「ひ……っくしゅん!」

 数日後の昼休み。
 学校の中庭に、雷華の可愛らしいくしゃみがこだました。

「大丈夫か? こないだ雨に濡れたせいで、風邪を引いたんじゃないか?」

 海斗が心配して尋ねるが、雷華はすぐに否定する。

「風邪じゃない。なんか最近くしゃみが出るのよね……花粉症かな」
「教室に戻るか? 俺に合わせて無理に外で食べる必要はないんだぞ」
「別に無理なんかしてない。外で食べた方が気持ちいいからそうしてるだけ」

 と、サメあんぱんを頬張りながらツンと答える。
 その隣で、未空が補足する。

「教室でサメぱんばっかり食べていたら、さすがにパン屋との繋がりを周りに勘付かれるかもしれないからね。雷華としても、ここで食べるのがちょうどいいんだよ」
「確かに……これだけのパンを教室で広げたら、それだけで目立つもんな」

 言いながら、今日も今日とて雷華が大量に持ってきた『ハンマーヘッド』のパンを眺める。

「鮫島のおかげで腹いっぱい食えるし、本当に助かっている。けど、鮫島が大変だったらいつでもやめてくれて構わないからな。教室でゆっくり米の弁当を食いたい日もあるだろう。俺に合わせる必要はない。俺はパンの耳を食べているだけで十分幸せなんだから」

 海斗の真剣な言葉に、しかし雷華は「はぁ?」と声を上げる。

「あんたに合わせてるわけじゃないってば。忘れたの? これは廃棄されるパンを減らすための慈善活動なの。わかったらさっさとこのメロンパンも食べなさい、猫の形をした試作品なんだか……は、はっくしゅん!」
「おいおい、本当に大丈夫か? やっぱり教室で休んだ方が……」
「必要ないわよ! そんなことより……はい、これ」

 と、パンを入れていたトートバッグから四角い物体を取り出し、突き付けてくる。
 突然のことに海斗が「え?」と聞き返すと、

「え? じゃないわよ、早く受け取って」

 それをぐいぐい押し付けてくるので、海斗は大人しく受け取ることにする。

 木製の、長方形の物体だった。
 手の中で回しながらその六面体を眺めると……ちょうど裏面に、『温森』と言う文字が墨入れされていた。

 これは……もしかして、表札か?

 しかし、そう尋ねても雷華は「違う」と否定するに決まっている。
 海斗が聞き方に迷っていると、雷華はぷいっと顔を逸らし、

「……あそこは、正真正銘あんたの家でしょ? だったら、自分の表札くらい、ちゃんと出しておきなさいよ」

 ぼそっと、呟くように言った。
 続けて、未空がこそっと耳打ちしてくる。

「温森くんがお家を『自分の家』じゃなくて『おばあちゃんち』って言ってたのが気になったみたい。知り合いの大工さんに頼んで作ってもらったの。迷惑じゃなかったら使って?」

 その言葉に、海斗は目を丸くしながら、雷華と表札を交互に見つめた。

『自分の家』じゃなく、『ばあちゃんち』……
 無意識ではあるが、そう口にしていたかもしれない。
 確かにあの家は『じいちゃんとばあちゃんの家』であり、『自分の家』だと思ったことはなかった。
 祖父母に引き取られて以来、『御林』の名が掲げられたあの家に居候しているという感覚が今もある。それが無意識的に言葉に表れていたのだと、海斗は自分のことながらに驚いた。

 そして、つくづく『自分』というものがない人間なのだと自嘲する。
 意見も住処も他者に所在を委ね、自分という存在を否定してきた。
 そのことに雷華は気付き、そうした海斗の意識を、正面から否定してくれたのだ。

 あの家は、俺自身の家。
 そう思うと、自分にちゃんとした居場所ができたようで、嬉しくなった。
 だから海斗は、雷華から受け取った表札を握りしめ、こう伝える。

「……ありがとう、鮫島。そうだよな、あそこは正真正銘、『俺の家』だ。だからこれからも、いつでも来てくれて構わない。歓迎するよ」

 言ってから、しまったと思う。
『発表に向けた準備や話し合いの場として使ってくれ』という意味だったが……言葉だけ取れば、一人暮らしの男の家に誘っているようである。

 弁明しようとするが、時既に遅し。
 雷華は顔を真っ赤にし、ぷるぷる震えながら、

「は……はぁ?! 行かないし! 行くわけないし!」

 叫ぶと同時に、持っていたサメあんばんをぐしゃっと握りしめた。
 それにより断面からあんこが溢れ、雷華の手にどろりと垂れる。

「ぎゃーっ! あんこが! もう、あんたのせいだからね!」

 吐き捨てるように言うと、雷華は立ち上がり校舎の方へ駆け出す。
 未空が「どこ行くの?」と尋ねると、「手洗ってくるの!」というぶっきらぼうに言い残し、校舎の中へと消えた。

「あはは……ごめんね、温森くん。大丈夫? 引いてない?」

 雷華を見送った後、未空が苦笑いをしながら尋ねる。
 その問いの意図がわからず、海斗が「何が?」と聞き返すと、

「毎日パン持ってきたり、勝手に表札作ったり……雷華のお節介にびっくりしていないかな、と思って。あのコ、中学では私以外になかなか友だちができなかったの。だから、久しぶりに現れた温森くんという理解者に、持ち得る限りの親愛の念をぶつけているみたい」
「……そうなのか?」
「そうだよ。元々、人の世話を焼くのが好きだったからね。それが長年発揮できないでいたから、一気に爆発したんでしょう。結果、なかなかに重い行動に出てしまっているから……温森くんに迷惑かけていないか心配でさ」

 窺うように海斗を見上げる未空。やはり彼女は、雷華の一番の理解者なのだろう。
 基本的には雷華の意向を尊重し、彼女のやりたいことをサポートするが、周囲へのフォローも欠かさない。これまでもそうして、雷華を支えてきたに違いない。

 海斗は、心配そうに自分を見つめる未空に首を振る。

「迷惑だなんてとんでもない。鮫島には本当に感謝しかないよ。このパンも表札も、俺を思ってしてくれたことだから……重いだなんて思わない」
「そう、ならよかった。……ふふ、なんだか嬉しいな」
「ん? なにが?」
「温森くんが雷華をちゃんと受け止めてくれることが、だよ。本当は誰よりも優しくて、情熱的で、純粋な心の持ち主だから……そんなあのコを正しく理解してくれる人と巡り会えたことが、私はすごく嬉しい」

 そう言って、未空は目を細め笑う。
 海斗もつられるように笑って、

「……うん。俺も、鮫島に出会えてよかったと思う。鮫島のおかげで……俺は、『呪い』から解放されたから」
「……え?」

 驚いたように聞き返す未空。
 海斗は、手のひらの表札に目を落としながら続ける。

「……俺もある意味、呪いにかかっていたんだよ。その場しのぎで何でも肯定してしまう、『イエスマンの呪い』。鮫島はその呪いを、正面から否定して解いてくれた。だから俺も……彼女を、呪いから解放してやりたい」

 それは、あの雨の日からずっと考えていたことだった。

 自分の意識を変えてくれた雷華に恩を返したい。
 彼女を悩ませる『否定の呪い』を解く手助けをしたいと、強く思った。

 しかし、本人に呪いのことを尋ねても否定でしか返って来ないであろうから、折を見て未空に聞いてみようと考えていたのだ。

「弓弦は、鮫島が呪いにかかった時の状況を知っているんだよな? 呪いを解くための方法について、何か知っていることはないか?」

 未空に向け、真っ直ぐに投げかける海斗。
 その瞬間、未空の瞳が……微かに揺れた。
 驚いたと言うよりは動揺しているように見え、海斗は疑問に思うが……
 未空はすぐにいつもの落ち着いた表情に戻り、静かに首を振った。

「……ごめん、わからない。私も呪いを解くためにいろいろ試してみたんだけど……どれもうまくいかなかった」
「そうか……よっぽど強力な呪いなんだな。でも、俺は俺で調べてみるよ。参考に、鮫島が呪いにかかったという神社の名前を教えてもらえないか?」
「……隣の県にある、深水(みすみ)神社。座橋(ざきょう)市の深水山(みすみさん)で調べればヒットすると思うよ」
「ありがとう。さっそく調べてみる。何かあったらまた相談させてくれ」

 スマホにメモを打ち込み、海斗が言う。
 未空が俯きながら小さく頷いた、その直後、

「ねぇねぇ、大変大変!」

 慌ただしい足音と共に、雷華が校舎の方から駆けて来た。
 目の前で急停止する彼女に、未空が「どうしたの?」と尋ねると、

「来たのよ、来た来た! 例の彼女が!」

 興奮気味にそう答えるが、答えになっていない。
 こうしたやり取りに慣れているのか、未空は呆れることなく冷静に「誰のこと?」と聞き直す。
 雷華はぐっと両手を握り締め、息を荒らげながら、


八千草(やちぐさ)(すい)よ! ずっと来ていなかった、もう一人のメンバー!」


 緊張と期待が入り混じったような声で、そう言った。