「ううん。辛いのはナナちゃんだもん。あのね、金髪ならメイクもしようってことになって、私とマリアちゃんの未使用のメイク用品をあげたら一通りそろってね。服も持って来たのより私たちの服の方がいいねって。着ていない服をあげたの」
「……ありがとう」
「ふふっ、お礼なんてもう言ってもらっているよ。変なの」
やっぱり寂しそうに笑うと、ジュリちゃんは「上がってもいい?」と聞いた。
「もちろん、あがって。すぐに帰るけど……」
「うん。私もお店に出る支度があるから長居する気はないよ」
そう言いながら靴を脱いで部屋に入ってきたジュリちゃんが真っすぐ私のところに来たと思ったら、ふわりと抱きしめられた。
甘い香りがした。この柑橘系の香りは、ジュリちゃんの香りだろうか?
「詩音さんもしたの、この香り」
「えっ? 詩音さんに会ったの?」
「うん、ジュリちゃんと同じ香りがしたよ」
「そうなの……?」
ジュリちゃんは手を放して私から離れ、考え込むような表情をした。それから、すぐに私に気づいてフッと口元を緩めて笑った。
「ママがくれた香水なの。女の子たちにはみんなあげているのかな。私はこの香り気に入っているの」
この香りがイコールでジュリちゃんだと思ったほど、彼女にピッタリな香りだと思えた。
再びジュリちゃんがふわりと私を抱きしめた。
「このまま何も言わずに聞いて」
耳元でジュリちゃんが囁いた。
驚いて声が漏れそうになったのを飲み込む。
「ナナちゃんの友だちでミナちゃんって子がM氏のところにいたらしいの。ミナちゃんって子は時々ここに来ていた。首筋に傷痕のある子で、それは自殺未遂の跡らしいの。ナナちゃんはその子をすごく気にかけていた。ナナちゃんを誰かが殴ったなら、M氏が関係しているかもしれない」
思わず私は身体を離してジュリちゃんの顔を見た。同じくらいの背丈のジュリちゃんは真顔で私を見つめている。
そして、再び私に抱きつくように首へ手を回すと、耳元で囁き声を続けた。
「この寮ではね、コンセントの中に盗聴器がしかけられているの」
「――――えっ」
「その話は、前のナナちゃんにも初日にしているから大丈夫。ここでミナちゃんて子と滅多な話をしていたとは思えない」
だけど、どうして盗聴器なんて――――?
胸がドキドキして治まらない。
「ママはね、ここに来るM氏に狙われていた女の子たちを守ってくれているの。その話は聞いている?」
耳元で囁くジュリちゃんに私はゆっくりとうなずいた。
「それは事実ではあるんだけどね。ママはM氏の内縁の妻なの」
「えっ⁉」
思わず大きな声が出た。
たしかに、ヤクザの女だと詩音さんから聞いたけど……。
それがM氏だということ?
「だからこそ、M氏のやっていることは許せないんだけど、ここから抜け出せなくなっているのはママも同じなの。ただ、あの家にいる子たちと違うのは、ママはM氏を愛していること」
そこまで話すと、ジュリちゃんは私から離れて微笑んだ。
「寂しくなるな。でも、仕方がないよね。遠くの田舎に帰っちゃうんだもん。もう会えないね。せめて、私たちがあげたもの、少しは持ち帰ってよ」
家はそんなに遠くないし、別に田舎でもない。また荷物を取りに来る可能性だってあった。
だけど、ジュリちゃんは家は遠いと言え、もうここには帰ってくるなと警告している。
「うん、ありがとう」
私はスーツケースを開けて、テーブルの上に置いてあった化粧ポーチやクローゼットの中の服を入るだけ詰め込んだ。
思ったより重くなってしまった荷物を持ってお店に寄ると、ママがカウンターに座ってぼんやりと煙草を吸っていた。
「ありがとうございました、帰ります」
私が声をかけると、ハッとした表情になってこちらを見た。
「ああ、ナナちゃん。荷物はまだあるんでしょう? 家に帰っちゃうなら働いてとは言わないから、また遊びに来てね」
「――――はい」
「そのぬいぐるみ」
ふいにママがルイを指差した。
「えっ?」
「……眠れないから抱いて寝るんだって言っていたわね。ふふっ」
「あっ、そうです。そんな話もしたんだ、私」
「そうね。気を許してくれていたわ。あっ、ちょっと待って。ナナちゃんが好きだったお菓子があるの」
そう言うと、ママはカウンターの奥へ入って行った。
私には母親がいないけど、ママはきっとこの二週間、母親のように接してくれたんだろうと感じた。
「ごめんね、包み紙は開けちゃったけど。中は全部そろっているからね」
小さな箱を持ってくると、私に差し出した。
「ありがとうございます。和菓子?」
なんだろうと思ってふたを開けようとすると、ママが慌てたようにそれを制した。
「お楽しみよ。電車の中で食べて」
電車の中で? いや、食べないでしょ。
そんなツッコミを入れたかったけど、田舎の電車だったら食べるのかもしれない、なんて思いながら「はい」と答えた。
ここにも盗聴器があるのだろうか?
盗聴器なんて、誰が何のために仕掛けているの?
そんな疑問が溢れるけれど、もう私には関係なくなるのだから聞く必要もない。
ただ、この二週間の記憶が無いから、その間に私が何を喋って誰に聞かれていたのか、そんな不安が残るだけで。
「外に来夢がいるから、送ってもらいなさい」
そう言うと、ママが私を抱きしめた。
「元気でね。たとえ記憶が戻っても、連絡してきたらダメよ。手紙もダメ」
耳元でそう囁いた。
さっきは遊びに来いと言ったけれど――――。
「じゃ、気を付けて帰ってね」
私から離れると、ママは笑顔を見せた。
私は笑うことが出来ず、ただ頭を下げた。
ママはなにか知っているんだ。
そうとしか思えないけれど、聞くことが出来なかった。
ルイをギュッと抱きしめた。
そのモノトーンのギンガムチェックの服の中に、クシャっと音がして紙が入っている感覚がある。
ここにある菜々宛ての手紙を読めば、全てがわかるはずだから。
お店の扉を開けると、外で来夢さんが煙草を吸いながら待っていた。
「お待たせ……したんですよね?」
「別に。煙草吸ってただけだから」
来夢さんが煙草を地面に落とすと、かかとで踏んで消した。
そして、私の顔を見るとニヤリと笑ってその吸殻を拾ってみせた。
「ナナちゃんにさ、前に注意されたんだよな。ポイ捨てするなって」
そう言いながら、少し先の煙草屋さんの前にあった灰皿に吸殻を投げた。
「そう、なんだ」
うん、ポイ捨ては注意するかもしれない。ていうか、今もそのまま立ち去ろうとしたら何か言ったかも。
「そういうの、ナナちゃんらしいんだけどさ。そんな正義感がここでは命取りになることもあるから」
まるでヒントのように意味深なことを言われ、私はドキッと胸が高鳴って来夢さんの顔を見上げた。
「あ、あの。来夢さんってM氏の息子ってわけじゃないの? ママとM氏は……恋人同士なんでしょ?」
夏がよく似合う日焼けした顔でくしゃっと笑うと、来夢さんは「あっ、そうだ」と言って胸ポケットからメモ用紙とボールペンを取り出した。
「俺の連絡先。持って行けよ」
そう言いながら、サラサラとその場で何か文字を書いている。
私の質問は無視かな……?
書き終わると、来夢さんは用意していたらしいもう一枚のメモ用紙の上に重ねて差し出した。
『クマのぬいぐるみに盗聴器と発信機が隠されている』
それを読んで全身が凍り付いた。
ジュリちゃんもママも帰ってくるなと言っていた。
部屋には盗聴器があり、たぶんお店にもあったんだろう。
だけど、お店を辞めても解放されないの――――?
怖い。私はなにをマークされているの?
このまま帰っても大丈夫なの……?
あらかじめ用意されていた二枚目のメモを見ると、携帯番号が書かれている。そして、その下に「危険が迫っていると思った時だけかけてこい。必ず公衆電話から」と書かれていた。
私は全身が震えていくのが分かった。
「M氏は俺の血の繋がった父親だ。兄貴はM氏のもとで働いて松村も名乗っている。俺は母さんのところで、風間って母さんの姓を名乗っている」
「へっ?」
「ハハッ、さっきの質問に答えてなかったからさ。そんな話、前にもしたんだけどな」
そんなことを大きな声で話すということは、あの松村とママの関係は特に隠しているネタでもなくオープンな状態なんだろう。
「俺、これから出かけっからさ。途中まで一緒に行こうぜ」
そう言うと、来夢さんは震える私の肩を掴んで歩かせた。そして、耳元で囁くように言った。
「大丈夫だ。誰もついて来ないよう、まいてやる」
ついてくるの? 誰かにつけられているの?
背中がサッと冷たくなって胸がドキドキしていく。
「ふり向くなよ。十秒経ったら走る」
「う、うん」
私は心の中で十秒数え始めたけど、少し早めに来夢さんが「3,2,1」とカウントを呟き、「行くぞ」の掛け声で全速力で走った。
うしろをふり向く余裕なんて無かったけど、走って追いかけてくる足音が聞こえた。
たしかにつけられていたんだ!
だけど、次第にそれも聞こえなくなった。
駅に着くころにはゼイゼイとみっともないほど息切れしていたけど、追手は来ていないようだった。
「ホームまで行くから」
ICカードを翳してホームに駆け込むと、ちょうど来た電車に来夢さんも一緒に乗り込んだ。
「えっ? なんで乗るの?」
「誰も来なかったら、次の駅で降りる」
「あ、ありがとう……」
色々と聞きたいことがあった。
私は誰になんで狙われているのか。どうして助けてくれるのか。
だけど、誰かが聞いているのかもしれないと思うと聞けない。
発車ベルが鳴り響く中、また耳元で来夢さんがささやいた。
「履歴書も全部、君の情報はシュレッターにかけて削除してある。家から遠い場所で、手紙を抜いてそれは捨てるんだ」
ルイを指差された。手紙のことも知っている――――?
だけど、ルイは小さい頃からの大切な友達だった。
それを汲み取ったのか、鋭い目で私を見てからもう一度ささやく。
「あれだけでも捨てろ」
盗聴器と発信機のことだろう。私はようやく「わかった」と答えた。
「大丈夫そうだな」
誰も追いかけて乗ってこなかったのを確認すると、来夢さんがいつになく優しい目でわたしを見た。
「次の駅で降りる」
「うん」
「念のため、降りる駅では扉が閉まるギリギリで降りろよ」
「……うん」
各駅停車の電車だけど、次の駅に着くまでがヤケに長くかかっている気がした。
駅に停車すると、降りる人たちのざわめきの中でもう一度来夢さんに耳元で囁かれた。
「〝あれ〟は俺が警察に持って行く。俺に万が一のことがあったら、キミが届けてくれ」
「えっ?」
「摘発されたら大丈夫だ。捨てていい。しばらくは報道をチェックして見ていろ」
そう言い残して、扉が閉まる寸前にすり抜けるように出て行った。
〝あれ〟って? 摘発――――?
彼の言う警察に届ける〝あれ〟というのは、ミナが言っていた物と同じだろうか?
ミナがなにか盗った物?
摘発というのは、つまり、松村の悪事を暴くとか?
いや、実の親だからそれは無いだろう。
じゃ、なに――――?
黒幕がほかにいるとか?
ゴチャゴチャ考えても仕方がない。とにかく盗聴器と発信機をどこかで捨てないと。
それを付けたのは、ママか来夢さんということだろうか?
内縁の妻や息子という便宜上つけなければいけなかったの?
まだまだ聞きたいことだらけだけど、もう誰にも聞くことは出来ない。
とにかく真樹紅から少し離れた駅でルイに仕掛けられたという盗聴器と発信機を探して捨てよう。
家に着くまでに、ルイの中に埋め込まれていた盗聴器と発信機を探した。真樹紅からも甘利からも遠く、乗り換え駅でもない適当な駅のトイレで確認して、ゴミ箱に捨てた。
念のため、他の荷物も全部見たけど、他には何も隠されていなかった。
誰にどうして狙われているのか、それがわからなくて落ち着かない。
追っ手がいるなら、真樹紅から電車で二時間はかかる隣県の我が家にたどり着くことはない、と信じたいけれど。
とりあえず日常に戻ろうと、ずっと続いている胸の動悸を抑えながら、スミレを迎える支度をしないと、という思考が働いていく。
ケーキでも買いたかったけど、精神的な余裕がなくてケーキ屋さんに立ち寄らなかったことを思い出した。
「あっ、これ……」
荷物を部屋に運びながら、ママに渡された和菓子らしい箱に気づいた。
スーツケースの中を取り出すのはあとにして、私は箱の中身を確認した。
ふたを開けるとメモ用紙に書かれた達筆な文字が飛び込んできた。
『松村和敏が逮捕されることを確認したら、あなたは安全です』
あの時、ママが書いたのだろう。
松村和敏というのは、きっと来夢さんの父親でママの恋人である怪しい紳士M氏のことだよね――――?
来夢さんが報道を気にするようにと言っていたのは、M氏が逮捕されることを指しているの?
摘発って、やっぱり悪事を暴こうとしているの?
私が狙われていたのが関係するのだろうか……?
そのとき、静まり返っていた家の中にチャイムが鳴り響いて全身が凍りついた。
恐る恐る階段を下りてモニターをチェックすると、出るのが遅くて待っているという様子のスミレの姿が映った。
そうだった、スミレが来るんだった、と安堵して力が抜けた。
「金髪、意外と似合うね」
早川君から聞いていたのだろう。ドアが開くと私の頭を見て、開口一番でスミレはそう言うとニヤリと笑った。
「そうかな。真樹紅で出会った人にも、そう言われたみたい」
「へえ……」
靴を脱ぎながら、スミレは何か言いたげに私を見た。
「なに?」
「ううん。記憶が無いって聞いていたから……」
「うん。二週間分の記憶がないの」
スミレと話をしていると、ここが私の日常のはずだという感覚と、なんだかここは平和すぎて違和感があるという不思議な感覚に襲われる。
さっきまで言い知れない恐怖の中にいたからだろうか――――?
あのM氏のとろこに行ったら最後、普通の幸せは得られないとジュリちゃんが言っていた。
だけど、そんな所にミナはいるのだろうか……?
ミナとの関係性はわからないけど、私はとても気にしていたように思う。
ママにお水を渡していた記憶の中で、私は友達のために動かなきゃと思っていた。
私には、しなければいけないことがあったんじゃないだろうか?
私はここに帰ってきて良かったんだろうか……?
「どうした? 大丈夫?」
スミレが心配そうに私の顔をのぞき込んだ。
「うん。なにか飲み物持って行くから、先に私の部屋に行っていてくれる?」
「あっ、これ。駅前で買ったの」
スミレがケーキ屋さんの箱を手渡した。私が寄ろうと思っていたケーキ屋さんだったから、かぶらなくて良かった。
お持たせのケーキと紅茶を乗せたトレーを持って部屋に入ると、白いローテーブルの前に座っているスミレの横顔が見えた。
それは彼女の素の表情だと感じるものだった。
いつも悟られないよう周囲に気を遣う、姉御肌のスミレだから、笑顔にしても気の強そうな表情にしても、どこか作られたものだったのかもしれない。
普段はそんなことを感じたことはなかったけれど、今、この素の表情を目の当たりにしたから、そうなんだろうという印象を持った。
今まで、素顔を晒せない関係だったのかもしれない。そう思うと、少し寂しいけれど。
私に気づいたスミレはその表情を変えずにこちらに視線を向けた。
彼女は無表情だった。それが私には素に思えた。
「これ、なに?」
スミレがテーブルの上に置かれた箱を指差した。
ママが持たせてくれた和菓子の箱――――。
そこにはあのメモが乗せられていた。
私は持ってきたトレーをスミレの前に置くと、その箱を素早く手に取った。
「和菓子だよ。スミレと一緒に食べようと思って」
「夕璃、真樹紅に行ったんでしょ?何があったの?誰かが逮捕されたら安全って――――」
「だから、記憶がないの!」
思わず声を荒げてしまうと、スミレは驚いたように口をつぐんだ。
「でも、ここにいたら関係なくなって大丈夫だから……」
それも確信はなかったけれど。
少なくともつけられてはいないし、盗聴器も発信機も捨てたから、この家まではわからないはず。
佐間川まではバレているけど。
しばらくの沈黙の後、スミレがおもむろにスマホを出した。
「――菜々、遅いね。LINEしてみようか?」
軽快にスマホ画面をタップしていくスミレを見て、私は慌てて彼女を制した。
「ごめんね、菜々は呼んでない」
「えっ?なんで?喧嘩――じゃないよね?」
「ちがうけど……」
どう伝えようか迷う。でも、きっと早かれ遅かれ早川君から聞くような情報は私から話した方がいいに決まっている。
スミレと向き合って座ると、私は真っ直ぐ彼女の切れ長の目を見つめた。
「早川君から聞いたかもしれないけどね。私はテッちゃんに振られたの」
「――――うん」
真顔で私を見つめ返すスミレ。驚かないということは、やっぱり聞いていたのだろう。
「これも聞いているかもしれないけど。テッちゃんは菜々を好きなのね」
「えっ!?」
それは聞いていなかったらしい。スミレが目を見開いて驚いている。
「それはね、私は一年生の頃から知っていて。テッちゃんより先に気づいたんだ」
「もしかして、今回の家出はそれが原因なの?」
家出――――?
記憶がないから、家出という自覚はないけれど。実際はそういうことなんだろうと思った。
だから、あのM氏にも目をつけられたのかもしれない。
家出少女だったから。
私はそのとき、ルイに託したという菜々に宛てた手紙の存在を思い出した。
盗聴器の中で会話をするとか、つけられていたらしいとか、衝撃的なことがあってすっかり忘れていたけれど。
元々はあの手紙を探していたんだ。
私がどうして家を出て真樹紅に行って水商売をしたいと思っていたのか、どうして死のうとしていたのか、誰になんの理由で狙われていて殴られたのか。
その疑問の答えが全て、手紙の中にあるのだろうと思えたのだ。
私はスミレの顔を見た。すっかり心配した表情をしている。
彼女に話す必要はないだろうと思った。
スミレには――――この平和な住宅街に住んでいる人たちには、関係ない世界が世の中にはある。
私にも関係ない世界だったはずだけど。
きっと、自分から飛び込んでしまったんだから仕方がない。
「じゃ、夕璃は心にけじめをつけるために告ったの?」
ふいに、スミレの声が耳に響き我に返った。
「えっ?」
「だから、栗林に。あいつが菜々のことを好きだって知っていたんでしょ?」
「ああ、うん。そうだね……。たぶん、そうかな。フラれても夏休みに顔を合わせなければ、今まで通りテッちゃんの幼なじみと菜々の親友に戻れると思ったの」
そう、それは本当にそう思っていた。そして、そのあとに二人を見て、すごく辛くなったことも確かだった――――。
それはつい昨日のことなのに、もうそんなことがとっても小さなことのような気がしていた。
そんな話は、とっても遠い世界のことのような…………。
だって、自分の身に危険があるかもしれない。
自分だけじゃない。
さっき、来夢さんは「俺の身に何かあったら」と言っていた。
あれって、危険なことがあるってことだよね。
それに、たぶん私の友達だったであろうミナは確実に薬漬けにされていて――――。
私だって、頭を殴られて負傷しているうえに、M氏が逮捕されない限りは狙われる恐れがある――――ってことだよね?
なのに、なにも詳細をわかっていなくて。
あの最後の手紙にそれは書いてあるのだろうか――――?
「スミレ。たぶん、夏休みが終わったら大丈夫。私はテッちゃんの恋を応援できると思う」
「そう?自分を押し殺したり、無理しちゃダメよ」
そう言いながら、スミレは少し安心した表情をしていた。
私はきっと大丈夫だという顔をしているのだろう。
だって、もうそのことが小さく感じているんだもん。
まだテッちゃんと菜々の話をすると、少しだけ心が痛む部分はあるけれど。
それでも、真樹紅で衝撃的なことをたくさん聞いて、実際に恐い目にも遇っているから…………。
失恋の痛みなんて、本当に些細なものに変わっているのかもしれない。
失恋だって、ジュリちゃんの言う「普通の幸せ」の一部なのかもしれないと思えたのかもしれない。
それからは、最近のスミレのノロケ話を聞いたりと、ゆっくりと和やかな時間を過ごした。
外が暗くなった頃に彼女が帰ると、私はやっとルイを手に取ることができた。そして、その洋服の下に隠された手紙を探した。
出てきたのは真っ白な封筒だった。
しっかり糊づけしてあるけれど、私がこんな封筒を選ぶのかな?という疑問はあった。
たまたま近くにあった封筒に入れた、という感じの物で。
封を切ると、中からは黄金色の菜の花畑に女の子と犬が描かれた、まるで絵本の挿し絵のような便箋が出てきた。
これは、私が買ったと思えるような趣味のものだった。
そして、封筒の中には何か固い小さなものが入っていることに気づき、中の物を出してみた。
「SDカード……?」
この二週間で撮った写真か何かだろうか?
あとで確認してみよう。
この手紙と何か関係があるかもしれない。
私は高鳴る鼓動を抑えながら、自分が書いたはずの手紙を広げた。
確かに私の字で『親愛なる菜々へ』と書かれている。
『親愛なる菜々へ
まずはじめに、ここまでたどり着いてくれて、ありがとう。
最後の最後に、こんな楽しくもない宝探しをさせてしまってごめんね。
いきなり警察から連絡がいって、謎かけのような手紙を受け取って驚いたと思います。私とは対面したのかな? 時間が無くて、髪も服装も真珠紅で過ごしていたときのままだから、高校を入学してからずっと双子みたいだって言われてきた菜々とは似ても似つかなく見えちゃったかな。
私はね、菜々と似ていると言われて嬉しかったよ。
いつも優しくて可愛い菜々が大好きだったから。
客観的に見た目とか雰囲気ってものは分からなかったけれど、私たちって一緒にいるときの感覚が似ているよね?
他の友達と一緒にいるときも楽しかったけど、菜々と一緒にいるときは穏やかな心で飾らない自分でいられました。双子というよりは、もうひとりの自分みたいな不思議な感覚。
そんな菜々は私の大切な親友です。
それを大前提に、これから書くことを穏やかな気持ちで読んでもらえたら嬉しいです。』
菜々が読むことを前提にした、そんな書き始めだった。
ここまで読むだけで、私は本気で死ぬ気だったんだとわかる。
警察から菜々に連絡が行き、菜々が必死に探してくれるだろうと予想して――――。
うん、きっと菜々なら探してくれただろう。
だけど、実際は私が見つけて読んでいる。
死ぬことも、菜々に見つけてもらうことも叶わず。
そう思うと、二週間前の私が滑稽に感じてしまう。
思わず苦笑いしながら、私は続きを読んだ。
『 私は家を出たあの日、一学期の終業式の日、ずっと幼なじみって位置づけだったテッちゃんに告白をしたけど、フラれたの。
だけど、テッちゃんの気持ちには随分前から気がついていたんだ、私』
そこから、私はテッちゃんが菜々を好きなこと、それにずっと気づいていたこと。
告白して諦めて応援しようと思ったけれど、思ったより自分がテッちゃんを好きで、応援なんてできる優しさを持ち合わせていなかったと気づいたこと。
そんなことが綴られていた。
そう、記憶を失くした私が昨日まで感じていたどろどろした感情がそのまま書いてあったのだ。
二週間前に家を出る前にも、私はあんな感情を持っていたんだ…………。
そう思うと複雑だった。
でも、たしかに知っている感情だと思っていたかもしれない。
そして、手紙を書いている私も昨日までの私と同じように、家族のように私を大切にしてくれるテッちゃんは、好きな人として想ってくれることは永遠にないんだと理解して絶望していた。
そして、テッちゃんに『宮城に寄せていると、おまえらしさが消えている』と言われ、『自分らしさってなに?』とわからなくなって迷子のようになっていた。
「――――えっ?」
その先を読み進めようとして、私は絶句した。
『家に帰ると、意外な訪問者が現れたの。
六歳のときに死んだと聞かされていたお母さんが家を訪ねてきた』
お母さん――――?
死んだと聞かされていた――――?
どういうこと?
急に後頭部がズキンと痛んだ。河原で殴られたところだ。
と同時に、大きな目眩に見舞われて視界が揺れて頭がおかしくなりそうだった。
イヤだ、恐い――――!
大きな恐怖に襲われた時、目の前に菜々のお義母さんの顔が現れた。
菜々を夜中に迎えに来た時、私のお母さんによく似ているなって思ったの。
だけど、全然違う。顔は似ていたけど、雰囲気も表情も全然違った。
私のお母さんは菜々のお義母さんみたいに優しく柔らかい雰囲気なんて無かったから。
いつも無表情で無気力で。時には急に怒り出してキレられた。
そんな情緒不安定で、恐いくらい神経質で――――。