あまり雨が降らないままに梅雨が終わって、気付けば大学の夏休みが目前に近付いていた。ここ最近毎日気温が高く、夕方になっても暑さが和らぐことがない。

 簡単な夕飯を済ませた俺は、塾講師のバイトに向かうため、冷房をガンガンに効かせた部屋でスーツに着替えた。冷房のついた部屋では長袖シャツにネクタイを締めても我慢できるが、問題は道中だ。玄関のドアを開けた瞬間の熱気を想像してうんざりとしながら、俺は食事の後から言葉少なに床に座っている朔に声をかけた。

「俺、バイト行くから」

 朔がゆったりとした調子で首を動かして、俺を見上げる。その目が、どことなくいつもよりぼんやりとしていた。

「眠いのか?」

 なんとなく焦点が定まっていないように思える朔の黒い瞳を見つめると、彼女が首を横に振る。

「眠かったら、先に寝てろよ」

 ぼんやりしている朔を見て苦笑いすると、俺は黒の革靴を履いて家を出た。

 塾講師のバイトは、週3日。夏休みになって夏期講習が始まると、持たせてもらえる授業のコマ数が通常より多くなる。割のいい学習塾でのバイトは、長期の休みが稼ぎ時だった。

 夏の空は紫がかって紺色に染まりつつあるが、外に出るとやはり予想通りに暑い。駅に向かって歩きながら、一度は締めたネクタイの首元を緩めたとき、スマホが鳴った。確認すると、奈未から『明日、午後から遊ばない?』という誘いのメッセージがきている。

 そういえばここ最近、以前ほど奈未と会うことに時間を割いていなかった。少し前までは、大学の授業が終われば、ほとんど毎日と言っていいほど彼女に会っていたのに。たったの1、2ヶ月のあいだに、朔を気にして早く帰宅する癖がついてしまった。そんな俺の変化に、奈未は退屈して機嫌を損ねているだろう。

 明日の大学の授業は朝だけだから、午後からは空いてる。バイトもない。俺は奈未からの誘いにすぐ返信すると、蒸した空気に顔をしかめながらバイト先へと急いだ。

 中学生相手の授業を3コマこなして帰宅する頃には、暑くて仕方なかった外気の熱も、さすがに少し和らいでいた。アパートに続く河原沿いの道をぶらぶらと歩きながら、首周りを暑苦しく締め付けていたネクタイを解く。その瞬間、河原から吹く風がすっと喉元を掠めて、清清しい気持ちになった。

 何気なくスマホを取り出してみると、奈未からのメッセージが届いている。そこには明日のデートの待ち合わせ場所と時間が書かれてあった。ひさしぶりの奈未との約束に、口元が自然と緩む。

 アパートの前にたどり着いて、2階の自分の部屋を見上げると、窓のカーテンが閉まっていて、電気も消えていた。

 スマホに視線を落とすと、時刻は23時少し前。いつもは夜更かしの俺に付き合って遅くまで起きている朔だが、今夜はもう寝てしまったらしい。バイトに出かける前に眠たそうにこちらを見上げていた朔の顔を思い出し、俺はまた口元を緩めた。

 眠っているだろう朔を起こさないように、静かに玄関のドアを開けて部屋に入る。明るくするのは躊躇われたが、部屋の中があまりに暗すぎて身動きがとれないので、仕方なくキッチンだけ電気をつける。その灯りを頼りにスーツを着替えようとしたとき、ふとベッドの下に転がる丸まった小さなものが見えてはっとした。

「朔?」

 お腹を押さえて蹲るようにしながら、床で小さく丸まっているのは朔だった。床には布団も敷かれておらず、朔の服装は俺が出かけるときのまま。俺が出かけるときに見た位置で横になっている。目を閉じて眠っているように見えたが、近づいてみると、驚くほど汗をかいていた。

「おい、どうした?」

 床に蹲っている朔の肩を軽く叩くが、反応がない。

「おい!」

 焦って大きな声を出すと、それに気付いた朔が小さく身体を震わせながらうっすらと目を開けた。

「おかえりなさい……」

 朔が焦点の定まらない目で俺を見ながら、うわ言みたいに呟く。

「朔……お前、どうした?」
「熱くなって……今は寒い」
「寒い? 寒気がするってこと」

 朔が渇いた唇を震わせる。締め切った部屋の冷房は切られている。そのせいで、熱気がこもっているというのに。寒いというのは、明らかにおかしかった。

 ベッドの上で丸まっているタオルケットを引っ張って朔の身体にかけると、不躾に彼女の額に手の平を押し付ける。汗をかいて湿った額は熱くて、少し触れただけで熱があるとわかった。

 こういう場合、どうすればいいんだっけ……。

 自分が熱を出したときは、温かくして水分を摂って寝ていれば、大抵の場合回復する。けれど、朔くらいの子どもが熱を出したとき、ただ寝かせておくだけでいいのだろうか。弟の和央が熱を出したとき、実家の義理の母親はどう対処していただろう。関心を持ったことがないから、まるでわからない。

 そうしている間にも、タオルケットに包まった朔は、寒そうに震えながら、時折具合が悪そうに熱い息を吐いていた。 

 しばらく途方にくれたあと、俺はスマホを手に取った。実家の母親に電話して、熱が出たときの対処法を聞くしかない。そう思って連絡先から自宅の電話番号を引き出したものの、いざ通話ボタンを押す段階で思いとどまった。
 
 朔がここに来てしばらく経つが、親父は母親にこの小さな女の子のことをきちんと話したのだろうか。もし話しているのなら、いつまでも俺の家に朔を預けっぱなしにしているはずがない。

 俺は自宅に電話するのをやめて、親父の携帯に直接かけた。だが、1度目はコール音が鳴るだけ。2度目は長いコール音のあとに留守番電話サービスに繋がる。

 肝心なときに役に立たねぇ。何してんだ!

 何度電話をかけても出ない親父に、苛立ちが募る。

 浅い呼吸で苦しげに熱い息を吐く朔を見ていると、なおさら親父に腹が立ってきた。繋がらないスマホを思わず壁に投げつけてやりたい衝動に駆られたとき、ふと財布の中に入れておいたメモの存在を思い出す。急いで取り出すと、そこには丁寧な細い字で江麻先生の電話番号が書かれていた。

 夜遅い時間に迷惑だと思ったけれど、最後に見た江麻先生の安心感のある柔らかな笑みを思い出すと、頼るべき相手はもう彼女しかいないように思えた。書かれている電話番号を、数字を間違えないようにひとつひとつ丁寧に押す。

「もしもし」

 何度目かのコールの音のあと、電話口から柔らかな声が聞こえてきて。その瞬間、俺の口からふぅっと深い安堵の息が漏れた。

「あの、どちら様ですか?」

 何も言わずに深いため息をついた俺に、電話口の向こうの江麻先生が、さすがに少し警戒したような声で問いかけてきた。

「あの、遅くにすみません。俺、村尾です。朔の、兄……なんですけど」

 俺が名乗ると、「あぁ」と返ってきた彼女の声から警戒心が消えるのがわかる。

「どうかしましたか?」

 穏やかな柔らかい声音で訊ねられ、緊張感が少し解けた。

「あのバイトから帰ってきたら、朔が寒がって震えてて……熱があるみたいで呼吸が苦しそうなんですけど、どうすればいいかわからなくて」
「熱は計りました? 寒気以外に何か症状は?」

 俺が早口で一気に言葉を吐き出すと、柔らかな、けれど冷静な口調で江麻先生が言葉を返してきた。

「まだ計ってません。寒がってるだけで他は特に、何も……」
「熱、どれくらいなのか計ってあげてください。もし氷で冷やせそうなら、首の後ろや脇の下を冷やしてあげるといいと思います。あと、水分も。なるべくしっかり摂らせてあげてください」
「はい」

 俺は江麻先生の話を聞きながら、体温計を探し出してきて朔の脇に挟んだ。

「お父様にはもう連絡しましたか?」
「……いえ。まだ繋がらなくて」
「そうなんですか……もしもあまりに熱が高くて心配なら、救急で対応してくれるところもあると思います。朔ちゃんのかかりつけのお医者さんは?」
「それもちょっと……」

 病院にかかることなんてめったにないし、ましてや小児科なんてわからない。

「そうですか……」

 江麻先生が、一瞬考え込むように口を閉ざす。

「あの、すいません。これくらいのことで急に電話なんかかけたりして……」

 いくら連絡先を教えてもらっていたからといって、夜遅くに迷惑だったに決まっている。それなのに、電話に出てくれて、対処法を教えてくれただけでありがたい。

「もう一度父に連絡して、なんとかしてみます」
「お兄さん?」

 通話を切ろうとすると、江麻先生が俺を呼び止めた。

「私、行きましょうか?」
「え?」

 一瞬、何を言われたのかよくわからなかった。聞き返すと、彼女が少し言葉を変えて言い直す。

「もしよかったら、私、今から行きます。朔ちゃんのこと心配だし、少しなら力になれると思いますから」

 彼女の言葉を聞いた瞬間、スマホを握る俺の手から力が抜けた。

「お兄さん?」
「あの、それ……」
「はい」
「すごく、助かります」

 唇から、言葉と共に熱い息が漏れる。

「少し待っていてください。すぐに用意してそちらに向かいますから」

 優しい声音でそう言ってから、江麻先生が電話を切る。情けないけど、生まれて初めて、安心して泣きそうになっていて。通話終了のボタンを押したあとも、俺の手は少しだけ震えていた。

 それから30分ほどして、タクシーに乗った江麻先生が俺のマンションに来てくれた。彼女は夜間診療を受け付けている近所の病院を探してくれていて。俺たちは、彼女が乗ってきたタクシーで、朔を病院まで連れて行った。

 タクシーに乗るまでは苦しそうな呼吸をしていた朔だったが、病院に着く頃には状態が少し落ち着いていた。医者からは、お腹からくる風邪だろうと診断されて、薬を処方されてアパートへと戻った。

「朔ちゃん、だいぶ落ち着いてきましたね。よかった」

 江麻先生がベッドで眠る朔の額に触れながら俺を振り返る。

「夜遅いのに、わざわざ来てもらってすいませんでした」
「いえ、お兄さんもひとりじゃ不安でしょ?」

 俺は、病院から帰ったあとも、嫌な顔ひとつせず朔に付き添ってくれている江麻先生に頭をさげた。彼女がいてくれて本当に助かったけれど、同時に、申し訳なくも思う。俺がもっとしっかりしてればよかったのに。

「え、ま…せんせ……?」

 そのとき、ずっと朦朧としてぐったりしたようすだった朔がうっすらと目を開けた。解熱剤が効いてきたのかもしれない。

「朔ちゃん。先生、お兄さんと一緒にしばらくここにいるね。だから、何も心配しなくていいよ」

 江麻先生が朔の小さな手をぎゅっと握る。朔は彼女の顔を虚ろな目で見つめてから、やがて安堵したように頷いて、また目を閉じた。江麻先生に手を握られた朔の寝顔が、さっきまでと打って変わって穏やかなものになる。すやすやと細い寝息をたてながら安心しきった顔で眠る朔を見て、自分の頼りなさを思い知らされた気がした。

「ありがとうございます。やっぱ、すごいですね。俺なんて、つらそうにしてる朔の前でおろおろするだけで、何もできなかったのに」

 江麻先生の手を握りしめる朔の小さな手。それを見つめながら自嘲気味に笑うと、江麻先生が静かに首を横に振った。

「そんなことないですよ。お兄さんがいてくれるだけで、朔ちゃんも安心できていると思います」

 江麻先生が気休めとしか思えない優しい言葉をかけてくれる。だけど彼女の気遣いの言葉は、俺を虚しい気持ちにさせるだけだった。

「いえ。あなたと俺じゃ、全然違います」

 ゆるりと首を振ると、江麻先生が困ったように少しだけ眉根を寄せた。

「確かに、違うかもしれないですね」
「え?」

 俺と江麻先生では、朔に与えられる安心感が全然違う。実際にそう思うし、そのことを口に出して伝えたのは俺だ。だけど、まさか彼女にはっきりと肯定されてしまうとは思わなかったから、自分勝手にも少し傷付いた。俯いて黙り込むと、江麻先生が「そう意味じゃなくて」と呟きながら、くすりと笑う。

「私とお兄さんは、全然違うんです。朔ちゃんにとって、お兄さんは家族でしょ? たとえ何もできなかったとしても、朔ちゃんはお兄さんがそばにいてくれることが嬉しいはずです」

 江麻先生はそう言うと、眠っている朔の頭をそっと撫でた。

「この前、朔ちゃんに本を返してもらいに来た日。朔ちゃん、とても嬉しそうにお兄さんのこと話してましたよ」

 口元に笑みを称えながら、江麻先生が優しい目で朔を見つめる。

「俺のこと?」

 首を傾げていると、江麻先生が朔の額に手を載せたまま俺を振り向いた。

「朔ちゃんのこと、お母さんの病院に連れて行ってあげたんですよね。朔ちゃん、そのことを何度も繰り返し私に話してくれました」

 江麻先生が、柔らかく俺に微笑みかけてくる。

「『ママが病気になったのは悲しいけど、お兄ちゃんがいてくれるから淋しくない』って。朔ちゃん、そう言ってましたよ」
「まさか……」

 江麻先生の言葉に耳を疑う。朔は初めてここに来たときよりも、俺と話したり、笑ったりするようになった。少しは俺のことを信頼してくれてるのかも、と思うことも増えてきた。けれど、母親と離れて暮らす朔にとって、俺は「いないよりはマシ」ぐらいの存在でしかないと思っていた。

 それなのに……。たとえ強がりだったとしても、俺がいるから「淋しくない」と言ってもらえるなんて。正直信じられない。

 江麻先生に頭を撫でられて、安心しきった顔で眠る朔を見つめる。

 俺は、熱が出て苦しそうな朔に何もしてやれず、結局他人の助けを借りるような頼りないやつなのに。この小さな女の子は、そんな俺でも必要としてくれている。そう思ったら、不思議な気持ちになった。

「お兄さん、あとは任せていいですか?」

 朔の寝顔をじっと見つめていると、江麻先生が俺の横顔にふわりと笑いかけてきた。朔から視線を外して振り向くと、江麻先生がゆっくりと立ち上がる。

「帰るんですか?」
「はい、朔ちゃんの熱も落ち着いたし。よく寝てますから」
「そうですか……」

 江麻先生の言葉に、俺の声のトーンが下がる。彼女が帰ってしまったあと、俺はひとりで朔の看病ができるだろうか。今は落ち着いているけど、また急に熱があがってきたら……。さっきの苦しそうな朔の表情を見ているだけに、すごく不安だった。

 だけど、江麻先生に朝までずっとここにいてもらうこともできない。不安な面持ちでベッドで眠る朔にちらりと視線を向けると、江麻先生が俺に微笑みかけてきた。

「お兄さんなら、大丈夫です」

 江麻先生が何を根拠にそう言っているのかはわからない。だけど、微笑む彼女の表情と声が、不思議と俺を安心させた。

 江麻先生が帰ったあと、シャワーを浴びて部屋着に着替えた。部屋の灯りを暗くすると、朔が眠るベッドの脇に腰をおろす。ベッドの淵に腕を重ねてのせ、その上に顎を置く。そうしてぼんやりと朔の寝顔を眺めていると、ベッドの向こうの窓のカーテンの隙間から、黄色い月明かりがわずかに差し込んでくるのが見えた。

 朔のあどけない寝顔を照らすその光は、とても細くて儚くて。今にも消えてしまいそうだ。だけどその頼りなさは、なんだか朔に似ていると思った。

 朔の頭に手を伸ばすと、彼女の顔を照らしていた月明かりが遮られる。眠っている朔の額をゆっくりと撫でると、黄色い月明かりが今度は俺の手の甲の上を途切れ途切れに照らした。

 これまでの人生で、誰かに必要とされたいと感じたことも、必要とされていると実感することもなかった。だけど、この頼りない月みたいな光が俺を必要だと思ってくれるなら……。
 
 可能な限り守ってやりたいと。柄にもなく、そう思った。