**無職30日目(9月30日)**

午前6時、心太朗の朝は爽やか…と言いたいところだが、最悪だった。昨夜の祭りの興奮のせいか、一睡もできなかったのだ。布団の中で「もう一生このまま過ごそうか」と思うも、さすがにそうはいかず、ようやく重い体を起こした。

ふと気づくと、左耳に違和感があった。明らかに聞こえにくく、何かが詰まっているような感覚だった。ソファに座ると、妻の澄麗が左側から話しかけてくるが、何を言っているのかよくわからない。

「もしかして、突発性難聴か?」と心太朗は焦った。生活習慣やストレスが原因と聞いたことはあったが、退職してからというもの、ストレスはゼロ。生活習慣も悪くないどころか、むしろ良すぎるくらい暇を持て余していた。病気はそういう油断して襲ってくるものだと、心太朗は考える。

朝のシャワーを浴びると、水音が耳に響き、やはり詰まりは取れなかった。大病かもしれないという不安が頭をよぎる。シャワーを終えた後、澄麗に相談すると、彼女は病院に行くことを勧めてきた。しかし、心太朗は病院嫌いで、「行かない!」と即答。数年前、42度の高熱で死にかけたときも、ポカリスエットを大量に飲んで自力で治したのだ。ポカリスエットは彼の戦友だった。

澄麗は「大したことないかどうか調べるためだよ!」と説得したが、心太朗が病院嫌いなのは、大したことがあった場合の恐怖からだった。それでも澄麗の押しに負け、結局、病院に行くことになった。耳鼻科を調べると、家から2、3分のところに評判のいい名医がいるという。ただし、「子供を優先するから大人は後回しにされる」という悪い口コミもあったが、もはや心太朗には選択肢がなかった。

病院に着くと、待合室には子供たちがたくさんいた。ここで一生待たされるかもしれないという予感がしたが、意外にもすぐに呼ばれた。悪い口コミは何だったのだろうと不思議に思いつつ、診察室へと入った。

医師は心太朗の耳を一目見るなり、「耳垢が詰まっているかもしれませんね」と言った。耳垢!?心太朗は突発性難聴や脳の病気を覚悟していたというのに、拍子抜けした。しかし、医師が耳をライトで照らすと、「かなり奥に詰まっていますね」とのこと。ここまで詰まっていれば、そりゃあ聞こえないはずだと言う。

それでも心太朗は安心できなかった。耳垢を取っても聞こえないかもしれない、という不安が頭をよぎった。医師が耳垢を吸い取ろうとするが、詰まりが頑固で動かない。心太朗は、まさか耳垢の粘り強さまで遺伝しているのかと、半ば諦めの気持ちを抱き始めた。

医師は耳垢を柔らかくする薬を投与し、5分待つことになった。それでも取れず、再び薬を入れられる。何度か繰り返した末に、ようやく耳垢が取れ始めた。医師は取れた耳垢を誇らしげに見せ、「こんなに大きい耳垢は見たことがない!」と自慢げだったが、心太朗にとっては嬉しくも何ともなかった。

しかし、その瞬間、左耳がクリアに聞こえるようになった。耳垢が原因だったのだ。医師に感謝し、会計を済ませて帰宅すると、澄麗は「ほら、大したことなかったでしょ?」と微笑んだ。彼女の優しい声が、いつもよりも鮮明に響いた。

ただ、長年聞こえにくかった左耳が急に復活したせいで、右耳とのバランスが崩れてしまった。少し違和感が残るものの、心太朗は「まあ、そのうち慣れるだろう」と自分に言い聞かせながら、再び日常に戻っていった。