実の母親と再会してから、朔は頻繁に病院にお見舞いに行くようになった。一緒に行かないかと何度か朔に誘われたけど、俺は毎回誘いを断った。

「ママ、お兄ちゃんにも会いたがってると思う」

 悲しそうな目で朔に言われたけど、俺の心は動かなかった。今さら会いたがられたって、そんなの都合がよすぎる。

 親父経由で病院から連絡があったのは、母と再会してから2ヶ月が過ぎた夜だった。

「陽央、すぐに朔と病院に向かえるか?」
「今から?」

 親父の焦った声に、心臓がドクンとひときわ大きな音をたてる。

「由希子が危篤なんだ……」

 親父の言葉に、意識が一瞬遠くなった。

 病室で見た、やせ細ったあのひとの白い腕が脳裏に浮かぶ。胸が、激しく騒ついた。

「陽央、大丈夫か?」

 ゆっくりとした声で親父に話しかけられてはっとする。

 何を動揺してるんだ、俺は。あのひとは、朔の母親だ。今の俺には関係ない。

「陽央?」
「あぁ、聞こえてる」
「今から車で迎えに行くから、いつでも出られるようにしといてくれ」
「わかった」

 電話を切って顔をあげると、朔が不安そうな目をしていた。勘のいい朔のことだから、何か感じ取っているんだろう。

「ママのこと?」

 どう切り出すか迷っていると、朔のほうから訊いてきた。

「危篤だって。今から親父が迎えに来る」

 朔の顔からすーっと血の気がひいていく。だけど彼女は、落ち着いていて取り乱したりはしなかった。

「準備するね」

 キビキビとした動きで部屋の中を歩きまわる朔を見つめながら、俺は今置かれている状況の現実感のなさにひとり茫然としていた。

 30分もしないうちに、親父からアパートに着いたという連絡がある。玄関先で茫然と立っていると、朔が小さな手で俺の指先をぎゅっと握った。

「お兄ちゃん、行こう」

 繋がれた手をぼんやり見ていると、朔が小さな声でつぶやいた。

 行こう? 行く、のか……俺も……? 

 視線をあげると、朔が困った顔で俺を見ていた。

「お兄ちゃん、行こう。行かなきゃ……」

 朔が俺の手を引っ張る。スニーカーを履きながら視線をあげると、靴箱の上に無造作に置かれたタバコの箱とライターが目に入る。手を伸ばしてそれらをつかむと、俺は朔に引きずられながら家を出た。

 アパートの下に降りると、親父が車から出て俺たちのことを待っていた。後部座席のドアを開けて、親父が先に朔を車に乗せる。それから、朔に引っ張られるようにして出てきた俺を見て親父がつぶやいた。

「大丈夫か?」

 親父の言葉に表情が歪む。

 どうして俺にそんな言葉かけるんだ。聞くべき相手は、俺じゃなくて朔だろ。

「何でそんなこと聞くんだよ」

 自嘲気味に笑って、朔の隣の席に座る。病院に向かうまでの間、親父が母の状態を話してくれた。

「2日くらい前に、体調を崩して熱が出たらしい。そこからなかなか回復しなくて、夕方から昏睡状態になってるそうだ」

 親父の話を聞きながら、朔が両手を膝の上で握りしめてうつむく。

「そんな、悪かったの?」

 病院で見た母の腕はとても白くて痩せていた。病状が良くはないのだろうとは思っていたけど、一時帰宅の話も出ていたみたいだし、悪すぎるわけでもないのかと安易に考えていた。それに、親父が初めて朔をうちに連れてきたときだって「長引くかもしれないけれど母親が入院してる間だけ預かって欲しい」と、そんなふうに言ってたはずだ。

「朔を預かる少し前に、由希子は癌の摘出手術を受けてる。そのあとで手術で取り除けない場所への転移が見つかって、入院して治療を受けていた」

 赤信号で車が止まると、ルームミラー越しに親父と目が合った。

「余名宣告は受けてた。それでも、何とかまた朔と暮らせるようにと頑張ってたんだ」
「そのことを朔は……」
「由希子には黙っておくように言われてたんだが……由希子と相談して、この前病院に見舞いに行った帰りに朔にも話した」

 強く握りしめすぎているのか、膝の上に置かれた朔の手がやけに白かった。
 
 知ってたのか。だから、最近しょっちゅう病院に行ってたんだな。どんな思いで、いつも母親を見舞っていたんだろう。家での朔は今までとちっとも変わらない様子だったから、全然気づかなかった。

 車内から会話がなくなる。それから病院に着くまで、誰もひとことも話さなかった。
 
 病院に着くと、俺たちは夜間入り口から中に入った。夜間専用の窓口で親父が用件を伝えると、受付の人が連絡をしてくれる。

 親父の後ろで、張り詰めた表情をしている朔。その横顔を隣で見つめながら、俺は自分が今ここに一緒に立っている理由がよくわからなくなった。

 8歳のときに別れて、それから一度も会うことのなかった実の母親。幼い自分を置いていったあのひと。10年以上ぶりに突然再会したと思ったら、そのひとは病気で。危篤だから立ち会えなんて……。そんなの勝手すぎる。

「俺、無理だ」

 ぽつりとつぶやくと、朔が顔を上げた。

「陽央?」

 親父が心配そうに振り返る。

「悪い。親父……」

 つぶやいた次の瞬間にはもう、俺は外に向かって駆け出していた。

「陽央!」

 呼び止められたけど、立ち止まれなかった。病院を飛び出してからは、行き先も考えずにただ闇雲に走った。そのうち、息が切れて足が止まる。膝に手をついて呼吸を整えてから顔を上げると、視線の先に河原が見えた。

 土手のそばまで歩いていくと、河原沿いの道から川を見下ろす。暗くてよく見えないけれど、静かに流れていく川の水の音が聞こえた。

 暗い河原をぼんやりと見つめていると、スマホが鳴った。親父だと思ったから、敢えて取り出して見ることもしなかった。長い着信が途切れると、数秒空けてまた着信が鳴る。それも無視し続けていると、そのうち着信は鳴らなくなった。

 ゆっくりと土手を下ると、水の流れる音がさっきよりも近くなる。川を見つめながら、俺は水が流れていく音を聞くのに集中した。そうしないと、頭の中が余計な感情に支配されてしまいそうで怖かった。

 暗がりの中で、ただ水が流れていく音が聞こえてくる。やがて心が少し落ち着いてきたとき、スマホが再び鳴り始めて思わず心臓が止まりそうになった。

 親父も結構しつこい。電源を落としておけばよかった。スマホを取り出した俺は、画面に表示された名前を見てドキリとした。電話をかけてきたのは親父ではなくて、江麻先生だったからだ。

 夜もそこそこに更けていて「今からごはんでも……」なんて誘われるような時間じゃない。それに、俺から彼女にかけたことはあっても、その逆はほとんどなかった。

 こんなときに、何だろう。鳴り続けるスマホを見つめていると、留守電に切り替わる。発信音のあと、向こうがメッセージを残し始めたから、躊躇いながらも通話ボタンを押した。

「もしもし……」
「あ、お兄さんですか? 繋がってよかった」

 安堵の声を漏らす江麻先生に、どう反応を返せばいいのかわからない。

「あの、何か……」
「突然すみません。さっき朔ちゃんから連絡があって。お兄さんと連絡が繋がらないから、私からも連絡を取ってもらえないかって言われて」
「そうですか。でも、俺は病院には戻りませんから」
「あの、病院って、何かあったんですか?」

 桜も親父も、関係ない江麻先生を巻き込むなんて……。ちょっとムカついて電話を切ろうとすると、江麻先生が心配そうに問いかけてきた。

「朔ちゃん、わたしにお兄さんに連絡取ってほしいって言うばかりでそれ以外のことは何も言わなくて。でも、何だか切羽詰まったみたいな声だったから心配で」

 朔は何も言ってないのか。それがわかると、江麻先生に冷たい声で八つ当たりした自分が少し恥ずかしくなった。

「すみません……」
「いえ。とにかく、お兄さんと連絡が取れてよかったです。朔ちゃんに連絡してあげてくださいね」

 江麻先生が微笑んだのか、耳元で空気が揺れる気配がする。直接見ることはできなくても、彼女の笑顔を思い出すと頑なだった心がじんわりと解けた。

 朔は今頃どんな思いで病院にいるんだろう。身寄りは誰もいなくて、そばにいるのはその辺の顔見知りよりは少しだけ信頼できるかもしれない俺の親父だけ。危篤の母親のそばで、不安で泣いているかもしれない。

『朔は嬉しいよ。お兄ちゃんがほんとの家族で』

 目を閉じると、朔の言葉が蘇る。同時に浮かぶのは、ときどき不安そうに揺れる黒目がちのまん丸な瞳と、はにかんだ笑顔。
 
 それで、思った。

 朔はきっと泣いてない。たぶん、ひとりで泣けてない。

「同じだったんです。俺と朔の母親。その母親が、今危篤なんだそうです」
「え……」

 江麻先生が言葉を詰まらせる。だけど俺はスマホを握りしめて、独り言みたいに話しを続けた。

「親父に連れられてさっき病院に行ったけど、俺は母には会わずに逃げてきました。何度も連絡がきたけど無視してたから、朔が困ってあなたに助けを求めたんだと思います」

 朔が困ったときに助けを求める相手は決まって江麻先生。俺も朔が熱を出したときや朔のことで困ったときに真っ先に助けを求めていたのが江麻先生だったから。その辺がやっぱり、兄妹なのかもしれない。

「朔の母親は、俺が子どものときに親父と離婚して家を出ていった人で。少し前に偶然再会したんです」
「はい」

 江麻先生が優しい声で相槌を返してくれるから、言葉にして全て吐き出したくなる。

「再会してから自覚したんですけど、俺、母のことをずっとどこかで恨んでたんですよね。親父が、嘘を吐いて出て行ったきり戻らなくなった母の恨み言も悪口も言わないから、俺も気にしてないふうをずっと装ってきたけど……あのひとは俺を捨てた人なんだって、本当はずっと、心の中で思ってたんです」

 江麻先生は電話口の向こうで静かに俺の話を聞いてくれていた。

「病気でやせ細った母に再会したとき、俺のことを懐かしむみたいに呼んだあのひとのことが、どうしても受け入れられなかった。今さらこんなふうに現れてもらったって困る。俺のこと捨てて行ったんだから、別れたあのときよりも幸せでいてくれなきゃ困る。俺の名前も存在も忘れててくれなきゃ困る……」

 スマホを握りしめる手に力がこもる。

「そうじゃないと、俺はあのひとを恨みきれない……」

 病院のベッドの上で、頼りなさそうに俺を見たあのひとの目を思い出す。記憶に僅かに残るあのひとは、あんなに小さくはなかったはずだ。

「辛かったですね……」

 俯いた俺の耳に、江麻先生の優しい声が届く。

「ごめんなさい。こんな言葉しかかけることができなくて……」
「いえ。こちらこそ、すみません。こんな話聞かせてしまって……」
「いいえ。辛いときなのに、私なんかに話してくれてありがとうございます。私がこんなこと言うのは違うのかもしれないけど……」

 江麻先生が遠慮がちに口ごもる。

「行ってあげてください。病院」

 だけどすぐに、はっきりとした口調でそう言った。

「このまま逃げてたら、お兄さんはきっと今よりもっと後悔すると思います。恨んでたつもりなのに恨みきれないのは、やっぱりお母さんが『お母さん』だからじゃないですか? お母さんとのいい思い出もお兄さんの中に残ってるからじゃないですか? 置いていかれて辛かった気持ちも、恨んでた気持ちも伝えられるうちに伝えるべきです。それ以外にも想いがあるなら、それも」

 江麻先生の言葉に心が揺れた。

「でも……」
「子どもが親に言いたいこと伝えて何が悪いんですか? 我慢しないでちゃんと言っていいんです。お兄さんも、朔ちゃんも」

 スマホを握りしめたまま、沈黙する。

「あの、偉そうなこと言ってすみません……」

 しばらく黙っていると、江麻先生の申し訳なさそうな声が聞こえてきたから、小さく首を横に振った。

「いえ、ありがとうございます。病院、行ってきます」
「お母様の回復を祈ってます」
「ありがとうございます」

 もう一度礼を言うと、江麻先生との電話を切った。