「ねぇ、ハルヒサ。今度の土曜日、マンションに遊びに行っていい?」

 大学からの帰り道。バス停の列に並んでいると、奈未が繋いだ手の指を絡めながら、俺の腕に身体を摺り寄せてきた。

「いいよ。小学生のガキがいてもよければ」
「いいよ。だって、紹介してくれるって言ってたでしょ? 新しくできた妹」

 奈未が俺を見上げてクスッと笑う。笑ったその顔がかわいくて、彼女の頭を引き寄せるとそっと額に口付けた。

「ハルヒサ。ここ、人いっぱいいるんだけど」
「別にいいよ」

 奈未はまたクスッと笑うと、俺の前にくるっと回って正面から抱きついてきた。

「ここ、人いっぱいいるんだけど」

 さすがに周りを気にしながらそう言うと、奈未が俺の胸に顔を埋めてクスクス笑う。

「別にいいよ」

 今度は奈未が俺の口調を真似る。俺は苦笑いを浮かべると、擦り寄ってくる奈未の髪をそっと撫でてやった。

「ねぇ、ハルヒサ。今日は寄って帰る?」

 奈未が唇に艶っぽい笑みを浮かべて俺を見上げる。その笑みを見て、奈未が俺に何の誘いかけをしているのかがすぐにわかった。彼女の誘いに頷こうとした俺の頭に、ふと一瞬だけチビの顔が掠める。

 バイトはないから時間はあるけれど、多分小学校はもうとっくに終わっている。あんまり遅くなると、腹か減るもしれない。

「ハルヒサ?」

 そんなことを考えている俺を見て、奈未が不思議そうに首をかしげた。

 いやいや。どうして俺が、チビのメシの心配までしなきゃいけないんだ。

 ウザいと思っているチビのことを無意識に心配している自分に、苦笑いが漏れる。

 あいつは家の鍵だって持ってるし、電子レンジで簡単に温められる冷凍食品の買い置きがある。俺がバイトの日は、勝手に食べてるし。放っといたって平気だ。

「朝まで一緒にいる?」

 ふわりと奈未を抱きしめたときにはもう、俺の頭の中からチビの存在は消えていた。

 暗くなってから奈未と別れて家に帰ると、チビはローテーブルの前に座って真剣な顔で本を読んでいた。ちらっと覗き見ると、ハードカバーの本の裏表紙にはチビが通っている小学校の名前が書かれたシールが貼ってある。

 チビは帰ってきた俺には見向きもせずに、学校で借りてきたらしい本を熱心に読んでいた。

 キッチンには、冷凍パスタのプラスチックの空き皿とフォークがきちんと洗って乾かしてある。

 ちゃっかりしてるよな。

 俺は冷凍庫の中から自分の分の冷凍パスタを取り出すと、電子レンジで温めた。できたてのパスタをローテーブルに運んでフォークを絡めたとき、俺が帰ってきてから初めて、チビが顔をあげた。

 立てかけて持っている本で顔の下半分隠すようにして、ウサギみたいな黒目がちの瞳を本の上から覗かせる。その仕草は、巣穴の中から周囲の様子を窺う野ウサギみたいだ。

「何だよ」

 低い声を出すと、チビが慌てて本の向こうに顔を隠す。

 感じ悪いな。

 思わず舌打すると、チビは本をしっかりと90度に立てて、こっちからは顔が見えないように完全な防御壁を作った。

 ほんと、感じ悪い。

 眉をしかめていると、テーブルに置いたスマホが鳴る。パスタを食べながら確認すると、奈未からメッセージが着ていた。そういえば、土曜日に奈未がくるんだった。

「おい」

 スマホをローテーブルに置いて呼びかけても、チビは全くといっていいほどの無反応。

「おい。お前のこと呼んでんだけど」

 不機嫌な声でもう一度呼びかけると、チビが恐る恐るといった感じで防御壁にしていた本の横からそっと俺を見てきた。

「今度の土曜日、彼女が遊びに来るから」

 それを聞いたチビは、俺を見ながらきょとんとした顔をする。

「何だよ、その顔。家、狭いんだから大人しくしてろよ」

 まぁ、言わなくても大人しくしてるんだろうけど。念を押すように言うと、チビはじっと俺を見て、こくんとひとつ頷いた。



 土曜日。正午を少し過ぎた頃に、奈未がマンションにやって来た。ギリギリまで部屋の片付けをしている俺のことをぼんやりと眺めていたチビは、奈未が玄関のチャイムを鳴らしても、床にぺたんと座り込んだまま立ち上がろうともしなかった。

「お邪魔します。ハルヒサ、ケーキ買ってきたよ」

 ドアを開けると、奈未が四角い箱を顔の傍まで持ち上げてにこっと笑った。

「おー、ありがと。上がって」

 奈未を部屋に通すと、床に座り込んだままのチビが不思議そうな顔をして俺と彼女をじっと見上げてきた。

「はじめまして。あたし、お兄ちゃんの彼女の奈未です。えっと、お名前は?」

 奈未はチビの前にしゃがむと、にっこりと笑いながら愛想よく自己紹介をした。

 けれどチビは、目の前の奈未をじっと見つめたまま何も言わない。そのせいで、笑顔だった奈未の口元が徐々に引き攣ってくる。

「奈未。そいつ、もうほっといていいよ。いつもそんなだから」

 しゃがんでいる奈未の腕を引っ張ると、彼女が不服そうな顔をする。せっかく最高に愛想よく微笑んでみせたのに、チビが少しも反応示さなかったことが不満だったようだ。

「奈未が持ってきてくれたケーキ食べよう。準備するから、手伝ってくれる?」

 誘いかけると、奈未は俺と一緒に狭いキッチンについてきた。キッチンに足を踏み入れた奈未が、俺の服の裾を引っ張って、冷蔵庫の影へと連れていく。キッチンは部屋と一続きになっていて筒抜けだけど、冷蔵庫の前に立てばチビのいる部屋から死角になった。

「ねぇねぇ、ハルヒサ。あの子、今日友達と遊びに行ったりしないの?」

 奈未が小さな声で俺の耳元に囁く。チビの愛想が悪いから、奈未は機嫌を損ねてしまったらしい。

「あぁ、いつも土日は家にいるな。あいつ」
「ええ。つまんない」

 奈未は駄々を捏ねるようにそう言うと、ピンク色の綺麗なネイルが施された指に、ミルクティ色の髪の毛の先をクルクルと巻きつけた。

 奈未の発言はやや自分勝手だけれど、不貞腐れた仕草は可愛くてわりと好きかもしれない。俺は唇の片端を引き上げるようにして少し笑うと、奈未の柔らかなミルクティー色の髪に手を差し込んだ。後頭部をつかんでぐっと引き寄せると、奈未の唇に軽いキスを落とす。

「ハ、ハルヒサ!」

 自分から人を死角に誘い込んだくせに、奈未が一続きの部屋にいるチビを気にかける。

「お前が誘ったんじゃん」
「そんなことな──」

 顔を赤くしている奈未の反応が可愛くて、少し苛めたくなる。腰を引き寄せて、半開きになっていた口の隙間から舌を差し込もうとすると、奈未が慌てて俺の胸を手で押してきた。

「ハルヒサ。さすがに、今はダメ……」

 奈未が頬を赤く染めながら、もっともらしく首を横に振る。

「えー」

 俺は不満げにそう言うと、本気で胸を押し返してくる奈未の身体を渋々離した。

「ケーキ食べたら、チビはどっかに遊びに行かす。それで、続きね」
「バカ」

 耳元で囁くと、顔を真っ赤にした奈未に思いきり小突かれた。

「いてぇな」

 奈未に小突かれたところを大袈裟にさすると、彼女と一緒に今度こそケーキを出して紅茶を用意した。

 奈未が持ってきてくれたケーキは、苺のショートケーキ、苺とブルーベリーが載ったタルト、レアチーズケーキの3種類。部屋のローテーブルの上に、ケーキを載せた皿を並べると、チビはその中でも一番見た目の華やかなタルトをやけに熱心な目で見つめていた。

「好きなの食べていいよ」

 奈未がにっこりとチビに笑いかけて、もう一度愛想を振り撒く。チビは奈未のことをチラッと見上げると、黙って苺とブルーベリーのタルトの皿を自分の方へと引き寄せた。

 チビの失礼な反応に、奈未が俺に不満そうな視線を向けてくる。それに対して俺は、苦笑いを返すしかなかった。

 奈未に対して一言も口を聞かないくせに、チビは彼女が持ってきたケーキだけは綺麗にちゃっかり平らげた。それがまた、奈未の不満を募らせる。

 奈未の笑顔が不自然に歪むのに気付いた俺は、ケーキを食べ終えたチビに声をかけた。

「なぁ。俺とお姉ちゃん、これから大学の大事な課題をやらないといけないんだ。だから、夕方まで外で遊んで来い」

 俺の言葉に、チビはなんとも腑に落ちないという表情を浮かべながらも頷いた。
 
 黙って立ち上がると、小さなショルダーバッグを持って家を出て行く。チビがいなくなると、奈未が眉をしかめながら大袈裟にため息を吐いた。

「なに、あの子! いくら子どもだからって、感じ悪すぎじゃない? ハルヒサ、よくあんな子と一緒に暮らしてるよね」

 愚痴をこぼす奈未の機嫌は、すこぶる悪かった。

「一緒に暮らしてるっていうより、俺の空間にただ『居る』っていう感覚しかないけどな」

 苦笑いで立ち上がると、テーブルの上の皿と紅茶のカップを台所のシンクに運ぶ。洗いものはあとから片付けることにして、俺はまだ機嫌の悪い奈未の傍に戻った。

「早く実家に引き取ってもらえればいいのにね」

 ミルクティ色の長い髪に指を絡ませながら、奈未が唇を尖らせる。俺はクスクスと笑うと、ふて腐れた子どもみたいな顔をした奈未を後ろから抱きしめた。

「いい加減機嫌なおせば? 相手は7歳の子どもだろ」
「だって──」

 奈未が唇を尖らせたまま、俺を振り返る。その顎を指でつかまえると、口先を尖らせた彼女の唇を塞いだ。キスに応えながら、奈未が俺の腕の中で身を捩じらせる。そうして俺の膝の上に座って向かい合うような体勢になると、奈未が俺の首に腕を回して抱きついてきた。

「チビもいなくなったことだし、そろそろ大事な課題する?」
「何よ、大事な課題って」

 奈未が俺の顔に頬を寄せながらクスクスと笑う。可愛い笑い声をたてる奈未の頬にちゅっと唇を押し付けると、彼女の身体をベッドに降ろして覆いかぶさる。

「あの子が途中で戻ってきたらどうする?」

 奈未が俺の頬に手をあてながら、悪戯っぽく笑う。

「いいよ、別に」

 俺は頬に触れる奈未の手をとると、指を絡ませ、握って、彼女の顔を横に押し付けた。

「教育上、よくないよ?」
「思ってもないくせに」

 ふざけて笑う奈未の唇を塞ぐ。狭いシングルベッドの上。俺は追い払ったチビのことなど忘れて、彼女と抱き合った。