母親の病院に連れて行ってから、俺に対するチビの反応は微妙に変化していた。巣穴から敵の様子を窺うウサギみたいに俺を見上げていたチビが、最近は真っ直ぐに俺の目を見る。チビの真ん丸い大きな目に、以前のようなおどおどとした雰囲気はない。

 ちょっとは俺のことを信頼してんのかもな。勝手にそう思い始めていたある日。チビが夕方になっても帰って来なかった。

 いつもは俺が大学から戻る前に帰宅しているはずなのに、学校から帰ってきた形跡すらない。17時を過ぎても帰ってくる気配のないチビに、だんだんと苛立ちが募る。

 ちょっとは信頼されていると思ったけど、勘違いだったのか。そう考えるといても立ってもいられなくなって、気付けばチビを探すために家を飛び出していた。

 もしかしたら、また母親に会いに行きたくなったのかもしれない。あてもないのに、とりあえず駅に向かって川沿いの道を走る。

 はた迷惑な居候。突然親父が連れてきたチビのことを、そんなふうに思っていたはずなのに。チビを探しに出てしまう自分が不思議で仕方ない。

 複雑な気持ちを抱えて走りながら、ふと河原に視線を向けると、クローバーが密集した土手に若い女と小さな子どもがしゃがんでいるのが見えた。ふたりの傍には赤いランドセルがひとつ、無造作に転がっている。
 
 もしかして……。近づいていくと、子どもが顔をあげる。少し離れたところから横顔を見ただけで、チビだとすぐにわかった。一緒にいる女のほうは、夕暮れの中でぼんやりとしていて顔がよく見えない。

 学校が終わってもすぐに帰ってこないで。こんなところで何やってんだ……。呑気に河原で座り込んでいるチビに、無性に腹が立つ。

「朔!」

 腹が立って仕方なくて、気がつくと大声でチビの名前を呼んでいた。

 朔、と。その名前で呼びかけるのは、出会ってから初めてのことだ。だけど俺はとても腹が立っていたから、そのことに気付かなかった。

「朔! こんなとこで何やってんだよ」

 明らかに怒っているとわかる口調で呼びかけながら、チビに──、朔に近づく。びっくりしたような顔で俺を見上げた朔は、それからなぜか、にこっと嬉しそうに微笑んだ。

「お兄ちゃん!」
「お兄ちゃん、じゃねぇよ」

 笑顔の朔が無防備に俺を見てくるから、胸の中がかき乱されたみたいに熱くなって、腹が立っているのか何なのか、自分でもよくわからなくなる。

「学校終わったら寄り道せずに真っ直ぐ家に帰って来い。学校でそう言われてるだろ」

 俺は朔の手を乱暴につかむと、引っ張って強引に立たせた。小さくて細い朔の身体は、俺の片手の力だけで簡単に持ち上がる。
 
「ほら、帰るぞ」
「うん……」

 傍に転がっている赤いランドセルも拾って押し付けると、それを受け取った朔がしょんぼりと眉尻を下げて、一緒に遊んでいた女のほうを名残惜しげに振り返った。

 朔がどうしてその女のことを気にするのか、さっぱりわからない。怪しいやつじゃないとも限らないのに。イライラしながら、立ち止まっている朔の手を引っ張る。

「朔!」
「はい……」

 小さく返事をした朔が、俺に手を引かれるままについてくる。不機嫌な俺の様子を気にしながら、朔がもう一度女を振り向いて、小さく手を振った。

「江麻先生、さようなら」
「さようなら、朔ちゃん」

 朔が呼んだ名前に聞き覚えがあるような気がする。振り返ると、そこにはショートボブの小柄な女性の姿があった。

「江麻先生だよ。この前、本借りてたでしょ? だから、朔の家の近くまで取りにきてくれたの」

 立ち止まる俺の手を、朔がぐいっと下に引っ張ってくる。

 江麻先生って、そうか。朔が以前通っていた小学校の敷地内にある、学童保育の先生だ。俺がそのことに気付いたとき、薄闇の向こうで彼女が小さく頭をさげた。

「すいません。時間も考えずに朔ちゃんのこと長い間拘束しちゃって……。お兄さんが帰ってくるのは遅いって聞いたものだから、つい」

 聞き心地の良いやわらかな声で、申し訳なさそうに謝られる。

「いえ。俺も、つい……」

 江麻先生だとは気付かずに、声を荒げた自分が恥ずかしい。足元に視線を落としながら首筋をかくと、彼女がくすっと小さな声をたてて笑った。

「いえ。お兄さん、この前と少し雰囲気が違いますね。なんだか少し安心しました」
「え?」

 ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた江麻先生が、朔の頭に手をのせる。

「じゃぁ、先生行くね。またね」
「うん」

 大きく頷く朔に笑い返すと、江麻先生は俺に軽く会釈して河原の土手を駅のほうに歩いていく。

「バイバーイ!」

 朔が大きく腕を振って、江麻先生を笑顔で見送る。その笑顔を見た俺は、自分でもよくわからない衝動に駆られて大きな声を出してしまった。

「江麻先生!」

 呼び止められた江麻先生が、歩を止めて振り返る。

「よかったら、一緒にメシでもどうですか?」
「え……?」

 薄闇の中でも、江麻先生が大きく目を見開くのがわかる。

「ありがたいですけど、でも……」

 俺の誘いに、江麻先生はあからさまに困っているようだった。そこで初めて、軽率に口にした言葉を恥ずかしく思う。

 勘違いされたら困るが、下心で誘ったわけじゃない。ただ、江麻先生と話すときの朔の顔が活き活きしてたから。もっと嬉しそうな朔の顔を見たいと思って、つい声をかけてしまっただけだ。

「すみません。今の、忘れてください」

 慌てて訂正すると、朔が俺と繋いでいた手を離して江麻先生の元へと勢いよく駆けていった。

「江麻先生、一緒にごはん食べようよ」

 江麻先生の手をつかんだ朔が、おねだりするようにゆらゆらと揺する。江麻先生はしばらく困っていたけれど、しつこく誘う朔に誘われて、最後は笑いながら小さく頷いた。

「わかった。じゃぁ、そうしよう」
「やった。よかったね、お兄ちゃん」

 朔が江麻先生の手を握り締めたまま、嬉しそうに振り返る。
 
 いや、そうじゃなくて。よかったのは俺じゃなくて、お前だろ。

 嬉しそうな朔に、俺はちょっと苦笑いした。



「じゃぁ、私はこれで」

 床に座って朔の寝顔を見守っていた江麻先生が、腕時計で時間を確認しながら立ち上がる。

「駅まで送ります」

 夕食に使った食器を片付けていた俺が慌ててキッチンを出ると、江麻先生が柔らかく微笑んで首を横に振った。

「大丈夫です。朔ちゃん寝ちゃってるし、一人で家に残すのも心配でしょ?」

 彼女はそう言うと、無防備な顔で寝息を立てている朔を振り返った。
 
 朔は江麻先生のことを俺なんかよりも、ずっと信頼しているんだろう。一緒に暮らし始めてから、こんなにも安心しきった顔で眠る朔を見るのは初めてかもしれない。

 夕飯は、江麻先生を俺の家に招いてカレーを食べた。行きつけの近所のラーメン屋が、こんな日に限って定休日だったのだ。

「誘っといてすみません。また別の機会に……」
「じゃぁ、家で作ろうよ」

 気まずさいっぱいで江麻先生に謝ったら、朔がこんなときばかり積極的に提案をしてきた。

 片付けてもいない狭い部屋に、あまり親しくもない江麻先生を誘うのはどうだろう。俺は気が進まなかったが、朔が江麻先生を家のほうへと強引に引っ張るので、ダメとも言えない。

 スーパーで買い物してカレーの準備を始めたが、料理に不慣れな俺の手際は悪く……。見かねた江麻先生が、途中から調理を代わってくれた。そのあいだ、朔は彼女の傍からひと時も離れず、にこにこしながらカレーができるのを待っていた。

 珍しくはしゃいでいた朔は、カレーを食べて俺が後片付けをしているうちに、ローテーブルに腕を預けてうとうとと眠ってしまった。とても安心しきった顔をして。

 朔の嬉しそうな顔を見るのは新鮮だったが、いちおう兄としては立場がない。

「いろいろとありがとうございました。帰り道、気をつけて」
「こちらこそ、突然お邪魔してすみません」

 玄関先まで見送る俺に丁寧にお辞儀を返してから、江麻先生がドアノブに手を掛ける。ドアを半分ほど開けたところで、「そうだ」と江麻先生が思い出したように振り返った。

 肩にかけたバッグから手帳とペンを取り出した江麻先生が、何か書いて、その紙を破いて俺に手渡す。

「これ、以前朔ちゃんが通っていた学童保育の電話番号です。村尾さんのお父様はご存知だと思うんですけど、何かのときのためにお兄さんにも」

 俺がメモを受け取ると、彼女が柔らかく微笑んだ。

「もし困ったことがあったら気軽に連絡ください。ご相談にのりますので」

 江麻先生と会うのはまだ2回目。一緒に夕飯を食べたからといって、特に親密な話をしたわけでもない。それなのに、彼女に笑いかけられるとなぜかすごくほっとする。

「連絡すれば、いつでも電話に出てくれるんですか?」
「いつでも、ではないかもしれません。他の指導員とシフト制で勤務していて、おやすみをとっているときもありますから。でも、朔ちゃんの名前を言ってもらえたら、誰でも相談にのれますよ」
「そうですか……」

 小さくつぶやいた俺が、少し不安そうに見えたのかもしれない。

「だったら、念のため──」

 江麻先生が俺の手からメモをとって、何か書き足して戻す。

「一応、私の電話番号も伝えておきますね。もし、何かあったら」

 顔をあげると目が合って、ふわりと笑いかけられる。

「じゃぁ、失礼します」

 笑顔の余韻を残して、江麻先生がドアの向こうに消えていく。

『もし、何かあったら』

 彼女に渡されたメモを、俺はお守りのようにそっと握りしめた。