放課後の教室はざわざわと騒がしく、誰もが楽しそうに雑談に興じている。
私、古沢美波《ふるさわみなみ》もそのうちのひとりに紛れるべく、帰り支度を済ませた状態で、友人の湯川彩葉《いろは》と藤井心春《こはる》のふたりと、たわいない話をしていた。
「ねぇねぇ、これからここ行かない?」
顎のラインで綺麗に揃ったボブヘアを耳に掛け、彩葉はスマホの画像をこちらに向けてきた。
髪を耳に掛けたことでインナーカラーの薄いラベンダー色がより鮮明に見える。全体のミルクティーベージュとのコントラストがとても可愛くて、雑誌から抜け出してきたようにオシャレだ。
毛先はしっかりと外ハネになるようにスタイリングされていて、彩葉が絶賛していた濡れ髪ワックスのおかげでウェット感のある仕上がりになっている。
「あ、私も行きたいと思ってた! ここのリップめっちゃ可愛いよね。SNS見ても評判いいし、ちょうどスキンケアもここで揃えようか悩んでるところなの」
そう答えた心春のメイクは放課後も崩れることなくバッチリ決まっている。ぱっちりとした二重まぶたに乗ったピンク色のラメがキラキラ輝き、透け感のある赤いグロスが長身美人な彼女をさらに大人っぽく演出していた。
机の上に置いてある私たちのスクールバッグには、勉強道具はほとんど入っていない。中身は化粧ポーチと大きな鏡、ちょっとしたお菓子、紅茶のペットボトル。申し訳程度にペンケースがバッグの一番奥底で眠っている。
中学の頃からすると考えられないけれど、いつの間にかこれが私の普通になっていた。
高校2年生になったばかりの4月。先週始業式を終え、もう通常授業が始まっている。
何度経験してもクラス替えは緊張する。小学校でも中学校でもそれは同じだったけど、私にとって高校での初めてのクラス替えはそれ以上だった。
私の通うひなた野高校には、同じ中学の子はひとりもいない。それに、去年同じクラスで一緒に行動していた子たちとも離れてしまった。
そんな私に出席番号が前後だった心春が話しかけてくれて、彼女の友達の彩葉とも仲良くなった。今は3人で行動することが多い。
お人形のように可愛い彩葉や、クールな黒髪美人の心春とは違い、私の容姿は平均的だしオシャレでもない。
だからクラスでも群を抜いて派手な容姿のふたりと一緒にいることに最初は戸惑ったけれど、話してみるとふたりとも気さくないい子だった。おかげで女子特有のグループからあぶれてしまうことはなさそうでホッとしたし、新しい友達ができたのは素直に嬉しい。
けれど、正直気苦労も多い。
「このブランド、ヘアケアもめちゃくちゃ評判いいんだよぉ。なんか双子のインフルエンサーとコラボしてたやつ」
「あー、見た見た! あの花のパッケージのやつでしょ。トリートメント、すごいサラサラになるって動画で流れてきた」
前髪キープとヘアケアに命を掛けていると公言し、語尾を伸ばして喋る甘えん坊キャラの彩葉と、しっかり者で派手なメイクやファッションが好きなコスメオタクの心春。ふたりのテンションが上がり、声が一段と大きくなる。
彩葉が行こうと提案したお店は、私たちの通う高校から電車で5駅離れたショッピングモールに入っているポップアップストア。
大手化粧品会社が大々的に打ち出したコスメシリーズが大ヒットしたのをきっかけに、学生にも手が届く価格帯の商品だけを取り揃えた、先月オープンしたばかりのコスメショップだ。
「そう! トリートメントもだけど、前髪用のキープミストがヤバいらしいの。絶対試してみたいって思ってさぁ」
誰もが知る有名な化粧品会社が手掛けたコスメはどれも優秀で可愛くて、SNSでバズった商品ばかり。人気の女性タレントやモデル、インフルエンサーがこぞって使っていると口にするため、人気はうなぎのぼり。
さらに期間限定のポップアップストアがオープンしたとなれば、連日行列ができるほどの盛況ぶりだ。
彩葉はテンションが上がったまま、私に話を振る。
「美波ちゃんはぁ? 今日行ける?」
彩葉につられるように、心春も私に視線を向けた。
――――本当は、今日こそ落ち着いてテスト勉強しようと思ってたんだけどな。
2年生になったばかりだけど、明日は早速実力テストがある。範囲は『1年生で学習した部分すべて』。
進級してからずっと、そろそろちゃんと勉強した方がいいかもしれないと危機感を持ち続けているものの、放課後は『新しい友達と親睦を深めるため』と自分に言い訳をして遊び回っている。このままでは、テストの点数は壊滅的だ。
けれど、ふたりの期待のこもった眼差しを見たら、そんなことは口にできそうにない。
私は無理やり口角を上げて笑ってみせた。
「もちろん! 私もそのお店気になってた。コスメもヘアケアグッズも、すごく可愛いよね」
私が答えると、ふたりは嬉しそうに目を輝かせた。
「だよね! やっぱ美波もチェックしてた?」
「うん。よくおすすめでも流れてくるし」
「さすが美波ちゃんっ!」
ふたりの影響で、コスメやヘアアレンジを紹介しているSNSをチェックするのが、ここ最近の新しい日課となった。
授業の予習よりも、彩葉と心春との会話についていけるようスマホで情報を得るのに時間をかけている。
だから当然、私もそのポップアップストアの存在は知っていたし、いつかふたりが話題に出すだろうなとも思っていた。
努力が無駄にならなかったことにホッとするのと同時に、自分は一体なにをしているんだろうという疑問が胸をよぎる。
たいして興味のない情報を必死に覚えて、なんの意味があるんだろう。
そんな頭の中に浮かんだ考えを追い出すように、髪の毛を整えるフリをして首を振った。
――――いやいや、友達に合わせるのは大事でしょ。大丈夫、みんなテスト勉強なんてしてないもん。
大丈夫だと何度も自分に言い聞かせていると、彩葉が甘えるように腕を巻きつけてくる。
「ねぇ、遊びに行く前に美波ちゃんのヘアアレンジしたぁい!」
「えっ?」
「美波ちゃん、長さはあるのに基本おろしてるだけで、もったいないと思ってたんだぁ。ちょっといじってもいい?」
「じゃあ私は美波のメイクしたい。いつもナチュラルメイクだよね。美波ならもっと盛れそうなのに」
ふたりに指摘され、心臓がドキッと大きく跳ねる。
ヘアアレンジもメイクも、朝から時間をかけて頑張る気にはなれないのが正直な気持ちだ。朝が弱い私は、その時間があるのなら少しでも長く寝ていたい。
だけど、そんな本音をふたりに言えるはずはない。
どう答えるべきか、少しだけ考えて口を開いた。
「自分じゃいつも同じ感じになっちゃうんだよね。無難な色ばっかり使っちゃうっていうか。髪型も色々したいとは思うんだけど、私あんまり器用じゃないから編み込みとかスルスルできなくて。ふたりに教えてほしい」
ちょっとした悩みを打ち明けるように話すと、心春は私の言い分に納得したように頷く。
「たしかに美波はベージュとかコーラルばっかりだよね。ブルベだし、もっと青みピンクとか絶対似合うのに。これからの時期だとラベンダーとかさ。任せて、可愛くしてあげるから」
「せっかくだから服も見に行こうよぉ。美波ちゃん改造計画、楽しそう!」
前のめりに詰め寄ってくるふたりから、それぞれふわっと甘い香りが漂い、女子力の高さにクラクラする。
私は彼女たちのように華やかじゃない。というよりは、ヘアメイクやファッションにそこまでこだわりがない。
それなりに可愛くなりたいと思っているし、小学校高学年になった頃から身だしなみには気を使っているつもりだ。
でもそれは寝癖を直したり、トイレに行くたびに一応鏡を確認したり、唇がカサカサにならないようにリップクリームを塗ったりする程度。日焼け止めを塗ったり、休みの日にはマスカラとグロスでメイクをした気分を楽しむぐらいのものだった。
彩葉や心春みたいに流行の最先端を追いたいと思っているわけじゃないし、オシャレの優先順位も高くない。
一方、彼女たちは遅刻しようと自分の納得するヘアメイクじゃないと家を出ないし、映画を観たりケーキを食べに行くよりも美容院やコスメ、ファッションにお金をかける。
授業や課題は二の次、三の次。暇さえあれば美容系のインフルエンサーの動画を見たり、新作アイテムのチェックをしているらしい。
もちろん、そんなふたりを否定するつもりはない。ひなた野高校には髪型やメイクに関する校則はない。どんなヘアスタイルにしようと派手なメイクをしようと本人の自由だ。
彩葉と心春だけじゃない。この高校に通う生徒の多くは髪を染めているし、女子はしっかりメイクをしている。
制服を着崩すのも自由で、式典でもない限りブレザーを着ている生徒はほとんどいない。彩葉は真っ白なセーター、心春はダボッとした赤いパーカーを羽織って、制服をオシャレに着こなしている。
だから私も高校に入学して1ヶ月も経たないうちに髪を染めて、慌ててメイクを覚えたし、制服に合うニットベストやパーカーをいくつか買い足した。
――――本当はこんな高校、来たくなかった。
誰にも言えない醜い本音を隠し、私は周りから浮かないように、ただ流されるように毎日を過ごしている。
早速、彩葉は私の毛先を巻いて器用にサイドを編み込み、心春は大きなメイクポーチの中身を駆使して私の顔にブラシで色をのせていく。
されるがままになりながら窓の外に目を向けると、雲ひとつない青空が遠くまで広がっていた。
『落ち込むことがあったら、空を見ればいい。そうすれば元気になれる』
晴れ渡る空を見ると必ず思い出す、声変わり前の少年の声。彼との思い出は、癒えない私の心の傷を何度でも抉ってくる。
視界いっぱいに広がる美しい青空。果てしなくどこまでも続いていて、あまりにも大きくて、私のちっぽけな悩みとか愚痴なんて全部飲み込んでなかったことにしてくれる気がしていた。
けれど隣で一緒に空を見上げていた彼は、もう私のそばにはいない。
――――うそつき。
そんな風に心のなかで悪態をついていると、
「美波? どうかした?」
心春が心配そうに声をかけてくる。
私は「ううん、なんでもないよ」と首を振って窓から視線を逸らした。
「明日は実力テストかぁって思っただけ。範囲広すぎて嫌になっちゃう」
はぁっとため息をつき、肩を竦めて苦笑してみせる。
その話題をチョイスしたのは、ちょっとした悪あがきだった。〝やっぱり今日は勉強する?〟なんて展開を期待していたのかもしれない。
だってテスト直前に遊びに行くなんて、これまでの私の常識からするとありえない行動だ。
もちろん、遊びに行くのが嫌だというニュアンスは決して出さない。ふたりに合わせて、勉強するのはめんどくさいっていうスタンスの話し方。
ふたりも嫌々ながら、さすがに前日だし真っすぐ帰って勉強しようと思い返すんじゃないかな、と考えた。
けれど、返ってきたのは期待を打ち砕くような言葉だった。
「え、もう明日だっけ?」
「知らなぁい、だってテストとか私には関係ないし」
首をかしげるふたりに絶句する。
新学期が始まってすぐに実力テストがあるのは1年生の頃から変わらないし、さっきホームルームで担任の先生から話があったばかりだ。
高校に通っている以上、テストが関係ないはずないのに、彩葉は「それより、この携帯アイロン失敗だったかもぉ。色が可愛くて買ってみたけど使いにくぅい」と口を尖らせている。
「そんなこと言ってるから毎回赤点で泣く羽目になるんでしょ。美波、知ってる? 全教科赤点だと長期休みの補習は強制参加じゃない? 彩葉は今のところ皆勤賞なの。ヤバいでしょ」
「あ、ひどぉい。心春ちゃんだってテストの存在忘れてたくせにぃ」
「私は彩葉ほどひどい点数取らないもん」
ふたりの会話を聞き、頬が引きつりそうになるのを必死で堪えた。
赤点なんて生まれてこの方取ったことがないし、それを平然と話しているのも信じられない。
――――こんな環境で、勉強なんてできるわけないよね。
学校は勉強をする場所だ。だけど、実際はただ勉強していればいいわけじゃない。
周りの友達と合わせながら、波風立てず、穏やかに毎日を送れるように気を張っている。
新学期早々、せっかく新しくできた友達との和を乱すのも得策じゃないし、この先も一緒にいられるような関係性を築くには始めが肝心だ。
誰にともなく心の中で言い訳をしている間に、ふたりは手際よく私を変身させてくれた。
「よし! 完成っ!」
「うんっ! 美波ちゃん、可愛くなったよぉ!」
口々に褒められて鏡を見ると、SNSでコスメやヘアアレンジを紹介している可愛い女の子たちのように、垢抜けた女子高生が映っている。
「わ……、すごい」
お世辞でもなんでもなく、メイクもヘアアレンジもプロの人にやってもらったみたいだ。自分では到底マネできそうにない。
「印象変わるでしょ? 美波は色が白いし、少しくすんだ青みピンクが似合うんだよね」
「私はバッサリ切っちゃったから、久しぶりにロングのアレンジできて楽しかったぁ」
変身させてもらったのは私なのに、彩葉と心春は私以上に嬉しそう。オシャレに全力で、そんなふたりを見ていると、私も自然と笑顔になる。
「ありがとう。可愛くしてもらえて、すごく嬉しい」
「どういたしまして」
「ふふっ、やっぱり女の子って楽しいねぇ」
彼女たちと価値観は違うけれど、一緒にいて楽しいのは嘘じゃない。彩葉と心春のテンポのいい会話は聞いているだけでも面白い。ふたりが本当にヘアアレンジやメイクが好きだと伝わってくるし、可愛くなるための努力をするのは純粋に気分が上がる。
3人で笑い合っていると、彩葉が心春の手を指さした。
「あれ、心春ちゃん。指切ったぁ?」
「え? うわ、ほんとだ。さっき紙で切ったのかも。こういうのって気付くと地味に痛いよね」
「大丈夫? 私、絆創膏持ってるよ。先に傷洗ったあとに使ってね」
私はポーチから取り出した絆創膏を心春に渡した。昔からこういう怪我などを見逃せず、ついお節介を焼いてしまう。
「ありがとう」
「美波ちゃん、女子力高ぁい」
大きなお世話かな?と心配だったけど、大丈夫だったみたいでホッとする。
ふたりと仲良くしていきたいと思っているものの、まだ知り合って日が浅く、距離を詰めるのもさぐりさぐりの状態だ。
高校に入学して、もう1年が過ぎた。
新しいクラスになり、彩葉と心春という友達ができたのだから、人間関係は及第点。だけどそれ以外のことになると、私はいまだに進むべき方向を見失っている。
幼い頃からの夢を叶えようと思うなら、大学への進学は必須。それなのに1年生の頃はなにをするにもやる気がおきず、勉強なんて授業を聞く以外ではほとんどしていない。
本気で大学進学を目指すのなら、そろそろ受験に備えて勉強に本腰を入れなくてはいけない。けれど、どれだけ努力したところで報われるとは限らない。
――――あんなに頑張ったのに、結局私はこの高校にいるんだから。
「そろそろ行こっか。手洗いたいからトイレ寄らせて」
「オッケー!」
過去を嘆いても仕方ないし、今勉強しないと後々の自分の首を締めるだけだと本当はわかってる。
それでも今の私には、このまま帰ってテスト勉強したいと言い出す勇気も、そこまでして勉強しようという気概もない。
――――大丈夫。大学受験なんて……将来なんて、まだまだ先の話だし。
そう自分に言い訳をした鏡の中の私は、中学生の頃とは別人のような顔をしていた。
2日後。返ってきた実力テストの結果は散々だった。
さすがに赤点はなかったし、彩葉と心春は私の順位を見てすごいと褒めてくれたけど、明らかに勉強不足。
過去を思い返してもこんな点数を取ったことがないし、自分でももう少しできていると思っていた。
でも結果はこれ。何度見てもひどい点数で、自業自得なのに視界に入るだけでイライラしてしまう。本来なら見直しや復習をするべきだけど、私は答案用紙を丸めてゴミ箱に捨てた。
テストの前日くらいまっすぐ家に帰って勉強していれば、もう少しマシな点数だったに違いない。そんな言い訳ばかりを並べ立てる。
あの日、学校を出てショッピングモールに着くと、お店はかなり混雑していた。
ふたりのテンションは上がりっぱなしで買い物時間は長くなり、レジで会計するにも長蛇の列。その後、別の店でもコスメや服を見て回り、夜ご飯まで食べていくことになった。
帰宅したのは午後8時。お母さんのなにか言いたげな視線を無視して自分の部屋に引きこもり、ふたりに勧めてもらった美容系インフルエンサーの配信を見ながら、その日買ったばかりのコスメをメイクポーチに移し替えた。それからお風呂に入り、落ち着いた頃には10時半を過ぎていた。
結局、机に向かったのはたった30分程度。そんな短時間で、去年1年の総復習ができるわけがない。
テストの点数もショックだけど、自己嫌悪で潰れそうな理由はそれだけじゃなかった。
――――私は、いつまで他責思考でいるつもりなんだろう。
この高校では私が望む高校生活は送れない。だからなにもかも適当でいい。そう思ってるくせに、必死に居場所を見つけようと周りに合わせている。
努力したって報われない、馬鹿らしいとひねくれた考え方をする一方で、本当は勉強しなくちゃという焦りを拭えない。
いつまでも周りや環境のせいにして何も努力しようとしないくせに、子供の頃からの夢も、真面目で優等生な自分も捨てきれないのだ。
矛盾してる。なんて滑稽なんだろう。そう思っているのに、どうしたらいいのかわからない。このままじゃダメだという自覚はあるのに、身動きがとれないまま時間だけが過ぎていく。
以前の私は、こうじゃなかった。
小児科医になりたいという夢を抱き、何をするにも一生懸命だった。
小学校でも中学校でも周りの友達に恵まれ、勉強も部活も楽しかったし、不安なんてなにも感じていなかった。
両親との仲も良好で、特に小児科で看護師として働く母は、私が医療職を目指すと知ると喜んで応援すると言ってくれていた。
そんな順風満帆だった人生が一変したのは、去年の春。
私は、高校受験に失敗した。
自宅から自転車で通える距離にある都立星凛高校は、都内でも偏差値が高いことで知られる進学校。私は当然のように星凛高校に通う気でいたし、そのためにできる努力はしたつもりだ。
中学3年の夏にソフトテニス部を引退したあとは食事と睡眠時間以外はひたすら勉強して、塾にも通って、担任の先生からも塾の講師からも『このままいけば大丈夫』だとお墨付きをもらっていた。
だけど、私は落ちた。
体調が悪かったとか、受験会場に着くのが遅れたとか、なにか不測の事態が起きたわけじゃない。確かに少し緊張はしていたけれど、友達数人と一緒だったから心強かったし、しっかり睡眠を取って朝ご飯も食べて、受験当日は万全を期して臨んだはずだった。それなのに……。
――――嘘でしょ……?
合格発表のサイトを見た時、頭が真っ白になった。
何度見ても、どれだけ確認しても、自分の番号がない。その前後の番号はあるから、きっと友達はみんな合格している。だけど、私の番号だけがない。
その現実は、私を容赦なく叩きのめした。
これまでの努力が全部無駄だった気がして、足元からこの世界がガラガラと崩れ去っていくくらいの絶望感。
目の前が真っ暗で、なんの音もしない。
悲しい、悔しい、恥ずかしい。そして……受かった人が羨ましくて、妬ましい。
それまで大きな挫折を知らずにきた私のプライドは粉々に砕け散った。ネガティブで真っ黒な感情が胸の奥で渦巻き、息ができない。
それ以来、中学時代の友達とは疎遠になり、私は家から電車で通う位置にある私立高校に進学した。
「……いってきます」
誰にも聞こえないくらいの声量で告げて玄関を出た。
両親は、以前の私との変わり様になにも言わない。受験に失敗した私を、いまだに腫れ物扱いしている気がする。
急にメイクをしだしたり髪を染めたりした時も驚いていたけれど何も言われなかったし、夜ご飯を友達と食べてくると急に連絡したって怒られることもない。
いつか小児科医になりたいと夢を抱きながらも、早々に躓いてしまった私に失望しているのかもしれない。
煩わしさは何もないはずなのに、干渉されなさ過ぎると見放されている気がしてモヤモヤする。
じゃあどうしてほしいのかと言われても、明確にこうしてほしいという要望があるわけではない。きっと両親だって困るだろう。自分でもわがままだと呆れてしまう。
朝、目覚めるたびに思う。
もしも星凛高校に受かっていたら……。
きっと紺色の襟のセーラー服を着て、一緒に合格した友達と切磋琢磨しながら青春しているだろうし、学校に行くのが嫌で仕方ないという朝を迎えることもなかったはずだ。
そんな考えても仕方のない〝もしも〟を繰り返し思い描いては、現実との差に落胆する。
目標もなくただ学校に行って、適当に授業を聞き流して、友達が楽しそうに話すコスメの情報に相槌を打つ。そんな日々の繰り返し。
今日も同じように考えて、ため息をつく。
私が住んでいるマンションは高台に建っていて、13階からの眺めは悪くない。慣れきった今はもうなにも感じなくなっているけれど、やはり地上にいる時よりも空が近い。
今日は雨は降っていないものの、あまりいい天気とは言えない。厚い雲に覆われた空を見上げてみたけれど、気分はひとつも晴れなかった。
エレベーターを降りてマンションのエントランスを出ると、いつもと同じ景色の中に、ひとつだけ違う点があるのに気がついた。
正面の階段とスロープの手すりに、誰かが腰掛けて空を見上げている。
黒いパーカーを羽織った、同い年くらいの男の子。
その正体に気づいた私は、ハッと息を呑んだ。それと同時に、彼もこちらに視線を向ける。
太陽の光に透ける色素の薄いサラサラの髪や、スラッとした細く長い脚が人目を惹くけれど、一番印象的なのは黒目がちな大きな瞳だ。
私が知っている同年代の男子で、誰よりも整った顔をしているその彼が、少し驚いた顔をしてこちらをじっと見つめていた。
心の奥底まで見透かしそうな眼差しで私をとらえると、すぐに見覚えのある爽やかな笑顔を向けてくる。
「久しぶり、美波」
懐かしい声に呼ばれ、胸の奥から様々な感情が湧き上がってくる。
三浦空。私の同級生で、小学生の頃からずっと一緒だった幼なじみだ。
家が近所だったからお母さん同士の交流もあって、よく一緒に遊んでいた。
中学に上がってからは、お互いに部活があったり男女で遊ぶことに周囲が騒がしくなったりして一緒に過ごす時間は短くなっていったけど、それでも朝は一緒に登校していたし、かなり仲はよかったと思う。
だけど中学の卒業式直前、空は突然いなくなった。
担任の先生から『家庭の都合で急遽引っ越した』と聞かされ、クラス中がざわめいた。
何人もの友達から『美波はなにか聞いてるんでしょ』と詰め寄られたけど、私だってなにも聞いていない。ショックだったし、初めは意味がわからなかった。
だって私と違って、空は星凛高校に合格している。
それなのに、急に引っ越しなんて……。
どこに引っ越したのか、卒業式にも出られないほど急に引っ越しをしなくちゃならない理由はなんだったのか、私は今もなにひとつ知らない。
「なに、してるの……?」
本当はもっと聞きたいことがあるはずなのに、そんなことしか口にできない。
何の心の準備もできないまま久しぶりに会ったせいで咄嗟に言葉が出てこないし、なんとなく気まずさも感じる。
それは空がいなくなってしまう直前、私たちが激しい言い合いをしたのが原因だ。
『空に私の気持ちなんてわかんないよ! もうほっといて!』
小学生の頃はちょっとしたケンカなんて頻繁にしていたけど、あんなふうに感情的に言葉をぶつけたのは初めてだ。
その名残もあって、誰にもなにも告げずに唐突にいなくなった空に腹が立ち、意地を張ってすぐに連絡をしなかった。
中学を卒業して1ヶ月経ち、ようやく冷静になって空にメッセージを送ってみると、【メンバーはいません】という表示が出るのみ。電話も繋がらず、1年以上音信不通のまま今に至る。
ケンカ別れのような最後を引きずっているのは私だけで、彼にとって私は、離れてしまえば忘れられるくらいの存在だったんだろうか。
この1年、そんな考えが頭に浮かんでは苦しくなった。
それなのにこうしてふらりと現れて、何事もなかったかのように笑いかけてくるなんて、どういうつもりだろう。
平日の朝7時半。どうして空は私のマンションの前にいるんだろう。彼だって学校へ行く時間のはずだ。
そういえば、空はどこの高校に通っているんだろう。星凛に受かったはずだけど、引っ越したなら別の学校に行っているのだろうか。
「ちょっと会わないうちに、ずいぶん変わったな」
ここで何をしているのかという私の質問に答えることなく、空はじっとこちらを見つめる。
〝ずいぶん変わった。〟
それは私も自覚している。もちろん、決していい方向にではないということも。
彼の言葉が今の私を責めているような気がして、羞恥にカッと頬が熱くなる。
「空には関係ないでしょ」
ついキツイ口調で返してしまい、慌てて口を引き結んだ。
茶色く染めた髪やメイクをしている顔を空に見られたのが、とても恥ずかしい。自分でしたことだけど、そこに私の意志は1ミリも存在していない。
主体性のなさを彼に見透かされている気がして、今すぐ消えてなくなりたい気分だ。
空は私の感じの悪い返事を咎めるでもなく、じっと視線を逸らさないまま。穴が空きそうな眼差しと沈黙の時間に耐えきれず、仕方なく口を開く。
「……なに?」
「高校、楽しくないのか?」
――――楽しいわけないじゃん!
反射的に叫びそうになるのを、グッと堪えた。
空が私に向ける表情が、ショックを受けているかのように見えたから。
どうして、そんな顔をするの?
空だってわかっていたはずだ。
私がどれだけ星凛に行きたかったか、そのためにどれだけ努力したか。それが叶わなかった時、私がどれだけ落ち込んで絶望したのかを。
あの日、私の家まで励ましに来てくれた空に対し、私は感情的に言葉をぶつけた。そんな私に珍しく空も怒りをあらわにして、私以上の大声で言い返してきた。
それ以来、ずっと疎遠のまま。
いつまでも受験に落ちたのをうじうじと引き摺る私に呆れて、引っ越しすることを教えてもらえなかったのだと思っていた。
あの日のように声を荒げてしまったら、私だけ成長していないみたいで恥ずかしい。いや、実際なにひとつ成長していないんだけど。
でも私は虚勢を張って、無理やり笑顔を貼り付けた。
「別に。普通だよ」
本心を隠して笑顔をつくるのが得意になった。そんなところだけ成長したって仕方ないのに。
私の答えに、空は眉をしかめた。
もしかしたら作り笑顔がバレているのかもしれないけど、だからといって別に困るわけじゃない。
「それより、どうして空がここにいるの?」
これ以上学校の話をしたくなくて、私はもう一度同じような質問をした。実際、なんでここに彼がいるのか、なにをしているのか、単純に疑問だった。
「美波に会いに来た」
「私に?」
「そう。少し遅れたけど、4月は美波に会わないと始まんないから」
「え?」
「俺と美波だけ、今日が4月1日ってことにしよう」
意味がわからなくて首をかしげたけれど、すぐに空の言いたいことを理解した。
4月1日といえば、世間一般的にエイプリルフールとして認知されている。
この日だけは嘘をついてもいいという世界共通の風習で、海外では嘘の記事を掲載したり報道番組でフェイクニュースを放送したりと、市民権を得ているおかしな文化だ。
昔から、空は毎年この日に嘘をつく。
幼い頃は『心のきれいな人にしか見えない消しゴム』とか『大魔王に呪いをかけられた』とか、そんなくだらない嘘ばかり。
けれどどんどん巧妙になって、『中学から数学の教師がAIになる』とか『イチゴに醤油をかけたら桃の味がする』といった、実は本当かも?と思ってしまうような嘘に、私は毎年騙されてきた。
そのたびに『もうっ! またやられた!』と私が怒ると、空はしてやったりと満面の笑みを浮かべながら心のこもっていない謝罪をする。
そして『はい、これお詫び』と言って、毎年ちょっとしたプレゼントをくれるのだ。
そんな他人から見たらわけのわからないやりとりの始まりは、確か小学3年生になる直前の春。
空はわざわざ私の家まで来て、インターホン越しに『公園に宇宙船が停まってる!』と叫んだ。
『えっ、本当? 見たい!』
私は大慌てでいつも遊んでいる公園に走ったけど、当然宇宙船なんてない。
すぐに嘘だと気付いて、後ろからニヤニヤしながらついてきた彼に対し『もうっ! うそつき』と頬を膨らませ、パシッと肩を叩いた。
『イエーイ! エイプリルフール!』とドヤ顔をする空が楽しそうで、騙された私まで笑ってしまった。
そして、せっかく公園に来たのだからと数時間遊んだあと、彼は帰り際にリュックからピンク色の袋を取り出して、少し照れくさそうに『んっ!』と腕を伸ばした。
『なに?』
『嘘ついてビックリさせたから、やる!』
『え?』
『じゃあな!』
脱兎のごとく走り去っていった空の後ろ姿を見送り、家に帰ってあけてみる。中には『もちっとフレンズ』というゆるキャラのメモ帳が【ハッピーバースデー】と書かれた包装紙でラッピングされていた。
ちょっとブサイクな表情のぱんだや、セクシーなお姉さんっぽいうさぎ、バイクを乗り回しているねこなど、顔の輪郭がもちっとしたユニークなキャラクターだ。
『ふふっ、なにこれ。かわいい』
4月1日はエイプリルフールだけど、実は私の誕生日でもある。
誕生日おめでとうの言葉がなくても、空が私を祝ってくれているのは十分伝わってきた。
その年以降、なぜか空は毎年私の家に来てくだらない嘘をついては、お詫びと称してプレゼントをくれた。
それが嬉しくて、私は毎年空のつく嘘に怒ったふりをしながら、今年はどんな嘘で楽しませてくれるんだろうと楽しみにするようになった。プレゼントよりも、楽しませてくれようとする彼の気持ちが嬉しかったから。
けれど、それも中学まで。高校生になる前に、空は私の前からいなくなってしまった。
当時の私は希望していた星凛に行けないのが悲しくて自暴自棄になっていたし、空が謝ってくるまでは連絡をしないと意地を張っていた。
小さなケンカは何度もしてきたし、そのたびに仲直りをしてきたんだから大丈夫だって、どこかで楽観視していたんだと思う。
そんな私の考えに反して、1週間、2週間経っても連絡はない。そして1ヶ月が経つ頃には、もう彼に連絡を取る手段は一切なくなっていた。
そこまで思い返して、私はひとつの考えに思い至った。
――――もしかして、仲直りをしに来てくれた……とか?
あのケンカから1年以上が経つ。
嫌なことがあって空を見上げるたび、彼を思い出して余計に苦しくなった。
もう二度と会えないかもしれないと、ずっと心の奥底で燻っていたけど、連絡が取れない以上どうしようもない。
けれど今、空は私に会いに来てくれた。
目の前に立っている空は以前と少しも変わっていないように見える。1年前の大喧嘩なんて忘れてしまっているかのようだ。
そして『今日が4月1日ってことにしよう』と言った。
4月1日といえばエイプリルフール。そして私の誕生日。
毎年なんの約束もしていないけど空が私の家にやって来て、くだらない嘘をついて、そのあとふたりで遊びに行く。そして、必ず別れ際に『うそをついて驚かせたお詫び』と称したプレゼントをくれる日だ。
誕生日当日ではないけれど、今年もお祝いするために来てくれたのかもしれない。
私が少しの期待を胸に空を見つめると、彼はニッと不敵な笑みを浮かべた。
「わかった? 今日は祝日だから学校は休み。だからこれからちょっと付き合って」
「……思いっきり平日だけど」
「知らないの? 今年から制定されたんだよ」
そんなの嘘だってわかりきってる。だからこそ、私は確信した。やっぱり彼は私の誕生日を祝うためにここに来てくれたんだ。
きっと当日は予定が合わなくて来られなかったから、今日を4月1日ということにしたいに違いない。
「祝日って、なんの日なの?」
ニヤけそうになる頬をぎゅっと引き締めて、私は彼に尋ねてみる。
「空の日」
海の日、山の日の次は、空の日?
安直な命名の祝日を至極真面目な顔で答える空に、私はうっかり噴き出しそうになった。
「なにそれ。適当な祝日」
「失礼な。めっちゃいい日だろ」
「自分の名前だから?」
「そう。俺の日でもある」
「あはは! 俺の日って」
ついに私が笑うと、空はしてやったりと口の端を上げた。
「お、笑った」
「……笑ってない」
たわいないやりとりがとても懐かしくて、胸が痛い。
だって同じようなやり取りをしていても、あの頃と今の私では全然違う。
「よし、行くぞ」
「え? あ、ちょっと待ってよ」
空は強引に私の手首を取って歩き出そうとする。
「どこに行く気なの?」
「んー、そうだな。それを考えながらまずはブラブラ歩くか」
「えっ? 今から?」
誕生日を祝おうとしてくれる気持ちは嬉しい。でも今日は新しく制定された祝日などではないから、ちゃんと学校がある。
明日は土曜日だし、特に予定も入っていない。日を改めようと空に提案する。
「ごめん、明日じゃダメ? それなら予定ないから――」
「他の日じゃダメなんだ。どうしても今日、美波に一緒に来てほしい」
私の言葉を遮ると、手首を掴む指に力が込められる。そんな必死な様子の空に戸惑いを覚えた。
どうしても今日じゃないとダメな理由はなんだろう。
空がこだわっているのは4月1日、つまり私の誕生日。
それならもう2週間も過ぎてるし、代わりの日はいつだっていいはずだ。
それとも、今日じゃないといけない何かがあるとか……?
わけがわからないけど、仲直りや誕生日のお祝いをしにきてくれたのかもしれないと思うと無碍に追い返すことはできないし、したくなかった。
あの日、嫌な言い方をしたことを謝りたい。それに、なんで突然なにも言わずに引っ越してしまったのかも聞いてみたい。
けれど、なんとなくバツが悪くて、自分からあの日のことを言い出すにはもう少し心の準備が必要だった。
空に手首を掴まれたまま、ぐっと顎を反らしてどんよりとした曇り空を見上げる。
学校に行くのが憂鬱だからといって、これまで一度もサボったことはない。
テキトーでいいと思いながらも、中途半端にいい子ぶっている自分が嫌になる。
どうせ授業を聞いていても上の空。テストだって信じられないほどヒドイ点数だった。
それなら今日1日学校に行かなかったところで、何かが変わるわけでもない。
「……まぁ、1日くらいいっか。いいよ、一緒に行く」
そう言って了承すると、空は笑った。
その笑顔がどことなくいつもと違ったように見えたけど、私は気にも留めなかった。