夏休みに入ってから一週間。溶けそうなほどの暑さが連日続いていた。

 夕方からは学習塾の講師バイトがある日は仕方なく外に出るが、それ以外のときは朝から外に出る気にもなれない。

 夏休みは奈未とデートの予定がいくつかあったが、約束をすっぽかして以来、彼女からの連絡はない。

 一度だけ俺から連絡をとってみたけど、音信不通。それからは面倒になって、俺からも積極的には連絡していない。彼女との夏休みの予定が全て無くなったこともあって、俺は連日暇だった。

 クーラーの効いた部屋でだらけながら、ローテーブルの前に座っている朔をちらりと見る。

 ベッドに寝転んでダラダラと動画を見て時間を潰す俺とは違って、朔はさっきからずっと本を読んでいる。夏休みに本を3冊読んで、ひとこと感想を書くという宿題があるらしい。その前には、タブレットの算数ドリルと漢字練習を済ませてある。

 誰も「やれ」とどやしたりしないのに、朔は起きて朝食を食べると、テーブルに向かってこつこつ宿題をする。小学生のときの俺はこんなに真面目じゃなかった。

 朔の真面目さは誰に似たのか。とりあえず、親父じゃないことだけは確定だ。

「それ、そんなおもしれーの?」

 さっきから片時も本から目を離さない朔に向かって、気だるい声で訊ねる。ページを捲る手を止めて俺を見た朔は、無言で頷いて、すぐにまた本へと視線を戻した。

「ふーん」とつぶやくと、俺は枕元にスマホを置いて伸びをした。ベッドの上に設置されたエアコンから吹く風が顔にあたり気持ちいい。

 うつらうつらとしかけたとき、いきなり耳元でスマホが鳴った。その音が予想以上に大きくて、一気に目が醒める。

「誰だよ……」

 不機嫌な顔でスマホを手にとると、「自宅」からの着信だった。スマホに登録してある自宅の番号。それにかけることも、そこからかかってくることも珍しい。親父や義理の母とは、基本的に個人携帯で連絡をとるからだ。

 訝しんでいると、朔が本から視線をあげた。俺がいつまでも電話に出ないのを不審に思ったらしい。

 通話ボタンを押してスマホをみみにあてると、

「にーちゃん?」

 舌足らずな高い声が響いてきた。

「カズ?」
「にーちゃん!」

 嬉しそうに俺を呼ぶのは、弟の和央だった。

「どうした? 急に」
「にーちゃん。どっかいきたい!」

 和央の甘えたような声が耳に届く。

「何だよ、いきなり。どっかって」
「うーん。どっか! おとうさんが、にーちゃんにどっかつれてってもらえば、って」

 仕事の都合で休みの日程が合わない実家の両親は、和央の保育園が夏休みに入ってもどこにも連れて行ってやれない。ガッカリしている和央に、どうやら親父が余計な入れ知恵をしたらしい。

 クソ親父……。あの人は本当にロクなことしか押し付けてこない。

「兄ちゃん、忙しいんだよ」

 適当な理由をつけて断ろうとすると、和央がごねだした。

「どっかいきたい! どっかー!!」

 急にものすごい叫び声が聞こえて、耳が痛くなる。

「カズ、うるさい!」
「陽くん?」

 耳を抑えながら大声で言い返したとき、和央の声が義理の母の声に変わった。

「陽くん、ごめんなさいね。もしよかったら1日だけでも和央に付き合ってもらえない? 出かける場所は、近所の公園でもどこでもいいから」

 母親が申し訳なさそうに俺に頼んでくる。その声から困った顔で頭をさげる彼女の姿が予想できてしまい、俺は口を噤んだ。義理の母親の頼まれごとを断るのは苦手だ。

「陽くん」

 名前を呼ばれて息を吐く。

「わかった。カズに替わって」
「ありがとう」
「にーちゃん!」

 母親が安堵の息を漏らした次の瞬間には、和央の声が聞こえてきていた。

「にーちゃん、オレ、うみがいい!」
「は? 海!?」

 本から顔を上げた朔が、俺の顔をちらりと見る。どうやら朔は、海、という言葉に少しだけ興味を惹かれたらしい。それまで俺の電話での会話には無関心だったのに、こちらをちらちらと見てくる朔は、あまり本に集中できていない様子だ。朔も海に行きたいんだろうか。

「にーちゃん、うみ!」

 耳元で和央が「うーみ、うーみ」と連呼する。それがあまりにうるさいのと、朔の反応が気になるのとで。最終的に、和央と海に行く約束をさせられてしまう。

 ため息を吐きながら電話を切ると、朔が読んでいた本の向こうからじっと俺を見てきた。

「何?」

 首を傾げると、朔が急いで首を横に振って本へと視線を戻す。けれど、本を朔の目はずっと同じページを睨んでいて、なかなか次のページに進まない。

「朔も行きたいの?」

 訊ねると、朔が本を握りしめたままびくりと肩を揺らす。

「海だよ。お前も一緒に行く?」

 聞き方を変えると、朔がゆっくりと一度瞬きをした。

「いいの?」
「いいよ。ひとり連れて行くのも、ふたり連れて行くのも一緒だし」

 苦笑いを浮かべた俺を、朔が大きな黒い瞳でじっと見てくる。その瞳は今まで見たこともないくらい、きらきらと輝いていた。

「海、行く」

 小さいけれど、はっきりとした朔の声が狭いアパートの一室に響く。

「じゃぁ、お前も連れてってやるよ」
「うん」

 朔が俺を見上げて、嬉しそうにはにかむ。その表情が、俺をなんだかむず痒い気持ちにさせた。