朝食を食べたあと、俺たちは電車とバスを乗り継いで病院へと向かった。病院の待合室は、土曜の午前の診察を待つ人達で混み合っている。

「ここで待ってるから行ってくれば?」

 待合室の空席を見つけて俺が腰掛けると、同じ目線の高さになった朔が不安そうに眉をハの字に下げた。

「ほんとに、行っていいかな?」

 うつむいた朔が、持ってきた紙袋をぎゅっと握る。そこには、朔が一晩かけて作った折り紙のくす玉が入っていた。

 紙袋の中には白と黄色が好きだという母親のために選んだ小さなブーケもある。せっかくお見舞いに行くのに折り紙だけじゃ寂しいから、病院行きのバスに乗る前に花屋にも寄ったのだ。これだけ準備を整えてきたのに、やっぱりやめておくじゃ困る。俺は苦笑いを浮かべると、朔の頭をくしゃりと撫でた。

「行ってダメなわけないだろ。それ、頑張って作ったんだし」

 朔が上目遣いに俺を見る。その目は「でも……」と、まだ言い訳をしたそうだった。

「ひとりで不安なら、病室の前まで一緒に行ってやろうか?」

 俺がそう言うと、朔がちょっと迷うように首を傾げて。それから、ぶんっと小さく首を振る。

「でも、それだったら前と同じだから。やっぱりひとりで行ってくる」

 意を決したように、朔がくるりと俺に背を向ける。だけど、病棟へ続くエレベーターに向かって踏み出したはずの朔の足は、一歩進んだだけで止まってしまった。

「やっぱり、病室の前まで一緒に行ってやる」

 椅子から立ち上がって手を引っ張ると、朔が抵抗するように俺の手を振り払った。

「何だよ、いつまでもぐずぐずしてるからだろ」

 はっきりしない朔の態度にイラついて、つい不機嫌な声が出てしまう。
 
「でも、おまじないかけてたから……」

 俺の声に萎縮して肩を竦めた朔が、小さくつぶやく。訝しげに首を傾げると、朔が眉根を寄せて俺を見上げた。

「朔がママに会うのを我慢して頑張ったら、ママの病気が治るっていうおまじない」

 おまじないって。願掛けしてたってことか。自分が我慢すれば、母親の病気も治るっていう。朔が決めたなんの根拠もない願掛け。

「だったら、なおさら会いに行かなきゃ行けねぇだろ」

 俺は朔の考えに腹の底からムカついていた。もう一度朔の手を握ると、繋いだ手を引っ張ってエレベーターまで連れて行く。

 だって、7歳の子どもが必死にそんな願掛けするってことは……。そんな願掛けしなきゃいけないくらい母親の病気が悪いんだってことを、朔自身が感じとっているからじゃないか。

 親父が母親の容態について、朔にどういう説明をしているのかはわからない。でもたぶん朔は、もしかしたら危ういかもしれない母親の状態をわかってる。

「お兄ちゃん……」

 エレベーターに乗り込もうとする俺に、朔が軽い抵抗を示す。俺はそれを無視すると、朔をエレベーターの中に引き込んだ。

「会わないまま後悔するより、会って後悔したほうがいいだろ」

 ボタンを押してエレベーターの扉を閉めながら、強い眼差しで朔を見下ろす。何か言いたげに口を開きかけていた朔は、俺の手を握り返すと、視線を落としてコクリと頷いた。

 以前シロツメクサを渡しにきたときの記憶を辿り、エレベーターを5階で降りて、ナースステーションに向かう。病室番号確認しようとナースステーションの中を覗くと、若い看護師が近付いてきた。

「どうされましたか?」
「この子の母親のお見舞いで……」

 朔の肩に手を載せて押し出すと、看護師が朔の目線の高さまで屈んで微笑んだ。

「お母さんのお名前は?」
「大原、由希子です……」

 朔がつぶやくと、看護師が真顔になる。

「大原さんの……ちょっと待ってね」

 彼女はそう言うと、俺たちを残してナースステーションの奥へと引き返して行った。その背中を見送りながら、何だか嫌な予感がした。

 以前来たときは、すぐに病室を教えてもらえたのに。看護師の妙な反応に胸騒ぎがする。同じように何か感じたのか、朔も不安気にナースステーションの奥を見つめていた。

 俺たちの気にしすぎかも。それを伝えたくて、無言で朔の頭をくしゃりと撫でる。この前の看護師と違って若い人だから、きっと新人かなんかなんだ。だから念のため、確認しに行っただけ。そう思うのに、胸騒ぎが治らない。

 朔と並んで無言で待っていると、さっきの若い看護師が俺たちのところに戻ってきた。

「ごめんなさい。大原さん、最近5階から7階の病棟に移られたところで……7階でまた声をかけてもらえますか?」

 ドクンと、心臓が大きく脈打つ。即座に応答できずにいると、隣からか細い声が聞こえてきた。

「わかりました……」

 震えながらもちゃんと応答したのは、俺じゃなくて朔だった。

「お兄ちゃん、7階だって」

 俺の手をとった朔が、感情の読めない瞳でまっすぐに見上げてくる。心なしか朔の手が震えているような気がして、俺は小さなその手を懸命に握り返した。

 教えられたとおりに7階のナースステーションを訪ねると、今度はちゃんと朔の母親の病室番号を教えてもらえた。そこは、ナースステーションから2番目に近い個室だった。

「大原 由希子様」という名前が貼られた個室のドアは固く閉じられていて、中から物音は聞こえない。しばらくドアの前で悩んでから、朔が意を決したようにドアをノックする。

「どうぞ」

 中から掠れた女性の声がして、個室のドアに手をかけた朔が、深呼吸するように肩を上下させる。一気にドアを横に押し開くと、室内を隠すために引かれたカーテンが見えた。中途半端に閉じられたカーテンの端から、個室のベッドが3分の1ほど覗いている。朔が病室の中に踏み込むのを躊躇していると、彼女の母親がゆっくりとベッドから身体を起こす気配がした。

「今日は何か検査でもありましたか?」

 カーテンの向こうの俺たちを看護師か医者と勘違いしているらしい。朔の母親が小さな声でぼそぼそと話しながらカーテンに手をかける。カーテンの端を掴む指は骨ばっていて白く、思わずドキリとさせられた。

 俺の前で小さく息を飲んだ朔が、カーテンが開く前に母親に声をかける。

「朔だよ」
「朔?」

 朔の名前を呼ぶ母親の声がそれまでより明るく響く。

「ごめんね。病気が治るまで待ってるって約束したけど、どうしてもママに会いたくて」

 カーテンの向こうの母親に、朔が早口でしゃべりかける。

「どうして謝るの?」

 優しい声が聞こえ、俺たちを遮っていたカーテンが開かれた。

「朔、来てくれてありがとう」

 カーテンの向こうから朔の母親が笑顔で現れる。そのとき、朔の後ろに立っていた俺と彼女の母親の目が合った。瞬時に、朔の母親の顔が凍りつく。

「は、るひさ……?」

 朔の母親が、俺の名前を呼んだ。掠れた、震える声で。

 その瞬間、忘れかけていた記憶が濁流のようにどっと俺の頭の中に流れ込んできた。


「お母さん、どこ行くの?」

 小2の秋。夕方の5時に帰宅すると、母が見慣れない大きな鞄を持って家から出てきた。

 玄関先で俺と鉢合わせた母が、何とも言えない複雑そうな顔をする。母は、学校から帰ってきた俺が遊びに行く前とは違う服を着ていた。白のブラウスに水色のスカート。それは普段ではあまり見ることのない、母の余所行きの服だった。

 母が夕方に出かけることは滅多にない。たまに何か買い忘れて夕方ちょっとスーパーに行くことはあったけど、着て行く服はデニムにTシャツを組み合わせただけの普段着で、街中に出かけるような格好でスーパーに行く母を見たことはない。よく見ると、普段はすっぴんに近い母が夕方なのに俺にもはっきりわかるくらい化粧をしていた。

「買い物?」

 不思議に思いながら首をかしげる。母は俺の質問に答えなかった。その代わりに、持っていた鞄が落ちる。何が入っているのか、地面に落ちた鞄はドスンと重たそうな音がした。

 鞄を見つめて数回瞬きしてから顔を上げると、母が何かを堪えるように唇を噛んで俺の前に跪いた。

「お母さん?」

 母の水色のスカートの裾が地面に擦れる。俺はスカートが汚れないか心配だった。そのスカートは母のお気に入りで、特に外で食事をするときは、食べこぼしたりしないように細心の注意を払っていたからだ。

 そわそわしながら地面についた母のスカートを見ていると、不意に肩をぎゅっと引き寄せられた。あまりにスカートのことを気にしていたせいで、母に抱きしめられていると理解するまでに少し時間がかかる。

「お母さん?」

 首を傾げたとき、母が俺の耳元でささやいた。

「ごめんね……」

 母に謝られる理由が全くわからなかった。今日は特に怒られることはしていないし、母との関係は朝から良好だったはずだ。学校から帰ってきたときだって、夕飯の準備をしていた母が笑いながら言っていた。

「今日は陽央の好きなエビフライよ」って。

 そのときに「タルタルソースつけてね」って言ったけど、もしかしてその材料が足りなくて作れないのかもしれない。母が手作りするタルタルソースは結構美味くて、それをかけたエビフライが俺の好物だった。
 
 だけど一度だけ、卵を切らしていて、母がエビフライにケチャップをかけて出してきたことがある。そのとき俺はものすごく不貞腐れて、母のことを困らせた。また俺が不貞腐れたら困るから、謝ってるのかな。

「今日は何を買い忘れたの?」

 笑って訊ねると、母が跪いたままはっとしたように顔をあげた。しばらく放心したように俺を見つめた母が、やがて小さく首を振る。

「うん、ごめんね。お母さん、ちょっと行ってくる」

 母がシュンと小さく鼻を啜る。

「うん、お腹空いてるし急いでね」

 そう言うと、母は黙って俺に回した腕を解いた。

「じゃぁ、ね……」

 立ち上がった母が淋しそうにつぶやく。

「いってらっしゃい」

 なぜか逃げるように俺から顔を反らすと、母はひとりで出かけて行った。

 家に入ると、父がリビングのソファーに座っていた。

「お父さん? 今日、仕事早く終わったの?」

 父が夕飯前に帰ってきているのは珍しい。嬉しくなって駆け寄ると、父がハッと驚いたように顔をあげた。

「陽央、いつ帰ってきたんだ?」
「今だけど?」

 珍しく早く帰ってきたと思ったら、変なことを訊いてくる。

「買い物に出かけるお母さんとそこですれ違ったよ」
「買い物? お母さん、そう言ってたか?」
「ん? うん」

 普段適当な父が、いつになく真剣な顔をしていた。首を傾げながら頷くと、父はしばらく俺を見つめてから「そうか」と小さくつぶやいた。

 変だな、と思った。今日は、父も母も。

「お母さん、早く帰ってこないかな。腹減ったー」

 父の隣に座って、テレビのリモコンに手を伸ばす。だけど、どれだけ待っても母は家に帰ってこなかった。

 その日、キッチンには母が揚げたエビフライとサラダとスープが置いてあった。冷蔵庫にはタルタルソースもちゃんと入っていた。材料は全部揃っていて、買い忘れなんてひとつもなかった。

 その日、母は俺の前から姿を消した。

 父と母が離婚した。そのことをきちんと理解したのはそれからしばらくあとのことだった。その理由が母の方にあった。それを何となく知ったのは、さらにそのあと。

 子どもの頃、きっとほとんどの子どもがそうであるように、俺も母親のことが好きだった。だから、母がいなくなった理由を知ったときは失望した。両親の離婚の原因は、母に親父以外の好きな男が現れたから。

 母は、俺を捨てていったんだ──。