「相川君」
風呂桶に井戸から汲んだ水を注いでいると声を掛けられた。振り向くと、笑顔の亜川美帆が立っている。リュックサックを背負い、Tシャツにデニムのショートパンツ姿だ。
「すごーい、いつもそんな服着てるんだ」
亜川美帆は白衣、袴、足袋、草履姿の僕を珍しそうに見ている。いつもよりテンションが高い気がした。
「うん。夢見の館の仕事は神社の大事な行事だからね。ジーパンにTシャツってわけにはいかないんだ」
僕はタオルで額の汗を拭いた。本当なら上半身はだけてしまいたかったが我慢した。
「ふーん、いっぱしのこと言うんだね。でも似合ってるよ。あーまた緊張してきた。相川君から夢見の間の話を聞いてから胸のドキドキが止まらないんだ」
亜川美帆は不安を誇張するかのように手で胸を押さえた。
「ところでさあ、相川君が今水を溜めているのが後で私が入るお風呂なの?」
「そうだよ」
「ふーん。私ね、お風呂は高めの温度でたっぷりのお湯に浸かるのが好きなんだ」
「それ誰に言ってんの」
「他に誰かいる?」
「わかったよ」
「じゃあ行くね。ところで、明美って女の人はいるの?」
「今日はいないよ」
「なんだ、どんな人か見たかったのに。それにアルバイト代の交渉もしないといけないしね」
いつの間にか僕の保護者にでもなったかのような口ぶりで言い、社務所に向かって行った。なみなみと溢れんばかりの水を入れた風呂が沸いたのは、日が傾きかけた頃だった。八月も終わりに近づくと日は随分短くなる。一日が二十四時間よりも短くなっていく気がする。
西の空が真っ赤に染まった頃、紺色の作務衣を着た亜川美帆が庵から出てきた。風呂小屋の前に立っている僕に気づくと彼女は嬉しそうに手を振り走りだしたが、すぐによろめき立ち止まってしまった。僕はピンときて、彼女のもとへ駆け寄った。
「鼻緒が切れちゃった」
亜川美帆は困ったような顔をして草履を差し出した。もちろん僕に鼻緒の修理などやれるはずは無い。裸足で歩くにしても下は砂利道、魔が差すとはまさにこのことだろう、僕はとんでもないことを口にしてしまった。
「僕がおぶっていくよ」
「えー」
亜川美帆は目をまん丸に見開き、林の小鳥が驚いて飛び立つほどの大声を上げた。想定外の反応に、やっぱりおんぶはまずいよね、と言おうとしたら、彼女は、嫌だ、恥ずかしい、などとぶつぶつ言いながら両手を差し出し、とっくにスタンバっていた。戸惑う僕にお構いなしに、両手でおいでおいでをするように、ほら早くしゃがめと合図まで送り始めている。今さら後に引けず僕は草履を懐に入れ、亜川美帆に背を向けしゃがみ込んだ。
「えー、やっぱり恥ずかしいー」
どっちなんだよ、と思う間もなく亜川美帆の体重が背中にのしかかった。それでも本当に恥ずかしい気持ちがあるのかもしれない、手はそっと僕の両肩を掴んでいる。
「行くよ」、一声掛けて、えい、とばかり彼女の太腿を支え立ち上がった。彼女の身体は僕が思っていたよりも随分軽く、そして柔らかかった。僕はたまに言葉の選択を間違え、失言をしてしまうことがある、こんな具合にだ。
「亜川さんて見た目より軽いんだね」
速攻、首を絞められた。日本語は難しい。言い間違いを丁重に訂正し、機嫌を直してもらったことは言うまでもない。風呂小屋の中で彼女を下ろし、風呂の説明をした。彼女は底板など知るはずも無く面白そうに聞いていた。
「あと、僕は格子窓の近くにいるから、お湯がぬるかったり熱かったりしたら声をかけてくれればいいから」
「熱いって言ったらどうするの?」
「井戸の水を汲んできて風呂桶に注ぐんだ」
「誰がやるの」
「もちろん僕だよ」
胸をずんと張って答える。
「裸見られちゃうじゃない」
「そんなことしないよ」
僕は毅然とした態度で言った。
「ふーん」
それ以上質問は出てこなかったので、僕は風呂小屋を出て外に待機した。辺りは夕闇に覆われ始めた。あと少しで月が昇ってくるだろう。風呂小屋からは、たまにバシャバシャとお湯を流すような音が聞こえてくる。
「相川君」
不意に亜川美帆の声が聞こえた。
「何?」
僕は格子窓に向かって返事をした。
「覗かないんだ」
「何を言ってるの?」
「普通、男の子ってこういう時、女の子の裸を見ようとして覗くものだよ」
「じゃあ僕は普通じゃないんだ」
「私の裸見たくないの?」
「僕は何て答えればいいの?」
「素直になればいいんだよ」
「じゃあ見たくない」
格子窓からお湯が飛んできた。
「もうー、せっかくお湯をぶっかけてやろうとずっと待っていたのに努力が報われなかったよ」
「僕は今、神に仕える身だからね」
「バカ」
言葉とは裏腹に声が笑っている。すぐに鼻歌が格子窓から聞こえてきた。しばらくしてまた声を掛けられた。
「どうしたの?お湯がぬるくなった?」
「今日、私のためにありがとね」
「何だよ、急に。それにこれからが本番だよ」
「ううん、いいの。もし今日夢でお母さんに逢えなかったとしても私は満足だよ。相川君や宮司さんにこんなにもてなしてもらっているもの。お父さんからも言われたんだ、そんな荒唐無稽な話があるわけないだろうって。お父さんね、私がここに泊まるっていったらすぐ次の日ここに来たんだよね。それで宮司さんに会って詳しく説明してもらったんだよ。それでもやっぱり信じられないって言うんだ。実はね、私も相川君には悪いけど、お父さんと同じ意見なんだ。でもね、さっき食べた夕食、宮司さんの心が籠っていてとっても美味しかったんだよ、それに相川君が焚いてくれたお風呂、私の我儘を聞いてくれたんだよね、たっぷりのお湯で温かくて気持ちいいんだ。本当に今日はありがとう」
亜川美帆はお母さんに心の底から逢いたいはずだ、でもこの話が嘘であっても僕や宮司を責めないという。彼女の言葉に、僕はいつも明るく振舞っている彼女の心の奥底に秘めた寂しさと優しさに触れた気がした。
「何言ってんだよ。絶対にお母さんに逢えるよ」
僕は窓の格子を両手で掴み、思いっきり顔を近づけ、中にいる亜川美帆を見て叫んだ。動物園の猿のようだったかもしれない。神社境内の静寂を破るような悲鳴が上がり、僕は不覚にもお湯を思いっきり顔面に被ることになってしまった。でも、今の僕は神に仕える身、湯を掛けられる瞬間、見てはいけないあられもない姿をかぶりつきで見てしまったことは彼女に内緒にしておこう。亜川美帆は風呂から上がると、新しく用意した草履を履き、庵へと戻って行った。林の向こうで丸い月が輝きを放ち始めている。僕は急いで篝火の準備に取り掛かった。
優しく揺り動かされ目が覚めた。また和室で寝てしまったようだ、僕は慌てて飛び起きた。前回、明美さんの強烈な蹴りで叩き起こされたことがトラウマになっているのかもしれない。
「逢えたよ」
目の前にボロボロと大粒の涙を流す亜川美帆がいた。
「夢じゃないよ、本当に逢えたんだ。お母さんとお父さんと私の三人で、あの公園に花見に行ったんだよ。桜も綺麗だったけど、お母さんはもっと綺麗だった、お父さんなんて今よりずっと若くてかっこよくて思い出すと笑っちゃいそうだよ。ゴザに座って桜を見ながらお母さんの玉子焼きを食べたんだ、やっぱり美味しかったよ。お母さんに抱きついて思いっきり甘えちゃった。お母さん温かくていい匂いがしたな、私絶対に忘れないよ。ありがとう、それから疑ってごめんなさい」
しゃくりを上げながら頭を下げた。それから僕は亜川美帆を神社の駐車場まで送って行った。月はすでに沈み、空は白み始め、遠くで鶏が朝を告げる声が聞こえる。途中、彼女はお母さんのことを話し続け、僕は口を挟む余地など欠片も無く、ひたすら彼女の話を聞き続けた。駐車場に見慣れないワンボックスカーが停まっていた。中で中年の男性が手を振っている。
「お父さん」
亜川美帆は叫びながら大きく手を振った。
「じゃあ帰るね。宮司さんにお礼を言って欲しいんだけどお願いできる?」
涙の痕は残っていなかった。昇ってきた朝日の透明な光が、彼女の満面の笑顔を照らし出している。
「うん、いいよ。何て言えばいい?」
「夕食美味しかったです。お母さんに逢えました。ありがとうございました」
「何か子どもみたいだね」
「だって私、さっきまで保育園児だったんだよ」
亜川美帆は嬉しそうに手を振り車に走って行った。車に乗り込むとすぐに父親に何か捲し立てている。父親は驚くような顔をして僕を見、ゆっくりと頭を下げ、車を発進させた。車が見えなくなると、風呂の掃除をし、それから夢見の間の掃除をした。
宮司が用意した朝食のおにぎりを庵の縁側で食べていると、どっと疲れがでた。ちょっとだけと横になると、そのままうとうとと眠ってしまい、目が覚めたのは昼過ぎだった。モミジの葉をすり抜けた太陽の光が、僕の顔を照らし、眩しくて目が覚めたのだ。うっすらと額に滲んだ汗を手の甲で拭い立ち上がった。
社務所の戸締りをして、駐車場に向かう途中のことだった。ゆっくりと参道を上ってくる人影に気がついた。親子連れ、母と娘のようだ。娘は僕の少し下ぐらいの年齢に見えるが、母親に手を引かれ、俯き視点が定まらないのか足元がおぼつかなかった。とにかく色白というよりも、生まれてから一度も外へ出たことが無いのではと思えるほど生気が感じられない。娘を気遣っていた母親が僕の気配に気がついたのだろう、顔を上げた。その瞬間、雷に打たれたように身体中に衝撃が走った。心拍数はみるみる上がり、全身から冷たい汗が噴き出し、過呼吸になったように息を吸い続けた。茫然とその場で立ち尽くす僕を気にすることなく、母親は少しだけ頭を下げ、横を通り過ぎていった。身体の中でどす黒いドロドロの澱が一気に膨れ上がり爆発したかのような錯覚を覚え、大声を上げ二人に襲いかかりたい衝動に囚われた。
その時、「こっちです」、と母子に声が掛けられた。いつの間にか宮司が、庵の鍵を持って立っている。僕は肩すかしをくらったみたいに大声を上げるタイミングも二人に襲いかかるタイミングも逃し、ドロドロの澱を身体中に充満させたままたたずんだ。
「すいません、急なお願いをしてしまって」
母親が宮司に頭を下げた。
「どうかお気になさらずに。夢見の間に泊る前に下見をしたいと言われる方は割と多いんですよ。明日でしたよね」
宮司は、柔和な笑みを浮かべ、母子を庵に案内していった。
見間違うはずがない、あいつらだ。『よかったチロちゃんが轢かれなくて』、五年前さっきの母親が言った言葉を思い出し、僕の身体は憎しみで震えた。
帰り道、さっきの親子のことばかりを考え、どこをどう走ってきたのかまったく覚えていない。あの日、事故現場から逃げるように走り去った親子であることに間違いはない。母親はあの時と比べるとずいぶん痩せたように見えるが、魂に刻み込まれたように何度も夢に出てくる顔を見間違えるはずなどない。娘はあの当時、僕と同じ小学生ぐらいだった。病人のような顔つきだったが面影は残っている。憎い、憎い、憎い。ふつふつと湧き上がる恨みつらみを全力で自家発電し続け、身体の中はあの親子への恨み一色になっていた。家に入ると、すぐに祖母が顔をだした。
「おや、お帰り、今日は遅かったね」
祖母の言葉を無視して廊下を踏み鳴らすように走る。呆気にとられたように僕を見る祖母の横を通り抜け階段を駆け上がった。引戸を乱暴に開け部屋に入り、机の引き出しから木箱を取り出す。「母さん、やっと見つけたよ」、呟きながら蓋を開け、果物ナイフをジーンズの後ろポケットに捻じ込み階段を駆け下りた。すぐ目の前に廊下を塞ぐように祖母が立っていた。
「どこに行くつもりだ。何があった?」
「何でもいいだろ」
祖母は急いで横を通り抜けようとする僕を通せんぼするように立ちふさがった。
「いいわけないだろう。アルバイトで何かあったのか?酷い顔してる」
ここを一歩も通さんぞ、とでも言わんばかりの勢いで言う。僕はどんな顔をしていたのだろうか。黒いドロドロの澱はあの親子に会った今、マグマのような憎しみに変わっていた。
「やっと見つけたんだ」
囁くよう言った。
「見つけたって、何をだ?」
祖母は得体の知れない生き物でも見るような目で僕を見ている。
「母さんと僕が車で轢かれる原因をつくった親子だよ、あの糞犬の飼い主だよ」
叫ぶように声を上げた。
「春木、何を言ってんだい、そんな親子や犬はいないんだよ。おまえは車に轢かれて生死をさまよっていたんだ。だから幻覚を見ただけなんだ。あれは不幸な事故なんだよ、もういい加減わかっておくれよ」
祖母の顔が歪む。
「幻覚なんかじゃない。この目ではっきり見たんだ。その親子を今日見たんだよ」
「見たって、おまえ何を言ってるんだ」
「神社に来たんだよ。話をしたわけじゃ無いけど、絶対あいつらだ。まだ神社にいるかもしれない。復讐してやる、死んだ母さんの恨みを晴らすんだ」
どうしようもなかった。憎しみだけが先行し、感情のまま声を張り上げた。後ろポケットから取り出したナイフの刃を開く。銀色の刃が鈍く光る。祖母が目を見開いて叫んだ。
「なんてことを言うんだ。おまえ一体、それで何をするつもりなんだ」
答えない僕を見て、ナイフを取り上げようと祖母は掴みかかってきた。僕はあしらうように祖母の手を振りほどく。何度あしらわれても祖母は掴みかかってくる。もみ合ううちに、僕は廊下で足を滑らせ転倒してしまった。ナイフが廊下を転がる。祖母はすかさず拾い上げ前掛けのポケットに入れると、転んでいる僕にのしかかった。
「このバカたれが」
涙をぽろぽろ流しながら拳とも平手ともつかないもので僕の顔を打ちつける、小さな子どもが駄々をこね暴れるようにただ無茶苦茶に手を振り回す、何度も何度も僕を殴りつける。祖母の拳は、あの不良高校生や明美さんの拳とは比べ物にならないほど軽く弱々しかった。だけどその軽さが、弱々しさが、ずっしりと心に響いてくる、のしかかってくる。祖母は手を振り回すのを止め、Tシャツの襟首を両手で掴み鬼気迫る顔で言った。
「誓え、誓え、何もしないと誓え。誓えないのなら、ばあちゃんはこのナイフを喉に突き刺して死ぬ」
涙で声が震えている。祖母は襟首から手を放しナイフを両手で掴み、自分の喉に突きつけた。涙で濡れた目は真摯な光を帯びている。もし僕がノーと言おうものなら間違いなくナイフを突き立てるだろう。
「卑怯だよ、そんなの」
涙が溢れ目尻を伝う。
「復讐だなんてバカなことを考えるんじゃない」
「どうしてだよ。母さんは、ばあちゃんの一人娘だったんだろ。母さんが死んだのはあいつらのせいなんだ。悔しくないのかよ、恨みを晴らしたくないのかよ。あいつら今までのうのうと生きてきたんだよ」
「この大バカ者、いい加減に目を覚ませ。たしかに陽子は、ばあちゃんのたった一人の娘だ。そして春木は、たった一人の孫だ。もしお前の言うことが本当だったら、ばあちゃんもその親子を憎んだかもしれない。でもな、おまえが言っていることを裏付けるものなんて何も無いんだよ。あの時、おまえと陽子は車にはねられ、救急車が来るまで舗道で意識も無く血まみれで倒れていたんだよ。おまえは瀕死の重傷だったんだよ。だからおまえの言う親子なんて見ることができるはずないんだよ」
必死な眼差しで僕の顔を覗き込む。
「ばあちゃんの言っていることわかるよな」
懇願するように、縋るように祖母は言う。だけど、だけど、僕は見たんだ。唇を噛み、仇のように祖母を睨んだ。
「もしもおまえが今日見たという人に何かしたら、おまえは犯罪者だとか頭のおかしい人間とかいうレッテルを張られて刑務所か少年院か病院に入れられちゃうんだよ。後生だから、後生だから、ばあちゃんにそんな悲しい思いをさせないでおくれよ。陽子を失って、春木までそんなことになったら、ばあちゃん生きて行けないよ」
祖母はナイフ持つ手をだらりと下げ、うなだれるように言った。
「わかったよ」
祖母から顔を背けぽつりと言う。祖母は何度も小さく頷き、ふらふらとナイフを持ったまま立ち上がった。
「わかったから。でもそのナイフだけは返してよ。そのナイフは、その果物ナイフは、母さんの、死んだ母さんの形見なんだ」
涙を流しながら訴える。祖母は驚いた顔をして手に持つ果物ナイフをじっと見た。
「だったら、尚更大切に扱わないといかん」
そう言いながらゆっくりと刃をたたみ僕に手渡すと、そのまま台所に引っ込んでしまった。僕は階段を上がりベッドに倒れ込んだ。わかったよ、とは言ったが納得はしていない、どうしても呑み込むことができない。何でわかってくれないんだよ、僕は本当に見たんだ、絶対にあの親子だ。あの時、宮司が声をかけなければ、僕はあのまま二人に襲い掛かっていた。そうすれば恨みを晴らすことまではできなくても、少しは気が晴れたかもしれない。
でもまだチャンスはある。恐らく明日、何を望んでなのかはわからないが、あの母子のどちらかが夢見の間に泊るのだろう。恨みを晴らす絶好の機会だ。どんな方法でもいい、暗黒の底なし沼に身を投じることになってしまってもいい、母の恨みさえ晴らせれば。
マグマのような憎しみとどこに潜んでいたのかわからない凶暴性が牙をむく。
でも祖母に殴られた顔が痛む。もし万が一、万に一つでも祖母が言うように僕が見たのが幻覚なのであれば取り返しのつかないことになる。憎しみに支配された頭の片隅を理性が揺さぶる。
でも何年探し続けたんだ、やっと見つけたんだ、今、恨みを晴らす絶好の機会が訪れている、絶対にあいつらだ、恨みを晴らせ。マグマのような憎しみが声を上げる。
頭の中は気が狂いそうなほどぐちゃぐちゃで、身体がガタガタ震え吐きそうだった。今にも怒りや憎しみ、そして祖母の言葉に押しつぶされてしまいそうになる、わけがわからなくなる、気が狂いそうになる。母さん、助けて・・・。
池に行く、もうそれ以外に自分の正気を取り戻す方法が思い浮かばなかった。祖母の制止を振り切り図書館に行くとだけ言い、家を飛び出した。
駐輪場に自転車を停め、足早に池に向かった。遊歩道を通り抜けると池と休憩所が見えてきた。辺りに人の気配は無く、池には多くの水鳥がいた。
ベンチに座り、折りたたんだままの果物ナイフをテーブルに置いた。心を落ち着けようと目を閉じる。池で遊ぶ水鳥の鳴き声が鼓膜を揺らし、頬を撫ぜる風が母との思い出を呼び覚ます。
でもすぐに濁流のようにあの母子の顔が割り込んでくる。振り払っても振り払っても襲ってくる。たまらず目を開けた。楽しそうに泳ぐ何羽もの水鳥が目に映る。わけがわからず憎しみが爆発する。衝動的に近くに転がっていたこぶしほどの石を拾い上げ、池の水鳥めがけて投げた。放物線を描くように石は飛んでいき、水鳥から数メートル離れた水面に落ちた。
ザブン、という音とともに水飛沫が上がる。跳ね上がった水飛沫に驚いたのだろう、バサバサという羽音とともに近くにいた水鳥が一斉に飛び立った。すぐに別の石をひろい上げ、また水鳥めがけて投げた。ザブンという音と同時に数羽の水鳥が飛び立つ。また拾い、投げる。いつの間にか池に水鳥は一羽もいなくなっていた。
「何しとんのや」
突然声が聞こえたかと思ったら、襟首を掴まれ振り向いた顔に平手が二発飛んできた。一発目は右の頬、二発目は左。パンパンと乾いた音が辺りに響いた。いきなりの早業に顔をかばう間もなく殴られ、握った石が手から滑り落ちた。それでも僕の両の目は今殴られたことを忘れてしまったかのように驚きと喜びで見開かれていた。
「明美さん」
「このどあほが。高校生のくせに悪ガキ中学生みたいな真似するんやないわ」
もう一発右の頬に平手が飛んできた。
「どうしてここに?」
明美さんに逢えたことがただただ嬉しかった。
「今日、久しぶりに休みが取れて、図書館にきたんや。たまたま窓の外に早足で歩くおまえを見つけて、急いで後を追ってきたんや。みっともないことするんやないわ」
わけもわからず涙が出て、堪えようがなかった、どうしようもなかった。僕を怒鳴りつける明美さんが嬉しかった。厳しい言葉の裏側に隠れている明美さんの優しさが、どうしようもなく僕の心を震わせた。涙がとめどなく溢れだした。
「泣いて誤魔化しても無駄や。うちにはそんな手は通用せーへんで。うちが近づくのも気がつかんと夢中で石を投げとったな。相手は小さな水鳥やで。ノーコンのお前が投げた石でももし当たったら死んでまうわ。おでこ出してみい」
明美さんは言い終わる前に、僕の帽子を掴み取っていた。僕は明美さんが何をしたいのかわからず、マネキン人形のように突っ立っていた。
「おでこを出せと言うとるやろ!」
明美さんの剣幕に圧倒され、言われるがまま左手で前髪を掻き上げた。額の古傷が露出する。
動くんや無いでと言いながら、明美さんはげんこつで僕の額を殴った。祖母とは比べ物にならない強烈な一撃。あまりの痛みに思わずその場で蹲ってしまった。ズキンズキンと脈打つようにおでこが疼く。
「どや、痛いやろ。鳥はもっと痛いんやで」
明美さんは頭を抱えるようにしている僕に言った後で、思い出したように付け加えた。
「何やその額の傷、古傷やな、どないし……」
「相川君」
突然、亜川美帆が明美さんを押しのけるように駆け寄ってきた。
「誰や、あんた」
明美さんは怒ることも無く突然の乱入者を驚いたように見ている。
「どうしたの。大丈夫?」
亜川美帆は明美さんを無視するように、頭を抱えるように立ち上がった僕を気遣った。
「おたく誰やって聞いとるんや」
無視されたとでも思ったのか明美さんにしては珍しく苛立ったような口調だ。亜川美帆は腐った卵を見るような目で、明美さんを一瞥した。
「おでこ真っ赤だよ。あの女にやられたんだね」
すぐに僕を見て言った。
「あんたええ加減にしいや。春木君、誰やこいつ」
埒があかないと思ったのか、明美さんは亜川美帆を押しのけ僕に聞いてきた。でも僕が答える前に、亜川美帆は明美さんを睨むように口を挟んだ。
「私は亜川美帆って名前があるんだよ。相川君の同級生で、私たち付き合ってるんだよ。相川君、この変な女、だれ?」
「同級生?付き合うとる?ほー、春木くーん、うちその話初耳やで」
二人揃って顔を向けた。僕は迂闊にも亜川美帆の発言を否定するタイミングを失し、今さら否定も肯定もできず、ただおろおろする僕を見る亜川美帆の顔は紅潮し、私たちラブラブよねとでも言わんばかりの彼女の視線は熱く僕を捉えていた。かたや明美さんの色白の肌は、雪女を思わせるほど白さを増し、カミソリのように細めた目は結婚詐欺犯を捕まえた被害女性の会の会長のようにこの男どないしてくれようと舌なめずりして氷のように冷たく僕を見ている、としか思えなかった。
「ところで変な女って誰のことや」
明美さんは怒ったように亜川美帆のTシャツの襟元を掴んだ。
「ちょっと待って、明美さん」
僕は明美さんを制しようと叫んだ。すぐに亜川美帆が反応した。
「明美って……。相川君、この女ね、君を利用して神社で働かせている女は」
「人聞きの悪いこと言わんでくれるか。うちは車の修理代を弁償してもらっとるだけや」
明美さんは手を離した。
「何が修理代よ。本当は相川君が世間知らずなのをいいことに、あなたの方からわざと相川君の自転車に車をぶつけたんじゃないの?」
話が一気にきな臭いほうへと流れて行く。嫌な予感しかしない。僕は真剣にこの場から逃げ出したくなった。
「はあ、何を言っとるんや。車に傷がついたのは、春木君がうちの車の上にラブレターを置いたからや」
「相川君はあなたにラブレターなんて書いていません、だから当然、渡してもいません」
夜市でブランド物のシャツを売る怪しげな業者のように、亜川美帆は自信を持って言い切った。
「ね、そうでしょ」
何してんの、相川君、君も言いなさいよ、とけしかけるように僕を見ている。その瞳には一点の曇りも揺らぎも無い。すでに僕はポンコツと化し、頭の中は壊れたブラウン管テレビのように真っ白で何も考えられず、ただ駄菓子屋に飾ってある開運首振り虎人形のように何度も首を縦に振ることしかできなかった。でも僕の目が泳いでいるのを明美さんは見逃さなかった。一瞬重なった目線に浮かぶ彼女の顔はにたっと口角を上げていた。
「でもな、うちほんまにラブレター貰ったんやで。それもな、あんな情熱的なラッブレター初めてやったんや。もうハートを鷲掴みされてもうたわ」
オーバーなジェスチャーで胸を抱き、明美さんは勝ち誇ったように亜川美帆を見、そしてゆっくりと僕に顔を向けた。
「ねえ、どういうこと?この女、嘘言っているよね。だって相川君この間、この女のこと私に言ったよね。化粧で上手く誤魔化しているだけでたいしたことない。それによく見ると肌はボロボロのかさかさ、おまけに十歳も年が離れたおばさんだよ、恋愛の対象にすらならないよって鼻で笑ってたよね」
僕はそこまで言っていないし鼻で笑ってなどいない、どうか黙って亜川美帆、これ以上しゃべらないで。僕は心の中で手を合わせた。だが時はすでに遅かった。明美さんの目尻がピクピク引き攣っているのが見えた。
「ようもまあ、うちがおらんところで好き勝手なことを言うてくれとるな」
明美さんは眉間に皺を寄せ呆れた顔をして僕を睨んでいる。てっきり左手が飛んでくるものと覚悟を決めていただけに、予想外の反応にほっとしたが、世の中そんなに甘くない。
「うちな、春木君のファーストキッスの相手なんやで」
ちゅどーん、と頭の奥で爆発が起こり心臓が止まった、気がした。
満を持しての爆弾発言だ。明美さんは亜川美帆に向かい、自慢げにニタっと下品な笑みを浮かべ、ペロっと唇を舐めた。キスでなく、キッスというのがイヤらしい。終わった、何もかも……、僕は真っ白な灰になった。
「ええー」、亜川美帆は目をまん丸に見開き、呆然と僕を見て言った。
「嘘、ついてたの?」
「それもな、濃厚なのを、ブッチューとや」
とどめの一撃。
明美さんは鬼だ。ここぞとばかり死者を鞭うつように平気な顔をして嘘を捻じ込んでくる。しかも今度は濃厚に加えブッチューときた。すでに僕にはそれを否定する気力などミジンコほどにも残っていない。
「濃厚?あんな年増に興味は無いって言ったのに……、私をベッドに押し倒したのに……」
亜川美帆はわなわなと震えている。だからー、僕はそんなことは言っていないしやっていない、もうしゃべるな亜川美帆。頭の中で大絶叫するが、彼女の口にチャックができるはずもなく、発した言葉が口に戻ることもない。
「あんな年増?ベッドに押し倒した?」
とげとげしい明美さんの声と冷たい視線に心臓が止まりそうだ。背筋を冷たい汗がぞわぞわとなめくじのように這っている。
僕を見る明美さんの眉間の皺がさっきよりも深くなり、両の目はきれっきれのカミソリよりもずっと細くなったように見えた。一瞬訪れた沈黙に世界から物音が消えうせ、ただオロオロするばかりの僕が固唾を飲む音だけが、ごくりと世界中に響き渡った気がした。でも静寂は、無情にもすぐに打ち破られ、最後の審判が下された。
「この女たらし」
「この女たらし」
世の中、上手くできている。明美さんは左利き、亜川美帆は右利きだ。左の耳と右の耳で二人の声がシンクロした途端、僕の両の頬は同時に引っ叩かれていた。バッチーンと、くぐもった音が池に響き渡る。
「ひでぶ」
僕の口から丸めた新聞紙で叩き潰されたゴキブリの断末魔のような声が漏れた。
「ところで美帆さんは何でここに来たんや」
明美さんが言った。さっきまでとは打って変わり、二人はすっかり仲良くなっている。二人して僕を引っ叩いたあの瞬間、心が通じ合ったのかもしれない。僕と明美さん、そして亜川美帆は、三人並んでベンチに座っていた。池にはいつの間にか数羽の水鳥が戻っている。亜川美帆はちらっと僕を見て得意そうに口を開いた。
「実は今日、相川君のおばあさんからすごく慌てた口調で電話があったんだ。相川君が血相変えて図書館に行くと言って家を飛び出したって言うんだよ。もしかしたら何かしでかすかもしれない、止めて欲しいってね。それで急いで公園にきたんだ。でもどこを探せばいいのかわからず途方に暮れていた時、相川君に初めてここで会った日、池のほうから歩いてきたことを思い出したんだ。それでここを見つけたんだよ。私ね、おばあさんからすっごく頼りにされているんだよね」
もう一度僕を見て嬉しそうな顔をした。
「なあ春木君、何があったんや。何であんなことをしとったんや」
明美さんは亜川美帆の話に微笑みながら顔を向けた。穏やかな表情だった。冷静になればなるほど、またあのマグマのような憎しみが頭をもたげてくる。僕は前髪を掻き上げた。額の古傷が顔を出す。
「母が亡くなり、僕の額にこの傷をつけた事故の引き金となった家族を見つけたんだ」
感情がまた昂ぶってくるのがわかる。気持ちを落ち着けるようにゆっくりと、母と過ごしたこの池のほとりの休憩所のこと、事故のこと、体外離脱して見たことを話した。
「その家族が今日、神社にきたんだよ。仕返ししたいのに、傷が疼くのに、ばあちゃんはどう言っても僕の話を信じてくれないんだ。そりゃそうだよね、体外離脱なんて誰も信じてくれないよね。だからもうどうしたらいいのかわからなくてここにきたんだ。心を落ち着かせようとしてもどうしようもなくて、衝動的に石を手にしてしまったんだ」
気持ちを落ち着けようとしても、溢れるように流れ出る涙がそれを許さなかった。身体中に憎しみが充満してくる、今にも堰を切って溢れ出しそうになる。母の形見の果物ナイフを握りしめ、俯き、やり場の無い怒りで身体を震わせる僕を、明美さんはそっと抱きしめてくれた。
「二人とも今から神社へ行かへんか。まだ叔父さん神社におるやろ」
「叔父さんって誰ですか」
亜川美帆の声が聞こえる。
「宮司と言えば美帆さんもわかるやろ。春木君が今日見た親子の娘の方が、明日夢見の間に泊まるんや。叔父さんなら何か知っとるかもしれんでな」
明美さんはそう言いながら僕の背をぽんぽんと叩いた。
「そろそろ顔を上げたらどうや。美帆さんの貧乳より、うちのダイナマイトおっぱいの方がええのはわかる。でも、うちは嫁入り前の箱入り娘や。いつまでも男の子をこうして抱いとるわけにはいかんのや」
明美さんはいい匂いがした。亡くなった母と同じ匂いだった。僕はやっと気がついた。明美さんが僕を通して亡くなった弟を見ていたように、僕は明美さんを通して亡くなった母を見ていたことに。そしてそれは恋愛感情ではなく、年上の女性への憧れに過ぎないということに。顔を上げた僕の目に、たこ焼きのように頬を膨らませた亜川美帆が映った。
「あっ、きれいな鳥」
休憩所を後にしようとベンチから立ち上がった時、亜川美帆が声を上げた。見ると池の水面近くに沿って小さな鳥が飛んでいくのが見える。陽光を反射し宝石のように青く輝いている。
「カワセミやな」
「あれがカワセミ……。きれいな鳥ですね」
「うん。幸せを運んでくる青い鳥や」
明美さんはにっこり微笑んだ。
神社に向かう車の中で僕は不安な気持ちに包まれていた。もし、まだあの親子がいたら、自分を抑えることができるだろうかと。そんな気持ちを察したのかもしれない、亜川美帆はそっと僕の手を握った。
「後ろでいちゃつくんやないで」
すかさず、明美さんの声がした。ルームミラーから、優しい笑顔の明美さんが僕たちを睨んでいる。亜川美帆はペロっと舌を出し手を引っ込めた。
幸い神社駐車場には白い軽自動車が一台停まっているだけだった。縁側に座っていた宮司は、ぞろぞろとやってきた僕たちを見て少し驚いたような顔をしたが、予期していたのかもしれない、すぐに柔和な笑みを顔に浮かべた。
「亜川さんまでいるのか。今日は賑やかな日だな。そんなところに立っていないで、みんな上にあがりなさい」
「叔父さん、今日みんなできたんわな……」
宮司は僕たちの前に座りながら明美さんを制するように言った。
「用件はわかっているよ。今日神社へきた親子のことだろ。まあ座りなさい」
ピクっと少しだけ反応した僕を宮司は見逃さなかった。
「相川君から事故の話を聞いた時、もしやと思ったんだが……。今日、あの親子を見た君の身体から明美の言う負のオーラが見えたよ。霊感の無い私に見えたんだから並大抵のものでは無かったのだろう。見覚えのある顔、だったんだな?」
正面に座った僕に向かって宮司は言った。さっきまでの柔和な笑みは消えていた。何も言わずただ首を縦に振り、宮司の顔をじっと見つめた。
「今日来た親子はな、私の旧知の友人からの紹介なんだよ。むしろ依頼というほうがいいのかもしれない。友人は心療内科・精神科の病院を経営しているのだが、今日来た娘のほうが精神疾患でその病院に入院しているんだ。彼女の治療に協力して欲しいというんだよ。友人が言うには彼女が心を病んだ原因は彼女が小学校四年の時、目の前で起こった交通事故にあるそうだ。親子三人で子犬の散歩中、些細なことが原因で両親が喧嘩を始めたらしい。彼女は喧嘩を止めようとして子犬のリードを手放してしまったんだ。子犬はそのまま道路に飛び出し、子犬を避けようとした車が舗道に突っ込み、歩いていた母子を轢いてしまったそうだ」
「それってやっぱり……」
亜川美帆はそこで言葉を切り、確かめるように僕を見た。宮司は何も言わない僕を見てそのまま話を続けた。
「夫婦は喧嘩をしていて、子犬が道路に飛び出したところも、子犬を避けようとした車が舗道に突っ込んだところも見ていないそうだ。車の運転手は母子を轢き、そのままビルに突っ込み亡くなっている。事故の真相を知っているのは彼女だけだったんだ。事の重大さは子ども心にもわかり、彼女は良心の呵責に耐えられなくなったんだ。この話を思い切って両親に打ち明けたのだが父親も母親も彼女の言葉を信じようとしないどころか一切口にするな、誰にも言うな、と口止めされたようだ。それは当然だろう、人がひとり亡くなった事故の原因が、飼い犬にあったなんて認められるわけがない。結果、彼女は心を病み、学校にも行かず家に引き籠るようになった。彼女の顔から表情が無くなり、挙句の果て自傷行為を繰り返しとうとう自殺未遂をやらかした。それで今は友人の病院に入院している、という訳だ」
「それが何だって言うんですか」
僕はつい声を荒げてしまった。
「心の病気?自殺未遂?ふざけんじゃない。僕の母はその子犬の身代わりで死んだんだ。あの女の子が病気になったのは親が悪いだけじゃないですか。あの母親は事故現場から逃げながら、僕や母が車に轢かれたにもかかわらず、子犬が轢かれなくてよかった、って言ったんですよ、本当は全部わかっていたのに違いないんだ」
また気持ちが昂ってくる、憎しみが増大してくる。
「子犬が道路の真ん中をウロウロしていたんだ。純粋に文字通り、車に轢かれなくてよかった、と言っただけなのではないのかな。私はそう思う」
「宮司さんは誰の味方なんだ。あんな家族の肩を持つって言うんですか」
むっとして立ち上がった僕に、すかさず明美さんが厳しい声をかけてきた。
「まだ叔父さんの話の途中や、出て行くんは、終わってからにしい」
明美さんの言葉にぐっと気持ちを抑え、僕はその場で固まるように宮司を睨んだ。
「私は誰かの味方でも、敵でも無いよ。一介のちっぽけな神社の宮司に過ぎない。でもここにはどこの神社にも無い、夢見の間が、獏の置物があるんだよ。満月の三日間だけ起こる不思議な現象。誰かを幸せにすることも無ければ不幸にすることも無い、過去も現在も何も変わらない。ただ、あの部屋で夢を見た人間だけが救われるんだよ。私は救いを求めてくる人間に手を差し伸べたいだけだよ」
宮司は見下ろすように立っている僕に向かって言った。穏やかな目をしていた。その時誰かが僕の手を掴んだ。亜川美帆だった。
「相川君、宮司さんの言う通りだよ。座ろうよ」
亜川美帆は手を引っ張り、懇願するように言った。
「私も二度と逢えないと思っていたお母さんに逢えて本当に嬉しかったんだよ。もうこの先どんな辛いことがあってもきっと頑張れる、そう自信を持てたんだ。相川君にも宮司さんにも本当に感謝しているんだよ。だから、ね、お願い」
今朝、感極まったようにしゃくりを上げながらボロボロと大粒の涙を流していた顔、そして朝日を浴び、輝いていた満面の笑顔を思い出した。
「わかったよ」
それだけ言い、その場に胡坐をかいて座った僕を見て、宮司は頷き、微笑んだ。
「話を戻そう。その友人の病院に入院している女の子だが、病院であらゆる手をつくして治療をしたらしいのだが、一向に改善の兆しが見られないそうだ。理由は簡単だ、彼女が見た事故の光景があまりにも凄惨だったということだ。友人は言ったよ、小学生の女の子が車に撥ね飛ばされる母子を見たんだよ、しかもきっかけを作ったのは自分だ、この母子の記憶が無くならない限り彼女が快方に向かうことはないだろうとね」
僕は俯き、両手で膝をかきむしった。亜川美帆は手で口を抑え、涙を滲ませた瞳で僕を見た。
「友人が私に依頼したのはこうだ。彼女を夢見の間で事故があった日に戻して欲しい、そしてそこで彼女に、夫婦喧嘩以外に何もない、子犬が道路に飛び出すことも無い、いつも通りの散歩をする、という夢を見させて欲しいということだ。彼女が望めば友人が言うとおりの夢をみることはできるだろう。だが夢見の間でいくら夢を見ても記憶はすり替わらない。そこで友人は催眠療法を行うと言う。夫婦喧嘩以外何も無かった子犬との散歩を夢で彼女に体験させ、すかさず催眠術で記憶をすり替えるというものだ。倫理上の問題があるかもしれないがもうこれしかないと、友人のたっての依頼なんだよ」
「それって、その女の子の記憶の中から相川君とお母さんを消してしまう、事故が無かったことにする、ということですか」
亜川美帆は驚くように宮司を見、そして僕を見た。
「そうだ」
「ふざけんな!」
僕は言葉より早く宮司に掴みかかった。自制心などまったく働かなかった、というより理性や自制心が心に入り込む隙間など無かった。治療の為に事実を捻じ曲げ、母や僕を交通事故に遭わせた記憶を消し去る、そんな都合のいいことなど許せるはずなどない。母の命はそこまで軽いのか。
「宮司さんはそれを許すんですか、そんな話に協力するんですか」
僕は宮司の襟首を締め上げるように掴んだ。
「病人に何するんや」
すかさず明美さんが後ろからTシャツの襟首を掴み、僕を畳に引き倒した。すぐに起き上がろうとする僕に強烈な平手を見舞い、そのままマウントを取った。今日の明美さんは容赦が無かった。どあほ、と言いながら五、六発の強烈な平手を食らわしたのだ。為す術も無く僕は殴られ続けた。悔しくて悔しくて涙が出てきた。殴られたことでは無い、母の死がよってたかって軽んじられるのが悔しかったのだ。
「やめて」
亜川美帆が明美さんにしがみついた。
「自分のことしか考えれんような奴は、こうするしか無いんや」
明美さんは亜川美帆を振り払い、僕を抑え込んだまま、鬼のような形相で言った。
「女の子がリードを放したのは、交通事故を起こそうとしたわけでも、春木君や春木君のお母さんを事故に遭わそうとしたわけでもない、ただ、夫婦喧嘩を止めようとしただけや。それが有り得んような間の悪さで大事故になってしまったんや。女の子にその責任を問うのはどう考えても酷や、いや、そもそも間違うとる。春木君がお母さんを大事なのはようわかる、だけどな、お母さんは亡くなったんや、もうおらんのや、亡くなった人を救うことは誰にもできん、だけどな、生きとる人間なら救うことができるんや、大事なんは今苦しんでいる人間を救うことなんや、なんでそれがわからんのや、この大たわけが」
明美さんはまた手を大きく振り上げた。亜川美帆がまたしがみつく。僕は目を閉じた。殴られるからではない、明美さんの言葉を考えた。確かに女の子に罪を問うのは酷かもしれない。むしろ女の子も被害者なのだろう。そして女の子の記憶から母が消えることで女の子の病気が治るのなら、母は本望ではないか。夢見の間で僕や誰かがどんな夢を見ても、どれだけあがいても母は生き返ることなどできないのだから。母は僕と祖母の心の中でずっと生き続けているのだから……。
明美さんは振り上げた手をそっと下ろした。
「わかってくれたか」
目を開いた僕を見る明美さんはいつもの優しい顔に戻っていた。母が亡くなった日、日傘の下で見た母の目を思い出した。
「どうして」
明美さんにしがみついていた亜川美帆は、ほっとするように言った。
「オーラが、負のオーラが消えたんや」
宮司は力強く頷き、これ以上は無いと思えるほどのしわくちゃな笑顔を見せた。
「堪忍な、乱暴にして」
明美さんは手を握り、僕を引き起こした。柔らかくて温かい手だった。
「今日はよう泣いたな。春木君はやっぱり泣き虫やな」
僕を覗き込むように見る明美さんの目は涙で潤んでいた。
「相川君、君には辛い思いをさせるかもしれないが堪えてくれ」
宮司は頭を下げた。
「春木を信じとる」
次の日昼食を取った後、朝からずっと黙っていた祖母がひと言だけ言った。
今日、あの親子がくる。あの女の子の両親は事故後離婚し、あの街を離れたそうだ。憑りつかれたようにあの街を彷徨ったことが思い出され、虚しさだけがすきま風のように心を撫でていく。
五年前の事故は僕の家庭だけでなく、あの親子の家庭をも崩壊させていた。僕はあの親子や子犬をずっと憎み続けて生きてきた。時には池のほとりの休憩所で母の思い出に浸ることで心の平衡を保ってきた。でもあの女の子は、自分が引き起こしてしまった事故の責任をどこにも転嫁できず、良心の呵責に苛まされ続け、ついには自傷行為でしか心の平衡を保つことができなくなったのだ。女の子に同情しないわけではない、でもあの親子への恨みが無くなったわけでもない。同情、恨み、哀れみ、憎しみ、拭いとることのできない相反する感情を抱えたまま、僕は神社に向かった。
駐車場には明美さんの青いスポーツカーが停まっていた。庵を覗くとすでに明美さんは巫女装束に着替え、縁側に座っている。僕に気がつくとにっこり微笑み立ち上がった。
「何やまた陰気臭い顔しとるな。気持ちはわからんでもないが、大事なことを忘れておらんやろな」
「忘れていませんよ。今苦しんでいる人を救う、その通りだと思います」
いつまでぐじぐじしとるんや、と明美さんに言われそうで、そう言われるのが嫌で、葛藤を悟られないよう平静を装った。
「違う」
明美さんは言下に否定した。
予期せぬ言葉にきょとんとしている僕に向かって、明美さんは続けて言った。
「十万円や。きっちり弁償してもらわんといかんのや。うちはな、びた一文まける気は無い。せやからな、しっかり働いてもらうで。忘れとらんやろな」
あらためて僕を言い包めるかのように言う。
「わかってますよ」
呆れて答えた。
「一回一万円やで」
「だからわかってますって」
「ならええ。春木君の仕事はな、夢見の間に泊まる客をもてなすことや。それできっちり一回一万円や、さぼるんやないで」
「だからわかってるって言ってるじゃないですか。昨日は散々殴られましたから」
僕は可笑しくなってきて嫌味のように言ってみた。
「愛のムチや」
真面目な顔で明美さんは言う。でも昨日の明美さんの平手は痛くなかった、むしろ温かく感じられたぐらいだった。
「明美さん」
「何や」
名前を呼んだだけの僕を訝しげに見た。
「僕は亡くなった弟さんにそんなに似ているんですか」
一度聞いてみたかった、明美さんの裸の心に触れてみたかった。明美さんは驚いたような顔をして僕を見た。眼差しが小刻みに震えている。明美さんの瞳に困惑の色が浮かぶのを僕は初めて見た。
「叔父さんに聞いたんか」
「すいません」
「似とらんな。弟はもっとええ男や。それに、エロガキでも女たらしでも、ましてやむっつりドスケベでも、ストーカー野郎でも無かった」
「あーもういいです。ひっどいなあ」
慌てて言う僕を見て、明美さんは声を出して笑った。
掃除を終えた頃、宮司が庵にきた。少し浮かない顔をしている。
「どうかしたんですか」
「私が病院を一時退院しているのは知っているよな。明日病院に戻らないといけないんだ」
「随分急な話ですね」
「でもまあ私の代わりを務めていた氏子が来月あたり復帰できそうだから、ここの仕事は心配しなくてもいいかもしれない。相川君にお手伝いを頼むのは今日で終りになるかもしれないな」
今日で終わり?一瞬頭の中が真っ白になった。
「そうですか」
動揺を隠すように答え、風呂の準備にむかった。何も考えたくない、一心不乱に汗だくになりながら水を運ぶ。ふき出す汗が流してくれたかのように宮司の言葉も今日これからくる親子のこともいつの間にか頭の中から抜け落ちていた。黙々と井戸と風呂小屋を往復し、あと少しで風呂桶に水が溜まるという頃、参道を歩いてくる親子に気がついた。決して忘れることのないあの母子だ。足取りのおぼつかない娘の手を母親が引いている。
僕は現実に引き戻されることを拒絶するかのように二人に気がつかない振りをしていた。それでも砂利を踏みしめる微かな音がどんどん近づく、どうしようもない現実が、現実のほうから僕に近づいてくる。二人を拒絶するように顔を伏せ、バケツに溜まる水を見ている僕の前で足音が止まった。
「ここの方ですか」
母親から声を掛けられた。お通夜にきた弔問客のような小さな声だった。無視するわけにはいかない、でも僕はどんな顔をすればいいのか。床にぶちまけた福笑いのピースを探す気分だった。ゆっくりと顔を上げた僕の前にいたのは、夢で何度も何度も見た顔だった。ただ、今その顔はやつれ、娘の看護に疲れ果て、将来に希望を持つことを諦めた顔をしていた。
「はい」
僕はまだ憎しみがくすぶる心に能面を被り感情のこもらない声で言った。返事を聞いた母親は、後ろに立っている女の子に合図をした。
「よ、よろしくお願いします」
蚊の鳴くような微かな声が聞こえた。冷たい湖の底から引き揚げられた水死体のように、顔に何の表情も浮かんでおらず、光を失くした二つの目は何を見ているのかわからないほど虚ろだった。女の子はまた母親に手を引かれ、社務所に歩いて行った。
風呂が焚きあがり、日が西の空に傾いた頃、庵で紺色の作務衣に着替えた女の子が母親に手を引かれ風呂小屋にきた。僕はいつも通りの説明をして風呂小屋の前で待機した。たまに湯を流すバシャバシャという音が聞こえるだけで会話らしい声は聞こえてこない。すぐに二人外に出てきたけれど、煤けたロウのような不健康な女の子の顔は、風呂で上気したせいなのか、それとも夕日を浴びているせいなのか朱色に染まって見えた。五年前血まみれになった母の顔が思い出され、感情が顔に出てしまいそうで慌てて目を逸らした。母親は女の子を庵に連れていくと、すぐに引き返してきた。
「朝、また来ます」
会釈して通り過ぎて行った。
その目には何の期待も希望も浮かんでいなかった。あの母子が今まで散々行ってきた治療はそのどれもが功を奏さず、ただ紹介されるまま惰性でここに辿り着いたのだろう。ここで女の子がすることは獏の置物に願い、ただ眠るだけなのだ。何かが起きるなどという期待や希望を持つことなどあるはずないだろう。母親の姿は参道に消えていった。振り返ると林の間からまん丸の月が顔を見せていた。
僕は急いで篝火を二つ焚き、月を見ながら宮司と明美さんが外へ出てくるのを待っていた。二人が帰ってしまえば残るのは僕と女の子だけになる。不安な気持ちが頭をもたげる、手足が生えたかのようにごそごそと動き始める。病人のような女の子ひとり何とでもなる、恨みを晴らすには絶好の機会だ、僕は自分を抑えられるだろうか、突如牙をむく凶暴性に立ち向かい、食い止めることができるだろうか、と。
一方で、くすぶったはずのマグマのような憎しみに身を任す快感が脳裏を過ぎる。またわけがわからなくなってくる気がして、いっそこのまま時よ進まないでくれ、と願ってしまう。それでも月は少しずつ天高く昇っていく。夜は深くなっていく。
とっくにどちらかが出てきてもいいはずなのに一向に誰も出てこない。そっと中を窺うと、夢見の間の前で明美さんが女の子を後ろから抱きかかえている姿が見えた。白い巫女装束が篝火の薄明りに浮かび上がっている。宮司は女の子の足を押えていた。
「どうしたんですか」
慌てて二人のもとに這うように近づいた。
「ああ、相川君いいところにきてくれた。彼女が発作を起こしたんだ。夢見の間に入ろうとした時、いきなりだ。突然暴れ出したんだ。どこにこんな力があるのか。とにかく救急車を呼ぶから私と代わってくれないか」
少し早口で宮司は言った。想定外の出来事に困惑しているようだった。
「救急車やて。叔父さんそれはあかん。今日の計画がパーになってまうがな」
「仕方が無いだろ。発作のことは何も聞いていない以上、素人判断をするわけにはいかないんだ。彼女の身に何かあってからでは遅いんだよ」
宮司の言うことはもっともだ、だけど……。
「そうだ、お母さんに聞いてみれば何か知っているかもしれない。救急車を呼ぶのはその後でもいいじゃないですか」
「そや、春木君もたまにはいいこと言うやないか」
「それもそうだな。わかった、相川君、とにかく私と代わってくれないか」
苦しそうに言う宮司に代わり、僕は彼女の足を押さえた。少し手の力を緩めると、途端に狂ったように足をばたつかせてくる。病人の宮司にはきつかったかもしれない。宮司はすぐに携帯電話を手に取り開く。暗闇に無機質な光が浮かび上がる。
「ダメだ。繋がらない、電源を切っているのかもしれない」
首を振りながら宮司が言った。救急車を呼ぶべきか逡巡しているのだろうか、宮司は瞑想するように目を閉じた。
「やはり救急車を呼ぼう」
宮司は意を決するように再び携帯電話を開いた。
「ちょっと待った。発作が治まってきたで」
宮司を制するように明美さんは呟き、女の子を抱える腕の力を緩めた。僕も恐る恐る足から手を放したが、彼女は足をばたつかせることは無かった。
「わかった。もう少し待ってまたお母さんに電話をしてみよう。でも残念だが今日は諦めたほうがいいかもしれない」
明美さんは渋々頷いた。僕は驚いて二人の顔を見た。
「諦めるんですか。発作は治まったじゃないですか。次は一か月後ですよ。今日何とかならないんですか」
女の子や母親への憎しみが消え去ったわけではない。
先日、生身の二人を見かけた時から、僕は憎しみや恨みに支配され、祖母の言葉に葛藤を覚えることがあったものの、母も子もみんな死んだらいいとさえ思っていた。
女の子の病気を聞いた時も、未来永劫死ぬまで良心の呵責に苛まれろと思った。でも明美さんに殴られ宮司や亜川美帆から諭され、この女の子や母親がどれだけ苦しんできたのかわかるようになってきた。自分の考えが間違っているかもしれないと思えるようになってきた。今日見た母子の様子を思い出し、ここまできて尚一ヵ月苦しみを長引かせるのは酷だと思えるようになってきた。これ以上は耐えられない、何の期待も宿していなかった母親の目がそう訴えているように思えた。
「相川君が言うことはわかるが、いつまた発作が起きるかわからない。もし彼女がひとり夢見の間で寝ている間に発作が起きたら大変なことになるかもしれない。とてもそんなリスクを犯すわけにはいかない」
宮司は強い口調で言った。
「ちょっと聞いてくれるか。うち考えたんやけどな、この子とうちが一緒に夢見の間に入るってのはどうや。つまりうちがこの子と一緒に寝るってことや」
「あっ、それいい、さすが明美さん。僕はここで待機していますので、何かあったら駆けつけますよ」
「それはダメだ」
すぐに宮司が言った。携帯電話を耳にあてている。母親にまた電話をしているようだ。しばらくして首を振り、携帯電話を下した。
「何でや」
不満そうに明美さんが言う。
「夢見の間の獏の置物は眠る人の記憶を覚醒し、その記憶をもとに希望する夢を見させるんだよ。そもそも何も経験していないことは夢に見ることはできない。あの部屋に二人入る場合、二人に共通した体験でないと夢にみることはできないということだ。つまりあの事故を経験していない明美があの部屋にいたら、彼女は事故の日の夢を見ることができないということだ」
「んー、せやったら春木君がこの子と一緒に寝ればいいやないか」
「ええー、僕がですか」
「うむ、そうだな。相川君なら適任だ」
「ちょっと待ってください。でも、僕、男ですよ」
「何を考えとるんや。添い寝するだけや」
「でも同じ布団に入るんですよね」
「女たらしの本領発揮や」
「言ってる意味がわかりません」
「何をそんなに嫌がるんや。タイプや無いんか」
「とにかく嫌です」
そう、嫌としか言えなかった。女の子が、ではない。母に逢うことが、亡くなる直前の優しい母に逢うことが辛いのだ。女の子が事故の起きない夢を望めば、僕が見る夢は、あの日、あの時、あの場所で母と過ごした幸せな時間だ。でも目が覚めれば、母のいない現実を思い知るだけ、虚しい思いをするだけだ。僕の心の中に母の死へのわだかまりがある以上、いつ爆発するのかわからない時限爆弾のように突然あの事故を夢で見、フラッシュバックで再体験するのだ。何度母は死んだのだ、何度母は死ねばいいのだ。幸せな体験をすればするほど反動が大きいことは目に見えている。僕にはそれは耐えられない。
「私はいい案だと思うのだがな。相川君は亡くなったお母さんに逢いたくはないのか」
「辛い思いをするのが嫌なんです」
つい声を荒げてしまった。その声に反応したのか女の子が薄く目を開いた。彼女は明美さんに抱かれたまま、瀕死の病人のようにか細く、人工音声のように抑揚の無い声でたどたどしく言った。
「わ、私の、犯した罪で、何の、罪もない親子が・・・事故に遭い、は、母親が・・・、亡くなったんです。私は、事故を引き起こした・・・のに、名乗り出ることもなく・・・、逃げたんです。私は、私は、わ、悪い、人間なんです。あの悲惨な光景は・・・、絶対に・・・、忘れることはできないです。きっと、死ぬまで苦しみ続けるんだと、そ、それが私の贖罪・・・なんだと思っています。だ、だから私は、い、今のままで・・・、いいんです。母が、くるまで私のことは・・・、放って・・・、放っておいてください」
女の子が言い終わる前に、明美さんは彼女を抱いたまま、僕の胸倉を掴んだ。凄い力で締めあげられる。暗がりに隠された表情は夜叉のような形相なのかもしれない。僕を掴んだ右手がぶるぶる震えている。
「ようも女みたいなことをちまちまと言うてくれたな。夫婦喧嘩を止めようとして子犬のリードを手放してしまったことが罪なんか。小学四年生の子どもが責任を被らんかったことが悪なんか。それこそ道理が通らんとちゃうんか。おまえはこの五年どう過ごしたんや。女の子と花見に行ったり、女の子をベッドに押し倒したり、車の中で手を握ったりとやりたい放題やないか、そや、うちにラブレターも書いてよこしたな。しっかり青春を謳歌しとるやないか。でもこの子はどうや、すぐおまえの目の前におるこの子はどうなんや。それでもおまえはまだ自分のことしか考えられへんのか」
障子戸から射し込む篝火の揺らいだ明りが一瞬浮かび上がらせた明美さんの顔には、大粒の涙が光っていた。この期に及んで断れば、明美さんの空いている左手で思いっきりどつかれるのは目に見えている。恐らくうんと言うまでどつかれるだろう。明美さんの右手から強烈な怒りとも厳しさとも見間違うほどの優しさが、電流のように伝わってきた。
「わかりました。やります」
覚悟を決め、そう言うと、明美さんは僕の襟首から手を放し、「すまんな、おおきに」、とだけ言った。夢見の間の扉を開け、僕と明美さんが先に中に入った。女の子は嫌がる素振りを見せたが、宮司が中に押し込んだ。
「この獏の置物に手を置いて、見たい夢を願うんや。そうすればこの獏が希望の夢を見させてくれる。何も心配いらん、あとはお医者に任せればいい」
明美さんはそれだけ言うと、「ほな頼んだで」、ぽんと僕の背中を叩いて出て行った。僕は扉を閉め、女の子の手を取った。枯れ枝のように彼女の手は細く冷たかった。
「さあ、獏の置物に手を置いて」
彼女は動かしかけた手を不意に止め、僕に顔を向けた。
「みなさんの話・・・、聞こえていました。あ、あなたは・・・、事故にあった・・・、男の子?」
篝火の薄明りに照らし出されたのは、死人のような感情の無い顔と虚ろな目だった。でも荒い呼吸が彼女の緊張を僕に教える、僕の返事を待つ気配が伝わってくる。そんなこと聞かなくてもいいのに、知らなくてもいいのに。どうしてこの女の子はここまで愚直なのだ。どうしてぼろぼろの自分をわざわざさらに追い込むようなことを聞くのだ。僕が、はいそうです、と答えたらどうしようというのか。
「違うよ。僕はたまたまあの日、事故のあった場所を通りかかり、事故の一部始終を見ただけなんだ」
嘘をついた。作り話がすらすらと口をついて出た。本心は本当のことを言いたかった、彼女が動揺して泣き叫ぶところを見たかった。でも彼女も被害者なのだ、有り得ない間の悪さで加害者の席に座らされた被害者なのだ。
「そうですか」
彼女は失望ともとれる言葉を口にした。僕は気がついた。彼女は死にたがっているのだと、諦めているのだと。あとほんのわずか、小鳥の羽ばたき程度の揺らめきでも、ぷっつんと音を出して切れそうなほど極限まで張り詰めている彼女の心の糸に引導を渡して欲しいだけなのだと。
でもまだ糸は切れていない。僕は彼女にほんの僅かでも生への執着心が残っていることを期待し、彼女の手を持ち、そのまま獏の置物に添えて言った。
「せめて、せめて夢の中でだけでも、あの男の子と母親を事故から救ってあげてよ。約束だよ」
ぴくっと女の子の手が僅かに震えた。
「やく・・・、そ・・・、く?」
顔を向けた女の子の虚ろに見える瞳の中で、僕の顔がくっきりと像を結んだ、そんな気がした。
「うん」
僕の返事を聞き、女の子は確かに頷きそっと目を閉じた。
何を獏に願っているのだろうか。彼女の中に僅かでも生への希望が残っていることを祈った。
薄暗い闇の中、獏の置物がぼーと青白い光に包まれた気がした。底なしの暗闇に吸い込まれていくように僕の意識は遠のいていった。
目の前に母がいる。ベージュ色の傘を差し、ゆっくり歩いている。真夏の日差しが真上から容赦なく僕たちを照らしている。今日は夏休み最初の日曜日、僕は黄色のスクール帽子を被り、母の買い物のお供をしている。
「ねえ、お母さん、どうして雨が降っていないのに傘を差しているの?」
振り向いた母はにっこりと微笑んだ。
「これはねえ、日傘って言うのよ」
身長の高い母は僕の背に合わせ少ししゃがみ込んで言った。今日の母は普段よりも化粧が薄い。それでも色白で透き通るような肌の母は綺麗だ。クラスの他のお母さんと比べても絶対母が一番だ。
「日焼けしないようによ」
母は背筋を伸ばし、手を高く上げ、くるくるっと傘を回した。白地の半袖ワンピースの水玉模様が、日傘から舞い降ちるシャボン玉のように見えて嬉しくなった。
「じゃあ僕も、傘に入れて」
母の身体に抱きついた。母はいい匂いがした。
道路の向こう側、片側一車線の国道の反対側に三人連れの親子が見える。女の子が子犬を胸に抱きリードを右手にぐるぐると巻き付けている。
ふいに女の子の親と思われる夫婦が何か言い争いを始めた。女の子が子犬を抱えたまま、二人の間に割って入った。夫婦の言い争いはすぐに治まった。女の子は自慢げに僕を見、そのままちらっと道路に目を馳せた。その時だった。女の子の顔に浮かんでいた満面の笑みは、みるみる凍りつき、すぐに粉々に砕けたガラスのように顔から剥がれ落ちていった。凍りつくように色を失った顔に浮かぶ両の目は、地獄の入口でも見たかのように大きく見開かれている。何事かと僕はつられるように女の子の視線の先に目をやった。
こっちに向かって走ってくる車が見える。何の変哲も無い車だ。だが、運転手がハンドルに突っ伏している。そしてハンドルを握ったままゆっくりと糸の切れた操り人形のように助手席側に倒れていく。
車は道路を外れ僕たちがいる舗道に向かって突っ込んでくる。母は気がついていない、車は近づいてくる、僕たちに迫ってくる。どんどんどんどん近づいてくる。もうダメだ、轢かれる!
悲鳴を上げ眼前の恐怖から逃げようと、思いっきり目をつぶり母にしがみつく手に力を入れた。
その時、ほんの僅か車よりも早く、何かが母と僕にぶつかってきた。それは僕たちの身体が浮くほどの凄い力で僕たちを突き飛ばした。僕は舗道の奥へ倒れ込みながら、ついさっきまで自分たちがいた場所に、子犬を抱え仁王立ちするように立つ女の子を見た。女の子は倒れ込む僕に向かって何か言っている。でも突っ込んでくる車の音に掻き消されて聞こえない。あんな小さな身体のどこにこんな力が、と思う間もなく、バンという無機質な音とともに一瞬で女の子の姿はその場から消えた。僕と母の身代わりになるかのように、女の子の小さな身体は子犬ごとスローモーションのように宙を舞う、リードが引きちぎれる。
事故を目撃した通行人の悲鳴があちこちから上がる。女の子と子犬がアスファルトに叩きつけられる。鮮血が舗道に拡がっていく。
起き上がった母は、言葉にならない叫び声を上げ女の子に駆け寄る。でも血まみれで倒れている女の子を前にして茫然と立ちつくすことしかできない。引きちぎれたリードを付けた子犬がよろよろと女の子に近づき顔を数回舐め、そのまま動かなくなった。遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてくる。
目を開けると僕は凄惨な事故現場ではなく、柔らかい布団の上にいた。状況が掴めず、そのまま呆けたように横になったまま天井を見上げる。外は白み始めたようで天井板の模様が薄っすらと見え始めている。
ああ、さっきまでのことはリアルな夢だったんだ、今が現実なんだとやっと気がつき、ほっと溜息ひとつ吐きゆっくりと身体を起こした。痛みが走ったような気がして胸に手を当てる。夢の中で突き飛ばされたことを思い出し、下げた目線に隣で寝ている人が目に入った。死んだように微動だにしない。女の子だ。一瞬ですべてを理解し、愕然とした口から悲鳴とも咆哮ともつかない絶叫が飛び出した。
「起きてよ、目を開けてよ」
女の子の両肩を揺さぶり声を張り上げる。だけど女の子はぴくりとも動かない。明美さんと宮司が部屋の中に飛び込んできた。
「どうしたんや」
「何があった」
僕は二人の言葉を無視して狂ったように声を上げる、女の子の肩を激しく揺さぶり続ける。
「起きてよ」
「起きろよ」
「起きろー」
「春木君、落ち着くんや」
明美さんは女の子から引き剥がすように僕を羽交い絞めした。
「彼女が、彼女が、目を覚まさないんだ」
叫ぶように言いながら腕を振りほどこうとあがく。
「何があったんだ」
宮司は女の子を抱き起したが、死んだように仰け反りぐったりとしている。
「彼女が、彼女が、僕や母さんの身代わりになって車に轢かれたんだ」
血反吐を吐くような僕の言葉に、宮司はとんでもないものを見たかのように目を見開く。
「何てことを。ここで見る夢は現実と何ら変わらないんだ。夢の中であっても現実と同じ衝撃、同じ痛みを感じるはずだ。夢の中とは言え、あの弱った身体では耐えられないかもしれない。早く目を覚まさないと本当にこのまま死んでしまうかもしれないぞ」
「何やて」
明美さんは驚いたように僕を放し、宮司に代わって女の子を抱きかかえた。色白の顔が薄明りに浮かび上がる。女の子の様子は変わらない、死んだようにぐったりしたままだ。
「目を覚ますんや」
明美さんはそう言いながら女の子の頬を叩いたが反応は無い。起きろ起きろ起きろ、さらに叩く、それでもやはり反応は無い。
「脈が無い」
深海に沈み込んでいくような沈痛な声が響く。女の子の手首をとっていた宮司はゆっくり手を下ろし、うなだれ肩を落とした。僕は心臓を握りつぶされたかのような衝撃を受けていた。今こうして目が覚めれば夢だったとわかる。でも夢の中も現実と同じリアルな世界。いくら僕や母を助ける為とはいえ、小学生の女の子がどうして車の前に飛び出せるのか、どうしてそんな無謀なことをしたのか。呆然とし女の子を見る。
「何でや、何でこんなことになってしまったんや」
女の子を布団に寝かし、明美さんは縋るように僕の胸倉を掴んだ。ぶるぶると身体を震わせている。
「女の子はただ散歩しただけやろ。子犬は道路に飛び出しとらんのやろ。どうして事故が起きるんや。どうして女の子が身代わりになったんや。なあ春木君、教えてくれんか」
明美さんは僕が口を開くのを待つことなく手を離し、すぐに宮司の襟首を掴んだ。
「なあ叔父さん、夢見の間でどれだけ夢を見ても過去も現在も何も変えることはでけんのやろ、それはお約束なんやろ、なのにどうしてなんや、どうしてこんなことになってまうんや」
宮司は何も言わず唇を噛んでいる。
嘘だろう・・・、僕の頭はまさにハンマーでかち割られた。僕と母を突き飛ばした、あの時の女の子の口の動きが瞼に浮かぶ。
「そんなつもりじゃ、そんなつもりで言ったんじゃない・・・」
独り言のように言葉が零れ、激しく頭を振る。あの時彼女は何を言ったのか。やくそく、そう、間違いなくあの瞬間、女の子の口はそう動いた。掻き消された言葉は、約束だった。
獏の置物に手を添えたあの時、僕があんなことを言ったばかりに・・・。
「うわあああああああー」
ことの重大さに目の前が真っ暗になり、僕は魂を吐き出さんばかりの絶叫を上げた。そしてそのまま抜け殻になったように顔から布団の上に突っ伏した。あたかも女の子に土下座をするかのように。
「春木君、どうしたんや、しっかりしい」
明美さんが慌てて僕に声をかける。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい・・・」
うなされるように同じ言葉が口を突く。くぐもった声が空気を震わせる。
ハンドルにもたれ掛かり倒れていく運転手、突っ込んでくる車。事故は彼女らのせいではなかった、僕と母はあの日、ただ、不運な自動車事故に遭っただけなのだ。それは夫婦喧嘩のせいでも、女の子がリードを放してしまったせいでも、子犬が道路に飛び出したせいでも無く、ただ運転手が倒れ暴走した車に轢かれたというだけのことなのだ。祖母の言うとおりだった、誰のせいでもない、運が悪かった、ただそれだけだったのだ。それなのに事故を自分のせいだと思い込み、贖罪で身も心もぼろぼろになった女の子に、せめて夢の中だけでも二人を助けろと一方的に約束を押し付けた。
女の子は自分に非は一切無いのに、すべての責任を背負い込み、愚直にも僕と母を助けるため、一方的に押し付けられた約束を果たすため、身代わりになって車に轢かれたのだ。
どれだけ痛かったことだろう、どれだけ苦しかったことだろう。僕は人間のクズだ。死ねばいい、あの親子にそう思っていた。そう、でも死ねばいいのは僕のほうだ。僕が車に轢かれればよかったのだ。
布団に顔を埋めたまま、考えることを拒絶するかのようにマヒしてしまった頭の中で、この五年が走馬灯のように、再生される。事故、母の死、憎み続けた子犬と親子、池のほとりの休憩所、フラッシュバック、現れた親子、約束、二度目の事故。何の過ちのない親子を憎み、何の罪のない子犬を恨み、社会への不平不満を募らせた。あげく何の落ち度のない女の子に一方的な約束を押し付け身代わりにした。僕は一体何なんだ、何様なのだ、そしてこの五年は何だったのだ。そう、僕だけが轢かれればよかったのだ。僕は最低の人間だ、死ねばいい。後悔の沼で溺れてしまえばいい。
「息がある、息しとる」
女の声が歪んで聞こえる。凍りついたように思考を停止した頭の中で言葉は意味を持たない、何を言っているのかわからない。
「脈がある、脈が戻った」
男が何か言っている、でも雑音にしか聞こえない。
「春木君、喜べ、女の子は生きとる、生きとるで」
激しく何度も何度も身体を揺さぶられた。生きている、生きている、女の子は生きている・・・、もやもやとした女の言葉が、少しずつ形を造っていく、命を吹き込まれていく。
「私は大丈夫です」
か細い中に力強さを感じさせる女の子の声が、布団に顔を埋めたままの僕の鼓膜をはっきりと揺らした。彼岸から此岸に連れ戻されたように意識がはっきりと覚醒する。僕と女の子が事故の呪縛から解放された瞬間だった。
宮司と明美さんが女の子を夢見の間から連れ出したようだ。辺りから人の気配が無くなった。それでも僕は布団から顔を上げることができなかった。
「春木君どうしたんや」
夢見の間に戻ってきた明美さんが僕の背に手を置いた。白衣を通して温かみが伝わってくる。
「どうしたん、泣いとるんか。女の子はぴんぴんしとるで。泣いとる暇なんか無いやろ。風呂の掃除、後片付け、やらないかんことはまだまだぎょうさんある」
女の子が元気になったからだろう。嬉しそうに言う。
「母さんだけが・・・」
「ん、なんや?」
「母さんだけが・・・」
「モノトーンだった・・・」
わなわなと震え言葉にならない声を絞り出した。背中に置いた明美さんの指が微かに固まる。
夢の中で母は、薄化粧をして水玉模様の半袖ワンピース姿だった。でも今思い出す母は、無彩色で現れる。どれだけ色をつけようとしても思い出そうとしても母にだけ色がつかない。
やはり母は死んだのだ。事故の本当の原因がわかっても母は帰ってこないのだ。涙が堰を切ったように決壊する。僕は身体を起こし、明美さんにしがみついた。ただただ泣いた、声を出して泣いた。明美さんは何も言わず、いつまでも優しく僕を抱いてくれた。
「助けてくれてありがとう」
一足先に夢見の間を出て、縁側に座り母親を待っている女の子の隣に座った。早朝の冷たく澄んだ空気が辺りに満ちている。憑き物が落ちたように心が軽くなっていた。母と僕があの日事故に遭ったことも、母が亡くなったことも事実は何も変わっていない。ただいつも身体の中でくすぶっていた澱だけが跡形もなく消えていた。
女の子は生死を彷徨ったとは思えないほど、顔色が良くなっていた。隣に座った僕を見て、小さく頭を下げた。
「僕は、君や君の家族に謝らないといけない。僕は、母が亡くなったあの事故を君たちのせいだとずっと思って生きてきた。君や君の家族、子犬に恨みを晴らすことだけを考えてきた。でも君たちに事故の責任は一切無かったんだ。それどころか今度は君に助けられた。ごめんなさい、そしてありがとう」
夢の中とは言え、約束したとは言え、あのリアルな世界でどうして身を挺することができるのか、身代わりに成れるのか。人はどうしたらここまで他人に尽くせるようになるのか。
「わ、私、病気が治ったら、ぜっ、絶対看護師になりたい。こ、こんな私の為にあんなに尽してくれた、ぼろぼろの私を、は、励ましてくれた。私も人に尽くしたい」
ぎこちないけれど強い口調だ。
「なれるよ、絶対。絶対に君ならいい看護師になれる。僕が太鼓判を押してあげるよ、どーんとね」
女の子は忘れてしまった笑い方を思い出そうとしているのか引き攣ったように口角を上げた。ぎこちないけれど、彼女の顔に少しだけ表情が戻っている。僕は心の底から彼女に感謝した。
「僕は再来年大学受験なんだ。正直言うと何のために進学するのか、何を求めて大学に行くのかわからなかった、どうでもよかった。人生に何の期待も目標も抱けなかった。だけど君のおかげで大学に進学する大きな目的ができたよ。交通事故を起こさない車を作りたい。すぐにはできないかもしれないけど、でも一生かかってでも成し遂げたい。僕は、エンジニアになる」
一瞬で僕と母どころか、女の子の幸せな家庭をも奪った事故、あんな事故はもう起きてはいけない。
「今度こそ、約束だよ」
「うん」
真摯な眼差しを向ける僕に、女の子は微笑みを返してくれた。さっきより、少しだけ笑顔がさまになっていた。
女の子は迎えにきた母親と一緒に庵を出ていった。昨日ここに来た時と打って変わり、覚束ない足取りではあったが母親の手を借りずに歩いている。明らかに様子が変わった女の子を見て、母親は泣きながら何度も何度も頭を下げて帰って行った。
「相川君から聞いた事故のことは友人に伝えておくよ。きっと女の子はすぐに良くなるだろう」
宮司は母子を見送りながら言った。
「春木君もええ顔しとる」
明美さんが優しく微笑んだ。
「ああそうだ、忘れないうちに相川君に言っておくよ。明美とも相談して決めたんだが、昨日話したとおり、相川君にここのお手伝いをお願いするのは今日までにすることにしたよ。氏子から来月復帰すると連絡があったんだ。夏休みはもうすぐ終わりだよな。高校生の相川君にこれ以上甘えるわけにはいかないからな。本当に助かったよ、ありがとう」
予期していたこととは言え、少なからず動揺してしまった。僕は明美さんの顔をじっと見た。
「そんな睨むみたいな顔せんといてや。うちのおっぱいに味しめて、すぐにうちの胸の中で泣くようなエロガキはお払い箱や」
明美さんは困ったような顔をして言った。そんな冗談笑えない。
「でも、車の修理代いいんですか」
忘れてしまったのだろうか、一回一万円、今日で四回、残り六万円。すぐに払えと言われてもそんな大金僕は持っていない。
「ああ、あの話な、忘れてくれるか。あの車な、うち車両保険に入っとることすっかり忘れとってな。こないだ修理屋に持っていったらただで直してくれたわ。つまり、そもそも春木君はここで働かんでもよかったんや。ごめんな、ただ働きさせて」
明美さんは他人事のようにしれっと言った。
「でも昨日も今日も、明美さんそんなこと一言も言わなかったじゃないですか。それどころか一回一万円やって念押ししたじゃないですか」
「そりゃそうやわ。そんなん言うたら、春木君、じゃあ帰りますとか言うて帰ってまうかもしれんやろ。そうなったら風呂の水汲みや庵の掃除を誰がするんや、うちやろ、そんなん絶対嫌やんか。だから言わんかったんや」
悪戯が大成功した子どものように自慢げだ。
「車の修理代とか、さっきから何を言っているのかね」
宮司は訝しげな顔をして僕と明美さんを見た。
「叔父さんには関係無い話や。気にせんといてくれるか」
明美さんは平然と答えた。
「まあ、そういうことやから、春木君とはこれでお別れや。でもな、うちほんまは寂しいんやで」
「そうでしょう」
「春木君だけなんや、遠慮無くどつけるのは。どんだけどついてもちっとも罪悪感がわかん、それどころか気持ちがすうっとするんや」
両手で胸を押えながら言う。
「何ですかそれ」
「あの子、美帆さんもこないだ気持ちよう春木君をどついたなあ。あの子はしっかりした子やな、うちと喧嘩しても一歩も引かなんだ」
明美さんは参道を見ている。母子とすれ違いにこちらに向かってくる人影があった。亜川美帆だ。ブス犬にリードを引っ張られ満面の笑顔で手を振りながら走ってくる。朝日が僕たちを照らしている。夏は終わっていない。僕は大きく手を振った。【了】
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風呂桶に井戸から汲んだ水を注いでいると声を掛けられた。振り向くと、笑顔の亜川美帆が立っている。リュックサックを背負い、Tシャツにデニムのショートパンツ姿だ。
「すごーい、いつもそんな服着てるんだ」
亜川美帆は白衣、袴、足袋、草履姿の僕を珍しそうに見ている。いつもよりテンションが高い気がした。
「うん。夢見の館の仕事は神社の大事な行事だからね。ジーパンにTシャツってわけにはいかないんだ」
僕はタオルで額の汗を拭いた。本当なら上半身はだけてしまいたかったが我慢した。
「ふーん、いっぱしのこと言うんだね。でも似合ってるよ。あーまた緊張してきた。相川君から夢見の間の話を聞いてから胸のドキドキが止まらないんだ」
亜川美帆は不安を誇張するかのように手で胸を押さえた。
「ところでさあ、相川君が今水を溜めているのが後で私が入るお風呂なの?」
「そうだよ」
「ふーん。私ね、お風呂は高めの温度でたっぷりのお湯に浸かるのが好きなんだ」
「それ誰に言ってんの」
「他に誰かいる?」
「わかったよ」
「じゃあ行くね。ところで、明美って女の人はいるの?」
「今日はいないよ」
「なんだ、どんな人か見たかったのに。それにアルバイト代の交渉もしないといけないしね」
いつの間にか僕の保護者にでもなったかのような口ぶりで言い、社務所に向かって行った。なみなみと溢れんばかりの水を入れた風呂が沸いたのは、日が傾きかけた頃だった。八月も終わりに近づくと日は随分短くなる。一日が二十四時間よりも短くなっていく気がする。
西の空が真っ赤に染まった頃、紺色の作務衣を着た亜川美帆が庵から出てきた。風呂小屋の前に立っている僕に気づくと彼女は嬉しそうに手を振り走りだしたが、すぐによろめき立ち止まってしまった。僕はピンときて、彼女のもとへ駆け寄った。
「鼻緒が切れちゃった」
亜川美帆は困ったような顔をして草履を差し出した。もちろん僕に鼻緒の修理などやれるはずは無い。裸足で歩くにしても下は砂利道、魔が差すとはまさにこのことだろう、僕はとんでもないことを口にしてしまった。
「僕がおぶっていくよ」
「えー」
亜川美帆は目をまん丸に見開き、林の小鳥が驚いて飛び立つほどの大声を上げた。想定外の反応に、やっぱりおんぶはまずいよね、と言おうとしたら、彼女は、嫌だ、恥ずかしい、などとぶつぶつ言いながら両手を差し出し、とっくにスタンバっていた。戸惑う僕にお構いなしに、両手でおいでおいでをするように、ほら早くしゃがめと合図まで送り始めている。今さら後に引けず僕は草履を懐に入れ、亜川美帆に背を向けしゃがみ込んだ。
「えー、やっぱり恥ずかしいー」
どっちなんだよ、と思う間もなく亜川美帆の体重が背中にのしかかった。それでも本当に恥ずかしい気持ちがあるのかもしれない、手はそっと僕の両肩を掴んでいる。
「行くよ」、一声掛けて、えい、とばかり彼女の太腿を支え立ち上がった。彼女の身体は僕が思っていたよりも随分軽く、そして柔らかかった。僕はたまに言葉の選択を間違え、失言をしてしまうことがある、こんな具合にだ。
「亜川さんて見た目より軽いんだね」
速攻、首を絞められた。日本語は難しい。言い間違いを丁重に訂正し、機嫌を直してもらったことは言うまでもない。風呂小屋の中で彼女を下ろし、風呂の説明をした。彼女は底板など知るはずも無く面白そうに聞いていた。
「あと、僕は格子窓の近くにいるから、お湯がぬるかったり熱かったりしたら声をかけてくれればいいから」
「熱いって言ったらどうするの?」
「井戸の水を汲んできて風呂桶に注ぐんだ」
「誰がやるの」
「もちろん僕だよ」
胸をずんと張って答える。
「裸見られちゃうじゃない」
「そんなことしないよ」
僕は毅然とした態度で言った。
「ふーん」
それ以上質問は出てこなかったので、僕は風呂小屋を出て外に待機した。辺りは夕闇に覆われ始めた。あと少しで月が昇ってくるだろう。風呂小屋からは、たまにバシャバシャとお湯を流すような音が聞こえてくる。
「相川君」
不意に亜川美帆の声が聞こえた。
「何?」
僕は格子窓に向かって返事をした。
「覗かないんだ」
「何を言ってるの?」
「普通、男の子ってこういう時、女の子の裸を見ようとして覗くものだよ」
「じゃあ僕は普通じゃないんだ」
「私の裸見たくないの?」
「僕は何て答えればいいの?」
「素直になればいいんだよ」
「じゃあ見たくない」
格子窓からお湯が飛んできた。
「もうー、せっかくお湯をぶっかけてやろうとずっと待っていたのに努力が報われなかったよ」
「僕は今、神に仕える身だからね」
「バカ」
言葉とは裏腹に声が笑っている。すぐに鼻歌が格子窓から聞こえてきた。しばらくしてまた声を掛けられた。
「どうしたの?お湯がぬるくなった?」
「今日、私のためにありがとね」
「何だよ、急に。それにこれからが本番だよ」
「ううん、いいの。もし今日夢でお母さんに逢えなかったとしても私は満足だよ。相川君や宮司さんにこんなにもてなしてもらっているもの。お父さんからも言われたんだ、そんな荒唐無稽な話があるわけないだろうって。お父さんね、私がここに泊まるっていったらすぐ次の日ここに来たんだよね。それで宮司さんに会って詳しく説明してもらったんだよ。それでもやっぱり信じられないって言うんだ。実はね、私も相川君には悪いけど、お父さんと同じ意見なんだ。でもね、さっき食べた夕食、宮司さんの心が籠っていてとっても美味しかったんだよ、それに相川君が焚いてくれたお風呂、私の我儘を聞いてくれたんだよね、たっぷりのお湯で温かくて気持ちいいんだ。本当に今日はありがとう」
亜川美帆はお母さんに心の底から逢いたいはずだ、でもこの話が嘘であっても僕や宮司を責めないという。彼女の言葉に、僕はいつも明るく振舞っている彼女の心の奥底に秘めた寂しさと優しさに触れた気がした。
「何言ってんだよ。絶対にお母さんに逢えるよ」
僕は窓の格子を両手で掴み、思いっきり顔を近づけ、中にいる亜川美帆を見て叫んだ。動物園の猿のようだったかもしれない。神社境内の静寂を破るような悲鳴が上がり、僕は不覚にもお湯を思いっきり顔面に被ることになってしまった。でも、今の僕は神に仕える身、湯を掛けられる瞬間、見てはいけないあられもない姿をかぶりつきで見てしまったことは彼女に内緒にしておこう。亜川美帆は風呂から上がると、新しく用意した草履を履き、庵へと戻って行った。林の向こうで丸い月が輝きを放ち始めている。僕は急いで篝火の準備に取り掛かった。
優しく揺り動かされ目が覚めた。また和室で寝てしまったようだ、僕は慌てて飛び起きた。前回、明美さんの強烈な蹴りで叩き起こされたことがトラウマになっているのかもしれない。
「逢えたよ」
目の前にボロボロと大粒の涙を流す亜川美帆がいた。
「夢じゃないよ、本当に逢えたんだ。お母さんとお父さんと私の三人で、あの公園に花見に行ったんだよ。桜も綺麗だったけど、お母さんはもっと綺麗だった、お父さんなんて今よりずっと若くてかっこよくて思い出すと笑っちゃいそうだよ。ゴザに座って桜を見ながらお母さんの玉子焼きを食べたんだ、やっぱり美味しかったよ。お母さんに抱きついて思いっきり甘えちゃった。お母さん温かくていい匂いがしたな、私絶対に忘れないよ。ありがとう、それから疑ってごめんなさい」
しゃくりを上げながら頭を下げた。それから僕は亜川美帆を神社の駐車場まで送って行った。月はすでに沈み、空は白み始め、遠くで鶏が朝を告げる声が聞こえる。途中、彼女はお母さんのことを話し続け、僕は口を挟む余地など欠片も無く、ひたすら彼女の話を聞き続けた。駐車場に見慣れないワンボックスカーが停まっていた。中で中年の男性が手を振っている。
「お父さん」
亜川美帆は叫びながら大きく手を振った。
「じゃあ帰るね。宮司さんにお礼を言って欲しいんだけどお願いできる?」
涙の痕は残っていなかった。昇ってきた朝日の透明な光が、彼女の満面の笑顔を照らし出している。
「うん、いいよ。何て言えばいい?」
「夕食美味しかったです。お母さんに逢えました。ありがとうございました」
「何か子どもみたいだね」
「だって私、さっきまで保育園児だったんだよ」
亜川美帆は嬉しそうに手を振り車に走って行った。車に乗り込むとすぐに父親に何か捲し立てている。父親は驚くような顔をして僕を見、ゆっくりと頭を下げ、車を発進させた。車が見えなくなると、風呂の掃除をし、それから夢見の間の掃除をした。
宮司が用意した朝食のおにぎりを庵の縁側で食べていると、どっと疲れがでた。ちょっとだけと横になると、そのままうとうとと眠ってしまい、目が覚めたのは昼過ぎだった。モミジの葉をすり抜けた太陽の光が、僕の顔を照らし、眩しくて目が覚めたのだ。うっすらと額に滲んだ汗を手の甲で拭い立ち上がった。
社務所の戸締りをして、駐車場に向かう途中のことだった。ゆっくりと参道を上ってくる人影に気がついた。親子連れ、母と娘のようだ。娘は僕の少し下ぐらいの年齢に見えるが、母親に手を引かれ、俯き視点が定まらないのか足元がおぼつかなかった。とにかく色白というよりも、生まれてから一度も外へ出たことが無いのではと思えるほど生気が感じられない。娘を気遣っていた母親が僕の気配に気がついたのだろう、顔を上げた。その瞬間、雷に打たれたように身体中に衝撃が走った。心拍数はみるみる上がり、全身から冷たい汗が噴き出し、過呼吸になったように息を吸い続けた。茫然とその場で立ち尽くす僕を気にすることなく、母親は少しだけ頭を下げ、横を通り過ぎていった。身体の中でどす黒いドロドロの澱が一気に膨れ上がり爆発したかのような錯覚を覚え、大声を上げ二人に襲いかかりたい衝動に囚われた。
その時、「こっちです」、と母子に声が掛けられた。いつの間にか宮司が、庵の鍵を持って立っている。僕は肩すかしをくらったみたいに大声を上げるタイミングも二人に襲いかかるタイミングも逃し、ドロドロの澱を身体中に充満させたままたたずんだ。
「すいません、急なお願いをしてしまって」
母親が宮司に頭を下げた。
「どうかお気になさらずに。夢見の間に泊る前に下見をしたいと言われる方は割と多いんですよ。明日でしたよね」
宮司は、柔和な笑みを浮かべ、母子を庵に案内していった。
見間違うはずがない、あいつらだ。『よかったチロちゃんが轢かれなくて』、五年前さっきの母親が言った言葉を思い出し、僕の身体は憎しみで震えた。
帰り道、さっきの親子のことばかりを考え、どこをどう走ってきたのかまったく覚えていない。あの日、事故現場から逃げるように走り去った親子であることに間違いはない。母親はあの時と比べるとずいぶん痩せたように見えるが、魂に刻み込まれたように何度も夢に出てくる顔を見間違えるはずなどない。娘はあの当時、僕と同じ小学生ぐらいだった。病人のような顔つきだったが面影は残っている。憎い、憎い、憎い。ふつふつと湧き上がる恨みつらみを全力で自家発電し続け、身体の中はあの親子への恨み一色になっていた。家に入ると、すぐに祖母が顔をだした。
「おや、お帰り、今日は遅かったね」
祖母の言葉を無視して廊下を踏み鳴らすように走る。呆気にとられたように僕を見る祖母の横を通り抜け階段を駆け上がった。引戸を乱暴に開け部屋に入り、机の引き出しから木箱を取り出す。「母さん、やっと見つけたよ」、呟きながら蓋を開け、果物ナイフをジーンズの後ろポケットに捻じ込み階段を駆け下りた。すぐ目の前に廊下を塞ぐように祖母が立っていた。
「どこに行くつもりだ。何があった?」
「何でもいいだろ」
祖母は急いで横を通り抜けようとする僕を通せんぼするように立ちふさがった。
「いいわけないだろう。アルバイトで何かあったのか?酷い顔してる」
ここを一歩も通さんぞ、とでも言わんばかりの勢いで言う。僕はどんな顔をしていたのだろうか。黒いドロドロの澱はあの親子に会った今、マグマのような憎しみに変わっていた。
「やっと見つけたんだ」
囁くよう言った。
「見つけたって、何をだ?」
祖母は得体の知れない生き物でも見るような目で僕を見ている。
「母さんと僕が車で轢かれる原因をつくった親子だよ、あの糞犬の飼い主だよ」
叫ぶように声を上げた。
「春木、何を言ってんだい、そんな親子や犬はいないんだよ。おまえは車に轢かれて生死をさまよっていたんだ。だから幻覚を見ただけなんだ。あれは不幸な事故なんだよ、もういい加減わかっておくれよ」
祖母の顔が歪む。
「幻覚なんかじゃない。この目ではっきり見たんだ。その親子を今日見たんだよ」
「見たって、おまえ何を言ってるんだ」
「神社に来たんだよ。話をしたわけじゃ無いけど、絶対あいつらだ。まだ神社にいるかもしれない。復讐してやる、死んだ母さんの恨みを晴らすんだ」
どうしようもなかった。憎しみだけが先行し、感情のまま声を張り上げた。後ろポケットから取り出したナイフの刃を開く。銀色の刃が鈍く光る。祖母が目を見開いて叫んだ。
「なんてことを言うんだ。おまえ一体、それで何をするつもりなんだ」
答えない僕を見て、ナイフを取り上げようと祖母は掴みかかってきた。僕はあしらうように祖母の手を振りほどく。何度あしらわれても祖母は掴みかかってくる。もみ合ううちに、僕は廊下で足を滑らせ転倒してしまった。ナイフが廊下を転がる。祖母はすかさず拾い上げ前掛けのポケットに入れると、転んでいる僕にのしかかった。
「このバカたれが」
涙をぽろぽろ流しながら拳とも平手ともつかないもので僕の顔を打ちつける、小さな子どもが駄々をこね暴れるようにただ無茶苦茶に手を振り回す、何度も何度も僕を殴りつける。祖母の拳は、あの不良高校生や明美さんの拳とは比べ物にならないほど軽く弱々しかった。だけどその軽さが、弱々しさが、ずっしりと心に響いてくる、のしかかってくる。祖母は手を振り回すのを止め、Tシャツの襟首を両手で掴み鬼気迫る顔で言った。
「誓え、誓え、何もしないと誓え。誓えないのなら、ばあちゃんはこのナイフを喉に突き刺して死ぬ」
涙で声が震えている。祖母は襟首から手を放しナイフを両手で掴み、自分の喉に突きつけた。涙で濡れた目は真摯な光を帯びている。もし僕がノーと言おうものなら間違いなくナイフを突き立てるだろう。
「卑怯だよ、そんなの」
涙が溢れ目尻を伝う。
「復讐だなんてバカなことを考えるんじゃない」
「どうしてだよ。母さんは、ばあちゃんの一人娘だったんだろ。母さんが死んだのはあいつらのせいなんだ。悔しくないのかよ、恨みを晴らしたくないのかよ。あいつら今までのうのうと生きてきたんだよ」
「この大バカ者、いい加減に目を覚ませ。たしかに陽子は、ばあちゃんのたった一人の娘だ。そして春木は、たった一人の孫だ。もしお前の言うことが本当だったら、ばあちゃんもその親子を憎んだかもしれない。でもな、おまえが言っていることを裏付けるものなんて何も無いんだよ。あの時、おまえと陽子は車にはねられ、救急車が来るまで舗道で意識も無く血まみれで倒れていたんだよ。おまえは瀕死の重傷だったんだよ。だからおまえの言う親子なんて見ることができるはずないんだよ」
必死な眼差しで僕の顔を覗き込む。
「ばあちゃんの言っていることわかるよな」
懇願するように、縋るように祖母は言う。だけど、だけど、僕は見たんだ。唇を噛み、仇のように祖母を睨んだ。
「もしもおまえが今日見たという人に何かしたら、おまえは犯罪者だとか頭のおかしい人間とかいうレッテルを張られて刑務所か少年院か病院に入れられちゃうんだよ。後生だから、後生だから、ばあちゃんにそんな悲しい思いをさせないでおくれよ。陽子を失って、春木までそんなことになったら、ばあちゃん生きて行けないよ」
祖母はナイフ持つ手をだらりと下げ、うなだれるように言った。
「わかったよ」
祖母から顔を背けぽつりと言う。祖母は何度も小さく頷き、ふらふらとナイフを持ったまま立ち上がった。
「わかったから。でもそのナイフだけは返してよ。そのナイフは、その果物ナイフは、母さんの、死んだ母さんの形見なんだ」
涙を流しながら訴える。祖母は驚いた顔をして手に持つ果物ナイフをじっと見た。
「だったら、尚更大切に扱わないといかん」
そう言いながらゆっくりと刃をたたみ僕に手渡すと、そのまま台所に引っ込んでしまった。僕は階段を上がりベッドに倒れ込んだ。わかったよ、とは言ったが納得はしていない、どうしても呑み込むことができない。何でわかってくれないんだよ、僕は本当に見たんだ、絶対にあの親子だ。あの時、宮司が声をかけなければ、僕はあのまま二人に襲い掛かっていた。そうすれば恨みを晴らすことまではできなくても、少しは気が晴れたかもしれない。
でもまだチャンスはある。恐らく明日、何を望んでなのかはわからないが、あの母子のどちらかが夢見の間に泊るのだろう。恨みを晴らす絶好の機会だ。どんな方法でもいい、暗黒の底なし沼に身を投じることになってしまってもいい、母の恨みさえ晴らせれば。
マグマのような憎しみとどこに潜んでいたのかわからない凶暴性が牙をむく。
でも祖母に殴られた顔が痛む。もし万が一、万に一つでも祖母が言うように僕が見たのが幻覚なのであれば取り返しのつかないことになる。憎しみに支配された頭の片隅を理性が揺さぶる。
でも何年探し続けたんだ、やっと見つけたんだ、今、恨みを晴らす絶好の機会が訪れている、絶対にあいつらだ、恨みを晴らせ。マグマのような憎しみが声を上げる。
頭の中は気が狂いそうなほどぐちゃぐちゃで、身体がガタガタ震え吐きそうだった。今にも怒りや憎しみ、そして祖母の言葉に押しつぶされてしまいそうになる、わけがわからなくなる、気が狂いそうになる。母さん、助けて・・・。
池に行く、もうそれ以外に自分の正気を取り戻す方法が思い浮かばなかった。祖母の制止を振り切り図書館に行くとだけ言い、家を飛び出した。
駐輪場に自転車を停め、足早に池に向かった。遊歩道を通り抜けると池と休憩所が見えてきた。辺りに人の気配は無く、池には多くの水鳥がいた。
ベンチに座り、折りたたんだままの果物ナイフをテーブルに置いた。心を落ち着けようと目を閉じる。池で遊ぶ水鳥の鳴き声が鼓膜を揺らし、頬を撫ぜる風が母との思い出を呼び覚ます。
でもすぐに濁流のようにあの母子の顔が割り込んでくる。振り払っても振り払っても襲ってくる。たまらず目を開けた。楽しそうに泳ぐ何羽もの水鳥が目に映る。わけがわからず憎しみが爆発する。衝動的に近くに転がっていたこぶしほどの石を拾い上げ、池の水鳥めがけて投げた。放物線を描くように石は飛んでいき、水鳥から数メートル離れた水面に落ちた。
ザブン、という音とともに水飛沫が上がる。跳ね上がった水飛沫に驚いたのだろう、バサバサという羽音とともに近くにいた水鳥が一斉に飛び立った。すぐに別の石をひろい上げ、また水鳥めがけて投げた。ザブンという音と同時に数羽の水鳥が飛び立つ。また拾い、投げる。いつの間にか池に水鳥は一羽もいなくなっていた。
「何しとんのや」
突然声が聞こえたかと思ったら、襟首を掴まれ振り向いた顔に平手が二発飛んできた。一発目は右の頬、二発目は左。パンパンと乾いた音が辺りに響いた。いきなりの早業に顔をかばう間もなく殴られ、握った石が手から滑り落ちた。それでも僕の両の目は今殴られたことを忘れてしまったかのように驚きと喜びで見開かれていた。
「明美さん」
「このどあほが。高校生のくせに悪ガキ中学生みたいな真似するんやないわ」
もう一発右の頬に平手が飛んできた。
「どうしてここに?」
明美さんに逢えたことがただただ嬉しかった。
「今日、久しぶりに休みが取れて、図書館にきたんや。たまたま窓の外に早足で歩くおまえを見つけて、急いで後を追ってきたんや。みっともないことするんやないわ」
わけもわからず涙が出て、堪えようがなかった、どうしようもなかった。僕を怒鳴りつける明美さんが嬉しかった。厳しい言葉の裏側に隠れている明美さんの優しさが、どうしようもなく僕の心を震わせた。涙がとめどなく溢れだした。
「泣いて誤魔化しても無駄や。うちにはそんな手は通用せーへんで。うちが近づくのも気がつかんと夢中で石を投げとったな。相手は小さな水鳥やで。ノーコンのお前が投げた石でももし当たったら死んでまうわ。おでこ出してみい」
明美さんは言い終わる前に、僕の帽子を掴み取っていた。僕は明美さんが何をしたいのかわからず、マネキン人形のように突っ立っていた。
「おでこを出せと言うとるやろ!」
明美さんの剣幕に圧倒され、言われるがまま左手で前髪を掻き上げた。額の古傷が露出する。
動くんや無いでと言いながら、明美さんはげんこつで僕の額を殴った。祖母とは比べ物にならない強烈な一撃。あまりの痛みに思わずその場で蹲ってしまった。ズキンズキンと脈打つようにおでこが疼く。
「どや、痛いやろ。鳥はもっと痛いんやで」
明美さんは頭を抱えるようにしている僕に言った後で、思い出したように付け加えた。
「何やその額の傷、古傷やな、どないし……」
「相川君」
突然、亜川美帆が明美さんを押しのけるように駆け寄ってきた。
「誰や、あんた」
明美さんは怒ることも無く突然の乱入者を驚いたように見ている。
「どうしたの。大丈夫?」
亜川美帆は明美さんを無視するように、頭を抱えるように立ち上がった僕を気遣った。
「おたく誰やって聞いとるんや」
無視されたとでも思ったのか明美さんにしては珍しく苛立ったような口調だ。亜川美帆は腐った卵を見るような目で、明美さんを一瞥した。
「おでこ真っ赤だよ。あの女にやられたんだね」
すぐに僕を見て言った。
「あんたええ加減にしいや。春木君、誰やこいつ」
埒があかないと思ったのか、明美さんは亜川美帆を押しのけ僕に聞いてきた。でも僕が答える前に、亜川美帆は明美さんを睨むように口を挟んだ。
「私は亜川美帆って名前があるんだよ。相川君の同級生で、私たち付き合ってるんだよ。相川君、この変な女、だれ?」
「同級生?付き合うとる?ほー、春木くーん、うちその話初耳やで」
二人揃って顔を向けた。僕は迂闊にも亜川美帆の発言を否定するタイミングを失し、今さら否定も肯定もできず、ただおろおろする僕を見る亜川美帆の顔は紅潮し、私たちラブラブよねとでも言わんばかりの彼女の視線は熱く僕を捉えていた。かたや明美さんの色白の肌は、雪女を思わせるほど白さを増し、カミソリのように細めた目は結婚詐欺犯を捕まえた被害女性の会の会長のようにこの男どないしてくれようと舌なめずりして氷のように冷たく僕を見ている、としか思えなかった。
「ところで変な女って誰のことや」
明美さんは怒ったように亜川美帆のTシャツの襟元を掴んだ。
「ちょっと待って、明美さん」
僕は明美さんを制しようと叫んだ。すぐに亜川美帆が反応した。
「明美って……。相川君、この女ね、君を利用して神社で働かせている女は」
「人聞きの悪いこと言わんでくれるか。うちは車の修理代を弁償してもらっとるだけや」
明美さんは手を離した。
「何が修理代よ。本当は相川君が世間知らずなのをいいことに、あなたの方からわざと相川君の自転車に車をぶつけたんじゃないの?」
話が一気にきな臭いほうへと流れて行く。嫌な予感しかしない。僕は真剣にこの場から逃げ出したくなった。
「はあ、何を言っとるんや。車に傷がついたのは、春木君がうちの車の上にラブレターを置いたからや」
「相川君はあなたにラブレターなんて書いていません、だから当然、渡してもいません」
夜市でブランド物のシャツを売る怪しげな業者のように、亜川美帆は自信を持って言い切った。
「ね、そうでしょ」
何してんの、相川君、君も言いなさいよ、とけしかけるように僕を見ている。その瞳には一点の曇りも揺らぎも無い。すでに僕はポンコツと化し、頭の中は壊れたブラウン管テレビのように真っ白で何も考えられず、ただ駄菓子屋に飾ってある開運首振り虎人形のように何度も首を縦に振ることしかできなかった。でも僕の目が泳いでいるのを明美さんは見逃さなかった。一瞬重なった目線に浮かぶ彼女の顔はにたっと口角を上げていた。
「でもな、うちほんまにラブレター貰ったんやで。それもな、あんな情熱的なラッブレター初めてやったんや。もうハートを鷲掴みされてもうたわ」
オーバーなジェスチャーで胸を抱き、明美さんは勝ち誇ったように亜川美帆を見、そしてゆっくりと僕に顔を向けた。
「ねえ、どういうこと?この女、嘘言っているよね。だって相川君この間、この女のこと私に言ったよね。化粧で上手く誤魔化しているだけでたいしたことない。それによく見ると肌はボロボロのかさかさ、おまけに十歳も年が離れたおばさんだよ、恋愛の対象にすらならないよって鼻で笑ってたよね」
僕はそこまで言っていないし鼻で笑ってなどいない、どうか黙って亜川美帆、これ以上しゃべらないで。僕は心の中で手を合わせた。だが時はすでに遅かった。明美さんの目尻がピクピク引き攣っているのが見えた。
「ようもまあ、うちがおらんところで好き勝手なことを言うてくれとるな」
明美さんは眉間に皺を寄せ呆れた顔をして僕を睨んでいる。てっきり左手が飛んでくるものと覚悟を決めていただけに、予想外の反応にほっとしたが、世の中そんなに甘くない。
「うちな、春木君のファーストキッスの相手なんやで」
ちゅどーん、と頭の奥で爆発が起こり心臓が止まった、気がした。
満を持しての爆弾発言だ。明美さんは亜川美帆に向かい、自慢げにニタっと下品な笑みを浮かべ、ペロっと唇を舐めた。キスでなく、キッスというのがイヤらしい。終わった、何もかも……、僕は真っ白な灰になった。
「ええー」、亜川美帆は目をまん丸に見開き、呆然と僕を見て言った。
「嘘、ついてたの?」
「それもな、濃厚なのを、ブッチューとや」
とどめの一撃。
明美さんは鬼だ。ここぞとばかり死者を鞭うつように平気な顔をして嘘を捻じ込んでくる。しかも今度は濃厚に加えブッチューときた。すでに僕にはそれを否定する気力などミジンコほどにも残っていない。
「濃厚?あんな年増に興味は無いって言ったのに……、私をベッドに押し倒したのに……」
亜川美帆はわなわなと震えている。だからー、僕はそんなことは言っていないしやっていない、もうしゃべるな亜川美帆。頭の中で大絶叫するが、彼女の口にチャックができるはずもなく、発した言葉が口に戻ることもない。
「あんな年増?ベッドに押し倒した?」
とげとげしい明美さんの声と冷たい視線に心臓が止まりそうだ。背筋を冷たい汗がぞわぞわとなめくじのように這っている。
僕を見る明美さんの眉間の皺がさっきよりも深くなり、両の目はきれっきれのカミソリよりもずっと細くなったように見えた。一瞬訪れた沈黙に世界から物音が消えうせ、ただオロオロするばかりの僕が固唾を飲む音だけが、ごくりと世界中に響き渡った気がした。でも静寂は、無情にもすぐに打ち破られ、最後の審判が下された。
「この女たらし」
「この女たらし」
世の中、上手くできている。明美さんは左利き、亜川美帆は右利きだ。左の耳と右の耳で二人の声がシンクロした途端、僕の両の頬は同時に引っ叩かれていた。バッチーンと、くぐもった音が池に響き渡る。
「ひでぶ」
僕の口から丸めた新聞紙で叩き潰されたゴキブリの断末魔のような声が漏れた。
「ところで美帆さんは何でここに来たんや」
明美さんが言った。さっきまでとは打って変わり、二人はすっかり仲良くなっている。二人して僕を引っ叩いたあの瞬間、心が通じ合ったのかもしれない。僕と明美さん、そして亜川美帆は、三人並んでベンチに座っていた。池にはいつの間にか数羽の水鳥が戻っている。亜川美帆はちらっと僕を見て得意そうに口を開いた。
「実は今日、相川君のおばあさんからすごく慌てた口調で電話があったんだ。相川君が血相変えて図書館に行くと言って家を飛び出したって言うんだよ。もしかしたら何かしでかすかもしれない、止めて欲しいってね。それで急いで公園にきたんだ。でもどこを探せばいいのかわからず途方に暮れていた時、相川君に初めてここで会った日、池のほうから歩いてきたことを思い出したんだ。それでここを見つけたんだよ。私ね、おばあさんからすっごく頼りにされているんだよね」
もう一度僕を見て嬉しそうな顔をした。
「なあ春木君、何があったんや。何であんなことをしとったんや」
明美さんは亜川美帆の話に微笑みながら顔を向けた。穏やかな表情だった。冷静になればなるほど、またあのマグマのような憎しみが頭をもたげてくる。僕は前髪を掻き上げた。額の古傷が顔を出す。
「母が亡くなり、僕の額にこの傷をつけた事故の引き金となった家族を見つけたんだ」
感情がまた昂ぶってくるのがわかる。気持ちを落ち着けるようにゆっくりと、母と過ごしたこの池のほとりの休憩所のこと、事故のこと、体外離脱して見たことを話した。
「その家族が今日、神社にきたんだよ。仕返ししたいのに、傷が疼くのに、ばあちゃんはどう言っても僕の話を信じてくれないんだ。そりゃそうだよね、体外離脱なんて誰も信じてくれないよね。だからもうどうしたらいいのかわからなくてここにきたんだ。心を落ち着かせようとしてもどうしようもなくて、衝動的に石を手にしてしまったんだ」
気持ちを落ち着けようとしても、溢れるように流れ出る涙がそれを許さなかった。身体中に憎しみが充満してくる、今にも堰を切って溢れ出しそうになる。母の形見の果物ナイフを握りしめ、俯き、やり場の無い怒りで身体を震わせる僕を、明美さんはそっと抱きしめてくれた。
「二人とも今から神社へ行かへんか。まだ叔父さん神社におるやろ」
「叔父さんって誰ですか」
亜川美帆の声が聞こえる。
「宮司と言えば美帆さんもわかるやろ。春木君が今日見た親子の娘の方が、明日夢見の間に泊まるんや。叔父さんなら何か知っとるかもしれんでな」
明美さんはそう言いながら僕の背をぽんぽんと叩いた。
「そろそろ顔を上げたらどうや。美帆さんの貧乳より、うちのダイナマイトおっぱいの方がええのはわかる。でも、うちは嫁入り前の箱入り娘や。いつまでも男の子をこうして抱いとるわけにはいかんのや」
明美さんはいい匂いがした。亡くなった母と同じ匂いだった。僕はやっと気がついた。明美さんが僕を通して亡くなった弟を見ていたように、僕は明美さんを通して亡くなった母を見ていたことに。そしてそれは恋愛感情ではなく、年上の女性への憧れに過ぎないということに。顔を上げた僕の目に、たこ焼きのように頬を膨らませた亜川美帆が映った。
「あっ、きれいな鳥」
休憩所を後にしようとベンチから立ち上がった時、亜川美帆が声を上げた。見ると池の水面近くに沿って小さな鳥が飛んでいくのが見える。陽光を反射し宝石のように青く輝いている。
「カワセミやな」
「あれがカワセミ……。きれいな鳥ですね」
「うん。幸せを運んでくる青い鳥や」
明美さんはにっこり微笑んだ。
神社に向かう車の中で僕は不安な気持ちに包まれていた。もし、まだあの親子がいたら、自分を抑えることができるだろうかと。そんな気持ちを察したのかもしれない、亜川美帆はそっと僕の手を握った。
「後ろでいちゃつくんやないで」
すかさず、明美さんの声がした。ルームミラーから、優しい笑顔の明美さんが僕たちを睨んでいる。亜川美帆はペロっと舌を出し手を引っ込めた。
幸い神社駐車場には白い軽自動車が一台停まっているだけだった。縁側に座っていた宮司は、ぞろぞろとやってきた僕たちを見て少し驚いたような顔をしたが、予期していたのかもしれない、すぐに柔和な笑みを顔に浮かべた。
「亜川さんまでいるのか。今日は賑やかな日だな。そんなところに立っていないで、みんな上にあがりなさい」
「叔父さん、今日みんなできたんわな……」
宮司は僕たちの前に座りながら明美さんを制するように言った。
「用件はわかっているよ。今日神社へきた親子のことだろ。まあ座りなさい」
ピクっと少しだけ反応した僕を宮司は見逃さなかった。
「相川君から事故の話を聞いた時、もしやと思ったんだが……。今日、あの親子を見た君の身体から明美の言う負のオーラが見えたよ。霊感の無い私に見えたんだから並大抵のものでは無かったのだろう。見覚えのある顔、だったんだな?」
正面に座った僕に向かって宮司は言った。さっきまでの柔和な笑みは消えていた。何も言わずただ首を縦に振り、宮司の顔をじっと見つめた。
「今日来た親子はな、私の旧知の友人からの紹介なんだよ。むしろ依頼というほうがいいのかもしれない。友人は心療内科・精神科の病院を経営しているのだが、今日来た娘のほうが精神疾患でその病院に入院しているんだ。彼女の治療に協力して欲しいというんだよ。友人が言うには彼女が心を病んだ原因は彼女が小学校四年の時、目の前で起こった交通事故にあるそうだ。親子三人で子犬の散歩中、些細なことが原因で両親が喧嘩を始めたらしい。彼女は喧嘩を止めようとして子犬のリードを手放してしまったんだ。子犬はそのまま道路に飛び出し、子犬を避けようとした車が舗道に突っ込み、歩いていた母子を轢いてしまったそうだ」
「それってやっぱり……」
亜川美帆はそこで言葉を切り、確かめるように僕を見た。宮司は何も言わない僕を見てそのまま話を続けた。
「夫婦は喧嘩をしていて、子犬が道路に飛び出したところも、子犬を避けようとした車が舗道に突っ込んだところも見ていないそうだ。車の運転手は母子を轢き、そのままビルに突っ込み亡くなっている。事故の真相を知っているのは彼女だけだったんだ。事の重大さは子ども心にもわかり、彼女は良心の呵責に耐えられなくなったんだ。この話を思い切って両親に打ち明けたのだが父親も母親も彼女の言葉を信じようとしないどころか一切口にするな、誰にも言うな、と口止めされたようだ。それは当然だろう、人がひとり亡くなった事故の原因が、飼い犬にあったなんて認められるわけがない。結果、彼女は心を病み、学校にも行かず家に引き籠るようになった。彼女の顔から表情が無くなり、挙句の果て自傷行為を繰り返しとうとう自殺未遂をやらかした。それで今は友人の病院に入院している、という訳だ」
「それが何だって言うんですか」
僕はつい声を荒げてしまった。
「心の病気?自殺未遂?ふざけんじゃない。僕の母はその子犬の身代わりで死んだんだ。あの女の子が病気になったのは親が悪いだけじゃないですか。あの母親は事故現場から逃げながら、僕や母が車に轢かれたにもかかわらず、子犬が轢かれなくてよかった、って言ったんですよ、本当は全部わかっていたのに違いないんだ」
また気持ちが昂ってくる、憎しみが増大してくる。
「子犬が道路の真ん中をウロウロしていたんだ。純粋に文字通り、車に轢かれなくてよかった、と言っただけなのではないのかな。私はそう思う」
「宮司さんは誰の味方なんだ。あんな家族の肩を持つって言うんですか」
むっとして立ち上がった僕に、すかさず明美さんが厳しい声をかけてきた。
「まだ叔父さんの話の途中や、出て行くんは、終わってからにしい」
明美さんの言葉にぐっと気持ちを抑え、僕はその場で固まるように宮司を睨んだ。
「私は誰かの味方でも、敵でも無いよ。一介のちっぽけな神社の宮司に過ぎない。でもここにはどこの神社にも無い、夢見の間が、獏の置物があるんだよ。満月の三日間だけ起こる不思議な現象。誰かを幸せにすることも無ければ不幸にすることも無い、過去も現在も何も変わらない。ただ、あの部屋で夢を見た人間だけが救われるんだよ。私は救いを求めてくる人間に手を差し伸べたいだけだよ」
宮司は見下ろすように立っている僕に向かって言った。穏やかな目をしていた。その時誰かが僕の手を掴んだ。亜川美帆だった。
「相川君、宮司さんの言う通りだよ。座ろうよ」
亜川美帆は手を引っ張り、懇願するように言った。
「私も二度と逢えないと思っていたお母さんに逢えて本当に嬉しかったんだよ。もうこの先どんな辛いことがあってもきっと頑張れる、そう自信を持てたんだ。相川君にも宮司さんにも本当に感謝しているんだよ。だから、ね、お願い」
今朝、感極まったようにしゃくりを上げながらボロボロと大粒の涙を流していた顔、そして朝日を浴び、輝いていた満面の笑顔を思い出した。
「わかったよ」
それだけ言い、その場に胡坐をかいて座った僕を見て、宮司は頷き、微笑んだ。
「話を戻そう。その友人の病院に入院している女の子だが、病院であらゆる手をつくして治療をしたらしいのだが、一向に改善の兆しが見られないそうだ。理由は簡単だ、彼女が見た事故の光景があまりにも凄惨だったということだ。友人は言ったよ、小学生の女の子が車に撥ね飛ばされる母子を見たんだよ、しかもきっかけを作ったのは自分だ、この母子の記憶が無くならない限り彼女が快方に向かうことはないだろうとね」
僕は俯き、両手で膝をかきむしった。亜川美帆は手で口を抑え、涙を滲ませた瞳で僕を見た。
「友人が私に依頼したのはこうだ。彼女を夢見の間で事故があった日に戻して欲しい、そしてそこで彼女に、夫婦喧嘩以外に何もない、子犬が道路に飛び出すことも無い、いつも通りの散歩をする、という夢を見させて欲しいということだ。彼女が望めば友人が言うとおりの夢をみることはできるだろう。だが夢見の間でいくら夢を見ても記憶はすり替わらない。そこで友人は催眠療法を行うと言う。夫婦喧嘩以外何も無かった子犬との散歩を夢で彼女に体験させ、すかさず催眠術で記憶をすり替えるというものだ。倫理上の問題があるかもしれないがもうこれしかないと、友人のたっての依頼なんだよ」
「それって、その女の子の記憶の中から相川君とお母さんを消してしまう、事故が無かったことにする、ということですか」
亜川美帆は驚くように宮司を見、そして僕を見た。
「そうだ」
「ふざけんな!」
僕は言葉より早く宮司に掴みかかった。自制心などまったく働かなかった、というより理性や自制心が心に入り込む隙間など無かった。治療の為に事実を捻じ曲げ、母や僕を交通事故に遭わせた記憶を消し去る、そんな都合のいいことなど許せるはずなどない。母の命はそこまで軽いのか。
「宮司さんはそれを許すんですか、そんな話に協力するんですか」
僕は宮司の襟首を締め上げるように掴んだ。
「病人に何するんや」
すかさず明美さんが後ろからTシャツの襟首を掴み、僕を畳に引き倒した。すぐに起き上がろうとする僕に強烈な平手を見舞い、そのままマウントを取った。今日の明美さんは容赦が無かった。どあほ、と言いながら五、六発の強烈な平手を食らわしたのだ。為す術も無く僕は殴られ続けた。悔しくて悔しくて涙が出てきた。殴られたことでは無い、母の死がよってたかって軽んじられるのが悔しかったのだ。
「やめて」
亜川美帆が明美さんにしがみついた。
「自分のことしか考えれんような奴は、こうするしか無いんや」
明美さんは亜川美帆を振り払い、僕を抑え込んだまま、鬼のような形相で言った。
「女の子がリードを放したのは、交通事故を起こそうとしたわけでも、春木君や春木君のお母さんを事故に遭わそうとしたわけでもない、ただ、夫婦喧嘩を止めようとしただけや。それが有り得んような間の悪さで大事故になってしまったんや。女の子にその責任を問うのはどう考えても酷や、いや、そもそも間違うとる。春木君がお母さんを大事なのはようわかる、だけどな、お母さんは亡くなったんや、もうおらんのや、亡くなった人を救うことは誰にもできん、だけどな、生きとる人間なら救うことができるんや、大事なんは今苦しんでいる人間を救うことなんや、なんでそれがわからんのや、この大たわけが」
明美さんはまた手を大きく振り上げた。亜川美帆がまたしがみつく。僕は目を閉じた。殴られるからではない、明美さんの言葉を考えた。確かに女の子に罪を問うのは酷かもしれない。むしろ女の子も被害者なのだろう。そして女の子の記憶から母が消えることで女の子の病気が治るのなら、母は本望ではないか。夢見の間で僕や誰かがどんな夢を見ても、どれだけあがいても母は生き返ることなどできないのだから。母は僕と祖母の心の中でずっと生き続けているのだから……。
明美さんは振り上げた手をそっと下ろした。
「わかってくれたか」
目を開いた僕を見る明美さんはいつもの優しい顔に戻っていた。母が亡くなった日、日傘の下で見た母の目を思い出した。
「どうして」
明美さんにしがみついていた亜川美帆は、ほっとするように言った。
「オーラが、負のオーラが消えたんや」
宮司は力強く頷き、これ以上は無いと思えるほどのしわくちゃな笑顔を見せた。
「堪忍な、乱暴にして」
明美さんは手を握り、僕を引き起こした。柔らかくて温かい手だった。
「今日はよう泣いたな。春木君はやっぱり泣き虫やな」
僕を覗き込むように見る明美さんの目は涙で潤んでいた。
「相川君、君には辛い思いをさせるかもしれないが堪えてくれ」
宮司は頭を下げた。
「春木を信じとる」
次の日昼食を取った後、朝からずっと黙っていた祖母がひと言だけ言った。
今日、あの親子がくる。あの女の子の両親は事故後離婚し、あの街を離れたそうだ。憑りつかれたようにあの街を彷徨ったことが思い出され、虚しさだけがすきま風のように心を撫でていく。
五年前の事故は僕の家庭だけでなく、あの親子の家庭をも崩壊させていた。僕はあの親子や子犬をずっと憎み続けて生きてきた。時には池のほとりの休憩所で母の思い出に浸ることで心の平衡を保ってきた。でもあの女の子は、自分が引き起こしてしまった事故の責任をどこにも転嫁できず、良心の呵責に苛まされ続け、ついには自傷行為でしか心の平衡を保つことができなくなったのだ。女の子に同情しないわけではない、でもあの親子への恨みが無くなったわけでもない。同情、恨み、哀れみ、憎しみ、拭いとることのできない相反する感情を抱えたまま、僕は神社に向かった。
駐車場には明美さんの青いスポーツカーが停まっていた。庵を覗くとすでに明美さんは巫女装束に着替え、縁側に座っている。僕に気がつくとにっこり微笑み立ち上がった。
「何やまた陰気臭い顔しとるな。気持ちはわからんでもないが、大事なことを忘れておらんやろな」
「忘れていませんよ。今苦しんでいる人を救う、その通りだと思います」
いつまでぐじぐじしとるんや、と明美さんに言われそうで、そう言われるのが嫌で、葛藤を悟られないよう平静を装った。
「違う」
明美さんは言下に否定した。
予期せぬ言葉にきょとんとしている僕に向かって、明美さんは続けて言った。
「十万円や。きっちり弁償してもらわんといかんのや。うちはな、びた一文まける気は無い。せやからな、しっかり働いてもらうで。忘れとらんやろな」
あらためて僕を言い包めるかのように言う。
「わかってますよ」
呆れて答えた。
「一回一万円やで」
「だからわかってますって」
「ならええ。春木君の仕事はな、夢見の間に泊まる客をもてなすことや。それできっちり一回一万円や、さぼるんやないで」
「だからわかってるって言ってるじゃないですか。昨日は散々殴られましたから」
僕は可笑しくなってきて嫌味のように言ってみた。
「愛のムチや」
真面目な顔で明美さんは言う。でも昨日の明美さんの平手は痛くなかった、むしろ温かく感じられたぐらいだった。
「明美さん」
「何や」
名前を呼んだだけの僕を訝しげに見た。
「僕は亡くなった弟さんにそんなに似ているんですか」
一度聞いてみたかった、明美さんの裸の心に触れてみたかった。明美さんは驚いたような顔をして僕を見た。眼差しが小刻みに震えている。明美さんの瞳に困惑の色が浮かぶのを僕は初めて見た。
「叔父さんに聞いたんか」
「すいません」
「似とらんな。弟はもっとええ男や。それに、エロガキでも女たらしでも、ましてやむっつりドスケベでも、ストーカー野郎でも無かった」
「あーもういいです。ひっどいなあ」
慌てて言う僕を見て、明美さんは声を出して笑った。
掃除を終えた頃、宮司が庵にきた。少し浮かない顔をしている。
「どうかしたんですか」
「私が病院を一時退院しているのは知っているよな。明日病院に戻らないといけないんだ」
「随分急な話ですね」
「でもまあ私の代わりを務めていた氏子が来月あたり復帰できそうだから、ここの仕事は心配しなくてもいいかもしれない。相川君にお手伝いを頼むのは今日で終りになるかもしれないな」
今日で終わり?一瞬頭の中が真っ白になった。
「そうですか」
動揺を隠すように答え、風呂の準備にむかった。何も考えたくない、一心不乱に汗だくになりながら水を運ぶ。ふき出す汗が流してくれたかのように宮司の言葉も今日これからくる親子のこともいつの間にか頭の中から抜け落ちていた。黙々と井戸と風呂小屋を往復し、あと少しで風呂桶に水が溜まるという頃、参道を歩いてくる親子に気がついた。決して忘れることのないあの母子だ。足取りのおぼつかない娘の手を母親が引いている。
僕は現実に引き戻されることを拒絶するかのように二人に気がつかない振りをしていた。それでも砂利を踏みしめる微かな音がどんどん近づく、どうしようもない現実が、現実のほうから僕に近づいてくる。二人を拒絶するように顔を伏せ、バケツに溜まる水を見ている僕の前で足音が止まった。
「ここの方ですか」
母親から声を掛けられた。お通夜にきた弔問客のような小さな声だった。無視するわけにはいかない、でも僕はどんな顔をすればいいのか。床にぶちまけた福笑いのピースを探す気分だった。ゆっくりと顔を上げた僕の前にいたのは、夢で何度も何度も見た顔だった。ただ、今その顔はやつれ、娘の看護に疲れ果て、将来に希望を持つことを諦めた顔をしていた。
「はい」
僕はまだ憎しみがくすぶる心に能面を被り感情のこもらない声で言った。返事を聞いた母親は、後ろに立っている女の子に合図をした。
「よ、よろしくお願いします」
蚊の鳴くような微かな声が聞こえた。冷たい湖の底から引き揚げられた水死体のように、顔に何の表情も浮かんでおらず、光を失くした二つの目は何を見ているのかわからないほど虚ろだった。女の子はまた母親に手を引かれ、社務所に歩いて行った。
風呂が焚きあがり、日が西の空に傾いた頃、庵で紺色の作務衣に着替えた女の子が母親に手を引かれ風呂小屋にきた。僕はいつも通りの説明をして風呂小屋の前で待機した。たまに湯を流すバシャバシャという音が聞こえるだけで会話らしい声は聞こえてこない。すぐに二人外に出てきたけれど、煤けたロウのような不健康な女の子の顔は、風呂で上気したせいなのか、それとも夕日を浴びているせいなのか朱色に染まって見えた。五年前血まみれになった母の顔が思い出され、感情が顔に出てしまいそうで慌てて目を逸らした。母親は女の子を庵に連れていくと、すぐに引き返してきた。
「朝、また来ます」
会釈して通り過ぎて行った。
その目には何の期待も希望も浮かんでいなかった。あの母子が今まで散々行ってきた治療はそのどれもが功を奏さず、ただ紹介されるまま惰性でここに辿り着いたのだろう。ここで女の子がすることは獏の置物に願い、ただ眠るだけなのだ。何かが起きるなどという期待や希望を持つことなどあるはずないだろう。母親の姿は参道に消えていった。振り返ると林の間からまん丸の月が顔を見せていた。
僕は急いで篝火を二つ焚き、月を見ながら宮司と明美さんが外へ出てくるのを待っていた。二人が帰ってしまえば残るのは僕と女の子だけになる。不安な気持ちが頭をもたげる、手足が生えたかのようにごそごそと動き始める。病人のような女の子ひとり何とでもなる、恨みを晴らすには絶好の機会だ、僕は自分を抑えられるだろうか、突如牙をむく凶暴性に立ち向かい、食い止めることができるだろうか、と。
一方で、くすぶったはずのマグマのような憎しみに身を任す快感が脳裏を過ぎる。またわけがわからなくなってくる気がして、いっそこのまま時よ進まないでくれ、と願ってしまう。それでも月は少しずつ天高く昇っていく。夜は深くなっていく。
とっくにどちらかが出てきてもいいはずなのに一向に誰も出てこない。そっと中を窺うと、夢見の間の前で明美さんが女の子を後ろから抱きかかえている姿が見えた。白い巫女装束が篝火の薄明りに浮かび上がっている。宮司は女の子の足を押えていた。
「どうしたんですか」
慌てて二人のもとに這うように近づいた。
「ああ、相川君いいところにきてくれた。彼女が発作を起こしたんだ。夢見の間に入ろうとした時、いきなりだ。突然暴れ出したんだ。どこにこんな力があるのか。とにかく救急車を呼ぶから私と代わってくれないか」
少し早口で宮司は言った。想定外の出来事に困惑しているようだった。
「救急車やて。叔父さんそれはあかん。今日の計画がパーになってまうがな」
「仕方が無いだろ。発作のことは何も聞いていない以上、素人判断をするわけにはいかないんだ。彼女の身に何かあってからでは遅いんだよ」
宮司の言うことはもっともだ、だけど……。
「そうだ、お母さんに聞いてみれば何か知っているかもしれない。救急車を呼ぶのはその後でもいいじゃないですか」
「そや、春木君もたまにはいいこと言うやないか」
「それもそうだな。わかった、相川君、とにかく私と代わってくれないか」
苦しそうに言う宮司に代わり、僕は彼女の足を押さえた。少し手の力を緩めると、途端に狂ったように足をばたつかせてくる。病人の宮司にはきつかったかもしれない。宮司はすぐに携帯電話を手に取り開く。暗闇に無機質な光が浮かび上がる。
「ダメだ。繋がらない、電源を切っているのかもしれない」
首を振りながら宮司が言った。救急車を呼ぶべきか逡巡しているのだろうか、宮司は瞑想するように目を閉じた。
「やはり救急車を呼ぼう」
宮司は意を決するように再び携帯電話を開いた。
「ちょっと待った。発作が治まってきたで」
宮司を制するように明美さんは呟き、女の子を抱える腕の力を緩めた。僕も恐る恐る足から手を放したが、彼女は足をばたつかせることは無かった。
「わかった。もう少し待ってまたお母さんに電話をしてみよう。でも残念だが今日は諦めたほうがいいかもしれない」
明美さんは渋々頷いた。僕は驚いて二人の顔を見た。
「諦めるんですか。発作は治まったじゃないですか。次は一か月後ですよ。今日何とかならないんですか」
女の子や母親への憎しみが消え去ったわけではない。
先日、生身の二人を見かけた時から、僕は憎しみや恨みに支配され、祖母の言葉に葛藤を覚えることがあったものの、母も子もみんな死んだらいいとさえ思っていた。
女の子の病気を聞いた時も、未来永劫死ぬまで良心の呵責に苛まれろと思った。でも明美さんに殴られ宮司や亜川美帆から諭され、この女の子や母親がどれだけ苦しんできたのかわかるようになってきた。自分の考えが間違っているかもしれないと思えるようになってきた。今日見た母子の様子を思い出し、ここまできて尚一ヵ月苦しみを長引かせるのは酷だと思えるようになってきた。これ以上は耐えられない、何の期待も宿していなかった母親の目がそう訴えているように思えた。
「相川君が言うことはわかるが、いつまた発作が起きるかわからない。もし彼女がひとり夢見の間で寝ている間に発作が起きたら大変なことになるかもしれない。とてもそんなリスクを犯すわけにはいかない」
宮司は強い口調で言った。
「ちょっと聞いてくれるか。うち考えたんやけどな、この子とうちが一緒に夢見の間に入るってのはどうや。つまりうちがこの子と一緒に寝るってことや」
「あっ、それいい、さすが明美さん。僕はここで待機していますので、何かあったら駆けつけますよ」
「それはダメだ」
すぐに宮司が言った。携帯電話を耳にあてている。母親にまた電話をしているようだ。しばらくして首を振り、携帯電話を下した。
「何でや」
不満そうに明美さんが言う。
「夢見の間の獏の置物は眠る人の記憶を覚醒し、その記憶をもとに希望する夢を見させるんだよ。そもそも何も経験していないことは夢に見ることはできない。あの部屋に二人入る場合、二人に共通した体験でないと夢にみることはできないということだ。つまりあの事故を経験していない明美があの部屋にいたら、彼女は事故の日の夢を見ることができないということだ」
「んー、せやったら春木君がこの子と一緒に寝ればいいやないか」
「ええー、僕がですか」
「うむ、そうだな。相川君なら適任だ」
「ちょっと待ってください。でも、僕、男ですよ」
「何を考えとるんや。添い寝するだけや」
「でも同じ布団に入るんですよね」
「女たらしの本領発揮や」
「言ってる意味がわかりません」
「何をそんなに嫌がるんや。タイプや無いんか」
「とにかく嫌です」
そう、嫌としか言えなかった。女の子が、ではない。母に逢うことが、亡くなる直前の優しい母に逢うことが辛いのだ。女の子が事故の起きない夢を望めば、僕が見る夢は、あの日、あの時、あの場所で母と過ごした幸せな時間だ。でも目が覚めれば、母のいない現実を思い知るだけ、虚しい思いをするだけだ。僕の心の中に母の死へのわだかまりがある以上、いつ爆発するのかわからない時限爆弾のように突然あの事故を夢で見、フラッシュバックで再体験するのだ。何度母は死んだのだ、何度母は死ねばいいのだ。幸せな体験をすればするほど反動が大きいことは目に見えている。僕にはそれは耐えられない。
「私はいい案だと思うのだがな。相川君は亡くなったお母さんに逢いたくはないのか」
「辛い思いをするのが嫌なんです」
つい声を荒げてしまった。その声に反応したのか女の子が薄く目を開いた。彼女は明美さんに抱かれたまま、瀕死の病人のようにか細く、人工音声のように抑揚の無い声でたどたどしく言った。
「わ、私の、犯した罪で、何の、罪もない親子が・・・事故に遭い、は、母親が・・・、亡くなったんです。私は、事故を引き起こした・・・のに、名乗り出ることもなく・・・、逃げたんです。私は、私は、わ、悪い、人間なんです。あの悲惨な光景は・・・、絶対に・・・、忘れることはできないです。きっと、死ぬまで苦しみ続けるんだと、そ、それが私の贖罪・・・なんだと思っています。だ、だから私は、い、今のままで・・・、いいんです。母が、くるまで私のことは・・・、放って・・・、放っておいてください」
女の子が言い終わる前に、明美さんは彼女を抱いたまま、僕の胸倉を掴んだ。凄い力で締めあげられる。暗がりに隠された表情は夜叉のような形相なのかもしれない。僕を掴んだ右手がぶるぶる震えている。
「ようも女みたいなことをちまちまと言うてくれたな。夫婦喧嘩を止めようとして子犬のリードを手放してしまったことが罪なんか。小学四年生の子どもが責任を被らんかったことが悪なんか。それこそ道理が通らんとちゃうんか。おまえはこの五年どう過ごしたんや。女の子と花見に行ったり、女の子をベッドに押し倒したり、車の中で手を握ったりとやりたい放題やないか、そや、うちにラブレターも書いてよこしたな。しっかり青春を謳歌しとるやないか。でもこの子はどうや、すぐおまえの目の前におるこの子はどうなんや。それでもおまえはまだ自分のことしか考えられへんのか」
障子戸から射し込む篝火の揺らいだ明りが一瞬浮かび上がらせた明美さんの顔には、大粒の涙が光っていた。この期に及んで断れば、明美さんの空いている左手で思いっきりどつかれるのは目に見えている。恐らくうんと言うまでどつかれるだろう。明美さんの右手から強烈な怒りとも厳しさとも見間違うほどの優しさが、電流のように伝わってきた。
「わかりました。やります」
覚悟を決め、そう言うと、明美さんは僕の襟首から手を放し、「すまんな、おおきに」、とだけ言った。夢見の間の扉を開け、僕と明美さんが先に中に入った。女の子は嫌がる素振りを見せたが、宮司が中に押し込んだ。
「この獏の置物に手を置いて、見たい夢を願うんや。そうすればこの獏が希望の夢を見させてくれる。何も心配いらん、あとはお医者に任せればいい」
明美さんはそれだけ言うと、「ほな頼んだで」、ぽんと僕の背中を叩いて出て行った。僕は扉を閉め、女の子の手を取った。枯れ枝のように彼女の手は細く冷たかった。
「さあ、獏の置物に手を置いて」
彼女は動かしかけた手を不意に止め、僕に顔を向けた。
「みなさんの話・・・、聞こえていました。あ、あなたは・・・、事故にあった・・・、男の子?」
篝火の薄明りに照らし出されたのは、死人のような感情の無い顔と虚ろな目だった。でも荒い呼吸が彼女の緊張を僕に教える、僕の返事を待つ気配が伝わってくる。そんなこと聞かなくてもいいのに、知らなくてもいいのに。どうしてこの女の子はここまで愚直なのだ。どうしてぼろぼろの自分をわざわざさらに追い込むようなことを聞くのだ。僕が、はいそうです、と答えたらどうしようというのか。
「違うよ。僕はたまたまあの日、事故のあった場所を通りかかり、事故の一部始終を見ただけなんだ」
嘘をついた。作り話がすらすらと口をついて出た。本心は本当のことを言いたかった、彼女が動揺して泣き叫ぶところを見たかった。でも彼女も被害者なのだ、有り得ない間の悪さで加害者の席に座らされた被害者なのだ。
「そうですか」
彼女は失望ともとれる言葉を口にした。僕は気がついた。彼女は死にたがっているのだと、諦めているのだと。あとほんのわずか、小鳥の羽ばたき程度の揺らめきでも、ぷっつんと音を出して切れそうなほど極限まで張り詰めている彼女の心の糸に引導を渡して欲しいだけなのだと。
でもまだ糸は切れていない。僕は彼女にほんの僅かでも生への執着心が残っていることを期待し、彼女の手を持ち、そのまま獏の置物に添えて言った。
「せめて、せめて夢の中でだけでも、あの男の子と母親を事故から救ってあげてよ。約束だよ」
ぴくっと女の子の手が僅かに震えた。
「やく・・・、そ・・・、く?」
顔を向けた女の子の虚ろに見える瞳の中で、僕の顔がくっきりと像を結んだ、そんな気がした。
「うん」
僕の返事を聞き、女の子は確かに頷きそっと目を閉じた。
何を獏に願っているのだろうか。彼女の中に僅かでも生への希望が残っていることを祈った。
薄暗い闇の中、獏の置物がぼーと青白い光に包まれた気がした。底なしの暗闇に吸い込まれていくように僕の意識は遠のいていった。
目の前に母がいる。ベージュ色の傘を差し、ゆっくり歩いている。真夏の日差しが真上から容赦なく僕たちを照らしている。今日は夏休み最初の日曜日、僕は黄色のスクール帽子を被り、母の買い物のお供をしている。
「ねえ、お母さん、どうして雨が降っていないのに傘を差しているの?」
振り向いた母はにっこりと微笑んだ。
「これはねえ、日傘って言うのよ」
身長の高い母は僕の背に合わせ少ししゃがみ込んで言った。今日の母は普段よりも化粧が薄い。それでも色白で透き通るような肌の母は綺麗だ。クラスの他のお母さんと比べても絶対母が一番だ。
「日焼けしないようによ」
母は背筋を伸ばし、手を高く上げ、くるくるっと傘を回した。白地の半袖ワンピースの水玉模様が、日傘から舞い降ちるシャボン玉のように見えて嬉しくなった。
「じゃあ僕も、傘に入れて」
母の身体に抱きついた。母はいい匂いがした。
道路の向こう側、片側一車線の国道の反対側に三人連れの親子が見える。女の子が子犬を胸に抱きリードを右手にぐるぐると巻き付けている。
ふいに女の子の親と思われる夫婦が何か言い争いを始めた。女の子が子犬を抱えたまま、二人の間に割って入った。夫婦の言い争いはすぐに治まった。女の子は自慢げに僕を見、そのままちらっと道路に目を馳せた。その時だった。女の子の顔に浮かんでいた満面の笑みは、みるみる凍りつき、すぐに粉々に砕けたガラスのように顔から剥がれ落ちていった。凍りつくように色を失った顔に浮かぶ両の目は、地獄の入口でも見たかのように大きく見開かれている。何事かと僕はつられるように女の子の視線の先に目をやった。
こっちに向かって走ってくる車が見える。何の変哲も無い車だ。だが、運転手がハンドルに突っ伏している。そしてハンドルを握ったままゆっくりと糸の切れた操り人形のように助手席側に倒れていく。
車は道路を外れ僕たちがいる舗道に向かって突っ込んでくる。母は気がついていない、車は近づいてくる、僕たちに迫ってくる。どんどんどんどん近づいてくる。もうダメだ、轢かれる!
悲鳴を上げ眼前の恐怖から逃げようと、思いっきり目をつぶり母にしがみつく手に力を入れた。
その時、ほんの僅か車よりも早く、何かが母と僕にぶつかってきた。それは僕たちの身体が浮くほどの凄い力で僕たちを突き飛ばした。僕は舗道の奥へ倒れ込みながら、ついさっきまで自分たちがいた場所に、子犬を抱え仁王立ちするように立つ女の子を見た。女の子は倒れ込む僕に向かって何か言っている。でも突っ込んでくる車の音に掻き消されて聞こえない。あんな小さな身体のどこにこんな力が、と思う間もなく、バンという無機質な音とともに一瞬で女の子の姿はその場から消えた。僕と母の身代わりになるかのように、女の子の小さな身体は子犬ごとスローモーションのように宙を舞う、リードが引きちぎれる。
事故を目撃した通行人の悲鳴があちこちから上がる。女の子と子犬がアスファルトに叩きつけられる。鮮血が舗道に拡がっていく。
起き上がった母は、言葉にならない叫び声を上げ女の子に駆け寄る。でも血まみれで倒れている女の子を前にして茫然と立ちつくすことしかできない。引きちぎれたリードを付けた子犬がよろよろと女の子に近づき顔を数回舐め、そのまま動かなくなった。遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてくる。
目を開けると僕は凄惨な事故現場ではなく、柔らかい布団の上にいた。状況が掴めず、そのまま呆けたように横になったまま天井を見上げる。外は白み始めたようで天井板の模様が薄っすらと見え始めている。
ああ、さっきまでのことはリアルな夢だったんだ、今が現実なんだとやっと気がつき、ほっと溜息ひとつ吐きゆっくりと身体を起こした。痛みが走ったような気がして胸に手を当てる。夢の中で突き飛ばされたことを思い出し、下げた目線に隣で寝ている人が目に入った。死んだように微動だにしない。女の子だ。一瞬ですべてを理解し、愕然とした口から悲鳴とも咆哮ともつかない絶叫が飛び出した。
「起きてよ、目を開けてよ」
女の子の両肩を揺さぶり声を張り上げる。だけど女の子はぴくりとも動かない。明美さんと宮司が部屋の中に飛び込んできた。
「どうしたんや」
「何があった」
僕は二人の言葉を無視して狂ったように声を上げる、女の子の肩を激しく揺さぶり続ける。
「起きてよ」
「起きろよ」
「起きろー」
「春木君、落ち着くんや」
明美さんは女の子から引き剥がすように僕を羽交い絞めした。
「彼女が、彼女が、目を覚まさないんだ」
叫ぶように言いながら腕を振りほどこうとあがく。
「何があったんだ」
宮司は女の子を抱き起したが、死んだように仰け反りぐったりとしている。
「彼女が、彼女が、僕や母さんの身代わりになって車に轢かれたんだ」
血反吐を吐くような僕の言葉に、宮司はとんでもないものを見たかのように目を見開く。
「何てことを。ここで見る夢は現実と何ら変わらないんだ。夢の中であっても現実と同じ衝撃、同じ痛みを感じるはずだ。夢の中とは言え、あの弱った身体では耐えられないかもしれない。早く目を覚まさないと本当にこのまま死んでしまうかもしれないぞ」
「何やて」
明美さんは驚いたように僕を放し、宮司に代わって女の子を抱きかかえた。色白の顔が薄明りに浮かび上がる。女の子の様子は変わらない、死んだようにぐったりしたままだ。
「目を覚ますんや」
明美さんはそう言いながら女の子の頬を叩いたが反応は無い。起きろ起きろ起きろ、さらに叩く、それでもやはり反応は無い。
「脈が無い」
深海に沈み込んでいくような沈痛な声が響く。女の子の手首をとっていた宮司はゆっくり手を下ろし、うなだれ肩を落とした。僕は心臓を握りつぶされたかのような衝撃を受けていた。今こうして目が覚めれば夢だったとわかる。でも夢の中も現実と同じリアルな世界。いくら僕や母を助ける為とはいえ、小学生の女の子がどうして車の前に飛び出せるのか、どうしてそんな無謀なことをしたのか。呆然とし女の子を見る。
「何でや、何でこんなことになってしまったんや」
女の子を布団に寝かし、明美さんは縋るように僕の胸倉を掴んだ。ぶるぶると身体を震わせている。
「女の子はただ散歩しただけやろ。子犬は道路に飛び出しとらんのやろ。どうして事故が起きるんや。どうして女の子が身代わりになったんや。なあ春木君、教えてくれんか」
明美さんは僕が口を開くのを待つことなく手を離し、すぐに宮司の襟首を掴んだ。
「なあ叔父さん、夢見の間でどれだけ夢を見ても過去も現在も何も変えることはでけんのやろ、それはお約束なんやろ、なのにどうしてなんや、どうしてこんなことになってまうんや」
宮司は何も言わず唇を噛んでいる。
嘘だろう・・・、僕の頭はまさにハンマーでかち割られた。僕と母を突き飛ばした、あの時の女の子の口の動きが瞼に浮かぶ。
「そんなつもりじゃ、そんなつもりで言ったんじゃない・・・」
独り言のように言葉が零れ、激しく頭を振る。あの時彼女は何を言ったのか。やくそく、そう、間違いなくあの瞬間、女の子の口はそう動いた。掻き消された言葉は、約束だった。
獏の置物に手を添えたあの時、僕があんなことを言ったばかりに・・・。
「うわあああああああー」
ことの重大さに目の前が真っ暗になり、僕は魂を吐き出さんばかりの絶叫を上げた。そしてそのまま抜け殻になったように顔から布団の上に突っ伏した。あたかも女の子に土下座をするかのように。
「春木君、どうしたんや、しっかりしい」
明美さんが慌てて僕に声をかける。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい・・・」
うなされるように同じ言葉が口を突く。くぐもった声が空気を震わせる。
ハンドルにもたれ掛かり倒れていく運転手、突っ込んでくる車。事故は彼女らのせいではなかった、僕と母はあの日、ただ、不運な自動車事故に遭っただけなのだ。それは夫婦喧嘩のせいでも、女の子がリードを放してしまったせいでも、子犬が道路に飛び出したせいでも無く、ただ運転手が倒れ暴走した車に轢かれたというだけのことなのだ。祖母の言うとおりだった、誰のせいでもない、運が悪かった、ただそれだけだったのだ。それなのに事故を自分のせいだと思い込み、贖罪で身も心もぼろぼろになった女の子に、せめて夢の中だけでも二人を助けろと一方的に約束を押し付けた。
女の子は自分に非は一切無いのに、すべての責任を背負い込み、愚直にも僕と母を助けるため、一方的に押し付けられた約束を果たすため、身代わりになって車に轢かれたのだ。
どれだけ痛かったことだろう、どれだけ苦しかったことだろう。僕は人間のクズだ。死ねばいい、あの親子にそう思っていた。そう、でも死ねばいいのは僕のほうだ。僕が車に轢かれればよかったのだ。
布団に顔を埋めたまま、考えることを拒絶するかのようにマヒしてしまった頭の中で、この五年が走馬灯のように、再生される。事故、母の死、憎み続けた子犬と親子、池のほとりの休憩所、フラッシュバック、現れた親子、約束、二度目の事故。何の過ちのない親子を憎み、何の罪のない子犬を恨み、社会への不平不満を募らせた。あげく何の落ち度のない女の子に一方的な約束を押し付け身代わりにした。僕は一体何なんだ、何様なのだ、そしてこの五年は何だったのだ。そう、僕だけが轢かれればよかったのだ。僕は最低の人間だ、死ねばいい。後悔の沼で溺れてしまえばいい。
「息がある、息しとる」
女の声が歪んで聞こえる。凍りついたように思考を停止した頭の中で言葉は意味を持たない、何を言っているのかわからない。
「脈がある、脈が戻った」
男が何か言っている、でも雑音にしか聞こえない。
「春木君、喜べ、女の子は生きとる、生きとるで」
激しく何度も何度も身体を揺さぶられた。生きている、生きている、女の子は生きている・・・、もやもやとした女の言葉が、少しずつ形を造っていく、命を吹き込まれていく。
「私は大丈夫です」
か細い中に力強さを感じさせる女の子の声が、布団に顔を埋めたままの僕の鼓膜をはっきりと揺らした。彼岸から此岸に連れ戻されたように意識がはっきりと覚醒する。僕と女の子が事故の呪縛から解放された瞬間だった。
宮司と明美さんが女の子を夢見の間から連れ出したようだ。辺りから人の気配が無くなった。それでも僕は布団から顔を上げることができなかった。
「春木君どうしたんや」
夢見の間に戻ってきた明美さんが僕の背に手を置いた。白衣を通して温かみが伝わってくる。
「どうしたん、泣いとるんか。女の子はぴんぴんしとるで。泣いとる暇なんか無いやろ。風呂の掃除、後片付け、やらないかんことはまだまだぎょうさんある」
女の子が元気になったからだろう。嬉しそうに言う。
「母さんだけが・・・」
「ん、なんや?」
「母さんだけが・・・」
「モノトーンだった・・・」
わなわなと震え言葉にならない声を絞り出した。背中に置いた明美さんの指が微かに固まる。
夢の中で母は、薄化粧をして水玉模様の半袖ワンピース姿だった。でも今思い出す母は、無彩色で現れる。どれだけ色をつけようとしても思い出そうとしても母にだけ色がつかない。
やはり母は死んだのだ。事故の本当の原因がわかっても母は帰ってこないのだ。涙が堰を切ったように決壊する。僕は身体を起こし、明美さんにしがみついた。ただただ泣いた、声を出して泣いた。明美さんは何も言わず、いつまでも優しく僕を抱いてくれた。
「助けてくれてありがとう」
一足先に夢見の間を出て、縁側に座り母親を待っている女の子の隣に座った。早朝の冷たく澄んだ空気が辺りに満ちている。憑き物が落ちたように心が軽くなっていた。母と僕があの日事故に遭ったことも、母が亡くなったことも事実は何も変わっていない。ただいつも身体の中でくすぶっていた澱だけが跡形もなく消えていた。
女の子は生死を彷徨ったとは思えないほど、顔色が良くなっていた。隣に座った僕を見て、小さく頭を下げた。
「僕は、君や君の家族に謝らないといけない。僕は、母が亡くなったあの事故を君たちのせいだとずっと思って生きてきた。君や君の家族、子犬に恨みを晴らすことだけを考えてきた。でも君たちに事故の責任は一切無かったんだ。それどころか今度は君に助けられた。ごめんなさい、そしてありがとう」
夢の中とは言え、約束したとは言え、あのリアルな世界でどうして身を挺することができるのか、身代わりに成れるのか。人はどうしたらここまで他人に尽くせるようになるのか。
「わ、私、病気が治ったら、ぜっ、絶対看護師になりたい。こ、こんな私の為にあんなに尽してくれた、ぼろぼろの私を、は、励ましてくれた。私も人に尽くしたい」
ぎこちないけれど強い口調だ。
「なれるよ、絶対。絶対に君ならいい看護師になれる。僕が太鼓判を押してあげるよ、どーんとね」
女の子は忘れてしまった笑い方を思い出そうとしているのか引き攣ったように口角を上げた。ぎこちないけれど、彼女の顔に少しだけ表情が戻っている。僕は心の底から彼女に感謝した。
「僕は再来年大学受験なんだ。正直言うと何のために進学するのか、何を求めて大学に行くのかわからなかった、どうでもよかった。人生に何の期待も目標も抱けなかった。だけど君のおかげで大学に進学する大きな目的ができたよ。交通事故を起こさない車を作りたい。すぐにはできないかもしれないけど、でも一生かかってでも成し遂げたい。僕は、エンジニアになる」
一瞬で僕と母どころか、女の子の幸せな家庭をも奪った事故、あんな事故はもう起きてはいけない。
「今度こそ、約束だよ」
「うん」
真摯な眼差しを向ける僕に、女の子は微笑みを返してくれた。さっきより、少しだけ笑顔がさまになっていた。
女の子は迎えにきた母親と一緒に庵を出ていった。昨日ここに来た時と打って変わり、覚束ない足取りではあったが母親の手を借りずに歩いている。明らかに様子が変わった女の子を見て、母親は泣きながら何度も何度も頭を下げて帰って行った。
「相川君から聞いた事故のことは友人に伝えておくよ。きっと女の子はすぐに良くなるだろう」
宮司は母子を見送りながら言った。
「春木君もええ顔しとる」
明美さんが優しく微笑んだ。
「ああそうだ、忘れないうちに相川君に言っておくよ。明美とも相談して決めたんだが、昨日話したとおり、相川君にここのお手伝いをお願いするのは今日までにすることにしたよ。氏子から来月復帰すると連絡があったんだ。夏休みはもうすぐ終わりだよな。高校生の相川君にこれ以上甘えるわけにはいかないからな。本当に助かったよ、ありがとう」
予期していたこととは言え、少なからず動揺してしまった。僕は明美さんの顔をじっと見た。
「そんな睨むみたいな顔せんといてや。うちのおっぱいに味しめて、すぐにうちの胸の中で泣くようなエロガキはお払い箱や」
明美さんは困ったような顔をして言った。そんな冗談笑えない。
「でも、車の修理代いいんですか」
忘れてしまったのだろうか、一回一万円、今日で四回、残り六万円。すぐに払えと言われてもそんな大金僕は持っていない。
「ああ、あの話な、忘れてくれるか。あの車な、うち車両保険に入っとることすっかり忘れとってな。こないだ修理屋に持っていったらただで直してくれたわ。つまり、そもそも春木君はここで働かんでもよかったんや。ごめんな、ただ働きさせて」
明美さんは他人事のようにしれっと言った。
「でも昨日も今日も、明美さんそんなこと一言も言わなかったじゃないですか。それどころか一回一万円やって念押ししたじゃないですか」
「そりゃそうやわ。そんなん言うたら、春木君、じゃあ帰りますとか言うて帰ってまうかもしれんやろ。そうなったら風呂の水汲みや庵の掃除を誰がするんや、うちやろ、そんなん絶対嫌やんか。だから言わんかったんや」
悪戯が大成功した子どものように自慢げだ。
「車の修理代とか、さっきから何を言っているのかね」
宮司は訝しげな顔をして僕と明美さんを見た。
「叔父さんには関係無い話や。気にせんといてくれるか」
明美さんは平然と答えた。
「まあ、そういうことやから、春木君とはこれでお別れや。でもな、うちほんまは寂しいんやで」
「そうでしょう」
「春木君だけなんや、遠慮無くどつけるのは。どんだけどついてもちっとも罪悪感がわかん、それどころか気持ちがすうっとするんや」
両手で胸を押えながら言う。
「何ですかそれ」
「あの子、美帆さんもこないだ気持ちよう春木君をどついたなあ。あの子はしっかりした子やな、うちと喧嘩しても一歩も引かなんだ」
明美さんは参道を見ている。母子とすれ違いにこちらに向かってくる人影があった。亜川美帆だ。ブス犬にリードを引っ張られ満面の笑顔で手を振りながら走ってくる。朝日が僕たちを照らしている。夏は終わっていない。僕は大きく手を振った。【了】
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