翌朝早く、親父が俺のマンションにやって来た。チビの新しい小学校の手続きがあるとかで、朝からバタバタと騒がしい。

 大学の授業が午後からしか入っていなかった俺は、まだ寝れたのに……と不愉快な気持ちで親父とチビの動向を見つめる。

 チビは親父がいると、俺とふたりのときより安心できるみたいだ。親父に話しかけられると、ときどきはにかむように笑う。
 
 離れていた期間があっても、親子として通じ合うものがあるのかもしれない。まぁ、俺は親父に対して通じ合うものを感じたことはないけど。

「陽央、父さん達は行ってくるから」

 玄関で親父が何か言っていたけれど、俺は聞こえないふりをした。

 勝手に行ってくれ。
 親父がチビを連れて家を出ると、俺はベッドの上にごろりと横になった。

 もう少し寝よう。そう思って目を閉じたものの、目が冴えてしまって眠れない。

 イライラしながら起き上がると、俺は煙草に火をつけた。だけど、1本吸いきっても苛立ちが治まらない。2本目に手を伸ばしかけたけが、結局それに火をつけるのはやめた。

 午後の授業まではかなり時間があるけど、早めに大学に行くことにしたのだ。行けば誰か知り合いがいるだろうし、いなければカフェテリアで時間を潰せばいい。

 俺のマンションから大学までは、電車で15分。そこからバスで10分くらい。大学は電車の駅から離れているから、キャンパスの周りにはほとんど何もない。緑が多くて静かなその立地は、勉学に励むにはいい環境なんだと思う。
 
 バスを降りて大学の門をくぐった俺は、真っ直ぐにカフェテリアへと向かった。コーヒーを買って外のテラス先に座っていると、よく響く笑い声が近づいてくる。 

「ハルヒサ、おはよう。今日は早いね」

 肩に手を置かれて振り返ると、彼女の奈未(なみ)が笑いかけてきた。

「あぁ、家にいても暇だったから」

 俺が答えると、彼女と一緒に歩いてきた友人ふたりがひらひらと手を振る。

「じゃぁね、奈未。彼氏とごゆっくり」
「じゃぁね」

 奈未は機嫌の良い笑みを浮かべると、派手なネイルを施した手を友人達に向けて振り返した。

「ハルヒサ、授業は午後からでしょ?」

 友人たちが立ち去ると、奈未が俺の隣の椅子に腰掛けた。膝上の短いスカートを履いているくせに平気で足を組むから、奈未の太腿が半分ほどむき出しになる。それを横目に気にしながら、俺はコーヒーを一口飲んだ。

「そうなんだけど。ちょっと厄介なものを預かることになったんだよ」
「何それ? おもしろい話?」

 奈未は毎朝念入りに巻いているらしいミルクティ色の長い髪に指を絡めると、上目遣いに俺を見てきた。

「さぁ、どうだろ」

 首を傾げる俺の視線が、奈未の短いスカートから覗く太腿やグロスが塗られたふっくらとした唇に注がれる。付き合ってそろそろ半年になる彼女は、ちょっと派手な顔立ちも、そのスタイルも、文句がないくらい俺の好みだ。

「奈未、お前今日の午後って授業ある?」

 俺が訊ねると、奈未が少し首を横に傾けた。

「うん、あるよ。お昼食べたあとひとつ」
「それって、代返可能?」
「うん、講義室広いからね。いなくてもわかんない」
「そっか」

 俺は飲み終えたコーヒーの紙カップを潰すと、立ち上がって奈未の腕を引いた。

「じゃぁ、行こう。そこで預かりものの話もしてやるよ」
「えぇ、ハルヒサ今来たばっかじゃん」

 奈未が立ち上がると、俺は彼女の腰に腕を回して引き寄せた。

「だってお前、今日スカート短すぎんだもん」

 一瞬きょとんとした顔をする奈未だったが、すぐに俺の言わんとしていることを理解したらしい。

「まだ午前中だよ〜。やらしーなぁ、ハルヒサ」

 にやりと笑う奈未もまんざらではなさそうだ。俺は奈未の額に軽く唇をつけると、さっき乗ってきたばかりのバスで、駅前へと引き返した。



 駅前のラブホテルで、裸のままで腕に頭を凭せかけてくる奈未の身体を抱きしめる。触れ合う肌が気持ちよくて離さずにいると、彼女が俺の腕の中でくすぐったそうに笑った。

「もうおしまいだよ」
「えー」

 不満な声を出すと、奈未がクスクスと笑う。

「そういえばさ、さっき言ってた預かり物って何?」

 腕の中で体勢を変えた奈未が、上目遣いに見てくる。

「ああ……」

 そういえば話すと言って忘れていた。俺は奈未のミルクティ色の髪に指を絡めて滑らせると、彼女の背中をゆっくりとベッドに押し付けた。

「ちょっと、ハルヒサ」

 牽制するように俺の名前を呼ぶくせに、あまり迷惑そうには見えない奈未の耳に唇を這わせる。

「ねぇ、ハルっ……」
「俺、昨日妹ができた」

 甘い声を出す奈未を見下ろして笑みを浮かべると、彼女が大きな目を見開いた。

「え、どういう意味?」
「どういうって、そのままの意味。昨日の夜、突然親父がうちに連れてきたんだよ。腹違いの妹」
「ウソ……」
「ほんと」
 
 半笑いの奈未に、俺も微苦笑を返す。

「小学1年生らしいんだけど、顔付きとか仕草がウサギみてーなの」
「ウサギなら可愛いじゃん」
「それが全然。だいたい俺、すでに14歳も年の離れた弟がいるんだよ。それなのに、13歳差の腹違いの妹まで現れるって、どんなだよ」

 眉を顰める俺を見て、奈未がけらけらと笑った。

「家族増えて楽しいじゃん」
「楽しくねーよ。親父のやつ、母親に合わす顔がないのか、しばらくそのチビを俺のマンションで預かれって言ってきてさ。自分がしたことの後始末は自分でしろっての」

 ウサギみたいなチビの顔を思い出しながら悪態をついていると、奈未が「まぁまぁ」と笑いながら俺をなだめてきた。

「でも、ハルヒサのお父さんもなかなかやるよね。今のお母さんって再婚相手なんでしょ?」
「まぁね」

 俺は義理の母親の顔を思い浮かべると、小さく肩を竦めた。そうして思う。あのウサギみたいなチビの存在を知ったら、あの人はどう思うだろう──、と。

「そりゃ、嫌にもなるよな」

 思わず溢れたひとりごとに、奈未が小さく首を傾げる。

「ハルヒサ?」
「うぅん、なんもない」

 俺は笑って首をゆるりと振ると、奈未をきつく抱きしめた。

 俺と奈未はそのあと大学へは戻らず、街でブラブラとして夕飯を食べてから別れた。

「ねぇ、ハルヒサ。今度家に遊びに行くからその妹紹介してよ」
「あぁ、そのうちな」

 別れ際に奈未に言われて、俺は眉間を寄せた。

 帰ったら、あのチビが家にいるのか。今夜もまた床に寝なければいけないかと思うと、うんざりする。それとも、今日はチビを床で寝かせるか。

 電車を降りると、重たい気分で河原沿いの道をダラダラ歩く。マンションの前にたどり着いて自分の部屋の窓を見上げると、カーテンが閉められていて真っ暗だった。外から見る限り、人がいる気配がない。
 
 親父がチビのことを実家に連れて帰ったんだろうか。鞄からキーケースを出しながら首を捻る。

 だけどマンションの階段を上がって部屋の鍵を差し込もうとしたとき。ドアの前に小さな物体が丸まっていたから、ぎょっとした。

 思わずドアから飛びのくと、丸まっていた物体がのそりと動く。よく見るとそれは、地べたに体育座りをしたチビだった。

「こんなとこで何してんだよ。ビビらせんな」

 座ったまま顔だけを上げたチビに、つい声を荒げてしまう。その瞬間、俺をチビの真ん丸い瞳が大きく揺らいだ。

 ヤバい。泣かせたかも。

 焦ったけれど、チビは三角にたてた膝の上で、ぎゅっと拳を握り締めただけだった。

 なんだ、泣かねーのか。

「なんでこんなとこにいるんだよ。いつからここで待ってんの?」

 俺の質問に、チビは黙って俯くだけだ。名前を名乗ったきり、チビは頑なに俺と口を利こうとしない。
 
 俺だって、好きでお前を預かってるわけじゃねーんだよ。チビの態度に、いいかげん腹が立ってくる。

「黙ってないでなんか言えよ。口利けんだろ」

 イライラして低くなった俺の声に、チビがビクッと肩を震わせる。

「鍵、なくて」

 俺に睨み下ろされて、ようやくチビが出した声は、今にも消え入りそうなほどに細かった。

「鍵? 親父からもらってねぇの?」

 俺の問いかけに、チビがこくりと頷く。

「それを早く言えよ」

 呆れ顔でため息を吐くと、ドアの鍵を開ける。

「明日、合鍵作ってくる。とりあえず、明日も俺が帰るまではここで待ってろ。お前、何時頃学校から帰ってくんの?」

 玄関の中へと促しながら訊ねると、チビは鼻をひくつかせて首を傾げたあと「3時半くらい?」と自信なさげに答えた。

「結構早いじゃん」

 時間を確かめると、今は夜の10時だった。ということは……、6時間以上はひとりで座って待ってたってことになる。よくそんなに長い時間、泣かずに待っていられたよな。

 甘えたの弟の和央(かずひさ)だったら、きっとすぐに泣きわめいてる。

 チビのことを忘れて奈未と遊んでいた俺は、少し後ろめたい気持ちになった。

「腹、減ってるよな」

 俺は部屋に入ると、すぐに冷蔵庫を開けた。

 チビを外で長時間待たせた後ろめたさを消すために何か作ってやろうと思ったけれど。冷蔵庫の中には、ジュースとヨーグルトぐらいしか入っていない。舌打ちしながら試しに冷凍庫も開いてみる。すると幸運にも、電子レンジで温めるだけの冷凍チャーハンが残っていた。

 冷凍チャーハンを皿に移すと、電子レンジのボタンを押す。皿に盛られたチャーハンが解凍されていくのをぼんやりと見つめていると、突然スマホが鳴り始めた。着信相手は、実家の義理の母親だ。

 チビのことがバレたんだろうか。親父を庇ってやる義理もないのに、なぜかドキリとしてしまう。

 俺はゴクリと唾をひとつ飲み込むと、ランドセルから出したノートをローテーブルに広げ始めたチビに視線を投げながら電話に出た。

「もしもし」
「もしもし、(はる)くん? お母さんだけど」
「ああ、どうしたの?」

 受話器から聞こえた母親の声に、いつもと違う気配はない。それでも、少し警戒しながら応対する。

「最近全然帰ってこないけど、元気にしてる?」
「あぁ、うん」
「陽くん、明日の夕方って何か予定ある?」
 
 母親は俺の生活を気遣うような言葉をいくつかかけたあとに、ようやく本題を切り出してきた。

「ないけど」
「本当? 悪いんだけど、明日、和央の保育園のお迎え頼まないかな。お父さんもお母さんも、明日は仕事が遅くなりそうで」

 母親の頼みに、俺は眉を顰めながらも少しだけほっとしていた。どうやら、チビのことがバレたわけではないらしい。

「お父さんが仕事帰りに陽くんの家に寄るから、それまで和央のことお願いね」

 母親は俺に念を押すようにそう言ってから、電話を切った。

 チビだけじゃなくて、和央の面倒までみとけっていうのか……。

 表向きは母親の頼みを快く引き受けるような返事をしたものの、内心では面倒に思う。

 だけど俺は、母親が言うことには逆らえなかった。親父と再婚してからずっとよくしてもらってはいるけれど、やっぱりどうしても義理の母親に対しての遠慮がある。

 だいたい、親父は俺を何だと思ってるんだよ。

 まだ手の中にあるスマホを睨むように見つめていると、電子レンジがピーピーと鳴った。

 スマホをポケットに突っ込んで舌打ちをすると、電子レンジからチャーハンを取り出してスプーンと一緒にチビの前に乱暴に置く。ノートから顔を上げたチビが、目の前に置かれたチャーハンの皿と俺の顔を不思議そうに見比べた。

「お前の」

 ぶっきらぼうに言うと、チビが黒めがちの目をまん丸にする。そうしてしばらく俺を見つめたあと、チビが小さな口をもぞもぞと動かした。

「ありがとうございます」

 頑なにしゃべろうとしなかったチビにお礼を言われるとは思わなくて、ちょっと戸惑う。俺は「あぁ」とだけ答えると首筋を掻きながらチビから視線をそらした。