**無職67日目(11月6日)**





髪がボサボサの父ちゃん、というのは子供にとってどうだろう?いや、きっと産まれたばかりの息子は何も言わないだろうが、将来その写真を見返して「父ちゃん、ボサボサじゃん!」と笑われる未来が見えた。そこまで先読みして、心太朗は散髪に行くことを決めた。次の月末にはお宮参りも控えているし、なんならここは潔く行っておこうと思ったのだ。



2ヶ月ぶりの散髪。それはただ髪を切る行為じゃなく、心太朗にとって一つの儀式のようなものでもあった。なぜなら、前回髪を切りに行ったのは、退職した次の日だったのだから。



退職する少し前から、心太朗は職場に「変な気」が充満しているのを感じていた。悪口や噂話の飛び交う中で、数人の同僚は鬱の症状に悩んでおり、その相談はほぼすべて店長である彼のもとに集まっていた。50人規模の店舗の中で、少なくとも5人が彼にメンタルの不調を打ち明けてきたのだ。しかも、その相談を受けるときの心太朗の立場は、あくまで「店長」。メンタルヘルスの専門家じゃないんだから、正直「俺じゃ頼りにならないだろうな、、」と思っていたのが本音だった。



それでも「店長だから…」と覚悟を決め、彼は日々メンタルケアに奔走した。仕事が終われば、自分の精神が摩耗しているのを感じることも度々あったが、彼はなんとか彼らのために環境を改善しようとした。だが、人間の文化なんて、そんな簡単に変わるわけがない。いくらルールを厳しくしても、根本は何も変わらない。そして、気づけば彼自身も精神をやられてしまっていた。



退職したその日、心太朗は家に入る前に妻の澄麗にお願いして、塩を自分の体に撒いてもらった。「まるで幽霊退治か?」とツッコミたくなる儀式ではあったが、そのくらいしないとあの店で浴びた「変な気」は落とせない気がしたのだ。職場で使っていた服やカバン、下着もまとめて捨ててしまい、その日の夜は念入りに塩風呂に浸かった。もしこの時点で霊媒師がいたら、「本気だね」と笑われたかもしれない。



そして、次の日には髪を切りに行った。やはり、髪にも「変な気」が染み込んでいると思ったからだ。美容師に「今日はどうされますか?」と聞かれ、心太朗は一瞬「この髪の毛の全部を捨ててほしい」と言いそうになったが、そんなことを口に出したらきっと奇異の目で見られるだろうと必死にこらえた。







あれから、もう二ヶ月。いや、早いもんだ。この二ヶ月、特に何か成し遂げたわけじゃないけど、確かに体も心も変わってきているのを感じる。まず、なんといってもご飯が美味い。前は味もわからないままかきこんでたような食事が、今では一口一口、しみじみと味わえる。



「イライラすることも減ったなぁ…」と、心太朗は気付く。退職前は毎朝、目覚めるたびに「今日も戦場か…」なんて気分で通勤していたのが嘘みたいだ。さらには、白髪まで減ってるし、肌もツヤが出てきた。これには少し驚いたが、「いやいや、さすがに無職になってアンチエイジング効果まで出るってどんな魔法?」と一人で笑ってしまう。



退職後しばらくは、昼間の眠気と格闘してた。毎日昼寝してしまい、夜は全く眠れない現象が続いてたが、ここ最近はそれも落ち着いてきた。なんというか、体の奥底からじわじわと、健康を取り戻している実感が湧いてくる。「これが本来の俺の姿か?」と少し自信が戻りかけるも、すぐに「いや、単なる無職のおっさんだけどな」と我に返る自虐モードが発動する。



そして、また髪を切りに行く日がやってきた。あの「変な気」も、これでそろそろ消えてくれるだろうか?もし今回でスッキリ浄化されるなら、晴れて生まれ変わった新・心太朗の誕生かもしれない。そんな期待を胸に、美容室へ向かう足取りも軽い。



今回、心太朗は意を決して、担当の美容師に仕事を辞めたことを告げた。言うまでちょっと緊張したが、美容師は意外にも興奮気味に「素敵ですね!」と応援してくれた。…いやいや、社交辞令だろうけど、それでも否定されるよりは100倍マシだ。「何もしてない無職です」って言って「うわぁ…」なんて引かれるのを想像してただけに、この反応には少しホッとする。



さらに、話の流れで「今、小説でも書いてみようかと思ってまして…」と打ち明けると、これまた「すごい!応援してます!」と激励される。これもおそらくサービストークなんだろうけど、まんざらでもない自分がいるのが不思議だ。「無職のくせに、気分だけは作家気取りかよ」とまたツッコみながらも、なんだか少し前向きな気分になってくる。



話題は自然と、これから生まれてくる子供の話へと移った。美容師も子供がいるらしく、父親になった実感なんて最初はなかったと言う。心太朗も、「俺もまだ父親の実感なんて全然湧かないんですけどね…」と笑いながら話すが、ふと、自分がこんなふうに子育ての話をする日が来るとは思わなかった。



美容師と盛り上がるうちに、少しずつ「父親になるんだな…」という実感がわいてくる。次にここに来る時は、もう父親としての自分がいるのかもしれない、と思うと、心の中でちょっとだけ緊張する。



最後に「お宮参りの前にまた来ます!」と美容師に伝えて店を出た。次に来る時の心太朗の髪は、今度こそ「幸せの気」でいっぱいになっていてほしい。そう、今度こそ「変な気」とはさよならだ。