無職のススメ、元社畜の挑戦日記


**無職5日目(9月5日)**

グランピング2日目、心太朗は朝6時に目を覚ました。かつては「朝起きれない男」の称号を持つ彼が、ここに来てまさかの早起き!自然のパワーは恐るべし、いや、もはや神の領域だ!特別早く寝たわけでもないのに、心が癒されてる?心太朗は思わず「これが『自然の力』か!」と感動の涙を流すところだった。

澄麗はまだ夢の中。妊娠中にも関わらず、心太朗を癒すためにグランピングに連れてきてくれたことに感謝の気持ちが止まらない。「彼女こそ宇宙一の妻だ!」と心の中で叫びたいが、今は彼女を起こさないように、そっとテントを出る。もちろん、寝顔に「お前が宇宙一の妻だ!」なんて言ったら、彼女が目を覚ましたときに赤面必至だ。

ぼんやりとコーヒーを片手に朝日を眺めつつ、心太朗は澄麗との出会いを思い出す。甘~い思い出タイムが始まった。「澄麗との出会いは、心太朗がバンド活動をしていたとき、客として来ていた彼女に話しかけた……」と語りたいところだが、実はそれは表向きのストーリー。実際は、今流行りのマッチングアプリでの出会いだった。

心太朗は長い間、彼女がいなかった。音楽を辞めて就職した途端、出会いゼロ。入社したばかりの「グラッツィエ」で修行中の心太朗は、長時間働く中でも人間関係は良好だった。当時は本店勤務でなく、休みもしっかりあった。だが、心の中では「早く結婚したいな~」と独り言をつぶやく。「お前は結婚を望む35歳独身男だ!」心の奥で恐怖の声が響く。

ある程度仕事に慣れてきたころ、心太朗は35歳独身男としての危機感に襲われた。「友達は次々と結婚して、俺は婚活市場の化石になりそうだ!」と絶望感に包まれ、紹介してくれる友達も減少。そこでついに、マッチングアプリの利用を決意した。

ここで心太朗が言いたいのは、今や生き方に多様性がある時代だということ。結婚が全てではないが、出会いがないならマッチングアプリは一つの手段。心太朗のように見た目も収入も平均以下でも、作戦次第で宇宙一の妻がゲットできるかもしれない。年齢など関係ない。心太朗ができたのだから。

さて、心太朗の「最短で彼女を作る大作戦」を発表する!簡単にまとめると以下の通り:

作戦① プロフィール写真は顔がわかるもの
作戦② プロフィールは相手が自分と交際したイメージが沸くようにする
作戦③ 顔がタイプならいいねする
作戦④ メッセージは10通以内で誘う
作戦⑤ 週に4人と会う
作戦⑥ 目を見つめる
作戦⑦ 脈アリなら手を繋ぐ

順を追って振り返る。


**作戦①**
まず心太朗が手を付けたのはプロフィール作りだった。「最も大切なのはプロフィール写真だ!」という自信満々の信念が彼の中で芽生えていた。マッチングアプリでは写真を数枚載せられるが、特に重要なのがトップの写真だ。女性たちからの精査が始まる場面である。顔が見えない写真?それはもはや「お前、誰やねん!」という話だ。見た目に自信がないからといって遠目の写真にするのはダメ。自撮りは自殺行為。ナルシスト感丸出しで、「うわっ、こいつやばっ」と思われるのがオチだからだ。

しかし、心太朗には引きこもり生活と「グラッツィエ」での修行のおかげで、顔がはっきりわかる写真がほぼなかった。そこで、彼は一人で山に行き、スマホスタンドを使って自然な表情を狙って撮影した。彼が特に注意したのは「清潔感」だった。これが大事だとネットで教わったからだ。

こうして、顔がはっきりわかるトップ写真が完成。続いて2枚目と3枚目は、彼の雰囲気を伝える写真を選定した。過去に友人と行ったキャンプの写真とビアガーデンでの写真だ。顔はあまり見えないが、彼がどんな男かをアピールできる。女性はチャラ男には警戒するが、友達がいない男にも警戒するのだ。要は、「見た目が普通で、友達がいて、なおかつオシャレすぎない」といったバランスが求められる。

残りの写真は顔がわからなくてもOKだ。むしろ、あまり顔を出すと「こいつ、ナルシストか?」と思われるかもしれない。趣味や仕事、料理の写真で埋めていく。心太朗は当時、謎に茶道がマイブームだったので、自分が立てたお茶の写真、イタリアンレストランで働いていた時の手元の写真、外食した時の寿司の写真、そしてギターを弾いている写真(顔は写っていない)を用意した。どれも彼の不思議なセンスを映し出していた。

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**作戦②**
次に力を入れたのがプロフィール文だった。文体は丁寧に。「俺、常識ある男だぜ!」とアピールするための自己紹介だ。まずは名前と住んでいる地域を書き、軽い経歴とアプリを始めた理由を書く。心太朗は30代前半までバンドばかりやっていたが、嘘偽りなくその事実を綴った。アプリを始めた理由は、仕事が落ち着いてパートナーと出会うためと書いた。「もういい加減、彼女が欲しいんだ!」という心の叫びもこっそり盛り込まれていた。

コンプレックスは細身の身体。休日はジムに行っていると書くことで、「ほら、俺、努力してるから!」とアピールした。コンプレックスをさらけ出すことで親近感を得る一方、ネガティブな要素は避けるのがセオリーだ。どこまでいっても、マッチングアプリでネガティブは厳禁である。

趣味やどんな交際をしたいかも書いた。特に交際については、女性たちにイメージを持たせるのが大事だと考えていた。散歩したり、外食したり、軽いおしゃべりを楽しむイメージを描けば、女性たちも「この人、楽しそう」と思ってくれるはずだ。

最後は「よろしくお願いします!」で締めくくった。心太朗は、バンド時代のマーケティング経験が活かされるとは思いも寄らず、「まさか、バンド活動がマッチングアプリで役立つとは!」と驚愕していた。

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**作戦③**
プロフィールと写真が完成したら、次は出会いのステップだ。出会わなければ何も始まらない。心太朗はとにかく足跡を踏みまくった。マッチングアプリの足跡機能を利用して、女性たちが自分のプロフィールを見たことを確認する。年齢と住まいの近さを絞って検索し、良さそうな女性にはいいね!を押しまくる。「未来の素敵な奥さん、いないかな~」という気持ちが心の中で渦巻いていた。

ただ、いいねには限られた数があるため、無駄打ちは厳禁だった。心太朗はプロフィールを熟読せず、まずは顔がタイプかどうかをチェックする。この時点では見た目だけで判断した。いいねを押しても必ず返ってくるわけではなく、綺麗事無しに「生理的に受け付けない見た目」というものがある。それ以外は数打つことが勝負だ。

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**作戦④**
マッチングしたら、お相手のプロフィールを確認し、基本的には心太朗の方からメッセージのやり取りを始める。心太朗から送る初メッセージは、「はじめまして、心太朗です。マッチングありがとうございます。お話ししましょう!」という、普通すぎる自己紹介だ。結局、普通が一番だと思っていた。

メッセージのやり取りは基本的に10通以内でお会いする約束をするのがポイントだ。早すぎると警戒され、遅すぎると相手が萎えてしまう。だからこそ、10通がベストだと信じていた。

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**作戦⑤**
そして、心太朗は週に4人と会うことに決めた。「彼女を作る!」という目標に向かって一直線だった。仕事の日は会えないため、休みの日にお昼と夜にそれぞれ1人ずつ、週に4人の女性と会う計画を立てていた。彼女作りに全力投球する心太朗の姿勢は、まさに本気そのものだった。

その中の1人が澄麗だった。数回メッセージをやり取りした後、彼らは中間地点で会うことに決めた。

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**作戦⑥**
澄麗との会話はとても楽しかった。彼女がどんな仕事をしているのか、趣味は何か、恋愛観はどうなのかを探る心太朗は、基本的に聞き手に回る作戦を取った。しかし、質問攻めは禁物だ。まずは自分のことを話し、そこから彼女に質問を広げる。これが会話術の真髄だと心太朗は感じていた。

目を見つめながら話すことで、相手に興味を示し、「あれ?この人、私に興味あるの?」と思わせることが成功のカギだ。気持ち悪いくらいが丁度いい。じっと見つめて話を聞くと、やがてお相手の方から目を逸らす。その目の逸らし方を見逃すべきではない。俯いたように逸らした時、それは脈アリだ。もちろんネットの情報だが、心太朗はマッチングアプリを通しての出会いでそれを確信していた。

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**作戦⑦**
澄麗が脈アリだと心太朗が感じたとき、彼は一緒に散歩することを提案した。「酔っ払ったから」とか「風を浴びたい」とか、どんな理由でも良い。「もうちょっと話したい」という言い訳が一番のキーポイントだ。脈アリと判断し、彼はここで男を見せることにした。心太朗は居酒屋を出てすぐに澄麗の手を握った。「あれ?これ、成功するか!?」と内心ドキドキしていたが、澄麗は嫌がってはいない様子だった。

そして、公園で話を続け、終電までおしゃべりを楽しんだ。心太朗の恋愛攻略、まさかの成功!?という感覚が彼の心を満たしていた。


まるで心太朗がチャラい遊び人のように見えるかもしれないが、実際のところ、彼の恋愛経験は薄っぺらい薄焼きクレープのようなものだった。ネットで集めた情報を必死に守るだけの彼。いや、これが実践できているのが奇跡とさえ思える。

その翌週、心太朗はついに澄麗と正式に交際をスタートさせた。もちろん、彼はその後、マッチングアプリを速攻で退会し、「澄麗一筋」に愛を誓った。言ってみれば、「もう二度とネットで出会うなんて言わないぜ」という決意表明だ。まるで「これが俺の本気だ!」と宣言しているようだったが、果たしてそれが本気なのかどうかは不明だが。

一年後には見事に入籍し、半年後には子供を授かることに。恋愛経験の少ない心太朗の大作戦は、まさに「宇宙一の妻」との出会いという大成功を収めたのだった。「大成功」と言っても、結局、ネットの情報をそのままなぞっただけなのだが、彼の頭の中には「作戦成功! 俺天才!」という声が響いていた。








そんな宇宙一の妻が目を覚まし、心太朗と共に琵琶湖を見つめていた。二人は朝日を浴びながらグランピング2日目を満喫し、帰路に着く。こんな素敵な時間を過ごしているのに、心太朗はふと現実に戻り「帰ったらどうやって生活していこうか」という不安を抱えていたのだから、まったくもって悲観的で笑える。彼の頭の中には、グランピングの楽しい思い出から、無職の未来がデンと居座っていたのだった。



**無職6日目(9月6日)**

心太朗は、ここ最近驚くほど早起きになった。仕事を辞めたばかりの最初の2、3日は、まるでベッドと一体化したように寝てばかりだったのに、昨日から目覚めが妙にいい。…おかしい。**これが「無職の力」ってやつか?**と思わず首を傾げた。

毎朝の朝食は決まっている。納豆ご飯に生卵をかけてぐるぐるとかき混ぜるというシンプルなメニュー。これを15年も続けてきた。結婚してからは、澄麗が味噌汁を追加してくれて、少しだけ豪華になった。

そんなある朝、いつものように食事をかき込んでいた心太朗はふと気づいた。

「あれ?今日、なんか美味しいぞ!」

いや、待て。**15年も同じ朝食を食べ続けてきて、今日やっと気づくのかよ!**と自分でも突っ込みを入れたくなる。それまで「食べる=義務」だったのに、今は違う。朝の空気を感じながら、ゆっくりと食べることができる。そして、その結果、朝ご飯が驚くほど美味しいことに気づいてしまった。
心太朗は感動していた。これが「人間らしさ」ってやつだろうか。

心太朗は、仕事を辞めてから変わった日常を新鮮に感じていた。彼の無職生活は、思った以上に充実しており、少しずつ「人間らしい」生活に戻ってきたことを実感している。以下、彼の変化をいくつかのポイントに分けてまとめてみよう。

① 食事が美味しくなった

朝昼晩の食事が、まるで「グルメツアー」にでも参加しているかのような楽しさを感じられるようになった。米や魚、野菜に至るまで、一つ一つがまるで新発見。今までどれだけ味わうことを忘れていたのか、心太朗は自分の感覚の鈍さに驚いていた。

さらに、毎回「いただきます」と「ご馳走様」をきちんと言うようになったことにも彼は気づいた。これまで当たり前のことさえおろそかにしていた自分に、「どんだけ生き急いでたんだ」と心の中でツッコミを入れずにはいられない。

② 寝たい時に寝れる

かつて不眠症に苦しんでいた心太朗だが、仕事を辞めてからその悩みも徐々に改善してきた。在職中はゾンビのような生活を送り、退職直後も昼間は朦朧としていた。しかし今では、睡眠の質も量も向上している。澄麗が「前は毎晩呪われたみたいにうなされてた」と言ってきた時は、思わず「どんな寝相だよ…」と笑ってしまった。退職後に寝言すらぴたりと止まったことから、仕事がまるで悪霊のように彼に取り憑いていたことを実感する。

③ 肌艶が良くなった

久しぶりに会った知人から「肌が綺麗になったね」と言われた心太朗は、逆に「おれ、どれだけ劣化してたんだ…?」と不安になった。仕事をしていた頃は、疲れ果てて風呂に入ることさえ面倒だったのだ。しかし今では、毎晩風呂に入り、さらにはフェイスパックまで欠かさず行うようになっている。そのおかげか、心太朗の肌はみるみるうちに回復。ストレスフリーな生活が彼を「美肌男子」へと進化させた。美容系YouTuberデビューも夢ではない…かもしれない。

④ 家族との時間が増えた

仕事をしていた頃、心太朗の生活は常にギリギリだった。朝は寝坊、夜は食事を済ませてすぐに寝るだけ。休みの日もベッドから離れられず、澄麗との会話もほとんどなかった。そんな日々が続き、いつもイライラしては彼女に八つ当たりすることもしばしば。**よく離婚されなかったな…**と冷や汗をかく心太朗。

だが、今では一緒に買い物に行ったり、何気ない時間を一緒に過ごすことが増えた。心太朗は、澄麗の体調を気遣う余裕すら持てるようになった。「おれ優しくなったな!」と自信を持ちながらも、心の中で「いや、これがスタート地点だったんだよ」と一人で突っ込む。

⑤ 周りは思った以上に優しかった

退職当初、心太朗は社会に対する罪悪感でいっぱいだった。「これで社会の落伍者か…」と一人で落ち込んでいたが、意外にも周囲は温かかった。澄麗や両親、さらには義両親までもが「無理せず休んで」と優しい言葉をかけてくれたのだ。

彼はもっと非難されるだろうと思っていたが、その反応に驚き、勝手に周りを敵視していたことに気づいた。これを機に本音で話せるようになり、孤独感も少しずつ薄れていった。心太朗は、実は自分がちゃんと社会に受け入れられていたことをようやく実感した。

⑥ よく笑うようになった

澄麗に対して以前はイライラすることが多かったが、今では彼女の明るさや優しさを素直に受け入れ、笑顔が増えた心太朗。笑顔で過ごすことの大切さを知り、彼はようやく澄麗の存在に感謝できるようになった。心の中で「澄麗よ、今まで本当にごめん…」とつぶやく日々が続いている。

⑦ 自分の価値観を見直す

最近、心太朗はジャーナリングを始めた。ノートに思いをひたすら書き殴るだけだが、これが驚くほど効果的。自分自身と向き合う時間を持ち、家族や健康が何より大切だと改めて気づかされるようになった。仕事の選択肢は無限に広がり、やりたいこととやりたくないことがはっきりしてきたが、**やりたくないことが多すぎないか?**と心の中でまた突っ込む。

不安は完全に消えたわけではないが、心太朗は仕事を辞めたことに後悔はない。彼の「人間らしさレベル」は日々更新中だ。

**無職7日目(9月7日)**

心太朗は無職生活を始めて1週間が経過した。意外と早いス時期に心身が回復していることに、自分でも思わず「俺ってこんな単純な生き物だった?」と疑ってしまったほどだ。眠たい時には遠慮せずに寝て、グランピングで自然パワーを吸収した結果、まさかの「心も体も元気です!」状態。巷でよく聞く「自然に癒される」なんて台詞が、まさかここまで効くとは思わなかった。仕事に戻れるんじゃないかと一瞬頭をよぎったが、「いやいや、まだそれは無理っす。もうちょっと無職を楽しませてくれ」と、彼は無職ライフを満喫しようと決めた。

そんな彼に、現実という名のパンチが迫ってきた。「あれ、俺、あと2ヶ月で父親じゃん」。予定通りなら、父親デビューまで残りわずか。いや、無職のままでデビューとか、心太朗自身が心配でしかない。「まだ働くの怖い…」なんて言い訳しているが、そもそも父親になる実感すらないという問題。澄麗はお腹もかなり大きくなって、すっかり母になる準備万端な感じだが、心太朗は「父親の予習ゼロ」。よく「母は子供が産まれる前に母になる、父は産まれてから父になる」って言うけど、今のところ全然ピンとこないどころか「本当に俺、父親になれるの?」というレベル。

そんなこんなで、赤ちゃんが産まれる前に必要なものを揃えなきゃいけない時期に突入。働いてた頃は13時間労働や休日出勤で、準備なんてする余裕は皆無。しかし、今は無職!つまり、動ける時間はある!…いや、多少は、、。

そこで、澄麗と一緒に赤ちゃんグッズを買いに行くことに。驚いたことに、家の周りには赤ちゃん用品店が意外と充実していて、西松屋、ベビーザらス、アカチャンホンポ、バースデイまで揃っている。「赤ちゃん用品のドリームチームかよ」って思うほど。しばし無職という事実を忘れ、2人はベビー用品選びに没頭する。

澄麗がしっかりとリストアップしてくれた必要なアイテムは次の通り:

- チャイルドシート(最重要…らしい。まだ無職だけど安全には投資しなきゃ)
- バウンサー(簡易ベビーベッド)
- 紙おむつとおしり拭き(どれだけ使うか未知。たぶん魔法のごとく消えるらしい)
- 肌着10枚、服4着、アウター1枚(11月生まれだから)
- 布団(寝具は絶対重要)
- 哺乳瓶、ミルク(哺乳瓶を洗うグッズも買うべき)
- 爪切り(赤ちゃんの爪って、いつの間かに伸びるらしい)
- ベビークリーム、ソープ、洗濯用洗剤(赤ちゃんの肌は超敏感)
- ベビーバス(赤ちゃんのお風呂)
- 母乳パッド(え、これ何に使うの?)

バウンサーは心太朗の姉がお祝いでくれるらしく、ベビーバスは心太朗の甥が使っていたものが実家にあるとして、心太朗は、「ベビーカーや抱っこ紐も必要なんじゃないの?」と思いつつも、澄麗曰く、焦る必要はないらしい。新生児は首が据わっていないため、ベビーカーや抱っこ紐はすぐには使えない。外出する機会もそんなに多くないし、抱っこしている間は軽いので問題ない。むしろ、産まれたばかりの赤ちゃんに早く買っても、結局あまり使わないという話もよく聞く。焦って「どんだけ無駄遣いしたんだ」と後悔するより、慎重に選ぶ方が賢明だと心太朗は思った。

それにしても、最も高価なのはチャイルドシートだ。ピンからキリまであり、10万円を超えるものも珍しくない。心太朗は「さすがにそこまでは必要ないだろう」と考えたが、交通ルールでチャイルドシートは150センチまで義務付けられている。「150センチって、どこの大人が乗るんだ?」と内心ツッコミを入れつつ、子供の安全が最優先なのは言うまでもない。しかし、これもどうせ3歳くらいでサイズアウトしてしまう。「じゃあ、3年で買い替え?これはもはや「お金をドブに捨てる」レベルだ」と心太朗は思った。だから、最初から高価なものを買う意味はない。3歳を過ぎたら、クッションや座高を上げるだけのシートで充分らしい。むしろ、「買い替え前提」の選び方をした方が賢いだろうと2人は考えた。下の子ができたら、そちらに回す手もあるのだ。

いろんな店を回った2人は目星をつけていたが、最後に立ち寄った西松屋で「秋の感謝祭セール」に遭遇。そこで目にしたのは、まさかの1万円のチャイルドシートだった。「これって運命?」と心太朗は思わず心が躍った。安全性を店員に念入りに確認し、ネットでもチェックして、満場一致で「これでいいじゃん!」となった。しかも、心太朗の車は古いためISOFIX(固定用のアレ)がない。「これがあるかないかで値段が変わるのか!自分の車が古くてよかった…のか?」と一瞬疑問に思ったが、逆に安く済んだのだ。「1万円は超お得だ。まさにラッキー買い物だ!」

次に2人が直面したのはおむつ問題。紙おむつとおしり拭きがどれだけ必要か、見当もつかなかった。しかし、ネットで調べると「異常な量を消費する」との情報が目に入った。とりあえず最初の2週間分だけ購入しておこうと2人は決めた。赤ちゃんの肌に合うかどうかもわからないため、慎重になるべきだ。ここで失敗すると、後で地獄が待っているらしいからだ。

布団もセットで購入し、悩む時間をゼロにした。これで安心だ。そして、最も楽しかったのは服選びだった。肌着を10枚セットで購入し、一安心した心太朗は、澄麗とともに服を2枚ずつ選ぶことにした。しかし、選んだ服はまさかの全く同じだった。「どんだけ息が合ってるんだ、俺たち」と心太朗は驚いた。残りの2枚は別々に選んだが、これもまたお揃いっぽくなり、夫婦の絆を感じた。「さすがは“仲良し夫婦”ってやつだ」と心の中で自画自賛。

レジで清算を済ませると、合計約4万円だった。チャイルドシートだけで3〜4万見込んでいたため、思いがけず節約できた。「無職でもいけるんじゃないか」と心太朗は胸を躍らせたが、油断は禁物だと自分に言い聞かせた。「これが無職の生活力か?」と少し自信がついた心太朗だった。

帰宅すると、すぐにチャイルドシートを車に装着した。赤ちゃんの布団も敷いてみると、心太朗と澄麗の布団の間に小さな可愛い布団が並ぶ。「これ、なんかニヤけちゃうな」と心太朗は感じた。澄麗が嬉しそうに赤ちゃんの服を畳んでいる姿を見て、心太朗は彼女が完全に「母親の顔」になっていることに気づく。「ああ、やっぱり子供って魔法だな」と思いつつ、自分も少しずつ父親になる実感が湧いてきたが、「いや、まだまだこれからだろうな」と心の中で自分に言い聞かせた。

**無職2週目(9月8日〜9月14日)**

無職になって1週間。
「あれ?もしかして休職っていう選択肢もあった?」と気づいたのは、かなり後になってからだった。だけど、当時心太朗の頭にあったのはただ一つ。「グラッツィエ」から1秒でも早く逃げ出したい!という気持ちだった。

そんな心と体の疲れも、徐々に回復してきた。しかし、無職という現実が、じわじわと心太朗の肩に乗っかってくる。「甲斐性なし!」って自分にツッコむのは、心太朗の得意技だ。もはやこれ、趣味じゃないかってくらいの頻度でやってる。

先週は何もせず、ただぼーっと過ごしていた。何かしようと思っても、何も浮かばない。「転職活動?いやいや、今はちょっと…心の準備が…」って、自分に甘々な心太朗がつぶやく。そもそも、「また働くのか…」っていう恐怖が根底にある。会社のドアを思い出すだけでビクビクしてしまう。

そんなわけで、心太朗は仕事を辞めて「ジャーナリング」なるものを始めた。なんだその洒落た響きは、と思ったが、要はノートに思いのたけをぶちまけるだけの話。これで深層心理が見えるらしいが、心太朗の深層心理なんて、迷子どころか、道を見失って遭難中だ。結局、「何すりゃいいんだ、オレ?」とひたすら書き続ける毎日。

とはいえ、続けているうちに、理想の生活がぼんやりと見えてきた。どうやら心太朗が一番大切にしたいのは「家族との時間」らしい。
いや、今さらかい!

以前の心太朗の働き方は、13時間労働に加えて、休日も電話が鳴りっぱなし。さらに休日出勤。もはや、週末も祝日も年末年始も、完全にブラック企業のポスターに使えそうなレベルの働きっぷりだ。その結果どうなったか?妻の澄麗との時間はゼロ!いや、ゼロどころか、マイナスじゃないかと思うほど。そして両親や姉の家族、澄麗の家族との時間も皆無。まるで家族の記憶が幻のように薄れていく。「オレ、どんだけ仕事してたんだよ…」と、自分でも恐ろしくなるくらいの労働量だ。

しかし、過労で疲れ果てた心太朗を支えてくれたのは、そんな家族だけだった。ありがとう、澄麗。そして家族のみんな。今思えば、オレの数年間の思い出って、ブラック企業との壮絶なバトル記録しかないんじゃないか?ってくらいの思いだった。
「このままじゃ、死ぬときに後悔するぞ!」って当時の心太朗も分かってはいたけど、その時は選べなかった答えだった。そう、後悔以外に何もない。そして、子どもがもうすぐ生まれるという新たなプレッシャーが!「ますます家族との時間を作らなきゃいけない」と、今さらながら気づく鈍さだ。

第二の人生では絶対に家族との時間を大事にするんだ!そう心に誓った心太朗。しかし、家族との時間を作るためには、「時間」と「健康」が必要だというのは、もはや自明の理だ。いや、ほんとそれ。大事すぎるだろ、時間と健康。

心太朗は毎日眠い。とにかく眠い。これまでの仕事漬けの日々は、睡眠を削り、家族との時間も削りに削っていた。どんだけ削るねん!これが幸せなわけないやん、と今さら気づいた彼。

だからまず、健康のために「睡眠時間を確保すること」が最優先だと決めた。「寝たい時に寝れる環境が欲しい」そう思い始めたのも無理はない。心太朗は神経質な性格で、通常よりも多く寝ないとダメな体質だ。だからこそ、これからはしっかり寝て、家族との時間を楽しもうと固く決意している。



そして、「時間」についても考えた。仮に1日9時間寝て、さらに8時間働き、通勤時間も合わせたら、残るのはわずか4〜5時間。「少なっ!」と、思わず声に出してしまう。家族との時間がそれだけしかないと気づいたとき、心太朗は愕然とした。「無理!こんなん無理!」と内心パニックだ。周りの人に話せば「いや、みんなそうだから」とツッコまれそうだが、心太朗にとってはこれが人生の一大事だった。睡眠時間は削れない。だからと言って、家族との時間を削るなんてもってのほか!
心太朗は、しばらく頭を抱えた結果、ついに閃いた。「仕事の時間を削ればいいんじゃないか?」もしくは、「家で好きな時にできる仕事をすればいい!」と。そこで、「フリーランス」という響きがふと頭に浮かんだ。だが、冷静に考えてみると、心太朗には特にスキルも経験もなかった。「あれ?どうすんだ、オレ…」と再び思考停止。でも、とりあえず自分の人生観だけはしっかりさせようと決めた。

**家族との時間が最優先**
**寝たい時に寝られる**
**好きな時間と場所で働く**
**月収30万以上**

これで方向性は見えた!ただ、肝心の「何の仕事をするか」は完全に謎のままだった。

そんなある夜のことだ。心太朗はふと妻の澄麗が妙に眠れずにいるのに気づいた。「どうした?」と聞くと、「お腹が張って寝られないのよ」と言う。澄麗はソファに座っていて、かなり辛そうだ。心太朗が「お腹?大丈夫か?」と軽い気持ちでさすってみたところ、お腹がまるで岩のようにガッチガチに固い。「これ、岩?いや、オレの手がヤバイのか?それともマジでヤバイのか?」と、頭の中で混乱しつつ、心太朗は一瞬本気で救急車を呼ぶことを考えた。だが、澄麗は至って冷静に「これ、よくあることだから大丈夫」と言う。「いやいやいや、よくあること?これ、ガチガチやぞ?」と心太朗は内心びびり倒すも、どうやら本当に「よくあること」らしい。

その時、心太朗はさらに驚愕する事実を知った。澄麗はこれまでずっと、彼にこんな状態を見せたことがなかったのだ。理由はシンプル。「仕事で疲れ果ててる心太朗を気遣ってた」からだという。
「オレ、どんだけ情けないんだ…」と、心太朗は打ちひしがれた。しかも「今まで全然気づかなかったとか、オレどんだけ鈍感なんだ…」と二重に打ちひしがれる。その日、心太朗はひたすら澄麗のお腹をさすり続けた。

1時間ほど経つと、ようやく澄麗のお腹の張りも落ち着き、彼女は「大丈夫」と言って眠りについた。ホッとする心太朗。しかしその後、心太朗はふと「俺、これで本当に役に立ったのか…?」と考えてしまう。

今まで澄麗の力になれなかった分、必ず取り返してやると彼は強く誓うが、その決意はどこか妙に空回りしているような気がしてならなかった。

**無職3週目(9月15日〜9月21日)**

心太朗はついに小説を書くことに決めた。昨夜は4時半寝、10時半起床。睡眠時間的には完全にアウトだが、やる気は満々。これぞ無職の特権だ!テーマは「人生の真ん中に家族との思い出」。相変わらず頭の中はお花畑だ。朝からぼーっとしながらコーヒーを飲み、妊娠中の妻・澄麗と共に過ごす。これは幸せなのか、それともただのぐうたらなのか…。

目が覚めたら神社へ行き、その後図書館へ。図書館で借りた本は以下の三冊。
- **『実践 小説教室 伝える、揺さぶる基本メソッド』** 根本昌夫著
- **『1%の努力』** ひろゆき著
- **『思い立ったら隠居 週休5日の快適生活』** 大原扁理著

ラインナップから完全にサボる気満々な心太朗は、『実践 小説教室 伝える、揺さぶる基本メソッド』とノートを広げて、いざ作品作りに挑む。プロットやあらすじ、登場人物を考えるも、自分の想像力がどれほど貧弱かを実感する。そして、頑張るぞ!と気合を入れる。

**作成した内容はこんな感じ。**
- **起 現状の把握**
- 安川心太朗、39歳。妊娠中の妻と生活を共にしているが、フリーランスを目指すも具体的な道筋は見えない。過去のイタリアンレストランでの経験やバンド活動の挫折を思い返すと、自己評価がめちゃくちゃ低い。これで大丈夫なのか?と思いつつ、SNSでフォロワーに挑戦をシェアし、フィードバックをもらう決意を固める。

- **結 未来への展望**
- 月収30万を達成してフリーランスとして成功を実感し、家族との絆が深まる。自己成長を続ける決意を新たにする、という壮大な夢を描いているが、果たしてどこまで実現するのか疑問が残る。物語の最後には次の目標や夢に向かって進む姿を描き、希望を持たせるエンディングを目指す。

自分の欲望に素直な心太朗は、最近学んだマーケティングの知識も取り入れ、なんだか偉そうに「心理的ベネフィット」なんて言ってみる。ベネフィットとは読後の読者の感情をイメージして表したものだ。ベネフィットをイメージする事でどんな作品にするかを考える。リストアップしてみると、次のようなものが浮かび上がる。

- 人間らしい感覚を取り戻せた
- 生きる希望が湧いた
- 正常な感情を取り戻せた
- 好きなだけ眠れて休めた
- 元気になれた
- 家族の大切さを知れた
- 優しくなれた
- 友人と会えた
- 選択肢が増えた
- 本音を言えるようになった
- 独りじゃないと自覚した
- 勇気をもらえた
- 安心できた
- 新しい考えが生まれた
- 自分の価値観を知れた
- 笑えた
- 感動できた

ターゲットは「ブラック企業で働く仕事を辞めたい人」だ。こういう人は果たしてどれほどいるのか…。心太朗はまさにその代表選手の一人。

読者との距離が近い、日記型小説であることが彼の差別化ポイントだ。承認欲求、これでもかというくらい詰め込まれている。

その後、心太朗はスマホをいじりながらAIとチャットし、プロローグを書く作業に挑戦する。しかし、AIがなかなか言うことを聞かない。試行錯誤の末、やっとプロローグを書き終えた。「これはなかなかいい出来だ」と自画自賛しつつも、実際はどうなのか、心の中では疑問が渦巻く。

書けたら早く公開したくなるのが人情。以前、趣味で小説を公開していた「ノベマ!」に載せることに決めた。あらすじや表紙を作成しなければならないが、もちろんAIを使ってズボラに仕上げる。これが最新技術に頼る人間の姿だ!明日はX(旧Twitter)で宣伝するつもりだが、果たしてどれだけの反応があるのやら。

心太朗は、自分の挑戦をより多くの人に伝えたいと考え、新たな一歩を踏み出すのであった。この挑戦が実を結ぶのかどうか、心太朗だけが期待を寄せる。

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**無職4週目(9月22日〜9月28日)**



ある日、澄麗が言い出した。「今度、マタニティ教室があるから行こうよ。」

マタニティ教室とは、各市町村が開催する出産を控えた夫婦が集う特別な空間である。この教室では、出産に向けた準備や育児の基礎知識を学ぶためのプログラムが用意されている。

心太朗はその提案に少し戸惑った。澄麗は心太朗の体調を気遣っているようだったが、彼の心の中では「外に出る=社会との接点」という公式が成り立っていた。仕事を辞めてから、引きこもり生活が続いていたのだ。澄麗は慎重に言葉を選ぶ。「行ってみようよ。勉強や授業みたいなの、コタちゃんは好きでしょ?それに、赤ちゃんのことだし、興味もあるんじゃない?」

彼女の言葉に心太朗は少し揺れた。外出自体は面倒だが、赤ちゃんについて学ぶことには興味があった。澄麗の真剣な顔を見て、彼は教室に行く決意を固めた。どこか心の中で「お父さんになる覚悟はできてるのか?」と自問自答しながらも。

彼らが向かう保健センターの前には、「グラッツィエ」の分店があった。マタニティ教室の前に、その店に立ち寄ることにした。心太朗は「グラッツィエ」の本店で店長を務めていたが、その経験はもはや悪夢のようなものだった。長時間の労働、休日出勤、人間関係のストレス…。まるで自己啓発の逆バージョンで、「自己を壊すための12ステップ」とでも名付けてやりたい気分だった。

それでも、分店には愛着があった。本店に配属される前の一年半、ここで修行していたのだ。本店とは違い、スタッフは真面目で明るく、誰もが協力的だった。おかげで仕事は楽しかった。こんな環境を求めていたのに、なぜ本店で自ら墓穴を掘ったのか。

佐藤という人物は心太朗の師でもあった。52歳の彼は、中学卒業からこの業界で生き残り、キャリアを積んできた。が、40歳で胃がんにかかり、完治後に「グラッツィエ」にやってきた。彼はまるで「経験者は語る」って感じの広告塔だった。心太朗はその背中を見て、調理や数字、仕事に対する姿勢を学んだ。たまに一緒に飲みに行くと、10歳以上歳下の心太朗だが、いつも多めに支払っていた。財布に数百円しか入っていない佐藤の見栄を張らない姿も愛おしかった。授業料だと思い気持ちよく支払っていた。

退職後、まだ佐藤に会っていなかった心太朗は、分店に寄ってみることにした。しかし、佐藤は休みだった。運命の悪戯だ。「ああ、こんなもんか」と思いながら、代わりに他のスタッフたちが温かく迎えてくれた。彼らといろいろな話をしているうちに、心太朗は「やっぱり、この店は好きだな」と思い直す。

最後に、佐藤によろしくとお土産を渡し、マタニティ教室へと向かった。教室に入ると、周りの妊婦さんたちの「赤ちゃんへの愛」が充満していた。心太朗はその空気に呑まれていた。

平日だし、父親たちの参加は少ないだろうと思っていた心太朗。しかし、教室に入ると意外にも父親たちがぞろぞろと集まっていた。今日は沐浴の授業があるとのこと。

沐浴とは、生まれたばかりの赤ちゃんをお風呂に入れる特別な儀式で、親子の絆を深める大切な時間である。温度37〜38℃に調整されたお湯に赤ちゃんを優しく入れ、洗浄剤で丁寧に体を洗う。特にシワや折れ目を優しく触れながら、赤ちゃんの肌が清らかさを取り戻していく。すすぎ終わったら、柔らかなタオルで包み込み、丁寧に水分を拭き取る。沐浴後のリラックスした表情は、親にとって最高の喜びとなり、この時間は親子の愛情を深める特別な瞬間なのだ。

実際に沐浴を始めると、心太朗は昔、甥を洗った経験がよみがえり、スムーズに進める一方で、澄麗は初めてで戸惑っていた。赤ちゃんを優しく抱きかかえて、そっと洗面器に入れると…あれ?どうやって支えたらいいの?と心の中でパニックに陥った。澄麗が「こ、こんな感じ?」とガーゼを持って必死に赤ちゃんの顔を拭く姿に、「それじゃあ赤ちゃん窒息するよ!」とツッコミたくなる。

その後のまさかの交流タイムでは、心太朗は人見知り全開だった。アタフタしていると、澄麗が明るい性格で他のお母さんたちとすぐに打ち解けていく。あれ?僕も父親なのに、まるで親が子供の友達に挨拶しに来たかのような気分だった。

澄麗は他の参加者たちと妊娠中の悩みや喜びを語り合う中、心太朗はそれを見守るばかりだった。「赤ちゃんが生まれたら、もっと大変だよね」とつぶやくと、「こんな夫だから君が大変だよ!」と心の中で自虐的にツッコミを入れてみる。

そんなこんなで、知らない知識を得ることができた有意義な日となり、心太朗と澄麗はますます生まれてくる赤ちゃんに会うのが楽しみになったが、育児の洗礼が待っていると思うと、「さあ、これからが本番だ!」と自分に言い聞かせるしかなかった。

**無職29日目(9月29日)**


心太朗と澄麗は毎日、運動も兼ねて近所のスーパーに買い物に出かける。澄麗はスーパーの達人で、どこの店が何曜日に安売りするかを完全に把握していて、それに合わせて日々の買い物ルートが微妙に変わっていた。彼女の正確さはまるでカーナビのようで、心太朗はそのペースに流されて、ただついていくしかなかった。

ある日の帰り道、二人は掲示板に貼られている松岡神社の「フードフェス」のチラシに目を留める。心太朗にとって松岡神社は毎朝お参りに行く馴染みの場所だったが、フードフェスが開催されることは初耳だった。最近神社で何か準備している様子は感じていたものの、まさか食べ物の祭典だとは思ってもみなかった。チラシによると、地元の店が出店し、射的やくじ引き、高校生の軽音部による演奏なども行われるらしい。「ずいぶん豪華なイベントだな…」と心太朗は驚いた。

しかし、心太朗には一つ問題があった。彼は祭りが大の苦手だったのだ。知り合いや昔の同僚にばったり会うのが嫌で仕方がなかった。それでも澄麗はこのお祭りに行きたがり、心太朗は断ろうとするが、結局はその意志が通ることはなく、強制的に参加が決定した。

フードフェス当日、二人は坂道を上り、踏切を渡ると、すでに多くの人々が集まっていた。澄麗は目を輝かせているが、心太朗は知り合いと遭遇しないかと内心ビクビクしていた。「もしかしたら今回は大丈夫かも…いや、何の根拠があるんだ?」と心配を抱えながら、無意味にサングラスをかけて変装を試みるが、「バレバレのやつ」になってしまっている。

二人はまず神社でお参りを済ませ、次に澄麗が勧める地元の肉屋が出しているというカレーを試すことになった。「肉屋がカレー?」と心太朗は疑問に思うが、澄麗の圧倒的な期待の視線に逆らうことができない。「普通盛りか肉ましがあるよ!」と聞かれ、思わず「肉まし」を選んでしまう。さらに進むと、以前二人がよく通った居酒屋の自家製シュウマイも見つけた。懐かしさに心太朗は思わず足を止め、それを手に取る。

食事エリアに移動し、心太朗は持参した缶ビールを取り出す。節約を意識してのことだ。澄麗は妊娠中のため、お茶を選んでいた。さすがに缶ビールを持ってくることはなかった。

まずはシュウマイを一口。あの頃と変わらぬ味が広がり、心太朗は懐かしさに浸る。そしてカレーを食べてみると、肉がたっぷりと入っていて驚いた。肉屋が本気を出した結果なのだろう。「これは…肉が主役のカレーだ」と心の中で感嘆し、思わず「肉屋さん、やりすぎですよ…」とツッコミを入れたくなった。

お腹も十分に満たされ、そろそろ帰ろうかという話になったが、晩御飯用に何かを買って帰ることにした。心太朗は最近フォロワーがX(元Twitter)に投稿していた餃子が食べたくなっていたが、残念ながら売り切れだった。澄麗も「たこ焼きが食べたい」と言い出すが、神社からの帰り道にあるたこ焼き屋も同じく完売していた。二人は「みんな考えることは同じなんだな」と顔を見合わせて苦笑した。

最終的に心太朗は、知り合いと遭遇することなく祭りを終えることができた。お祭り嫌いの彼だったが、子供が生まれたら澄麗と三人でまたこのフードフェスに来てもいいかもしれないと思い始めた。そんな温かい気持ちが心に広がったせいか、その夜は興奮してなかなか眠れなかった。もっとも、その理由の一つは「肉ましカレーでお腹がまだいっぱいだったから」だったのだが。

**無職30日目(9月30日)**

午前6時、心太朗の朝は爽やか…と言いたいところだが、最悪だった。昨夜の祭りの興奮のせいか、一睡もできなかったのだ。布団の中で「もう一生このまま過ごそうか」と思うも、さすがにそうはいかず、ようやく重い体を起こした。

ふと気づくと、左耳に違和感があった。明らかに聞こえにくく、何かが詰まっているような感覚だった。ソファに座ると、妻の澄麗が左側から話しかけてくるが、何を言っているのかよくわからない。

「もしかして、突発性難聴か?」と心太朗は焦った。生活習慣やストレスが原因と聞いたことはあったが、退職してからというもの、ストレスはゼロ。生活習慣も悪くないどころか、むしろ良すぎるくらい暇を持て余していた。病気はそういう油断して襲ってくるものだと、心太朗は考える。

朝のシャワーを浴びると、水音が耳に響き、やはり詰まりは取れなかった。大病かもしれないという不安が頭をよぎる。シャワーを終えた後、澄麗に相談すると、彼女は病院に行くことを勧めてきた。しかし、心太朗は病院嫌いで、「行かない!」と即答。数年前、42度の高熱で死にかけたときも、ポカリスエットを大量に飲んで自力で治したのだ。ポカリスエットは彼の戦友だった。

澄麗は「大したことないかどうか調べるためだよ!」と説得したが、心太朗が病院嫌いなのは、大したことがあった場合の恐怖からだった。それでも澄麗の押しに負け、結局、病院に行くことになった。耳鼻科を調べると、家から2、3分のところに評判のいい名医がいるという。ただし、「子供を優先するから大人は後回しにされる」という悪い口コミもあったが、もはや心太朗には選択肢がなかった。

病院に着くと、待合室には子供たちがたくさんいた。ここで一生待たされるかもしれないという予感がしたが、意外にもすぐに呼ばれた。悪い口コミは何だったのだろうと不思議に思いつつ、診察室へと入った。

医師は心太朗の耳を一目見るなり、「耳垢が詰まっているかもしれませんね」と言った。耳垢!?心太朗は突発性難聴や脳の病気を覚悟していたというのに、拍子抜けした。しかし、医師が耳をライトで照らすと、「かなり奥に詰まっていますね」とのこと。ここまで詰まっていれば、そりゃあ聞こえないはずだと言う。

それでも心太朗は安心できなかった。耳垢を取っても聞こえないかもしれない、という不安が頭をよぎった。医師が耳垢を吸い取ろうとするが、詰まりが頑固で動かない。心太朗は、まさか耳垢の粘り強さまで遺伝しているのかと、半ば諦めの気持ちを抱き始めた。

医師は耳垢を柔らかくする薬を投与し、5分待つことになった。それでも取れず、再び薬を入れられる。何度か繰り返した末に、ようやく耳垢が取れ始めた。医師は取れた耳垢を誇らしげに見せ、「こんなに大きい耳垢は見たことがない!」と自慢げだったが、心太朗にとっては嬉しくも何ともなかった。

しかし、その瞬間、左耳がクリアに聞こえるようになった。耳垢が原因だったのだ。医師に感謝し、会計を済ませて帰宅すると、澄麗は「ほら、大したことなかったでしょ?」と微笑んだ。彼女の優しい声が、いつもよりも鮮明に響いた。

ただ、長年聞こえにくかった左耳が急に復活したせいで、右耳とのバランスが崩れてしまった。少し違和感が残るものの、心太朗は「まあ、そのうち慣れるだろう」と自分に言い聞かせながら、再び日常に戻っていった。
**無職31日目(10月1日)**

心太朗は、今日もまた眠れなかった。布団の中で「眠気よ、来い!」とひたすら念じて待ち続けたが、結局気づけば朝の6時。時計を見た瞬間、彼は思わず「おい、6時かよ!」と心の中でツッコミを入れた。身体は怠く、心までじわじわと蝕まれている感じがする。マルチタスクの意味すら、違う方向に進んでいるように感じるのだ。

もともと、心太朗は精神的に不安定な人間だった。無職であるため、昼間に寝る時間がいくらでもあるはずなのだが、それすらもできない。「昼寝すら失敗するのか?」と、自分にセルフダメ出しをしながらも、一か月があっという間に過ぎていくことに軽く焦りを覚える。「おいおい、退職してからもう一か月?早すぎだろ!」と、カレンダーに文句を言いたくなるほどだった。

「次に進むために何か始めたい」と心の奥では強く感じている。しかし、結果が出ないことに焦りが募り、「何かしなきゃ」と気持ちばかりが先走る。だが、頭が全然回らず、結局何もできない。時間だけが容赦なく過ぎていき、彼は自分の無駄な時間の過ごし方に感心してしまうほどだった。

その結果、自己嫌悪が再び始まる。「ああ、俺ほんとにダメだな」と何度も繰り返し、無限ループの中に陥っていく。そして、ほんの少しだけ眠るものの、目が覚めると「え、これで回復したのか?いや、してないだろ」と自嘲する始末。

元々夜型の生活ではあったが、2日連続で眠れないのは流石にきつい。夜更かしをしているわけではなく、ただベッドに横たわっているだけなのに、朝が来てしまうのだ。そして無職である以上、時間の無駄遣いに罪悪感が重くのしかかる。「何か始めなきゃ」と思いながらも、何も進展しない日々が続く。

心が崩れると、身体も崩れる――まるでドミノ倒しのように。妻の澄麗は、2日間眠っていない心太朗を心配しているが、心太朗は「こんな状態じゃなかったら、心配をかけることもないのに…」と、無力感に苛まれる。

実は、彼がこんな状態に陥るのは初めてではなかった。寝れない日が続き、精神がズドーンと落ち込み、何もできなくなる。自己嫌悪が募り、希死念慮が顔を出す。「もう病院に行けよ!」と自分でも思うが、病院嫌いの彼はこれまで一度も行ったことがない。過去には「いのちの電話」にかけたこともあるが、夜中は繋がらないことが多く、無念な思いをした。

隣には妊娠中の澄麗とお腹の子供がいるため、ほんの少しだけ救われている気持ちはある。しかし、それでも時折心が重たくなる。「俺は家族を守れる男だ!」と宣言したいところだが、今の状態では「守るどころか、俺が守られているよね?」と自嘲してしまう。

普段、心太朗は澄麗と一緒に夕方の買い出しに行くのだが、この日は彼の体調を気遣った澄麗が一人で出かけた。妊娠中でお腹が大きくなっている彼女を一人にしてしまったことに、心太朗は深い自己嫌悪を感じた。「俺、何してんだ?せめて買い物袋くらい持てよ!」と自分に突っ込まずにはいられなかった。無職という肩書きが、さらに重くのしかかり、「肩書きは無職、しかも買い物すら手伝えません!」という最悪のキャッチコピーが浮かんだ。

澄麗が帰ってきた時、彼女は心太朗を元気づけようとたくさんのお肉を買ってきた。その瞬間、心太朗は「俺、愛されてるなぁ…」と感動したものの、肝心の食欲がゼロだった。「いや、俺の胃袋、今はやる気を出してくれよ!」と願いつつも、食べる気力が湧かない。申し訳ない気持ちで「ごめん」と謝ると、澄麗は優しく「ゆっくり治そうね」と言ってくれた。その言葉に心太朗は「こんなに優しい妻と、これから生まれてくる子供を俺は守りたいんだよ!」と強く思うものの、心と頭と身体が完全にバラバラの方向を向いているのが現実だった。

「今日は、せめて眠れればいいな…」と、彼は静かに思いながら、再びベッドに横たわるのだった。果たして、今夜こそ眠れるのだろうか?