**無職70日目(11月9日)**

心太朗は、いつものように澄麗と一緒に買い物に行く日だった。天気は曇りで、なんだか外に出る気も少し減るような空模様。でも、それでも澄麗とのお出かけだから、心太朗は気合いを入れて家を出た。寒さもなんのその、ブルゾンを着込んで、万全の体制を整えていた。

しかし、彼の隣を歩く澄麗は相変わらず半袖。心太朗はその姿を見て、暑がりだというのは分かっているが、こんな寒い日にも耐えられるのか?と思うと、やっぱり心配だ。

「寒くないの?」と心太朗が聞くと、澄麗は軽く肩をすくめて答えた。「寒かったら上着着るから」と、まるでこれが自然なことのように。心太朗は内心で「あ、これ触れちゃいけないやつだ」と気づき、無言で歩き続けた。

心太朗の心の中ではいろいろな疑問が渦巻く。こっちは心配して聞いたんだ。助産師さんだって「暖かくしておけ」って言ってたし、それなのに怒られる理由があるのか!?と。

すると、次第に心太朗の中でちょっとしたイライラが湧いてくる。何か引っかかっている。だが、ここで言葉を発すればさらに事態は悪化するだろうと冷静に判断。今はスルーしておこう。

しばらく沈黙の中を歩き続ける二人。すると、澄麗がぶっきらぼうに「明日、山に登るの?」と突然切り出した。心太朗は少し驚いたものの、冷静を保とうと努め、「どっちでも…」と返す。もうこの時点で、二人の間に微妙な空気が流れ始めていた。

お互いに言いたいことがあるけれど、それを口にするのは今じゃない。おそらく、この瞬間から戦闘が始まることを心太朗は感じていた。沈黙の戦争の予兆だ。そう、このままお互いが何も言わないまま、無言でいることが、すでに一つの戦術になっているのだ。

澄麗がまた黙って歩き続ける。心太朗も黙ってついていく。でも、心の中では「何でこんなに気まずくなっているんだろう?」とモヤモヤしている。出産に向けて何か気を使っているのか、冷えた体が何となく気になるのか。どこかしらで、心太朗は彼女のことを心配している自分がいて、でも、言いたいことを言えない不安もある。

歩きながら、二人の間には徐々に無言の圧力が高まっていった。これが、心太朗にとってはかなりのストレス。たぶん澄麗は気にしていないのだろうけど、彼は少しでも不安を感じると気になってしまうタイプだからだ。

澄麗が一言、「じゃあ、明日も出かけない?」と聞いてきた。

心太朗はその言葉に少し驚きつつ、「別に、どっちでも…」と冷たく返す。心の中ではもう戦闘モードに入った。

ついに、二人の間にある「戦闘開始」の合図が鳴った。それは、心太朗が感じた一瞬の「ピリリ」とした空気だった。

心太朗と澄麗の間に、意地の張り合いが始まった。だいたい、今までのケンカはいつもこんな風に冷戦から始まり、気づけば数日間、もしくは長ければ1週間以上も続くことがあった。お互いに口をきかず、でも何となく空気を察し合って、無言のまま日々が過ぎていくのだ。

しかし、今回はちょっと違った。澄麗は妊娠中で、いつ産まれてもおかしくない。そんな状態でこんなくだらないケンカをしている場合じゃないことは心太朗も分かっていた。それでも、プライドや意地が先行して、どうしても譲れない自分がいた。

しばらくして、心太朗はとうとう口を開いた。「お腹の調子は?」と、ぶっきらぼうに聞いた。澄麗はその問いに、まるで気にも留めないように「別に…」と返してきた。

その反応に、心太朗はさらに戦闘モードを維持することを決めた。彼女の態度が気に入らなかったのだろう、二人は再び無言で歩き続けた。ここで終わるわけにはいかないという、どこか子供じみた意地が心太朗を突き動かしていた。

家に帰り、晩御飯の時間が来ても、いつも通り乾杯することはなかった。お互いに譲る気はないし、テレビを見ながら食事をするだけ。心太朗は早食いで、先に食べ終わるが、いつもは澄麗が食べ終わるまで席を立たなかった。普段なら、澄麗が食べ終わるのを待って一緒に食器を片付けるのだが、この日は違った。心太朗は「ごちそうさま」と言って、自分の食器を片付け、ソファに座った。

澄麗も同じように、譲歩はしなかった。お互いに無言で、ただ時間が過ぎていくのを見守るだけだった。

「このままだと、長期戦だな…」と心太朗は思ったが、予想に反して、澄麗が突然言った。「お腹の調子が悪いから、明日病院に行ってくる」と。

その言葉を聞いた瞬間、心太朗の中で何かが弾けた。ケンカなんてしてる場合じゃない、澄麗の体調が心配だ。すぐに、「大丈夫か?どれくらい痛い?明日は絶対に病院に連れて行くからな」と言ったが、澄麗は「大丈夫」と言って、頑なに病院には行かないと言った。何度聞いても病院には行かないと言う。

心太朗はその瞬間に気づいた。澄麗は、仮病を使ったのだ。お腹の調子が悪いと言いながら、どうしても心太朗に構ってもらいたかったのだろう。この時、心太朗は戦いを終わらせるべきだと思った。

彼は、わざと澄麗のお腹を優しくさすりながら言った。「でも、お腹の中の健一が元気でいてくれれば、それが一番だよな」と心の中でつぶやいた。すると、澄麗のお腹の中で、健一がくるりくるりと動き始めた。まるで、「父ちゃんと母ちゃん、仲良くしてよ」と言っているかのように。

その瞬間、心太朗は澄麗の顔を見て、自然と笑顔がこぼれた。澄麗も同じように微笑みながら、心太朗の目を見返した。

そして、二人は何も言わずにしばらくお腹をさすり続けた。今、この瞬間、二人の意地の張り合いはどうでもよくなっていた。お腹の中の健一が元気でいることが、何よりも大切だと思えたからだ。

二人はようやく心から笑い合った。健一が仲裁してくれたおかげで、二人のくだらない意地の張り合いは、すっと終わった。

何よりも大切なことは、澄麗が元気で、健一が無事に生まれてくれることだった。それだけで、もう何もかもがどうでもよくなった。

小さな命が育まれているという事実が、何もかもをシンプルにしてくれる。争うことや意地を張ることが、いかに無意味なことかを教えてくれた。

心太朗は、改めて思った。今はただ、澄麗と健一を守ることが最も大事だと。それが、健一からのメッセージだと、心太朗は心の中で静かに受け入れた。

二人のケンカは、無事に終結したのであった。