表通りから外れ住宅が立ち並ぶエリアに入る。ここまで来れば目的地まであと少し。頑張れ頑張れと自分に言い聞かせながら進む。5分ほど歩くと目の前に鳥居が見えてきた。久しぶりに歩いたせいか、疲れがどっと押し寄せる。しかし木立に囲まれた境内へ足を踏み入れたその瞬間、周囲の空気が澄んだのが分かった。
ついさっきまでうるさいほど聞こえてきていた車の音や人の声が完全にシャットアウトされた。代わりに聞こえてくるのは木の葉が風に揺れるサラサラとした音、鳥が囀る声、砂利を踏みしめる、ザッザッという音のみ。日常とは明らかに一線を画している。
鳥居が俗世と神域の境というのは本当かもしれない。

自宅からこの神社まで徒歩で約40分。毎週のように訪ねていた時は、さほど遠くない距離だと思っていたが、しばらく歩いていないと身体は、確実に衰えてくるらしい。

 前回訪れたのは3ヶ月前。参拝したいう気持ちはあったが、日常の慌ただしさに、機会を逃してしまっていた。
キョロキョロと辺りを見回し、ほかの参拝客の姿を探す。しかし私の他に人の気配は確認できなかった。

2年ほど前までは、神社に行くといく考えもなかったのに。人間変われば変わるものだとおかしくなる。もちろん変わったのにはそれなりの理由がある
のだが。

30代目前になると、これから先の生き方を選ばざるをえなくなる。今まで気にしてこなかった将来がなぜか急に現実味を帯びてくる。物理的な意味で期限が近付いてきているのをヒシヒシと感じる。しかし現実は妊娠、出産はおろか結婚の予定もないし、するつもりもない。
私には自由気ままな生活が性に合っている。誰かと共に歩むなんて多分向いていない。

しかしこのまま歳を重ねるのは違う気がして、私は人生大改造計画を行った。それが2年前というわけだ。婚活ではなく、元気な老後を過ごすことを目標に掲げ自分の生活習慣の改善を始めた。
早寝早起きを徹底し、適度な運動や身体にいい食事生活を心がけた。神社に参拝するのも、最初は信仰心というより、ウォーキングの意味合いの方が強かった。独り身のプロになるためには、何でも自分でする必要がある。そして何より健康寿命は長い方がいい。これは未来の自分へのささやかな投資だ。こんなことを言うと聞こえはいいが、せっかくの人生一秒たりとも無駄にしたくない。

そしてこの生活が予想以上に、私の心身の健康に役立っている。特に散歩は効果てきめんだった。スッキリ痩せたし、あまり悩まなくなった気がする。幸せホルモンの分泌が盛んになったのだろう。
神社仏閣の持つ澱みのない気品も私を引き付けた。参拝すると神聖な雰囲気に思わず背筋が伸びる。日常では味わえない凛とした雰囲気。この空気を体感できるだけで私はかなり満足していた。

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社に向かって大きく2回頭を下げる。パンパンと柏手を打つ音が境内に響いた。まずは、数ヶ月間訪れなかった事を詫びなければ。

(お久しぶりです。神崎葵です。なかなか来られなくて申し訳ありませんでした。実は仕事がすっごく忙しくなってしまって。でもようやく落ち着いたので、これからはもっと頻繁にお参りさせてください。今後ともよろしくお願いします)と神様に改めて挨拶をする。

何かいいことが起こりますように。臨時収入が入りますように。このような願い事はしない。
その代わり、かなり長い時間自分の近況を話しまくる。これが私の参拝スタイルになっている。周囲に人がいないかを確認したのもそのためだ。
マナーの専門家が見たら、めちゃくちゃなお参りの仕方だと眉をひそめられるかもしれないが、これが一番しっくりくる。私は、この時間を自己と対話する貴重な時間だと思っている。だから神様に自分の心情を伝えることで散らかっていた心のピースがあるべき場所にきちんと整理されていくような気がしている。

しかし、長い時間 神様を独占して周りの人の迷惑にはなりたくない。
だから私の参拝は、ほとんどが午前中。比較的人が少ない時間帯を選んでいる。周囲に配慮をしてこそ大人だと思うから。

大人女子のリアルな実態。意外と気を使って生活している。そして割と毎日充実している。気になるのは世間体くらいだろうか。しかし結婚や出産についての話題は、もう慣れてしまった。私は私という意識は、生きていく上でとても大事な気がする。すると不思議なことに、誰が結婚しても驚かないし、心から祝福できるようになった。

私だって幸せだ。両親は健在だし、仕事も充実している。一人っ子ではあるが、親友と呼べる友達もいる。
これ以上望んだらバチが当たる。

それに私は将来のこと、親の老後のこと、お金のことなどはもう決めてある。
何かあってからでは遅いし、くだらない揉め事に巻き込まれたくもない。このまま平穏な人生を続けていくためにも、将来的に必ず起こりうる問題を後回しにしたらいけない。そう考えたからだ。
未来なんて誰にも分からない。だとしたら少しでも幸せに暮らせるように準備するだけのこと。
そう考えた私は 実家に帰った時に、少しづつ将来のことを話題に上げていった。二人とも私が思った以上に協力的で拍子抜けするほどだったが、両親のやる気があるうちに決められることは決めておきたい。親がいなくなっても私の生活は続いていくのだから。

将来的に実家は売りに出す。お墓は、永代供養してくれるところにお願いする。写真や手紙の類は、本人が元気なうちに処分する。まだまだ修正は必要になるだろうが、方向性が決まっているだけでも私は安心できた。些細なことに一喜一憂しない。落ち着いて状況を見極めること。そう決めている。

しばらく境内を散策した後、私には必ずやることがある。それは、この神社で一番大きい楠にパワーを分けてもらうことだ。
やり方は簡単。手と耳をそっと幹に当て耳をすませるだけ。すると幹の中を流れる水の音、木の葉の擦れる音、流れる水の音などが私が聴覚と感覚を通し私の中に入ってくる。まるで自分が木と一体化していくような感覚が心地がいい。
心の中まで満ち足りた気分になると私の充電は完了する。
帰りは、お気に入りの店でランチでもしよう。その後は本屋さんに行って、新刊のチェック。歩き疲れたら、カフェでお茶するのもいいかもしれない。自分の為だけに使える時間はなんて贅沢なんだろう。
そう思った瞬間ポケットの中のスマホが震え、思わずひっ!と声が出る。20センチ位飛び上がったかもしれない。

電話は雨宮美咲からだった。何かあったのかと 慌てて通話ボタンを押す。

「もしもし、何かあった?」

受話器の向こうから小さなため息が聞こえた。

「葵!?もぉ出るの遅すぎ。せっかく電話したのに。しばらく会えなかったけど、どう?元気だった?」

「いつでも電話に出られるわけじゃないの。それになに?私よ。私。って詐欺か何かですか?」

私は思いっきり不機嫌に対応する。しかし、そんなこと美咲は意に介さない。

「なんで詐欺電話なのよ。画面に名前出てるでしょ。雨宮美咲って。相変わらず素っ気ないなぁ。本当は私から連絡があって嬉しいくせに。ねっ、葵ちゃん」

いつもこの調子だ。

「美咲、あなた私に歓迎されてると思ってるわけ!?ほんとポジティブっていうか、なんていうか…」

「そんな喧嘩腰で言わないでよ。じゃあ葵は私からの電話嬉しくないわけ?」

嬉しくないはずがない。むしろすっごく嬉しい。突然どうしたの?何かあった?私でよければなんでも話して。心の中から言葉が溢れてくる。しかしそれを素直に表現するのは何となく気恥ずかしい。だから、私の返答はいつも素っ気ない。

「べっ別に、嬉しくないとは言ってないじゃない。ただ私にも都合が」

「まったくもぉ素直じゃないなぁ」

きっと今の美咲は電話の向こうでニマニマしているに違いない。

「それに」

ここぞとばかりに美咲の声が大きくなる。

「怒ってばかりいると眉間のシワが増えるわよ。もういい歳なんだし」

いい歳は余計だが、眉間のシワのことはなんで分かったんだろう。誰にも話していないのに。実は数日前、眉間にうっすらとした線を発見し慌てて高めの美容液を購入したばかりなのだ。しかし、素直に話せば、美咲が調子に乗るに決まっている。

「なっ!?ないわよ!眉間にシワなんて。それに、あなたと私は同級生。歳をとるのも同じペース。いい?あなたも私も29歳。そうか美咲は最近お肌のことが気ななるのね。いい美容液教えてあげる」

こう切り返すと美咲が黙り込んだ。普段と違う様子に私は拍子抜けする。何かおかしい。いつもの彼女なら、何かと理由をつけて反論してくるのに。

「美咲どうかした?」

思わず声をかけると、受話器の向こうで美咲がふーっ大きくひとつため息を着く。

「何もないわよ。でも葵には会いたい気分かな。前は毎日会えたのにね」

美咲の返答に私は少し違和感を覚えた。普段の彼女なら、自分から誰かに会いたいなんてことは絶対に言わない。何か悩みでもあるのだろうか?滅多にないことなので接し方が分からない。しばらく悩んだが、いつも通り対応することにした。

「私達が学生だったら毎日会えたかもしれないけど。だからこそ、たまに会える日が貴重で大切なんじゃない?」

「そうね。そうでした。でもあの頃は気楽だったな。学校っていう限られた世界の事だけ考えていればよかったんだから。大人になっちゃったね。私たち」

大人になっちゃった。か。本当にいつから大人になったんだろう。もちろん年齢的な意味合いではない。考え方とか、振る舞い方の話。時間は平等で残酷だ。

美咲との出会いは中学校まで遡る。入試を突破して入ったカトリックの一貫校。これで大学まで安心だと喜ぶ両親を後目に、私は知らない人ばかり環境に戸惑っていた。
友達ってどうやって作ればいいのだろう?今までは苦労しなくても、自然と誰かが声をかけてくれすんなりとクラスに溶け込むことが出来ていた。それは、私が可愛くて、頭が良いかららしい。自分ではよく分からないけれど。しかしクラスメイトからはよくこう言われていた。

(葵って可愛いじゃない?おまけに頭もいいし。だからみんな葵と友達になりたいんだよ。みんなの憧れだもん。それに葵といればクラスからハブられることもないし)

小学生でも高学年になれば、教室内での序列が生まれてくる。俗にいうスクールカースト。そしてクラスメイトのこの言葉は、私が教室内カースト最上位に位置しているということを意味していた。
しかし、当の本人である私は、何故そこまで自分がもてはやされているのか、理解できなかった。みんな買い被りすぎ。どうせ私より可愛い子がいたら、そちらに流れていくんだからと、どこか冷めた目で周囲を見ている自分がいた。

しかし知らない人ばかりの環境になると、今度は不安で仕方がない。誰でもいいから声を掛けてくれないだろうか。
入学してから1週間でクラスでの立ち位置は決まるとなにかの本で読んだ気がする。しかし、焦れば焦るほど、どのように振る舞ったらよいか分からず、私は早くも家に帰りたくなっていた。
そんな友達迷子の私に、最初に声をかけてくれたのが美咲だった。そして私達の最初の会話は今でもはっきりと覚えている。

「ねぇ聞いてもいい?神崎さんの髪って天然パーマなの?色も茶色ですっごく可愛い」

これが彼女が私に話しかけてきた最初の言葉。記念すべき第一声。名前も名乗らずいきなり容姿の話。もしかしてとんでもない女の子なんじゃないかと戸惑っている私の気持ちを察したのか、美咲は慌てて自己紹介をする。

「私は雨宮美咲。これからよろしくね」

「こちらこそよろしく」

とりあえず、挨拶を返してこの場は終了。しかし私はかなり動揺していた。初対面の人にいきなり容姿の話?常識どうなってるの?と驚いたのと同時に、もしかして、彼女は、自分の姿を褒めてもらいたいのかもしれないそう考えた。私と雨宮さんだからこんな感じになるんだろうか。

「雨宮さん今、私のこと可愛いって言ってくれた?ありがとーでも私なんかより、雨宮さんの方がずっと可愛い。モデルさんみたいだし。あっ!?もしかしてもう読モとかしてたりする?」

「ないない。ありえない。でも嬉しい。神崎さんから可愛いって言ってもらえるなんて。神崎さんて私が見たどの女の子より素敵だから」

「どうして?雨宮さんの方が、私なんかよりずっとずっと、ずーっと」

はぁ。と小さくため息をついた。何やってんだろ私。いくら、入学初日で知り合いがいないからって。ひとり妄想会なんて。でも褒め合うのとか、本当に苦手。何を言っても嘘っぽく聞こえてしまいそうだから。頭の中なら、いくらでも想像できるんだけど。そんなことを考えながら、ペンを指先でくるくる回していると、さらに美咲が声をかけてきた。

「決めた!私たち友達になろ!」

そう言うと、私の目をじっと見つめてくる。何なんだろうこの子。本当に行動が読めない。

「ちょっと待って。雨宮さんどうしたの?いきなり」

上擦った声で聞いてみるのが精一杯だ。

「なぜか分からないけどピーンと閃いたの。だから友達になろう。ねっお願い」

手を胸の前で組み祈るような仕草をする。

「別に構わないけど」

「やったーありがとう。じゃあもう私たち親友ね」

友達になった数秒後には親友。さすがにステップアップし過ぎではと思ったが、口には出さなかった。学校生活に慣れたら、交友関係もきっと変わるだろう。それまで彼女と上手く付き合えばいい。それに、知り合いがいるといないとでは、クラスでの居心地も変わってくる。
しかしそんな私の思いとは裏腹に、私たちは本当に親友になった。楽しいと思うポイントが同じだったことが大きな理由だと思う。誰かと一緒なら、楽しいは2倍にも3倍にもなる。
あの日から美咲から声をかけられなかったら、私の生活はたぶんもっとつまらなかったに違いない。たまに喧嘩もするけど、一緒に旅行したり、長電話したり、ちょうどいい距離感が心地いい。

そしてこれから先も美咲とはずっと付き合っていく。絶対にそう。
同じ時代に生まれて、出会う。限りない偶然を奇跡と呼んでみたくなる。美咲は両親と同じくらい私にとっての運命の人なんだと思う。
そして運命の人は、さっきから私の名前を呼び続けている。

「もしもし、葵?聞いてる?あおい〜」

美咲の必死さに思わず笑えてくる。

「ごめん美咲。何か一瞬だけ過去に戻ってた。私たち何で友達になったんだろう?とか」

「何それ?今さら考えることじゃない気がするけど…心配したじゃない。いきなり黙り込むし」

美咲が小さい声でよかった〜と呟いたのを私は聞き逃さなかった。

「それはそうと葵ちゃん」

きたきた。語尾にハートが付きそうな高く柔らかな声。その声に私は思わず身構えた。

なぜなら、美咲が猫なで声を出す時、私にはろくな事がないからだ。それは、過去の出来事から既に学習済み。

例えば家に帰りたくない気分だから泊めてほしい。もちろん食事と服の貸し出しサービス付き。必要なら次の日のお弁当も用意する。

またある時は、部屋の模様替えの手伝い。指示役は美咲。働くのは私。これがまた細かく指示を出してくる。せっかく家具を移動させても位置が微妙に違うとか、やっぱり元に戻してとか注文を出してくる。その度に私は、せっかく移動させたものを、元に戻す。これの繰り返し。
納得いくまでこだわりたい性格なのは分かっていたが、これでは私の身がもたない。その日は、丸一日くたくたになるまで動いた。お礼はと言うと、缶ビール6本プラスありがとうまたお願いねのお言葉。会社だったら完全にブラック企業だ。しかし私は、頼られると断れない性格。出来ることなら何とかしてあげたい。そう思ってしまうから。損な役回りだと自分でも思う。

しかし彼女の内面を知っているからあながち無下にもできない。普段は自由奔放だが、実は誰よりも、優しくて、友達思い。悩み多き十代を共に過ごしてきたのだからどんな性格かなんて知りすぎている。

何でそんなことをと思うような事を真剣に悩んできた学生時代。私の未来は夢と同じくらいの絶望で構成されていた。何でもできるけど、できない私。心の中は矛盾だらけ。でもその感覚から何故か抜け出せない。
自分ではどうにもならない思いを抱えながらも楽しそうに振る舞えるたのはなぜなんだろう。名優も真っ青な演技力を盾に日常を乗り切ってきた。ほんの1秒前まで、いつ消えてしまおうか。と考えていたとしても。不安定の塊みたいな思春期。身体的にも気持ち的にも大きく変わる。親が煩わしくなったり、突然背が伸びたり、体型が変化したり。自分の身体なのにそうではないような不思議な感覚。これを落ち着いてやり過ごす事など出来なかった。
その証拠に私は常に笑っていたし、常にイライラしていた。
大人になりたくなかった。
今にして思うと自分の生き方に責任を持ちたくなかったのかもしれない。

美咲はそんな私に対していつも優しく接してくれた。今にして思えば同級生なのだから、美咲だって悩みがあったはずなのに。常に寄り添ってくれていた。学校以外でもカフェで悩みを聞いてくれた事もある。内容は、今にして思えば些細なことだったけれど当時の私には、とてつもなく大きな悩みだった。漠然とした将来への不安、美容やダイエットについての悩みなど、とにかくありとあらゆることを美咲に聞いてもらっていた気がする。
おそらく美咲がいなかったら、私の学生生活は不安に押し潰されていたと思う。あの頃は悲しいことも、楽しいことも今の倍以上の熱量で押し寄せてきていた。そんな気がする。

いつだったか、私の話をうんうんと相づちを打ちながら聞いていた美咲がこんな風に言ったことがある。

「葵は私の事どう思ってるのか分からないけど。私は親友のためなら何でもできる。だから、我慢しない。遠慮もしない。泣きたいなら泣いていい。とにかく自分の気持ちに素直に生きる。分かった?ずっとずっとずーっと仲良しだからね」

この言葉に私はどれだけ救われてきただろう。美咲自身は覚えているのだろうか?

でもここ数年、振り回されるのはいつも私。形勢は完全に逆転した。

「てことで、もうしばらくしたら葵の家行くから。いろいろよろしくー」

それだけ言うと電話は一方的に切れた。

「今から美咲が来襲、嘘だよね?」

とりあえず部屋は人を呼べる状態になってはいるが、お酒は?料理は?絶対に泊まっていくんだろうから布団の用意も必要だ。まったりしようと思っていた午後が、いきなり忙しくなり呆然とその場に立ちすくしていたが、足元に柔らかな熱を感じ、我に返った。

考え事に夢中で気が付かなかったが、何かが足元に絡みついている。よくよく見てみるとそれは、赤いハーネスを付けた黒猫だった。幸せを引っ掛けるためか、しっぽの先が少し曲がっている。にゃーと鳴く声は、思いのほか高い。金色に輝く目で私の顔をじっと見上げていた。

「猫ちゃん、撫でてもいいですか?」

こう声をかけると、飼い主の女性は笑みを浮かべ頷いた。

「もちろんよ。それから、ごめんなさい。驚いたでしょ。いきなり黒いモフモフが足元にやってきたから。この子の名前はちくわ。本当に人が大好きで。撫でてくれたら、きっと喜ぶわ」

許可が取れたので、私はちくわを驚かさないようそっと指先の匂いを嗅がせる。ゴロゴロと喉を鳴らしているところをみると嫌われてはいないらしい。

「今って、お散歩中ですよね?」

散歩する猫というシチュエーションを初めて見たので思わず確認してしまう。すると女性は当たり前のようにこう言った。

「そうなの。家猫なのに毎日散歩するの。しかも行き先は毎回ここ。他には行かないの。正確には行きたがらないっていうのかしら。家を出ると真っ直ぐにこの神社にやってくるの。それで気がすんだら帰りは私が抱っこして帰るんだから。本当に何しに来るんだか」

困ったような口調とは裏腹に女性はどこか楽しそうだ。

そういえば、何かの本で読んだ気がする。猫は自分に縁のある場所を覚えていると。もしかしたら、ちくわはこの神社で何か重要な役割を担っているのかもしれない。私が思いつくのは、招き猫くらいだが。黒い招き猫は、魔除けや厄除けの意味がある。

「実はちくわが家族になったのには、少し不思議な話があるの。もしよかったら聞いてくれるかしら?」

気がつくと大きく頷いていた。美咲との約束も気にはなるが、短時間なら問題ないだろう。面白そうな話を聞き逃す訳にはいかないそう思ったのだ。

「私、ちくわは私たちの家に派遣された神様のお使いだと思うの」

神社、神様、スビリチュアル、そして黒猫。場面設定的には完璧だが、私はこの手の話はあまり得意ではない。しかし聞くと言ってしまった手前、私は女性の話に付き合うことにした。

「あなた、NNNってご存知?」

唐突にこう尋ねられる。NNNそんな名前の放送局があった気がするが、この場合は違う気がする。素直に答えを聞いた方がよさそうだ。

「ごめんなさい。よく分からないです。教えていただけますか?」

そう答えると女性は大きく頷く。迷惑そうな様子は微塵もない。おそらく面倒見がいい性格なのだろう。

「NNNはね。ねこねこネットワークの略なんだけど」

ねこねこネットワークなんて聞いたことがない。猫飼いの方々のサークルかなにかだろうか。

訳が分からすポカンとしている私をよそに、女性はさらに話を続ける。

「ねこねこネットワークはね。猫の斡旋をしてくれるのよ。猫が必要な人の元に、猫を送りこんでくるの」

ますます訳が分からない。どういう経緯で猫が送り込まれてくるのだろう。

「詳しくは後で検索してね。スマホに、ねこねこネットワークとか、ぬこぬこネットワークって入力すれば出てくるから」

そう前置して、女性は猫の斡旋についての説明をする。まとめるとこんな感じだ。

まず、猫調査員が下調べをし、猫を必要としている人、なおかつ猫を大切にしてくれる人を選び出す。その審査にパスすると、猫が送られてくる仕組みになっているらしい。どのように送られてくるかは分からないが、おそらく何かしらの出会いがあるのだろう。

「実はね私、最近猫を飼いたいなんて何となく思っていたの。あっ!夫も同じ事思っていたみたいで。それで」

「送られてきたんですか?」

まさか宅急便!?そう思ったが口には出さなかった。

「実は夢を見たの」

女性の声が小さくなる。人の好奇心を煽っておきながら、夢物語かーとも思ったが、正夢という言葉もある。私はしばらく女性の話に付き合ってみることにした。

「黒猫が大きな木の下で私を待っている夢だったの。ちょうどあの木みたいな」

先程まで私がパワーチャージしていた楠を指差す。

「なんだか胸騒ぎがして、次の日の朝一番にここに来てみたら、黒い子猫が一匹ポツンと座っていたの。まさにに夢に見た通り。うちの子になる?って声をかけてみたらトコトコ付いてきて。それがこの子」

母猫の姿を探したが見付けることはできなかったそうだ。

「健康状態に問題はなくて、直前まで母猫が世話していたのでは?って言われたんだけど。あ、これ病院の先生の話ね」

母猫が木の下に置いて立ち去ったのだろうか?でも何のために?確かに不思議な話だ。考え込む私に女性はさらに続ける。

「猫が夢に出てくるのはストレスが多い時みたいなのよ。自覚はなかったけど疲れていたのかもしれないわね。更年期のせいか何にでもイライラしちゃって。ま、主に夫になんだけど」

内緒ね。という風に指を口元に指を持っていく。長い間一緒に暮らしていても、相手の全てを理解することは難しい。分かりたいという強い思いが、怒りを生むのかもしれない。それでもこの女性と旦那さんは仲良しなんだと思う。相手のことを快く思っていなかったら、今日会ったばかりの他人に、夫の愚痴など話すはずがない。

「でもね、ちくわが家に来てから、何もかもが上手くいくようになったの。夫なんてもう大喜び。会話もすごく増えたし。ちくわが、こうした。ああしたって。子育て真っ最中みたいな感じになっちゃって」

語り始めたら止まらない。要は、ちくわが家にやってきてから、幸せの連鎖が止まらないということらしい。長年連れ添っている夫婦に、猫という刺激が加わり、気持ちが若返ったのが原因だろう。理由はなんであれ、生活に張りが出るのは悪いことではない。

「凄い!ちくわちゃん招き猫みたいですね。確か黒猫は 魔除けや厄除けをしてくれるって聞いたことあります」

私の反応がよほど嬉しかったのだろう。女性の声のトーンが上がる。

「だ、か、ら、私達が出会ったのも何かの縁。普段ちくわが自分から人に寄っていくことなんてないから。きっとあなたに何か感じたんだと思うわ」

ここまできっぱり断言されると、素直に信じてしまいたくなる。

「本当ですか?何だろう?そう、そう、今日これから親友が家に来るんです。私だけじゃなくて彼女にも素敵な出来事を起こしてほしいな。お願いちくわちゃん」

私がそう言うと猫が短くひと鳴きした。それは私のの願いを了承してくれたかのようだった。

私は女性とちくわにお辞儀をすると家へ向かって急ぎ足で歩き始めた。

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マンション前に着くと美咲はすでに着いていた。暇そうにスマホを弄っている。ブルーのワンピースに黒のスポーツサンダルを合わせている。長い髪は後ろで一つに束ねている。私の姿を見付けるとパタパタと駆け寄ってきた。その姿が飼い主を待っていた犬みたいで思わず笑ってしまう。

「も〜葵、遅い!どこに出掛けてたの?」

不満げに口を尖らせてる。

「ちょっと近くの神社に…」

「神社!?葵どうしちゃったの?神様?信じてないけど。私、偏差値でこの中学校選んだだけで、キリスト教にもほかの宗教にも興味ないから。とか言ってた葵が神社に!」

心底驚いたような顔をしている。まだ神社にまでしか言っていないのだが。美咲の中では完全に神社にお参りに変換されているらしい。合ってはいるのだが、言おうと思っていたことを先回りされると何となくモヤモヤする。

「美咲!声大きい。誰かに聞かれてたら恥ずかしいじゃない。それにみあなたは信じてないの?神様とか仏様とか」

美咲のことだ。私が信じているのは自分自身。とかいう言葉が飛び出すかと思ったが、美咲は真剣な顔をして、ま、それなりにね。と呟いた。これは何かありそうだ。

「隠すなんて美咲らしくないわよ。教えて」

自然と声も大きくなる。

「さっき私に、声を抑えてって言ったの誰かしら」

「それは謝るから。ごめんね美咲ちゃん。だから」

「仕方ないなぁ。葵こんな話って信じる?」

そう言うと美咲もまた神社にまつわる話を語り始めた。

「私、小学生の時にランドセルにお守りを付けていたのね」

「私も付けてた。学業成就のお守りだったかな。でも今は付けてる子少なくなったよね」

私たちの頃は当たり前にランドセルにお守りをつけていたような気がする。今は、安全上の理由から禁止している学校が多いと聞く。引っ掛けたりしたら危ないと。

「それでね。そのお守りなんだけど、白い馬の形をしていたの。珍しいでしょ。私、結構気に入っていて大事に扱っていたんだけど。落としてしまった事があって。そうしたら、帰ってきたのよお守りが。一週間くらいたったころかな。登校しようと思ったら玄関前にぽつんと落ちていて。落とした日には何回探しても見つからなかったのに。私に会いたくて自分で歩いて帰ってきたとしか思えなくない?」

美咲に会いたかったかどうかは、お守りの白馬に聞いてみないと分からないが、これも不思議な話だ。誰かが拾って届けてくれてた仮定しても、美咲のランドセルに何が付いているかなんて知っている人は少ないだろう。
だとしたら、美咲の事を知っている人物が持ち去ったが、何らかの理由で返脚をしたと考えるのが自然な気がする。証拠はないから真相は闇の中だが。

すると、突然美咲が私の顔を覗き込んだ。感情を読み取ろうかとするようにじっと目を見つめてくる。そして、慎重に言葉を選び出す。

「葵、もしかして何か悩み事があるんじゃない?神様にお願いしないといけない事態が起きたの?違ってたら、それでいいんだけど。もしかして…妊」

「そんなわけないでしょ」

「分からないじゃない!今はいろいろな形があるし」

さらに食い下がる美咲を黙らせるため私は取っておきの作戦に打って出る。

「精子提供してもらうとか?」

私の言葉に美咲がギョッとしたように目を見開いた。彼女はこの手の話題には決して強くはない。例え自分から話を振ってきたとしても途中で真っ赤になって黙り込むのが常だ。

「何で言っちゃうのよ。人がせっかくオブラートに包んであげたのに。葵さ、普段すっごく常識あるのに、たまに凄いことサラッと言ってのけるよね。昔からそういうとこ全然変わってない」

案の定耳まで真っ赤になっている。そんな美咲の様子が可愛く、もう少しだけからかってみたくなる。

「でも、今のトレンドは卵子凍結なのかな。美咲は興味ない?今度パンフレット取り寄せたら一緒に見ない?」

「見ないわよ!興味ないし」

明らかに声が上擦っている。そろそろ止めた方がいいだろう。刺激が強すぎて美咲が倒れないとも限ららないし、なんと言ってもこの会話を誰かに聞かれていたら私のイメージが悪くなる。周囲はよく確認したから、私たちの周りに人はいないはずだが万が一ということもある。

「今日は泊まるよね。もちろん」

とりなすように聞いてはみたが、今まで彼女が家に来て泊まらず帰ったことは一度もない。今回も当たり前のように泊まっていくのだろう。美咲の荷物を見たら一目瞭然だ。しかし、今日は、小さいスーツケースに加え、高級スーパーの紙袋も一緒だった。

「当たり前よ。そのために来たんだから。それからこれ。見て見て」

有名スーパーの紙袋を私の目の高さに掲げ左右に揺らす。

「白ワインよ。葵好きでしょ」

思わず、ありがとうと言いそうになったが、ここで素直に喜ぶのも面白くない。

「美咲が手土産持ってきてくれるとか初めてじゃない?明日は雨かしら?」

「なんで私が手みやげ持参したら雨が降るのよ。それにお土産持ってきたの初めてじゃないでしょ。忘れたゃった葵?前に一度そこのコンビニでジュース買ってきてあげだじゃない」

「忘れてたわ。そんなこともあったような。でもアイスの方が良かったな」

私がそう言うと美咲の顔がみるみる険しくなる。

「アイスはダメよ。私の家ここのすぐ近くですって宣言しているのと同じよ。もっと危機感持たないと。女の子の一人暮らしなんだから」

言われてみれば確かにそうだ。もう少し防犯意識を高めた方がいいかもしれない。

「ご忠告ありがとう美咲さま。気をつけるわね」

美咲さまとは学生時代の彼女のあだ名。私のことも葵さまと呼んでいたクラスメイトや後輩もいたが、葵ちゃんと呼ばれることの方が多かった気がする。

「美咲さま!って久しぶりに聞いた。そうそう呼ばれてた私。美咲さまって。なんか今考えるとおっかしい!」

そう言うと一人で笑い転げている。今の美咲に、学生時代の彼女の面影が重なっていく。

「それから葵、今日は夜通し今夜は語り合おうね」

美咲と話すとあっという間に朝になってしまうのだが、最近私は徹夜ができなくなってきていた。美咲はどうなんだろう?次の日に支障が出ることをわざわざしなくてもよいのではないだろうか。

「嫌よ。身体に悪そうだし。今日は11時には寝るから」

「23時ってまだ宵の口じゃない?」

「じゃあ一人て起きてたら?」

「何言ってるの!?葵と色々話すから楽しいの」

会話は相手がいて初めて成り立つ。確かに筋は通っている。反論する理由を見つけなければならない。

「確かに話題は尽きないけど。でも1週間くらい前に電話で話したよね?」

「あんなの話したうちに入らないわよ。私は、4時間過ぎたあたりから、今日はよく話したって思うかな」

時間が経つのも忘れるほど話題があるのはすごいこと立と思う。しかも年齢を重ねていくと新しい話題が加わり時間はいくらあっても足りない。もし私たちが結婚して子供を授かっていたら、時間は無限に必要だったかもしれない。
そして最近の私たちは、恋よりも健康診断や生命保険が気になるお年頃。さっそく美咲に訪ねてみた。

「そういえば美咲、健康診断の結果どうだった?それから私、よさそうな保険見つけたんだけと」

「うそ!?どこの会社?教えて葵」

ものすごい早さで美咲が食いついてくる。確実に将来を気にする年齢になってきていることを彼女の反応を見て改めて実感する。

「そんなに慌てなくても美咲の分の資料もあるから」

「さすが葵、頼りになる。で、どうだったの?検診の結果。気になるところがあったらお医者さんに行きなさいね」

少しは心配もしてくれているらしい。

「大丈夫!今年もどこも異常なし。血液検査から、聴力に至るまで完璧」

「これなら大丈夫ね」

美咲がニヤリと笑う。これは何か企んでいる顔だ。

「世界最高令目指して一緒に頑張ろうね葵」

「えーっ!美咲あなた世界狙ってるの?」

「悪い?目指すのは自由でしょ」

「それはそうだけど」

美咲の野望を知り腰が抜けそうになる。だとしたら、もう少しお酒の量を控えた方がいいのではと言いかけた言葉をごくりと飲み込む。私まで禁酒させられたらたまったもんじゃない。

「だから、葵も一緒に世界目指そ。二人でギネスブックに載ったりできるし、きっと新聞にも掲載されるわよ。インタビューもされると思うから長生きの秘訣を答えたりしない?二人で励まし合いながらここまで来ました。って」

「分かった。分かった」

「嘘よ。その言い方絶対分かってないでしょ」

美咲が頬をプクっと膨らませる。

「その顔なんか、ブグみたい」

「何よ!失礼ね。ところで葵ちゃん、実はおすすめの健康法があるんだけど。一緒にやってみない?」

出たな。美咲の必殺技。(ところで葵ちゃん)ここで迂闊に返事をしたら巻き込まれることが目に見えている。

「何それ?まさか怪しいやつじゃないわよね?」

「そんなんじゃないから。たぶん。SNSに流れてきたんだけど、なんか効果ありそうだなって」

「ほら、やっぱり怪しい」

「大丈夫よ。信じるものは救われるんだから」

「救われるわけないじゃない。もっと堅実にいこ。そうだ!どうせなら一緒にジムに入会しない?その方がまだマシな気がする」

「まだマシって。葵、投稿者の人に謝った方が良くない?」

「なんで私が謝るのよ。何も悪いことしてないし」

「そうか。確かにそうよね。で、私達何の話してたんだった?」

「健康寿命についてでしょ。もう忘れたの?」

「そうか!あっ!でも忘れたわけじゃないから。ちょっと他のことも考えていただけ」

「とりあえず部屋に入ろ美咲。話しはそれから」

楽しい夜になりますように。私は期待と共にドアを開け美咲を室内へと促した。

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キッチンが、香ばしい香りに包まれる。竹輪が揚がっている匂いだ。竹輪の唐揚げ風。最近の私のお気に入りだ。サクサクした衣と竹輪の相性が最高でいくつでも食べられる。私にとっての料理はストレス解消と自分自身を大事にするため。無心に何かを作っていると嫌なことも忘れていく。それに、美味しいものにはなぜが癒しの効果がある。美咲にも伝わるといいのだけれど。とりあえずおつまみは用意できた。ワインもビールも冷蔵庫でスタンバイOK。

楽しい夜会のはじまりはじまり。お開きの時間は未定だが、徹夜だけは出来ればいい避けたい。

「乾杯しよ乾杯!」

美咲が弾んだ声を上げる。しかし突然真顔になり、ストップをかけてくる。なにか言いたそうな雰囲気だ。

「葵って朝何時に起きてるの?毎日」

責めるような声で、起床時間を聞いてくる。そして挑むような鋭い眼差しで眼差し。さっきまで、鼻歌を歌いながらくつろいでいた美咲とは思えない。何か気に障るようなことをしただろうか?

「5時くらいかな」

すると、美咲が右手を顔の前で左右に振りながら、笑い出す。情緒不安定に程がある。

「ごっ5時!いつでも人を呼べる部屋って素敵だなと思って聞いてみたんだけど。ごめんね張り合おうとして悪かった。私なら、ロビーで待機してもらって、その間に片付ける」

「私も昔はそうだった」

「そう?昔から綺麗だったじゃない。私も葵の真似してみようと思ったんだけどなかなかハードル高いわ。それに手料理だってできなきゃならないし」

今度は料理が盛ってある皿に視線を向ける。

「なんか竹輪の比率多くない?油揚げならなんとなくわかるんだけど」

神社で猫に会ったから。理由を知ったら彼女はなんて言うのだろうか。

「美咲あなた、神社から、キツネ、油揚げって連想したでしょ。単純すぎない?」

「当たり前の連想じゃない?神社に狐はつきものだし。葵、とりあえず乾杯しよ!グラス持った?大丈夫?」

カチーンという音が室内に響く。

「ところで美咲、竹輪、苦手じゃないよね?」

美咲の好き嫌いは全て把握しているつもりだが、念の為確認をする。

「むしろ好きな部類よ。いつもは、わさび醤油とか付けて食べてるから、こんなに手の込んだことしないけど。それに」

「それに、なに?」

思わず聞き返した私に、美咲は得意げにグラスを指差した。

「白ワインにして正解!なんかお店でピンと来たんだよね。今日は白にしようって」

「何それ変な能力」

「変とか言わないでよ。特殊能力よ。特殊能力」

「じゃあさ、今私が何考えてるか当ててみて」

「今日は何時に寝られるのかなとか?」

ナイス美咲。睡眠時間を死守するために大袈裟に誉めそやす。

「当たり。凄い。偉い。夜更かししてる自覚あるなら今日は早目に寝るようにしよ。分かった?」

「ちょっと、何でそうなるのよ。それに全然感情こもってない褒め言葉。全く失礼なんだから」

怒ったようなふりで、じっと見つめてくる。同性の私でも見とれてしまうくらいの可愛さだ。

「さっきも思ったんだけど美咲って、あざとっ!」

「あら?今わかったの?気がつくの遅くない?」

「ううん。前から知ってた」

「だよね。仲良しだもんね私たち」

満足そうに頷くと美咲が料理に手を伸ばす。本人は無意識のつもりだろうが、箸の持ち方や、器の扱い方などのちょっとした仕草に、彼女が大切に育てられてきたのがわかる。

そして料理を一口食べると、目を大きく見開き何回も頷く。嬉しい時の美咲の癖だ。

「美味しい!やっぱり葵すごいわ。竹輪の唐揚げすっごく美味しい。ニンニクの効かせ方も最高。しかも鶏肉ほど油もないから、何個でも食べられちゃう」

一生懸命作った料理を褒められて悪い気はしない。

「今日はかなりの確率で竹輪が出てくるから」

前もって予告しておく。

「もちろん!大歓迎。それに、どれもすっごく美味しそう。これは竹輪のチーズ焼きよね。でも何でこの竹輪丸くなってるの?切り方のコツがあるんでしょ。教えて葵。私もやってみたい」

「簡単よ。竹輪を縦に4等分して縛るの。でも実際見た方が早いかも。美咲ティックトックで、竹輪、丸って入れて検索してみて」

「葵が実演してくれるんじゃないの?ティックトックで検索してとか、なんかJKみたい」

女子高生みたいだなんてここ何年も言われたことはない。私の容姿ではなく使っているアプリのせいだと分かってはいても何となく気恥ずかしく感じてしまうのは自意識過剰なのだろうか。

しばらくスマホを弄っていた美咲だったがしばらくするとお目当ての動画を見つけられたようだ。

「出てきた!なるほど。こんなふうに丸くするのね。思っていたより簡単に出来そう。それと、一つ言っていい?」

あまり良くない前置きに思わず身構える。一つ言っていい?この後に続く言葉は、文句や苦情である場合がとても高い。

「葵とティックトックってなんか意外。料理はレシピ本見ながら作るイメージがあったから」

なんだそんなことか。よかった〜とふっと気が緩む。

「私だってSNSの一つや二つやってるわよ」

「ごめん。そうだよね」

美咲があっさりと謝り、思わず拍子抜けする。

「意外。すぐ謝るなんて」

「葵、私の事なんだと思ってるわけ?」

(そんなの決まってるじゃない?親友でしょ)喉元まで出ていた言葉を飲み込む。こんなこと言って引かれたらどうしようそう思ったからだ。重い告白をして疎遠になるなら、以心伝心と言う言葉を信じ、いつまでも仲良くしていたい。慎重な性格だとよく言われるが、本当は臆病なだけかもしれない。

「実は、今日の料理に竹輪が多いのには理由があるの」

私は、慌てて話題を変える。

「なに?なに?理由があったの?私、葵が竹輪を食べたい気分なんだとばかり思ってた」

私は美咲に、猫との出会いを話して聞かせる。美咲はうんうんと頷きながら耳を傾けている。やがて、

「出会いはあったけど猫だったのね。惜しい!めちゃめちゃ惜しい。葵、気を落とさないでね。素敵な話をありがとう。それに猫の名前にちくわって、可愛すぎるでしょ」

「もう出会いは求めてないの」

やんわりと釘を刺す。これで何回目だろう。美咲は反応しない。聞こえなかったのか、聞こえないフリをしているのか。仕方がないので話を元に戻す。

「それから、家猫に散歩必要なの?要らないんだとばかり思ってた。」

これだから素人はと言いたげに美咲がふーっと大きくひとつ息を吐く。しかし彼女もペットを飼ったことはないはずだけど。

「分かってないなー何でもマニュアル通りにはいかないのよ。ちくわちゃんの飼い主は、散歩をする方が、ちくわちゃんのためになるって思っているから、毎日連れていくの。なんでも一括りにしないのよ」

そういうものだろうか。そんな私の思いを見透かしたように、美咲はさらに続ける。

「みんな違ってみんないい。でしょ。むしろみんな一緒とかありえなくない?で、ちくわちゃんてやっぱり、白に茶色の模様の猫ちゃんだったんでしょ。可愛かったんだろうなぁー私も会ってみたい」

きゅるきゅるした目で私を見つめてくる。

「美咲こそ分かってなくない?なんでちくわって名前だけで茶色と白の猫を連想するの?」

「竹輪は茶色と白しか種類がないから。でも待って私分かったかも。ちくわちゃんて、サビ猫ちゃんなんでしょ。黒と茶色の毛色も可愛いよね」

ここまで言われたら仕方がない。私は美咲にちくわの真実を話して聞かせる。

「真っ黒!?嘘でしょ。竹輪詐欺。詐欺、詐欺」

かなりショックだったようで美咲は詐欺という言葉をを連発している。私的には詐欺ではないと思うけれど。受け取り方は人それぞれだから仕方がない。飼い猫にどんな名前を付けようと飼い主の自由なわけだし、誰にも迷惑をかけていないのだから。しかし、興奮冷めやらない美咲はさらに続ける。

「それちくわじゃなくてジジでしょ。黒猫のジジ」

キッパリと断言する。もしかしたら、美咲は黒猫全部をジジと呼んでいるのかもしれない。そういえば金魚を全てポニョと呼んでいたような気がする。

「ジジってアニメのキャラクターのジジであってる?」

恐る恐る尋ねると、美咲は、自信満々に

「当たり前じゃない。今でもたまにテレビで放送されてるでしょ?黒猫って言ったらジジに相場は決まってるのよ」

先入観に支配されているのはどっちなんだか。

「なんでもマニュアル通りにはいかないって事もあるって、美咲さっき自分でそう言ってたじゃない」

「そうだった。そうよね。私何言ってんだろ。さすが、葵。一本取られちゃった。でも」

「人間て単純よね。それで頭の中竹輪でいっぱいになっちゃうんだから」

痛いところを突いてくるが、事実なのだから仕方がない。

「そういうこと。でも、一応他のお料理もあるわよ、サラダとか、お肉もお魚も。そうそうこれ、餃子の皮でチーズと大葉を巻いてみたの。最近のお気に入り。美味しいわよ」

「これ絶対お酒が進むやつじゃない。そうだ!もう1回乾杯しよ」

私たちは2度目の乾杯をする。

「素敵な夜に感謝して。乾杯」

弾んだ声で美咲がグラスを高く掲げた。

(私、今幸せだ)

唐突にそう思った。 美咲がいて私は幸せだと。

「はぁ〜幸せ。悩んでたことも忘れそう」

ハッとして顔を上げると、目の前には泣いているのか笑っているのかよく分からい顔をした美咲がいた。悩んでいたことも忘れそう。ということは彼女は今、抱えている悩みがあるということだ。しかし美咲本人が話していないのにこちらから、あれこれ聞くのは抵抗がある。
いずれ話してくれるだろう。私はもうしばらく美咲の様子を観察することに決めた。

「偶然!私も今幸せ〜って思ってた」

美咲がパッと顔を輝かす。

「葵も!?すっごい。以心伝心!ていうか、美味しい料理とお酒と親友って、幸せの要素しかないよね」

「何その、部屋とYシャツと私みたいな言い回し。昔よく聴いたなぁ。あの歌」

「葵!平松愛理知ってるの?」

「親が好きだったから。それで」

「あっ同じ!同じ!流行ったよね」

「部屋とYシャツと私〜愛するあなたのため〜」

2人で声を合わせる。

「でも、でもね、よく考えたらすっごい歌詞よね」

私がそう言うと、美咲が即座に言葉を被せてくる。

「それ分かる!葵が言いたいのって2番でしょ。夫が浮気したら、毒入りスープ飲ませて一緒に逝くっていう歌詞」

「当たり!なんで分かったの?」

「分かるわよ。可愛いメロディと歌詞のギャップが魅力なんだから」

美咲によるとこの歌は、女性の独占欲がかなりリアルに書かれているらしい。ところどころに滲む彼氏への思いが、強すぎて怖いくらいに感じるそうだ。私は、そこまで深く考えたことはなかったが、実際、こんな女性が、彼女や奥さんだったとしたら、どうなのだろう?息苦しくないのだろうか。

真剣に考える私を見て美咲が吹き出す。

「かっわいい〜真面目に考えちゃって。どうせ、私が男だたら、こんな女はアリかナシかとか考えてるんでしょう」

美咲には敵わない。

「ま、私は葵がいてくれれば彼氏なんかいらないから。ね〜葵ちゃん。いつもありがとう」

「美咲、飲みすぎてない?大丈夫?」

「さぁ〜どうだろう」

酔っている人は酔っているという自覚がない。それは、脳の働きが弱まるせいだとされている。周囲から見たら明らかに酔っているのに本人は強く否定したりする。もしかして美咲も今、かなり酔っているのではないだろうか。

「もう。どうだろう。って何よ。訳わかんない。やっぱり酔ってるでしょ?」

そう言いながら私の口も自然と軽くなる。美咲のペースに合わせて飲んでいたせいだと思ったが時すでに遅し、普段はなかなか言えない事をペラペラと話し始めていた。

「でも、10年以上も友達なんだから、これはもう一生一緒に過ごす運命なのかもね〜美咲もそう思うよね」

「どうしたの?葵らしくない。普段そんなこと言わないのに…そうだ、お水飲む?持ってこようか?」

美咲が心配そうな顔で私を見つめてくる。

心の隅にかろうじて残っている理性がこれ以上話すなと告げている。しかし気が大きくなっている私は心の声を無視して話続けた。

「美咲、ずっと一緒にいようね」

「当たり前でしょ。私は誰よりも葵のこと心配してるんだから。ちゃんとご飯食べてるかな?とか、眠れてるかな?とか。こんな可愛い美咲ちゃんが心配してあげてるんだから、ちゃんと感謝してよね。ほらお水。それと換気もしよ」

美咲が手渡してくれた水を一気に飲み干す。窓から吹き込んでくる風も冷たくて気持ちがいい。しばらくすると次第に頭がクリアになっていくのがわかった。少し冷静になろうそう思った。

「美咲ってばすぐ、調子に乗る。それに…」

「それに?」

「やっぱり何でもない」

「そこまで言ったんなら、言いなさいよ。途中で止められるのって気持ち悪くない?」

かねてから思っていた事を聞くには今がチャンスなのかもしれない。

「美咲って、やっぱり自分の事可愛いと思ってたんだ」

恐る恐る聞いてみる。こんなことで、美咲が怒るとは思わないけれど、容姿の話題はやはり緊張する。

「当たり前でしょ。今さらどうしたの?両親からも世界一可愛いって言われてきたし。でも、葵は、そんな私が衝撃を受けるほど綺麗だった。自覚ある?」

「あっ、あるわけないでしょ。からかわないで」

「う〜ん」

「何よ美咲。どうしたの?」

「可愛くて、謙虚で、料理上手。ちょっと言葉に棘はあるけど、それは照れ隠し。世の中の男、見る目なくない?ねぇ葵。なんで独身なの?」


「それが分かったら苦労しないわ。それに美咲だって独りじゃない」

「男性と女性の味方の違いかしら」

同意を求めてくる。確かに男女で脳の考え方に差があるという話は聞いたことがある。男性から見た魅力的な女性と、女性から見た魅力的な女性は違うのだろうか。それとも別な理由があるのだろうか。そういえば、女性の美の基準は、時代や国によっても違う。私が美についてあれこれ考えを巡らせていると、突然美咲が大声をあげる。

「どうしよう。葵との写真インスタに上げるの忘れてた。皆に見てもらいたかったのに」

どうしようもこうしようもない。リカバリーあるのみだ。

「今からでも間に合うわよ。料理も小さな器に盛り付けし直したら何とかなるんじゃない?」

私は、棚からお気に入りの皿を持ち出し料理を移し替えていく。テーマはオトナ女子のオシャレな家飲み。この際だから、思いっきり映えを意識しテーブルも整えていく。ワイングラスもバカラに変更した。

そんな私の様子を美咲はニコニコしながら眺めている。どうやら機嫌は直ったようだ。

「さすが葵。めちゃめちゃセンスある。これはみんなが羨ましがるわ。まったく負けず嫌いなんだから」

「負けず嫌いはお互い様じゃない?」

私の言葉を華麗にスルーし、美咲は真面目な様子でこう言った。

「でも、葵。さっきも言ったけど幸せってなんなんだろう?私、時々幸せの意味が分からなくなるんだよね。今からでも結婚した方がいいのかな?とかでも誰かと一緒に生きることが本当に幸せなのか?とかね」

同意を求めるように私の目をじっと見つめてくる。いきなり難しい話題を振られ戸惑うが、美咲の真剣な様子に私なりの答えを導き出す。

「幸せって気づくか気が付かないかで随分かわってくると思わない?つまり」

「追いかけると逆に見つからない感じ?」

私の言いたいことを手短にまとめてくれる。

「そう。だからきっと幸せっていつもあるんだと思う。気が付かないだけで、幸せを見つけに行くから見つからないんじゃないかな?美咲が決めて生きていく先には、いつも幸せがあるんだと思う。そうあってほしいとも思う。なーんて。偉そうに言ったけど実は私もよく分からない。とりあえず将来の方向性は決めてきたつもりだけど、これでよかったのか?とかね、ずっと考えると思う。ほら支度できた。美咲、写真撮るんでしょ」

神妙な面持ちの美咲だったが、しばらくするとどこか吹っ切れたような表情になった。

「とりあえず私たちの幸せをアピールしときます か?葵ちゃん」

何気ない様子でスマホを構えた後、

「今日のことをいつまでも覚えていられたらいいのにね」

ポツリと呟く。美咲の顔からさっきまでの笑みは完全に消え真顔で見つめてくる。やっぱりそうなんだと思った。突然の電話、いつもと違ってどことなく不安定な様子。何か悩みがあるに違いない。そう思っていた。しかし本人が話さない限り私からあれこれ詮索することではない。そう思いずっと我慢してきた。

「話したいことあるんじゃないの?役には立たないかもしれないけと、相槌くらいなら打てる」

正直、気の利いたアドバイスはできないし、美咲の問題は、彼女自身が解決していくしかない。でも何か力になれることがあるとすれば、それは美咲の話を聞くこと。今の私には、それしか思いつかなかった。

「やっぱり気づいてたんだ。実はね」

そう言うと美咲は堰を切ったように話し始めた。

「祖母が認知症みたいなの」

努めて元気に振舞おうとしているのか、美咲は笑みを浮かべている。

「父方の祖母なんだけど。祖父が亡くなってからは一人暮らしをしているの。それでね葵、ここからが重要なの。深刻っていうか」

美咲がふーっと大きく息を吸い込む。深刻。心配ではなく深刻と伝えてくるあたり、家族や周囲の方に影響が出ているのかもしれない。
ふらっと出かけてしまうのだろうか。そうだとしたら、24時間気が休まる暇がない。
「実はね祖母、私の存在だけ忘れちゃったみたいの。父のことも母のことも分かってるのに。私の事だけすっかり頭から抜け落ちちゃったみたいで」

息継ぎもせず一気に話す。彼女の祖母の話はよく聞いていた。美咲をとても可愛がってくれること。お互いの誕生日には必ず家を訪ね合いお祝いすること。半年くらい前にも、一緒に旅行をしていたはずだ。祖母と熱海に行ってきたからとお土産取りに来てと連絡が来たのを覚えている。

「最近も旅行してたわよね。その時は?特に変わった様子なかった?」

そう尋ねると美咲はしばらく、記憶を手繰り寄せるように宙を睨んでいたが、やがてこう言った。

「変わった様子は特になかったと思う。でも食欲がものすごくあったくらいかな。普段あまり食べない人だから、どうしたんだろうって少し心配にはなったけど。でも、そのくらいかな」

認知症になる前は決まった予兆があるものだとばかり思っていた。
月日が思い出せなくなったり、自分がいる場所が分からなくなたり。
少なくとも人名前が出てこなくなるのは、病が進行してからだと思っていた私は、少なからずショックを受けた。さらに不思議なのはピンポイントで美咲の名前だけを忘れてしまったということ。こんな症例は過去にもあるのだろうか。

私は、5年前に亡くなった祖母のことを思い出していた。祖母は、悠々自適な一人暮らしを満喫しているようにみえた。一人でも立派に生きていられる。これが口癖だった。
そして、頭脳明晰、老いとは程遠い人だと思っていた。今考えると弱みを見せたくなかったのだろう。近しい人には特に。少なくとも私たちが訪ねている間は最新の注意を払って振舞っていたと思う。自分が元気に見えるように。この計画は上手くいっていたんだと思う。私たちは、祖母が健康体だと信じて疑わなかったし、 介護などとは縁遠い人だと思えいた。
しかしある日道で転倒し骨折。病院に運ばれたが怪我が元で呆気なく亡くなってしまった。
あまりにも突然すぎてはドッキリかと思ったくらいだ。突然すぎて実感がなかった。遺品整理のため、祖母の家を訪れた時も、どこかからひょっこり顔を出すのではないかと思っていたのだが、もちろんそんなこと起こりはしない。代わりに私が見つけたのはクローゼットの奥にしまい込まれていた大量の本だった。
しかし私の知る祖母は体を動かすことを好み、地域の体操教室に熱心に通っているイメージだった。本を読んでいる姿など見たことはない。そんな祖母がどんな読んでいた本が気にかかり内容を確認する。
そのどれも老いに関するものだった。タイトルはうろ覚えだが、老いを感じたら読む本とか、健康寿命について書かれた本とか、認知症患者に見える世界の本、生前整理のマニュアルまであった。
何回も読み返したのだろう。表紙にはシワが寄り、一部は水に濡れたようにふにゃふにゃしていた。おそらく、入浴時に風呂場に持ち込んでいたのだろう。たくさんの付箋が貼られ、重要な箇所には赤ペンでラインが引かれていた。老いを追い返すのに必死。心の内を見た気がした。
歳と共に自由が効かなくなる身体。仲のいい友達は、施設に入ったり、デイサービスに行ったりして中々会えない。
不安を募らせていたであろうことは、今ではわかる。ただその時は、私を含め家族全員が祖母は百まで生きると思っていたし、介護なんて先の話だと信じていた。まんまと騙されていたと言うわけだ。
もう少し、頻繁に会っておけばよかったと思う。それが後悔いうと簡単な言葉だけで済むとは思っていない。そもそも何もしていない私に後悔する資格があるのかもよく分からない。だから、美咲には私と同じ気持ちを味わってほしくなかった。

「祖母の様子が何となくおかしいって気がついたのは最近なの。先週、両親と祖母の家を訪ねたら、私の顔をまじまじ見つめてから、おばあちゃま父にこう言ったの。こちらの方はどなた?美穂子さんのお友達?って。ちなみに、美穂子は母親の名前ね」

その時の美咲のショックがどれほどのものであったかは、想像にかたくない。

「最初はね、祖母がふざけているのかと思ったの。私達を驚かそうと思っているのかなって。でも違って。その日はとりあえず母の友人てことにしたんだけど。家に帰ってからは父も母も大騒ぎ。ヘルパーさんをお願いした方がいいんじゃないか?とか、何科のお医者さんに診ていただくのがいいか?とか。普通の日々が壊れる感じってたぶん一瞬なんだろうなぁって思った」

幸せが壊れるのは一瞬。確かにそうかもしれない。大切に大切に築いてきても、壊れる時はあっという間。だからこそ今を大事にしなければ思う。なくしてからでは取り返しがつかない。

「でも、でも、なんで私なのよ。好きな人に忘れられるとか無理なんだけど」

絞り出すような声でそう呟いた。
とりあえずお祖母様の状態を正確に把握しよう。まだグズグズ言っている美咲をなだめながら、聞き取りをしていく。

「ねぇ美咲。お祖母様の様子、他に変わったことなかった?どんな小さなことでもいいから教えてくれない?例えば、冷蔵庫に賞味期限切れの食材がたくさんあったとか、予定を思い出せないとか?」

しばらく考え込んでいたが美咲は首を横に振る。

「私のことが分からない以外は、たぶん普通だと思う。部屋も綺麗に片付いていたから、掃除とかもできているはずよ。冷蔵庫は開けてないからよく分からないけど。だからよけいに混乱しちゃって」

残酷だと思った。せめて名前だけでも覚えていてくれたら美咲はこんなにも悲しまずにすんだかもしれない。
きっと彼女のことは、お祖母様の心の奥に大切にしまわれて、すぐに出てこないだけだとは思うが、それでも、私だったら耐えられない。

「これからどうしたらいい?葵ならどうする?てか、葵は私のこと忘れたら許さないからね」

葵ならどうする?美咲の言葉が頭を巡る。私ならどうする?私なら、必死にアイデアを絞り出す。どんな事をするのが適切なのかは正直よく分からない。ただ少しでも彼女の役に立てるのなら。その気持ちだけで私はある提案をした。

「毎回新しい気持ちで接するのはどう?初めましての挨拶から自己紹介して、限られた時間でお祖母様と、どれくらい仲良くなれるか挑戦するの。たとえすぐ忘れてしまったとしても、楽しい時間を共有したという事実は消えないと思うから。綺麗事なのかな」

ふと美咲の顔を見ると目が大きく見開かれている。きっと呆れているに違いない。美咲は昔からそうだ。気持ちが顔に出るタイプ。ポーカフェイスはできない。

「すぐ、忘れてしまうのに。それに無理やり何かを覚えてもらうのって負担になったりしないかしら?」

常に相手の気持ちに寄り添おうとする美咲らしい問いだ。しかし寄り添いすぎて彼女自身が苦しくなってしまうのではないかと心配になる。

「もちろん無理やりではないわよ。美咲といたらなんだか楽しかった。ほんの一瞬でもそう思ってもらえたらいいなと思って。きっとお祖母様自身が一番不安だと思う。お祖母様きっと不安だと思うの。自分はどうなってしまうのか?っていう思いはきっと抱えていると思う。ねぇ美咲、中学校の入学式の日覚えてる?あの日みたいに、お祖母様に決めた!私達友達になろう。そう言ってみたら?」

「すぐ忘れちゃっても?」

「また新しく友達になればいいじゃない」

人生色んなことがある。でも絶望の隣には必ず希望がある。そう信じたい。そう考えなければやってられない夜だってある。

「私と祖母が友達になったら、葵ヤキモチ妬いたりしない?」

どうやら、いつもの美咲が戻ってきたようだ。

「美咲の友達は私の友達でしょ。それから私なことちゃんと紹介してね。親友の葵だって」

「もちろん任せといて」

落ち着いてきたようだ。良かったと思うと同時に、私が発した親友と言う言葉を美咲が完全にスルーしたのが気にかかる。聞こえなかったのだろうか?そんなはずはないと思うのだが。かなり大きな声だったし、テレビもついていない。お互いの声ははっきりと聞こえているはずだ。

美咲の様子を見ながら慎重に話題を振る。

「ねぇ。私もインスタ始めたくなってきた。美咲ってフォローワー何人くらいいるの?」

私の問いに顎に手を当て少し考えたる。そして美咲はこう返してきた。

「そうだ!そう。そう。インスタの話よね。ごめん。脱線しちゃって。フォロワーは300人いるかいないかかな。ほとんどが同級生よ。最近同窓会もないから、葵との写真載せたいの。近況報告も兼ねて。最近みんな子供が生まれたって写真ばかりだから何か別の話題を投下しとかないと」

話題を投下。これは完全にいつもの美咲だ。

ほんの数年前までは毎年同窓会が行われていた。しかし今は、近況を知っている同級生は数える程だ。きっとほとんどの友人は子育て真っ最中のはずだ。自分の時間なんてほとんどないことくらい、私にだってわかる。

「それ…完全に煽ってない?みんな慌ただしく過ごしているんでしょ。なのに飲み会の写真とか。非常識とか思われないかな?」

そんな私の心配をよそに美咲はやる気満々だ。皆に見えている部分だけでも綺麗で、可愛くいたい気持ちは分からなくもないが。

「大丈夫よ。多分遊んでるとか、気楽だとか、めちゃめちゃ言われるだろうけれど。私たちはそういう生き方を選んだわけだし。それに人の噂話て楽しいじゃない。私たちはクラスメイトに息抜きのネタ提供したくらいに思っておけばいいの。そうだ葵?これ誰だか分かる?」

美咲のスマホには、男の子二人と手を繋いだ女性が映っていた。年齢は5歳くらいだろうか。

「えっ!?奈緒だよねこれ。旦那さんはどんな方?それと子ども双子よね。ていうか、奈緒三人目妊娠してない?凄い。いろいろと」

「葵、少し落ち着いて」

美咲が私をなだめにかかる。

「落ち着いてるわよ。ただ少し驚いただけ」

「そういうのは、落ち着いてるって言わないの」

みんなそれぞれの場所で幸せを見つけている。ほっこりと幸せな気持ちになる。決して羨ましいという気持ちではない。

「子育て大変だよね。子供が勝手に大きくなるわけじゃないし」

そう言うと、すかさず美咲が、

「私、いまだに親に言われる。すぐ熱を出す子で大変だったって」

美咲は大変という言葉を使ってはいるが、きっとすごく心配したということに違いない。きっと親になったら、自分だけの世界から、子供中心の世界に変わっていく。ママ友との付き合い方とか、義実家との関係とか、気を使わなければならないことはきっと山ほどある。

「私も小児喘息だったから、親は寝ないで看病してくれた。なぜがか夜に咳がひどくなるのよね。大人になるにつれていつの間にか治っちゃったけど」

「だから、小児喘息なんでしょ。何のために小児って付いてるのよ。徹夜で看病かぁ。親御さんに感謝した方がいいわよ」

「そんなの美咲に言われなくても分かってるから」

人を一人大きくする。きっと嬉しいことや、驚きがもたらされる日々なんだろう。充実していると思う。しかし私には、子育てに伴う、とてつもなう大きい責任を負う覚悟ができないと思う。このやり方で大丈夫だろうか?もっと上手な方法があるのではないか、常に自問自答している気がする。実際は、忙しすぎて考える暇もないほど忙しいかもしれないが。

「何難しい顔してるの葵。また難しいこと考えてるんでしょ。今日はもう考えなくてよくない?」

美咲が私の顔を覗き込む。

「そことまで難しいことは考えてないけど」

「そうかしら。きっと私たちがママだったらとか考えてるのかと思ったんだけど」

図星だった。付き合いが長くなると隠し事はできなくなるらしい。

「生きてるって、生き抜くって、簡単じゃないよね難しいことは、後でシャワーで洗い流してきたら。それより今は、私たちの幸せを全世界に発信する時よ」

そう言うと美咲は、様々な角度から幸せの欠片を切り取っていく。写真を見ては、にっこりと頷き、手際よく全世界に向けて発信していった。柔らかな光、美味しそうな料理、可愛いらしいネイル、お酒、口元に浮かんだ笑み。全てが私達が存在している証となる。存在記録、そんな言葉が頭に浮かんだ。

「タグはこれでいい?」


#女子会 #友達

「#友達じゃなくて、親友の方が良くない?それから#仲良しとか#ちくわも入れとかなきゃ」

私の言葉に美咲が口をあんぐり開けたまま私を見る。

「葵、今初めて私のこと親友って呼んでくれたよね。ありがとう。どうしよう感動しちゃった」

美咲が私に抱きついてくる。

「よかった〜私実はかなり、いやだいぶ?気になってて、私だけが勝手に葵のこと親友だと思ってるんじゃないかって」

「そんなこと」

以心伝心という言葉もあるし、改めて口に出すものでもないと思い、今までずっと美咲に感謝を伝えてこなかったのを、今更ながら後悔する。伝えるなら今しかない。人生いつからだってやり直せる。
さっきまで、偉そうに語っていたのに自分のこととなると、途端に弱気になる。でもこの機会を逃したら、たぶん私は一生後悔する。

私は大きく息を吸い込んだ。

「美咲、いつもありがとう。これからも末永くお世話になります」

「葵…大好き!」

「はいはい。分かった。分かった。ていうかずっと親友だと思ってたから。美咲?も〜泣かないの」

次に神社に行ったら…

美咲と出会えた感謝を伝えよう。彼女と同じ時代に生きることができて幸せです。と


「そうだ!葵!明日、私を神社に連れって。どんな所か見てみたい。葵がお世話になってるお礼も言いたいし」

「じゃあやっぱり、今日は早めに休まなきゃ」

私の提案に美咲がは納得がいかないらしい。即座に反論してくる。

「え〜夜はまだまだこれからでしょ。大丈夫。明日はちゃんと起きるから。ね?」

「いや、絶対無理だと思う」

「何でよ。やってみなくちゃ分からないじゃない」

「はいはい。分かった。分かった。もう寝ようね。美咲ちゃん」

「やだーまだ眠くない」

「眠くなくても寝て。お願いだから」

こんな人生も悪くない。

୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧

「葵〜神社ってまだ?私疲れたんだけど。それから、今日もいるかな。ちくわちゃん」

「運が良かったら会えるかもね」

そう話しながら表通りを進む。しかし美咲が徐々に遅れ始めた。歩き慣れていないせいだろう。しばらく彼女に歩調を合わせていたが、ついに美咲は立ち止まってしまった。

「待って。待って。ストップ。歩いているだけなのに息きれてきた。どうでもいいけど葵、歩くの早過ぎない?さっきなんて自転車と並行して歩いてたわよ」

自分ではあまり意識してはいないが、早歩きは健康にいいと知ってから、知らず知らずのうちに歩く速度が早くなったような気がする。

「そんなに早くないわよ。それに二人で長寿世界記録目指すんでしょ。だったら、このくらいで疲れてないの」

鬼とか、厳しすぎ、とか美咲が小さな声で文句を言っているが、 聞こえなかったふりをする。

「そうだ葵!歩けないのはお腹がすいているせいよ。何か奢って。神社の境内に屋台とか出てないの?」

美咲を置いて歩き始めようとする私の肩をぐいと掴み美咲が訴える。朝食は彼女の希望で和食。普段の美咲は、朝はパン派らしいが、飲んだあとは和食が食べたくなるらしい。今朝も、ご飯、豆腐とわかめの味噌汁、焼き鮭、ほうれん草のおひたし、昨夜の残りのちくわをアレンジしたりして出したのだが、
もう消化してしまったのだろうか?しかもこれだけ食べても全く太らないのが不思議だ。

「朝ごはん食べたでしょ。それにデザートとか言ってヨーグルトも食べてなかった?」

「もう消化しちゃった。若くて健康だから」

当たり前のように言ってのける。

「そうだ美咲」

私の言葉に美咲の表情がパッと明るくなる?

「なに?なに?葵まさか、迷子になった時のためにチョコレート持ってたとか?」

「ありません。でも」

「でも?」

美咲の目がキラリと光る。

「ブロックタイプの栄養補助食品ならある」

「ラッキー!さすが葵ちゃん!」

「ちょっと、抱きついてこないでよ。人に見られたら恥ずかしいじゃない」

「そう?私は全然平気」

「美咲はそうでも、私は気になるの」

バックの中から、お菓子を取り出すと美咲に手渡す。

彼女は、それを半分に割り、私に手渡してきた。

「はい。葵に大きい方あげる」

ニッコリ微笑む美咲に思わずツッコミを入れる。

「お腹空いたって言ったの美咲なんだから大きいほう食べたらいいのに。それから、このお菓子もともと私のだから。あげるって言うのは、なんか違わない?」

「も〜深いことは気にしないの。気の置けない人と食べたら、気持ちもお腹も満たされる感じしない?私は、葵と半分こしたいの」

理にかなっているような、そうでないような理論を持ち出してくる。確かに一人で食べる食事は味気ないが美咲と食べるとなぜが全てが美味しく感じる。

「食べたーごちそうさまでした。で葵、神社近くに美味しいお店とかある?」

美咲の食欲は留まる所を知らない。

「まだ言ってる。それから、お店なんだけどあまり詳しくないんだよね」

「それ分かるかも!私も自分が生活している周りしか知らないかも。少し道を外れるともう分からないの」

「お祭りの日だったら屋台が出てたかもしれないけど」

「屋台!葵、今日は?」

ガッカリした様子の美咲だったが、

「じゃあ葵…御朱印帳買お。お揃いか色違いで」

食べ物とは全く関係のない提案をしてくる。

「美咲お腹すいたはどこ行ったの?御朱印帳かぁ。確かお守りと一緒に売っていたと思うけど。それから、これは買ってあげないからね。自分の分は自分で払いなさいよ」

「分かってる。それに、私がいつもいつも葵に、ものを買ってもらっているように言わないでくれる?」

しばらく何か考えているようだったが、美咲は新たにこう提案してきた。

「じゃあこんなのはどう?お互いに御朱印帳をプレゼントし合うの。私は葵に。そして葵は私に」

「それならいいけど」

上手く丸め込まれたような気もするが、美咲のニコニコと嬉しそうな顔を見ると何も言えなくなる。

「じゃあ決まりね。楽しみ。楽しみ。それから祖母にお守り買っていこうかな。不老長寿」

そこは、病気平癒じゃないの?とツッコミたくなるのをグッと堪え美咲の次の言葉を待つ。

「私、考えたの。祖母の幸せは安心した毎日を送ることだって。それでねその日常に笑いがあったら素敵だと思うの。何でもいから笑顔になってほしい」

きっと昨夜、夜通し考えていたに違いない。今日は、歩くペースが多少ゆっくりでも大目にみよう。

いつもの倍近い時間をかけ神社に到着し二人して鳥居をくぐる。その瞬間、爽やかな風が吹き抜け、瞬く間に辺りは静寂に包まれた。私と美咲の周りだけ、透明な膜で覆われような感覚になる。
今までも空気が変わったと思うことはあったが、今日は、いつにも増して神聖な気に満ち溢れているようだ。
美咲も何かを感じとったらしい。しきりに私の腕をつついてくる。

「葵、ねぇ葵。今なんかすっごく神聖な空気が漂ってる気がしない?こんな時ってどうしたいいの?」

どうしたらいいかなんて私にだって分かりはしない。

「悪い感じはしないけど。歓迎されていないとかではないと思う」

すると美咲が何か思い出したように、そうかという声と共にパンと手を叩く。

「何よ。びっくりするじゃない」

驚く私を後目に、美咲は晴れやかな顔をしている。

「これはたぶんサインよ。神様から私と葵に向けた歓迎のサイン」

自信たっぷりに頷いている。まだよく状況を理解出来ていない私に美咲はしたり顔でこう告げる。

「雑誌で読んだ事があるの。神社で心地の良い風が吹き抜けたら空それは神様が歓迎してくれているんだって」

「本当なのそれ?」

「たぶん。間違いないと思う」

「私たちでいいのかな?」

「何謙遜してるのよ葵。葵が頻繁にお参りに行って近況報告したり、ちくわちゃんと仲良くなったことを神様が嬉しく思ってくれてるんじゃない?そうと決まればお参り、お参り」

美咲が満面の笑みを私に向けた。

神様、私の親友を紹介します。