「──ちゃん」

 ぐらぐらと身体が揺れる。

「お兄ちゃん」

 誰かに呼ばれているみたいだけど、耳に届く声はどこか遠くて。その声が本当に俺を呼んでいるのか、それとも夢なのかよくわからない。

「お兄ちゃん!」
 
 一際大きく身体が揺れ、耳元で鼓膜が破れるかと思うくらい大きな声がする。驚いて目を開けると、黒目がちの大きな瞳がじっと俺の顔を覗き込んでいた。

「お兄ちゃん」
「朔……?」

 寝ぼけた声で名前を呼ぶと、朔がぐいっと何かを突き出してくる。

「さっきからずっと鳴ってる」

 それは俺のスマホで、画面には奈未の名前が表示されていた。寝起きの頭で、朔からスマホを受け取ったスマホをぼんやりと眺めていた俺は、大事なことを思い出してばっと飛び起きた。

「朔、熱」

 勢いよく飛び上がった俺に、朔がビクッと身体を揺らして後ずさる。朔に近づいて額に触れると、彼女が少し顔を赤くした。

「もう、平気」

 小さな声でそう言った朔が、俺のスマホに視線を向ける。

「それより、さっきからずっと鳴ってるよ?」

 言われて確かめてみると、数十分前からひっきりなしに、奈未から電話がかかってきていた。

 何の用事だろう。しばらく考えて、午後から奈未と会う約束をしていたことを思い出す。時刻を見ると、とっくに正午を回っていて。奈未との待ち合わせ時間を大幅に過ぎていた。

 今まで一度だって、奈未との約束を忘れたことも、すっぽかしたこともないのに。昨夜の朔の発熱で、奈未と約束をしたことをすっかり忘れていた。

 めっちゃ怒ってるだろうな。俺に怖い顔で電話をかけ続ける奈未の姿を想像して、苦笑いする。

「出ないの? 前にここへ遊びにきたお姉さんでしょ?」

 画面に表示されては消える奈未の名前を見つめながら、彼女にどう話をしようか悩んでいると、朔が横からスマホを覗きこんできた。

 出ないとな。出ないといけないんだけど、なんか……。めんどいな。
 
 隣にいる朔の横顔を数秒眺めてから、俺は奈未からの着信を受け続けるスマホの電源を切った。

「お兄ちゃん?」

 電源の落ちたスマホをぽいっと適当に放り投げると、朔が不審そうに俺を見てきた。

「何? なんか文句ある?」

 つっかかるように言うと、朔が無言で首を横に振る。

「そんなことより、風邪はほんとに平気なのかよ」
「うん、もうほんとに平気だよ」

 不機嫌な顔で訊ねると、朔がはにかむ。その表情に、ほっとした。

「腹へってる? なんか作る」

 立ち上がると、「たいしたもんじゃねーけど」と小声で付け足す。キッチンに向かう俺の後ろを、朔はペタペタと小さな足音を鳴らしながらついてきた。

 冷蔵庫にある材料で作ったのは、野菜多めのラーメン。それを食べたあとは、朔とふたりでだらだらと過ごす。

 朔は学校の図書館で借りてきた本を熱心に読んでいて、俺はベッドに転がりながらぼんやりとテレビを見ていた。奈未との約束は、結局そのまますっぽかした。

 夕方になってからスマホの電源を入れ直したら、いくつか着信があった。奈未からだろうと恐々スマホを見たら、そのうちのひとつは江麻先生からだった。

「こんにちは。朔ちゃんの具合はどうですか?」

 迷わず折り返したら、電話口から彼女の優しい声が聞こえてきて意味もなくほっとする。

「熱もさがって、元気です」
「よかったです。安心しました」

 朔の状況を伝えると、江麻先生が安堵の息をつく。心配してわざわざ電話をかけてきてくれたのだと思うと、それだけで俺の心がぽわんと暖かさで満たされる。

 江麻先生との電話を切ったあと、奈未の名前で埋め尽くされた着信履歴を見て、彼女のほうもどうにかしなければと思った。

 約束をすっぽかしたことをちゃんと謝らないといけないが、考えるだけで頭が痛い。ドキドキしながら掛け直したが、電話は繋がらなかった。何度かかけてみてもコール音が鳴るだけ。それくらい、怒っているってことだろう。画面に表示された奈未の番号を見て、息を吐く。

 せめてメッセージでも送っとくか。

 そう思って約束をすっぽかした経緯を文章にしてみたら、なんだかやけに言い訳がましくなった。

 しばらく悩んだ末に「今日はごめん」とだけ、奈未にメッセージする。それに対する彼女のからの反応はない。

 でもそういうのは奈未とケンカしたときにはよくあることだったから、あまり深くは気にしなかった。

 時間が過ぎればなんとかなるか。そんなふうに単純に考えて放置してしるうちに、夏休みが始まった。奈未とは、話すことも連絡を取り合うこともないままに。