午後12時20分。4時間目が終わり、昼休みを知らせるチャイムが鳴り響いた。
うちの学校の昼休みはピッタリ1時間。
持ってきたお弁当や購買で買ったパンを教室で食べる派と、学食で食べる派に分かれる。私はお母さんが働いているため、いつもはお昼ご飯代をもらって学食で食べている。
私がそう話すと、空は「行ってみたい」と言い出した。
「え、学食に?」
「そう」
「いやいや、さすがにまずいよ」
「なんで」
「なんでって……」
他校生が堂々と学食を使うなんてありえないでしょ。
「もうそろそろ帰ろうよ。バレたら大変だし」
「でも美波、お腹空いたんじゃない?」
「いや、だいじょ――」
大丈夫。そう言おうとした途端、私のお腹の虫が「ぐぅぅっ」と盛大に鳴いた。
う、なんでこのタイミングで……。きっと、さっき中途半端に駄菓子を食べてしまったせいだ。こんなことなら全部食べきっちゃえばよかった。
「ほら、やっぱりお腹空いてるんじゃん。食べたらすぐに出ればいいだろ。どこ?」
クスッと笑う空を睨み、私はしぶしぶ場所を伝える。
「……本館の1階」
「本館? ああ、入ってきたところか」
納得したように頷くと、空はさっさと教室を出ていった。私も仕方なく後を追う。
西棟の2階は人気がないけれど、階段に近づくとガヤガヤと声が聞こえてくる。
3階と4階には音楽室や理科実験室などの特別教室があり、これから自分の教室に帰る生徒でごった返しているのだろう。
そんなところを平然とした顔で通ろうとしているなんて、本当に肝が座ってる。
さっきは私を猪突猛進なうり坊扱いしていたけれど、今日は空の方がよっぽど突飛な行動をしていると思う。
「待って、今行くと人が多いから」
「大丈夫だよ。堂々としてれば意外とバレないもんだって」
「なにその自信。もしかして他の高校にも潜入したことあるの?」
「まさか。初めてだよ」
楽しそうに笑う空の言う通り、ふたりで堂々と歩いても誰もこちらを気にする素振りはない。
たまに女子生徒から「あの人、何年生かな?」というヒソヒソ声と熱い視線を感じたけれど、この学校の生徒だと信じて疑っていないようだ。
ホッとしながら学食にたどり着く。見渡すと、席は3分の2ほど埋まっていた。
入口にある券売機で好きなメニューのチケットを購入し、厨房に渡すオーソドックスなシステムで、メニューはカレーやラーメンなど毎日提供されるものは390円、日替わりの定食は500円というお手頃価格。
普段は彩葉と心春と私の3人で、窓際の丸テーブルの席で食べるのがお決まりとなりつつある。
今日もきっとふたりはいつもの席で食べようとするはずだ。だからできるだけ窓際から離れた場所に座りたい。
午前中の授業に出ていない私が学食でご飯を食べていたらおかしいし、まして知らない男子と一緒だなんて、どう説明したらいいのかわからない。
「お。日替わり定食、今日はアジフライだって。俺これにしよう。美波は?」
「えっと、じゃあ私も同じのにする」
食券を買って、「ご飯少なめでお願いします」と言って食堂のおばさんに手渡した。すると空も「あ、俺も全体的に少なめで」と付け足す。定食がのったトレイを受け取り、私は大きな窓とは反対の壁側のテーブルへ足を向けた。
「早めに食べて出ようね」
「なんでそんな焦ってんの」
「なんでそんな堂々としてるの」
「いいじゃん。高校生気分を味わいたいんだよ」
高校生気分って、空だって高校生なのに。
意味がわからなくて聞き返そうとした瞬間、「あれぇ? 美波ちゃん?」と甘く可愛らしい声が聞こえた。
ぎょっとして視線を上げると、そこには不思議そうにこちらを見ている彩葉と心春の姿があった。ふたりは購買で買ったであろうパンを持っている。
「えっ、あの、これは……」
学校を休むと連絡していて授業にだって出ていないのに学食にいるなんて、どんな言い訳をすればいいのかまったく思い浮かばない。するとふたりの視線が私の右隣に移る。
「え、美波の彼氏? 初耳なんだけど。2年じゃないよね?」
「すごいイケメンだー!」
驚きと好奇心が入り混じった視線が痛い。
この手の質問は小学校の頃からされているけれど、やっぱり苦手だ。
空はいつも肯定も否定もしないし、意識しているのは私だけなんだって思い知ると胸がぎゅっと痛む。
「かっ、彼氏じゃないよ」
私が曖昧に微笑んで首を横に振ると、彩葉と心春は自然に私たちの向かいの席に腰をおろした。てっきりふたりでいつもの席に行くかと思ったから、私は内心慌てまくりだ。
だって、空の存在をどう伝えたらいいんだろう。私は他のクラスの男子の顔なんてほとんど把握していないけど、心春は同じ学年にはいなかったと確信しているみたいだ。
かといって他校生だと正直に伝えるのも不安がある。べつにふたりが言いふらすと思っているわけじゃないけれど、あれこれ聞かれて騒がれるのも避けたかった。
「三浦です。美波とは小中と同じ学校だったんだ」
何年生とも他校生とも言わず、名前と最低限の関係性だけ告げて、空がふたりに軽く会釈する。
「へぇ、美波ちゃんと同校だったんだぁ。どんな感じだったの? 今と変わらない?」
無邪気な彩葉の質問に「ひぇっ」と叫びそうになった。私にとって一番触れられたくない話題だ。
受験に失敗する直前までの私と今の私では、別人のように変わってしまったから……。
心臓がドクドクと早鐘を打つ。
変なこと言わないでと空を牽制するより先に、彼が口を開いた。
「うん。外見はともかく、中身は変わってないと思うよ。昔から真面目で、努力家で、猪突猛進って感じ」
空の言葉に、彩葉と心春は顔を見合わせている。
きっと、ふたりが見ている私とは似ても似つかないワードばかりが並んだせいだ。
高校生になってからは真面目というほど勉強しているわけじゃないし、周囲に合わせるために自分の意見は押し殺している。私が率先してなにかをすることはないし、周りに流されるままのらりくらりと日々を過ごしているだけ。
だから空が言うような私は中学まで。高校での私はまったく違う。それは隣に座る空よりも、目の前のふたりよりも、私自身が一番わかってる。
「空、やめてよ」
私が腕を掴んで窘めても、空は「間違ってないだろ」とどこ吹く風。明らかに今の私と違う人物像を聞かされて、ふたりも困惑しているに違いないのに。
「ごめん。空の冗談だから聞き流していいよ」
なんとか言葉を紡いだけれど、から回っている気がする。私を取り巻く空気だけ異常に薄く感じた。
私の焦りを察したのか、ふたりもそれ以上追及することなく、買ってきたパンを食べ始める。
「美波、いつ学校来たの? 休みって連絡あったから体調悪いのかと思った」
「そうだよぉ。来てたなら連絡くれればいいのにぃ」
決して咎める言い方じゃなくて、ふたりの表情から純粋に心配してくれているんだとわかった。なんとなく、私がいなくてもふたりで盛り上がってるだろうなって疎外感を覚えていたから、嬉しくて心があたたかくなる。
「あ、ごめんね。体調が悪いわけじゃなくて……」
「俺がそそのかして、今日はサボり。でも美波の腹の虫がうるさいから、ちょうどいい時間だと思ってこっそり食べに来たんだ」
「えぇー、そうなのぉ? 確かにここ、外で食べるよりめちゃくちゃ安いもんねぇ」
なんだかフレンドリーに話し始めているけど、私はどうにも落ち着かない。
「じゃあこのあとの授業も出ないんだ? 美波がサボりなんて意外だね」
「あ、うん。つい、出来心で」
なにをどう説明したらいいのかわからず、口から零れたのはおかしなワードだった。
隣の空はぶふっと噴き出しているし、正面に座る彩葉と心春も目を丸くしたあと、声をあげて笑っている。
「あははっ、出来心って。犯人の言い訳みたいな言い方しなくても」
「美波ちゃん、おかしい」
さっきとは打って変わって明るい空気にホッとする。3人につられて、つい私まで笑ってしまった。
「もうっ。笑いすぎだよ」
「だって美波が変な言い回しするから。でも少し安心した。最近元気なかったから」
「え?」
「この前の実力テスト、うちらにとってはすごいいい点取ってたのに、美波はへこんでたでしょ?」
まさかテストの結果にショックを受けているのに気付かれていたとは思わず、私は黙って心春を見つめた。
「さっきちょうど彩葉とその話してたんだ。テスト前日に遅くまで遊んじゃったし、もしかしたらうちらのせいかもって。ね?」
「そうそう。今日の朝ねぇ、進路希望調査票が配られたの。うちらは専門だからテストとか受験とか関係ないけど、美波ちゃんが大学行くなら邪魔しちゃってるのかなぁって」
「専門……?」
「あれ、話したことなかったっけ? 私も彩葉も美容専門学校に行くってもう決めてるの。学校は違うと思うけどね。私はメイクがメインのところを探してるとこなんだけど、彩葉はもちろん美容師資格がとれるところに行くだろうし」
心春の隣で、彩葉が菓子パンにかぶりつきながらうんうんと頷いている。
「だからうちらにとって放課後は学校の勉強より、コスメとか色々見て、口コミ調べてって方が大事なんだよね。まぁ単に好きっていうのも大きいけど。美波もそうなのかなって勝手に思い込んでたけど、テストでへこんでるの見て、もしかしたら違うのかもって気付いてさ。言い出せなくて振り回しちゃってたら申し訳ないなって思って」
「そんなことない!」
思った以上に大きな声が出たけれど、構っていられない。
私は彩葉と心春を誤解していた。ううん、誤解するほど深く知ろうとしていなかった。
ふたりが私にヘアメイクをしてくれた日のことを思い出す。
あの時、まるでプロみたいだと感心した。きっと美容師やメイクアップアーティストを目指しているからこそ、変身させてもらった私以上にふたりが楽しそうだったんだ。
ふたりのことをちゃんと知りもしないで、ただコスメ好きな派手な子たちだと思いこんでいた。恥ずかしさと罪悪感で胸が痛い。でもそれ以上に、きちんと自分の気持ちを打ち明けたい欲が勝った。
「私、放課後にふたりと色んなお店を見て回るの楽しいよ。ヘアアレンジ教えてもらったり、似合うコスメの色とか使い方を知ったりするのも、女子力が上がっていく感じがしてうれしかった。確かにテストの点数が思った以上に低くて落ち込んでたけど、それは去年ずっと勉強をサボってきた自分のせいで、ふたりのせいじゃないから」
熱弁する私に、ふたりは驚いた顔をしている。
それはそうだ。だって今までの私はふたりの前で本音で必死になって話したことなんてなかったから。
私はずっと、どこかでふたりと自分は違うと思っていた。
ふたりだけじゃない。1年生の時の友達のことも、ひなた野高校自体のことも見下していた。星凛よりも偏差値が低くて、みんな勉強よりもオシャレやバイトにばかり気をとられている。そんなふうに思っていた。
だから私もそれでいい。みんな将来のことなんてなにも考えていない。この高校では勉強に集中なんてできない。そう決めつけて、責任転嫁して、とっくに砕け散ったはずのプライドを必死に守っていた。
でも違った。
彩葉も心春も、自分の夢についてきちんと考えている。周りのせいにしてぐだぐだと言い訳ばかりしている私なんかよりもずっと、夢の実現のためにはどうすべきかを一生懸命考えて行動している。
ふたりは勉強よりも優先すべきこと、努力すべきことが明確なだけだったんだ。
そう気づいた瞬間、自分の情けなさを恥ずかしく思うのと同じくらい、ふたりのことが好きだと感じた。
「あのね。私、ふたりに聞いてほしい話があるの」
「話?」
彩葉と心春が首をかしげる。私はそんなふたりに大きく頷いた。
これまでの感情を正直に打ち明けて、もっとふたりと仲良くなりたい。
受験に失敗してこの高校に来たことも、本当はあの日テスト勉強をしたかったことも、ふたりほど美容に熱量はないけど一緒にいたくて話題についていくために必死になっていたことも。全部正直に話して、きちんとふたりと向き合いたい。
だけど、これまでずっと心の内側に秘めていたものを吐き出すには、昼休みの時間なんかじゃ到底足りない。
「うん。できれば今度ゆっくり話したいんだけど、聞いてくれる?」
「もちろん」
「当たり前じゃん」
ふたりの笑顔に勇気をもらえた気がする。
「ありがとう」
改めてお礼を言ったものの、なんだか気恥ずかしい。
隣に座ってる空が「よかったな」と言わんばかりの顔でこちらを見ているのも、くすぐったくて仕方がない。
視線をキョロキョロと彷徨わせていると、いつも座る丸テーブルが空席なことに気づいた。
「ねぇ彩葉、あっちの席じゃなくてよかったの?」
「ん? なんで? 3人なら丸い方がいいけど、4人ならこのテーブルでよくない?」
彩葉がなんでもないことのように言うから、私は驚いて目を瞠った。
私はてっきりあの窓側の席の方が明るいし広いから気に入っているのだと思っていた。写真を撮った時に映えるとか、そういう理由だと……。
でも今の言い方だと、きっと違う。
彩葉は私たちが奇数だというのを考慮して、1対2の構図にならないように丸テーブルを選んでいたんだ。
「そっか。たしかにそうだよね」
彩葉の気遣いに感心しつつ、それに気付こうともしなかった自分が嫌になる。やっぱり私はふたりのことを全然わかっていなかった。
落ち込みそうな私に、彩葉が見当違いなことを言いだした。
「あっ、ごめん! やっぱりお邪魔だったよねっ」
「えっ?」
「やだぁ、それならそうと言ってくれたらいいのに! ごめんね、私たち気が利かなくて」
「彩葉?」
「そうだよねぇ。ずっと一緒にいて、それだけ美波ちゃんのことを褒めるんだもん、そうに決まってるよねぇ」
私の戸惑いをよそに、彩葉は早口で捲し立てるといそいそと立ち上がり、心春の腕を引き上げる。
「ほら心春ちゃん、行くよ!」
「えぇ? もう、唐突なんだから」
「だってぇ、邪魔しちゃ悪いじゃん」
彩葉は「くふふっ」と手を口元に当て、肩を竦めて可愛らしく笑っている。そんな彩葉に呆れた顔を向けつつ、心春も促されるままに立ち上がった。
「はいはい。じゃあ美波、また来週ね」
「美波ちゃん、来週ゆっくり話そうねっ! 全部聞くから。ぜーんぶねっ」
語尾にハートマークがつきそうな調子でそう言うと、ふたりは手を振りながら窓側の方の席へ移動していった。
なんだか、とんでもない誤解をされている気がする。
来週はきっと質問攻めにあうだろうな。
でもそれも、きっと楽しい時間になる。
本音で腹を割って話して、いつか〝親友〟と呼べる間柄になりたい。
浮き立つ気持ちでいる私の隣で、空が「あのふたりが、ヘアケア命とコスメオタクの子か」と柔らかい眼差しでふたりを見送っている。
「めちゃくちゃいい友達じゃん」
「……うん」
「大事にしないとな」
私の決意を見抜いたように、空が言う。でもそのとおりだと思ったから、もう一度大きく「うん」と頷いた。
空に外見の変わりようを指摘された時、私はふたりのせいにした。
『しょうがないじゃん。だって周りはこういう子ばっかりなんだもん。こうしないとうちの学校の友達と馴染めないの』
あの時は偽りない私の本音だった。だけど、ようやくそうじゃないと気がついた。
ふたりはきっと私が黒髪に戻したって、たとえメイクをしなくなったって、友達でいてくれる気がする。
そんな青春感満載なことを考えていたら、なんだか猛烈に恥ずかしくなってきた。
照れくささを振り切るように目の前のアジフライにかぶりつく。ご飯とお味噌汁、漬物と冷奴はいつもと同じ。メインのアジフライが2枚と、その下には千切りのキャベツ。いつも500円とは思えないボリュームで、ご飯を少なめにしてもらわないと食べきれない。
アジフライはサクサクの衣と中のふっくらとした身がとても美味しくて、箸が止まらなくなった。
しばらく無言で食べ進めると、空の手が止まっている。もう食べ終えたのかとチラリと視線を向けると、ご飯もフライもひと口ふた口食べただけで、ほとんど手つかずのまま残っていた。
「あれ、口に合わなかった?」
「いや。調子乗って駄菓子食べすぎたのか、胸焼けしたみたいで」
「だったら無理に頼まなくてもよかったのに」
「学食って初めてだし、ひと口だけでも食べたかったんだよ。美波は気にせずに食べて」
お菓子の食べすぎでご飯が食べられないなんて、まるで子供みたいだ。
少しご飯を減らしてもらったおかげで完食できた私は、ごちそうさまでしたと手を合わせる。
返却口にトレイを下げ終えると、ようやく満足したらしい空と一緒に学校を出発した。
「はぁー、無事に脱出できた」
誰にもバレずに出て来られたと、大きく安堵の息を吐く。
学校をサボっているだけでも罪悪感があったのに、これで他校生を引き入れて学食を食べていたなんて先生に見つかりでもしたら大変だった。
それにしても、なんだか今日はとてもいい日だ。
空と再会して一年前のことを謝れたし、彩葉と心春に対する誤解が解けて、来週からは今より仲良くなれる予感に満ちている。
もしかしたら、学校が楽しくなるかもしれない。
それは間違いなく空が会いに来てくれたのがきっかけだ。
もしも空と再会しなければ、私は今日も普通に学校に行って、配られた進路希望調査を手に鬱々と悩んでいたに違いない。
彼といると、本来の自分でいられる。
名前のごとく広い青空のような、私にとって大きな存在だ。
そんな空がこの先もずっと、私の隣にいてくれたら――。
「ねぇ、空」
今日、会いに来てくれてありがとう。
そう伝えたくて少し後ろを歩いていた空を振り返ると、彼は立ち止まって手を膝につき、乾いた咳を繰り返している。
そのあまりの顔色の悪さにびっくりした。
額には汗が滲み、唇は血の気が失せて真っ白になっている。
「ちょっ、空っ?! どうしたの?!」
慌てて駆け寄ると、空は辛そうに顔を歪めて胸を押さえる。
はぁ、はぁ、という荒い呼吸が、ただの体調不良ではないと物語っていた。
「空っ! やだ、どうしよう……」
不安で脚が震える。
目の前で苦しむ空に、どうしたらいいのかパニックになってしまう。
「……っ、クソ、まだ、もう少し……」
「ど、どうしよう、どうしたら……そうだ、救急車っ!」
ようやく助けを呼ぶべきだという当たり前のことに思い至り、ガタガタと震える手でスマホを取り出そうとした時、空が私の手首をぎゅっと握った。
「だい、じょうぶ……」
空は切れ切れに訴えるけれど、とても大丈夫には見えない。呼吸がしにくそうな、とにかく見ているこちらまで苦しく感じるほど、肩で必死に息をしているように見える。
熱中症? それとも……なにか他の病気?
とにかく病院で診てもらうべきだ。
「大丈夫じゃないよ! どうしたの? どこか痛いの? 私も付き添うから病院に行こう」
「……っ、ほんとに、まだ大丈夫……ちょっとどこかに、座れれば……」
「でも――」
「今まで、も……何度も、経験してる……。10分くらいで、治まる……。そしたら、全部、話す……から」
本当なら、きっと空がなんと言おうと救急車を呼ぶべきなのかもしれない。
でも、苦しみながらも私の手首を掴む力や、こちらを見上げる眼差しが、一切拒否は許さないと言わんばかりの強さだった。
「あっちにバス停のベンチがあるから。そこまで頑張れる?」
私の問いかけに頷く空の身体に触れた瞬間、ゾクッと戦慄が走る。
空の身体がありえないほど細かったから。
元々細身ではあったけど、中学に上がる頃には身長も伸びて筋肉もついていた。
それなのに、今の空は折れそうなほど細い。
これは、一体どういうこと……?
交通公園に来るまでの会話を思い出す。
『……部活はやってない。あと日焼けするから脱がない』
パーカーを脱がなかったのは日焼けを気にしたわけじゃない。きっと、この細すぎる身体を隠すためだ。
「空……」
どうしよう。とてつもなく嫌な予感がする。
すぐにでも問い質したいけれど、今は空の体調が第一だ。空を支えて角を曲がり、バス停のベンチに空を座らせる。
「私、どうしたらいい? こういう時、どうしたらいいんだろう……」
小児科医になりたいという夢を抱いているにもかかわらず、なにもできない自分の無力さが情けない。
「ごめ、薬……。俺の……かばん、外のポケット……」
「わかった。開けるね」
空が背負っていた黒いショルダーバッグの外ポケットのチャックを開けると、中には透明なピルケースが入っていた。
普通に頭痛薬なんかを持ち運ぶ一般的なサイズよりもかなり大きくて、たくさんの種類の錠剤が入っている。
これ全部、空の薬なの……?
「一番、右の……白いやつ、2錠……」
「右の白いの2錠ね。あっ、水が……」
「なくても、飲める……」
急いで薬を渡してあげたいのに、指先が震えてうまくケースをあけられない。
もたもたしながらやっとのことで白い大きな錠剤を2錠渡すと、空はそれを苦しそうに飲み込んだ。
「あとは? なにかしてほしいことある?」
「だい、じょうぶ……」
ピルケースをなくさないようにすぐにバッグにしまうと、そっと空の手に自分の手を重ねた。
空の手がぴくりと跳ねる。辛いせいなのか指先まで冷たくて、それを包み込むように両手で彼の手を温めた。
触れたところから、空の苦しみがこっちに流れてくればいいのに。
もし半分でも私が受け取れたなら、空はこんな苦しい顔をしなくてすむかもしれない。
手のひらは私よりも大きいのに、パーカーの袖から覗く手首は私と同じくらいか、それよりも細い。
ぎゅっと握ったら折れてしまうんじゃないかと怖くて、力を入れないように細心の注意を払った。
本当にこのままただ隣で手を握ってるだけで大丈夫?
そんな不安が胸の底から湧き上がってくる。
どれくらいの時間そうしていただろう。
だんだんと空の苦しそうな呼吸が安定してきて、唇にも色が戻ってきている。少しだけホッとしたけれど、それでもまだ顔色は悪い。
私が注意深く空の様子を窺っていると、ずっと俯いていた彼が視線を上げた。
そして私を見て、眉尻を下げて苦笑する。
「ごめん、ビックリしたよな」
ビックリどころじゃない。心配で、不安で、泣きそうなほど怖かった。
だけどさっき飲んだ薬のおかげなのか、空は話せるほどに回復したように見える。
「本当に大丈夫? 病院行かなくてもいいの?」
「うん。だいぶ落ち着いた。だからそんな顔すんな」
「そんな顔って」
「醤油かけたイチゴ食った時よりもブサイク」
血色を無くした顔色で、いたずらっぽく笑う。
いつもなら空の肩をバシッと叩いている場面だ。きっと空もそうしてほしくてこんな冗談を言っているんだってわかってる。
でも、とてもじゃないけどそんなことはできなかった。
「ねぇ……どうしたの? 話してくれるって、言ったよね……?」
空はこれを何度も経験していて、10分くらいで治まるとわかっている感じだった。
何度もって、いつから?
私は小学校の頃から空を知っているけれど、こんな風になっているところを見たことがない。
もしかしたら、急に引っ越してしまったのとなにか関係があるんだろうか。
ドクドクと心臓がうるさい。
知りたいような、知りたくないような、矛盾した思いが頭の中をグルグルと回っている。
「小4の夏休みさ、俺がずっとばあちゃんちに行ってたの覚えてる?」
全然関係なさそうな唐突な質問に戸惑う。小4の夏休みと今の空の体調と、どう繋がるんだろう。
わからないけれど、もちろん覚えているから頷いた。
「四国にひとりで住んでるおばあちゃんの具合が悪いからって、空の家族みんなで行ってたんだよね。たしか9月も学校休んでた」
「そう。でも、それ嘘」
「嘘……?」
「本当は、癌の手術をするために入院してた」
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
癌の手術って、空が……?
「発見が早かったみたいで、小児がんって診断されてすぐに手術の日取りが決められていった。俺の主治医は斉藤先生っていう親切なおじさんでさ、まだ10歳だった俺にも手術のリスクとか術式をわかりやすく説明してくれたんだ。今手術すれば助かる確率はこのくらいあるとか、再発のリスクはこのくらい、とか」
なんでもないように話しているけれど、私の頭の中はぐちゃぐちゃだ。
だって、癌なんてドラマや映画の中でしか聞いたことがない。
「それで……手術、したの?」
「うん。内視鏡手術っていって、メスを使わない手術だったから回復も早かったんだ。入院自体は2週間くらいだったけど、そのあとも食事制限とか運動制限とかあったから、ある程度日常生活が送れるくらいまで学校は休むことにした。そのおかげで学校の誰にもバレずに復活した。それが、小4の頃」
私はあの頃、本当にずっと空と一緒にいた。思い返してみても、彼が癌なんて恐ろしい病気を患っているようには見えなかったのに。
でも4年生の頃に手術して、そのあとは私たちクラスメイトがみんな気付かないくらい元気だったんだから、もう今は治ってるんでしょう?
そんな私の心の声が聞こえたかのように、空は肩を竦める。
「再発したんだ。中3の冬に」
ガツン、と頭を鈍器で思いっきり殴られたような気がした。
状況が飲み込めなくて、頭が割れるように痛くてクラクラする。
再発って、また同じ病気にかかってしまったってこと……?
もう口を挟むこともできず、ただ空の話を信じられない気持ちで聞き続けるしかできない。
「がん細胞にとって、よっぽど俺の身体の中は居心地がいいらしくて。今度は再発したところだけじゃなくて、色んなところに転移してたんだ。それでも入院してからは色々治療を受けたんだけど進行が早くて……もって1年だろうってハッキリ言われた」
ひゅっと息をのむ。
『もって1年』
現実味のないはずのその言葉が、やけにはっきりとリアルに聞こえた。
それは、よく映画とかで聞く〝余命宣告〟ってやつ……?
空の命は、あと1年しかもたないという意味?
まさか、そんなことあるわけない。
「……うそ、でしょ」
無意識に零れた自分の言葉にハッとする。
そうだ。嘘だ。空のいつもの嘘に決まってる。
私は弾かれたように顔を上げた。
「嘘だ。また私を騙そうとしてるんでしょ」
「……美波」
「だって……だって空が言ったんだよ。今日をエイプリルフールにしようって」
そうだよ、空は毎年巧妙な嘘をついていた。
いつも騙されてしまっていたけれど、この嘘にだけは絶対に騙されない。
軽視するには無理のある現実から目を逸らし、不安と恐怖に飲み込まれそうになりながらも気合いで口角を上げて笑顔をつくった。
うまく笑えているかはわからない。でもそうしないと、空がこのまま消えてしまいそうな気がした。
「何年空のエイプリルフールに付き合ってきたと思ってるの? もう絶対騙されないから」
空、お願いだから笑ってよ。「バレたか」ってイタズラっぽく笑って、ちゃんと嘘だったって終わらせてよ。
そしたら「そういう不謹慎な嘘はやめて」って説教して、思いっきり肩を叩いてやるんだから。
だから、お願い。エイプリルフールだって……嘘だって言って。
懇願するように空をじっと見つめていると、大きなエンジン音を立てながら走ってきた路線バスが、私たちの座っているベンチの目の前に停まった。
後方のドアは降車する人がいないらしく閉じられたまま。運転手さんは私たちを乗客だと思ったのだろう、前方のドアが開く。
運転手さんに首を振ると、ガシャンと怒ったような音を立ててドアが閉まり、ゆっくりと発進する。排気ガスを吐き出しながら走り去っていくバスを、ふたりで無言で見送った。
目の前に、もくもくと白い煙が辺りをたゆたう。
それらは周りの空気に溶け込むと、まるで最初からなにもなかったかのように、あっという間に消えた。
けれど私と空の間には、見えない透明な重苦しい空気が立ち込めている。
しばらく、どちらもなにも言わなかった。
ううん、言えなかった。
空の病気や命の期限を知って、なにをどう言ったらいいのか、まるでわからなかった。
嘘だと言ってほしかったけれど、嘘じゃないとちゃんとわかっていた。
少ししか歩いていないのに息を切らしていたのも、あまり食事をとっていなかったのも、ぞっとするほど痩せた身体も、重篤な病に侵されていると考えれば辻褄が合う。
「……ごめんな。美波」
先に口を開いたのは空だった。
重ねていた手を、ぎゅっと強く握られる。
どうして謝られたのかわからなくて、強く握られた手よりも胸が痛くて、私は唇を噛みしめた。
「本当は、美波の笑った顔を見たら帰るはずだったんだ」
私は目の前の道路から視線を外さなかった。今、空の顔を見てしまったら、きっと泣いてしまう。
彼は「ちょっと長くなるけど」と前置きすると、順序立てて話してくれた。
「手術して一旦治ったあとも、定期的に検査はしてたんだ。斉藤先生には、5年の間に再発しなければほとんど大丈夫って言われてた。でも俺は〝ほとんど大丈夫〟なはずの5年を過ぎた直後、中3の冬に再発した」
空の声に悲痛な色はない。すべてを受け入れているかのような様子の彼を見ていたら、嘘だと無責任に現実から目を背けるようなことを言えなくなった。
中学3年の冬といえば、私たちは受験真っ只中。
そんな時に、空は自分がまた病気になったと知ったってこと……?
「そこからさらに検査して、ただの再発じゃなくて色んな場所に転移してるとわかったのは、最後に美波に会った日だった」
「えっ……」
「美波がどれだけ落ち込んでるのかわかってたのに、あの日は俺も気持ちに余裕がなくて……つい感情的になった。あの時にはもう、入院と引っ越しが決まってたから」
「じゃあ、卒業式に出られなかったのは……」
「うん、卒業式の日にはもう入院してた。病院が前の家からだと少し遠くて、両親は俺のためにわざわざ入院先の近くに引っ越したんだ」
空が教えてくれた入院先は、私の通う高校から車で20分ほどのところにある大きな病院だった。名前からして、がんの治療を専門的に行っているところなのだろう。
それから、星凛だけではなく高校自体に行っていないこと、入院した先で治療を受けていたこと、今のように急な痛みや息苦しさに襲われることが何度かあったこと、そのたびになんとか生き延びてきたことなど、彼は過去の出来事として淡々と話した。
――――本当に、癌、なんだ……。
恐ろしく重い現実が、私の心にじわじわと侵食してくる。
「こんな風に体調が悪くなる前にちゃんと帰るつもりだったし、病気のことを美波に打ち明ける気もなかった」
「そんな……っ、言ってくれたら、私――――」
「美波に言ったところで、病気は治らない」
「……っ」
突き放したような言い方に、息が詰まる。
その通りだけど、でも教えてほしかった。もしもさっきみたいに体調が悪くならなければ、私は空の病気のことを知らないままだったってこと?
「同情されたいわけでも、悲しんでほしいわけでもない。ただ、美波のことが気になってたんだ」
気になってたって、どういう意味?
私が尋ねるよりも先に、空が話し始める。これまでずっと秘密にしていた反動なのか、すべてをさらけ出し、吐き出しているようだった。
「最後、美波の部屋であんな風に別れて、ずっと後悔してた。頭冷やしてすぐにでも謝りに行きたかったけど、美波と言い合いした次の日に家で倒れて、そのまま入院になった」
私の脳裏に、あの日、空にぶつけた言葉が大きくこだまする。
『空に私の気持ちなんてわかんないよ! もうほっといて!』
『私の人生は終わったの!』
『もうやだ、死んだ方がマシだよ……』
ぞわっと全身が逆毛立つ。
知らなかったとはいえ、なんてひどいことを言ってしまったんだろう。
あの時の空の表情は、今でも忘れられない。
『ふざけんな!』
『言っていいことと悪いことがあるだろ!』
空が怒るのはもっともだ。
なんて甘ったれていたんだろう。
情けなくて、恥ずかしくて、自己嫌悪でいっぱいになる。
「落ち込んでた美波を突き放すような言い方しただろ。あれが美波との最後の記憶だなんて、絶対嫌だと思った。だから動けるようになったら、美波に会いたいと思った。ちゃんと前向きになったか、高校生活を楽しんでるか、確認して安心したかった。美波の笑顔が見たかった。それなのに、お前は」
そこで空は繋いでいた手を離し、私の頬をぶにっとつまんだ。
「むぃっ」
「見た目変えて高校生活満喫してんのかと思いきや、変な作り笑いばっかしてるから。まだグズグズしてるんだってすぐにわかった」
空が笑う。
運動会の練習の時や、修学旅行の計画を立てている時みたいに、呆れながらも仕方ないなって顔で笑った。
――――私、この笑顔が好きだった。
ぶっきらぼうな中に優しさを見せてくれる、この瞬間の表情が大好きだった。
「ったく。教えてやったろ? 落ち込んだら空を見ろって」
「……見たよ。何度も何度も見上げたよ。でも、元気にならなかった」
高校の入学式の日も、テストの点数に絶望した日も、去年と今年の本当のエイプリルフールの日だって、私は期待を捨てられないまま空を見上げていた。
だけど、私の気持ちは少しも晴れなかった。雲ひとつない晴天の日だってあったのに、空を見上げるたびに心の傷が深まっていくだけだった。
「だって、隣見たら空がいないんだもん……っ」
頬をつまんでいた彼の指先が、零れた涙に濡れる。
『空を見たら元気になるのって、今日みたいに綺麗に晴れた空の日だけでしょ? じゃあ曇りとか雨の日に落ち込んだらどうしたらいいの?』
『んー。その時は、俺が隣にいるよ。それで、落ち込んだ美波を笑わせる』
幼い日の約束の記憶。
あの頃はただ嬉しかった。少し落ち込んでも、空が隣にいてくれるならいいかって気軽に考えていた。
幼い約束は徐々に私にとってのお守りとなり、無意識に心の支えになっていたらしい。
それを突然取り上げられ、支えをなくした私の心はグラグラとバランスを崩した。
だからもう、自覚せざるを得なかった。
――――私は、ずっと空が好きだったんだって……。
本当は小学生の頃から意識してた。
でも幼なじみという心地いい関係性を崩したくなくて、必死に見て見ぬふりをしていた気持ち。
今日、空と再会して、その想いは少しも薄れていないと再認識したところだった。それなのに……。
「うん。ごめんな」
大きな手が、ぐしゃぐしゃと私の頭を撫でる。
「だから顔を見てすぐに帰るなんてできなくなったんだ。前みたいに屈託なく笑ってほしかった。俺が笑わせるって、約束したから」
だから空は『今日が4月1日ってことにしよう』なんて言い出したんだ。
私を笑わせるため、〝空の日〟なんてくだらない嘘をついて、鬱々とした毎日から連れ出してくれた。
空の気持ちがすごく嬉しい反面、切なくてやりきれない思いが喉のあたりにグルグルと巻き付いて、息苦しくなる。
パーカーから見えた彼の細い手首は、しばらく日に当たっていないのがわかるほど白くて、胸が引き攣れるように痛んだ。癌という病魔が、確実に空の身体を蝕んでいるんだ。
「それに、久しぶりに外に出たら、やっぱり欲も出てきた。一回くらい高校生気分を味わってみたかったし、もっと美波と一緒にいたいと思った」
それで私の通ってる高校に行きたいって言い出したんだ。
私が嫌々送っていた高校生活は、きっと空が望んでも手に入らなかったもの。
私と同じくらい、空も必死に受験勉強していたのを知っている。
病気が再発したと知りながら、それでも努力して合格を手にしたというのに、高校への進学が叶わなかったなんて。
「……私、ごめん」
「え?」
「ずっと無神経なことばっかり言ってた。あんなにずっと一緒にいたのに、なにも気付かなかったなんて……」
「当然だよ、絶対バレないように気を付けてたんだから。謝らなくていい」
「でも……」
目頭が熱くなり、じわりと涙の膜が張る。
空は自分の病気のことを話す時、今みたいにとても淡々としている。
自分の命があと1年しかもたないと、覚悟を決めてしまっているかのように見えた。
だからこそ、どうしようもない焦燥感に駆られる。
「そんな顔をさせたくなかったから言わなかった」
「え……?」
「そういうの、父さんと母さんだけで十分だ。最初に俺に癌が見つかった時も、再発した時も、転移してもうどうしようもないってわかって余命宣告された時も、ふたりは泣いてた。特に母さんはどんどん痩せてボロボロになっていって……。俺のせいで誰かがそんな風に悲しむのを、もう見たくないんだよ」
これまで聞いた中で、一番悲痛な声だった。なんとか隠そうとしているんだろうけれど、端々に苛立ちや、どうしようもないやるせなさが滲んでいる。
私から見ても仲のいい家族だったからこそ、ひとり息子である空の病気を知った時のおじさんとおばさんの絶望は計り知れない。
おっとりした美人だった空のおばさんが、うちひしがれて痩せ細った姿が脳裏に浮かび、いたたまれなくなる。
そして優しい空は、きっと自分が痛くて苦しいよりも、周りの大切な人が苦しんでいる方が絶えられないんだろう。
長い間病気と戦いながら、おじさんとおばさんが嘆き悲しむ様子を見ては胸を痛めてきたはずだ。
だからなにも言わずに引っ越したんだ。
空は男女問わず慕われていたし、友達も多い。彼が病気だと知れば、たくさんの友人たちが悲しむ。そんな光景を見たくなかったのだ。
――――だったら、私は泣いてはいけない。
病気について同情されたり、あれこれ変に気を遣われたりするのを、空は望まない。そう確信できるくらいには、私は空のことをわかっているつもりだ。
目にぎゅっと力を入れて瞳から水分を逃がし、口角を上げた。
「ごめん、わかった。大丈夫。私は、泣いたりしない」
無謀な約束だってわかってる。
でもそれで空が少しでも心が穏やかになるのなら、少なくとも空の前で涙を流すのは絶対にやめようと思った。
私の言葉を聞き、空は少し驚いた顔をしたあと、ふっと表情を緩めて頷いた。
「うん、サンキュ」
「でも聞いていい? 今は入院してないの?」
「あぁ、余命宣告を受けてからは、積極的な治療をやめて退院した」
「治療を、やめた……?」
それは、もう生きるのを諦めたということ……?
泣かないと決めたそばから、ショッキングな発言に動揺が走る。
「別に投げやりになったわけじゃない。入院して治療を続けても1年しかもたないんだったら、苦しんでる時間がもったいない。多少寿命が縮んでも、残りの時間を楽しみたかったんだ」
吐き気、めまい、脱毛、味覚障害、さらには感染症にかかるなど、抗がん剤を使った治療は、空に想像を絶する苦痛を与えたらしい。
それでも病気の進行は抑えきれず、あとは少しでも長く……という程度にしか効かないと説明があったそうだ。
苦しみながら1年間を病院で過ごすよりも、自宅で自分らしく過ごしたいという空の選択を、きっと空の両親も受け入れたんだろう。
諦めたのではなく、強がりではなく、空は自らの意志で残りの人生の生き方を決めたんだ。
「まぁ、こうやって外に出られたのは久しぶりだけど」
「そうなの?」
「基本的に痛みもあるし、だるくて立ち上がれなかったから。今日は特別」
「特別?」
「そう。さっきはちょっと疲れが出たけど、今日はここ最近で一番体調がいい。もうあんまり時間もないし、せっかくなら、やりたいことやらないともったいないよなぁ」
「やりたいこと?」
あまり時間がないという部分には、あえて触れない。
でも心の中で考えずにはいられなかった。
空に残された時間はあと1年。初めて知らされた事実はあまりにも重たくて、まだすべてを受け入れきれていない。
それでも彼が望むなら、なんだって叶えてあげたい。
それは同情とかそういうものではなくて、ただ純粋にそばにいて、力になりたかった。
「たとえば? 私にもなにかできること、ある?」
「……っ、あー、どんどん欲が出てくるなぁ」
乾いた笑いを漏らし、空が顔を覆った。
そのあとも、空は「あー」とか「うー」とか、珍しくなにかを言い淀んでいる。
けれど、なにか吹っ切ったような顔をして私に向き直った。
「あのさ、美波」
「うん」
「俺の彼女になってくれない?」
「うん、え? かっ……、彼女っ?!」
「そう」
たった今、なんだって叶えてあげたいと思ったばかりだ。
だからといって、まさか彼女になってほしいと言われるとは思わなかった。
空は照れるでもなく、冗談を言っている風でもなくて、『教科書貸してくれない?』みたいなごく普通のテンションで言ってくる。
対して私はあまりに唐突な提案に驚き、頭が真っ白になった。
そして次に浮かんだのは、過去に自覚した恋心をもてあましていたのは、自分だけではなかったのかもしれないという淡い期待だった。
――――もしかして……空も私と同じ気持ちを持っていてくれたってこと?
でもその期待は、すぐに打ち砕かれる。
「人生で一度くらい、彼女がいたっていいだろ」
「……いいだろって、そんな女子なら誰でもいいみたいなテンションで」
私は目を細め、じろりと空を睨む。
『彼女になって』なんて、まるで告白みたいだと勘違いしてしまった。
空にとっては、きっとそうじゃない。
残り時間の少ない人生だと知り、恋愛っぽいことをしたくなっただけ。そう思ったけど、
「バカ。誰でもいいわけないだろ」
ぼそっと拗ねたような声で空は言った。
「美波だから」
「え?」
「美波だから、彼女になってほしいんだよ」
――……え?
それって、そういうこと、だよね……?
「自分の命の期限を知って、死ぬまでにやりたいことって考えた時、真っ先に美波の顔が浮かんだ。それはあんな別れ方になったのを後悔してたのもあるし、ずっと気持ちを打ち明けられないままだったのを自分でも情けないと思ってたから」
「空の、気持ち……?」
「美波が好きだ。たぶん小学校の頃から、ずっと」
ストレートな告白に、心臓が震えた。
「美波が笑えば俺も嬉しいし、びーびー泣いてればなんとかしてやりたくなる。美波の笑顔が好きだから、俺が笑わせたいってずっと思ってた」
私たちは同じ気持ちだったんだ。お互いに言わなかっただけで、ずっと想い合っていた。
もっと早く打ち明ければよかった。
そんな後悔が脳裏をよぎるけれど、今は過去を悔やむ時間だって惜しい。
空の命にはタイムリミットがある。
これからはただの幼なじみじゃなく彼女として、ずっとそばで空を支えていきたい。
まだなにをしたらいいのかわからないけれど、空の病気について色々調べて、できるだけ長く一緒にいる時間を持ちたい。
そのためになら、私のなにを犠牲にしても構わない。本気でそう思った。
私が自分の気持ちを打ち明けようと口を開いた瞬間、空はさらに大きな爆弾を落としてくる。
「でも、美波は俺を好きにならないで」
「は、えっ……?」
言葉にならない声が漏れ出た。
立て続けに色んなことを聞きすぎたせいで、頭はもう完全にキャパオーバーしている。
たった今、私を好きだと言ってくれたのに。それなのに『好きにならないで』って、なんで……?
困惑と不安、他にもいろんな感情が絡み合って、小さな震えが全身に伝わり、手足の先までビリビリと痺れている。
「ごめん。自分の気持ちだけを優先して、こんなこと言って。でも返事はいらないし、好きになってほしいとも思わない」
「そんな、待ってよ。どうして――」
「俺は、もうすぐ死ぬから」
直接的な言葉に、ぎゅっと身体が竦んだ。
穏やかで平坦な声を聞くと、空にとって〝死〟は身近なものなのだと嫌でも実感できてしまう。
それと同時に、空が『好きにならないで』と告げる意味も理解した。
『俺のせいで誰かがそんな風に悲しむのを、もう見たくないんだよ』
空は恐れている。
〝死〟そのものではなく、自分が死ぬことによって誰かが苦しむのを。
「美波には俺のことで悲しい思いをしてほしくないし、笑顔でいてほしい。でも美波が好きだから彼女になってほしい。……矛盾してるのはわかってるんだ」
ごめん、と空が苦笑する。
本当に矛盾してる。私は恨みがましく彼を見た。
病気だと打ち明けられた時点で悲しいに決まってる。
だって空が恋人だろうとそうじゃなかろうと、私にとって大切な幼なじみなんだから。
そんな彼が余命宣告をされていると聞いて、悲しまないはずがない。
そもそも、『好きにならないで』と言われたってもう遅い。
だって好きだから。私だって、ずっと空が好きだったんだから。
「ごめん、自分勝手な頼みなのはわかってる」
泣かないと約束したのは私。
だから涙を零さないように必死に唇を噛みしめる。
「でも、美波にしか叶えられないんだ。俺の、最初で最後の恋につきあって」
ぎゅうっと心臓をつかまれた気がして、胸を押さえて俯いた。
ねぇ、空。
私も空が好きだよ。大好きだよ。私にとっても、きっとこれが最初で最後の恋になる。
そんな零れ落ちそうな本音を、歯を食いしばって自分の内側に留めておく。
それを言ったら困らせてしまうとわかってるから。
空は私に好きになってほしいわけじゃない。空を想って泣いてはいけない。
きっと今目を合わせたら、想いがバレてしまう。
私は空みたいに嘘が上手じゃないから、なにも言わなくても瞳から好きという気持ちが滲んでしまうだろう。
最初で、最後の恋。
一生に一度の恋。
その相手に、空は私を選んでくれた。
だとしたら……空が私の笑顔を望んでくれたのなら、私はそれに応えたい。
「いいよ」
喉がカラカラで、声が引っかかる。誤魔化すように咳払いをして、「よし」と心の中で覚悟を決めた。
空の彼女になれるなら、私は自分の想いを殺してでもそばにいる。
私は顔を上げて、しっかり空と視線を合わせて微笑んでみせた。
「空の〝彼女役〟引き受けてあげる。絶対好きにならないから、安心していいよ」
好きにならないなんて嘘だ。
でも、今日は私と空だけのエイプリルフール。
いつも騙されてばかりだったけど、たまには私が騙したっていいはずだ。
空を想って泣いたりしないし、好きだって言ったりしない。この想いは隠しきってみせる。
本当は心臓が潰れるほど痛い。気持ちを伝えられないというのが、こんなにも辛いことだったなんて初めて知った。
でもこれが、私が空にしてあげられること。
私は絶対に泣かない。私の想いを、彼は知らなくていい。
たとえ限られた時間だとしても、端から見れば不毛な想いだとしても、私は誰よりも幸せな恋をしてみせる。