「なんか、すみません。いつもいつも」

 朔と和央の荷物を持ってベンチに座っている江麻先生にジュースを渡すと、彼女の隣に腰をおろす。

「いえ、おかげで今年の夏は楽しかったです」

 クスリと笑うと、江麻先生はベンチの前の池に視線を向けた。池にはアヒルと鴨がいて、エサやりができる。朔とふたりでエサを投げて大笑いしている和央は、何やら楽しそうだ。

 遊園地にやって来た俺たちは、和央の年齢制限や身長制限に合わせていくつか乗り物に乗った。

 園内で昼ご飯を食べて、午後からも少し遊んで。チビ達に連れ回された俺と江麻先生は、池のそばでようやく休息がとれる。

「でも、疲れるでしょ? 普段子ども相手に仕事してんのに、休みの日にまであいつらの相手とか。ほんと、すみません」

 頭をさげると、江麻先生が顔の前で手を振りながらクスクスと笑った。

「全然いいんです。仕事もあの子たちといるのも楽しいし。休みの日もだいたい暇ですから」
「でも、たまにはデートとかもあるんじゃないですか?」

 いつもふわりと優しい笑みを浮かべる江麻先生。可愛いし、面倒見もいいから絶対彼氏だっていると思う。だとしたら、休みの日に子守りをさせて申し訳ない。気遣うように江麻先生の横顔を覗き見ると、彼女が残念そうに眉尻をさげた。

「デートとかあればいいんですけどね。残念ながら、今はそんな相手がいなくって」

 江麻先生が恥ずかしそうに笑って、困り顔になる。その表情に俺の心臓がドキッと跳ね上がった。

「そう、なんですか……」

 彼氏、いないのか。

 ほんの一瞬「よかった」と思ってしまう自分がいて。奈未と付き合っているくせに、不純だと思った。胸に湧き上がった不純な感情を振り落とすように小さく首を振る。それだけでは足りなくて、ジュースを勢いよく啜って不純な感情を流してしまおうとしていると、今度は江麻先生が俺の顔を覗き見てきた。

 アイメイクをほとんどしなくても十分に大きな彼女の目にじっと見つめられて、頬が火照る。

「お兄さんこそ大丈夫ですか? 遊園地なんて、私より彼女に付き合ってもらうほうがよかったんじゃないですか?」

 江麻先生が心配そうに首を傾げる。その仕草が、妙に俺の心を揺さぶった。

「いいんです、別に。俺の彼女は、あんまり子ども好きじゃないんで」

 最初、朔のことを疎ましがってた俺が言うのもなんだけど。前に奈未がケーキを持ってうちに遊びに来たときの朔の態度は、今思い出しても酷かった。

 たとえもう一度ふたりを会わせたとしても、奈未は朔と仲良くしたいとは思わないだろうし、朔も奈未には懐かないだろう。子どもは敏感だから、朔は奈未が浮かべる作り笑顔を見抜いていただろうし、彼女が自分に好意を持っていないことにも気付いていたはずだ。

 朔は、自分に好意を寄せていることがわかる人間に対してはちゃんと友好的だ。江麻先生と楽しそうに過ごす朔を見ていれば、それがよくわかる。

「そうなんですか。それは残念ですね」

 江麻先生が少し悲しそうに目を細める。

「んー。でも、和央も朔も江麻先生に会いたがってましたから。俺も、江麻先生とひさしぶりに会えて楽しかったし」
「そう言ってもらえたら嬉しいです。ありがとうございます」

 江麻先生がぱっと笑顔になる。計算のない柔らかな笑顔が、俺の胸を攫っていった。

 なんだろう。このふわふわとした、妙な気持ち。

 江麻先生からさりげなく視線を逸らしたとき、エサやりを終えた朔と和央が並んで歩いてくるのが見えた。

 俺と目が合うと、和央が、にたっと企むように笑って隣の朔に耳打ちをする。和央に何か吹き込まれたらしい朔が、俺のほうをちらっと見てくる。目が合うと、朔は慌てたように俺から視線を逸らした。

 何だ、あいつら。不審な目で見ていると、ふたりが俺と江麻先生の座るベンチまで戻ってくる。

「次はどうしようか?」

 江麻先生が笑顔で立ち上がると、和央が朔にさりげなく目配せをした。江麻先生は何も気付いていないみたいだけど、ふたりが内緒話をしながらこっちに歩いてくるところを見ていた俺は、和央の妙な行動が気になって仕方がない。

「カズ、お前──」
「にーちゃん、オレ、アイスたべたい! そのあいだ、にーちゃんとエマせんせー、ふたりでなにかのってきたら? な、サク!」

 何を企んでる? そう訊ねようとした俺の言葉を、和央が無邪気な笑顔で遮る。

「うん。お兄ちゃんも江麻先生もせっかく遊園地来たのに、何も乗ってないでしょ? 朔たち、アイス食べながら待ってるよ」

 朔が俺を見上げながら、早口で和央のあとに言葉を繋ぐ。すぐに彼らの企みに気付いた俺は、心の中で舌打ちをした。

 ガキのくせに、何だよ。その余計な気遣い。

 何をどう勘違いしているのか知らないが、和央は俺と江麻先生をふたりきりにしようとしているらしい。

 もしくは、和央が朔とふたりだけになりたいのかもしれないけど……。和央は「朔と遊園地に来れた」ということだけで満足しているみたいだから、企みの内容はきっと前者のほうだ。 

 江麻先生に気付かれないように目を細めると、和央が肩を竦めて朔の後ろに半分ほど身を隠した。盾にされた朔が、呆れ顔で和央を振り返る。そんな俺たち三人のやりとりを知らない江麻先生は、眉尻をさげると困ったように俺を見上げた。

「どうしますか? とりあえず子どもたちのアイスを買いに行きます?」

 首を傾げる江麻先生は、そう簡単には和央の企みにのってこない。保護者としてついてきてくれている彼女は、自分が遊園地を楽しむことよりも子どもたちのことを最優先に考えていて。俺と一緒にアトラクションに乗ろうなんて考えは、頭の中に一ミリもないのだ。

 あたりまえだけど、それはそれでちょっと悔しいな。

 そう思ったとき、ジェットコースターが轟音とそれに負けないくらいの甲高い叫び声を乗せて、俺たちの頭上を駆け抜けていった。

「うわ、こわそう」
「あれ、途中で逆さまになるんだよ」

 朔と和央が、猛スピードで去って行くジェットコースターを見上げてぽかんと口を開けている。ちらりと江麻先生の横顔を覗き見ると、彼女は走り去って行くジェットコースターを見上げて少し眩しそうにしていた。

「江麻先生って、絶叫系乗れます?」

 何気なく問いかけると、江麻先生が振り向いた。

「乗れますよ。というより、結構得意です。ああいうの」

 江麻先生がいたずらっぽく笑う。ふわふわした柔らかい雰囲気の彼女が垣間見せた子どもみたいな反応が、不意に俺の胸をざわつかせた。

「じゃぁ、一緒に乗りません? 子ども達がアイス食ってる間に」

 頭で考えるより先に、言葉が溢れる。それを聞いた朔が大きく目を見開いて俺を見上げ、和央がにやりと笑う。江麻先生が、驚いたように数回目を瞬く。

 それで俺は、また自分の軽率さを恥じた。

「ああ。すみません。俺、また余計なこと──」
「もしお兄さんがいいなら、ぜひ」

 誘いを取り下げようとする俺に、江麻先生がにこりと笑いかけてくる。きっと気を遣ってくれたんだと思うけど、それでもちょっと嬉しい。にやけそうになる口元を隠すように俯くと、和央が俺の足を押してきた。

「だったら、はやくいかないと。ジェットコースター、ならんでるよ」
「おい、カズ……」

 押されて歩き出そうとする俺を気にしながら、江麻先生が朔と和央を心配そうに見つめる。

「だけど朔ちゃんとカズくん、本当にふたりだけで大丈夫?」
「ふたりで平気だよ。そこのベンチでアイス食べとくね」

 朔は江麻先生を見上げて笑うと、俺の足を押している和央の腕をつかんで引っ張った。

「カズくん、行こう」
「サク?」

 どちらかというといつもリードをとるのは和央のほう。だけど、その和央が朔に引っ張って連れて行かれている。

 背筋を伸ばして歩く朔の横顔は凛としていて、不安そうに頼りなく俺を見上げるときの彼女とは全然違っていた。スタスタと歩き去って行く朔と和央の背中を見つめていると、江麻先生が困ったように首を傾げる。

「どうしますか、ジェットコースター。やっぱり、あの子たちのこと追いかけます? 短い時間ですけど、心配ですよね」
「朔はあれで結構しっかりしてるから、ちょっとくらいなら大丈夫だと思います」

 少し迷ったのちに、俺は朔と和央の厚意に甘えることに決めた。

「ジェットコースター、行ってみません?」

 もう一度誘いかけてみると、江麻先生が戸惑うように笑って頷く。

 ジェットコースターの乗り場に行くと、和央の言うとおり、長い列ができていた。30分待ちという表示を確認してから江麻先生と列に並ぶ。

 ジェットコースターの列には友達同士で来ているらしい学生のグループや若い男女のカップルが並んでいて、なんだか賑やかだ。

「夏休み、いつまでなんですか?」
「9月の2週目までです」
「いいなぁ。大学生って夏休み長いですよね」

 江麻先生と中身の薄いとりとめのない話ばかりをしているうちに、列は少しずつ進んで順番が回ってきた。

 ジェットコースターに乗り込むと、江麻先生が安全ベルを下げながら振り向く。

「私、叫んじゃうかもだけど気にしないでくださいね」

 江麻先生の言葉にちょっと笑って頷くと、ブザーがなってジェットコースターが動き出した。

 カタカタと音をたててレールを登っていくジェットコースター。下からコースを見ていたから、上がりきった瞬間に全速力で下降するのはわかっている。それでも、カタカタという音に合わせて鼓動が少しずつ高鳴っていく。そんな緊張感が心地よかった。

 ジェットコースターが登りつめると、前方からざわめきが聞こえてくる。次の瞬間、それは勢いよくレールを滑りおりていった。

 右に回ったり、左に回ったりしながら降下と上昇を繰り返し、風をきって全力疾走するライドに身体が翻弄される。

 隣から聞こえるのは、普段なら絶対聞けないような江麻先生の叫び声。彼女につられて少しだけ声をあげると、開放的な気持ちになって楽しかった。

「怖かったけど、楽しかったですね」

 ジェットコースターが停車すると、先に降りた江麻先生が俺を振り返ってにこっと笑う。つられて笑い返しながら、俺はふと気付いて江麻先生の口元に手を伸ばした。

「江麻先生、髪食ってる……」

 ジェットコースターで風に煽られたせいか、彼女の髪の毛先が唇の端にかかっていた。俺の指先が触れると、江麻先生の頬がぱっと朱に染まる。

「あ、すみません……」

 顔を逸らした江麻先生に慌てたように振り払われて、宙に浮いた俺の手は行き場をなくして下に落ちる。

 他意なく伸ばした手を振り払われたことと、江麻先生に謝られたこと。たぶんそのどちらもに、俺はほんの少しだけ傷ついていた。

「俺のほうこそ、馴れ馴れしくすみません。朔とカズが待ってるし、急いで戻らないと」

 作り笑いを浮かべてそう言うと、俺は江麻先生の横を早足ですり抜けた。

 何やってんだ、俺。髪が口にかかってるくらい、言葉で教えてやるだけで充分なのに。勝手に触ったりして、嫌がられるに決まってる。江麻先生は朔や和央の保護者として付き合ってくれてるだけなのに。

「あ、あのっ。お兄さん!」

 恥ずかしくて自己嫌悪に陥っていると、後ろからついてきた江麻先生に呼び止められた。振り返ると、頬を赤く染めた江麻先生が眉尻をさげて何か言いたそうに唇を震わせている。じっと待っていると、彼女が何か決意を固めたようにすっと息を吸い込んだ。

「あの、ありがとうございました!」
「え?」

 突然お礼を言われて、何のことだかわからず戸惑う。江麻先生を見つめ返していると、彼女が短い髪の毛先に指で触れながら恥ずかしそうに微笑んだ。

「髪の毛のこと。教えてくれてありがとうございました」
「あぁ……」

 たぶん江麻先生は、俺の手を振り払ったことを気にしてくれているんだと思う。勝手なことをして勝手に傷ついたのは俺なのに。それでも気遣いの言葉をかけてくれた彼女の優しさが胸に染みた。