継ぐ未空に、翠は頷く。

「すごいな、八千草。猫について詳しいのか?」

 海斗が尋ねると、翠は首を振り、

「ううん。うちも猫を飼っているから、たまたま知っているだけ。猫は基本的に安産な動物だと言われているけど、出産間近で寝床を追われてしまったなら心配。どこかで無事に産んでいるといいけど……」

 その時、雷華が居ても立っても居られない様子で駆け出した。

「早く探しに行こ! 『親方』が困っているかもしれない!」
「待って」

 駆ける雷華の背中を、翠が止める。

「闇雲に探し回ってもだめ。猫が好きそうな場所を選ぶべき。あと、猫を見なかったか、あちこちで聞いた方がいい」

 冷静かつ効率的な捜索方法だと、海斗も思う。
 雷華は足を止め、翠を見つめると、

「……わかった。先頭は、翠に任せるわ」

 そう言って、自身を落ち着かせるように息を吐いた。
 
 


 四人は翠を先頭に、『つるや商店街』のメインストリートを進む。
 左右に並ぶ様々な店舗の間には、猫なら難なく通れそうな細い路地がいくつもあった。

 これは想像以上に捜索が難航するかもしれないと、海斗は路地の一つを覗きながら目を細める。

「この辺りはゲームセンターがあるし、騒がしいから猫は避けるかも。静かな、食べ物屋さんの近くを探した方がいい。匂いにつられて寄って来るかもしれないし、同じような空き箱を寝床にしている可能性もある」

 翠の冷静な指摘に一同は納得し、賑やかな店舗を避けるように先へと急いだ。
 途中、雷華の母親が店主を務めるパン屋『ハンマーヘッド』の前を通りかかるが、雷華が無言で通過したため、海斗も未空も何も言わないことにした。

 しばらく進み、食べ物屋が並ぶ比較的静かな場所へ辿り着いた時、

「……おい、これって……」

 海斗が、惣菜屋の前で足を止めた。
 そこには、『のら猫に餌をあげないでください!』という貼り紙が掲げられていた。

 最近貼られたものなのか、手書きの紙はまだ綺麗な状態だ。海斗が時々利用している店だが、いつから貼られているのかわからなかった。

「この辺に猫が来ているんだね。もしかすると、『親方』も……?」

 貼り紙を眺め、未空が呟く。
 海斗は惣菜屋のカウンターに向かい、店員に話しかけた。

「こんにちは。ちょっと聞いてもいいですか?」
「あぁ、いつものお兄さんじゃない。いらっしゃい」
「そこの貼り紙についてなんですが、この店にはよく猫が来るんですか?」

 コロッケやハムカツが陳列されたショーケースカウンターの向こうで、女性の店員がため息混じりに答える。

「そうなのよ。うちって、買ってすぐ食べられるものを売っているでしょ? 店先で食べて行く学生さんや観光客を見て猫が寄ってくるの。特にさつま揚げとかの練り物は、魚でできているからってお客さんがちぎって食べさせたりして……」
「その中に、太った三毛猫はいた?!」

 店員の言葉半ばで、雷華が身を乗り出し尋ねる。
 店員は記憶を辿るように宙を仰いで、

「あぁ、いたねぇ。ずんぐりしたコワモテの三毛が。他の猫がいても、そいつが来ると逃げちまうんだよ。ありゃボス猫かもしれないね。そういう風格があったから」
「ボス猫……」

 間違いない、『親方』だ。

「その猫を最後に見たのはいつですか?」
「そういえば、ここ一週間くらいは見かけていないね。貼り紙をしてからは餌をやる人も減ったし、諦めて来なくなったのかも」
「他のお店で見たという話は聞いたことありますか?」
「さぁ……その猫のことはわからないけど、うちみたいに食べ歩きができるものを売っている店はどこも野良が集まりやすいみたいだよ。案外、どこかの店が市に問い合わせて駆除依頼でもしたのかもね」
「そんな……」

 顔を青ざめさせる雷華。
 海斗は礼を述べ、雷華と共に惣菜屋から離れた。

「どうしよう。『親方』、駆除されてるかもしれないって……」

 未空と翠の元へ戻るなり、声を震わせる雷華。
 彼女の『放っておけない精神』は見知らぬ猫相手にも多分に発揮されるようだ。

 海斗が励まそうと口を開きかけるが、その前に、翠が「大丈夫」と返す。

「その心配はない。行政が猫を捕獲したり、処分したりすることはできないから。ボランティア団体が保護することならあるかもしれないけど」

 その落ち着いた言葉を聞き、雷華は表情に明るさを取り戻す。
 海斗は未空と顔を見合わせ、一つ頷くと、

「野良猫が集まる店は他にもあるみたいだ。引き続き、聞いて回ろう」

 そう言って、再び商店街を進み始めた。



 その後の聞き込みで、『親方』らしき野良猫を目撃したという店が他にもあった。

 行動圏内を捉えていることを確信しつつさらに進むと、店頭でだんごを焼いている和菓子屋が見えて来た。
 その店先で、店員らしき女性が何かを拾っている。どうやらゴミ箱が倒れ、散らばった中身を掃除しているようだ。

 海斗が「大丈夫ですか?」と声をかけながらゴミ拾いを手伝うと、女性は「ありがとうございます」と礼を述べた。

「すみません、助かりました。実はさっき猫が来て、ゴミ箱を倒して行ったんです」

 それを聞き、雷華は身を乗り出す。

「どんな猫でしたか?!」
「えっと……真っ黒な猫でしたが、それが何か?」

 残念ながら『親方』ではないようだが、海斗はもう少し情報を聞き出すことにする。

「ここにはよく野良猫が来るのですか?」
「えぇ。お客さんが店先で食べた団子の串をこのゴミ箱へ捨てて行くんですけど、野良猫がひっくり返して、団子がくっついた串を咥えて行くんです」
「なるほど……実はある猫を探しているのですが、これまでに身体の大きな三毛猫を見た覚えはありますか?」
「あぁ、ありますあります、顔の怖い大きな三毛猫! 最近は見かけないけど、一時期は毎日のように来ていましたよ。いつの間にかゴミ箱を倒していて、気付いた時には串を咥えて、そこの路地へササーッと逃げちゃって……」

 言って、女性は店の横に続く狭い路地を指さす。『親方』らしき猫の行き先について、ここまで具体的な情報を得るのは初めてだった。

 四人は礼を述べ和菓子屋を後にすると、さっそくその路地へ入った。
 人ひとり通るのがやっとな狭さだが、猫が通るにはちょうど良い抜け道のように思えた。

「……この先に、『親方』の住処があるのかしら」

 室外機を避けながら、雷華が呟く。
 確証はないが、少しずつ『親方』に近付いているような気がした。
 だから海斗は、

「毎回こっちに逃げたなら、きっと『親方』にとって安全だと思える場所があるのだろう。そこに新しい寝床を構えているかもしれない」

 と、願望を混じりの言葉を雷華へ返した。

 路地を抜けた先にあったのは、商店街のアーケードの陰に位置する、静かな小道だった。
 先ほど話を聞いた和菓子屋の真裏に出たようで、裏口と思しき扉がある。
 その裏口の前に何かが落ちているのに気が付き、雷華は拾い上げた。

「これって……団子の串?」
「さっきゴミ箱を倒したっていう黒猫が置いていったのかな?」

 未空が横から覗き込みながら言った、その直後。

「ふぁ……っくしゅん! っくしゅ! ひぇっくしょん!」

 これまでにない激しさで、雷華がくしゃみを連発した。
 隣で未空が「大丈夫?」と呼びかけるが、それに対する返事もくしゃみに変わる。

「やっぱり、薄着したせいで風邪が悪化したんじゃ……」

 と、海斗は着ているパーカーのファスナーを開け、雷華に着せようとするが、

「……待って」

 翠が、何かに気付いたように声を上げる。
 そして、未だくしゃみをする雷華に駆け寄ると、

「雷華ちゃんて、もしかして…………猫アレルギーなんじゃない?」

 そう問いかけた。
 予想外の指摘に、海斗と未空だけでなく雷華本人も「え?」と聞き返す。

「電車で髪を結ってくれた時、雷華ちゃん、何回もくしゃみしていたよね。わたし、猫飼ってるって言ったでしょ。今朝、猫がわたしの枕元で寝ていたから、髪に猫の毛が付いていたのかもしれない。だからくしゃみしているのかなって、少し気になってた」
「雷華……猫アレルギーだったっけ?」

 長年の親友である未空が尋ねるも、雷華は「わかんな……は、っくしゅ!」と答える。
 その手から落ちた団子の串には、確かに猫の毛らしきものが付着していた。

 ……と、そこで。
 海斗の脳裏に、一つの仮説が浮かぶ。

「そういえば……鮫島がくしゃみをするのって、決まってあのトートバッグを持っている時だったよな」

「トートバッグ?」と首を傾げる未空に、海斗は「ほら」と続ける。

「いつもパンを持ってくるのに使っていたアレだよ。今朝も俺の家に持って来た時にくしゃみしていた。ということは……」

 そこまで聞いて、未空にも同じ仮説が浮かんだらしい。
 雷華の方をバッと振り向くと、肩に手を乗せ、尋ねる。

「雷華。あのトートバッグって、いつもどこから持って来てたの?」
「ど、どこって……朝、お母さんに渡されるのを、そのまま持って来てただけだけど」
「雷華の家、猫いないよね?」
「うん。一度も飼ったことない」

 海斗と未空は視線を交わし、頷く。
 そして、

「ここからなら裏手側から回った方が早い。こっち!」

 未空は小道を駆け出し、皆を先導する。
 目的地を悟った海斗と、何一つピンと来ていない雷華と翠がその後をついて行く。

 その場所へは、一分もしない内に辿り着いた。
 とある店舗の裏口にあたる場所。
 辺りには、バターの香ばしい匂いが立ち込めている。

「ここ……パン屋さん?」

 最後尾を走っていた翠がようやく追いつき、肩で息をしながら呟く。
 すると、


「──ら、雷華? こんなところで何しているの?」


 という声と共に、路地から一人の女性が現れた。

 三角巾を被った長い茶髪。
 ぱっちりとした瞳にはどこか少女らしさが残り、年齢不詳な美しさを醸し出している。

 海斗も、未空も知っている顔。
 しかし、この場において最も知っている雷華が代表して、その女性の正体を叫んだ。


「お、お母さん……!」


 そう。現れた女性はパン屋『ハンマーヘッド』の店主にして雷華の母親、鮫島風子だった。

 唯一知らない翠が「……お母さん?」と首を傾げるので、未空が説明する。

「ここは雷華のお母さんがやっているパン屋の裏口なの。お久しぶりです、風子さん」
「未空ちゃん……それに海斗くんも。あれ、うちには取材に来ないんじゃなかったの?」

 いるはずのない娘とその友人に遭遇し、動揺した様子の風子。
 海斗は一歩踏み出し、彼女に問いかける。

「風子さん。今、後ろに隠したのって……キャットフードじゃないですか?」

 ビクッと肩を震わせ、あからさまに動揺する風子。やはり母娘、こういう時の表情は雷華とそっくりだ。
 そんなことを考えながら、海斗はいよいよ核心に触れる。

「俺たち、猫を探しているんです。身体の大きな三毛猫なんですが……この店に、匿っていたりしませんか?」

 雷華と翠から「え……?」と声が上がる。
 全員の視線を一身に受け、風子は「あ、えぇと……」と暫し狼狽えてから、

「……隠していても仕方がないよね。あなたたちが探しているのは、この子たちのことかな?」

 言いながら、店の裏口にある物置きに手をかける。

「……たち?」

 翠の呟きと、引き戸を開ける音が重なる。
 やがて、物置きの中に見えたのは……

 鋭い目付きの三毛猫と、その母乳をまさぐるように吸う、三匹の子猫だった。
 
 


 ──三日前。

 風子が物置きを開けると、店のチラシを保管しているダンボール箱の中に猫がいた。
 どうやら、閉め忘れた戸の隙間から入り込んだらしい。

 風子は驚いて声を上げるも、猫はまんじりとも動かない。
 その日は雨の予報で、追い出すのも忍びなくなり、風子はとりあえずそっとしておいた。

 が、次の日も猫はその場所を寝床にしていた。
 これ以上居座られては困るので、明日もまだいるようなら出て行ってもらおうと決心した、次の日……
 つまり、昨日。

 物置きを開けると──猫が三匹、増えていた。


「……と、いうわけなの。近所の動物病院はお休みだったし、店を留守にして面倒見るわけにもいかなくて……とりあえず赤ちゃんたちが元気そうだったから、時々こうして様子を見て、休み明けにでも病院へ連れて行こうって考えていたのよ」

 と、親猫にキャットフードをあげながら、風子が言う。
 白・黒・茶色の体毛に、睨み付けるような目付きを見て、海斗たちはその猫が『親方』であることを確信した。

 子猫たちは母乳をお腹いっぱい飲み満足したのか、タオルが敷かれたダンボール箱の中でうとうとしている。
 なんとも愛らしい姿に、未空と翠は夢中で箱を覗き込んだ。

「それにしても、まさか雷華が猫アレルギーだったなんて……飼ったことないから気が付かなかったわ。朝、この子にエサをあげてから雷華に渡すパンを用意していたから、知らない内に毛が付いていたのかも。ごめんね」
「あたしのことより……ひ、ふぇっくしゅ! この子たち、これからどうするつもりよ?」

 他の面々が子猫を覗き込む中、一人離れた場所から声を張る雷華。
 風子は「うーん」と首を傾げ、黙々と餌を食らう『親方』を見つめる。

「本当はうちで飼おうと思っていたのよ。ここまで面倒見てしまったのだから、野良に帰すのは無責任だし、商店街としても野良猫が増えたら困るでしょう? でも、雷華が猫アレルギーならそれは無理ね。誰か飼ってくれそうな人を探すか、保護猫について調べてみようかしら」

 そこで、子猫をじっと見つめていた翠が小さく手を上げ、

「それなら……わたしが、この子たちの里親を探しましょうか?」

 なんて、思いがけない立候補をするので、一同驚く。

「八千草、あてでもあるのか?」
「うん。絵師の名義でやってるSNSのフォロワー、三万人いるんだけど、わたしがよく猫の絵を描いているから猫好きの人が多くて。中には保護活動をやっている人もいるから、呼びかけたら力になってくれると思う」
「さっ、三万人?!」
「さっすが『奴奈川すだち』先生ね! ちなみに、あたしも昨日フォローしたわ!」
「あまり大きな声でペンネーム言わないで!」

 何故か得意げな雷華に、翠が慌てて叫ぶ。
 そのやり取りを眺め、風子は嬉しそうに笑い、

「それじゃあ、ぜひお力をお借りしようかしら。奴奈川すだちさん」
「翠です。八千草翠」
「翠ちゃんね。これからいろいろ相談させてほしいから、連絡先交換してもいいかしら?」
「あっ、ちょっとお母さん! あたしもまだ交換していないのにずるい! 翠、早くこっち来て連絡先教えて! ついでに子猫の写真送って!」

 そう言って、スマホを取り出す雷華。
 翠は半眼になりながらも「はいはい」と立ち上がり、スマホを用意する。
 風子は笑みを浮かべ、隣にしゃがむ海斗と未空に目を向ける。

「ふふ。雷華には昔から未空ちゃんしかお友だちがいないと思っていたけど、頼もしいお友だちが随分増えたのね。安心したわ」

 ……いや、自分に関しては『友だち』ではなく『隊員その一』らしいですよ?

 とは言えず、海斗は未空に返答を任せることにする。
 しかし……

 いつもならコミュ力全開でにこやかに答えるであろう未空が、一瞬下唇を強く噛み締めたことに海斗は気が付く。
 それを疑問に思うが、どうしたのかと声をかける前に、

「……えぇ、そうですね。最近の雷華は、すごく楽しそうですよ」

 未空の顔に、いつもの完璧な笑顔が戻ったので、それ以上深くは考えなかった。
 未空の返答に、風子は「うふふ」と笑い、

「それはよかった。頑固な子だからこれからも迷惑かけるかもしれないけど、仲良くしてもらえると嬉しいわ。海斗くんも、困っていることがあれば遠慮なく言ってね。力になるから」

 と、まるで少女のように屈託なく笑う。
 その笑顔に雷華の面影を感じ、海斗は微笑んで、

「……はい。いつもありがとうございます、風子さん」

 日頃の感謝を、あらためて伝えた。

 


 ──それから、『くまだ青果店』の店主に顛末を報告し、四人は約束の報酬を受け取った。


「んんーっ。ひと仕事終えた後の冷凍パインは格別ね!」

 と、満面の笑みで頬張る雷華。
 彼女の満足そうな姿に、海斗は思わず笑みを溢す。

「結局、取材どころじゃなくなっちゃったね。お昼時でどこも忙しそうだし、取材はまた今度にしよっか」

 本日二本目の冷凍パインを齧りながら、未空が苦笑いする。
 彼女の言う通り、商店街のメインストリートには人通りが増えていた。
 さらに言えば、『親方』を見つけたという達成感に満たされてしまったため、今から「取材しよう」という気にもならない雰囲気であった。

「……しかし、今日は八千草に助けられてばかりだったな。八千草がいなければ、『親方』は発見出来なかったはずだ」

 冷凍チョコバナナの最後の一口を飲み込み、海斗が言う。
 取材のため、そして打ち解けるために来てもらったが、結局は翠に頼りっぱなしであった。

 海斗の言葉に賛同するように、未空も頷く。

「うんうん。雷華のお母さんも『頼もしいお友だち』って言ってたよ。ほんと、翠ちゃんが来てくれてよかった」
「んっふっふ。あたしたちはもう親公認の仲。連絡先も交換したし、完全にお友だちね!」

 と、雷華が少々重い発言をするが、翠は慌てて手を振り、

「た、頼もしいだなんてそんな……たまたま猫に詳しかっただけだし」
「いいや。『親方』がメスで妊娠している可能性があることも、鮫島が猫アレルギーであることも、言い当てたのは八千草だ。知識があったとしても、状況を観察する力がなければこの結論には至らなかっただろう」
「そうだね。翠ちゃんって周りをよく見ているなって、一緒にいてすごく感じたよ。落ち着いているし、とても頼もしかった」
「そういう観察力が画力に直結しているのかもな。普段から周囲の事象を注意深く見ているからこそ、リアリティのあるイラストが描けるのだろう」

 海斗が腕を組みながらそう分析するが、それを聞いた翠は立ち止まり、

「…………違う」

 と、酷く低い声で呟く。
 三人も思わず足を止め、翠の方を振り返る。

「……違うよ。わたしは、本当に……ダメダメ人間なの」

 冷凍チョコバナナの串を、きゅっと握りしめ……
 雑踏に紛れてしまいそうな声で、翠は言う。

「……わたしね、本当はイラストレーターじゃなくて、漫画家になりたいの。前にイラストの仕事をもらった編集さんがチャンスをくれたから、学校も行かずに漫画を描き上げたんだけど……『登場人物の言動や心理描写にリアリティがない』って、ボツにされちゃった。だから全然、観察力なんてないよ」

 その言葉に、海斗はハッとなる。
 今朝、彼女を取材に誘った時、『実際に見て描いた方がリアリティが出る』という説得に反応していたのは、こうした背景があったからなのだろう。

「人物のリアルな心情を描くことなんてできるはずなかった。だって、ずっと独りだったんだもん。ドジでノロマで、すぐ転ぶポンコツ。だから……小学生の頃からずっと仲間外れだった」

 暗い表情で俯く翠。
 未空が「仲間外れって?」と聞き返すと……翠は、独り言のように、過去を語り始めた。


「……ケイドロもドッジボールも、わたしのせいで負けるから、仲間に入れてもらえなかった。
 でも絵だけは描けたから、『翠ちゃんは漫画描いておいて』って、教室に一人残って描いてた。
 毎日、毎日、毎日、毎日。
 ゲームに出てくるモンスターを百種類ぜんぶ描くまで帰っちゃだめ、なんて言われたこともあった。
 だけど完成した絵を見せると、みんな喜んでくれた。
『すごい』って褒めてくれた。
 それが嬉しくて、毎日描いた。
 ただ黙々と、独りで」


 微かに震える、翠の声。
 当時の彼女の気持ちを考えるだけで、海斗は胸が強く締め付けられた。

 独りでいる寂しさは、痛い程にわかる。
 そしてそれは……雷華も同じだった。

「……本当に、絵しか描いてこなかった。それ以外、なにもできないから。今日はたまたまうまくいっただけ。一緒にいれば、いつかあなたたちにも必ず迷惑をかける。人と話すのも、運動も、細かな作業も苦手なわたしが生きていくには、絵しかないの。将来、一人でも食べていけるように、もっと練習しなきゃ。そのために、学校も辞める。でも、安心して。今回の発表に必要な絵だけは描く。だから……」
「だから、何?」

 俯く翠の言葉を、雷華が遮る。
 そのまま、雷華は翠の顔を覗き込み、

「だから、漫画は諦めるし、もうあたしたちとは関わらない、なんて言わないわよね?」

 そう、問いかけた。
 図星だったのか、翠はぐっと言葉を詰まらせる。

 黙り込む翠に、雷華は……ふっと笑って、

「あたし、思うんだけどさ。翠を『ダメ人間』ってキャラ付けしているのって、他でもない翠自身なんじゃない?」

 そんなことを言うので、翠は「え……?」と聞き返す。
 雷華は「だって」と続けて、

「気付いてた? あんた猫を探している間、一回も転ばなかったのよ? 話し方も堂々として落ち着いていた。それって、自分が『ダメ人間』だっていう設定を忘れていたからじゃない?」

 それを聞き、海斗は納得する。

 雷華の言う通り、猫を捜索している最中の翠は、『ダメ人間』からはかけ離れた頼もしさを発揮していた。
 要するに翠は、自身を『ダメ人間』なのだと思い込むあまり、無意識の内に『ダメ人間』らしい言動を取っていたのだろう。

 傍から見れば滑稽な思い込みだが、つい先日まで「イエスマンでいるべきだ」と思い込んでいた海斗には、翠の気持ちが深く理解できた。
 これ以上、他者に否定され傷付かないように、先回りして自分で自分を否定する……一種の防衛反応なのだ。

 その事実を指摘され、翠は首をふるふると横に振る。

「ちがう……わたしは、本当にポンコツな『ダメ人間』で……!」
「ていうか、『ダメ人間』でもいいよ。本当にポンコツだとしても、それが翠なんでしょ? だったらなおさら、それはあたしたちから離れる理由にはならないわ」
「……どういうこと?」
「そういうところもひっくるめて、翠と仲良くなりたいってこと。運動音痴な人や、蝶々結びができない人は友だちになっちゃいけないなんて決まりがどこにあるの?」

 眼鏡の向こうの翠の目が、はっと大きく見開かれる。
 それは翠にとって、一番必要としていたセリフなのではないかと、海斗は思う。

 本当なら、友だちになるのに条件などいらないはずなのだ。
 不器用でも、鈍臭くても、それでも一緒にいたいと思えるのが友だちであろう。
 そんな当たり前のことを、翠は恐らく初めて投げかけられたのだ。

 翠は、ぱちくりと瞬きをして、掠れた声で聞き返す。

「な……なんで? なんで、仲良くなりたいって思うの?」
「うーん。面白いから?」
「お、おもしろい?」
「うん。翠ってあたしと全然タイプが違うし、あんな絵が描けるなんて世界がどんな風に見えてるのかなーって思うし、大人しそうな顔して意外とえっちなんだなーって……」
「うわぁあああ! それはもうやめて!」

 顔から湯気を噴き出しながら、手をバタバタさせる翠。
 しかし雷華は、不敵に笑い、

「んふふ。普段は無表情なのにこうして取り乱すのも面白いわ。例え家に引きこもろうとも、あたしは何度でもこのネタであんたを引き摺り出すから。逃げられると思わないことね!」

 と、感動的なセリフをすべて台無しにする。
 やはり組長の素質があるなと海斗は思うが、

「だから……次の取材も、必ず来てよね。そうしたら、『登場人物の心情のリアリティ』ってやつの勉強にもなるでしょ? あたし、翠が描く漫画、読んでみたいもん。一回の失敗で諦めるなんてもったいないわよ」

 という雷華のセリフを聞き、海斗は未空と顔を見合わせ、笑う。
 強引なところもあるが、やはり雷華はどこまでもお節介で、思いやり深い性格だ。

 泣きそうな顔で唇を噛み締めている翠に、海斗は肩を竦め、言う。

「組長もこう言っていることだし、本当に嫌じゃなければ、また取材に同行してくれると嬉しい。八千草に紹介したい店が、まだまだたくさんあるんだ」
「って、組長じゃない! 隊長!」
「組長だろう。脅すような言い方ばかりして」
「してないっ!」
「してる」
「してないったらしてない!」
「……そうだな、鮫島はただ八千草とお友だちになりたくて必死だっただけだもんな」
「なっ……別に必死じゃないし!」
「八千草をなんとか連れ出したくて、わざと悪者のような役回りを演じていたんだよな?」
「違うわよ! 弱み握って無理矢理言うこと聞かせようとしただけ!」
「やっぱり組長じゃないか」
「ちがーうっ!」

 ……という、まるで生産性のない会話を繰り広げる二人。
 もはやお馴染みとなりつつあるやり取りに、未空が呆れ切ったため息をつく横で、

「……変なの。仲が良いのか悪いのか、まるでわからない。いつもこんなかんじなの?」

 否定と肯定の奇妙な応酬に、翠は狐に摘まれたような顔をする。
 その顔を見て、未空は翠に雷華の呪いについて話していなかったことを思い出し、

「……翠ちゃん。実はね──」

 せっかくの機会なので、未空は雷華にかけられた『否定の呪い』について説明した。



「──まさか、そんな呪いがあるなんて……」

 話を聞き終えた翠は、いまだ否定と肯定の不毛なやりとりを続ける雷華たちをぽかんと見つめる。
 至極当然な反応に、未空は苦笑いをして、

「信じられないよね、こんな話。それこそリアリティがないし……」
「面白い」
「え?」

 翠の眼鏡の端がきらんっと光ったように見え、未空は目を点にする。

「現実は漫画よりも奇なり……二人を観察すれば、トリッキーかつリアリティのあるラブコメ作品が描けるかもしれない……」

 そんなことをぶつぶつ呟くと、翠はスタスタと雷華に近付き、


「雷華ちゃん。わたしと、お友だちになってほしい」


 すっ、と手を差し出しながら。
 あっさり、友だち宣言をした。

 その変わり身の早さに、呆然とする未空と海斗。
 当の雷華は、漫画云々の呟きが聞こえなかったのか、瞳を潤ませながら差し出された手をバッと取り、

「うんっ! 一緒に服買いに行ったり、映えスポットで写真撮ったり、通話で夜通し恋バナしたりしようね!」
「それは嫌」
「えぇぇー?!」

 彼女なりの『友だちらしい付き合い』をバッサリ拒否られ、絶望する雷華。
 しかし海斗は、無表情に見える翠の顔に、ほんの少し照れが滲んでいることに気が付く。
 どうやら、『漫画のため』というのは口実らしい。

『雷華のような人がいてくれるなら、学校に行ってみてもいいかもしれない』

 きっとそんな希望が翠の中で生まれ、その手を取る勇気になったのだろう。

 少々乱暴なやり方ではあったが……翠の心の扉を開くことができたようだ。

 海斗は、『お友だち作り隊』の隊員その一として、

「……とりあえず、作戦は成功、かな」

 そう呟き、嬉しそうに笑う隊長を、静かに祝福するのだった。