半ば強引に陽菜世先輩から誘われてバンドを始めてからは、僕が想像していた以上に精力的な毎日だった。
部室での曲作りや練習はもちろん、部室が使えないそれ以外の日でも暇を見つけては活動をしている。
今はあまり使われていない校舎の奥の方、立ち入り禁止となっている屋上へ続く階段の踊り場。部室が使えない日の僕らが集まる定番の場所になっていた。
「――というわけで大体、そんな感じです。ギターのコードを一定の法則で並べて、そこに鼻歌か何かでメロディを乗せていくのが一番早いかなと思います」
「おおー、ハルの説明わかりやすっ! それができれば無限に曲が書けそう」
ある日の放課後、踊り場に集まったのは僕と陽菜世先輩の二人。凛と金沢先輩は、他の用事があるらしい。
バンドメンバーが揃わず練習が捗らないなという気持ちはあるが、それ以上に僕は安心してしまっていた。というか、僕は陽菜世先輩がいないタイミングを無意識のうちに避けている。
理由はただ一つ。陽菜世先輩抜きで凛や金沢先輩と円滑なコミュニケーションを取れるほど、僕には社交性が備わっていないから。バンドに誘われた程度では、僕のコミュ障は治らない。
だから陽菜世先輩がいない日には顔を出せない。いたとしても、僕は陽菜世先輩を介さないと上手に他の二人とコミュニケーションを取ることができなかった。
バンドに誘われたとはいえ、今日みたいな陽菜世先輩と二人だけのほうが、僕としては気が楽だ。
不思議と、この人ならあまり気負わずに喋る事ができる。相性みたいなものだろうか。原因はよくわからない。
ちなみに今日は、先輩は曲作りのことがいまいちわからないから教えてくれということで、今日は僕なりの作曲方法を伝授することになった。
自分の知っていることなら、喋るネタに困ることもない。気楽だ。
「曲を作るときに大切なものは、コード進行……つまり、コードの並べ方の順番です」
「なるほど。確かにCメジャーとかAマイナーとか、並べる順番で雰囲気変わるもんね」
「そうですね。マイナーコードから始めると暗くなったり、メジャーコードから始めてもちょっと不安定な響きを出したり、結構奥が深いです」
「でもコードって無限にあるから、組み合わせも無限にあるんじゃない? 組み立てるだけで骨が折れそうなんだけど」
「実はそうでもなくて、コード進行っていうのは大体パターンが決まってます」
「ふーん。じゃあそのパターンを覚えちゃえば楽勝ってことね!」
陽菜世先輩は何かしてやったりという顔で僕を見る。
その大きな瞳はキラキラ輝いていて、直視できない。陰キャラの僕は思わず目をそらす。
「らっ、楽勝……だったらいいんですけどね……」
「違うの?」
「作るだけなら簡単です。それがちゃんといい曲になるかはまた別で……」
「ふーん……まあとにかく実践あるのみだね!」
先輩は意気揚々とギターをかき鳴らし始める。
曲作りにはある程度のセオリーがあるが、一朝一夕で身につくかと言えばそうでもない。いくつも駄曲を作り出して、やっと手応えを感じられるものだ。
陽菜世先輩は想像どおりまずは行動するタイプで、細かいことを考えずとにかくギターを鳴らして鼻歌を歌っていく。しかし、そう簡単には形にならない。
「なーんか違うんだよなあ。ハルの作る曲みたいにしっくりこない」
「そりゃあ僕、考えて作ってますから」
「むう……しれっと自慢された」
「あっ、いえ、そういうつもりで言ったわけじゃ……」
「冗談冗談。私はそんなことで怒ったりしませーん」
「……びっくりさせないでください。でも、陽菜世先輩みたいなやる気があればすぐだと思います。ちょっと頑張ると、何かが見えてきてまた頑張る気になれますから」
自分の経験上、やっぱり能力が伸びるときというのは少しだけ頑張ることができた時だなと思う。
そうやって目の前が開けたときは、更に頑張ろうとやる気が湧いてくる。陽菜世先輩なら、多分すぐその域に達するはず。
「でもさー、私は早く曲が作れるようになりたいんだよなー、むう……」
しかし、なぜかこの人は、今すぐ自分の力で曲が書けるようになりたいようだった。
どちらかと言うとそれは、自己実現の意欲が高いというより、なんだか焦りに近いような気がした。
このバンドには一応作曲担当として僕が加入したので、そんなに慌てて曲作りができるようにならなくてもいいはず。
なぜ先輩がそれほどまでに曲を書きたがるのか、僕は少しだけ気になってしまった。
「……そういえば、どうして先輩はそんなに曲を書きたがってるんですか?」
僕がそう訊くと、陽菜世先輩は一瞬驚いた顔を見せた。
でもすぐにいつものテンションに戻る。質問の回答内容は、やっぱり陽菜世先輩っぽい。
「そりゃあもちろん、印税生活のためっしょ」
サムズアップを見せつける陽菜世先輩の顔は、僕がこれまで見た中で一番輝いている。
お金がかかったときの人間の原動力というのは、確かにすごいなと、僕は納得しかけていた。
「……っていうのは半分冗談で」
「半分は本気なんですね……」
「お金はあるに越したことないもんね」
「それは……確かにそうです」
「でもそれだけじゃなくて、何か自分の作ったものが形に残るのって、いいなあって思ったんだよ」
「形に残る……ですか?」
「そう。イラストとか小説みたいなものでも良かったんだろうけど、あいにくそっちはセンスがないのがわかっちゃったから。そうなると音楽かなーって。私、こう見えて歌は得意なんだよ?」
「でも、そんなに焦って覚えようとしなくても、大丈夫じゃないですか?」
そう僕が言ったあと、一瞬の間があった。
何かまずいことを言ってしまったかと思って発言を取消そうとした。しかし、その寸前で陽菜世先輩の方から「善は急げって言うじゃん?」と返ってきた。
その違和感が妙に気になった。
でも、気のせいかなと思って、僕はそれ以上聞き返すことはしなかった。
「それよりもハル、凛とか紡とかとちゃんとコミュニケーションとれてる?」
「い、いきなりなんですか……」
「質問にはちゃんと答える。とれてるの? とれてないの?」
「と……とれてる……はずです」
「ほんとー? ハルってあんまり会話するの得意じゃなさそうだから心配してるんだけど?」
「だ、大丈夫ですよ……業務連絡はちゃんとしてますから」
苦し紛れの答えを返すと、陽菜世先輩は呆れ気味にため息をつく。
「んもー、業務連絡だけじゃなくて、普段の会話とかもだよ」
陽菜世先輩はなぜか僕がきちんと他人とコミュニケーションが取れているか、事あるごとに確認してくる。
そのたびにこんな情けない返答ばかりしているので、ちょっと心苦しい。
「会話は……ほら、僕なんかと話してもしょうがないじゃないですか。僕、面白くない陰キャラですし」
「じゃあ今ハルと話してる私はとってもしょうがないってことじゃん。それはさ、相手に失礼だよ」
「そう言われても……」
おしゃべりは得意ではない。学力の関係で家から遠い高校に進学してしまってからは友達もほぼいない。
幼馴染の凛なんかは会話をした記憶を遡るのが大変なくらい話をしていない。
僕は彼女のことを遠い世界の人だと思ってしまっているし、逆に彼女は僕のことをどう思っているのかわからなくてちょっと怖い。いや、もしかしたら何も思っていないくらい眼中にないかもしれない。
更にもう一人のメンバー、人望があることで知られる金沢先輩は、もはや存在が眩しすぎてどうしたらいいのかすらわからない。
バンドは精力的に動き始めているけれども、ちゃんと僕がまともにコミュニケーションを取れているのは陽菜世先輩だけである。それだって、陽菜世先輩から話しかけてくることがほとんどで、僕は聞かれたことに答えているだけ。
「まあでも、いきなり苦手なおしゃべりを頑張れって言われても困るよね。私だっていきなり曲作りしても上手くいってないわけだし」
「た、確かに……」
「じゃあこうしよう。私は曲作りを頑張るから、ハルは私抜きでもバンドのみんなときちんとコミュニケーションを取れるようになろう。それなら一緒に頑張ってる感じがしてよくない?」
それは無理だと返したくなるところではあったが、先輩の言っていることに間違ったことはない。
僕が凛や金沢先輩ともちゃんとコミュニケーションを取れるようになることは、決して悪いことではないのだ。
目指すべき場所は違えど、陽菜世先輩と一緒に目標へ向かって走って行けるのであれば、意気地なしの僕でももしかしたらなんとかなるのではないかと思ってしまった。
「どう? 頑張れそう?」
「……ちょっとくらいなら」
「ちょっと頑張れば、何かが見えてきてまた頑張る気になれるんでしょ?」
さっきの僕の言葉をリフレインのように陽菜世先輩が繰り返す。
自分で言い放った言葉を自分で否定してしまうのはさすがにカッコ悪い。
「頑張ってみよ。私も頑張るからさ」
「わ……わかり、ました。……でも、具体的にどうしたら」
「そうだなあー、もうちょっと『他人に興味を持つ』ことを意識してみたら?」
「他人に興味……ですか?」
「そうそう。人間って基本的には自分を知ってほしい生き物なんだよ。私なんかその典型でしょ?」
そうですね、と返したら怒られそうな気がしたので、僕は考えるふりをする。
「自分のことを知ってもらいたい。でもわざわざ自分から言うのってちょっとウザったいから避けたいじゃん?」
「ま、まあ……」
「だからこっちから質問して、相手の知ってもらいたいことを引き出してあげるの」
他人に興味を持ちなさいということはすなわち、相手のことを聞き出す力をつけろということ。
今までコミュニケーションという行為に興味すら持たなかった僕には、結構大きな壁な気がする。
「でもさっきのハルよかったよ。私がどうして曲を書きたがっているのか、自然に聞き出そうとしてくれたし」
「あっ、あれはその……なんというか」
「あれでいいんだよ。他人の行動とか人となりに興味が出てくれば、自然と言葉が出てくるから」
陽菜世先輩は大丈夫だよと僕の背中をポンと叩く。
その手の温もりが僕を後押ししてくれている気がした。
「ハル、話を聞くことはきちんとできる子なんだから。相手を知ろうとする気持ちがあれば、きっとうまくやれるよ。がんばっ」
「は、はいっ……」
陽菜世先輩はそう言ってまたギターをシャカシャカと鳴らす。
先程教えたばかりの定番コード進行に乗せて、やや調子はずれな鼻歌が階段の踊り場に響いた。
僕が人並みのコミュニケーションを取れるようになった頃には、陽菜世先輩の渾身の一曲が聴けるかもしれない。
そう思うと、なんだか楽しみになってきた。ちょっとずつ頑張ってみよう。と、ふつふつ勇気が湧いてきた気がした。
次の日、いつものとおりに階段の踊り場に行くと金沢先輩がいた。
陽菜世先輩や凛はおらず、男二人。
まともに話したことのない人――しかも、人望があって部内では人気者である先輩ということで、僕は金沢先輩の姿を見た途端緊張してしまった。
思わず陽菜世先輩の姿を捜したが、もちろんいるわけがない。二人だけであることがわかると余計に緊張感が高まってしまう。
「やあ、おはよう」
「お、おはようございます……」
「はははっ、『もう放課後なのにおはようなんですか?』ってツッコミはしないんだ」
「あっ……す、すみません……」
「謝らなくていいよ。こんなのジョークに決まってるじゃん」
「す、すみません……。あっ……」
謝らなくていいと言われたのに、つい癖で謝罪の言葉が出てしまう。
一番直さなきゃいけない癖だとは思いつつ、身体に染み付いてしまったものはなかなか離れてくれない。
「ははっ、そんなに緊張しなくていいよ。俺、君が思っているほど怖い人じゃないから」
金沢先輩は僕に笑いかける。
彼が怖い人ではないということは、頭の中では理解できている。
ただ、明らかに校則違反だろうなと思える髪の色や、制服を崩して着ているところなどをみると、自分とは違う世界にいる人間なのだと僕は反射的に認識してしまうみたいだった。
僕が来るまで、金沢先輩はイヤフォンで何かを聴きながら、商売道具のドラムスティックで練習用ゴムパッドに向けてリズムを刻んでいたようだ。スティックとゴムパッドは毎日持ち歩いているらしく、結構ストイックに練習している。
ただでさえドラムを練習するのには時間や設備、騒音などいろいろな面で制約がある。それゆえ、大抵のドラマーはドラムセットを使う練習をガンガンやることはできず、金沢先輩みたいな感じで地味な個人練習をすることが多い。
ちなみに僕も、自分で色々な楽器を演奏できたほうがいいと思ってドラムの練習をしようと思ったことがある。
一見ダイナミックに身体を動かすように思えるけれど、実は細かい指先の使い方が大切だったり、思ったほど力を入れないほうが良かったりする。
独学ではプレイングに限界を感じてしまって、お試しで買ってみたドラムスティックは結局きれいなまんま自室に保管してあるザマだ。
ふと、陽菜世先輩のアドバイスを思い出したす。
もう少し他人に興味を持ってみる、それすなわち、いろいろなことを聞いてみること。
相手の興味ある話題を引き出すよう聞き手に徹すれば、自然と会話はつながる。それが自分も関心を持っていることならなおさら。
このまま黙りを決め込んで、気まずい時間を過ごすくらいならと思った僕は、少し勇気を出して金沢先輩に話しかけてみることにした。
「あっ、あの、先輩」
「んー?」
「ど、どうやったらドラムって上手くなりますか?」
ざっくりした質問、しかもいきなり核心に迫るような雑な踏み込み方だった。もうちょっと詳細を詰めても良かったかなと思ったけれども、僕のような会話慣れしていない人間にはこれが限界だ。
「えっ? 上手くなりたいって……もしかして、俺からドラマーの座を奪うつもり?」
「あっ、いや、そういうつもりじゃなくて……その、ぼ、僕、DTMで曲を作ってるんですけど、ドラムの打ち込み音源があんまりしっくり来なくて……自分でドラムが上手に叩けるようになれば、改善するかなって……」
頭の中にある原稿を一気読みした感じだった。
喋りきったあとは酸素が足りなくなって、大きく息を吸い直す。
「ぷっ、めっちゃ早口じゃん。テンパりすぎだよ」
「す、すみません……」
金沢先輩が吹き出した。しかし、僕をあざ笑うような感じではなく、小さい子供の成長を見守るかのようなそんな口調だったので、思ったほど僕の心理的ダメージは小さかった。
「まあでも、君の言うとおりドラムが上手くなれば打ち込み音源を作るときにも役立つってのは間違いじゃないと思うよ」
「で、ですよね。ははは……」
「でもそれだとさ、曲を作るときの君の想像力が、『ドラムでできること』の範囲内だけになっちゃわない?」
「えっと……それはどういう……」
「ほら、打ち込み音源って極端なことを言えば人間には奏でられない音を出すことができるわけじゃん? 例えば、BPM三〇〇で三十二分音符を十六小節間叩き続けるとか」
「そう……ですね。データ上はそういうことも可能です」
「でしょ? せっかくいろいろなことができるのに、ドラム音源を極めるために自分のドラムの腕前を上げたら、それこそ『人間がドラムでできること』に囚われちゃうと思うんだ」
「な、なるほど……」
新しい視点だった。僕はドラム音源の作り方に悩んでいたばっかりに、打ち込み音源で創造することの自由さをすっかり忘れてしまっていた。
「まあそもそも、ドラムが上手くなったら打ち込みで音源作る必要もない気がするけど」
「確かに……それもそうですね」
「俺が思うにね、打ち込み音源のレベルアップを図るなら、ドラムの腕前を上げるより色々な人のプレイングを見まくってインプットしたほうがいいと思うんだ」
「それならネットで動画を……」
「いやいや、映像じゃなくて、生でね」
すると、金沢先輩は自分のスクールバッグの中をもぞもぞと弄り始めた。
取り出したのは細長い紙切れ四枚。ミシン目が入っていて、日付とか時刻が印字されているように見えた。
「……なんですか? それ」
「ライブのチケット。ちょうどOBの先輩からライブに来ないかって言われててさ、この日の出演陣の演奏レベル高いからバンドのみんなで観に行こうかなと思ってたんだよ。もちろん行くよね?」
「えっ、あっ……はい」
当然行くだろという圧をうけた僕は、日程も聞いていないのに思わず返答をしてしまった。
しかし、どうせ僕には行かない理由になるような予定はない。無理に取り繕って下手な嘘をつくほうが面倒な気がしたので、返事をしてしまってからこれで良かったのだと僕は安堵のため息をついた。
しかし、バカに準備がいい気がする。まるで僕をライブに連れて行こうとあらかじめ画策していたみたいだった。
もしかしたら、金沢先輩は陽菜世先輩と裏で通じていたのだろうか。
……考えるだけ無駄だ。とりあえずこのまま流されておこう。
「よかったー。来てくれないと思ってたから助かるよ。先輩から誘われておいて誰も連れていけないと、あとが怖いからさ」
「いえ……僕も勉強したかったので。ライブって、実は行ったことなくて……」
「そっか、行ったことないんだ。まあライブハウスって入りにくい雰囲気あるからねー。でも、行ってみたら結構楽しいよ。ハマるかもね」
「そ、そうなんですかね……ははは……」
慣れない愛想笑いをしてみる。多分だけど、かなり顔が引きつっている気がする。
陽菜世先輩に、コミュニケーションを取る上で表情というのは一番早く相手に伝わる情報だから、笑顔を意識しなさいと言われた。こんなことなら、鏡に向かって笑顔の練習をしておけばよかったかもしれない。
「ははっ、なんかそのおろおろした感じ、ちょっと懐かしいな」
「な、懐かしいって……どうしてまた……?」
「うん。去年の陽菜世がまさにそんな感じだった」
「陽菜世先輩が……ですか?」
「そうそう。今の君みたいに会話はたどたどしいし、常に何かにビビってるし、陰キャラだなって感じだった」
「い……意外ですね」
「だよね。だから俺もここ一年での陽菜世の変わりっぷりにはびっくりしたよ。何かきっかけがあったんだろうけど、あそこまで人って変わるんだなって思った」
さすがに今の陽菜世先輩しか知らない僕には、陰キャラだったという去年の陽菜世先輩の姿は想像できない。
あんなに明るくてわざわざ僕みたいな人間の面倒を見てくれる陽菜世先輩が、ものの一年前まで今の僕みたいな引っ込み思案だったとは。
何が彼女をそうさせたのか、その理由が気になって仕方がなかった。
でもだいたいそういうのは「好きな人ができた」とか、「憧れの存在ができた」とか、そういう動機な気がする。
陽菜世先輩のことだし、恋の一つや二つしたのだろう。女子高校生が一年でガラッと変わるにはやっぱり恋心の力が要る。恋する乙女は強い。
あの人に想い人がいるのだと思うと少し複雑な気持ちだが、どのみち僕みたいなやつには関係ない。考えるだけ無駄だ。
そう思い込もうとするが、考えれば考えるほどわからなくなってくる。
「なんで陽菜世先輩は……僕なんかを助けてくれるんですかね……」
思考が煮詰まった挙げ句、僕は思わずそんな言葉を漏らしてしまった。
言い切ったあと、自分で何を言っているのかと恥ずかしくなって、手で口を押さえてしまう。
「い、いや、なんでもないです。独り言です」
「……それは多分だけど、陽菜世が君を見て、昔の自分を見てる気がしたからじゃない? 見込みあるって思われたんだよ」
「見込みって……僕は別にそんな大したものじゃ……」
「まあ頑張りなって。そんなに頭でっかちになって考えても、わからないことはわかんないよ。俺みたいにある程度テキトーにやることも大切さ」
金沢先輩は笑顔を浮かべる。彼の言う通り、自分は何事も重く考えすぎなのかもしれない。
もう少し肩の力を抜いて気楽にやろう。そう思ったときに気がついた。
いつの間にか僕と金沢先輩の間にあるコミュニケーションの壁がなくなっている。
さっきまで一対一で対峙することにビビっていたはずなのに、金沢先輩相手ならもう平気だ。
陽菜世先輩の後押しが効いている。少しの勇気を出してみたら、その効果は抜群に大きいと改めてわかった。
僕は無性に嬉しくなってきて、今すぐ陽菜世先輩にこのことを話したい気分だった。
翌日。週末金曜日の夕方。
金沢先輩のお誘いに乗った僕は、隣町のライブハウスに来ていた。
ライブハウスとは言っても、よく雑誌や動画なんかで見る首都圏のものに比べたらだいぶ小ぢんまりしている。
駅前の雑居ビルの地下にあるところで、誰かに誘われていなければ近寄りがたい雰囲気がある、そんな場所だ。
バンドメンバーの皆と待ち合わせてから、四人でライブハウスの中に入った。
ぼんやり暗くて、独特のひんやりして湿った空気が、僕にとってはなんとなく心地よかった。
「どう? ライブハウスに初めて来た感想は」
ドリンクを引き換え終わると陽菜世先輩が話しかけてきた。
入場前に陽菜世先輩が、「ライブハウスのドリンクはお酒とソフトドリンクの価格差がない。これはいかがなものなのか」とぶつくさ文句を言っていた。けれども、キンキンに冷えたオレンジジュースを一口飲んだら、すっかりそんなことなど忘れてしまったかのようにライブハウスの雰囲気を楽しんでいた。
「ええっと、入りづらいですけど、中は案外普通というか。割と居心地いいですよ、暗くて落ち着きます」
「暗くて落ち着くって……まあでも、気持ちはわかるかも。あんまり眩しいと疲れるもんね」
陽菜世先輩はクシャッとした笑みを浮かべて笑う。その表情に少しドキッとした僕は、照れ隠しのためドリンクに口をつけた。
瓶のコーラは炭酸が強くて美味いなんて話を聞くけれど、僕がドリンクカウンターで交換したコーラは氷の入ったプラスチックのコップに注がれてしまっていて、肝心の炭酸が少し抜けてしまっている。
これもライブハウスの味だということにしておこう。
「あの、先輩、ちょっと聞きたいんですけど」
「うん? なあに?」
「今日のライブに誘ってくれたのって、もしかして先輩の差し金ですか?」
「さあ、どうでしょう?」
陽菜世先輩は肯定も否定もしなかった。
おそらく事前に金沢先輩に根回しをしていて、僕が彼と上手くコミュニケーションをとれるよう「ライブハウスに行く」というイベントを用意してくれたのだと僕は考えている。
「あの……ありがとうございます。金沢先輩と話すの、大丈夫になってきました」
「いやいや、だから私なんにもしてないって。それはハルが頑張ったからだよ」
「それでも、勇気を出せって背中を押してくれたのは先輩ですし」
「まだまだこれからだよ。ハルにはちゃんと、社交的になってもらわないと困るんだから」
勇気を出したことで僕の世界は少し広がった。たまたま上手くできたのは優しい金沢先輩だったからかもしれないけれど、それでも僕にとっては大きな一歩だ。
「そういえば、先輩も一年くらい前は、僕みたいに陰キャラでコミュ障だったって本当ですか?」
おもむろに質問してみると、陽菜世先輩はちょっと困ったような表情で応える。
「参ったなあ……それ、紡が言ってたでしょ。んもー、あいつ結構口軽いんだよねえ」
「じゃあ、金沢先輩が言っていたことは本当なんですね」
「うん。偉そうなこと言ってごめんね、自分ができたからキミもできるっていうの、押し付けがましいよね」
「いや、そんなことなくて。……なんというか、すごいなって」
「すごくないよ、別に私はすごくない」
「そんな謙遜をしなくても、十分すごいと思いますよ?」
「違うんだよ、人間ね、やるしかなくなったら、なんだかんだできちゃうものなんだよ」
「やるしかなくなったら……ですか?」
妙な言い方に僕は思わず首を突っ込んでしまう。このあいだから、先輩は自分のことになるとどうも何かを抱えているような言い方をする。
おしゃべり上手な人であればうまく引き出せるのかもしれないけれども、今の僕にそんなことはできなかった。
「ううん、こっちの話。とにかく、この調子で凛ともちゃんとコミュニケーション取れるようになってね」
「は、はい……頑張ります」
僕は現実を突きつけられて肩をすくめてしまった。
一難去ってまた一難。正直、凛とコミュニケーションをとるのはあまり気が進まない。
金沢先輩のときはほぼ初対面みたいなものだったし、男同士だからというのもあって気持ちは楽だった。
しかし凛はそうではない。変にお互いを知っているからこそ、コミュニケーションをとるときにどう切り出したらいいのかわからない。
過去のことをネタにして話を広げるほど共有した思い出はないし、かといって自己紹介するほど知らない仲でもない。こういうのが一番気まずい気がする。しかも異性となれば話題も限られる。
「そういうわけで、最初は私が間に入るから頑張って」
「頑張ってと言われても……何を話したらいいのか……」
「そんなに頑張って考えなくてもさ、ハルも凛も一応音楽人なわけだし、ライブのこととか好きなバンドのことでも話せば大丈夫大丈夫」
「そういうもんですかね……」
陽菜世先輩に励まされたとはいえ、一抹の不安は残る。
凛はおそらく僕が幼馴染であることをあまり人に知られたくないのではないかと考えている。
陰キャラで影の薄い僕みたいなのが幼馴染となれば、凛としても恥ずかしいに決まっているから。
きっと今だって陽菜世先輩からお願いされて渋々僕とバンドを組んでいる可能性だってある。
もしそうであるなら、もともとお互いに何も知らない、バンドに手を貸すだけのちょっとビジネスライクな関係でいたほうがきっといい。
臆病な僕は、やっぱりどこか逃げ道を探してしまっていた。
「凛ー! こっちこっち」
陽菜世先輩が、ドリンクを引き換えた直後の凛を呼び寄せた。
ちなみに金沢先輩は出演するバンドの人たちとホールの外で話している。ああいう感じで自然な人間関係をいくつも築けるのが羨ましいと思いつつ、いざ自分がそうなったら関係性を維持することだけでくたびれてしまいそうだからこれでいいのだなと、やや後ろ向きに自分を肯定した。
「先輩、ここにいたんですね。暗いと全然わからなくて」
凛がこちらに近づいてきて陽菜世先輩に笑顔を見せつける。
体育会系でサバサバとしていてやんちゃな印象を僕は凛に対して持っていたけれども、高校生になって大人っぽくなっていたことに気がつく。
それくらいまともに凛の顔を見るのを避けていたということではあるのだけれども。
僕が内側に内側に引きこもっている間に、凛は真っ当に大人への道を歩み続けているのだ。
自分だけがずっと子どもみたいで、だんだん惨めになってくる。早くここから出て一人になりたいという気持ちが沸き上がってきた。
でも、陽菜世先輩の手前、そんな事はできない。
ここはとりあえず凛と陽菜世先輩が会話をしているのを横で大人しく聞いておこう。
「凛ってライブハウス初めてなんだっけ?」
「はい。大きいホールとかに観に行ったことはあるんですけど、こういうところは初めてで」
「ふーん。じゃあハルと一緒だね」
陽菜世先輩のそのセリフのあと、凛の視線が僕の方に向いてくる。
目と目が合うのは何年ぶりだろう。
その瞳はライブハウスのぼんやりとした照明で彩られていて、端正な顔立ちと相まって彼女の名前の通り凛として見えた。
「晴彦、ライブハウス来たことないんだ?」
「えっ、あっ……うん、ご、ごめん」
「なんで謝るの……? 別に悪いことしてないじゃん」
「そ、そうだけど……つい……」
「でも意外かも。晴彦って毎日のようにこういうところ通ってるんだと思ってた」
「それまた……どうして?」
「だって音楽へののめり込みっぷり半端ないじゃん。私知らなかったよ、あんなすごい曲たくさん作ってたなんて」
僕の想定していない反応が凛から返ってきて、どう言い返したらいいのかわからなくなってしまう。
「それは……ほら、それ以外やることがなかったと言うか、ぼ……僕にはそれしかなかったと言うか……」
「そんなに謙遜しなくてもいいのに。好きなことをちゃんと継続できるのって、結構すごいと思うよ」
てっきり凛には煙たがられているとばかり思っていたので、思わぬお褒めの言葉に僕の頭の中は混乱して沸騰しそうだった。
「あれ……? 私なんかまずいこと言っちゃった?」
「ぷっ、ハルったら褒められ慣れてなくてだんまりしちゃったじゃん。面白いね」
「そうなんですか? 黙っちゃったから、気に触ることを言っちゃったのかと」
「大丈夫大丈夫。ハル、凛と話すの楽しみにしていたんだよ」
思ってもいないことを陽菜世先輩が言い出すので、僕は目を見開く。
しかし、下手に何かを喋るとボロがでそうなので、リアクションだけにとどめておく。
「二人って、小中高って同じなんでしょ? どんな感じだったの?」
僕と凛の会話がうまくいくように手を差し伸べる……というより、スコップを持ってザクザクと掘り進めるかのように陽菜世先輩は割り入ってきた。
「どんな感じ……というほど、あんまり関わってないですよ。でも、ずっと音楽漬けだったんだろうなっていうのはなんとなくわかりました」
「ほほう……それはどうして?」
「中学くらいから晴彦ったら、授業以外のときはずっとヘッドフォンしてましたし」
「うわー、『俺に話しかけるな』オーラがやばいね。その姿、想像つくわー」
確かに中学の時の僕はそんな感じだった。何なら休み時間はヘッドフォン、授業が始まったら小さいワイヤレスイヤホンに切り替えてこっそり音楽を聴いていたくらいだ。
話しかけないでほしいというよりは、そうやっていないと自分を保てないような気がしてしまっていたから。
結局それでいろいろな機会を逃していたのかもなと思う。おまけに、その姿はちょっと痛々しい。
「ねえハル、ちなみにそのときは何を聴いていたの?」
「えっ、あっ、いや、そんな大したものではなくて……」
「そんなこと言わないの。それ言っちゃったら、聴いていた音楽に失礼でしょ?」
「は、はい……」
再びお説教を食らう形になり、僕は肩をすくめる。
行き過ぎた謙遜は、周囲の人達や僕を支えてくれるものに対して失礼に値する。
とにかくへりくだってコミュニケーションをとっておけばいいものではないと、そろそろ自覚しなければ。
「あっ、ちょっと私先輩のバンドに挨拶してくるね」
「えっ、ちょっ……」
突然、陽菜世先輩がそんな事を言う。
最初は僕と凛との間に入って助け舟を出すといっていたけど、いくらなんでもその引き際は雑すぎやしないか。
「挨拶したらすぐ戻ってくるからそこで待ってて。よろしくー」
行ってらっしゃいと軽く手を振る凛、いきなりのことで呆気にとられる僕。
とにかく何か話さなきゃと考えているうちに、今日のライブのトップバッターが演奏を始めようとしていた。
端的に言うと、初めてのライブハウスは楽しいものだった。
出てくるバンドはうちの高校のOBバンドとその界隈という感じだったが、本気でプロを目指している人たちらしく演奏やステージングには技術の高さを感じた。
生の演奏を目で見て耳で聞くことが一番刺激になるし勉強になる、と金沢先輩が言っていたが、まさにその通りだった。
今まで自分の世界の中だけで音楽をやってきたので、この小さな地下室で起こったライブすら、すべてが新鮮に感じられたのだ。
「――晴彦? 大丈夫? ぼーっとしてるけど?」
「……へっ?」
ライブの余韻に浸ってトリップしかけていたところを、凛に呼び戻される。
しばらく声を出していなかったせいなのか、変に上ずった声が出てしまい恥ずかしくなった。
「すごいライブだったよね。うちのOBの先輩たち、プロかなってくらい上手かった」
「う、うん。ギターもベースもミスタッチがなかったし、演奏のリズムが全部ビタビタに合ってた。歌も、声がよく通ってて上手いと思う」
僕は正直に感想を述べた。同業者なら嫉妬して貶し合うことがあるのかもしれないが、そういうのが性に合わない僕は、思ったことを言うことにした。
それが凛にとって驚きだったらしい。彼女は少し目を見開く。
「なんだか晴彦、すごく饒舌だね」
「ご、ごめん……つい調子に乗って……」
「ううん、そうじゃなくて、やっぱり晴彦って音楽が好きなんだなって思った」
凛の言う「やっぱり」という語句に、僕はちょっと嬉しくなった。
会話こそほとんどしてこなかったここ数年間だけれども、一応僕という存在は凛の中には残っていたらしい。
「でも本当にすごかったよね。私もあんなふうに上手くなりたいなあ」
「……そういえば、こま……凛はいつベースを始めたの?」
一瞬、凛のことを『小牧さん』と呼びそうになって思いとどまった。
ここで『小牧さん』呼びをするのは不自然だし、せっかく進んだ道を戻ってしまう気がした。
先ほど凛が「やっぱり」と言ってくれたことが、思ったよりも僕らの関係を近づけることに対して効いている。
「あー……そっか、そうだよね」
凛は僕に聞こえるか聞こえないかのギリギリの声量で、意味深に呟く。
「どうしたの……?」
「ううん、なんでもない。こっちの話」
「そ、そう……?」
僕には彼女のその言葉の意味がよくわからなかった。深く勘ぐるのは良くないと思って、素直に彼女の話を聞くことにする。
「ベースはね、中学一年の終わりくらいから始めたんだよね」
「じゃあ、もう三年くらい弾いてるんだ」
「うん。音楽に興味持ち始めたのがその頃でね、ちょうど周りに同じ趣味の子がいたからその流れで」
「へえ、そうだったんだ。……あれ? ソフトボールやってなかったっけ?」
「あー……そっちは怪我しちゃってからなんかいろいろうまく行かなくなって、辞めちゃった」
ソフトボールの話になって凛が無理に笑っていることを察知して、僕はすごく申し訳ない気持ちになってしまった。
普段から明るい彼女だけに、暗さを見せたくないという気持ちがわかってしまったのが、ちょっと僕にとっても辛かった。
「ご、ごめん……無神経だったよね。根掘り葉掘りきいてごめん」
「ううん、いいのいいの。もう過ぎちゃったことだし、笑い飛ばしておかないと損だって」
最後に凛が何か僕に言いかけた気がしたけれど、全然聞き取ることができなかった。
何を言ったのか気にはなるけれども、聞こえないくらいの声で言ったのだから僕にとって関係のない事かもしれない。そういうことにしておいて、その日は解散した。
※※※
ライブを観て刺激を受けたのか、数日後の練習で陽菜世先輩は凄まじい勢いでバンドメンバーを囃し立ててきた。
具体的には、すぐに応募できそうな高校生バンドのコンテストをいくつか探し出してきて、それにエントリーしようと言い出したのだ。
「とりあえず申し込みできるところには片っ端から申し込もうと思うの」
「いいですね! コンテストなんてお祭りみたいで楽しそうです!」
部室で練習が始まる前から、陽菜世先輩と凛はコンテストのことで盛り上がっていた。
金沢先輩は「いいんじゃない?」と他人事のように言ってはいるけれども、内心すごく楽しそうにしている。
もちろん、僕も楽しみといえば楽しみだ。
同世代と競い合うという経験はスポーツの世界ならよくあることではあるけれど、こと音楽に関して言えばそれほど機会は多くない。
ましてや課題曲をなぞる吹奏楽部やオーケストラと違い、こちらは自分たちで曲を作り上げるクリエイティブな要素さえある。
ウェブの海の中へ自分の曲を投稿している僕ではあるが、それがどの程度通用するものなのかはっきり知りたいなと思っていた。
「それで応募する曲なんだけど……」
「そういえば陽菜世先輩、曲を作り始めたって言ってましたよね? 順調なんですか?」
「えーっと……その……」
凛が質問を投げかけると、陽菜世先輩は目をそらして気まずそうな表情を浮かべる。
この様子だと、曲作りが上手くいっていないのだろう。頑張るとは言っていたが、そう簡単にできるものではない。
「が、頑張ってはみたんだよ? でもなんか上手くいかなくてさ」
「だ、大丈夫ですよ。みんなヒナ先輩が頑張ってること知ってますから!」
「うう……凛はいい後輩すぎる……」
「でも、ヒナ先輩が曲を作れなかったとなると、やっぱり……」
「うん。今回は、ハルの曲をバンドアレンジして応募しようかなって」
名指しをされてドキッとした。
もともとそういう目的で僕はバンドに呼ばれたわけだけれども、あくまで陽菜世先輩が曲を作るための補佐役という感じだった。
しかし事情が事情なのでこうなることも想定はしていた。問題は凛と金沢先輩がどう思うのかというところだ。
二人とも優しい人であることはここ最近のことでよくわかった。
しかしいきなり入ってきた陰キャラがバンドの肝でもある曲作りを一挙に担ってもいいものなのだろうか。度胸のない僕は、やっぱり気が引けてしまっていた。
「ぼ、僕にはやっぱり荷が重いですって……」
「そんなことないよ。ハルならかっこいい曲いっぱいストックしてるでしょ? 応募には二曲あればいいらしいからさ、お願いだよ」
「で、でも、金沢先輩や凛は……」
僕は二人の方に目をやる。すると待ってましたと言わんばかりに
「俺はそれでいいよ」「私も」
と、賛成されてしまった。
「じゃあ決定だね。早速ハルの曲をバンドで演奏できるようにしよう」
僕の心配は完全に杞憂だったらしく、トントン拍子で話は進んでいった。
昔から僕は新しいコミュニティに馴染むということが苦手で、上手いこと名前を覚えてもらったとしてもその先が続かないようなことが多かった。
今回もそうだ。陽菜世先輩に背中を押されて凛や金沢先輩と頑張って会話できるようになったけれども、それ以上先に進むビジョンは全く見えていなかった。
だから陽菜世先輩が僕の曲をバンドで採用すると言ってきたとき、不安で仕方がなかった。
本当ならこのバンドは陽菜世先輩が中心となってメンバーが集まったもの。みんなは彼女の人柄に惹かれてバンドというコミュニティになった。
もしかしたら運悪くバンドには入れなかったけど、陽菜世先輩から声がかかっていた人や、逆にこのバンドに入りたくて仕方がなかった人もいるかもしれない。
そんなバンドの外の人のことを思うと、今の自分はあまりに出しゃばりすぎではないかと感じてしまうのだ。
「そんなに不安にならなくても大丈夫だよ。このバンドは、ハルが曲を書いて私が歌う、みんなそれでいこうと決めたんだから」
「で、でも……」
「本当はね、ハルが出会ったときのままだったら、この話はなかったことにしようかなって思ってた」
「えっ……?」
「だってハル、びっくりするくらい人見知りなんだもん。同じ部活の身内にまでうまくコミュニケーションをとれないままだったら、さすがにバンドをやるなんて厳しいって」
「す、すみません……」
ごもっともな陽菜世先輩の意見に、僕はしょんぼりしてしまう。
「でもハルは逃げなかった。ちゃんと前に進んだよね」
「そ、そうですかね……?」
「そうだよ。紡とか凛なら、もう自然に話ができるようになったじゃん。しかも、自分からアクションを起こした」
「それは……陽菜世先輩がフォローを……」
「あくまで私は背中を押しただけ。その後でハルは頑張って一歩を踏み出したんだから、すごいんだよ」
陽菜世先輩は笑顔で褒めてくれる。こんなに褒められるのはやっぱり性に合わない。全身がむず痒い。
「だからごめんね、ハルが頑張ったんだから私も曲をきちんと作れるようにならないといけなかったんだけど」
「そ、そんなことないですよ。曲作りはすぐにできるようになることじゃないので、まだまだこれからでも……」
そう言うと、また妙な間ができた。一瞬だけど、陽菜世先輩が俯く。
しかしすぐに顔を上げて、苦笑いを僕に見せつける。
「というわけで、頼んだよ大将」
「大将って……そんな」
陽菜世先輩が強めに僕の背中を叩く。
その痛みのせいかは知らないけれど、ようやく僕に前向きな気持ちが生まれてきた。
ここまできて引き下がるわけにはいかない。困難から逃げようとしなかった僕を、バンドメンバーの皆は買ってくれている。
「が、頑張ります……!」
「そうそうその意気。じゃあ、練習始めよっか」
再び陽菜世先輩は笑う。
彼女がダメダメな自分を変えてくれたとに、僕はこのとき初めて気づくことができた。
誰かのために行動するなんてことが今まで全く出来なかった。自分のことだって精一杯だったのだから。
でも少しずつ変われている。成長している。
だから、自分に期待してくれている彼女のために、恩返しがしたい。
その日から僕の握るエレキギターには、今までとは違う熱みたいなものが宿り始めた気がした。
あれから僕の曲をバンドで演奏できるようアレンジした。
陽菜世先輩も金沢先輩も、もちろん凛も楽器の演奏技術については文句なく上手い。
ありがたいことに曲をどう演奏していくのか固まるまでには、それほど時間がかからなかった。
そして軽音楽部の部室にあったボロボロのマイクたちを僕のノートパソコンに接続し、コンテスト応募用の音源を録音した。プロの仕事に比べたら非常にお粗末ではあるけれども、なんとか聴けるレベルのものができて僕はホッとしていた。
吉報が舞い込んできたのは、コンテストにエントリーしてから二週間後だった。
応募用に作ったバンド用のフリーメールアドレスに、一次選考合格の通知が送られて来たのだ。
「やったよ! 本当に一次選考通るなんて思わなかった!」
スマホでメールの文面を見せつけてきた陽菜世先輩は、これまでにないくらい喜んでいた。
いまいちそのすごさにピンときていない僕は、素人のような質問を陽菜世先輩へ投げかける。
「そんなに難しいんですか? 一次選考を通過するのって」
「難しいよ。だって応募者全部で千組超えるんだよ? その中で一次選考を通過できたのは百数十組なんだから、すごいに決まってるじゃん」
千組強の中から通過したのが百数十ということは、割合にして全体の約十分の一。応募した九割の人たちが涙を飲んだと考えると、確かにすごいかもしれない。
金沢先輩曰く、卒業していった先輩が昨年同じコンテストに応募したがあっけなく一次選考で落選したとのこと。
あまり現実味が沸かなかったが、僕は少しずつ事の重大さき気づき始めていた。
「……それで、次の二次選考は何をやるんですか?」
「二次選考はライブ審査だよ。一次選考を突破した人たちがライブハウスで演奏して、お客さんと審査員の投票で決まるの」
「お、おお……ライブ……ですか」
僕は困惑する。ただでさえコミュニケーションが苦手な陰キャラなのに、ステージの上に立って大勢に演奏を見せるなんて目が回りそうだ。
元はといえば僕は部屋にこもってコソコソとDTMをやることが性に合っている男なのだ。スポットライトの下で演奏をするなんて全く想像もしていない。正直ビビっている。
しかし、僕以外のメンバー――特に凛は、かなりワクワクしているようだった。
「いいですね! ライブとか絶対楽しそうです!」
「でしょでしょ? しかもうちの地区のライブ会場、名古屋の『クラブオットー』なんだよ? メジャーなバンドがよくライブをやってる会場で演奏できるとか、こんな機会なかなかないよ」
「『クラブオットー』……すごいじゃないですか! 私、中学のときにそこで好きなバンドのライブを見たことあります!」
「わかるわかる。私も同じような感じで行ったことあるよー。広いし音も大きいし圧巻だよねー」
「そこでライブできたら一生の思い出ですね!」
「まあねー。でも全国大会に出場が決まればもっとすごいよ?」
「そうなんですか?」
「うん。なんてったって全国大会の会場は日本武道館だからね」
日本武道館。『武道』と名のつく通り、そこは本来剣道や柔道などの武道を行うための会場として作られた建物だ。しかし今ではすっかりロックバンドの聖地となっている。
ある程度の人気と実力を兼ね備えた者たちだけがたどり着ける、神聖な場所。
なぜそうなったかと言うと諸説あるのだけれども、やはりあのザ・ビートルズが来日公演を行った場所というのが一番大きいのだろう。
まだまだひよっ子高校生バンドの僕らでは到底たどり着けない場所ではある。しかし、このコンテストに勝ち上がると日本武道館で演奏できるチャンスがもらえるわけだ。バンドマンなら燃えないわけがない。
「そういうわけで、日本武道館目指して頑張ろー!」
陽菜世先輩が拳を上げてメンバーみんなを鼓舞すると、凛や金沢先輩は「おー!」と掛け声を出す。
それにつられた僕も、遅れて右腕を上げた。
――大丈夫。一人だったらビビって逃げ出していたかもしれないけれども、陽菜世先輩をはじめとしたみんながいる。
ふつふつと湧き出はじめた名付け難い気持ちに気がついた。僕は自分自身が変わったのだと、やっとこのとき理解することができた。
※※※
二次予選のライブを翌日に控えた日。
部室での練習を終えた僕は、教室に忘れ物を取りに戻った。
英語の宿題をやるときにかかせない愛用の電子辞書を机の中に置きっぱなしにしていた。
それをカバンの中に収めた僕は、誰もいないはずの教室の入口に誰かが立っていることに気づいた。
「……あれ? 陽菜世先輩、どうしたんですか?」
「ちょっとハルの姿が見えたから、からかおうと思ってついてきただけ」
そう言って陽菜世先輩はいたずらっぽく笑みを浮かべる。
夕日が差し込む教室と、僕とは違う学年カラーのリボンをつけた陽菜世先輩の姿。その二つがあいまって、僕の視界はまるで写真集の表紙のような光景だった。
「いよいよ明日だね、本番」
「そ、そうですね」
「緊張してない? ハル、なんだか本番に弱そうだから大丈夫かなって心配なんだけど」
「だ、大丈夫です。ちゃんと金沢先輩にアドバイスを貰ったので……!」
「へえ、紡ってそんな感じに面倒みてくれるんだ。私には全然何もしてくれないのに」
「ははは……」
「ちなみにどんなアドバイスを貰ったの?」
「ええっと、緊張しているときは自分よりプレッシャーを感じている人を見つけて安心するのがいいって言われました」
例えば今回のコンテストなら、高校三年生のラストチャンスでもう後がない人とか、前評判で優勝候補だと言われている人たちを見つけるといいと、金沢先輩は教えてくれた。
より大きなプレッシャーを感じている人の立場を思うと、自分が今緊張していることなんてバカバカしくなって気が楽になるという、彼なりの経験則だ。
「ぷっ……めっちゃ紡っぽくて笑えるね、それ」
「いつもマイペースですからね。頼りになりますよ、本当に」
「じゃあ明日は優勝候補の人たちをじっと睨みつけようか」
「そ、それは……喧嘩売ってると思われませんかね?」
「大丈夫大丈夫。ハルは全然武闘派に見えないから。もともと目付きが悪いってことにしておけば因縁つけられてもなんとかなるって」
「大丈夫なような、大丈夫じゃないような……」
もしガラの悪いバンドマンに睨まれてしまったらと想像すると、ちょっと怖い。
まあでも、多分そんなことは取り越し苦労だ。
自分の演奏のことを考えていたら、そんなことをしている余裕なんて全く無いのは目に見えている。
「それじゃハル、せっかくだし一緒に帰ろうよ」
「は、はい。いいですよ」
いつもは一人で帰るのが当たり前なので、陽菜世先輩のその提案に対して僕は少し背筋が伸びた。
友達すらほとんどいない僕にとっては、誰かと一緒に帰るなんていう事自体ものすごく久しぶりだ。
ましてや、女子の先輩となんて初めてのこと。
人生初にして最大級のイベントごとに、僕は急に緊張してしまっていた。
玄関で靴を履き替えて、陽菜世先輩の左側後ろを歩く。
真横に立つのはおこがましいと思ってしまった僕の気弱なところが、そのポジショニングに現れてしまっていた。
「……明日、頑張ろうね」
校門を出てから数分、それまでお互いに何を話そうかわからないまま沈黙が流れていたが、ふと陽菜世先輩がそれを破った。
「そ、そうですね。全力で演りましょう」
「私ね、どうしても武道館に行きたいんだ。今回のこのコンテストで」
「……なんでですか? もしかして先輩、メジャーデビューを狙っているとか?」
「ふふふ、それは内緒。でも、多分すぐに分かるよ」
僕をからかうようないたずらな笑みを浮かべる陽菜世先輩だったが、どうもその言葉には含みがあった。
わざわざ彼女は『今回のコンテストで』と言い加えた。つまりそれは他のコンテストだったり、来年行われる次回開催ではダメだということ。
彼女そこまでこだわる理由が気になってしまう。
陽菜世先輩はなにか日本武道館に思い入れがあるのだろうか?
それとも、全国大会に出場すると会いたかった人に会えるのだろうか?
はたまた先程僕が言ったように、できるだけ早いデビューを志しているのだろうか?
考えれば考えるほど答えは見えなくなっていった。陽菜世先輩は今、何を思ってそんな事を言ったのだろうか。
「でも、本当にここまでできるとは思ってなかったなあ。ハルがいなかったら、エントリーどころかバンド解散してたかもしれないし」
「えっ……そうだったんですか?」
「ほら、前にも言ったでしょ。ウチのバンド、私が曲を書くこと前提で組んだからさ。私が曲を作れなかったらそもそもの企画が破綻していることになるじゃん?」
「た、確かに……」
陽菜世先輩はどこから溢れてくるのかわからないその莫大な行動力で、軽音楽部の部内でも腕前のある凛や金沢先輩を巻き込んだ。もちろん、陽菜世先輩自身だってとても歌が上手い。……ギターは要練習だけど。
「だからエントリーできた時点で出来過ぎだなって思ってた。なんにも持ってなかった昔の私からしたら、もはやこれは奇跡みたいなものなんだよ」
「そういえば、昔の陽菜世先輩は僕みたいな引っ込み思案だって言ってましたけど、何が先輩を変えたんですか?」
「……気になる?」
「気になりますよ。だって僕も同じように引っ込み思案ですけど、みんなに背中を押されてやっとこんな感じなんですから。先輩みたいにガラッと変わるのには、どんな理由があったのかなって」
「そうだよねえ、知りたいよねえ」
陽菜世先輩はやけに勿体ぶっていた。
言ってしまいたいような、言ったらいけないような、そんな曖昧な態度。でも不思議と迷っているような感じではなく、まるで僕の我慢強さを試すかのようにからかってくる。
「……わかった。じゃあ明日、ライブが終わった後に教えてあげる」
陽菜世先輩はおなじみになったいたずらっぽい笑顔で僕にそう言った。
気になって気になって仕方がないのだけれども、逆に考えると明日ライブが終われば明らかになる。
陽菜世先輩を突き動かす原動力を知ればきっと自分もさらに変われるはず。
このときの僕は、素直にそう思っていたのだった。
翌日、キャパシティ五百五十人を公称する名古屋のライブハウス、『クラブオットー』には、大勢の観客が詰めかけていた。
それもそのはず。このコンテストの主催は中高生の視聴者が多いYouTube番組。おまけに土曜日の夕方で入場無料ともなると、たくさんのティーンエイジャーが集まってくる。
うちの高校の学園祭でもこんなに人は集まらないだろう。ましてや身内ノリではなくほとんどが赤の他人。きちんと観客の心をつかめるバンドでないと、盛り上げるのは難しいだろう。
ライブに関しては素人の僕でも、それくらいは簡単にわかる。
「いやー、すんごい人だね。ざっとどれくらいだろ?」
控室にて、陽菜世先輩が呑気にそんなことを言う。
「わ……わからないですけど、ここは満杯で五百五十人らしいので、半分だとしても三百人弱はいるかなと」
「三百人……かあ……!」
「先輩、ワクワクしてますよね?」
「もちろん。でも、こう見えて結構緊張してる」
「そうなんですか?」
「まあね。こんなに多くの人を前にして演ることなんて、多分これが最初で最後な気がするから」
ちょっと弱気な陽菜世先輩の言葉に、僕は違和感を覚えた。
最初で最後なんて言葉を、彼女が言うとは思えなかったから。
「先輩、ここで勝ち上がったら日本武道館ですよ? 今日より全然お客さんの数が多いんですから、慣れておかないと」
僕がフォローを入れるようにそう言うと、また少しだけ妙な間があった。しかし何事もなかったかのように陽菜世先輩は「そっか、そうだった」ととぼけた返事をしてきた。
その妙な間のことも、ライブが終わったら教えてくれるのだろうか。僕は不思議に思いながら生音でエレキギターを弾いて指先のウォームアップをする。
しばらく経って出演順が近づいてきたところで、陽菜世先輩が皆を呼び寄せた。
「よーし、出番前だし気合入れようか」
「気合入れるって……何をするんです?」
「そりゃもう円陣でしょ。手のひらをみんなで重ね合わせて、『おー!』ってやるやつ」
「あ、ああ、なるほど、確かに部活っぽいですね」
「でしょ。初陣を飾るわけだし、気持ちを切り替えるのにもいいかなって」
その陽菜世先輩の意見に反対する人はいなかった。
僕らは自然に円陣を組み、中央で皆の手のひらを重ねる。
陽菜世先輩の手の上に僕の手、その上に凛、金沢先輩という順。
僕と同じくウォームアップをしていた凛の手はそれなりに温かかった。しかし、それに対してこのときの陽菜世先輩の手が妙に冷たかったことが、なぜか僕の脳裏にこびりついてしまった。
「絶対武道館行くぞー!」
「「「おー!」」」
元気な陽菜世先輩の掛け声で気持ちが高まってくる。それと同時に、ライブが終わったあとに彼女が打ち明けてくれることについて、僕は一抹の不安を抱いたまま。
いけない、演奏に集中しなくては。
邪念を振り払うように頬をパチパチと叩き、僕は出番の迫るステージへと向かった。
※※※
ステージに上ってからの記憶は曖昧だった。
すごく緊張していたはずなのに、不思議と固くならず自然だったと思う。
ただ、自分の頭で考えていたように身体は動かず、どんな演奏をしたかどうかすら覚えていない。
上手くいったのか、そうでなかったのか、自分自身で判断がつけられないくらい、夢心地というか、意識が朦朧としていた。
全組の演奏が終わって結果発表を迎えた。しかし、僕らは日本武道館に行けるほどの得点を審査員からも会場のお客さんからも叩き出すことはできず、あえなく二次選考で敗退という結果になった。
精根尽き果てた僕ら四人は、悔しがることもせずただただ勝者に拍手を送るだけだった。
すべてのイベントが終わり、帰り際にまた来年頑張ろうと凛が言ったので、僕は気持ちを新たにすることにした。
そこで今日は解散にするはずだった。みんな疲れていたし、休みが明けたらそろそろ期末テストだって始まる。早めに切り替えて、来年に向けて万全の体制で挑めるようにしたほうがいい。と、頭の中では理解しているつもりだった。
でもやっぱり自分の作った曲で敗退したことが尾を引いていた。悔しいような気持ちもあるし、まだ夢を見ているのではないかという結果を信じきれていないところもあって、僕はなんだか帰る気になれずにいた。ふらふらとほっつき歩いた後、僕は会場近くの公園のベンチに座ってボーっとしていた。
日は傾き始めて、すっかり夕暮れ時だった。
「よっ、一丁前にたそがれちゃってどうしたの?」
突然現れたのは陽菜世先輩だった。何も考えられず、頭の中が空っぽ状態だった僕は、完全に不意を突かれた形だ。
「せ、先輩……!? 帰ったんじゃなかったんですか?」
「帰ろうかと思ったんだけどなんか名残惜しくてねー。この辺をうろうろしてたらハルを見つけちゃってね」
「そうなんですね……」
「ハルこそ何してるの?」
「僕は……なんというか、ずっと気分がふわふわしていて現実味がないというか……」
コンテストの二次選考ライブ審査が終わってしまったという実感が湧かない。寝て覚めたらもしかしてまたライブの日の朝に戻っているのではないかと思うくらい、何もした感じがしない。
「そうだよねえ、私もなんだか不思議な感じだもん。これで終わっちゃったんだなって」
「やっぱり先輩もそんな感じなんですね」
「うん。多分、明日とか明後日になったら実感が湧いてくるのかも」
そう言って陽菜世先輩はコンビニかどこかで買ってきた水のペットボトルを取り出し、封を開けた。
夕焼けと水を飲む陽菜世先輩の姿はどこかフォトジェニックで、全くカメラを嗜まない僕ですらその姿をフレームに収めたくなった。
ずっと彼女の姿を見ているのはさすがに気まずくなりそうなので、何か話す話題がないか僕は頭を巡らせる。すると、とあることを思い出した。
「そういえば先輩、昨日の話覚えてますか?」
「あー、うん、……覚えてるよ」
「どうして今先輩は武道館に行きたいのか、それと、どうして引っ込み思案だった昔の先輩はこんなにも変われたのか。教えて下さい」
陽菜世先輩はひとつため息をついた。
昨日の帰り道、ライブが終わったら教えてくれると言っていたけれども、彼女の様子を見るにあまり言いたくはなさそうに見える。
「ははは……これを言うの、ちょっと勇気いるなあ……」
「無理だったらいいです……僕の勝手なお願いなので」
「ううん、いつかは言わなきゃいけないことだし。それに、ハルには最初に言っておかなきゃいけないと思うし」
その言葉を受け止めて僕は妙な胸騒ぎがした。表現するのが難しいけれど、知らないうちに僕は大切なものを失ってしまったのではないかと思ってしまう、どこかソワソワした気持ち。
陽菜世先輩のことをもっと知りたい。でも、知ってしまうとぽっかり穴が空いてしまうかもしれない、たとえようのない恐怖感。
時間を止めたかった。しかし、陽菜世先輩の口から、真実が解き放たれてしまう。
「……実はさ、あと半年くらいで死んじゃうらしいんだよね。私」
いつも元気な陽菜世先輩が、泣きそうになりながら少し喉を絞めるようにして出した言葉。
その残酷な事実は、なぜか僕の中にすっと入り込んできた。
「嘘みたいだよね。今でもこんなにピンピンしてるのに、あと半年しか生きられないって」
「……本当、なんですか?」
「うん……本当。お医者さんが言ってたし、病名は長ったらしくて覚えてないけど、ちゃんと診断書もある」
何と返していいのかわからなかった。
このバンドの発起人で、ずっと輪の中心にいる陽菜世先輩。
僕はそんな陽菜世先輩に出会って、少しずつ人生がいい方向に変わってきたところだった。
なんなら、今の僕の世界の中心には陽菜世先輩がいる。
もし陽菜世先輩がいなくなってしまったら、バンドはどうなってしまうのだろう。彼女がいないとダメな僕は、どうなってしまうのだろう。
色々なことが頭を駆け巡った。考え手も仕方がないことだらけなのに、こういうときだけ頭の回転は早い。
「もしかして陽菜世先輩……余命宣告をされたから、自分を変えようと……?」
「……そうだね、その通りだよ。いざ死ぬって言われたとき、私は陰キャラで友達もいなくて、おまけになんにも成し遂げてないなって思ったんだ」
「なんにも成し遂げてないって……そんなの、みんなそうですよ、大概の高校生は、みんな」
「うん。普通はそう。だってみんな可能性の塊なんだもん。だけど私は違う。今すぐ行動をしないと、本当に私は灰になって消えちゃうなって思ったんだ。だからやれることをやってみた。後悔しないように」
陽菜世先輩は死を恐れたのではない。何もせず、何も残すことができずに消えていき、自分が存在しなかったのと同じになってしまうことを恐れた。
だから彼女は自分で自分を変えた。
引っ込み思案な性格を捨てて無理矢理でも明るく振る舞うようになった。さらには外見を良くして友達を作り、紡や凛とバンドを組んだ。そして最後には僕を巻き込んで、なんとかコンテストに出場し、二次選考のライブまでこぎつけた。
普通の行動力ではここまでやることすらなかなかできないだろう。それでも、彼女はやれるところまでやってのけた。涙ぐましい努力と、死に直面した陽菜世先輩にしかわからない焦りのようなものがそうさせたのだ。
「『自分の作ったものを形に残したい』って言っていたのは、そういうことだったんですね……」
「そうだね。……まあ結局、曲はハルにお願いすることになっちゃったから、達成できてはいないんだけど」
陽菜世先輩はすべてを悟ったような、妙に晴れやかな笑みを浮かべていた。
言うべきことを打ち明けて、憑き物が取れたのだろう。
「でももうチャンスもないからさ、これで精一杯頑張ったってことにしようかなって思ってる。一応、私が歌った音源は残ってるわけだし、武道館ではないけどクラブオットーでライブができたわけだし」
まるで陽菜世先輩は自分自身を納得させるため、そう言い聞かせているように聞こえた。
本当なら武道館に行って、自分の作った曲を思いっきり歌いたかったはずなのだ。
もっと自分が頑張っていれば、もしかしたら叶えられたかもしれない。そう思うと、急に悔しさが心の奥から湧き上がってくる。
「……ハルにはたくさん迷惑かけちゃったよね、ごめんね」
「そんな……そんなこと言わないでくださいよ! 僕は……先輩に会えてやっとこのクソみたいな自分を変えられる気がしてきたんです。きっかけをくれた先輩に、本当ならこれからたくさん恩返しをしなきゃいけないのに……僕は……」
上手く言葉が出せなかった。このときばかりは口下手な自分を呪った。
「泣かないでよ。ハルは私のわがままを聞いてくれて、ここまで連れてきてくれたんだもん。恩返しなんて考えなくてもいいんだよ」
「それじゃあだめなんですよ! それじゃあ、僕は先輩から貰いっぱなしです。せめて少しくらい先輩の役に立ちたいって思ったのに、もう時間がないなんて……」
泣きわめく駄々っ子みたいな声だった。自分ではもうコントロールできないくらい、目からは涙が流れてしまっている。
陽菜世先輩もなんて返したら良いのかわからなかったのだろう。しばらくの間、僕ら二人は何も言えず黙りしてしまった。
「くよくよしていても仕方がないよ。そんな事考えている間にも、時間はどんどん過ぎていくし」
「先輩……」
陽菜世先輩の顔は、何か吹っ切れたような表情だった。
「まあ、あと半年で死んじゃうっていうのは、もうどうにもできないよ。お医者さんが無理って言うんだもん、私がどうこうしたって生き延びることはできないでしょ」
「そう……ですね……とても悔しいですけど、確かにそのとおりです」
「だからね、私はもうこれ以上後悔とか未練とか、そういうものを残したくないなって思うんだ」
「でももう、武道館には……」
コンテストで武道館のステージに立つ夢は絶たれてしまった。今から別の方法を探したとしても、陽菜世先輩を連れて行くには時間が足りない。
後悔や未練をこれ以上残したくないと彼女は言うが、具体的にどうしたら良いのか僕には何も考えつかなかった。
「ううん、違う。そっちはもう仕方がない」
「じゃあ、何が先輩の未練なんですか?」
すると、陽菜世先輩はまるで周囲の喧騒を劈くような透き通った声で、僕にこう言ってくる。
「――ねえハル、私と付き合ってくれない?」
言葉自体はハイレゾ音源のような音質で耳に入ってきた。しかし、その意味を理解するのに時間がかかった。
「付き合う……って、これからどこかに出かけるってことですか……?」
「ハルは面白いことを言うね。このあと私の買い物に付き合ってくれるのも嬉しいけど、ちょっと意味が違うよ」
「えっ……まさか、先輩……?」
「そのまさかだよ。ハルに私の恋人になってほしい」
ドッキリかと思った。ここまでの余命のくだりも含めて、僕は何か盛大に騙されているのかと周囲を見回してしまった。
だって目の前にいるのは陽菜世先輩だ。一年前は引っ込み思案だったとはいえ、今や誰もが認める一軍女子。
そんな彼女が僕に「恋人になってほしい」と言うなんて、現実のこととは思えなかった。
「……どうしたの? そんなにキョロキョロして」
「い、いえ、ドッキリなのかなって」
「ぷっ、そんなわけないじゃん。ヤラセ一切なし、正真正銘、本当の気持ちだよ」
「で、でも、僕なんかが恋人って……その、なんというか、釣り合わないというか……」
「そんなことないよ。ハルは私の大切な人だもん。釣り合わないことなんてないよ」
「それにしたって他にも相応しい人がいるじゃないですか。……その、金沢先輩とか」
別に金沢先輩でなくとも、他に陽菜世先輩とお似合いになりそうな人ならたくさんいる。
それなのに僕を選んだということが、やっぱり信じられなかった。
「ハルがいいの。『好きだな』って思えたの、ハルが初めてだから」
殺し文句だった。
それを言われてしまうと、僕のどんな言葉も通用しなくなる。
もちろん、陽菜世先輩がそう言ってくれるなら僕だって嬉しい。
自分のことを好きだと言ってくれる人がいるということは、こんなにも心が温かくなるのだなと自覚する。だから僕も、先輩のためならなんでもしてあげたいという、そんな気持ちになってきた。
「ぼ、僕でよければ、その……よ、よろしくお願いします……!」
素直に僕はそう答えた。すると、陽菜世先輩は少し驚く。
「本当にいいの……? あと半年でお別れがきちゃうのに、私と付き合っても」
「いいんです。だって、先輩が生きていたんだよってことを僕がずっと覚えていれば、消えることはないですから」
「……ハル、ありがと。絶対に辛い思いをさせるのに、私のわがまま聞いてくれて」
「辛くなんてないです。だから先輩は未練なんてなくなるくらい、僕にわがままを言ってください。頑張って叶えますから」
我ながら恥ずかしいセリフだなと思った。
でも、嘘偽りのない本当の気持ちだ。
今の僕は、先輩のためならなんでもできる。もう僕は臆病でも引っ込み思案でもなんでもない、無敵状態みたいな感じだった。
「ありがと、じゃあ早速一つわがままを受け入れてもらってもいいかな?」
「は、はい。なんですか……?」
僕が返事をすると同時に、陽菜世先輩の顔が近づいてきた。
視界は陽菜世先輩で埋まる。ふわっとシャンプーの香りが弾けて、僕の鼻腔がムズムズしてくる。
一瞬のうちに唇は温かくて柔らかい、少し湿った感覚に覆われて、何をされているのか察した僕はすぐに目を閉じた。
僕も陽菜世先輩も、お互いにすごくぎこちない。
でも、何故だか身体の奥底からは、幸せな気持ちが湧き上がってきた。
初めての口付けは、ほんの十秒程度だったと思う。
「ははは……奪っちゃった、ハルのファーストキス」
「び、びっくりしました。これも先輩のやりたかったことなんですか……?」
「……うん、してみたかった。好きな人とのキス。自分も相手も、お互いに初めてだったら嬉しいなって」
陽菜世先輩の顔が少し紅くなっていて、つられて僕も恥ずかしくなってきた。
「ごめんね、ファーストキスの相手があと半年で死んじゃう人で」
「先輩、それ言うの禁止にしましょう」
「そっか、そうだよね。……これでやめにする」
一つ約束を交わして、僕らはベンチから立ち上がった。
手を繋いで帰ろうと陽菜世先輩が差し出してきた右手は、妙に熱を帯びていて、確かに今を一生懸命生きていた。
その脈動を忘れないように、僕は陽菜世先輩の手を強く握り返した。
季節は一つ進んで夏になった。
期末テストを間近に控えた僕は、陽菜世先輩の部屋で勉強会をしようということになって、バンドメンバー皆で集まった。
もちろん勉強はするのだけれども、それは半分建前。
夏休み明けに控えている文化祭で何をやるかという相談が本当の目的である。
オリジナル曲だけでライブをするのか、それともコピー曲を交えて演るのか、それならどの曲を選ぼうかとか、話し合う内容はそんなところだ。
そして僕と陽菜世先輩はこのタイミングで余命のことと、僕ら二人の関係について凛や金沢先輩に打ち明けた。
「……ごめんね、本当はもっと早く伝えるべきだったのかもしれないけど、みんなコンテストに集中していたから、こんなこと言ったら邪魔になるかなと思って」
陽菜世先輩の口からすべてを洗いざらい話したあと、やっぱり皆何を言っていいのかわからず黙り込んでしまった。
結構な長さの沈黙の後、一番最初に言葉を発したのは金沢先輩だった。
「正直びっくりした。驚きすぎてちょっと受け入れがたいところもある。でも、去年からの陽菜世の変わりっぷりを見ていたら、正直納得というか、わかるなあって思うところもある」
この中で一番長い時間陽菜世先輩と関わってきたのは金沢先輩だ。彼が不思議に思っていたことがこれでようやく頭の中でつながったようで、なぜか安堵に似たような表情をしていた。
「俺がもし陽菜世の立場だったら、確かに焦ると思う。そう遠くない未来に死んじゃうってわかってしまって、ダメな自分のまま消えていくとか嫌だもんね」
「紡……」
「余命宣告っていうのは凄くショックだよね。それでも、ずっと前を向き続けた陽菜世はすごいと思う。打ち明けることも辛かったと思うんだ。だから陽菜世が精一杯生きようとしているのに、俺らがしょんぼりするのは違うんじゃない?」
まるで自分にムチを入れて言い聞かせるかのように、金沢先輩はそう言った。
彼の言うとおりだと僕も思う。
陽菜世先輩に残された時間は少ない。でも、一人でやり遂げられないことはたくさんある。
一番近くにいる僕たちが、陽菜世先輩と一緒に前を向かないでどうするのか。
「あ、あの」
「ハル? どうしたの?」
「い、いえ、今更なんですけど、次の文化祭が多分僕たちの集大成になるというか、大きなゴールと言うか……。と、とにかく僕は、陽菜世先輩のために、全身全霊を尽くしたいと思ってます。だ、だからその……」
泣きたくもないのに、僕の瞳からは涙が出ている。
男のくせに、真面目な話をしているのに、かっこ悪く泣きべそを僕はかいてしまっていた。
「……文化祭、最高の舞台にしましょう」
そう言うと、みんなは賛同してくれた。
こんな気持ちのこもった言葉が自分の口から出てくるなんて思いもしなかった。
陽菜世先輩に出会う前までの僕なら、多分目の前のことから逃げて、何も見なかったことにしていたと思う。
何もできなかった僕を、陽菜世先輩が変えてくれた。そして、彼女によって変わった自分がやっとうまく起動し始めた、そんな瞬間だった。
「じゃあ決意も固まったということで、勉強会を再開しようか。テストで赤点とってバンドができなくなるようじゃ、本末転倒だしね。特に、晴彦」
「そ、そうですね、頑張らないと。僕、成績もそんなに良くないので……言い出しっぺのくせにカッコ悪いとこ見せられないです……」
ハハハと皆が笑ってくれて、少し僕は救われた気分になった。
※※※
期末テストを終え、夏休みに突入した。
懸念されていた僕の成績はなんとか及第点を超えて、補習や部活動禁止のような制裁を受けずに済んだ。
案外やればできるものだなと、答案用紙が返却されたときにそんな感じで自嘲していたをの思い出す。
「ハル、このあとちょっといい?」
夏休み初日のバンド練習後、陽菜世先輩が声をかけてきた。
このあとの予定もないし、大切な陽菜世先輩の頼みとあれば断ることなど絶対ない。
「いいですよ。どこかにお出かけですか?」
「うん、そんな感じ。じゃあ着替えたら岡崎駅集合で」
「えっ? 駅ですか? しかも岡崎駅って、一体どこに行くんですか?」
「それは内緒」
陽菜世先輩はウインクをしてくるが、絶妙に上手くできていない。
片目だけつぶろうとして、もう片方もつられてつぶってしまいそうになっている。
そんな不器用なウインクが、逆に可愛く見えてしまう。
僕は一度家に帰り、着替えてからJRの岡崎駅へ向かう。
ちなみにこの街の中心駅はJR岡崎駅ではなく名鉄の東岡崎駅で、そっちのほうには繁華街や岡崎公園があって賑わっている。
一方でJRの岡崎駅前には特にこれと言って高校生が出かけるようなスポットはあまりない。強いて言えばイオンモールが近くにあるが、陽菜世先輩がイオンモールに行きたいのであれば間違いなく現地集合になるはずなので、ここに呼び出されるということは何か別の企みがあるということだ。
改札前のコンコースでぼーっと待っていると、すぐに陽菜世先輩がやってきた。
夏らしく涼しそうなコーディネート――彼女が好きなバンドのロゴがついた白いTシャツとネイビーのマーメイドスカートの組み合わせだった。とても似合っている。
「ごめんごめん、待った?」
「いえ、全然。僕もいま来たところなので」
「よかったー、ハルっていつも集合時間より早く来るから、めっちゃ待たせてたらどうしようかなって……」
走ってきたせいもあって陽菜世先輩の肌はうっすら汗ばんでいた。
細い首すじに夏の日差しがあたって、少しキラキラとしている。
「どうしたの? ぼーっとして」
「えっ……? あっ、いや、先輩、似合ってるなって……」
僕がつい本音を言ってしまうと、陽菜世先輩は急に恥ずかしがりだした。
「ちょっ、ハルがそんなこと言うなんて思ってなかったから、びっくりしちゃった……」
「ご、ごめんなさい、悪気は全然なくて」
「悪気って、悪いこと言ってないのに変なこと言うね?」
「た、確かに……」
あははと苦笑いをしていると、そろそろ電車が来る時刻になろうとしていた。
僕はTOICAを、陽菜世先輩はmanacaを自動改札にタッチしてホームへ踏み入れると、まるで見計らったかのようなタイミングで新快速が入線してきた。
恋人の関係になってちょっとだけ陽菜世先輩に踏み込めるようになった気がする。
でもまだ、知らないことばかり。
残された時間の中で、もっと陽菜世先輩を知りたい。
ふと気がつくと、僕は彼女の手を握っていた。
「ははっ……なんか照れるね、これ」
「そう……ですね、思ってたより緊張します」
「そんなこと言ってるけど、ハルはいつも緊張してるじゃん。今更変わらないんじゃない?」
「変わりますよっ! 全然違うんですからっ……!」
「ふーん。ってか、早く乗らないと電車行っちゃうよ?」
「そ、そうですね、乗りましょう」
手を繋いだまま電車に乗り込む。
近隣に空いている席がなかったので、目的地までずっと立ち乗りしながら僕たちは手を繋いだままだった。
岡崎駅を出て豊橋方面に電車は進む。途中で海が見えてきて、車内アナウンスとともに減速が始まると目的地の蒲郡駅はもうすぐだ。
「やっぱ快速だとあっという間だねー」
「そうですね。それで……蒲郡まで来ましたけど、どこに行くんですか?」
蒲郡は名所や観光地がたくさんある街なので、出かけるにはピッタリだとは思う。でも、交通手段があるかといえばちょっと微妙なところ。
タクシーを使うほどお金に余裕があるわけではないので、陽菜世先輩は目的地へどう行こうとしているのだろうか。
「それはねー、あれに乗って水族館に行きます」
彼女の指差した先にはレンタルサイクルのスタンドがあった。
確かにこれならリーズナブルだし、いろいろなところに行ける。おまけに電動アシスト機能があるから、それほど疲れない。
「なるほど、水族館……」
「ハル、静かなところのほうが好きかなって」
「そこまで考慮してもらって……なんかすみません」
「いいのいいの。あの水族館、面白いって噂だったから……見ておきたくてさ」
妙な間のところで「死ぬ前に」という言葉を陽菜世先輩は言いそうになったのかもしれない。
意気地無しで行動力もないくせに、僕はそういうところばかりすぐ気がついてしまう。
もっと陽菜世先輩のために寄り添えたらな、と思っているうちに、僕らは自転車を漕いで竹島水族館へと辿りついていた。
この水族館は規模としてはかなり小さいほうだ。ゆっくり見ても一時間あれば大体の展示物は見終える。
それでもこの水族館が人気なのは、独特な展示やユーモアの効いた解説があるからだろう。入館料も安い。
入場券を買って館内に入ると、タカアシガニという深海に生息する足の長いカニが僕らを出迎える。
「ねえハル」
「どうしました?」
「水族館に来るとさ、泳いでいる魚介類を見て『美味しそう』って感じることない?」
「ええっ……さすがにそんなこと考えたことなかったです」
「そうなの? 私結構そういうのあるんだけど」
「意外と食いしん坊なんですね、先輩」
僕からそんなことを言われると思っていなかったのか、陽菜世先輩の顔が少し赤くなる。
不覚にも可愛いと思ってしまった僕も、多分顔が赤い。
「自覚なかったなあ……このタカアシガニだって、なんだか美味しそうじゃない?」
「そ、そうですか……? まあでも、言われてみるとタラバガニっぽいというか……」
「でしょ? ほら、ハルだって食いしん坊じゃん」
「先輩と一緒にしないでくださいよ! カニはともかく、僕はあそこにいるグソクムシなんかはさすがに美味しそうには見えないです!」
「そ、それは私だって美味しそうには見えないし! なんでも食べるわけじゃないんだから!」
と、痴話喧嘩のようなとりとめのない話をしながら順路通りに水族館の中を進む。
チンアナゴとか、ウツボの軍団とか、熱帯魚などの水槽を眺めているうちに、僕らはとある生き物の展示の前で足を止めた。
「クラゲだ、それもたくさんいるね」
「そうですね。照明と相まって、なんだか幻想的です」
水槽の中のクラゲは、LEDライトから放たれる何色もの光によって照らされながら漂っている。
透明で、今にも消えてしまいそうな儚さがあって、でも確かにそこに存在している、不思議な生き物だ。
「ねえハル知ってる? クラゲの生態」
「あいにくあんまり生き物には詳しくなくて」
「クラゲには色々な種類がいるんだけど、その中でもベニクラゲっていうのは特徴的なんだよね」
「特徴的……ですか?」
「そう、どんな特徴があると思う?」
それっぽい答えを導き出そうと僕は足りない頭で考えてみる。
「ベニクラゲって言うくらいだから、……赤いとかですか?」
「そのまんますぎじゃん。もうちょっと考えなよね」
「すみません……」
陽菜世先輩にダメ出しを食らうとは思っていなかったので、適当に考えたことをちょっぴり後悔する。
「実はベニクラゲってね、不死の生き物って言われてるの」
「不死……ですか?」
「そう。老いたベニクラゲはポリプっていう状態になって、何度も生命をやり直すんだよ」
僕は陽菜世先輩のその薀蓄に、どうリアクションをしていいかわからなかった。
余命半年の彼女が不死のベニクラゲに対して憧れを抱いている……というわけではなさそうだが、どこか物憂げに見えた陽菜世先輩のその横顔は、何か胸騒ぎがする。
「先輩は、やっぱりその……」
「ん? どうしたの?」
「い、いえ、なんでもないです……」
「大丈夫。私はもう、あと少しで死んじゃうことはちゃーんと受け入れたから。生き延びたいなんて、思っていないよ」
「……」
「そんな辛気臭い顔しないでよ。せっかくのデートなんだし」
再び陽菜世先輩は僕の手を握る。
確かによくよく考えてみたらこれは紛れもないデートだ。別れるつもりなどないのに、嫌な気持ちへ自ら足を踏み入れる必要などない。
「ほら、そろそろアシカショーが始まるみたいだよ。見に行こうよ」
「そ、そうですね。そうしましょう……」
上手い具合に先輩が助け舟を出してくれたので、僕は変に考えすぎずに済んだ。
小さな水族館の小さなスタジアムで、一日三回行われるというアシカショーが始まる。
エサをおねだりするアシカの動きは愛らしくて、ショーが終わる頃にはすっかりさっきのクラゲの話など忘れてしまっていた。
ちなみにあとから知ったのだけれども、ここのアシカショーに出てくるのはアシカではなくオタリアらしい。違いがよくわからない。
帰り道、蒲郡駅の目の前にあるショッピングモールでアイスクリームを食べて二人で談笑していた。
病気のこととか、陽菜世先輩がいなくなってからのこととか、そういう話題は避けた。ただ単純に好きな音楽の話をするだけで、十分楽しかったから。
ふと、隣のテーブルに小学校にもまだ通ってなさそうな小さな女の子二人の姉妹と、そのお母さんが座った。
近くでお祭りがあるのだろうか? その姉妹は二人揃って浴衣を身にまとっていた。
それを見た陽菜世先輩が、何かを思い出したようにこう切り出す。
「そういえばさ、来月の頭の土曜日ってヒマ?」
「来月の頭の土曜……八月三日ですかね? 確かバンドの練習は……」
「入れてないはずだよ。その日は……ほら、街中が混むじゃん」
そう言われて僕は八月三日に何があるのか思い出した。
東海地方でも有数の花火大会、『岡崎城下家康公夏まつり花火大会』がある。通称『岡崎の花火』というやつだ。
その日は街の中心部が多くの観光客でごった返す。
人混みが得意ではない僕は、好んで花火大会の会場に近づいたことはない。
いつも自宅のベランダから遠巻きに花火を眺めるくらいしかしていなかった。
「もしかして先輩、花火大会に行こうとかそういうやつですか?」
「そうそう。せっかくだし行こうよ。いい思い出になるかも」
その「いい思い出」という言葉に少し気後れしたけれど、結局のところは陽菜世先輩が花火大会に行きたいということである。
彼女の希望であれば、僕には断る理由などない。
「行きましょう。その日、ちゃんと予定開けておきます」
「ありがと。ってか、他に予定入ってくる可能性あったんだ。ハルなのに」
「……それ、馬鹿にしてます? まあでも、確かに先輩の言うとおりなんですけど」
「ほらね」
陽菜世先輩は仕方がないなあと笑いながら、カップの中に残っているクッキークリームのアイスを、プラスチック製でピンク色をしたスプーンで口に運んだ。
帰り際、ショッピングモールの二階で僕は浴衣を買わされた。似合わない感じがすると言って逃げる僕を、陽菜世先輩は上手いこと丸め込んだ。
まあ、彼女が喜んでいるなら悪くない買い物か。財布の中身はかなり心もとない状態になってしまったが。
「まさか晴彦が浴衣でデートなんてね」
「わ、笑うなよ。僕だって信じられないんだから」
花火大会当日。浴衣の着方を知らない僕は、恥をしのんで母親へ着付けを依頼した。
黒地の地味な男性用浴衣ではあるが、着てみると意外としっくりくる。
もう少し僕の背が高ければ、陽菜世先輩の隣に並んでいても堂々としていられるのに。と思ったときには、身支度が済んでしまっていた。
「これでよし。ちゃんとエスコートするのよ?」
「わかってるよ……! そんなに心配しなくてもいいって……! ちゃんとどうするか決めてるから! ってか母さん、絶対についてこないでね!」
「はいはいわかったわかった、そんな野暮なことしないわよ」
「本当かなぁ……」
高校生になったとはいえ、兄弟のいない僕に対して両親は過保護っぽいところがある。
自作曲をアップロードしている動画サイトのチャンネル登録者の一番目は、お恥ずかしながらこの母なのだ。うかつに恥ずかしい曲を上げられない環境に置かれたからこそ、今の自分がある。……と、思うことにしている。
「今日は私もお父さんも、昔の友達の家で花火を観ながら一杯やることにしてるの。夜遅くなるかもだから、ご飯も彼女と一緒に食べちゃいなさい」
そう言って母はお小遣いとして五千円札を渡してくる。津田梅子が描かれた新札になっているあたり、つい最近口座からおろしてきたのだろうか。
「い、いいの? 臨時とはいえ、こんなにくれること滅多にないじゃん」
「いいの。おとなしく貰っておきなさい。彼女に寂しい思いさせちゃだめよ?」
「う、うん……」
「ふふふ……なんだか晴彦、変わったわね」
「そうかな……?」
「そうよ。あなたのことはずっと昔から見ているんだもの、ちょっと変わっただけでもすぐにわかるわ」
「自分では自覚ないんだけど……」
「自分ではわからないものよ。ちゃんといい方向に変わっているとお母さんは思ってるから、そのままでいてちょうだい」
母親からの妙な褒められ方にどう反応していいかわからず、僕は「はーい」と生返事をした。
そうこうしているうちに陽菜世先輩との約束の時刻が迫ってきた。ただでさえ今日は街の中がごった返すので、いつもより三倍くらい時間に余裕を持たないと大変なことになる。
慣れない雪駄を履いて街へと繰り出す。
夏の三河は日本一、いや世界一の猛暑と言っても過言ではない。ピークが過ぎたとはいえ、昼間の熱気を蓄えた街は容赦なく僕の体力を削っていく。
これは陽菜世先輩と合流できたらすぐさま冷たいものでも補給しないとやっていられないなと考えているうちに、僕は待ち合わせ場所である東岡崎駅の南口にたどり着いた。
花火のメイン会場は駅の反対側――北口からすぐそこにある乙川という川の河川敷だ。
そちらは人でごった返すので、僕はあえて比較的混んでいない南口を待ち合わせ場所にした。
ハンディタイプの扇風機くらい持ってくれば良かった。暑くて茹だりそうだ。
「ごめんね、ちょっと遅れちゃった」
これ以上待つならば帰ろうかなと思いかけた刹那、改札の向こうから陽菜世先輩がやってきた。
僕は彼女の浴衣姿を見て絶句する。
もちろん、とても良いものを見たという意味で。
「い、いえ、僕もさっき来たばかりなので……」
「ほんと? ハル、もう汗だくだよ? 結構前からいたんじゃない? そんなに楽しみだった?」
「……わかってるなら訊かないでくださいよ」
「ごめんごめん。とりあえず水分補給しよ、そこのコンビニで飲み物を買おう」
すぐに駅の改札近くにあるファミリーマートに入る。そのとき、とても自然に陽菜世先輩が僕の右手を握ってきた。
もう何度か二人きりで出かけているのに、この瞬間ばかりはいつもドキッとする。陽菜世先輩も最初は恐る恐るだったくせに、最近は慣れてきたのか僕の反応を伺うくらいには余裕がある。
経験値としては似たようなものなはずなのに、なんだかずるい。
ファミリーマートで水を買ってすぐに流し込む。
思ったより消耗していたのか、五百ミリリットルのペットボトルはすぐに空になった。
改めて陽菜世先輩の姿を見る。
彼女の浴衣は意外にも寒色系で、濃い青色主体の涼しげな柄だった。長い髪はお団子にしてまとめていて、いつもは見えない首すじがあらわになっている。
噂では聞いていたが、本当に男というのは浴衣姿の女性のうなじにドキッとしてしまうのだなと、なぜか感心してしまっていた。
いつもはしゃいでいて子どもっぽい陽菜世先輩は、不思議と大人びて見えてしまう。
「どしたの? 見惚れてた?」
「べ、別にそういうわけじゃ……」
「たくさん見ておきなよ? こういう時に見ておかないと損だし」
「損って……確かに先輩は今回が――」
いらないことを言い出しそうになった。その言葉の先を言わせないよう、陽菜世先輩が人差し指を僕の唇に当てて制する。
「ダメだよ、それ以上は」
「す、すみません……」
「はい。というわけで、早速屋台で何か買おうよ。インスタで話題になってるたこ焼きとフライドポテト、気になってるんだよね」
「えっ、でも場所を確保したほうが……」
「実はね、とっておきの場所があるんだ。だから食べたいものを先に買っておいて、ゆっくりそこで花火を観よ」
どうやら陽菜世先輩には穴場スポットに心当たりがあるようだった。人混みのなかでそんなに都合の良い場所があるのか疑問だったけど、彼女が言うのならそうなのだろう。
「わかりました。とりあえずその、インスタで話題のたこ焼きでも探しましょう。ちなみに、なんて名前のたこ焼きやさんなんですか?」
「ええっと、なんだったっけ……」
陽菜世先輩はスマホを巾着袋から取り出して調べ始める。
「あれー、見つからないなあ。いいね押しといたのに……」
「なにか手がかりないんですか?」
「うーん、岡崎で有名なYoutuber御用達のラーメン屋さんが激推ししてるってことだけ……」
「なんですかその推薦の推薦みたいな……」
有名人やインフルエンサーが紹介して知名度を得た人たちが更に別の人達を紹介していく。
一体どこまでインフルエンスする力があるのかというのはさておき、評判の広まり方というのはたしかにそんなもんだよなと、僕は軽くため息をついた」
「あっ、あったあった、これだこれだ。今日は桜城橋に出店してるって。早く行こう」
陽菜世先輩は再び僕の手を取り、今度は強めに引っ張る。
「そ、そんなに慌てなくても」
「だって早く行かないと売り切れるかもしれないじゃん」
「……わかりましたよ。転ばないでくださいね、ただでさえ歩きにくいんですから」
「大丈夫大丈夫、こう見えて運動神経は悪くないっ――」
完璧な前フリとともに陽菜世先輩はバランスを崩す。
このまま転んでしまったらせっかくの浴衣に汚れがついてしまうと思い、僕はとっさに陽菜世先輩を抱きかかえた。
彼女のその身体は思っていたよりも柔らかく、そしてびっくりするほど細かった。
そういえば、頑なに陽菜世先輩は肌を出すことを躊躇っていたのを思い出す。
その理由が何となくわかった。多分、病気の影響でやせ細りかけている自分の姿を見られたくなかったのだ。
本当にもうすぐ死んでしまうのかと疑うくらい陽菜世先輩が元気なのは、それなりに彼女が無理をしていたからだと、僕は胸の奥が少し痛くなった。
「……あ、ありがとう」
「大丈夫ですか?」
「……うん、大丈夫」
目があって、余計に気まずくなった。
とにかく気を取り直してたこ焼きを買いに行かなければと思い、今度は僕のほうから彼女の手を取って歩き出した。
目的のたこ焼きは、案外あっさり買うことができた。
みんな花火大会の場所取りに夢中で、屋台で買い物をする余裕などなかったのかもしれない。
ついでに陽菜世先輩のお目当てだったフライドポテト、市内の有名店が販売しているからあげや汁なし担々麺などを購入すると、先程母親からもらった津田梅子のお札はあっという間に小銭と一枚の北里柴三郎になった。
「買いましたね、こんなに食べ切れるかな……」
「大丈夫大丈夫。美味しいものはいくらでも食べられるから」
「でもこのラインナップ、全然甘いものがないですよね? 買わなくていいんですか?」
「それは食後のお楽しみってことで、食べ終わったらまた買いに行こう」
「……めっちゃ食べる気満々だ」
日は傾き始めている。そろそろ花火大会の始まりを告げる狼煙が上がる頃だ。
陽菜世先輩の言う『とっておきの場所』とやらに僕は案内される。
てっきり河川敷のなかにいい場所があるのかと思っていたが、彼女の言われるがままについていくと、そこは川沿いにあるタワーマンションの一室だった。
「せ、先輩? ここって……」
「ん? ウチだけど?」
「ええっ!? 先輩の家で観るんですか?」
「うん。そのほうが良くない? ここ高いから見やすいし、人混みも気にしなくていいし、なにより涼しいし。特等席中の特等席だよ?」
「た、確かに……」
陽菜世先輩の言う通り、花火を観るならここは邪魔の入らない最高の場所だ。
しかし屋内で観るのなら、せっかく着た浴衣が無駄になってしまう気がしないでもない。それに、陽菜世先輩の家族だっているだろうから、僕はちょっと気を使ってしまいそうでもある。
「大丈夫だよ、うちの両親は友達のお店に飲みに行ってるから。今はいないよ」
「それってつまり……」
「うん、二人きりってこと」
いろいろな可能性が頭の中をよぎったが、ヘタレの僕に限ってそんなことはないだろうと考えを振り切った。
とにかくお腹が空いてしまっているし、涼しくて邪魔の入らない場所で花火が観られるならこれ以上ないのだ。純粋に、今日のイベントを楽しむことにしよう。余計な
「ハル、顔真っ赤」
「えっ!? あっ! そ、そんなつもりはっ……!」
「うっそー。めっちゃ動揺してるじゃん。そんなに期待してたの?」
「せ、先輩っ!」
あははと笑う先輩。この人には敵わないなと、僕は肩をすくめる。
部屋に入ると、リビングには大きな窓があった。花火の見える場所としては、これ以上ないポジションだ。
僕と陽菜世先輩はベランダに出て、置いてあったテーブルに買ってきたものを広げる。
お腹が空いていたのでそれをつまみながら談笑していると、やがて空が暗くなってきて開始時刻の十九時を迎えた。
開幕を告げるスターマインが小気味よいリズムで爆ぜる。爆心地に近いこともあって、その音は今まで見てきた花火に比べてとてつもなく大きかった。
「どう? 迫力あるでしょ?」
「はい……。めちゃくちゃ近いです……花火が」
ベランダに置かれている二人がけのベンチに座る僕と陽菜世先輩。
こんなに密着することなど今までなかったので、正直花火よりも彼女のことが気になって仕方がない。
花火が爆ぜる音なのか、僕の心臓の鼓動なのかよくわからなくなってしまいそうで、だんだん頭に血が登っていくのが自覚できた。
多分顔は真っ赤だ。暗さと花火の光で、陽菜世先輩にそれがバレていないのが救いかもしれない。
花火大会は進んでいく。
柳のように光が垂れてくる、大きな打ち上げ花火が数発上がる。
フィナーレ前の少ししっとりとした時間帯。なんとなく物寂しさを感じたのか、陽菜世先輩が隣りに座る僕に寄りかかってくる。
「……最後の花火、だね」
先輩がそうつぶやく。『最後』という言葉はなるべく言わないようにお互い意識していたが、それでもやはり出てきてしまう。
仕方がない。正真正銘、陽菜世先輩にとってはこれが最後の花火になってしまうのだから。
まともに返す言葉が見つからなくて、僕はすっとぼけた返事をする。
「……何かの歌の歌詞みたいですね」
「ふふっ、確かに」
「フジファブリックの『若者のすべて』、ですね」
「これで、何年経ってもハルが私のことを思い出してくれるかなって」
「そんな歌詞の引用をしなくても、僕はずっと先輩のこと覚えてますよ」
「……本当?」
「はい。嘘はつきません」
本心から出た言葉だった。でも陽菜世先輩はなぜか泣き出してしまいそうで、僕はそんな彼女を見たくないなと思って抱きしめた。
「ははっ……。ハルにぎゅーってされるの、なんか恥ずかしいね」
「……じゃあ、もうちょっと恥ずかしさを味わっておいてください」
「言うようになったじゃん。なんか今のちょっとかっこいいかも」
「……先輩が僕を変えてくれたんですよ。春先のあの日、部室で先輩に会わなかったら、僕は今でも引っ込み思案の陰キャラなままでしたから」
「……そうかもね。ちゃんと変わってくれて、よかった」
僕は一旦抱きしめていた腕の力を緩める。先輩はぷはーっと深呼吸をしたあと、再び僕の胸へ飛び込んできた。
「……最初にハルを見たときはね、似てるなーって思った」
「それは、昔の先輩とってこと?」
「うん。でも、いざ付き合い始めると、全然似てないなって」
「……まあ、似てはいないかもしれないですけど」
「ハルはね、口下手だし引っ込み思案だけど、ちゃんと自分を持ってる。闇雲に動く私と違って、まっすぐ目標に向かって行動できる」
「……そんなこと、ないですよ」
「あるよ。だって、こんなに私のわがままに付き合ってくれるんだもん。逃げずに、ちゃんと向き合ってくれる。多分、私がハルのことを好きなのは、そういうところに惹かれたのかなって」
「た、大したことなんてしてないですよ」
「ハルはそう思ってないかもしれない。こんなに向き合ってくれるのか私は不思議だったし、それで不安になることもあった。どうしてなのかな?」
「そ、それは、先輩のことが……好きだから……でふ」
緊張して最後の大事なところを噛んでしまうあたり、なんとも僕らしい。
そういうやらかし癖のある僕を、ちゃんと許容してくれるから陽菜世先輩は素敵だなと思う。
「好きって言われるの、初めてな気がする」
「そ、そうでしたっけ……? いちばん大切なことなのに僕、恥ずかしがって言ってなかったら本当にごめんなさい」
「ううん、大丈夫。今ので全部吹き飛んだ」
胸元でクスッと笑う陽菜世先輩の吐息が少しくすぐったい。
「……あのね、正直なこと言うと、好きになってくれるなんて思ってなかったんだ」
「ど、どうして?」
「だって私、もうすぐ死んじゃうんだよ? 全部の思い出が、今日みたいに『最後の』思い出になっちゃう。それに……」
「それに?」
「百パーセント悲しい思いをさせる。下手をしたら、傷つけちゃうこともある……。人が死ぬって、そういうことだから」
陽菜世先輩の中で葛藤があったのだろう。
死が迫っているから現世にやりたいことを残したくない。それが彼女の大きな原動力。
でも、それは一人ですべて実行できるわけではなく、必ず協力してくれる人が必要だ。
人と関わるということは、死によって別れが訪れる。そこには大なり小なり悲しみが生まれる。深く踏み込んだ関係になればなるほど、その悲しみ、その傷は大きくなる。
「だから打ち明けたとき、ハルに絶対嫌われると思ってた。だって、私のやっていることは、とっても自分勝手だったし」
「そんなことないですよ。先輩は……僕に原動力をくれたので、むしろ感謝しているんです。だからそんなことで気に病まないでください。僕は、先輩がくれたものに対して恥じないように生きていくって、決めたので」
「……ばか」
陽菜世先輩はそれ以上何も言わず、ぎゅっと僕に抱きついてきた。
フィナーレの花火が、捲し立てるように爆ぜて光る。
僕は何も言わず、彼女の細くなってしまった身体を一生懸命抱きしめた。
花火大会のすべてのプログラムが終了して、辺りは再び暗闇に包まれる。
再び上目遣いで僕を見つめる陽菜世先輩は、両手で僕の顔を引き寄せてきた。
「……もっとハルのこと知りたい。私から渡せるもの、全部受け取ってほしい。……いいかな?」
「……はい」
唇に柔らかい感触を覚える。もちろん、僕もそれに応える。
そういえばこの家には僕ら二人しかいない。
そんなこと考えた頃には、僕はもう陽菜世先輩に夢中になっていた。
再び目が覚めた頃には、形だけ大人になった僕と、すやすや寝息を立てる陽菜世先輩がいた。
花火大会が終わり、お盆休みが終われば猛暑も幾分手を緩めてくれるかなと思った。
しかし今年の暑さはそんなに甘っちょろいものではない。二学期が始まる頃になっても天気予報で表示される最高気温の色は紫色のままだった。
暑い暑いと独り言をつぶやきながら通学する朝の光景。周りからは夏休みに何をやったかとか、課題が全然終わっていないとか、今日は八月三十二日だよなという会話が聞こえてくる。
「おはよ」
女子生徒の声。背後から声をかけられたらしい。
まさか自分が女子生徒から挨拶をされるとは思っていなかったので反応に遅れた。陽菜世先輩とは通学路が違うので、彼女ではない他の誰かだ。
そうなると僕に声をかけてくるような女子生徒は自ずと導き出される。そんなのは小牧凛、一人しかいない。
「……なんだ凛か、おはよう」
「なんだってことないじゃん。同じ通学路なのに滅多に出くわさないから、ちょっと声かけてみたのに」
「ごめん……」
「……まあ、謝るほどのことでもないんだけどさ」
すぐにごめんと言ってしまう悪い癖を早いところ直さなければなと思っているのだが、これがなかなか直りそうにない。脊髄反射的に出てきてしまうので、かなり意識をしておかないといけない。
「あっという間に新学期だね」
「うん、本当にあっという間の夏休みだった」
「文化祭のネタ、何か思いついた?」
「えーっと、コピー曲でやりたい曲が見つかったんだ」
「あれ、意外。てっきりオリジナル曲がたくさんできたのかと思ってた」
「それもあるっちゃあるんだけど、それだけだと聴く人たちがポカンとしちゃうからさ。やっぱりみんなが知ってる有名な曲をいくつかやっておかないとって」
「それ、ヒナ先輩が言ってた?」
「よ、よくわかったね」
凛は鋭いところをついてくる。
彼女の言うとおり、今の案を言い出したのは陽菜世先輩だ。この間のコンテストの二次選考で披露したオリジナル曲をやるのはいいのだけれども、やはり知名度のない僕の曲だけでは聴く人の方が大変だろうということで、陽菜世先輩がコピー曲を列挙してくれた。
……挙げすぎてベストアルバムが出来上がりそうになってしまったので、僕がある程度厳選をした。今日の部活で皆に相談して最終決定にしようと考えていたのだ。
「相談もなにも、ヒナ先輩がやりたいって言ったら無条件で採用だと思うけど」
「一応それでもみんなで決めたってことにしたいんだよ。先輩、変なところで背中を押してもらいたがるから」
「ふーん」
凛はなぜか興味深そうに僕の顔を見てくる。
何か変なことを言っただろうか。心当たりがまるでない。
「晴彦、やっぱりなんか変わったね。夏休み中になんかあった?」
「な……なんかって……?」
「ほらその……ヒナ先輩と、色々……進展とか……?」
「うぇっ!? い、いや、その、まあ……ある程度……ね?」
「動揺しすぎでしょ……」
「ご、ごめん……」
「また謝るじゃん」
傍から見たら僕に変化があったことなどバレバレなのだろうか?
自分では特段何かを変えたつもりはないので、凛に色々バレていることに驚いてしまった。
もしかしたら僕の知らないところで凛は陽菜世先輩と話していたのかもしれない。けれども、そういう素振りも見えないので、やっぱりわかりやすく僕が変化をしているのだろう。そう考えると、なんだか恥ずかしい。
「まあでもとりあえず文化祭に向けて頑張らないとね。なんやかんやもう一ヶ月くらいに迫ってるわけだし」
「そ、そうだね、頑張ろうよ」
「んじゃ、私日直あるから先行くね。また後で」
凛はスマホを取り出して時刻を確認すると、僕を一瞥して学校へと駆けていった。
運動部は辞めてしまったというが、昔からスポーツ万能だった彼女の走る姿は、その名の通り凛としていて美しい。
そういえば、どうして凛は部活を辞めてしまったのだろう。ふと、そんなことを思う。
ずっと気になっていたけれど、僕なんかが聞き出していいものなのかと尻込みをしたままだ。
いつかそれをきちんと知ることができるのだろうか。
……いや、陽菜世先輩がいなくなったら、おそらく凛と話す機会もなくなる気がする。
知ったところで、どうしようもない。
※※※
学校は日が進むにつれて文化祭ムードが高まってくる。
クラスの出し物、それぞれの部活による展示や屋台、それらの小道具や備品が、校舎の所々で垣間見えるようになってきた。
僕らのバンドも、練習が佳境に入ってくる。
文化祭というだけで幽霊部員だった人たちが息を吹き返し、急造バンドが増えるのだ。
出演枠は限られているので、演者が増えれば当然オーディションになる。
今日はその選定オーディションの日。
ここで一定の評価ラインを超えれば、無事に文化祭ライブを迎えることができる。
校内では実力者である金沢先輩や凛がいればこの程度の選考を通過するのは余裕だ。
先日のコンテストに比べたら何のことはない。
オーディションで僕らの出番がやってきた。
機材のセッティングを終え、陽菜世先輩が「始めます」と審査員を務める顧問の先生と他の部員たちに合図を送る。
金沢先輩がドラムスティックでカウントをいれると、僕らはタテの線カッチリ――すなわち、四人のリズムがピッタリ合った最高の滑り出しで演奏を始めた。
曲はオリジナル曲……ではなく、オーディエンスへのウケを狙ったコピー曲。
練習量は十分だった。難易度の高い曲ではないので、完成度も申し分ない。
ただ、何か違和感がある。
その正体がわからないまま、曲はサビを迎えた。
最近の曲というのは、サビに歌メロディの最高音がくるように作られることが多い。
いま演奏しているこの曲もその例に漏れない。そしてその歌メロディが最高音に差し掛かったとき、僕の感じていた違和は確信に変わった。
――ボーカルの陽菜世先輩が、明らかに苦しそうに歌っていたのだ。
なんのことなく歌えていた音程が、段々と出なくなっていた。
それは今日に限って喉を痛めたとか、練習のしすぎて声を枯らしてしまったとか、そういう問題ではない。
ただ単純に、陽菜世先輩の命の灯火が少しずつ消えかけているのだと、僕は理解した。
こればかりは誰もどうすることはできない。
ただただ弱り果てていく陽菜世先輩の姿を、僕はずっと見ていることしかできないのだ。
そんな考えが頭をよぎったその瞬間、集中力が途切れて派手にミスをしてしまった。
僕はミスを取り繕おうと慌ててしまう。ここで下手なことをしてオーディションにまで落ちてしまったら、陽菜世先輩に合わせる顔がない。
演奏は終盤に差し掛かる。幸いなことに、ドラムの金沢先輩、ベースの凛がしっかりバンドサウンドの屋台骨を支えてくれているおかげで、僕はミスしたところから大怪我をせずに済んだ。これくらいなら、文化祭のオーディションくらいは受かるだろう。
「――ありがとうございました」
演奏を終えて、陽菜世先輩が皆へ感謝の挨拶をする。
直後、彼女は僕の方を向いた。その表情は、どこか申し訳なさそうな、それでいて寂しそうなものだった。
今までにないくらい儚くて、消えてしまいそうな陽菜世先輩。
余命が迫ってくるという運命は避けられない。ならばせめて陽菜世先輩の何か大切なものを僕の手元に残しておけないだろうか。
そんな愁情みたいなものに浸っていると、突然あることを思いついた。
我ながら少し病的というか、かなり悪趣味なアイデアだと思う。でもそれ以外に、いずれ消えてしまう陽菜世先輩を僕の手元に置いておく方法が考えつかなかった。
※※※
「どうしたの? 急に『うちに来てください!』なんて言い出して」
「いや……まあ、ちょっと僕からのお願いというか、わがままを一つ聞いてくれないかなと思いまして……」
翌日の放課後。僕は陽菜世先輩を自宅へ呼んだ。
昨日の彼女のあの姿を見てしまい、今すぐにでも実行しなければならないと気がはやっていた。
「な、なに? お願いって……? ハル、変なこと言わないよね?」
「そう言われると……ちょっとおかしな事かもしれません」
「ちょ、ちょっと待って、この間はうちに誰もいなかったし雰囲気もあったからなんか成り行きでそうなっちゃったけど……今日はほら、ハルの家、他に人が……」
珍しく恥じらいを見せる陽菜世先輩。
そのワードチョイスといい、歯切れの悪さといい、彼女は何か勘違いをしているかもしれない。
「……あの、先輩? 何か僕の想像と違うことを考えてません?」
「ど、どういうこと? ハルがわざわざ部屋に呼んだってことは、とっても大きなイベントがあるんじゃ……?」
ステージの上では全く緊張する素振りなど見せない陽菜世先輩がとてつもなくオロオロしている。
それを見てやっぱり彼女は勘違いをしているなと僕は確信し、ひとつ大きくため息をついた。
「多分ですけど、先輩の考えていることは起こらないと思います。念の為、先に言っておきますけど、『そういうこと』ではないです」
「な、なんだあ……びっくりした。急にハルが積極的になったのかと思っちゃった。心の準備くらいさせてよね」
「僕が先輩にお願いしたいのはこれです」
僕の指差す先には電話ボックスみたいなサイズの防音ブース。自室でのレコーディングをするため、ネットで検索して材料を集めて自作した。
その中には一本のコンデンサマイクが設置してある。声を録音するために昨日僕がセッティングしたものだ。
「すっごいね、これ全部ハルが作ったの?」
「はい……まあ」
「めちゃくちゃ本格的……! んで、これで何をするの? 私が何か歌えばいいの?」
「ええっと、歌うというよりは、先輩の声が欲しいというか……」
うまく説明するための言葉が見つからなくて、僕は髪の毛をかきむしる。
こういうことはきちんと説明するところまで段取りしておくべきだった。ただでさえ口下手なのだから、そういうところはしっかりしておかないと。
前置きは長くなりそうだが、きちんと順序立てて経緯を説明しようと僕は言葉を選び始めた。
「……昨日の先輩の歌声を聞いて、ちょっと思ったんです」
すると、陽菜世先輩が気まずそうな表情をする。彼女なりに、やってしまったなという感覚があるのだろう。
「ああ……ごめんね、思ったより上手く歌えてなくて自分でもびっくりしちゃった。オーディションには受かったから良かったけど、練習不足だよね。本番までにはなんとかするから」
「いえ、多分そうではないんです。先輩はちゃんと努力のできる人なので、手を抜いたからああなったわけではない……と、僕は思っています」
「……そっか、やっぱりそう思うよね」
「はい。……だからあの歌声を聴いているうちに、なんだか先輩がどんどん消えていっちゃいそうな気がしてきて……それで今日、ここに呼んだんです」
「私が歌えなくなる前に、歌声を録音して保存しておこうってこと?」
「いえ、それもちょっと違うんです」
そう言われた陽菜世先輩は、一体僕が何を言っているのか理解が追いつかない不思議な顔をしていた。
無理もない。僕がやろうとしていることは、もっと途方もないことだから。
「僕は陽菜世先輩の『声』自体を保存したいなと思っているんです」
「私の……『声』?」
「そうです。先輩が発声するあらゆる音――たとえば、『あ』『い』『う』『え』『お』をはじめとした五十音とか、ちょっと英語っぽい発音とか、そういう一音一音を全部記録して保存したいなと」
「そ、それは……やりすぎじゃない?」
「最初はそう思いました。先輩の言う通り、何曲か歌ってもらってそれを録音することも考えました。でもそれじゃ、陽菜世先輩はその曲の中にしかいなくて、どんどん色褪せて行く気がして……」
僕が思いついたのは、いわゆる『サンプリング』という手法だ。
一音一音の元データがあれば、その音程や長さを調整して、人工的に先輩を歌わせることができる。
原始的なボーカロイドみたいな途方に暮れてしまう方法なのだが、この先消えていくだけの先輩の声を残して、それを活かすためには、この方法しかないと僕は思ったのだ。
「……先輩は僕にたくさんのものをくれました。そんな大切な人のことを、絶対に忘れたくなくて……先輩がいなくなったとしても、僕の元で歌ってほしいっていう、ただのわがままなんですけど……」
情けないことに、喋っている間に感情が高ぶってきて、涙が出てきてしまっていた。
最高にカッコ悪い。気色悪いことを言っている自覚もある。いくら陽菜世先輩でも、これは受け入れてもらえないだろうと、僕は諦めかけていた。
「……うん、いいよ。やろうよそれ、ちょっと大変そうだけど、やるなら今しかないよね」
「えっ……いいんですか……?」
「いいに決まってるじゃん。これってつまり、私が死んでも私の声で歌わせることができるってことだよね? それってすごくない? 実質的に私死んでないじゃん」
「そ……それはちょっと語弊があるかもしれないですけど」
「ちょっと前に私言ったじゃん、生きているうちになにか残したいって。歌を残す発想はあったけど、まさか声を残すとはねー。ハルがいなきゃ思いつかなかったかも」
「じゃ、じゃあ、協力してくれるんですね……!」
「もちろん。でも、なんだかかなり大変そうだから、今日一日じゃちょっと無理だよね」
「そ、そうですね……」
「というわけで、今日から毎日ハルの家に通うってことでよろしく。放課後と休日を使えばなんとかなるでしょ」
「……はい! じゃ、じゃあ早速やりましょう!」
突拍子のない発想を受け入れてもらうことができたということで、僕は舞い上がってしまっていた。
柄にもなくはしゃぐ僕を見て、陽菜世先輩は軽く僕の頭を叩く。
「……ハル、ちゃんと記録した私の声で曲を作ってくれる?」
「もちろんです。作りますよ、いくらでも先輩のためなら」
「……そっか、じゃあ楽しみにしてる」
儚げに陽菜世先輩は笑みを浮かべる。
楽しみにしているとは言うものの、それが出来上がるとき彼女は多分この世にいない。
これがいいことなのか悪いことなのか全然わからないけれど、やらないことで後悔をしてしまうことが僕は怖かった。だから先輩の生きた証を、全力で残そうと僕は躍起になった。