事故の影響なのだろうか。普通であれば「ふざけるな」と怒鳴りたくなるようなこの状況においても、感情が乱れることはなかった。むしろ、話を聞けば聞くほど、思考が自分の手から離れていくように頭は冴え、落ち着きを取り戻す。
「詳しく……お伝えいただけますでしょうか?」
「あまり驚かれないのですね……。わかりました。では、今からお伝えすることは身内の方のみにお伝えし、それ以外の方には決してお話しにならないとお約束いただくため、こちらにご署名をいただけますか?」
真一は静かに頷くと、手渡された書面に震える手でサインをする。時間にして、ほんの数秒だというのに、サインを終えた手のひらには、じんわりと汗が滲んでいた。
「ありがとうございます。それでは、今からお伝えする情報は国家機密であることを前提にお聞きください」
白石の目に力が宿っていく。
「単刀直入に申し上げると、我々は〝死んだ人に会える薬〟を開発いたしました。これまでの臨床結果がこちらです」
差し出された書類には、そのにわかには信じがたい薬の臨床結果が事細かに記載されていた。真一が手元の資料から白石へと視線を戻すと、それに応えるように、白石は話し始める。
「この国が人々の夢や想像、妄想といった、実際には目にすることのできない、記憶や感情に関する技術に優れていることはご存知ですね? さらに、それらの思考を映像として残すことができることも」
「ええ。夢の内容を録画できるようになってから、もう随分と経ちますからね」
「そうです。夢の場合は脳の海馬に刺激を与えることでこれを実現しましたが、我々は更にその先、より古い記憶を呼び起こす大脳皮質と呼ばれる場所にも刺激を与えることで、その人の望むところへ、思いを巡らせることを可能にしました」
白石はまるでこれが当たり前とでも言わんばかりに、抑揚のない声で足早に、話しを進めていく。
「結果、僅かでも記憶に残る人物であれば、死後であっても会うことができるようになったのです。もちろん、それは人物以外でも構いません。が、現在の効能では、人物の方がより色濃く映し出されることがわかっています。おそらく、記憶の中に含まれる感情の部分が強く作用しているものと我々は考えていて、その為、敢えてこの薬を『死んだ人に会える薬』と呼んでいるのです」
真一は機械のように話す白石の感情がどこにあるのか読めなかったが、逆にそれが、この薬に対する自信のようにも思えていた。
「薬を投与している間、私はどのような状態にあるのでしょうか」
「精神と身体を分離させるイメージ……なのですが、簡単に言えば、『睡眠』と同じ状態にあります。ただ、睡眠と異なる点として、強いイメージを持つことで、その状態を保つことが可能です」
「……すみません、仰っている意味がよく意味がわからないのですが――」
白石は淀みなく話を進めていたが、真一の頭は早くもパンク寸前の状態になってきていた。
「具体的には、その時の自分の容姿や服装、手に持った所持品などをそのままに、会いたい人に会うことができるのです。例えば、占部さんが赤い花束を強くイメージして奥様に会いに行けば、その花束を持ったまま、奥様と会うことができます。『生前の奥様に会える』と言うと少し語弊があるかもしれませんが、占部さんの『記憶の中で生きている奥様に会える』という意味に捉えていただければと」
麻沙美が亡くなった事実を受け入れられたわけでも、その事実が消えるわけでもない。しかし、これからも自由に麻沙美と会える希望を抱けることは、まさに夢のような話だった。
一方、青天の霹靂といえる話の中で、真一には一つの疑問が浮かんでいた。
「それが本当ならとても素晴らしい話だとは思います……が、その薬は何故、世間に公表されていないのですか? そんな薬があるのであれば、とっくに世の中に広まっているでしょう?」真一は眉根を寄せて問いかける。
白石は初めて、少し言葉に詰まるような表情を見せた。
やっぱりこんなにも上手い話、あるわけないんだよ――真一が嘆息を漏らすと、白石の目に、再び力が籠り始める。
「理由は二つです。まず一つ目は、この病院に来られた一部の患者様、主に不慮の事故で最愛の方を亡くされた方にしか、この話をしていないからです。この薬はまだまだ大量生産ができる物ではありません。その為、我々と政府の厳重な管理体制の元、一定の基準を超えた方にのみ、このお話しをしております」
白石の言う「一定の基準」という言葉が少し気になったが、真一は黙って次の言葉を待つ。
「そしてもう一つの理由……それは、この薬には大きな代償があるからなのです」
「大きな代償?」真一は首を傾げた。
「はい。それは最愛の方を亡くされたタイミングに、敢えてこの話をしている理由でもあります」
「それで、代償と言うのは?」
中々本題へと移らない白石に、真一は急かすように言葉を被せた。
「本来、薬の力で精神と身体の分離を引き起こすなど、あってはならないことです。双方が機能して初めて、私たちには魂が宿る。これは自然の摂理と言っても良いでしょう。つまり、この薬の効力を言い換えるとするならば、無理やり人智を超えることと同義になる。自ずと代償がそれ相応に大きくなることも……おわかりいただけますね? この薬を投与すると――占部さん、あなたも命を落とします」
感情に任せた言葉をぶつけようとしたが、開いた口が塞がらなかった。その僅かな沈黙が、白石の次の言葉の歩みを許す。
「元々この薬を開発することになったのは、いわゆる『後追い自殺』が後を絶たなかったからです。もちろん、この薬を投与しても命を落とすことに変わりはないので、その点に於いて薬の開発を成功と呼べないのは確かです。しかし、この『後追い自殺』はご自身だけでなく、その身内にまで広がる傾向があります。この薬に関する情報を身内の方にお伝えいただくのはその為です。本人も納得した上で、この方法を選んだということを身内の方にもご理解いただき、少しでも負の連鎖を断ち切りたい――そういう我々の願いが込められているのです」
「先程の『一定の基準』というのも、この辺りが含まれているのですね?」
「その通りです」
真一は天を仰ぎ、目を閉じた。妻が亡くなったことを知った日に、自分の死を促されるような話をされるなど、誰が想像できただろう。文字通り、頭が真っ白になった。
「更に付け加えると、占部さんが薬を使用する決断をした場合、娘さんは政府の管理下に置かれることになります。当然、娘さんにも改めて説明の場を設けますが、我々は占部さんの身の安全を、そして、その決断を尊重した行動を取ります。従って、もし娘さんが占部さんの意思に背く行動を犯した場合、最悪、身柄を拘束させていただきます」
「娘に何をするつもりですか?」
一気に現実へ引き戻された真一は、初めて声を荒げて言った。
「危害を加えることはありません。ただ、占部さんが薬を飲み、そして娘さんが落ち着くまで、こちらで保護をするだけです。それがどれだけの期間になるか、そればかりは、やってみなければわかりませんが」
自分の行動で、彩華に危害が及ぶ可能性がある。それは真一にとって、二つ目の大きな代償とも呼べるものだった。
「薬に関しては、今すぐ飲まなければならないというものではなく、占部さんが決断した日の前日に処方する形になります。突然のお話しで混乱するのも無理ありませんが、このお話しをした以上、薬を使用する意思確認だけは、退院されるまでの間に決めていただければと思います」
「病院の管理下では無くなるタイミング、ということですか……」
「申し訳ありません」白石は力なく頭を下げた。
この短い時間で、滝のように浴びた言葉の雨を思い返す。しかし、記憶が蘇れば蘇るほど、思考はあてなき迷路に迷い込み、すぐに答えが出るはずもなかった。
結局、この日はこれ以上話が進むこともなく、白石は「ゆっくりお考え下さい」とだけ告げて、静かに病室を出て行った。一人残された真一は、これが何度目のため息なのか、自分でもわからなくなっていた。
白石の話を聞いてから数日が経過したが、真一は未だに答えを出せずにいた。
麻沙美に会い、事故について謝罪をしたい。二人きりで話がしたい。また同じ時間を過ごしたい。そう想いを巡らせるたび、白石に言われた「後追い自殺が後を絶たない」という言葉が胸に刺さる。自分のことだけを考えるわけにはいかなかった。
コンコンコン、と扉を優しく叩く音がする。
「お父さん、入るよ?」
ゆっくりと扉が開き、その先には制服姿の彩華が満面の笑みで立っていた。
彩華は真一が目覚めて以来、いつも笑顔を絶やさなかった。まだ十七歳の彩華にとって、母親が突然居なくなってしまうほど辛いことはないというのに、涙の一つ、見せていない。今日の笑顔もあまりにも精巧で、これが作り物なのかどうか、真一にはわからない。
自分がどんなに辛くとも、人の為を想って動く――そんなところまで、本当に彩華は麻沙美にそっくりだった。その姿を見る度、真一の心は何かに鷲掴みされたように苦しくなる。
「おお、彩華。今日学校は?」
「今テスト期間だから、午前中で終わるんだ。それよりどう? 体調は?」
「そんな大事な期間に、わざわざすまないな。体調はとても良いよ」
「何言っているの? テストなんかより、ずっと大切なことじゃない」
そう言って彩華は病室のカーテンを開け、置かれた花瓶の水を手際よく替えてくれた。
「ありがとな……ん? その椅子に置いてある小包は何だい? だいぶ形が崩れているけど」
彩華の鞄の横に、綺麗なラッピングの施された、潰れた小包が置かれていた。彩華は花瓶を机に置くと、思い出したように小包を手に取った。
「危ない。今日はこれを渡しに来たんだった。これね、お母さんの鞄の中に入っていた物みたいで、今朝、警察の人が渡しに来てくれたんだ」
「母さんの?」
「たぶん、お父さん宛の物だと思うから……開けてみたら?」
はい、と彩華から渡されたボロボロになった小包を受け取り、丁寧に開けていく。
中には美しく赤いネクタイと、一枚の手紙が入っていた。
「やっぱりお父さん宛だったね……これ、ラブレターかな? お父さん、読んでよ」
真一は照れくさい気持ちを隠しながら、一文字、一文字に想いを馳せ、読み上げていく。その手紙を読み終わった時、真一は白石から聞いた薬のこと、そして、想いの全てを彩華に打ち明けることを決めた。
真一の想いを知ると、彩華は初めて、大声を出して泣き崩れた――。
――残り一分で、四十回目の記念日を迎える。
「彩華。今まで本当にありがとう。彩華はお母さんみたいな、立派なお母さんになった。きっと天国で、お母さんも喜んでいるだろうな……これからも、元気でな」
真一は彩華からの言葉を待たずに、静かに電話を切った。彩華の顔を思い浮かべながらスマートフォンを置き、ベッドの上に腰掛ける。
枕の横には、あの日、麻沙美に渡すことのできなかったネックレスの入った箱が置かれている。それを抱きしめるように握りしめ、脳裏で笑う麻沙美を呼び出していく。麻沙美の笑顔が真一へと向けられた時、真一は一粒の薬を、飲み込んだ。
あの時のように、次第と意識が遠のいていく。しかし、今ははっきり、自分の声が聞こえている。触れた手に、確かな温もりを感じている。
その温もりに包まれながら、真一は深い眠りに落ちたのだった――。
『真一へ。今日で結婚二十周年だね。まさか真一と結婚して、こうして二十回目の記念日を迎えられるなんて、当時は思ってもいなかったよ。私と結婚してくれて、本当にありがとう。いつもいつも、素敵な笑顔を、温かい時間をありがとう。真一と彩華は私の宝物です。これからもよろしくね。この記念すべき日に、私からはこのネクタイを贈ります。真一は覚えているかな? 二十回目の記念日は、お互いが定年の歳に身に付ける物をプレゼントしようねって言っていたのを。真一が定年を迎えた日……そう。私たちの四十回目の記念日にはこのネクタイをして、その長い社会人人生を華やかに彩って。その誇らしい姿を私に見せて』
『これは私からの、未来へのプレゼントです』
「詳しく……お伝えいただけますでしょうか?」
「あまり驚かれないのですね……。わかりました。では、今からお伝えすることは身内の方のみにお伝えし、それ以外の方には決してお話しにならないとお約束いただくため、こちらにご署名をいただけますか?」
真一は静かに頷くと、手渡された書面に震える手でサインをする。時間にして、ほんの数秒だというのに、サインを終えた手のひらには、じんわりと汗が滲んでいた。
「ありがとうございます。それでは、今からお伝えする情報は国家機密であることを前提にお聞きください」
白石の目に力が宿っていく。
「単刀直入に申し上げると、我々は〝死んだ人に会える薬〟を開発いたしました。これまでの臨床結果がこちらです」
差し出された書類には、そのにわかには信じがたい薬の臨床結果が事細かに記載されていた。真一が手元の資料から白石へと視線を戻すと、それに応えるように、白石は話し始める。
「この国が人々の夢や想像、妄想といった、実際には目にすることのできない、記憶や感情に関する技術に優れていることはご存知ですね? さらに、それらの思考を映像として残すことができることも」
「ええ。夢の内容を録画できるようになってから、もう随分と経ちますからね」
「そうです。夢の場合は脳の海馬に刺激を与えることでこれを実現しましたが、我々は更にその先、より古い記憶を呼び起こす大脳皮質と呼ばれる場所にも刺激を与えることで、その人の望むところへ、思いを巡らせることを可能にしました」
白石はまるでこれが当たり前とでも言わんばかりに、抑揚のない声で足早に、話しを進めていく。
「結果、僅かでも記憶に残る人物であれば、死後であっても会うことができるようになったのです。もちろん、それは人物以外でも構いません。が、現在の効能では、人物の方がより色濃く映し出されることがわかっています。おそらく、記憶の中に含まれる感情の部分が強く作用しているものと我々は考えていて、その為、敢えてこの薬を『死んだ人に会える薬』と呼んでいるのです」
真一は機械のように話す白石の感情がどこにあるのか読めなかったが、逆にそれが、この薬に対する自信のようにも思えていた。
「薬を投与している間、私はどのような状態にあるのでしょうか」
「精神と身体を分離させるイメージ……なのですが、簡単に言えば、『睡眠』と同じ状態にあります。ただ、睡眠と異なる点として、強いイメージを持つことで、その状態を保つことが可能です」
「……すみません、仰っている意味がよく意味がわからないのですが――」
白石は淀みなく話を進めていたが、真一の頭は早くもパンク寸前の状態になってきていた。
「具体的には、その時の自分の容姿や服装、手に持った所持品などをそのままに、会いたい人に会うことができるのです。例えば、占部さんが赤い花束を強くイメージして奥様に会いに行けば、その花束を持ったまま、奥様と会うことができます。『生前の奥様に会える』と言うと少し語弊があるかもしれませんが、占部さんの『記憶の中で生きている奥様に会える』という意味に捉えていただければと」
麻沙美が亡くなった事実を受け入れられたわけでも、その事実が消えるわけでもない。しかし、これからも自由に麻沙美と会える希望を抱けることは、まさに夢のような話だった。
一方、青天の霹靂といえる話の中で、真一には一つの疑問が浮かんでいた。
「それが本当ならとても素晴らしい話だとは思います……が、その薬は何故、世間に公表されていないのですか? そんな薬があるのであれば、とっくに世の中に広まっているでしょう?」真一は眉根を寄せて問いかける。
白石は初めて、少し言葉に詰まるような表情を見せた。
やっぱりこんなにも上手い話、あるわけないんだよ――真一が嘆息を漏らすと、白石の目に、再び力が籠り始める。
「理由は二つです。まず一つ目は、この病院に来られた一部の患者様、主に不慮の事故で最愛の方を亡くされた方にしか、この話をしていないからです。この薬はまだまだ大量生産ができる物ではありません。その為、我々と政府の厳重な管理体制の元、一定の基準を超えた方にのみ、このお話しをしております」
白石の言う「一定の基準」という言葉が少し気になったが、真一は黙って次の言葉を待つ。
「そしてもう一つの理由……それは、この薬には大きな代償があるからなのです」
「大きな代償?」真一は首を傾げた。
「はい。それは最愛の方を亡くされたタイミングに、敢えてこの話をしている理由でもあります」
「それで、代償と言うのは?」
中々本題へと移らない白石に、真一は急かすように言葉を被せた。
「本来、薬の力で精神と身体の分離を引き起こすなど、あってはならないことです。双方が機能して初めて、私たちには魂が宿る。これは自然の摂理と言っても良いでしょう。つまり、この薬の効力を言い換えるとするならば、無理やり人智を超えることと同義になる。自ずと代償がそれ相応に大きくなることも……おわかりいただけますね? この薬を投与すると――占部さん、あなたも命を落とします」
感情に任せた言葉をぶつけようとしたが、開いた口が塞がらなかった。その僅かな沈黙が、白石の次の言葉の歩みを許す。
「元々この薬を開発することになったのは、いわゆる『後追い自殺』が後を絶たなかったからです。もちろん、この薬を投与しても命を落とすことに変わりはないので、その点に於いて薬の開発を成功と呼べないのは確かです。しかし、この『後追い自殺』はご自身だけでなく、その身内にまで広がる傾向があります。この薬に関する情報を身内の方にお伝えいただくのはその為です。本人も納得した上で、この方法を選んだということを身内の方にもご理解いただき、少しでも負の連鎖を断ち切りたい――そういう我々の願いが込められているのです」
「先程の『一定の基準』というのも、この辺りが含まれているのですね?」
「その通りです」
真一は天を仰ぎ、目を閉じた。妻が亡くなったことを知った日に、自分の死を促されるような話をされるなど、誰が想像できただろう。文字通り、頭が真っ白になった。
「更に付け加えると、占部さんが薬を使用する決断をした場合、娘さんは政府の管理下に置かれることになります。当然、娘さんにも改めて説明の場を設けますが、我々は占部さんの身の安全を、そして、その決断を尊重した行動を取ります。従って、もし娘さんが占部さんの意思に背く行動を犯した場合、最悪、身柄を拘束させていただきます」
「娘に何をするつもりですか?」
一気に現実へ引き戻された真一は、初めて声を荒げて言った。
「危害を加えることはありません。ただ、占部さんが薬を飲み、そして娘さんが落ち着くまで、こちらで保護をするだけです。それがどれだけの期間になるか、そればかりは、やってみなければわかりませんが」
自分の行動で、彩華に危害が及ぶ可能性がある。それは真一にとって、二つ目の大きな代償とも呼べるものだった。
「薬に関しては、今すぐ飲まなければならないというものではなく、占部さんが決断した日の前日に処方する形になります。突然のお話しで混乱するのも無理ありませんが、このお話しをした以上、薬を使用する意思確認だけは、退院されるまでの間に決めていただければと思います」
「病院の管理下では無くなるタイミング、ということですか……」
「申し訳ありません」白石は力なく頭を下げた。
この短い時間で、滝のように浴びた言葉の雨を思い返す。しかし、記憶が蘇れば蘇るほど、思考はあてなき迷路に迷い込み、すぐに答えが出るはずもなかった。
結局、この日はこれ以上話が進むこともなく、白石は「ゆっくりお考え下さい」とだけ告げて、静かに病室を出て行った。一人残された真一は、これが何度目のため息なのか、自分でもわからなくなっていた。
白石の話を聞いてから数日が経過したが、真一は未だに答えを出せずにいた。
麻沙美に会い、事故について謝罪をしたい。二人きりで話がしたい。また同じ時間を過ごしたい。そう想いを巡らせるたび、白石に言われた「後追い自殺が後を絶たない」という言葉が胸に刺さる。自分のことだけを考えるわけにはいかなかった。
コンコンコン、と扉を優しく叩く音がする。
「お父さん、入るよ?」
ゆっくりと扉が開き、その先には制服姿の彩華が満面の笑みで立っていた。
彩華は真一が目覚めて以来、いつも笑顔を絶やさなかった。まだ十七歳の彩華にとって、母親が突然居なくなってしまうほど辛いことはないというのに、涙の一つ、見せていない。今日の笑顔もあまりにも精巧で、これが作り物なのかどうか、真一にはわからない。
自分がどんなに辛くとも、人の為を想って動く――そんなところまで、本当に彩華は麻沙美にそっくりだった。その姿を見る度、真一の心は何かに鷲掴みされたように苦しくなる。
「おお、彩華。今日学校は?」
「今テスト期間だから、午前中で終わるんだ。それよりどう? 体調は?」
「そんな大事な期間に、わざわざすまないな。体調はとても良いよ」
「何言っているの? テストなんかより、ずっと大切なことじゃない」
そう言って彩華は病室のカーテンを開け、置かれた花瓶の水を手際よく替えてくれた。
「ありがとな……ん? その椅子に置いてある小包は何だい? だいぶ形が崩れているけど」
彩華の鞄の横に、綺麗なラッピングの施された、潰れた小包が置かれていた。彩華は花瓶を机に置くと、思い出したように小包を手に取った。
「危ない。今日はこれを渡しに来たんだった。これね、お母さんの鞄の中に入っていた物みたいで、今朝、警察の人が渡しに来てくれたんだ」
「母さんの?」
「たぶん、お父さん宛の物だと思うから……開けてみたら?」
はい、と彩華から渡されたボロボロになった小包を受け取り、丁寧に開けていく。
中には美しく赤いネクタイと、一枚の手紙が入っていた。
「やっぱりお父さん宛だったね……これ、ラブレターかな? お父さん、読んでよ」
真一は照れくさい気持ちを隠しながら、一文字、一文字に想いを馳せ、読み上げていく。その手紙を読み終わった時、真一は白石から聞いた薬のこと、そして、想いの全てを彩華に打ち明けることを決めた。
真一の想いを知ると、彩華は初めて、大声を出して泣き崩れた――。
――残り一分で、四十回目の記念日を迎える。
「彩華。今まで本当にありがとう。彩華はお母さんみたいな、立派なお母さんになった。きっと天国で、お母さんも喜んでいるだろうな……これからも、元気でな」
真一は彩華からの言葉を待たずに、静かに電話を切った。彩華の顔を思い浮かべながらスマートフォンを置き、ベッドの上に腰掛ける。
枕の横には、あの日、麻沙美に渡すことのできなかったネックレスの入った箱が置かれている。それを抱きしめるように握りしめ、脳裏で笑う麻沙美を呼び出していく。麻沙美の笑顔が真一へと向けられた時、真一は一粒の薬を、飲み込んだ。
あの時のように、次第と意識が遠のいていく。しかし、今ははっきり、自分の声が聞こえている。触れた手に、確かな温もりを感じている。
その温もりに包まれながら、真一は深い眠りに落ちたのだった――。
『真一へ。今日で結婚二十周年だね。まさか真一と結婚して、こうして二十回目の記念日を迎えられるなんて、当時は思ってもいなかったよ。私と結婚してくれて、本当にありがとう。いつもいつも、素敵な笑顔を、温かい時間をありがとう。真一と彩華は私の宝物です。これからもよろしくね。この記念すべき日に、私からはこのネクタイを贈ります。真一は覚えているかな? 二十回目の記念日は、お互いが定年の歳に身に付ける物をプレゼントしようねって言っていたのを。真一が定年を迎えた日……そう。私たちの四十回目の記念日にはこのネクタイをして、その長い社会人人生を華やかに彩って。その誇らしい姿を私に見せて』
『これは私からの、未来へのプレゼントです』