朔の母親の一時帰宅の前日。大学から帰ると、朔がローテーブルの前で何かしていた。

「ただいま」

 よっぽど熱中しているのか、声をかけても俺を振り返らない。

「ただいま」
「おかえり……」

 もう一度声をかけてみると、朔が俺に背中を向けたまま応答した。
 
 真剣に何やってんだ。朔の背後から近付いて上から覗き込むと、テーブルには同じ形に折られた色とりどりの折り紙のパーツがいくつも散らばっていた。そのパーツをひとつひとつ手にとりながら、朔が既に半分ほどできあがっている球形の立体へと繋げていく。

「何それ?」
「くす玉」

 俺が訊ねると、折り紙のパーツのひとつを手に取った朔が、首を捻りながらぼそりと言った。

「ママへのプレゼント。ここからが難しくて、なかなか完成しないの」
「へぇ」

 そういえば、折り紙で何か作るって言ってたな。

 見ていると、朔がまだ半分しかできていないくす玉に折り紙で作ったパーツを差し込んだり外したりと試行錯誤している。朔が難しいと口にしたとおり、完成までにはまだまだ時間がかかるらしい。しばらく真剣に作業する朔を眺めていたけれど、そのうちバイトの時間が差し迫ってきた。

「じゃぁ、俺、バイト行くから」
「うん」

 出掛けに声をかけたけど、母親へのプレゼント制作に夢中な朔の声はそっけない。俺は苦笑いを浮かべると、バイトへと向かった。

 帰ってくると、部屋のドアの隙間から灯りが漏れていた。バイトから帰ってきたときには朔が寝てしまっていることも多いけど、今日はまだ起きているらしい。熱心に作っていた折り紙のくす玉が、まだ完成していないのかもしれない。

「ただいま」

 部屋のドアを開けながら声をかけたけど、朔の姿が見えない。ローテーブルの上には折り紙のパーツが乱雑に撒き散らされていて、下半分が完成していたはずのくす玉は、握り潰されて不恰好にひしゃげていた。

 俺の知る限り、朔は子どもの割に根気強いやつで、難しいからといって自棄になったり、やりかけたことを途中で投げ出すタイプじゃない。だから、くす玉が完成するどころか、故意に崩されていることが意外だった。

 ローテーブルの向こうに視線をやると、朔が俺のベッドの上で顔を枕に押し付けるようにうつ伏せていた。

 寝てる? 電気つけっぱなしで布団もかけずに? 全ての行動が朔らしくない。

 そっと近づいて肩に手を置くと、朔の身体がびくりと震えた。

「起きてるのか?」

 声をかけても返事がない。

「ちゃんと布団かけて寝ないと風邪ひくぞ。ていうか、風呂入ったのかよ」

 俺が出かけたときと同じ服装のままで寝ている朔の肩を揺さぶる。

「明日、母親が一時帰宅するんだろ? ちゃんと風呂入って寝ろよ」
「……、できないって」

 掛け布団を引っ張って朔を揺り起こそうとすると、枕に顔を押し付けたままでいる朔のくぐもった声が聞こえた。

 どうやら眠っていたわけではないらしい。朔の言葉の意味を図りかねていると、彼女がもう一度つぶやいた。

「できないって。ママ、いちじきたく……」

 朔の肩が小刻みに震える。

「できないって、何かあったのか?」

 朔がうつ伏せたまま小さく首を振る。 

「朔?」

 声を殺して泣いているのかもしれない。震える小さな背中に手を伸ばしたとき、朔が枕から顔をあげた。身体を起こしてベッドに座り直した朔の瞳は今にも泣きそうに揺れていた。

「さっきおじさんが来て、いちじきたくがダメになったって。ママ、昨日の夜から熱が出て調子が悪いんだって……」

 朔の目に涙はないが、話す声は今にも泣き出しそうに震えている。誰がどう聞いたって、泣くのを我慢している声だった。

「いちじきたくは当分無理だって」
「親父はそれだけ伝えにきて帰ったのか?」
「うん、お兄ちゃんに電話したけど繋がらなかったって……」

 朔に言われてスマホの履歴を確かめる。気付かなかったけれど、バイト中に親父からの着信が一件あった。バイト中だったから仕方ないけれど、親父からの電話に出れなかったことを後悔する。

 ローテーブルの上の折り紙の残骸を横目に、俺はため息を吐きながらくしゃりと髪を掻いた。何の前触れもなく現れた親父に一時帰宅がダメになったことを知らされたときの朔のショックは、相当でかかったはずだ。だって朔は、何日も前から母親の一時帰宅を楽しみにしていたんだから。
 
「母親の体調、そんなに悪いの? 親父、何て言ってた?」
「わからない……」

問いかけた瞬間、朔の表情がゆがむ。声を震わせながらも、朔が必死で泣くのを堪えているのがわかる。

「親父に聞いてみる」

 俺は朔を慰めるようにそう言うと、親父に電話をかけた。

「陽央か?」

 俺からの電話を待っていたのか、数コールも鳴らないうちに親父の声が聞こえてきた。

「バイト中にうちに来たんだろ」
「あぁ、朔の母親の一時帰宅のことで話に言った」
「朔に聞いた。熱が出たって聞いたけど……」
「今朝病院から一時帰宅を見合わせると連絡があったんだ」

 話していると、横顔に視線を感じる。朔が俺の話を少しでも聞き逃すまいとしているのがわかって、妙に緊張した。

「容態はそんなに悪いの?」

 朔の前で聞き辛いけど、思いきって訊ねてみる。

「俺からも何とも言えない。病院からの連絡では、とりあえず熱は下がってきているらしい」

 親父は少し沈黙したのちに、俺の質問にそう答えた。

「朔が一時帰宅は当分無理だって言ってたけど」

 横顔に、朔の突き刺さるみたいな視線を感じる。今にも泣き出しそうなくせに絶対に涙を見せようとしない、朔の真っ直ぐな視線が痛かった。

「現段階では見通しがつかないらしい。楽しみにしていたみたいだから可哀想なことを──」
「見舞いとかは?」
「……見舞い?」

 痛いほどの朔の視線に耐えきれなくなって訊ねると、親父が一瞬妙な間を空けてから低い声で問い返してきた。

「一時帰宅できないなら、せめて朔を見舞いに連れて行けないかな、って」
「朔が、だな?」

 親父がやはり低い声のまま、確かめるようにそう訊ねてくる。

「あぁ、そうだけど」

 電話越しに感じる親父の妙な気配に首を傾げる。違和感を感じながらも頷くと、親父がため息を吐いた。

「見舞いは行っても大丈夫だ。朔にそう伝えてやってくれ。都合を教えてくれれば、俺が連れて行くから」
「連れて行くなら俺でも──」
「見舞いに行く日が決まったら、必ず連絡しろ」

 親父が珍しく強い口調で俺の言葉を遮る。

「必ず連絡しろよ」

 電話を切る間際まで念を押され、俺は戸惑いながらも「わかった」と言うしかなかった。朔を俺に預けてからほとんどずっと任せきりのくせに。大事な場面ではやっぱり父親面したいのかもしれない。

 顔を顰めながら通話終了ボタンを押すと、俺のことをじっと見ていた朔と目が合った。無言で何かを訴えてくる朔を安心させるように、唇をつりあげて笑顔を作ってみせる。

 俺はスマホをベッドに放り投げると、ローテーブルの前に座った。目の前にあるのは、作りかけで潰された朔の母親へのプレゼント。しばらくそれを見つめてから、ひしゃげたくす玉の出来損ないと、色とりどりのパーツに手を伸ばす。

「これ、どうやって作んの?」

 折り紙のパーツを持ち上げていろんな角度から観察していると、朔が何とも言えない苦い表情で俺を見つめた。

「作り方教えろよ」
「作ったって意味ない」
「どうして?」
「だって、ママは帰ってこないから。どうせ渡せない」

 折り紙のパーツを俺なりに組み立ててみようと試行錯誤を始めると、朔が投げやりにつぶやいた。

「帰ってこれないなら、この前みたいにこっちから行けばいいだろ」
「でも、約束したから。病気が治るまでいい子で待ってるって」
「別にいいじゃん。いい子でいなくったって」

 苦笑いを浮かべる俺を見て、朔が大きく目を瞠る。

「お前の母親だって、お前が会いに来て嬉しくないわけねーじゃん。さっき親父が言ってたけど、見舞いに行くのは大丈夫なんだって」

 朔が俺の言葉の意味を図るように首を傾げる。

「だから、これ完成させて見舞いに行けば? そしたら、お前の母親も元気になるかもよ」
「でも……」

 朔が何か言いかけて、黙り込む。俺はベッドに座り込んでいる朔に近づくと、彼女の頭に手をのせた。

「我慢すんなよ。わがまま言えるのなんて、ガキの特権だろ」

 乱暴に髪を撫でた、その瞬間。朔の表情がくしゃりとゆがむ。それでも泣くまいと奥歯を噛み締める朔に、俺は穏やかだけれど強い口調で言った。

「泣けよ。我慢せずに、ちゃんと泣けばいい」

 うつむいた朔が、静かに首を横に振る。必死に歯を食いしばったまま、朔は決して俺に涙をみせようとはしなかった。

 目覚めたとき、俺は前のめりに突っ伏すようにローテーブルに身体を預けていた。どうやら、ローテーブルにもたれかかりながら寝てたらしい。

 上半身を起こすと、肩から何かがずり落ちた。腰の周りにストンと落ちたのは薄手の毛布。瞼を擦りながらぼんやりとしていると、後ろから声がした。

「おはよう、お兄ちゃん」

 振り返ると、朔が湯気のたつマグカップを両手で包むようにして立っていた。

「お兄ちゃんも飲む? ホットミルク」
「あぁ……」

 思考の回らない頭で答えると、朔がキッチンのほうへ歩いて行って、電子レンジで牛乳を温めてくれる。朔から湯気のたつカップを受け取ってローテーブルに視線を向けたとき、色とりどりの折り紙で作られた綺麗な立体が目に映った。

「これ……」
「完成したよ」

 隣に座った朔が嬉しそうに笑う。それからすぐに、ちょっと恨めしげに俺を見上げた。

「ほとんど朔がひとりで頑張ったんだよ。お兄ちゃん、作り方教えてほしいって言っといて途中で寝るんだもん」

 朔に指摘され、昨夜の記憶を遡る。いつのまに寝たのか、途中から全く記憶がない。

「悪い……」

 ぼそりと謝りながら、首筋を指でひっかく。気まずさにうつむいた俺の顔を朔が横から覗きこんできた。

「お見舞い、ほんとに行ってもいいのかな?」

 黒目がちの朔の瞳が揺れる。俺はその目を数秒見つめ返すと、ベッドに投げ出してあったスマホを拾った。

「大丈夫だろ。見舞いに行く日が決まったら連絡しろって親父が言ってたし。電話してみる」

 だけど、土曜日の朝でまだ眠っているのか、親父は電話に出なかった。何度かかけなおしても、親父の携帯は留守電にしか繋がらない。

「頼りになんねぇな」
 
 軽く舌打ちしながらぼやくと、朔が悲しそうに折り紙のくす玉に視線を落とした。

「やっぱり、ダメなのかな。お見舞い……」

 部屋の隅には、自宅に帰るための荷物を詰め込んだ朔の鞄がぽつんと置かれてある。本当なら今頃、何日も前から用意していた鞄とプレゼントを持って、母親の元へ向かっていたはずだ。

「朝メシ食ったら行くか」

 俺がそう言うと、朔が不思議そうに数回瞬きをした。

「行くって?」
「お前の母親の見舞い」
「でも、おじさん電話に出ないんでしょ?」
「出ないほうが悪いんだから、ほっとけばいいだろ。見舞いくらい、俺が連れてってやるよ」

 前にも一度、朔と一緒にシロツメクサの花束を届けてる。

「ほんとにいいのかな?」
「いいだろ、別に」

 俺がそう言うと、朔がしばらく沈黙してから小さく頷いた。