これから俺は人生最大の嘘をつく。
人生最大、なんて大げさに聞こえるかもしれないけど。十七年間生きてきて、半分以上持ち続けた想いに背くのだから間違ってはいないと思う。
初めての恋。初めてだから仕方ない。叶うわけがない。それでもずっと想い続けて、隠し続けて、伝えることもせずにゴミ箱に捨てる。こんな嘘はきっと後にも先にもこれだけだ。
――これから俺は、人生最大の嘘をつく。
「悠太は? どれにする?」
校舎の明かりから離れた自動販売機の前。ぼわりと滲んだライトが目に沁みる。ほんの数分前までは聞こえていた部活動の声が消え、背を向けている駐輪場からは「またな」と交わし合う声が響く。辺りは夜の色に覆われていた。もう三月だというのに春の気配はまだ遠く、寒さの増した空気が肌に刺さる。
白い息とともに浩輔の視線が肩越しに向けられる。「ん?」と小さく傾く唇。切れ長の瞳には薄く影が落ちる。太く長い指が自販機のボタンへと向けられたまま止まっている。浩輔を形作るひとつひとつを刻んでいきながら不自然に聞こえないよう注意する。
「あー、ミルクティーかな」
答え終わらないうちにガコン、と派手な音を立ててペットボトルが転がり落ちた。
「先に押しただろ」
抗議しつつカバーを上げて取り出せば、手の中から熱が流れ込む。ずっと持ち続けているのは難しいくらいに熱い。「あったけ」と息を溶かしながら頬にあてる。体育館で走り続けている間は暑くて仕方なかったのに。片付けと着替えをすませ、部室棟を出たら寒さに体が縮んだ。
「悠太いつもそれじゃん」
「じゃあ、なんで聞くんだよ」
ピッと指先が押し込まれ、先ほどよりは固い音が落ちてくる。
「んー、いちおう?」
「なんだよ、『いちおう』って」
ミルクティーのボトルをコートのポケットにしまってから、手を伸ばす。「つめたっ」思いがけず低い温度に触れて思わず指先が縮む。中腰のまま振り返ればにやりと笑われる。
「なんでこんな日に冷たいのにするんだよ」
わけわかんねー、と呟きながらもどうにか細い缶を取り出す。温まり始めた体温が固い表面に奪われていく。さんきゅー、と口笛でも吹くみたいに尖った口の先を視界の中心に置かれ、一瞬だけ触れた指先にきゅっと心臓が痛みを鳴らした。
「……変わってないか確かめてんの」
「え?」
どういう意味? と尋ねる前に
「こっちもあげようか」
と缶を突き出される。
「いらねーよ」
「遠慮すんなって」
「遠慮じゃな……っ、冷たいっつってんだろ」
右頬に触れた冷たさを振り払って抗議すれば、ははは、と楽しそうに笑われる。白い息が一瞬にして夜に溶けていく。自動販売機のライトが逆光だったからだろうか。笑っているはずの浩輔の表情が泣き出しそうに見えたのは。
「浩輔?」
「あのさ、悠太……実は……」
浩輔が珍しく言葉を詰まらせる。
「なに?」
寒さのせいだってわかっているけど、浩輔の頬がいつもより赤くて。ドクン、と心臓が跳ねる。期待してしまう。無理だってわかっているのに。いつだって俺の心臓は浩輔に揺さぶられてしまう。
「なんだよ、改まって。あ、もしかして彼女できたとか?」
期待したくなくて傷つきたくなくて咄嗟に出てきたのは思ってもいない――いや、いつも起きてほしくないと思い続けてきた言葉だった。
「……うん」
落ちてきたのは雪みたいに小さなカケラ。触れたら簡単に消えるくらいの。夢だったことにできてしまうくらいの、そんな程度の声。それなのに俺の耳は憎らしいくらいに浩輔の声を掬い上げる。
「え、あ……マジ? え、誰だよ。つーか、いつから? 俺、全然知らなかったんだけど」
「今日の昼休みに」
「ああ、教室にいなかったもんな。そっか。あれ告白だったのか」
喋っていないと泣いてしまいそうだった。言ってしまいそうだった。
なんで。どうして。答えなんてわかりきっているのに。そんなことを聞くほうがおかしいってわかっているのに。
本当は知っていた。浩輔が呼び出されたことも。昼休みに中庭で話していたのも。でも、いつもと同じだと思っていた。浩輔ならいつもと同じように振るのだと。そう思っていた。だから安心していられたのに。
「よかったじゃん」
こぼれてしまいそうになる。俺だって浩輔のこと好きなのに。ずっとずっと前から好きなのに。
「ついに浩輔も彼女もちかよ」
ちゃんと笑えているか不安になってきた。浩輔が俺の気持ちに気づくことなんてないだろうけど。でも、今のこの寂しさはきっと見つけられてしまう。だから体ごと顔を背けた。自動販売機から離れてしまえば頼りない外灯しかない。振り返ることなく校門へと足を進める。
「今までは告られても誰とも付き合わなかったのに」
後ろから響く靴音さえ無視して走り出したい。自分の痛みのままに叫んでしまいたい。でも、できない。それだけはできない。俺から離れることなんてできない。そんなの自分が一番よくわかっている。だから苦しくても本心じゃなくても言葉を連ねていくしかない。
「その子、よっぽど可愛いかったんだ」
「……そうだな」
どうしてだろう。小さな小さな声なのに。冷たく吹きすさぶ風のほうがよっぽど大きいのに。俺の耳は浩輔の声を拾い続ける。聞きたくない言葉さえ拾ってしまう。
真っ暗な空間でしかないグラウンドを通り過ぎ、校門を抜けた瞬間だった。
「悠太」
静かな夜に響いた自分の名前。聞き慣れた、愛おしいその声に振り返らずにはいられなかった。
浩輔がどんな顔をしているのか、校門横の小さな明かりではちっともわからない。
「――お願いがあるんだ」
神さまが哀れに思ったのだろうか。最後に少しだけ俺の味方をしたのだろうか。だとしたら残酷だ。
「二十分前か」
スマートフォンの画面を確認して息を吐く。日曜日の駅前は俺と同じように誰かを待つひとで溢れていた。切符売り場、柱のそば、駅ビル前。腕時計を見る人、電光掲示板を見上げる人、スマートフォンを操作する人。ちらちらと視線を動かし、そっと息を吐く。待ち合わせている間の不安と期待が空気となって膨らんでいた。
電車が到着するたびに吐き出される人の波から離れ、駅ビルのショーウィンドウを背にする。横一列に並ぶ改札口を眺めながら昨日の出来事を思い出していた。
――デート、してほしい。
浩輔の口から落とされた言葉。
今までの会話を忘れてしまうくらい、ぶわりと体じゅうに熱が広がった。
「……へ」
間抜けな声だったと思う。それなのに浩輔はにやりともしなかった。いつもみたいに笑うことなく、静かにまっすぐ見つめてきた。
「誰かと付き合うの初めてだから、その、練習っていうか」
続けられた言葉に広がった熱は指先から引いていく。練習。彼女の前では失敗したくないから。俺相手なら気にしないから。だって友達だから。ただの幼馴染だから。
「しょーがねーなぁ」
傷つくとわかっていても頷いていた。もう一生こんなことないかもしれない。たとえ彼女の身代わりだとしても、予行演習に過ぎないのだとしても。それでもこれが俺にとっては初めての好きなひととのデートだから。
「悠太」
すぐそばで名前を呼ばれて顔を上げれば、黒い細身のコートを着た浩輔が立っていた。
「うおっ」
いつのまに来たのだろう。ビックリしすぎて変な声が出てしまう。
「うおって、なんだよ」
浩輔が吐いた息の中で笑う。ふは、って。目尻が下がる笑い方。俺が好きな表情。それだけでもういいかなって思えてきた。どこにも行けなくても。痛くて苦しいだけでも。浩輔が笑ってくれるならいいやって。泣きたくてたまらない気持ちは全部胸の奥にしまっておこうって。
「……笑いすぎじゃない?」
くつくつと小さく震える声に抗議すれば「楽しみにしてたからかな。テンションおかしいのかも」とさらに柔らかく笑われた。さらりとそんなこと言うなよ。ぎゅっと縮まった心臓をダウンの上から押さえる。
「はいはい。映画始まるから行くぞ」
両手をポケットに突っ込んで、スニーカーの先を出口へと向ける。繰り返される構内アナウンス。ホームから響く発車メロディ。消えることのないざわめき。隣にいても聞き逃してしまうのではないかと思うほど音が溢れている。それでも聞き取れてしまう。拾えてしまう。己の良すぎる耳が今だけは恨めしい。
「悠太」
小さく呼ばれた名前。視線だけを振り返らせれば、浩輔が長い脚を使って距離を詰めてくる。
「なんだ、よ……」
手の中に滑り込んできた体温に言葉が詰まる。
「デートだから」
「いや、そうだけど、でも」
――練習だろ? そこまでする必要ある? ぶわぶわと言葉は浮かぶが、どれも形にはならない。握り返せない。返せないけど、離れないでほしい。浩輔から近づいてくれたことが嬉しくて泣きそうになる。ぜんぶ練習でしかないのに。
「あ、でも初デートでいきなり繋いだらまずいのかな」
どう答えるべきかわからず固まる俺に「ま、いっか」と浩輔は笑い、狭いポケットの中でぎゅっと力を入れてきた。自分よりも低い温度。意識しなくても自分の熱は勝手に流れていく。ドクドクと心臓がここぞとばかりに働いてしまう。
「悠太の手、あったかいな」
「……浩輔が冷たすぎなんだよ」
そう絞り出すのが精一杯だった。飛び上がりそうなくらい嬉しいのに、浩輔が見ているのは俺じゃなくて「彼女」なんだと思ったら苦しくてたまらない。なんでこんな役、引き受けちまったんだ。
「なあ」
俺の苦しさなんか知らない浩輔は笑みを崩さないまま話しかけてくる。わずかに傾けられた視線に心臓はかわいそうなほど律儀に反応する。
「なに?」
それでも声は震えることなく出てくれた。小さな棘を必死に纏いながら。
「映画より遊園地に行かない?」
「え」
「な? そうしよ」
答える間もなく浩輔が体の向きを変え、繋いでいた手を外へと引っ張り出す。一瞬にして冷やされた手の甲が現実感を刻み、すぐにまた狭い温かさへと戻される。
「こっちで」
引き寄せられるままに今度は浩輔のコートのポケットへしまいこまれた。確かに予行演習なら俺じゃなくて、浩輔のほうに入れるのが正解だと思うけど。でも。
「そんな急に予定変更するのはどうかと思うぞ」
歩き始めた浩輔の半歩あとを追いながら言ってやれば、肩越しに振り返りながら「悠太は遊園地のほうがいいでしょ?」と声を弾ませる。
「そうだけど。そうじゃなくて」
だって、これはあくまで「彼女」とのデートのためで。俺の希望なんて必要なくて。わかっているのに。頭では理解しているのに。そんなことを言われたら揺れてしまう。うまく笑えなくなってしまう。
――嘘をつき続けられなくなってしまう。
「俺も映画より遊園地のほうがいいし」
付け加えられた言葉にぐるぐると渦巻いていた感情が落ち着いていく。浩輔が行きたいならいいか、と思えてしまった。
「最初からそう言えよ」
「ごめん、ごめん。天気予報がさ、ずっと雨だったから」
「あー、そういえばそうだっけ?」
「悠太はほんとに気にしないよね」
「浩輔が確認してくれれば濡れずに帰れるしな」
俺が余裕をもって朝の支度を終えることなんてほぼない。できるだけ布団の中で過ごしていたい。もう三月だというのに朝は相変わらず寒い。用意は最小限に。その中に天気予報をみる、という行為は含まれていない。出る瞬間に降っていないなら傘は持っていかない。雨の予報が出ていれば浩輔が持ってきているはずだから。
でも、もう……それもないのか。当たり前に一緒に帰っていたけど。きっとこれからは別々になる。浩輔は彼女と帰るだろうから。
「悠太?」
「あ、えっと、バスで行く?」
「うん」
映画館へと向かうはずだった出口とは反対。大きなバスロータリーを目指し進んでいく。手は繋いだまま。ポケットにしまわれているから体を寄せればきっと気づかれないだろう。溢れているざわめきは次第に遠くなっていった。
バスに揺られて三十分。カラフルなゲートからは愉快な音楽が流れてくる。
「チケット買ってくるから並んでて」
あっさりと離された体温。生まれた寂しさをぎゅっと握りつぶす。開園からは二時間ほど経っていたが、休日だからか入場を待つ列ができている。
最後尾に加われば、目の前には自分の腰ほどしかない男の子がふたり、それぞれ母親と手を繋いでいた。小学校低学年くらいかな。母親同士が話していても気にせずふたりで「どこから行く?」「おれジェットコースターがいい」と声を弾ませている。
――ジェットコースター、乗れるかな?
盛り上がるふたりを視界に入れながら、思い出されたのは声変わり前の幼い浩輔の声。たぶん十年くらい前。目の前の親子と同じように俺と浩輔も母親たちに連れられてこの遊園地に来たことがある。そのときはまだ俺のほうが背が高くて、「大丈夫だよ」なんて無責任に返していた。結果として俺の身長はぎりぎり足りたけど、浩輔は足りなかった。
「浩輔にはべつの乗せるから。悠太くんは気にせず乗ってきて」
おばさんはそう言ってくれたけど、俺は首を振った。「浩輔と一緒じゃないならいい」って。あのときはまだ自覚していなかったけど。浩輔のことが特別で大事だってことは確かだった。
「お待たせ」
今の自分よりも背が高くなった浩輔の声に顔を上げる。「ありがと」差し出されたチケットを受け取り、胸の奥で揺れ続ける音から耳を塞ぐ。
「懐かしいな。昔来たよな」
「浩輔の身長が足りなくてジェットコースター乗れなかったんだよ」
「悠太はギリギリ足りたのに乗らなかったんだよな」
進み始めた列に合わせて足を動かす。前に並ぶ男の子たちの話題は夕方に放送されているアニメに変わっていた。俺たちの思い出もきっとそんな程度のことなのだ。今は思い出せるけど、そのうち褪せていって、懐かしさだけを感じるようになる。それくらいのものだから、今日のこの出来事もあっさりと思い出に変わるのだろう。
「……っ」
「悠太?」
不自然に空いたスペースに落ちる影は重ならない。練習だろうと彼女の身代わりだろうとそれでもよかった。浩輔が隣で笑ってくれるならどんな理由でもいいと思って、それで嘘をつこうと決めた。
昔の思い出は同じ重さのままでも、今日のこの日の出来事は違う。俺にとっては大切な忘れたくないデートでも。浩輔にとっては彼女との練習のための、単なる幼馴染と遊んだだけのそういう思い出にしかならない。
それならもう幼いときのままの思い出として残しておいたほうがきっといい。
これから先、浩輔が彼女とここにくることもあるだろう。そのとき思い出すのはこんな嘘だらけのデートなんかじゃなくて。純粋に大事に思えていた、思い合えていたころのものであってほしい。彼女との思い出とは違うベクトルで大切にしてほしい。
「どうかした?」
伸ばされた腕を避けるように体を引く。
――これが最後の嘘でいい。
吸い込んだ空気の冷たさが体内に広がっていく。お腹の底まで響いたところで手をあてる。今なら笑顔を無理に作っても不自然じゃない。
「浩輔、ごめん。俺ちょっとお腹痛くなってきたから帰るわ」
「え」
「ほんとごめん。あのさ、今からでもその付き合うことになった彼女に連絡してみたらどうかな。午後だったら会えるんじゃない? ちょっと急かもしれないけど、でも、きっと喜んでくれるよ」
溢れ出す前に繋いで、浩輔の声が挟まれる隙を埋めて、無理やり押し出した言葉を残して、列から離れる。「悠太っ」浩輔の声が聞こえても振り返らない。お腹痛いって言ったくせに全力で駆けていく。もういい。これくらいの嘘ならバレてもいい。気を遣ったんだなって思うかもしれない。練習が嫌だったって気づいてもいい。どうせ本当の気持ちまでは気づかない。握り締めた手の中でチケットが乾いた音を立て、皺を寄せたが構わず走り続けた。
身長は抜かされたけど、足はまだ俺のほうが速い。加えてこの人混みだ。バスロータリーから離れた場所に向かえばきっと見つからない。だから、それまで……。
風以外の冷たさが頬を伝う。堪えきれずに溢れ出た涙は一瞬で冷えていく。もういい。どうせ最初から無理だった。浩輔が俺を好きになることはないし、俺から告白することもできない。彼女ができたことを喜ぶことすら俺には無理だった。嘘をつき通すのはあれが限界だった。
はあ、と吐き出され続ける白い息が後ろへと流れていく。楽しそうにはしゃぐ声が横を過ぎていき、カラフルに彩られた建物から暗い影の中へと走り続ける。冷たい風を吸い込んだ肺が痛い。冷たくて冷たくて指先まで熱が消えていく。でも、もういい。体温を分ける相手はもう……。
「悠太っ」
ぐいっと腕を強く掴まれる。思わずバランスを崩しかけたところをもう一方の手で支えられる。ドクドクと激しく鳴る鼓動が頬から伝わってくる。はあはあ、と乱れた呼吸が頭に落ちてくる。
「え、あ、浩輔……?」
顔を上げようとするが、肩に回された力は強く、気づけば両腕で抱きしめられていた。視界は黒いコートの間、柔らかなグレーのニットで埋められる。
「はあ、……お腹痛いんじゃなかったの」
息とともに落ちてきた言葉に混じるのは呆れか怒りか。かすかに揺れるのは笑っているからだろう。どうして抱きしめられているのかわからず戸惑いと混乱で熱が上がっていく。
「えっと、あのさ、ちょっと離してほしいんだけど」
いくら建物の影に入ったとはいえ、ひとがまったくいないわけではない。転ぶところを助けてくれたにしろ、男ふたりで抱き合っているのはまずいだろ。
「もう逃げない?」
問いかけられて初めて自分が「逃げた」のだと自覚する。浩輔からも、自分の気持ちからも。伝えるだけ無駄だから。フラれるのが決まってるなら言う必要なんてない。ないじゃないか。言ったところで浩輔には彼女がいる。その事実は変わらない。変わらないならせめてこのまま幼馴染のままでいさせてほしい。そう願って逃げ出すことの何が悪いのか。いっそ全部ぶちまけて壊したほうがいいのだろうか。
「――嘘なんてつくもんじゃない、な」
ぽつりと落とされた言葉。どんなに小さくても俺は浩輔の声を拾ってしまう。
「嘘、って……?」
問いかければようやく腕の力が緩められる。完全には離してもらえていないけど。そっと顔を上げれば眉を下げて困ったように笑う浩輔の顔があった。
「ごめん。彼女なんてできてない」
耳から入ってきた言葉をすぐには理解できなかった。いつもの倍以上に遅い処理スピードで頭が回る。彼女なんてできてないって言った、よな。
「――は? だって昨日昼休みに告白されたって」
「うん。告白はされたけど断った」
「いや、でも、だって『可愛い』子だって頷いたよな」
「『彼女』はできてないけど、『可愛い』好きな子ならいるから」
浮かびかけた心がガツン、と天井にぶつかって落とされる。粉々に砕ける一歩手前。どうにか形を保ってはいるがヒビだらけだ。もういい加減にしてほしい。揺さぶられたくない。
「あー、そういうこと? まだ付き合えてはないけど、その子とのデートの練習だったわけだろ? なら変わらないじゃん。浩輔がフラれるわけないし。さっさと告白しろよな」
今なら剥がせるだろうと抵抗するより一瞬早く、再び強く抱きしめられる。
「は? ちょっと、なに」
「好きだ」
――は?
今度は本当に鼓膜をすり抜けた。いつでも掬い上げてきた浩輔の声が遠くなる。頭がうまく回らなくなる。
「今、なんて」
「好きだって言った」
「いや、だから、なんで俺に」
そこまで言いかけてこれも練習なのか、と思い至る。デートだけでなく告白の練習まで? いい加減にしてくれ。俺はもう限界なんだよ。カケラがポロポロ落ちていく。破片が胸に刺さって抜けなくなる。どれだけ傷つければ気が済むんだよ。どれだけ苦しめば終わるんだよ。
「……悠太?」
抵抗するはずだった力は抜けていた。代わりに両目から熱が溢れていく。必死に唇の先を噛みしめることしかできない。言うな。言ったらダメだ。壊したいなんて本当は思っていないのだから。浩輔から離れたいなんて思えるわけがない。こんな状況ですら、苦しさの中に喜びを見つけてしまう。どうしたって俺は浩輔が好きだった。
嘘をつき続けられないなら、口を閉じるしかない。言葉を飲み込むしかない。それなのに浩輔はそっと緩めた力の先、心配そうに顔を覗き込んでくる。「悠太」と俺の名前を呼ぶ。大切そうに。愛おしそうに。そんなふうに呼ばないでほしい。言いたくなる。信じてもらえないなら「嘘」と同じだって言い聞かせてしまう。
「あのさ、悪いけど。これ以上は付き合えない」
震えても構わず絞り出す。浩輔にとって嘘でしかなかったとしても、これは俺の本当の気持ちだ。不安げに揺れる水面を見上げる。泣いていることがバレるくらいどうってことない。
「俺、浩輔のこと好きだから。だから、もう練習付き合うのむ……っ」
押し付けられた柔らかさに思考が停止する。目を閉じることもできずに触れ合う熱だけが意識のすべてになる。唇の感触を追いかけるように体温が流れ込んでくる。なんで、とこぼした言葉は息にすらならず閉じ込められる。
閉じられていた瞼がゆっくりと上げられ、奥にある水面がふっと細められる。ふわりと柔らかく持ち上げられた頬が丸く色づく。
「最初から練習じゃなかったよ」
ふわりとこぼれた息が白い熱で触れてくる。
「俺にとっては最初から本番だったから」
「――いつから?」
「いつから……それってデートの計画のこと? それとも昨日の昼休みに悠太が覗いていることにいつ気づいたかってこと? それとも」
「おっまえ、気づいてたのかよ」
「うん。だから誘っても大丈夫かなって。悠太も、もしかしたらって」
「っ、いつから嘘ついてたんだよっ!」
「嘘? 悠太への気持ちを隠してきたって意味なら、たぶん」
――悠太と同じくらいじゃない?
吐息に混ぜられた言葉は音ではなく熱となって耳に触れた。
「っ……」
思わず耳を押さえて睨み上げれば、にやりと笑われ、もう一度抱きしめられる。
バクバクと激しく鳴り続ける鼓動が重なり合う。
――嘘はもういらない。