**無職65日目(11月4日)**

心太朗は毎日10時に起きる。彼曰く「10時起きが一番体に合っている」とのことだ。どうやら「早起きは三文の得」なんて言葉は彼の辞書には存在しないらしい。そう、8時間ぐっすり眠って、昼寝も不要という絶妙なバランスを保っている。朝型人間には「怠け者」なんて思われるかもしれないが、心太朗にとってはこれが「健康法」なのだと、彼は至って真面目に信じている。

さて、目覚めた後はボケーっとテレビを見つつ、ようやく「そろそろ動こうかな」と意識が芽生える。そんな彼の計画に割り込むかのように、妻の澄麗が「私も一緒に行きたい」と言い出した。どうやら出産に備えて運動量を増やす必要があるらしい。出産の本を読んでモチベーションも高まっている澄麗に、「まあ、付き合ってやるか」と心太朗はふわっと答え、二人で神社へ向かうことになった。

神社に到着すると、そこは想像以上に賑やかだった。境内では七五三で盛り上がっており、綺麗に着飾った子供たちと親たちでいっぱいだ。そんな光景に、心太朗はつい心の中で呟く。「女の子は着物を着て、おしとやかに見えるのに、男の子はどんなに正装しても結局はしゃぎ回ってるのは何でだろうな…」精神的な成長の違いを感じつつも、心太朗は将来生まれてくる健一が同じようにわんぱくに跳ね回る姿を想像して、思わず澄麗と顔を見合わせて笑った。

その後、図書館へ足を運ぶ。心太朗は読みたかった本を予約していたのだが、残念ながらまだ入荷していなかった。期待していた分、少しがっかりしながらも澄麗だけが本を2冊借りる。彼女はまたしても出産や育児の本だ。どうやら彼女の勉強熱心さは心太朗の睡眠重視と同じくらいの「信念」らしい。

澄麗を家に送り届けた後、心太朗はひとりでチョコザップへ向かう。怠け者の極みのような彼だが、意外にもジムでは真剣に汗を流している。チェストプレス、ラットプルダウン、レッグプレスをそれぞれ15回3セットこなし、ランニングマシンで20分走るのが彼の「最近の定番メニュー」だという。「これだけやれば十分だろう」と自分に言い聞かせながら、心太朗は満足げにジムを後にした。

家に帰り、X(旧Twitter)を確認すると、フォロワーが「昼から家事しながらお酒を呑んでいる」投稿をしているのを見かける。これに触発されて、心太朗もつい「ハイボール一杯だけ」と言い訳しながら手を伸ばす。ところが、一杯飲むだけで気分が少し沈んできて、改めて自分が「呑まない派」だと実感する。結局、普段飲み慣れないせいか、ほんの一杯で妙に眠くなってしまった。

その後、心太朗は、先日もらったマグロの柵を目の前に、しばし手を止めた。妊娠中の澄麗がナマモノを控えているため、刺身は自分だけのお楽しみだ。元料理人として、ここは腕を見せるところ――だったはずなのだが。

彼は久々に包丁を取り出してマグロを捌き始めた。以前なら軽々とできたはずの作業が、今日はどうにもぎこちない。握りも感覚も鈍っていて、包丁さばきがぎこちない。「おかしいな…毎日魚を捌いていたのに」と嘆きつつ、心太朗は苦笑する。そもそも「そんなに技術あったっけ?」というツッコミが自分の中で湧いてくるが、今更それを認めるわけにもいかない。しかし、かつて仕事では感じなかった「楽しい」という気持ちがあることに気づき、ふと頬が緩む。

「技術の衰え」よりも深刻なのは、退職してから、心太朗はふとした時に「体の衰え」というものを実感するようになった。散歩やチョコザップで多少の運動はしているものの、13時間も働きづめだった頃に比べればその運動量は微々たるもの。Apple Watchを見ると、ここ数ヶ月で心肺機能が徐々に衰えてきたことがはっきりと数字で示されていた。「これじゃあ、過労死の心配はなくなっても衰え死しそうだな」と、彼は苦笑しつつも焦りを感じ始めた。

そんな中、心太朗は「一日中立ちっぱなし大作戦」を思いついた。元々、長時間立ち仕事には慣れていたし、「13時間立ちっぱなしなんて余裕だろう」と軽く考えていたのだが、現実は厳しかった。4、5時間経つと足が痛い、腰が痛い。以前なら痛みを感じなかった箇所が悲鳴を上げ、心太朗は「もう、座りたい…」と何度も思った。それでも意地で立ち続け、ついに12時間以上立つことに成功した。

その日の夜、心太朗は充実感と心地よい疲労に包まれていた。「立ちっぱなしって退屈だし辛いけど、だからこそやる気が湧いてくるのかもな」と独り言をもらし、しみじみと立ち作業の効果を実感する。普段ならソファに座ってスマホやテレビを長時間見てしまい、自己嫌悪に陥るのが常だ。しかし立っていると、座るのが許されないからこそ「何かやらないと!」と掃除や外出のモチベーションが湧くのだ。そうして、今日はまるで一日が濃厚なストーリーのように充実して過ぎていった。

そして待ちに待った、座っても良い時間。心太朗はようやく椅子に腰を落ち着け、久しぶりに自分で捌いたマグロの刺身を口に運ぶ。澄麗が作ってくれた温かい料理とともに、彼はじっくり味わった。「やっぱり座って食べるとおいしいな」と、小さな幸福に包まれながら、心太朗の夜は静かに更けていった。