「朔の母親の病院?」

 電話でそれを訊ねたとき、親父の声が少し動揺したのがわかった。

「どうして陽央がそんなことを知りたいんだ?」
「あいつ、母親に渡したいものがあるみたいだから」

 親父がチビの病院へ行こうとする理由をしつこく追求してくるから、俺は仕方なくそう答えた。

「渡したいものって?」
「シロツメクサの花」

 ボソリと答えると、親父が電話口でしばらく沈黙した。

「陽央も一緒に病院に行くのか?」
「あいつ一人だけで行かせたらまたこの前みたいに迷子になるだろ。だから、病院まで付き添って外で待ってようと思ってる」

 親父は俺に病院の場所を教えることを妙に渋っていたが、最終的にチビの母親が入院している病院名を教えてくれた。

「朔とうまくやってくれてるんだな」

 電話を切る直前、親父が嬉しそうに笑う。

「別に、そんなんじゃない」

 俺は素っ気無い声で答えると、親父より先に電話を切った。

 そう。別に、そんなんじゃない。昔好きだった本と、そこに挟まれたシロツメクサの花を見たら、なんだか感傷的な気持ちになった。ただそれだけ。チビのためとか……別に、そんなんじゃない。

 チビの母親が入院している総合病院の行き方を調べてみると、俺の家からは電車で3駅。そこから5番のバスに20分ほど乗れば着くらしい。この前チビが言ってた5番のバスというのは、駅前のバス停から出ているようだ。だとしたら、以前住んでいた家の近くのバス停で待っていたとしても病院行きのバスが来るはずがない。俺はスマホの検索画面を閉じると、チビが学校から帰ってくるのを待った。

 14時を過ぎた頃、玄関の鍵がカチャリと回る音がする。それから、カチャカチャとドアノブを捻る音が響いてきた。

 玄関まで行って中からドアを開けてやると、チビが俺を見上げてぎょっとした顔をした。普段なら大学に行っている時間帯だ。そんな俺が、まさか家の中から現れるとは思わなかったらしい。
 
 だからって、そんな顔をしなくてもいいだろうが。本気で驚いているチビを見下ろして、俺はほんの少し眉を顰めた。

「お前、これから出かけられるか?」
「え……?」

 俺の顔を見上げたチビが、鼻を小さく引くつかせる。どう答えたらいいか、困っているような表情だった。

「とりあえず、入って鞄置け」

 ドアの外につっ立ったままでいるチビを玄関の中に引き入れると、廊下の壁に背中をもたせ掛けて腕を組む。不機嫌な顔の俺を見上げるチビの大きな黒い目が、戸惑ったように揺れていた。

「お前の母親の病院の行き方がわかった」

 不安と戸惑いの入り混じったような表情を浮かべるチビをじっと見つめてから、そう告げる。するとチビが、不思議そうにパチパチと数回瞬きをした。

「だから、こないだお前が摘んでた白い花。あれをもう一回摘んで、病院まで届けられるって言ってんだよ」

 そこでようやく俺の言っていることを理解したらしい。ゆっくりと一回瞬きをしたチビが、ぱぁっと表情を明るくした。

「ほんとう?」
「あぁ。わかったら、それは置いて準備して来い。河原で花摘んだら、病院に行くから」
「わかった!」

 大きく頷いたチビが、パタパタと足音を立てて俺のそばを駆け抜けていく。それから重そうなランドセルと引き換えに、ショルダーバッグを提げて戻ってきた。

 準備を済ませたチビに一瞥を投げると、俺も財布とスマホ、それから煙草とライターを突っ込んだボディーバッグをつかむ。そうして、チビと一緒に家を出た。


 駅に向かう途中、俺たちは河原に無数に生えていたシロツメクサの花を摘んだ。白い花の間に、ところどころクローバーの緑をちりばめて小さな花束を作る。それを持って病院に向かう。

 チビの母親が入院しているのは、地域でも名の知れた総合病院だった。ロビーは、外来患者や付き添いの家族、見舞い客たちで込み合っている。入院病棟へ行くエレベーターを探しながら、そういえば親父から病室番号を聞いてこなかったことを思い出す。チビに聞いてみても、当然わかるはずがない。

「名前、なんて言うの? お前の母親」
大原(おおはら) 由希子(ゆきこ)
「大原 由希子、ね」

 チビの口から出た名前が、頭の隅に小さく引っ掛かる。だけどそれは本当に小さな小さなわだかまりで。俺の頭の中で大きな問題にはならずに、どこかへすっと消え去った。

「受付で聞いてくるからここで待ってろ」
 
 俺はチビを置いてロビーの受付に戻ると、大原 由希子という人の病室番号を尋ねた。受付の若い女性が、手元にあるパソコンで調べて教えてくれる。

「ありがとうございます」

 俺は教えられた病室番号を頭の中で反芻すると、急いでチビのところに戻った。

「5階だって。上まで一緒に行って、俺は外の廊下で待っててやるよ」

 そう言うと、チビが急に悲しそうに目を伏せた。

「早く行くぞ」

 俺が声をかけても、シロツメクサの花束を握り締めたまま動こうとしない。

「何?」

 ここまで来て、なんだ。気が短い俺はだんだんと苛立ってきた。見下ろして睨むと、チビが手にしたシロツメクサの花束をおずおずと差し出してくる。

「渡してきて」

 花束を前に俯いたチビが、ぼそりと呟いた。

「は? ここまで来といてそれはないだろ」

 苛立って声を荒げた俺の前で、チビがビクッと肩を震わせる。それから少し怯えるように顔を上げると、大きな丸い瞳を見開いて懇願するように見つめてきた。

「そうだけど……会うのはやっぱりやめる。ママと約束したから」
「約束?」
「ママの病気が治るまで、おじさんのところでいい子で待ってるって。だから……」
「それはつまり、病気が治るまでお見舞いには来ない。お前と母親がそういう約束をしたってこと?」

 俺の問いかけに、チビがコクンと小さく頷く。

「でも、お花はあげたいの。ママが元気になるように」
「我慢強いのかなんなのか知らないけど……お前、そんなんで疲れねぇ? ガキのくせに」

 ほとんど独り言みたいに言うと、チビが俺を見上げて首を傾げた。その顔を見ていると、なんだかため息が溢れそうになる。

「わかった。それは渡してきてやるよ」

 俺はチビの手からシロツメクサの花束を受け取ると、小さくため息をついた。

「ありがとう」

 花束を受け取った俺を見上げて、チビがはにかむように笑う。

「今回だけだからな」
「うん」

 チビが嬉しそうに頷くから、俺は顔を顰めて首の後ろを引っ掻いた。

 仕方なく、なんだ。チビに恩を着せるつもりで「今回だけ」と言ったのに、こんなときばかり無邪気に嬉しそうにされたら困る。

「すぐ戻るから待ってろ」

 素っ気無く言うと、俺は一人でチビの母親の病室に向かった。

 受付で教えられた病室番号は、ナースステーションに一番近い大部屋だった。

 消毒液の匂いがする廊下を抜けて、開かれたままになっている入り口から部屋の中を覗き込む。病室にはベッドが左右に3対ずつ並べてあって、それぞれカーテンで仕切られていた。

 病室の入り口の壁の小さなプレートには、患者の名前が書いてある。そのプレートの中に、大原 由希子の名前があることを確認すると、静かに病室に足を踏み入れた。

 ゆっくりと歩いて、チビの母親のベッドを探す。部屋の一番奥。窓際まで歩いて行ったとき、ようやく『大原 由希子』という名前の貼られたベッドを見つけた。

 だけど、そこには誰もいない。ベッドの上には綺麗に畳まれた布団が載っていて、傍にある小さな棚には文庫本が裏向けに開いたまま置きっぱなしになっていた。

「どこか行ってんのかな……」

 ベッドの横に置いてある見舞い客用のパイプ椅子に腰掛けて10分ほど待ってみたが、チビの母親が戻ってくる気配はない。

 俺はあてもなく待つことをやめて病室を出た。このまま戻るとチビがガッカリするだろうから、シロツメクサの花束を持ってナースステーションに立ち寄る。

「すみません。お見舞いに来たんですけど、大原 由希子さんは……?」
「ご家族の方ですか?」

 ナースステーションの外から声をかけると、眼鏡をかけた柔和な顔立ちの看護師がにっこりと笑いかけてきた。

「家族というか、知り合いの代理で……」
「そうですか。大原さんは、今ちょっと検査中で……もう少ししたら戻ってくると思いますよ」

 少し迷ったが、俺は持っていたシロツメクサの花束を年配の看護師に差し出した。

「大原さんにこれを渡してもらうことはできますか? 娘の朔からだって、伝えてください」

 看護師の彼女が、眼鏡の奥の目を細めて簡素な花束をじっと見つめる。怪しまれているのかと思ったが、彼女は花束を受け取ると笑顔で頷いた。

「わかりました。必ず、お伝えしておきます」
「お願いします」

 俺は小さく会釈をすると、看護師に背を向けてエレベーターへと向かった。

 エレベーターを降りてロビーに行くと、俺に気付いたチビが勢いよく立ち上がった。その姿が、巣穴からぴょんっと飛び出してきたウサギみたいに見えて思わず吹き出しそうになる。

「待たせたな」

 笑いを落ち着かせてから声をかけると、チビの大きな真ん丸い目が「どうだった?」と無言で訴えかけてきた。

「病室まで行ったけど、お前の母親には会えなかった。今、検査中だって」

 俺がそう言うと、チビの瞳が不安そうに大きく揺れた。

「検査って言っても、そんな大袈裟なもんじゃないって。花束は、渡してもらうように看護師に頼んだ」

 俺の適当な言葉に安心したのか、チビが少し表情を和らげる。

 チビの母親がどういう病気で、どういう検査を受けていたのかは俺にはわからない。だけど、不安そうにしているチビの顔を見ると「大丈夫だ」と、そう言ってやらないといけないような気がした。

「帰るか」

 チビから顔を背けると、ボディーバッグから煙草を引っ張り出す。外に出て煙草が吸いたい。そんなことを考えながら病院の出入り口まで進むと、そにはチビが後ろからついてきていないことに気がついた。

「なんだよ……」

 軽く舌打しながら振り返ると、チビはまだロビーの椅子の前に突っ立っていた。

「おい、早く来い」

 病院であまり大きな声は出せない。周りを気にしながら手招きすると、ぼんやりつっ立っていたチビが、突然何かに弾き飛ばされたかのように俺の前まで駆けてきた。

「何やってんだよ」

 俯くチビのつむじを呆れ顔で見下ろしていると、チビが何の前触れもなく、がばっと顔を上げた。大きな真ん丸い目が、真っ直ぐに俺を見つめる。

「な、なんだよ……」

 真っ直ぐなチビの眼差しに引き腰になっていると、チビが小さな鼻と口をピクピクと引きつかせ始めた。

 何か言う……? 身構えた俺の前で、チビがすぅーっと大きく息を吸う。

「ありがとう! お兄ちゃん」
「あ……?」

 チビの声が、病院のロビーに大きく響き渡る。突然のことに驚きすぎて、俺はただ口を開いたまま何も言えなかった。

「ありがとう」

 呆然としている俺に、チビがもう一度恥ずかしそうにその言葉を繰り返す。

「あ、あぁ」

 やっと短くそう答えると、チビが俺を見上げてはにかんだ。

「帰ろう、お兄ちゃん」

 呆然と立ち尽くしている俺に、チビがそう促してくる。

「え、あぁ」

 お兄ちゃん──、なんて。どういう心境の変化だ?

 チビにそう呼ばれてすっかり動揺した俺は、病院の外に出たあと煙草を吸うのを忘れていた。それどころか、どこかに箱ごと落としてきたらしく。家に帰ると、ボディーバッグから出して手に持っていたはずの煙草がどこにも見当たらなかった。