「陽央……」

 母の病室に着くと、親父が俺を見てほっとしたようにつぶやいた。ベッドの上で目を閉じている母には心電図メーターがつけられていて、その側で朔が母の手を握っていた。 

 俺が病室の入り口で立ち止まっていると、朔が少し横にずれて居場所を作ってくれる。それでも俺が入り口で動かずにいると、朔が母に顔を近付けて話しかけた。

「ママ、お兄ちゃんが来たよ」

 母は、朔の声に何の反応も示さない。

「陽央も話しかけてやれ」

 親父に背中を軽く押されて、俺は弾かれるようにして朔の隣に並んだ。

 話しかけるって何を……?

 目を閉じた母の顔をじっと見つめる。覚悟を決めてやってきたものの、いざ母を目の前にすると言葉が出なかった。

「呼びかけたら聞こえるかもって。先生が言ってた」

 黙り込む俺の隣で、朔が小さく呟く。

 呼びかける……?

 俺は昔、このひとにどんなふうに呼びかけていただろう。そういえば、学校から帰ったときはキッチンに立つこのひとの背中に呼びかけていたっけ。

 ただいま、お母さんって。

「お母、さん……」

 呼びかけたその瞬間、偶然なのかそれとも本当に俺の声が届いたのか、母の指がピクリと反応した。

「ママ?」

 それに気付いた朔が、母の手をぎゅっと握りしめる。

「ママ? ママ! 聞こえる? 朔とお兄ちゃん、ここにいるよ!」

 朔の声に反応するように、母親の指がまたピクリと動く。

「お兄ちゃんも、もっとお母さんのこと呼んで!」

 朔が涙目で俺を見上げて必死に訴えかけてくる。

「お母さん……」
「ママ!」

 朔とふたりで何度も呼んでいると、母がゆっくりと目を開けた。

 ドクン、と心臓が大きくはねる。目を開けた母は緩慢な動きで、視線だけを俺と朔のほうに動かした。母が朔の手を指先だけで弱々しく握り返す。酸素マスクをつけた母の唇は、微かに震えていた。

「ママ……?」
「朔、ごめん、ね……ずっと、守ってあげられなくて……」

 母が喉の奥を絞るように出した声は、消え入りそうなほど掠れていた。

「ママ、そんなこと言わないで」

 手をきつく握りしめる朔に僅かに頷くような仕草をした母が、ゆっくりと俺に視線を動かす。

「陽央……ありがとう。あなたの顔、また見れてよかった……」

 目を細めた母が、ほんの少しだけ笑ったように見えた。

 本当にそう思ってる……? 俺を置いて行ったのはあなたなのに。苦しそうに息を吐く母をじっと見つめる。

「あなたにとって、俺は何でしたか?」

 一度でも、俺がいてよかったと思ったことはある……?

 ぽつりとつぶやくと、母がとても優しい目をして言った。

「とても大事な、息子で……、忘れたことはなかった……」

 苦しそうな息とともに吐き出された言葉を聞いた瞬間、瞼の裏が熱くなった。

「でも、置いて行った……」

 帰ってくることを疑わずに、他所行きの水色のスカートを履いた背中を見送ったのに。母がキッチンに残していったのは、俺の好きなエビフライとタルタルソース。

 もし本当に大事だと思っていてくれたなら……。

「置いて行かれたくなかった……」

 ぽつりと低くつぶやいたのは、子どもの頃からずっと胸の中に押し留めていた本当の気持ち。

「ごめ、……なさい……」

 横たわった母の頬を涙が伝う。俺のほうに伸ばそうと、母が懸命に腕をあげようとする。でも力が入らないのか、指先が僅かに震えただけだった。

 俺が歩み寄ってその手を握れば、母は安堵するのかもしれない。だけど、母に向かって手は伸ばせなかった。

 今さら謝られても、こんな状況でも。やっぱり置いて行かれたという幼いときの痛みをそう簡単に消すことはできないから。代わりに、拳をきつく握りしめて母を真っ直ぐに見下ろした。

「俺への謝罪はいらない。だけど、朔に俺と同じ思いさせんな」

 弱々しい眼差しで俺を見つめた母が、頷く代わりに大きくひとつ瞬きをする。

 意識を取り戻して容態が一時回復したように見えた母が再び昏睡状態に陥ったのは、翌日の明け方だった。病室で、朔が母の手を握りしめながら必死に呼びかける。その後ろで、俺も無言のままに回復を祈った。

 だけど……。その日の夜。母は朔と俺の前で再び目を開けることなく、静かに息を引き取った。


 葬儀が行われたのは、母が亡くなった2日後だった。ひっそりと行われた葬儀に、義理の母親と和央も参列した。

 母が亡くなってから、朔や母の病気のことを知った今のお母さんは、親父にひどく怒ったそうだ。早く言ってくれたら、もっと力になれたのに……と。

 和央はあまり状況を飲み込んでいないようで、自分の母親の隣に寄り添っていた。それでもいつもとは何かが違うのだということは理解できたようで、終始神妙な顔をしていた。

 葬儀には江麻先生も来てくれた。母が息を引き取った瞬間も、通夜や葬儀の間中も全く涙を溢さなかった朔は、彼女の顔を見たときだけ、ほんの少しだけ泣きそうに顔を歪めた。こんなときなのに泣けない朔を見ていると、胸が痛かった。

 火葬場で母の棺が火葬炉の中に入れられるとき、朔が足を一歩前に踏み出す。朔には俺と同じ思いをさせるなと言ったのに。棺に駆け寄って縋りたいのを必死に堪える朔の横顔を見ながら、俺は悔しくて仕方なかった。

 葬儀が終わった日の夜。朔はいつも以上に静かだった。朔にかける言葉が見つけられない俺は、淋しそうな横顔を見つめることしかできなかった。

「もう寝るか。疲れたよな……」

 夜遅くなってようやく声をかけると、朔が無言で頷く。部屋の端でずっと座り込んだままでいる朔のために布団を敷いてやると、彼女は服も着替えずにそのまま布団に潜り込んだ。

 目の上まで布団を引っ張った朔が、俺に背中を向ける。電気を消して俺もベッドに潜り込むと、朔が消えいりそうな声でつぶやいた。

「これから、どうなるのかな……。朔、ひとりになっちゃった……」

 俺に背中を向けたまま、朔が乾いた声で笑う。子どもらしくないその笑い方に、胸がギリギリと傷んだ。

 視線をやると、俺に背を向けた朔の肩が小さく震えていて。その背中が声を殺して泣いているみたいに見える。俺はベッドから起き上がると、布団で寝ている朔の側にしゃがみ込んだ。

「朔」

 朔は、母親が亡くなってからまだ一度も泣いてない。俺の前でまで泣くのを我慢することないのに。もっと、普通に泣けばいい。

 そっと肩に手をのせると、朔が起き上がって顔をあげた。朔の黒目がちの瞳が、薄闇の中で真っ直ぐに俺を見据える。その瞳には、窓から薄っすらと差し込む月の光が反射していて。見つめられた眼差しの強さにドキリとした。じっと俺を見上げる朔の目に、涙なんてなかったから。

「お兄ちゃん。朔、大丈夫だよ」

 朔が薄っすらと微笑む。作られたその笑顔は、どう見たって大丈夫だとは思えない。

「どうして泣かないんだよ」

 こんなときですら作り笑いを浮かべる朔に、苛立ちを覚えた。

「ガキのくせに。悲しいときは悲しいって、ちゃんと泣けよ」
「だって、大丈夫だから」

 それでも強がろうとする朔の態度に我慢ができなくて、握りしめた拳を床に叩きつける。静かな部屋に鈍い衝撃音が響いて、朔が怯えるように肩を震わせた。

「だったらせめて、その笑い方やめろ。悲しいときに笑うのはやめろ。笑うのは、嬉しいときか楽しいときだろ」

 床に拳を押し付けたまま、低い声でそう言って朔を睨む。その瞬間、俺を見つめる朔の目からツーっと涙が零れ落ちた。涙の雫が、朔の手の甲にぽとりと落ちる。それが、限界を知らせる合図だった。

「うーっ……」

 小さな呻き声とともに、朔の両目から涙が溢れ出して止まらなくなる。

「う、わぁぁぁっ……」

 小さな呻き声が大きな泣き声に変わるまで、それほど長い時間はかからなかった。今まで我慢していたものが一気に溢れ出してきたのか、朔は堰き止められていたダムが崩壊するみたいに激しく泣いた。

「ひとりなんかじゃないよ。俺はお前の家族だろ」

 朔の肩を引き寄せて包み込む。腕の中で嗚咽を漏らす朔を、苦しい気持ちで抱きしめた。