午後1時50分。
体調が落ち着いたからと立ち上がった空と一緒に、とりあえず駅に向かって歩いている。
「買い物?」
「そう。この辺で買い物できる場所ある?」
電車で5駅ほど行けば、以前学校帰りに彩葉と心春と遊びに行ったショッピングモールがある。そう伝えると、空はそこに行きたいと言った。
「なにか買いたいものがあるの?」
「うん。今年はまだ渡してないだろ」
「え? あっ」
なんの話かと首をかしげて、すぐに思い当たった。
きっと恒例の〝エイプリルフールのお詫び〟だ。
「なにがいい?」
「えっ! リクエスト制なの?」
「今年は特別。買い物デートだから」
ドヤ顔で笑う空は、つい数十分前に倒れたとは思えないくらい顔色は悪くない。
病気のことは詳しくはわからないけれど、彼の言う通り、少し休んだら体調は戻ったみたいだ。
何度も経験していると言っていたけれど、あんなふうに苦しくなるなんて、どれだけの恐怖や不安と戦っているんだろう。
私には知り得ないけれど、空にとって今日が少しでもリラックスできる時間になるといいなと思う。
改札を入り、再び電車に揺られる。やっぱりこの時間も人は少なくて、空と並んで座れた。
窓の外の景色を眺めながら、ぼんやりと考える。
――――彼女役を引き受けたけれど、これまでとなにが違うんだろう?
恋人同士がこうしてふたりで出掛けたりご飯を食べたりすれば、それはたぶんデートと呼ばれるものだ。
けれど私と空にとって、それじゃ今までとなにも変わらない。これまでだって、ふたりで同じように過ごしていた。
関係性が恋人同士に変わり、『デート』という名前がついただけな気がする。
空はずっと私を好きだったと言ってくれた。
だから変に可愛い女子を演じたり、そういうのはいらないとは思う。
だけど、『彼女ができたらしてみたいこと』や『行ってみたい場所』はあるんじゃないのかな。だからこそ、私に告白して関係性を変えたいと思ったんじゃないのかな。
今日のこの買い物デートは、空のやりたいことにマッチするだろうか。たしかに、こういう大きなショッピングモールにふたりきりで来るのは初めてかもしれない。
空にとって『最初で最後の恋』ということは、私が『最初で最後の彼女』ということ。それは舞い上がるほど嬉しくて、心臓が引き攣れるほど痛くて、途方に暮れるほどに切ない。それに、今さらながらにプレッシャーを感じる。
どうしよう。これまで彼氏がいたことがないから、彼女としてなにをするべきなのか、デートの正解がわからない。
そんなことを考えていたら、あっという間に目的の駅に着いた。
改札を抜けたらそのままショッピングモールに直結していて、目の前にはチェーン店のカフェがある。その奥にはトイレと、三人がけのソファがふたつ並んでいる。
いつもは見逃していたけれど、今後はどこに座れる場所があるかを覚えておいた方がいいかもしれない。
しっかり記憶に焼き付けて歩きだすと、空が片手を差し出してくる。
「ん」
「へ?」
「手」
「手?」
ふたりして単音だけのやりとりが続く。
空はぽかんと固まった私の右手を取ると、指を絡ませてぎゅっと握った。いわゆる恋人繋ぎというやつだ。
「えっ!」
子供の頃は何度も手を繋いだことがあるけれど、それは相手を引っ張る目的しかなかった。手のひらを合わせるだけじゃなくて指まで絡ませると、とんでもなく密着感が増した気がするし、恥ずかしさも5割増しだ。
「なに、やだ?」
「え、や、やだってわけじゃないけど」
「じゃあいいじゃん。デートだし。彼女だし」
「そ、そう……だね?」
曖昧にへらっと笑ってみせたけど、意識は完全に右手にいっている。空の手が熱い。右半身にじんわりと空の体温が伝わってきて、鼓動が大きく脈打っているのがわかる。
これはたしかに〝彼女〟にならないとできないことだ。
いいんだけど。空はいたっていつも通り。なんだか私ばかりドキドキしている気がする。
「あ。美波、見て」
「え?」
空があいている方の手で指さしたのは、柱に貼られた大きなポスター。
もちっとした輪郭のぱんだやうさぎ、ねこなどの愛らしいキャラクターたちが描かれている。
「もちっとフレンズの作者の個展だって」
「えっ!」
「7階催事場か。グッズ販売もあるって書いてあるけど、行ってみる?」
「行きたいっ! いいの?」
「もちろん」
一番近くのエレベーターに乗り込み、早速7階へ向かった。
ハンコ屋さんとマッサージ店の隣に、『手紙記念館』というあまり馴染みのないお店が並んでいる。
郵便や通信技術についての博物館のようなお店らしく、大きな白いポストに『あなたの想い、未来へ届けます』という文字がレトロな字体で書かれていた。
その奥、フロアの中央に催事場がある。
平日のお昼だからそこまで客足は多くないと思っていたけれど、やはり人気のクリエーターの個展ということもあって、それなりに若い女性のお客さんで賑わっていた。
入口の手前で500円の入場料を払うと、ウキウキした気持ちでぱんだが大きく口をあけているパネルをくぐる。
「わぁぁ! ぱんだの口の中に入ってる!」
「何回見てもブサイクなんだよな、こいつ」
「そこが可愛いんじゃん」
中に入ると、ぱんだのおうちやうさぎのカフェ、ねこの愛車であるバイクなど、もちっとフレンズのイラストの世界観が再現されている。
他にもSNSで発表されたイラストの原画や、もちっとフレンズのぬい撮りスポットなどもあり、私のテンションは急上昇。
そんな中でも、私と空の手は繋がれたまま。温かく感じていた空の手はいつしか私の体温と溶け合って、今はふたりとも同じ温度になっている。
ぎゅっと少しだけ力を込めると、同じだけの力で握り返してくる。それを何度も繰り返して、お互いに顔を見合わせて笑った。空をとても近くに感じられて、くすぐったいけど嬉しい。
ただ手を繋いで歩いているだけ。それだけで、とても幸せだった。
今日だけじゃなくて、ずっとこの時が続いてくれたらいい。そして空も同じように感じてくれていたらいい。
叶わないと知りながら、心から願った。
ひとつひとつの作品をじっくり見て回り、最後は奥にある描き下ろしのイラストを使った個展オリジナルグッズの売り場へ向かった。
「か、可愛すぎる……!」
ポストカードやクリアファイル、ステッカーなど手の届きやすいものから、Tシャツやキャップ、靴下などのアパレル品、マグカップや箸といったキッチン用品まで、様々なグッズが所狭しと並んでいる。
中でも一番売り場の面積を占めていたのは、クッションやぬいぐるみなどのファブリック系だった。
もちっとフレンズの名の通り、もちもちとした感触の生地を使ったぬいぐるみはどれもめちゃくちゃ可愛い。ぬいぐるみのエリアに入って10分以上が経過しているけれど、一向に飽きずに眺めていられる。
「はぁ、もうここに住みたい」
「そんな好き? このぱんだ」
「うん。だって可愛いし、癒されるでしょ」
だけど、好きな理由はそれだけじゃない。
「それに、空が初めてくれたのが、このもちっとフレンズのメモ帳だったから」
家族以外で、初めて当日にお祝いをしてもらった8歳の誕生日。
ぶっきらぼうにお詫びと称したプレゼントをくれた空の顔を、私はきっと一生忘れないと思う。
「そうだっけ?」
「そうだよ」
とぼけているけれど、きっと空は覚えているはずだ。あんなに記憶力がいいんだから。
「じゃあ今年も、このブサイクぱんだにするか」
「もちっとぱんだね」
「なにがいい? やっぱりぬいぐるみ?」
「ううん。せっかくなら、なにか空とお揃いのやつがいい」
「……お揃い?」
今年は特別にリクエスト制だと言っていたから、思い切って希望を伝えてみる。
「簡単なやつでいいの。カバンに付けるキーホルダーとか、スマホケースに貼るステッカーとか。今日の記念に、なにか思い出に残るものがほしいなって」
言葉にすると、考えていた以上に恥ずかしいことを言っている気がした。
好きにならないと宣言したはずなのに、思い出に残るものがほしいなんて矛盾してる?
「わかった。いいよ」
だけど空は了承してくれた。
もう一度グッズ売り場をぐるりと回り、あれこれ言いながらふたりで選んだぱんだのキーホルダーを中央のレジへ持っていく。
ラッピングを断り、スタッフの人にタグを切ってもらってそのまま受け取ると、すぐにスクールバッグにつけた。
「すごくかわいい。ありがとう、空」
「うん、誕生日おめでとう」
「ありがと……あれ?」
「なに」
「空に誕生日おめでとうって言われたの、初めてかも」
いつもプレゼントを貰う時は〝お詫び〟としてだったから、空も毎年軽く『はい。これ』みたいなノリだった。でも彼がお祝いのつもりでくれてるのはわかっていたから、特に気にしたこともない。
じっと空を見つめると、彼も自分の分のキーホルダーをショルダーバッグにつけながら言った。
「今日は素直に祝おうと思って」
「なんで? 彼氏だから?」
「そう、彼氏だから。せっかくなら嘘つかずに堂々と祝いたい」
「……」
ふっと会話が途切れる。
からかうつもりで振ったのに、素直に返されて反応ができなかった。
黒目がちな大きな瞳で真っすぐに見つめられたら、私の意思と関係なく胸が高鳴って、鼓動がぐっと速まる。
胸が苦しい。
好きという気持ちがどんどん大きくなるのに、それを吐き出せないせいで、行き場をなくした気持ちが胸の中でぐるぐると渦巻いている。
「……っ、あ、これなんだろう」
棒読みになってしまったけれど、気にしてはいられない。
赤くなっているであろう顔を隠すため、商品を見るフリをして売り場の一角にある棚の前にしゃがみこんだ。
たまたましゃがんだ場所だったけれど、目の前に並べられた可愛らしい商品に目を奪われる。
「わぁ、可愛い。さっきのぬいぐるみにパーカーとかエプロン着せられるんだ」
出口の手前に陳列されていたのは、ぬいぐるみ用の小さな服。これらはぬいぐるみとは別売りで、着せ替えをして楽しめるらしい。
突然話題を変えたから、もしかしたら変に思われているかもしれないと不安だった。けれど空は自然に私の話に相槌をうつ。
「へぇ、着せ替えか。制服シリーズもある」
「え? あ、本当だ。このストライプのシャツ、コンビニの店員さんなんだ。警察官と、これは駅員さん? 野球のユニホームもあるよ」
「はは、球団マスコットみたい。あ、美波はこっちだな」
そう言って空が指さしたのは、お医者さんの白衣。
やっぱり空は、私が小児科の先生になりたいと話したのを覚えていてくれたんだ。
「ちゃんと聴診器もある。芸が細かいな」
彼も私の隣にしゃがみ、商品を手にとって興味深そうに説明書きを読んでいる。
憎たらしいほど整った横顔は、交通公園で将来の夢を語った日と変わらない。
「……なれるかな、私に」
小さな白衣と聴診器を見つめ、誰にともなくぽつりと呟いた。
受験に失敗して以来、不安と焦りが胸にこびりついたまま。
目標を立てて、それに向かって努力をすることに対し、失敗を恐れるあまり怖気づいて行動できないでいた。
『環境も大事だけど、結局一番は自分のやる気と意志だろ』
『環境のせいでなにもできないと思ってるんなら、それは周りのせいじゃなくて美波自身の弱さだよ』
自覚していたつもりだったけれど、他人に指摘されると自分の不甲斐なさがより浮き彫りになる。
受験に失敗した時よりも、自分の弱さを何かのせいにして流されている今の私の方が、ずっとずっとみっともない気がした。
それに、憧れていた職業に怖さを感じるようにもなった。
さっき空が苦しんでいるのを目の当たりにした時、恐怖に竦んでなにもできなかった現実によって、さらに自分の不甲斐なさを実感させられた。
きっと医者という仕事は、普通の人よりも〝死〟というものに近い位置にいる。
純粋に『小さな子のヒーローになりたい』なんて夢みていたけれど、医者だって全部を救えるわけじゃない。
現に目の前にいる空は、お医者さんから余命宣告を受けているんだから。
だからこそ、医者という仕事は憧れだけじゃどうにもならない。強い人じゃないと務まらない。
そう気付いたら、臆病で弱い私には向いていないんじゃないかと思えてくる。
「なれるよ、美波なら」
柔らかくて、それでいて力強い声で空が言った。
「さっき俺が苦しくなった時、手を握ってくれただろ。治療のことを〝手当て〟って言うけど、本当に触れてもらってるだけで気持ちが落ち着くし、どんな薬よりも効く時だってあるんだ。現に今日も、美波のおかげでいつもより早く回復した」
「でも怖くて、どうしたらいいのかわららなくて、手を握る以外なにもできなかった……」
あのくらいでお医者さんになれるんだったら、誰にだって素質があることになる。
「実践的な知識はこれから勉強するんだろ。でも知識とかそういうことじゃなくて、美波の明るさと優しさは患者にとって救いになる。遠足のバスに酔って吐いたやつの面倒見たりとか、捻挫して試合に出られなくなったチームメイトの話を延々と聞いてやったりとか、昔から美波は当然のことをしただけって言うけど、たぶん相手からしたらそうじゃない。辛い時に当たり前みたいに寄り添ってくれる優しい人が近くにいるだけで、救われることってあるから」
空の口から語られるのは、当の本人である私でさえ言われなければ覚えていないようなエピソードばかりだ。
彼の言う通り、私は別に感謝されたくてしていたわけじゃなくて、ただ性格的に放っておけなかっただけ。近くに具合の悪い子がいたら介抱するし、ショックを受けている仲間がいたら話を聞くくらい、いくらでもする。
お節介な性格だけでお医者さんになれるわけじゃないとわかってるけど、私の行動で誰かを少しでも救えていたのなら嬉しい。それに、空がそんな私のことを見ていてくれたのも驚きだ。
「うん……ありがとう。本当に、いろんなことよく覚えてるね」
「記憶力は衰えてないからな。それに、そういう優しくて人に寄り添う力のある美波を好きになった」
突然の思いも寄らない言葉に、私は身体を跳ねさせた。
こういうのにいちいち反応していたら、彼を好きだとバレてしまう。
「……っ、あのさ、さっきから……! 好きにならないでって言うなら、そういうこと言わない方がいいと思うんだけど」
「なんで」
「なんでって……」
『彼氏だから』とか『そういう美波を好きになった』とか、そんな風に言われてドキドキしない人なんていないから。
元々素直に褒めるようなタイプじゃなかったし、ずっと気安い幼なじみの関係だったせいで、よりギャップがあってズルい。
そう言ってやりたいのに、それだと私が彼を好きになってしまったと言っているようなものだから、なにも反論ができない。
「俺は残り少ない時間で素直に気持ちを伝えるって決めたから。美波が頑張って」
「そ……っ」
頑張ってって、そんな勝手な……!
好きな人から真っすぐに好意を伝えられて、平然としてないといけないこっちの身にもなってほしい。
「……ちょっとお手洗い行ってくる」
逃げるのは癪だったけれど、これ以上言い合って墓穴を掘るわけにいかない。
「わかった。ここで待ってる」
可笑しそうに笑う空をひと睨みして、私は一旦冷静になるためにトイレへ向かった。
***
「わぁ、意外と広い」
駅に直結しているショッピングモールは東側が11階、西側は4階までの造りで、西側の5階部分は緑豊かな屋上庭園として開放されている。
もちっとフレンズの個展を見終えて、次はどこに行こうかとブラブラしている時、窓から階下にこの庭園が見えた。
行ってみようと誘われ、休憩がてらやって来た。
芝生広場や色とりどりの花壇の回りを囲むようにいくつもベンチが設置され、広場の端のウッドデッキには、バーベキューを楽しむためのテーブルもある。
このショッピングモールには何度か来ているけれど、屋上庭園に出たのは初めてだ。休日には子供連れの家族で賑わうのだろうけれど、今は私たち以外に誰もいない。
これなら気兼ねなくゆっくりできる。きっと空も疲れているだろうし、ちょうどいい。
「いい天気。風が気持ちいいね」
「あぁ。意外な穴場スポットだな」
たくさんの日差しが降り注ぐこの場所は買い物の合間に休むには最適だ。ここでランチをするのもいいし、モール内で買ったクレープや飲み物を持って休憩するにもちょうどいい。
今度来る時はなにか甘いものを持ってこようと考えて、ハッとした。
私たちに『今度』はないかもしれない。
空は今日は特別だと言っていた。基本は痛みがあって立ち上がれず、こうして外に出たのは久しぶりだと。
あと1年の間に、何度今日のような特別な日があるだろう。
もっと空と過ごしたい。少しでも長く空と一緒にいたい。そのためにできることなら何だってする。
そんな覚悟をしてみたところで、実際に私にできることなんてほとんどないんじゃないかと怖くなる。
進化し続けている医療の力をもってしても、空の命は1年しかもたない。
どうしようもなく絶望し、途方に暮れそうになる自分を叱責して、私は彼の隣で必死に笑う。
きっと、空はそれを望んでいるはずだから。
「今、何時?」
「え? えっと、3時18分」
「そっか。もうそんな時間か……」
近くのベンチに座った空が長い脚を放りだし、首を反らして青空を仰いだ。
私も隣に座り、同じように見上げてみる。
こうしていると、昔一緒に見た綺麗な空を思い出す。
『落ち込むことがあったら、空を見ればいいよ。そうすれば元気になれる』
そう言ってくれた、幼い空。
あの頃は純粋に、ずっと一緒にいられると思っていた。
彼が唐突にいなくなってからは、空を見上げるたびに隣に大切な人がいないと実感して、何度も優しい思い出に胸を抉られた。
あまり考えたくないけれど、きっと1年後にはこれまで以上に辛く悲しい思いをすることになる。
不安で、怖くて、どうしようもない。
けれど今はなるべく考えないようにしよう。心の準備は、これからゆっくりしていくことにする。
それが現実逃避だとわかっているけれど、今の私にできるのは空といられるこの一瞬を大切に生きることだけだから。
「美波」
「……ん?」
「いや、なんでもない」
ふたりで並んで空を見上げたまま、空がそっと私の手を握った。
大きくて、温かい手。
私はその手を握り返した。
『その時は、俺が隣にいるよ』
私が一番辛い時、きっとこの約束は果たされない。
でも私は、このぬくもりを覚えておける。
この先、どんな落ち込むようなことがあっても大丈夫なように、この1年でたくさんの思い出を作っていこう。
その思い出たちが、きっと私を支えてくれる。
だから大丈夫。大丈夫。
自分に言い聞かせるように、何度も心の中で呪文のように唱えた。
「ねぇ、聞いてもいい?」
「なに?」
「他にどんなことがあるの? その……やりたいこと」
死ぬまでに、とは口にできなかった。
でも限られた時間の中で、どれだけ彼の望みを叶えられるかはわからないんだから、きちんと聞いておかなくてはと思った。
「もうできたよ」
「え?」
「言っただろ。やりたいことを考えた時、美波の顔が浮かんだって。美波に会えたし、笑った顔も見れた。それに、ほら」
言葉を切ると、空は繋いだ手を掲げてみせた。
自惚れじゃなければ……きっと私と恋人になれたと言いたいんだろう。
「そう、だけど……他にもあるでしょ?」
「ないよ」
あっさりと言う空に絶句する。
「言っとくけど、別に絶望して『ない』って言ってるわけじゃないから。もうほとんど叶えたって意味。それも、美波のおかげで」
「私……?」
「小5になる直前だったかな。俺が『大人になれないかもしれない』って話したの、覚えてる?」
今日はやけに思い出話が多い。
私は空みたいに記憶力がよくないから、必死に頭の引き出しを開けて、遠い過去の思い出を引っ張り出す。
あれはたしか、私の10歳の誕生日。
『俺、もしかしたら大人になれないかも』
私の部屋に遊びに来て早々そんな発言をした空を見て、〝今年の嘘はこれか〟と思った。
『わかった! 大魔王から大人になれない呪いをかけられた、とか言い出すんでしょう!』
2年前は〝宇宙船〟に騙され、去年は〝心の綺麗な人にしか見えない消しゴム〟に騙された。今年こそは騙されないぞと意気込む私に、空はなぜか少しの間呆けた顔をしていたけれど、すぐに真剣な顔をして尋ねてきた。
『……美波なら、どうする? そんな呪いをかけられたら』
『えぇ? 大人になれないって、ずっと子供ってこと?』
『いや。大人になる前に死ぬってこと。美波は今日で10歳だから、10年以内に高確率で死ぬっていう呪い』
『私、そんな呪いかけられるほど悪いことしてないよ』
『……俺だってしてないよ』
ぼそっと呟いた空の悲痛な声は、当時の私の耳には届かなかった。
『いいから。考えて』
『えぇー? そうだなぁ。それなら、大人になる前に自分がやりたいこと全部やりきっちゃうかな。そしたら勝ちじゃん』
『……どういうこと?』
『本当なら、きっとあと80年くらい生きられるわけでしょ? その間にのんびりやろうとしてたことを、あと10年で全部やるの。食べたいもの全部食べたり、行きたい場所に行ったり。仕事とか結婚は難しいかもしれないけど、アルバイトなら高校生でもできるでしょ? こ、恋だってできるし』
『うん』
『長く生きてたって苦しいことばかりじゃ楽しくないでしょ? 反対に、短い人生だってめちゃくちゃ楽しければ、大魔王も呪いをかけた甲斐がないってへこむと思うの。だから、楽しんじゃえばこっちの勝ち』
――……なんとなく、そんな感じの話をした記憶はある。でも、それがどう繋がるんだろう。
「あれさ、別に嘘をつこうと思って言ったわけじゃなかったんだ。ちょうど手術後の定期検診の日で、再発についての話を聞いてきたばっかりだったから、柄にもなくビビっててさ」
「えっ……」
「そしたら美波が勝手に大魔王の呪いっていう嘘だと思い込んで、短くても楽しんだ者勝ちだってドヤ顔したんだよ」
「そっ……、えぇ……?」
だって、その話をしたのは4月1日だったよね?
そのあと、ちゃんと〝お詫び〟だってプレゼントを貰った記憶がある。
10歳の時は、たしか目覚まし時計。
朝が弱い私のために、めちゃくちゃ大音量のベルがついた時計をくれたはずだ。
情報を整理しきれずにパニックになる私を見て、空がおかしそうに笑った。
「ほんとは別の嘘をつく予定だったのに、予定が狂った。まさに狼少年の気分だったよ」
「ごめん、私……空の話も聞かないで、勝手に……」
10歳の空は私に弱音を吐こうとしてくれていたかもしれないのに、彼からその機会を奪ってしまっていたなんて。
早合点した当時の自分を叱りつけたい気分だ。
「いや。それも負けず嫌いの美波らしくて笑えたし。それに、あの時覚悟が決まった。病気が完治しようと、万が一再発しようと、死ぬ時に〝幸せだった〟って思える生き方をしようって。たぶん〝勝ち〟ってそういうことだと思うから。だから勉強も習い事も真剣に努力したし、野球も本気で甲子園目指してた。結果的に高校には行けなかったけど、できる限りの努力はしたから後悔はない」
後悔はないと、そう言い切った空の表情に嘘は欠片もない。繋いだ手にぎゅっと力が込められる。
「抗がん剤をやめて体調が安定した時に好きなものを腹いっぱい食べたし、家族で旅行もした。先に死ぬなんて親不孝の最たるものだから、少しでも一緒の時間を過ごしたかった」
「そうなんだ。空のおじさんとおばさんも、絶対嬉しかったよ」
ふたりが空のことを親不孝なんて思うはずがない。少しでも一緒に過ごしたいという空の思いは、きっと届いてる。
私がそう言うと、彼は嬉しそうに頷く。それと同時に、ふと小さな違和感を覚えた。
なんだろう。今、なにかが引っかかった気がしたんだけど……。
「だからあとは、心残りは美波だけ」
「私……?」
空の大きな手が私の頬に伸びてきたせいで、その違和感の正体はわからないまま頭の隅に追いやられてしまった。
「本当は、4月1日当日に来られたらベストだったんだけど。遅くなってごめん」
「ううん。だって今日が4月1日ってことにしたでしょ? 空の日だっけ」
「ははっ、我ながら安直だったな。でも美波がその嘘にのってくれたおかげで、心残りは全部解消した」
あ、と思った時には空の顔が目の前にあって、次の瞬間には私たちの唇が重なっていた。
少しカサついた柔らかい感触が、ぱちぱちと瞬きをしているうちに離れていく。
「今……キス、した?」
「うん」
「うんって……勝手に」
「予告した方がよかった? じゃあ、もう1回するから」
「えっ」
予告されたところで、そんな短時間に心の準備なんてできない。
再び重ねられた唇はさっきよりも長く触れたまま。
時間にしたら、たった数秒。でも私にとっては時が止まったみたいに長くて、ドキドキする愛おしい時間で、だからこそ胸が苦しくなる。
「……あの約束さ」
「え?」
唇が離れても、まだ顔と顔が近い。
おでこで体温を測っているみたいな距離感のまま、空がぽつりと呟いた。
「美波が忘れないでいてくれるなら、俺はずっと守るよ。よく死んだら星になるって言うだろ? でも俺はあの空と一体化するから。星は夜にしか見えないけど、俺なら上を見上げればいつでも見える。晴れてようが雨だろうが関係ない」
「……空は空、だから?」
「そう。快晴だろうと曇天だろうと、夕焼け色の時も夜の漆黒の時も、どんな時も美波を見守ってる。びーびー泣いてたら土砂降りにしてやるからな」
「なにそれ」
さよならのあとの話をしているのに、思わず笑みが零れる。
それはきっと、空が私を笑顔にしようとしてくれるから。
私の笑った顔を見て、空が嬉しそうに目を細めると、ずっと笑顔でいようと思える。
「とにかく、もう心残りはないって話。今日、美波に会えてよかった」
「うん、私も。空が会いに来てくれたおかげで、一歩踏み出せるような気がする」
まつ毛の本数を数えられそうな距離で見つめ合い、吐息を交わしながらお互いの想いを伝え合う。
『報われなくたって、失敗したって、努力したことに変わりはないだろ。うじうじして、ずっと何かのせいにして、やらずに後悔するよりずっといいと思うけど』
空き教室でそう言われた時、ひとすじの光が差したように感じた。
――――諦めたくない。
高校1年生を丸々無駄にしてしまった後悔や、今さら必死に勉強したところで難関と言われる医学部に入れるのかという不安は、たしかにある。
それに、小児科医になったところで、かかわったすべての人を救えるわけじゃない。
必死に努力して救おうとしたところで、その手から滑り落ちてしまう命があるのが現実だと、私は近い将来、実感する時が来る。
だけど、空が今日1日をかけて私に思い出させてくれた。
本当の私は負けず嫌いで、猪突猛進タイプだったことを。
「私、やっぱり小児科の先生を目指したい」
声に出したことで、より決心できた気がする。
失敗を恐れずに努力しよう。
時間を無駄にしないで、目標に向かって頑張ってみよう。
そう思えるようになったのは、空のおかげだ。
素直に心の内をすべて伝えると、空は違うと首を振った。
「別に俺がなにかしたわけじゃない。元々、美波は真面目で、努力家で、猪突猛進だった。ただ躓いて転んだままだったから、早く立てってケツ叩いただけ」
「ちょっと。女の子に向かってケツとか言わないでよ」
「ははっ。なぁ、美波が小児科医になったらさ」
ふと、空がそこで言葉を止めた。真剣な眼差しに射抜かれ、思わず背筋が伸びる。
「もし俺みたいな患者がいたとしても、救えないことに罪悪感を持たないでほしい。少なくとも俺は、手を尽くしてくれた主治医の先生に感謝してる」
まるで私の心の声が聞こえたかのような言葉に、目を丸くする。
「……なんで」
「俺の存在が、せっかくやる気になった美波の足枷になったら嫌だと思って」
「そんなわけない!」
足枷になるだなんて、そんなこと絶対にありえない。もう1度頑張ろうと思えたのは、空のおかげなんだから。
「それならいいけど」
ひょいっと肩を竦めた空が、「あー、あとさ」と言いにくそうに口籠った。
そのためらいの表情が、私の緊張感を煽る。
「なに?」
「前に子どもたちに慕われる先生になりたい、みたいに言ってたけど。あんま必要以上に優しくすんなよ」
「……は?」
唐突な発言の意味がわからず、私は首をかしげる。
「小中学生の男子なんて、ちょっと優しくされたらすぐ好きになるんだから」
「……なにそれ」
「いいから、覚えとけよ」
「ん? じゃあ空も優しくしてくれたお医者さんとか看護師さんを好きになったってこと? 最初の手術で入院してたのって、小学校4年生だっけ」
「アホか」
「アホってなによ! 空が言い出したんでしょ」
ジト目で睨まれるなんて理不尽だし、納得いかない。
むっとして睨み返すと、大きなため息をついた。
「……その頃には、もう一緒にいただろ」
一瞬の間のあと、彼の言葉の意図するところに気づき、ぶわっと全身が熱くなった。
好きにならないでなんて言っておきながら、どこまでも彼のことを好きにさせる。
ずっと幼なじみだったのに、私のエイプリルフールの種明かしはできないのに、気持ちを自覚した途端に好きという気持ちが止まらない。
「空は、ズルいよ」
あと1年。私は本当に気持ちを隠し通せるだろうか。
絶対に好きにならないなんて啖呵をきってしまったけれど、初日からすでに苦しくて仕方がない。
「ごめ、ん……美波」
唇を尖らせて非難した私に、彼は素直に謝ってきた。
自分で〝彼女役〟をすると決めたんだから、空はなにも悪くない。それなのに謝らせてしまったことが、さらに私を苦しくさせる。
俯いた私に、彼がカバンから取り出した何かを差し出してきた。
受け取りながら視線を上げると、空の顔色の悪さに驚く。
さっきまで感じていた心の痛みは霧散し、身体中にビリッとした緊張が走る。
「空? どうしたのっ?」
「これ持って、タクシーか、救急車……呼べる……? もう、時間、だ……」
「えっ、空……っ?!」
そしてそのまま、空はゆっくりと目を閉じた。