◆
「晴れてよかったですね」
海へと向かうバスの中。朔と一緒にひとつ前のふたりがけの席に座っている江麻先生が振り返った。ふわりとした柔らかな笑顔を、窓から差し込む夏の太陽が照らす。
「江麻先生、海」
だけど彼女が振り返ったのは、ほんの一瞬。朔に腕を引っ張られて、すぐに前を向いてしまう。
8月の初め。俺は和央と朔のふたりを連れて、海へと向かっていた。そこに江麻先生が加わることになったのは、予定外だ。
けれど、窓の外を見つめて控えめにではあるが確実に普段よりもはしゃいでいる朔と、バスの中で立ち上がってはうろちょろしようとする和央のふたりを俺ひとりで世話するのは思ったよりも大変で。江麻先生が保護者として付き合ってくれてよかったと心底思った。
江麻先生の同行が決まったのは一週間前。浜辺で履けるサンダルを買うために、朔と街に出たときのことだ。
自分の手持ちのサンダルがないことに気付いて、念のために確認してみたら、案の定、朔もサンダルを持っていなかった。俺が聞かなかったら、朔はきっと当日までサンダルがないことを黙っていて、手持ちのスニーカーで出かけるつもりだったんだろう。
「ついでにお前のも買ってやる」と言ったら、朔は「いらない」と俺の厚意を頑なに拒否した。ガキのくせに変なところで気を遣う朔の態度がムカついて、俺はほとんど無理やり朔を買い物に引っ張り出した。
自分のサンダルを手に入れたあと、朔と共にショッピーグモールの婦人靴の店に入る。だが、そこには子ども用のサンダルはほとんど置いていなくて、困っていたところへ偶然買い物に来ていた江麻先生に声をかけられた。
「海行くんだ? 朔ちゃん、いいね」
サンダルを買いにきた事情を話すと、江麻先生がにこりと笑う。
「よかったら、サンダル探し手伝いますよ。女の子のアイテムを探すなら、お役にたてるかも」
江麻先生はそう言うと、俺たちを子ども用のサンダルが置いてある店に連れて行ってくれた。
サンダルを買ったあとは、買い物に付き合ってもらったお礼に江麻先生をお茶に誘った。カフェのテラスで冷たいコーヒーを飲みながら、少しだけ世間話をする。
「どこの海に行く予定なんですか?」
江麻先生に聞かれて、俺はバスに乗って一時間ほどの場所にある海水浴場の名前を告げた。
「あそこ、海の水も結構綺麗ですよね。子どもの頃は浜辺でよく遊んだけど、最近全く海に行かないな。今度ひさしぶりに行ってみようかな」
「だったら、一緒に行きますか?」
江麻先生の言葉は社交辞令で、本気で海に行きたかったわけではないと思う。そんなことはきちんと頭で理解していたつもりなのに、気づくと俺は彼女に誘いかけていた。
「え?」
コーヒーを飲んでいた江麻先生が驚いたように顔をあげる。俺の隣でオレンジジュースを飲んでいた朔も驚いたようで、何度も目を瞬いていた。
うわ、また変なこと言った。
江麻先生と朔の反応を見て、軽率だったと思った。何も考えずに江麻先生も一緒に……、なんて言ってしまったけど、俺たちと海に行くなんて微妙すぎるし、誘われたって困るに決まっている。
「すいません。つい……なんか江麻先生、誘いやすいから」
慌てて言い訳をしたけど、咄嗟に口から出たそれもあまり適当ではなかった。誘いやすい、なんて。まるで、ナンパみたいだ。
「そうですか?」
江麻先生が困ったように笑う。その笑顔を見て、彼女に変な誤解をされていたら困ると思った。
「あ、別に変な意味じゃないんです。人として声かけやすいっていうか……雰囲気が優しいし、頼りがいがあるのかも。こないだ朔が熱出したときも無意識に助けを求めてしまったし」
焦っているせいで、やたらと口数が多くなる。そんな俺を、朔と江麻先生がふたりしてじっと見つめてきた。
「それに俺、一応彼女いますし」
変な意味で江麻先生を誘ったわけじゃない。そのことを何とかして伝えたくて、俺は夏休みに入る前から連絡すらとっていない奈未の存在を仄めかした。
俺の言葉に、朔が微妙そうにぴくりと眉を動かす。その隣でぱちりとひとつ瞬きした江麻先生が、にこりと笑った。
「普通にいそうですよね、彼女」
「あ、え、そうですか……?」
「はい。もしお邪魔じゃなかったら、一緒に行かせてもらってもいいですか?」
「え?」
江麻先生が何の話をしているのか、一瞬よくわからなかった。ぽかんとしていると、彼女が困ったように笑う。
「だから、海です」
「海?」
聞き返すと、江麻先生が首を横に傾けて小さく肩を竦めた。
「名目は保護者で。もしお邪魔じゃなかったら、一緒に行かせてください」
そこまで言われて、俺はようやく江麻先生が俺の誘いを受けてくれていることに気がついた。
「ほんとにいいんですか?」
「え? 冗談だったんですか?」
目を丸くしながら確認すると、江麻先生が戸惑ったように問い返してくる。
「いえ、冗談ではなかったんですけど……」
「よかった。ひとりで勘違いしてたら恥ずかしいとこでした」
はにかむように笑った江麻先生が、朔にちらりと視線を向ける。
「小さい子がふたりいるなら、少しはお役にたてると思います。お兄さんひとりじゃ、大変でしょ?」
「そうですね。一緒に来ていただけたら助かります」
俺たちの話がまとまると、黙って話を聞いていた朔が嬉しそうに笑った。
「江麻先生も一緒に海行けるなんて、楽しみ」
「私も朔ちゃんと海に行くの、楽しみ」
朔と江麻先生が、顔を見合わせて笑う。そんなふたりの横顔を見て、俺の胸がじわっと熱くなった。
そんなできごとがあって、今俺の前には朔と並んでバスの座席に座る江麻先生がいる。
海を前にはしゃぐ朔を見守る江麻先生の横顔を見つめていると、隣にいた和央が座席に足をあげて膝立ちになった。それから俺の耳に口を近づけて、小さな指で江麻先生を指しながらこそこそと囁いてくる。
「ねぇ、エマせんせーってさ、にーちゃんのカノジョ?」
「は?」
和央の言葉に、俺はつい大きな声を出して座席から立ち上がってしまった。
ちょっと見てただけで、どうしてそうなる……!?
突然立ち上がった俺を、和央がびっくりしたように見上げる。前に座っていた朔と江麻先生も、俺が立ち上がったことに気付いて、何事かというように振り返ってきた。
和央、朔、それから江麻先生。不思議そうな顔をした3人から一斉に見つめられて、急に恥ずかしさがこみ上げてくる。
「お客様、危険ですので走行中は立ち上がらないようお願い致します」
さらにそのうえ、運転手が車内にアナウンスを流してくる。他の乗客たちにちらちらと見られて、俺は顔を火照らせながら静かに座席に腰をおろした。
「そんなわけねーだろ」
「何が?」
低い声で小さくぼやくと、和央が俺を見上げて小さく首をかしげた。
「だから……」
江麻先生がカノジョなのか、とか聞いてくるから。その返事だろうが。
自分が訊ねてきたくせに、そのことをもう忘れている和央に向かって舌打ちしたくなる。だけど無邪気に俺を見上げる和央に、今さらぐだぐだと説明するのも面倒だった。
恥ずかしい思いをしてバカみたいだ。俺は和央からふいと視線を逸らすと、海に着くまで何も言わないと決めて、口を閉ざした。
「晴れてよかったですね」
海へと向かうバスの中。朔と一緒にひとつ前のふたりがけの席に座っている江麻先生が振り返った。ふわりとした柔らかな笑顔を、窓から差し込む夏の太陽が照らす。
「江麻先生、海」
だけど彼女が振り返ったのは、ほんの一瞬。朔に腕を引っ張られて、すぐに前を向いてしまう。
8月の初め。俺は和央と朔のふたりを連れて、海へと向かっていた。そこに江麻先生が加わることになったのは、予定外だ。
けれど、窓の外を見つめて控えめにではあるが確実に普段よりもはしゃいでいる朔と、バスの中で立ち上がってはうろちょろしようとする和央のふたりを俺ひとりで世話するのは思ったよりも大変で。江麻先生が保護者として付き合ってくれてよかったと心底思った。
江麻先生の同行が決まったのは一週間前。浜辺で履けるサンダルを買うために、朔と街に出たときのことだ。
自分の手持ちのサンダルがないことに気付いて、念のために確認してみたら、案の定、朔もサンダルを持っていなかった。俺が聞かなかったら、朔はきっと当日までサンダルがないことを黙っていて、手持ちのスニーカーで出かけるつもりだったんだろう。
「ついでにお前のも買ってやる」と言ったら、朔は「いらない」と俺の厚意を頑なに拒否した。ガキのくせに変なところで気を遣う朔の態度がムカついて、俺はほとんど無理やり朔を買い物に引っ張り出した。
自分のサンダルを手に入れたあと、朔と共にショッピーグモールの婦人靴の店に入る。だが、そこには子ども用のサンダルはほとんど置いていなくて、困っていたところへ偶然買い物に来ていた江麻先生に声をかけられた。
「海行くんだ? 朔ちゃん、いいね」
サンダルを買いにきた事情を話すと、江麻先生がにこりと笑う。
「よかったら、サンダル探し手伝いますよ。女の子のアイテムを探すなら、お役にたてるかも」
江麻先生はそう言うと、俺たちを子ども用のサンダルが置いてある店に連れて行ってくれた。
サンダルを買ったあとは、買い物に付き合ってもらったお礼に江麻先生をお茶に誘った。カフェのテラスで冷たいコーヒーを飲みながら、少しだけ世間話をする。
「どこの海に行く予定なんですか?」
江麻先生に聞かれて、俺はバスに乗って一時間ほどの場所にある海水浴場の名前を告げた。
「あそこ、海の水も結構綺麗ですよね。子どもの頃は浜辺でよく遊んだけど、最近全く海に行かないな。今度ひさしぶりに行ってみようかな」
「だったら、一緒に行きますか?」
江麻先生の言葉は社交辞令で、本気で海に行きたかったわけではないと思う。そんなことはきちんと頭で理解していたつもりなのに、気づくと俺は彼女に誘いかけていた。
「え?」
コーヒーを飲んでいた江麻先生が驚いたように顔をあげる。俺の隣でオレンジジュースを飲んでいた朔も驚いたようで、何度も目を瞬いていた。
うわ、また変なこと言った。
江麻先生と朔の反応を見て、軽率だったと思った。何も考えずに江麻先生も一緒に……、なんて言ってしまったけど、俺たちと海に行くなんて微妙すぎるし、誘われたって困るに決まっている。
「すいません。つい……なんか江麻先生、誘いやすいから」
慌てて言い訳をしたけど、咄嗟に口から出たそれもあまり適当ではなかった。誘いやすい、なんて。まるで、ナンパみたいだ。
「そうですか?」
江麻先生が困ったように笑う。その笑顔を見て、彼女に変な誤解をされていたら困ると思った。
「あ、別に変な意味じゃないんです。人として声かけやすいっていうか……雰囲気が優しいし、頼りがいがあるのかも。こないだ朔が熱出したときも無意識に助けを求めてしまったし」
焦っているせいで、やたらと口数が多くなる。そんな俺を、朔と江麻先生がふたりしてじっと見つめてきた。
「それに俺、一応彼女いますし」
変な意味で江麻先生を誘ったわけじゃない。そのことを何とかして伝えたくて、俺は夏休みに入る前から連絡すらとっていない奈未の存在を仄めかした。
俺の言葉に、朔が微妙そうにぴくりと眉を動かす。その隣でぱちりとひとつ瞬きした江麻先生が、にこりと笑った。
「普通にいそうですよね、彼女」
「あ、え、そうですか……?」
「はい。もしお邪魔じゃなかったら、一緒に行かせてもらってもいいですか?」
「え?」
江麻先生が何の話をしているのか、一瞬よくわからなかった。ぽかんとしていると、彼女が困ったように笑う。
「だから、海です」
「海?」
聞き返すと、江麻先生が首を横に傾けて小さく肩を竦めた。
「名目は保護者で。もしお邪魔じゃなかったら、一緒に行かせてください」
そこまで言われて、俺はようやく江麻先生が俺の誘いを受けてくれていることに気がついた。
「ほんとにいいんですか?」
「え? 冗談だったんですか?」
目を丸くしながら確認すると、江麻先生が戸惑ったように問い返してくる。
「いえ、冗談ではなかったんですけど……」
「よかった。ひとりで勘違いしてたら恥ずかしいとこでした」
はにかむように笑った江麻先生が、朔にちらりと視線を向ける。
「小さい子がふたりいるなら、少しはお役にたてると思います。お兄さんひとりじゃ、大変でしょ?」
「そうですね。一緒に来ていただけたら助かります」
俺たちの話がまとまると、黙って話を聞いていた朔が嬉しそうに笑った。
「江麻先生も一緒に海行けるなんて、楽しみ」
「私も朔ちゃんと海に行くの、楽しみ」
朔と江麻先生が、顔を見合わせて笑う。そんなふたりの横顔を見て、俺の胸がじわっと熱くなった。
そんなできごとがあって、今俺の前には朔と並んでバスの座席に座る江麻先生がいる。
海を前にはしゃぐ朔を見守る江麻先生の横顔を見つめていると、隣にいた和央が座席に足をあげて膝立ちになった。それから俺の耳に口を近づけて、小さな指で江麻先生を指しながらこそこそと囁いてくる。
「ねぇ、エマせんせーってさ、にーちゃんのカノジョ?」
「は?」
和央の言葉に、俺はつい大きな声を出して座席から立ち上がってしまった。
ちょっと見てただけで、どうしてそうなる……!?
突然立ち上がった俺を、和央がびっくりしたように見上げる。前に座っていた朔と江麻先生も、俺が立ち上がったことに気付いて、何事かというように振り返ってきた。
和央、朔、それから江麻先生。不思議そうな顔をした3人から一斉に見つめられて、急に恥ずかしさがこみ上げてくる。
「お客様、危険ですので走行中は立ち上がらないようお願い致します」
さらにそのうえ、運転手が車内にアナウンスを流してくる。他の乗客たちにちらちらと見られて、俺は顔を火照らせながら静かに座席に腰をおろした。
「そんなわけねーだろ」
「何が?」
低い声で小さくぼやくと、和央が俺を見上げて小さく首をかしげた。
「だから……」
江麻先生がカノジョなのか、とか聞いてくるから。その返事だろうが。
自分が訊ねてきたくせに、そのことをもう忘れている和央に向かって舌打ちしたくなる。だけど無邪気に俺を見上げる和央に、今さらぐだぐだと説明するのも面倒だった。
恥ずかしい思いをしてバカみたいだ。俺は和央からふいと視線を逸らすと、海に着くまで何も言わないと決めて、口を閉ざした。