「わー。にーちゃん、うみ!」

 海水浴場に着くと、和央がまだ空気の入っていない浮き輪を胸に抱きしめながら大声をあげた。目をきらきらと輝かせた和央が俺の横で「うみー! うみー!!」と興奮気味に連呼する。そんな和央の姿をちらりと見て、そばにいた大学生くらいの女の子たちがくすくす笑っていた。

「うるせーな。そんな連呼しなくったって、ここが海だってことはみんな知ってる」

 恥ずかしくなった俺は、和央の帽子を深く被せてその顔を周りから隠した。それを見た江麻先生が、くすりと笑う。

「カズくん、嬉しいんだよね」

 江麻先生に話しかけられた和央は、帽子の影から彼女を上目遣いに見て、こくんと頷く。

「だからって、うるさすぎ。朔なんて、さっきから一言もしゃべってないだろ。見習えよ」

 和央を諭しながら、江麻先生の横に立つ朔に視線を向ける。江麻先生の手を硬く握りしめた朔は、大きな目を見開いて、眼前に広がる海をじっと見ていた。口を軽く開けて、食い入るように海を見つめる朔の目は真剣だ。

「朔?」

 呼びかけてみたけど、俺の声が届いていないのか、朔は全く反応を示さない。ぴくりとも動かず、浜辺に打ち寄せてくる白い波をじっと見据えている。

「朔ー」

 もう一度呼んでみたけど、やっぱり無反応。どうやら朔は朔で、初めて見る海に興奮しているらしい。俺は対照的すぎるふたりの反応に苦笑した。

 それぞれに海に夢中な朔と和央は、当分ここから動きそうもない。俺たちが立っている場所は、波打ち際から適度に離れていて、荷物を置くにはちょうどよさそうだった。左右を見渡すと、近くに売店や貸しパラソルの看板が見えている。

 俺は叫んでいる和央と無言で海を睨んでいる朔をちらりと見ると、江麻先生に視線を向けた。

「江麻先生、ここでカズと朔のこと見ててもらえますか? 俺、あっちでパラソル借りてきます」

 江麻先生は海を前に対象的なチビふたりを交互に見ると、微笑ましそうに笑った。

「そうですね。それがいいかも」
「じゃぁ、荷物も一緒にお願いします」

 俺は江麻先生の足元に着替えやらタオルやらの入ったカバンを置くと、大きめのパラソルを借りにいった。パラソルの金を払うと、同年代くらいの日焼けしたお兄さんが、パラソルを運んで立ててくれる。パラソルが立った頃にはさすがに朔と和央の興奮も治まっていて、俺達は男女に別れて更衣室で着替えをすることにした。

 和央の着替えを手伝ってパラソルの下に戻ったとき、江麻先生と朔はまだいなかった。

「にーちゃん、にーちゃん。浮き輪!」
「あー、あっちで空気入れ貸し出してたよな。ついでに朔のも空気いれとくか」

 和央の手をひいて売店に行くと、店の横に置いてあった空気入れで子ども用の浮き輪をふたつ膨らませる。それからパラソルの下に戻ると、朔と江麻先生が戻ってきていた。

「あ、お兄ちゃん」

 俺と和央に気づいた朔が振り返って笑う。それを見た和央は、俺の手から子ども用の浮き輪をふたつひったくって朔のほうへと走って行った。

「サク、うみはいろう!」

 お互いに会うのはまだ2回目くらいのはずなのに、和央が偉そうに朔を呼び捨てる。和央は朔にひとつ浮き輪を渡すと、強引にその手を引いた。和央に手を引かれた朔が、困ったように俺を振り返る。

「行ってくれば?」

 子どもは子ども同士遊んでくれてたほうが楽だし。

「あんまり遠くまで行くなよー」

 俺が声をかけると、朔は肩を竦めながら仕方なくといった様子で和央に着いて海に向かった。

「年の近いきょうだいって、きっとあんな感じになるんでしょうね」

 波打ち際まで走っていく朔と和央の後ろ姿を見つめながら、江麻先生がつぶやく。

「え?」
「あー。私、妹がいるんですけど、6歳くらい年が離れてるんですよ。すごく可愛かったんですけど、6歳違うともう全然別次元のいきものなんですよね。話も合わないし、遊び方だって違うし。妹と対等で遊ぶなんてことはなかったから、年の近いきょうだいがいる友達のことを羨ましく思ってました」
「あぁ、だから」

 江麻先生の言葉に妙に納得して頷くと、彼女が不思議そうに瞬きをした。

「いや、江麻先生、長女っぽいから。なんか雰囲気が」
「それ、よく言われます」

 江麻先生が小さく苦笑いする。

「でも、その気持ちはわかりますよ。俺も、和央と年離れてるし。うちなんて14歳も離れてるから、気持ち的にはきょうだいって言うより保護者みたいな。そんな感じが強いかも」
「そうですよね。今日は朔ちゃんもカズくんも、年の近いきょうだいができたみたいで楽しいでしょうね」

 江麻先生が、朔と和央を見つめながら目を細める。それから俺を見て、にこりと笑った。

「あ、よかったらお兄さんも海に入ってきてくださいね。私、ここで荷物の番しときますから」
「江麻先生は入らないんですか?」
「私は大丈夫です」

 江麻先生は柔らかな口調で、でもきっぱりとそう言うと、パラソルの下で座り直した。パラソルが作る日陰で膝を抱えて座る彼女は、水着の上に長袖のパーカーを羽織ってショートパンツをはいていて、初めから海に入るつもりがないみたいだった。

 日焼けしたくないのかな。彼女の白い肌を見て、思う。

 海にきているのに露出の少ない江麻先生を見て、俺は彼女の恋人でも何でもないのに、少し残念に思った。

 たぶん奈未だったら、夏になるたび毎年新調するというビキニで海に走って行くと思う。彼氏的には、それはそれで心配だけど……。

 奈未のことを考えながら、俺は夏休みが始まる前に彼女とも海に行く約束をしたことを思い出した。未だ音信不通の彼女とのその約束は、果たして実現するのだろうか。

「にーちゃーん!」

 ぼんやりと考えていると、海のほうから和央が呼ぶ声が聞こえてきた。

「にーちゃん、うきわ、ひっぱってー!」

 和央がにこにこ笑いながら俺に手を振る。その周りを、朔が自分の浮き輪にのってパシャパシャと泳いでいた。

「行ってあげてください」

 眩しげに海のほうを見ながら、江麻先生が笑う。

「じゃぁ、ちょっといってきます」

 俺は江麻先生に向かって小さく頭をさげると、海へと向かった。波打ち際まで歩いて行くと、遠くで走る船が作った波が大きく打ち寄せてきて真っ先に足が濡れる。

「冷て」

 足に触れた海の水は、予想以上に冷たかった。とりあえず膝が浸かるくらいの深さまで進んだものの、あまりの海水の冷たさにそれ以上先に進むのを躊躇する。中途半端な深さの場所で立ち止まっていると、そこからさらに少し深いところで浮き輪で浮いていた和央が俺を呼んだ。

「にーちゃん、はやくきてひっぱって! じゃないと、サクにおいつかない」

 和央が朔を見ながら、不貞腐れた顔で浮き輪から腕を投げ出す。ふと見ると、朔がちょっと得意気な顔で数メートル先にある岩場へと泳いで行っていた。

「サク、およぐのはやいんだよ」

 どうやら和央は、朔に置いてけぼりをくらっているらしい。

「にーちゃん、おねがい!」

 和央が足をバタつかせている間に、朔はグングンと岩場に泳いでいく。俺は仕方なく和央の浮き輪を引っ張ると、岩場から浜辺までを往復してやった。
 
 和央に言われるままに浮き輪を引いて岩場まで何往復かしてから浜辺に戻ってきたとき、ふと、パラソルの下に座る江麻先生の姿が目に止まった。

 俺がパラソルを離れたときには彼女ひとりで座っていたその場所に、俺より少し年上っぽい男がふたり。彼女を囲むように座っている。日焼けしたガタイの良い男ふたりに囲まれて、江麻先生は困ったようにその身体を小さく丸めていた。

 なんだ、あいつら。ナンパ……?

 江麻先生の両隣の男たちを睨んでいると、浜辺に上がってきた和央が俺にまとわりついてきた。

「にーちゃん、もういっかいひっぱってよ」
「うるせーな。今それどころじゃねぇよ」

 また浮き輪を引くようにせがんでくる和央の手を軽く払う。

「にーちゃ──」

 不満そうな声で俺の手を再びつかんだ和央だったが、俺が江麻先生達のほうを睨んでいるのに気づくと一瞬黙り込んだ。

「にーちゃん、あれ、だれ?」
「知るか」

 和央に不機嫌な声を返すと、海からあがってまっすぐに江麻先生の元に向かう。俺が近付いていくと、江麻先生がほっとしたように表情を緩めた。

「何してるんですか?」

 抑揚のない低い声で訊ねると、江麻先生を両脇から挟むように座っていたふたりの男が、初めて俺の存在に気がついて顔をあげた。

「誰だよ、お前」

 男のうちのひとりが怪訝そうな目で俺を見る。もうひとりは、明らかにそいつらふたりよりも細い俺の身体を見ると、バカにするように、にやりと笑った。

「お姉さん、こいつ誰? まさか彼氏とかじゃないよな?」

 俺をバカにするように笑った男が、江麻先生の肩に腕を回す。彼女が眉を寄せてその腕を退けようとすると、男はそれができないように彼女の肩を抱き寄せた。

 確かに、俺は江麻先生の彼氏じゃない。だけど、彼女の肩に腕を回す男に嫌悪感を覚え、腹の底が熱くなるくらいにムカついた。

「俺のツレだから、その腕どけろよ」

 江麻先生の肩に腕を回す男を押しのけようと前に進み出る。そのとき、後ろから砂を蹴る小さな足音がふたつ。俺のほうに近付いてきた。

「ふたりともどうしたの?」

 俺のそばに駆け寄ってきた和央が、俺と江麻先生を交互に見ながら息を切らす。一緒に駆けてきた朔も、不安そうな目で江麻先生を見ていた。

「なんだ、こいつら……」

 あとからやってきた和央と朔を見て、男たちがちょっと微妙な表情になる。

「お姉さん、彼氏持ちじゃなくて、子持ち?」

 ふたりの男は、和央と朔を江麻先生の子どもかと勘違いしているみたいだった。

 このふたりが江麻先生の子どもだったらかなり若い母親だけど。あり得ない話でもない。彼女に子どもがふたりいるってなったら、ナンパ男もさすがに引くよな。

「家族で海水浴に来てるので、邪魔しないでくれますか?」

 俺は和央と朔の肩を引き寄せると、ふたりの男たちを睨んだ。そんな俺を、江麻先生が少し不安げに見つめてくる。

 江麻先生の両脇を囲んでいた男たちは互いに顔を見合わせると、無言のままに立ち上がって、微妙そうな表情で彼女から離れていった。

 男たちが立ち去ると、身体を強張らせていた江麻先生がほっとしたように息をついた。

「ありがとうございます」

 緊張がほぐれたのか、江麻先生の顔に少し笑顔が戻る。まだぎこちない彼女の笑顔を見て、さっきのふたりに対して怒りが湧いた。

「大丈夫でしたか?」
「はい、お兄さんが気づいてくれてよかったです」

 江麻先生が首を傾げてふわりと笑う。彼女の無防備な笑顔に、思わずどきりとした。一瞬で耳たぶがかっと熱くなるのがわかる。そんな自分の反応に驚いていると、和央が俺の手をくいっと引っ張ってきた。

「にーちゃん。オレ、エマせんせーとサクとは、かぞくじゃないよね?」

 和央が真ん丸い目で俺を見上げて、心底思議そうにそう訊ねてくる。それでようやく、火照った耳朶の熱が引いていった。

「ちがうのに、どうしてかぞくっていったの?」
「嘘も方便だよ」
「ほうべん、って?」

 和央は俺がナンパ男たちから江麻先生を助けるために吐いた嘘がどうも理解できないらしい。「なんで」「どうして」としつこく聞いてくる。

「あぁ、もううるせーな。これやるから、朔とジュースでも買って来い」

 質問に答えるのが面倒で、和央の手に1000円札を1枚握らせる。手の平のそれをしばらくじっと見つめていた和央は、にまりと笑うと海の家を指差した。

「カキごおりもかっていい?」
「いいよ」

 頷くと、和央は俺に問い詰めるのをやめて、朔の腕を引っ張った。

「いこう、サク!」

 いきなり腕をつかまれた朔は、少し迷惑そうにしながらも和央についていく。和央が朔と共に行ってしまうと、ようやく煩わしさから逃れられた気がした。

「ごめんなさい。カズくん、お兄さんが私と朔ちゃんのことを家族だって言ったのが不満だったのかもしれないですね」
「いや。不満とかじゃなくて、和央は一度何か気になるとしつこいんで」

 申し訳なさそうな江麻先生に、苦笑いを返す。

「そうですか……」

 江麻先生はつぶやくと、俺が座れるようにパラソルの下を一人分空けてくれた。

「ありがとうございます」
「いえ。みんなで使うために借りたパラソルですから」

 俺が遠慮がちに隣に腰をおろすと、江麻先生が両腕できゅっと自分の膝を抱えて海のほうに視線を向けた。

「気づいてくれてありがとうございます。ナンパって現実にされるものなんですね。私、ああいうの生まれて初めてで、びっくりしちゃいました」

 江麻先生がくすりと笑って、顎から鼻先までを抱えた膝に埋める。ちらりと横目で見ると、背中を丸めて座る彼女の肩が、ほんの少し震えていた。

 あぁ、怖かったんだ。相手はひとりじゃなく、ふたりだったし。

 俺は彼女をひとりでパラソルの下に残したことをひどく後悔した。 

 荷物と一緒にまとめて置いていたバスタオルを手に取ると、ぎゅっと握る。俺は力の限りにしばらくそれを握りしめたあと、江麻先生の肩にそっとかけた。

「ナンパされるのが初めてとか、意外です」

 震える細い肩をそっと抱きしめたい衝動に駆られるのを堪えて呟くと、江麻先生が膝に鼻先を埋めながらふふっと笑う。

「なんですか、それ?」
「普通にモテそうって意味です」
「それはお兄さんのほうでしょ?」
「違いますよ」

 俯きながら否定すると、江麻先生が上目遣いに俺を見てきた。無防備に見上げてくる大きな瞳にドキリとして、江麻先生から慌てて視線を逸らす。

「江麻先生も、俺たちと一緒に海に入ってればよかったのに」

 そうすれば、ナンパ男たちに声をかけられずに済んだと思う。

 俺の言葉に、江麻先生は膝を抱えて恥ずかしそうに俯いた。

「ダメなんですよ、私。実は泳げなくて……」
「泳げないのに、海への誘いを了承してくれたんですか?」
「すみません、つい。朔ちゃん、嬉しそうだったから。でも、保護者としてついてきたのに、お兄さんに迷惑かけちゃいましたね」

 江麻先生が恥ずかしそうに笑いながら、視線だけを俺のほうに向ける。笑いかけてくる彼女の肩は、もうさっきのように震えてはいなかった。

 かわりに、俺の胸の奥が微かに震えているような。そんな気がして。さりげなく、彼女の笑顔から視線を逸らす。その視線の先に、カキ氷を持って駆けてくる朔と和央が見えた。

「迷惑とか。全然思ってないんで」

 朔たちのほうに視線を向けながら呟く。そんな俺に、江麻先生が微笑みかけてくれたような気がして。胸の奥が、今度は確信的に強く震えた。