ほどなくして目的の駅に着いた二人は、電車を降り、翠の家を目指した。

 海斗には土地勘のない場所だったが、雷華が迷いなくずんずん進んで行くので、その背中に『隊長』の頼もしさと執念を感じつつ、黙ってついて行った。



 そして……
 十分ほど歩き続けたのち、雷華が急に足を止めた。

「……ここよ」

 少し緊張感のある声で、一つの家に目を向ける。

 二階建ての一軒家だった。
 住宅街の中に見事に溶け込む、極普通の家。
 ポストの上の表札には『八千草』と記されている。

 ここが、八千草翠の家……
 実際に目の当たりにすると、昨日知り合ったばかりのクラスメイトの自宅に早朝から突撃訪問しようとしている異常さを再認識させられる。

 そもそもインターホンを鳴らしたところで、出るのが翠本人だとは限らない。
 もし家族が応対した場合……しかも、それが男性だった場合、雷華の呪いが発動してしまう。
 否定が暴走するようなことがあれば、問答無用で追い返される可能性すらある。

 とりあえず、一旦作戦を練ろう。
 海斗がそう切り出そうとした……その時。

「これがチャイムかな。えい」

 ぽちっと、雷華が迷わずインターホンのボタンを押した。
 瞬間、海斗の顔面が蒼白になる。

「……隊長。さすがに斬り込むのが早すぎでは? 家族が出てきたらどうするんです?」
「はぁ? 速くないわよ、ゆっくり押したわ」
「速度の話じゃなくてだな」

 などと言い合っていると、インターホンのマイクから「はーい」という声が聞こえてきた。
 女性の声だ。雰囲気からして、翠ではない。母親だろうか?

 父親が出てこなかったのは不幸中の幸いだった。
 雷華はにこっと微笑むと、表情通りの明るい声色で、こう挨拶した。

「おはようございます。翠ちゃんのクラスメイトの鮫島雷華といいます。今日は活動行事の準備を一緒に進める約束をしているのでお迎えに来ました。翠ちゃんいらっしゃいますか?」

 好感度百パーセントの、完璧な口上。
 クラスメイトを尾行し、自宅を特定するヤバイ奴だということを知っている海斗ですら、その事実を忘れる程の品行方正ボイスだった。
 もしかすると、インターホンについた小さなカメラで顔を見られているかもしれない。であればなおのこと、彼女を不審者だと疑う者はいないだろう。

 案の定、翠の母親らしき声も「あらあら」と嬉しそうに答え、

「わざわざありがとうね。あの子ったらお寝坊さんで……今、呼んでくるわね」

 と、すんなり受け入れてくれた。

 通話が切れたことを確認してから、海斗は半眼になって雷華を見つめる。

「……すごいですね、隊長。訪問販売の経験でもあるんですか?」
「あるわけないでしょ? ふん。未空の優等生っぷりを何年も隣で見てきたんだもの。こういう時に取るべき態度は弁えているわ」

 なるほど、確かに未空は最高にして最強の手本に違いないと、海斗は納得する。

 ファーストコンタクトは成功したものの、二人はそこから数分待つことになった。
 母親の口ぶりから察するに翠はまだ寝ているようだったから、まず叩き起こされているのだろう。
「高校のお友だちが来てるわよ!」と言われ、混乱する翠の姿が目に浮かぶ。
 おかしい、家の住所は誰にも教えていないのに。
 そう頭を捻りながら着替えでもしているかもしれない。

 果たして、海斗の予想は概ね当たったようだった。
 ガチャ、と控えめな音を立て、玄関のドアがゆっくり開く。
 その隙間から、恐る恐るといった様子で、翠が顔を覗かせた。

「あっ、来た来た! おはよー!」

 まるで本当に待ち合わせをしていたかのような朗らかさで手を振る雷華。
 翠は、あからさまに顔を引き攣らせる。

「なっ、なんで……どうしてうちに?!」

 もっともな疑問である。
 どう話せば穏便に済ませられるかと、海斗が考え始めた矢先、

「昨日、あんたの後を尾けたのよ。何回も転んでいたけど大丈夫?」

 雷華が、ド直球にそう答えた。
 ストーキングの事実を悪びれることなく明かされ、翠は眼鏡の奥の瞳に恐怖を滲ませる。

「な、何のためにそんなことを……まさか、お金を強請(ゆす)りに?! 確かに絵の依頼を受けているとは言ったけど、子どものお小遣いみたいな額しかまだ貰えていないので……!」
「そんなわけないでしょ。今日の取材、一緒に行こうって誘いに来たのよ」
「え……それこそ、何のために? 言ったでしょ? わたし、役に立たないから……」
「何のためって、決まってるじゃない。あんたとお友だちになりたいからよ!」

 雷華の高らかな声が、住宅街にこだまする。
 強引だが、これ以上ないくらいに純粋な叫びだった。
 先ほど『お友だち』認定を受けられなかった海斗としては、少し羨ましいと感じてしまう程の真っ直ぐな言葉だ。

 しかし翠は……ぐっと唇を噛み締めると、

「……わたしじゃ、無理だよ。さよなら」

 そう言い残し、扉を閉めようとする…………が。


「──奴奈川(ぬながわ)すだち!」


 閉まる直前、雷華が妙な呪文を唱えた。
 それを聞いた途端、翠はバッと扉を開け、わなわなと震え出す。

「なっ…………なんで、わたしのペンネームを……?!」

 どうやら『奴奈川すだち』というのは、翠のペンネームらしい。
 それをどうして雷華が知っているのか、海斗も疑問に思っていると、

「ふふーん。昨日イラストを見せてもらった時、はじっこに小さく『すだち』ってサインが書いてあるのを見つけて、調べたの。SNSに載せてる絵もぜんぶ見たわ」

 ぞわわっ、と翠の肌が粟立つ。
 さすがの海斗も、いよいよ雷華の粘着気質に恐ろしさを覚えるが、彼女は止まらない。キラキラとした瞳で、興奮気味に続ける。

「すごかった! どの絵も綺麗で可愛くてかっこよくて、見てるだけでワクワクした! 中にはちょっとえっちな絵もあったけど……あたし、すっかり奴奈川すだちのファンになっちゃった!」
「わぁぁああ! やめて! それ以上言わないで!」

 ご近所中に知らしめるような雷華のセリフに、聞いたことのないボリュームの声で制止する翠。
 感情表現に乏しいはずの顔が、これ以上ないくらいに赤くなっている。

 しかし雷華は、謝罪するどころかにんまり笑って、

「あんな素敵な絵が描けるんだもん、あなたがどんな人間なのか、ちゃんと知りたいの。ね、一緒に取材に行こうよ」

 そう、あらためて誘いかけた。
 その真っ直ぐな視線から逃げるように、翠は目を逸らし、

「だから無理だって……きっと、知れば知る程、わたしが何もできないゴミ人間だってわかるよ。絵を気に入ってくれたならなおさら、幻滅されたくない」

 ドアに隠れるように、小さく答える。
 そこで、雷華は海斗をジトッと睨み付ける。
 その視線に「あんたからも何か言って!」という圧を感じ、海斗は咳払いをしながら言葉を探す。

「あー……その、八千草には発表にあたってイラストを描いてもらいたいと思っているが、俺たちから話を聞いて描くのと、実際に自分の目で見て描くのとでは、やはりリアリティというか、説得力が違うんじゃないか?」

 そう言う自分は棒人間を描くのが精々の画力しか持ち合わせていないけどな。
 と、偉そうな自身の発言を内心恥じる。

 しかし海斗の言葉に、翠は再びドアの隙間から顔を覗かせ、

「……一理ある」

 と、呟く。
 どうやら心に響くものがあったらしい。

 海斗はもう一押ししてみることにする。

「俺たちだけで現地の写真を撮ってくることもできるが、八千草が欲しい構図を持ち帰れる保証はない。実際目の当たりにすることで浮かぶ構想もあるだろう。メンバーとして、作画担当として、今回の取材には同行して欲しいと、俺も強く思う」
「…………」

 俯き、考え込む翠。
 あと少し。取材に出向くことの意義をもう少し伝えられれば、彼女はきっと「うん」と言ってくれるはずだ。

 恐らく雷華も同じように考えたのだろう。
 ぐっと拳を握りしめ、「もう一押し!」と言わんばかりの表情を浮かべ……こう続けた。


「ね、やっぱり一緒に行きましょ! でないと…………あんたのペンネームとサイトのURLを載せたビラを、ここいら一帯に貼りまくるから! ちょっとえっちな絵を描いていることをご近所中にバラされたくなかったら、大人しくついてきなさい!」


 一押しというか、一撃必殺だった。

 もはや脅迫。
 海斗の説得により開きかけた心のドアを問答無用で蹴破るような、清々しいまでの脅迫である。

 翠は「ひぃっ」と哀れな悲鳴を上げ、額に青筋を立てると、

「い、いいい今準備してくるから! それだけはっ、それだけはどうかご勘弁を……っ!」

 目に涙を浮かべ、バタンッ! とドアを閉めた。

「ふうっ。説得成功ね!」

 額の汗を拭い、達成感満載の表情を浮かべる雷華。

 ……連れ出すことには成功したが、『説得』ではなかったぞ。決して。

 海斗はため息をつくと、すべてのツッコミを飲み込んで、

「……隊長じゃなく、これからは『組長』と呼ぶことにしよう」

 当人に聞こえないように、小さく呟いた。