どんなに物が散乱していたとしても、やはり豪邸には変わりない。
二十畳はありそうなリビングの真ん中で座っているなんて、やはり場違いな気がする。招待されたとはいえ、相手は仮初めの友人なのだ。
生きている世界が違うんだなあ、と妙に胸のあたりがざわざわする。
ふと、足元に転がるモノに気が付いた。
大量の酒だ。ビールに、ウィスキー、チューハイから、日本酒まで。ありとあらゆる酒の缶や瓶が無造作に転がっている。
つま先でつついてみると、中身はすべて空っぽのようだった。
さすがにこの量を女の子が一人で飲むとは考えにくい。だとしたら、母親?......うーん?
じゃあ、父親か? だが、表札には名前がなかった。
それなら......友達か、彼氏?
彼氏......。
なぜか胸の奥がちくりと痛む。
そうだよな。冬花ちゃんのようなお金持ちで美人なら、わざわざ僕のような陰気な人間とつるまずとも、彼氏の一人や二人、友達の十人や二十人はいるだろう。
こんなことでショックを受ける自分自身に、少しだけ驚いた。
僕は、いったい何を期待しているんだ。
「あ、汚くてごめんね」
キッチンから戻ってきた冬花ちゃんの声で、僕ははっとして顔をあげた。
「いや、全然......ん!?」
つい言葉を失ってしまった。
冬花ちゃんがウィスキーとグラスを両手に握って立っていたからだ。
「北村くんも飲む?」
「僕はこれから仕事だから」
「そっか。残念」
セリフとは裏腹にさして残念がる様子もなく、彼女はテーブルの上を雑に片付けながら、胡座をかいて床に座り込んだ。
僕に背を向ける冬花ちゃんに、
「まだ飲むの? 立てないほど酔ってたのに」
「救急車で運ばれないうちは、酔っぱらいとは言わないのよ」
「酒好きなおじさんでも、そんな事言わないよ」
「ダメなのはわかっているんだけどね。やめられないの」
冬花ちゃんはグラスになみなみとウィスキーを注ぐと、そのまま一気に煽った。
うわあ。ストレートのウィスキーを、まるでジュースみたいに......。
見ているだけで気持ちが悪くなってきて、胸のあたりを手で撫でた。
「そんな飲み方、体に悪いよ」
「大丈夫だよ。いつも飲んでるし」
冬花ちゃんは足元の酒を指差しながら、自嘲気味に微笑む。
「もしかして、これ全部一人で?」
「うん。お酒だけがあたしを幸せにしてくれるから」
彼氏じゃなかったんだ。
こんなことでホッとするなんて器が小さすぎるかもしれないけど、やっぱり彼氏がいるよりいないほうがいい。恋愛感情は置いておいても、何かとトラブルに発展しかねない。
そんなことをぼんやり考えていたが、冬花ちゃんが空になったグラスに再びウィスキーを注ごうとしているのを見て、思わず「ちょっと」と声が出てしまった。
反射的に彼女の手を掴んで止めた。
「やめておきなよ」
「なんで?」
「友達として、見ていられないよ」
さっき会ったばかりの他人の僕がこんなことを言うなんて白々しいかもしれないけど、自傷行為のように酒を煽る人間を無視することはできない。
けれど、僕の反抗に冬花ちゃんはだいぶ気を害したようだ。
きれいに整えられた眉が吊り上がり、唇も不機嫌そうにきゅっと引き結ばれる。
咄嗟に手を引っ込めたくなったが、ダメなときはダメというのが友達というものだ。......って、よく本に書いてある。
「北村くん、痛いよ」
無意識に力を込めていたらしい。
「ごめん」と言いながら手を離し、そのままテーブルの上に置かれたウィスキーの瓶を彼女の腕が届かないところまで滑らせる。
「飲むなら、僕が帰ってからにして?」
冬花ちゃんは未練がましく瓶を見つめていたが、渋々グラスの縁を舌で舐めながらこくりとうなずいた。
「......北村くんは、お酒好き?」
「あんまり飲んだことない、かな」
さきほどの前原さんとの飲み会を除けば、最後に酒を口にしたのは工場の歓迎会の席だ。
僕と同時期に入社した数人を囲む、とても賑やかな夜だった。
最初から最後まで、僕は自己紹介以外で喋った記憶がないけれど。
「一人じゃなかなかね。人からも、あんまり誘われないし」
濁しながら説明したつもりだったが、
「そっか。北村くんって、友達いなかったりする?」
「えっ!? なんでわかったの」
思わず声に出してしまい、恥ずかしくなって顔を背ける。
友達が少ないことは事実だが、冬花ちゃんからダイレクトに問われると複雑だ。
化膿している傷口を指でつつかれたようで、あまり気持ちのいいものじゃない。
「色々難しいよね、人間関係って」
ぽつりと冬花ちゃんは囁くように言った。
わかりやすく元気がなくなった彼女がちょっと心配になって、おずおずと顔を覗き込む。
相変わらず頬は紅潮しているし、微かに唇も震えている。黒い瞳は天井にぶら下がるシャンデリアに向けられているが、今にも泣き出しそうに見えた。
僕はわざとおどけるように、
「冬花ちゃんは、び、美人だし......人気者なんじゃないかなって思うけど」
「事実だけど、全然そんなことないんだよね」
「堂々と肯定するのもすごいね」
「あたし、謙遜って最上の嫌味だと思ってるから。......スキあり!」
蛇が獲物に食らいつくような身のこなしで、ウィスキーの瓶に手を伸ばす冬花ちゃん。でも、僕のほうが早かったようだ。
今度こそ取られまいと、僕はウィスキー瓶を両手でしっかりと抱え込む。
「ダメだって言ったよね?」
「もうお酒は抜けたから! 一杯だけ」
「いい加減にしときなよ。だいぶお酒臭いし」
「北村くんにどう思われたって、別にいいわよ」
「それが友達に言うこと?」
「むう」
冬花ちゃんの頬が、ぷくっと膨らむ。
本人は本気で拗ねているのだろうが、その姿が頬袋に餌を貯めたハムスターみたいで、僕はつい笑ってしまった。
そんな僕を見て、最初はきょとんとしていた冬花ちゃんも、恥ずかしそうに笑みをこぼす。
たったこれだけのことなのに、互いを見つめているだけでニヤニヤが止まらなくなっていき、どちらともなく声をあげて笑い出す。
普段ならクスリともしないような冗談でも、なぜか妙にツボに入ってしまい、やがて僕はお腹が痛くなるまで笑い転げた。
そんな僕の姿を見た冬花ちゃんも、手を叩きながらさらに大声で笑う。
あんなにひっそりとしていた寂しいリビングに、僕たちの声がぐわんぐわんと響いた。
お腹が痛すぎて、ひいひいと這いつくばる僕の目尻には、いつの間にか涙が滲む。
こんな風に笑ったのはいつぶりだろうか。
冬花ちゃんとは初対面のはずなのに、前原さんと向かい合った時のような緊張感はない。
臆病で他人の顔色を窺ってばかりの僕が、彼女の前では自然に笑うことができるなんて。
もしかしたら、僕たちは相性がいいんじゃないだろうか。
冬花ちゃんとなら、『本当の友達』になれる......?
そう思うと、パッと視野が広がったように明るくなった。
僕はウィスキーの瓶をテーブルの上に戻し、膝の上でそわそわと手を組んだ。
それなら、もっと彼女と仲良くならなければ。
「遊びに行こう」と誘ってみようか。
だが、いくら友達化しているとはいえ、所詮は『冠婚葬祭には呼ばないけど、仕事帰りの飲みくらいなら付き合ってくれるレベル』。
そう考えると図々しいかもしれない。もし断られたら、立ち直れる自信がない。
僕はなんとか彼女の関心を引けるものを知りたくて、ぐるりとリビングを見回した。
すると、高級感のあるリビングには似つかわしくないものが視界に映った。
ビアガーデンのチラシだ。壁にピン止めされていて、でかでかと表記された日付......八月十二日――明日だ――の部分が赤い丸で囲まれている。
開催地は、隣の駅。
「明日、ビアガーデンに行くの?」
チラシから目を離さず訊ねると、
「うん。北村くんも一緒に行く?」
「ふえっ?」
思いもよらない誘いに、声がひっくり返ってしまった。
「い、いいの?」
「うん。二人だけじゃさみしいなって思ってたんだ」
「二人?」
「そう、男友達」
喜びに膨らんだ僕の心は、しゅるしゅると萎んでいった。
仮に冬花ちゃんの友達が友達化していたとしても、いきなり初対面の人を相手に、会話ができるスキルなんて持ち合わせていない。
輪に入れなくて、自分だけちびちびビールを啜る姿が容易に想像できた。
それだけならまだしも、空気の読めないことを言って場を凍りつかせでもしたら、冬花ちゃんにも嫌われてしまうかもしれない。
ついさっき、前原さんを不快にさせてしまったみたいに。
「せっかくだけど、やめとく」
「そか。じゃあ、しょうがないね」
冬花ちゃんはさしてがっかりした様子もなく、さっさと引き下がった。
もう少し強引に誘ってくれてもいいのに、なんて僕のワガママなんだろう。
ちょうどその時、ズボンの尻ポケットに入れていた携帯電話が振動した。
前原さんと飲みにいく前に、楽しくて時間を忘れてはいけないとアラームを設定していたのだ。携帯電話の画面を見ると、二十一時を回っていた。
そろそろ帰らなければ。
アラームを止めて、重たい腰をあげた。
「もう帰るの?」
「うん。これから仕事だから」
「そっかあ。夜勤って大変だね」
冬花ちゃんに先導されながら、僕はリビングから長い廊下に出る。玄関ドアが目の前に迫ったところで、彼女の遊びの予定はおろか、連絡先すら訊いていないことに気づいた。
足を止めて、冬花ちゃんを振り返る。
「あの」
「どうしたの?」
言え、言うんだ。連絡先を教えてほしいと。
ぎゅっと拳を握りしめる。寒くもないのに、嫌な汗が首筋を伝った。
「いや、なんでもない」
「うん? そっか」
小首を傾げる冬花ちゃんへ曖昧に笑い返し、玄関のドアを開けた。
「またね、北村くん」
「うん。また、ね」
僕に手を振る冬花ちゃん。だけど、もう片方の手には、しっかりとウィスキー瓶が握られていて、つい苦笑してしまった。
この笑顔も見納めかもしれない。
「お邪魔しました」
頭を下げながらゆっくりとドアを閉めると、思った以上に音が響いてギクリとする。
もう二度とお前の入る隙はない、と言わんばかりだ。
彼女となら友達になれそうだったのに......僕に勇気がないばかりにチャンスを不意にしてしまった。
名残惜しくて、僕は門をくぐる間も何度となく玄関を振り返った。
僕に残された時間は、あと九日。
九日間のうち、再び彼女と話す機会なんて来るのだろうか。
僕は自己嫌悪に苛まれながら、とぼとぼとアパートへ戻った。
× × ×
「おかえりなさい、北村さん!」
アパートの部屋に戻ると、飛びつくようにヨルが駆け寄ってきた。
僕を待っている間、風呂にでも入ったのだろう。さらさらとした髪から、華やかなシャンプーの匂いがふわりと香った。
「た、ただいま」
「全然帰ってこないから心配してたんですよ!」
今にも僕を抱きしめんばかりのヨルを、慌てて押し返す。
彼女は太ももが露出した半ズボンのパジャマに着替えていた。
もともと端正な顔立ちのヨルは、それだけでセクシー女優さながらの色香が漂う。
水を弾くような白い生足は、男の僕には刺激が強い。少しだけ触れたヨルの肩も柔らかくて、ついドキッとしてしまった。
だが、服の胸元には『Kill You』という不穏な文字がプリントされていて、水玉だと思った絵柄もよく見るとドクロだった。
さすが悪魔。いい趣味をしている。
「北村さんのことだから、海で入水自殺でもしたのかと思いましたよ」
「大げさだよ」
といっても、包丁で首筋を切ろうとしていた僕に説得力はないが。
あまりじろじろと見つめるのも気が引けて、ヨルから素早く視線を外す。
「それで、どこに行っていたんですか?」
「えっとね......」
二十畳はありそうなリビングの真ん中で座っているなんて、やはり場違いな気がする。招待されたとはいえ、相手は仮初めの友人なのだ。
生きている世界が違うんだなあ、と妙に胸のあたりがざわざわする。
ふと、足元に転がるモノに気が付いた。
大量の酒だ。ビールに、ウィスキー、チューハイから、日本酒まで。ありとあらゆる酒の缶や瓶が無造作に転がっている。
つま先でつついてみると、中身はすべて空っぽのようだった。
さすがにこの量を女の子が一人で飲むとは考えにくい。だとしたら、母親?......うーん?
じゃあ、父親か? だが、表札には名前がなかった。
それなら......友達か、彼氏?
彼氏......。
なぜか胸の奥がちくりと痛む。
そうだよな。冬花ちゃんのようなお金持ちで美人なら、わざわざ僕のような陰気な人間とつるまずとも、彼氏の一人や二人、友達の十人や二十人はいるだろう。
こんなことでショックを受ける自分自身に、少しだけ驚いた。
僕は、いったい何を期待しているんだ。
「あ、汚くてごめんね」
キッチンから戻ってきた冬花ちゃんの声で、僕ははっとして顔をあげた。
「いや、全然......ん!?」
つい言葉を失ってしまった。
冬花ちゃんがウィスキーとグラスを両手に握って立っていたからだ。
「北村くんも飲む?」
「僕はこれから仕事だから」
「そっか。残念」
セリフとは裏腹にさして残念がる様子もなく、彼女はテーブルの上を雑に片付けながら、胡座をかいて床に座り込んだ。
僕に背を向ける冬花ちゃんに、
「まだ飲むの? 立てないほど酔ってたのに」
「救急車で運ばれないうちは、酔っぱらいとは言わないのよ」
「酒好きなおじさんでも、そんな事言わないよ」
「ダメなのはわかっているんだけどね。やめられないの」
冬花ちゃんはグラスになみなみとウィスキーを注ぐと、そのまま一気に煽った。
うわあ。ストレートのウィスキーを、まるでジュースみたいに......。
見ているだけで気持ちが悪くなってきて、胸のあたりを手で撫でた。
「そんな飲み方、体に悪いよ」
「大丈夫だよ。いつも飲んでるし」
冬花ちゃんは足元の酒を指差しながら、自嘲気味に微笑む。
「もしかして、これ全部一人で?」
「うん。お酒だけがあたしを幸せにしてくれるから」
彼氏じゃなかったんだ。
こんなことでホッとするなんて器が小さすぎるかもしれないけど、やっぱり彼氏がいるよりいないほうがいい。恋愛感情は置いておいても、何かとトラブルに発展しかねない。
そんなことをぼんやり考えていたが、冬花ちゃんが空になったグラスに再びウィスキーを注ごうとしているのを見て、思わず「ちょっと」と声が出てしまった。
反射的に彼女の手を掴んで止めた。
「やめておきなよ」
「なんで?」
「友達として、見ていられないよ」
さっき会ったばかりの他人の僕がこんなことを言うなんて白々しいかもしれないけど、自傷行為のように酒を煽る人間を無視することはできない。
けれど、僕の反抗に冬花ちゃんはだいぶ気を害したようだ。
きれいに整えられた眉が吊り上がり、唇も不機嫌そうにきゅっと引き結ばれる。
咄嗟に手を引っ込めたくなったが、ダメなときはダメというのが友達というものだ。......って、よく本に書いてある。
「北村くん、痛いよ」
無意識に力を込めていたらしい。
「ごめん」と言いながら手を離し、そのままテーブルの上に置かれたウィスキーの瓶を彼女の腕が届かないところまで滑らせる。
「飲むなら、僕が帰ってからにして?」
冬花ちゃんは未練がましく瓶を見つめていたが、渋々グラスの縁を舌で舐めながらこくりとうなずいた。
「......北村くんは、お酒好き?」
「あんまり飲んだことない、かな」
さきほどの前原さんとの飲み会を除けば、最後に酒を口にしたのは工場の歓迎会の席だ。
僕と同時期に入社した数人を囲む、とても賑やかな夜だった。
最初から最後まで、僕は自己紹介以外で喋った記憶がないけれど。
「一人じゃなかなかね。人からも、あんまり誘われないし」
濁しながら説明したつもりだったが、
「そっか。北村くんって、友達いなかったりする?」
「えっ!? なんでわかったの」
思わず声に出してしまい、恥ずかしくなって顔を背ける。
友達が少ないことは事実だが、冬花ちゃんからダイレクトに問われると複雑だ。
化膿している傷口を指でつつかれたようで、あまり気持ちのいいものじゃない。
「色々難しいよね、人間関係って」
ぽつりと冬花ちゃんは囁くように言った。
わかりやすく元気がなくなった彼女がちょっと心配になって、おずおずと顔を覗き込む。
相変わらず頬は紅潮しているし、微かに唇も震えている。黒い瞳は天井にぶら下がるシャンデリアに向けられているが、今にも泣き出しそうに見えた。
僕はわざとおどけるように、
「冬花ちゃんは、び、美人だし......人気者なんじゃないかなって思うけど」
「事実だけど、全然そんなことないんだよね」
「堂々と肯定するのもすごいね」
「あたし、謙遜って最上の嫌味だと思ってるから。......スキあり!」
蛇が獲物に食らいつくような身のこなしで、ウィスキーの瓶に手を伸ばす冬花ちゃん。でも、僕のほうが早かったようだ。
今度こそ取られまいと、僕はウィスキー瓶を両手でしっかりと抱え込む。
「ダメだって言ったよね?」
「もうお酒は抜けたから! 一杯だけ」
「いい加減にしときなよ。だいぶお酒臭いし」
「北村くんにどう思われたって、別にいいわよ」
「それが友達に言うこと?」
「むう」
冬花ちゃんの頬が、ぷくっと膨らむ。
本人は本気で拗ねているのだろうが、その姿が頬袋に餌を貯めたハムスターみたいで、僕はつい笑ってしまった。
そんな僕を見て、最初はきょとんとしていた冬花ちゃんも、恥ずかしそうに笑みをこぼす。
たったこれだけのことなのに、互いを見つめているだけでニヤニヤが止まらなくなっていき、どちらともなく声をあげて笑い出す。
普段ならクスリともしないような冗談でも、なぜか妙にツボに入ってしまい、やがて僕はお腹が痛くなるまで笑い転げた。
そんな僕の姿を見た冬花ちゃんも、手を叩きながらさらに大声で笑う。
あんなにひっそりとしていた寂しいリビングに、僕たちの声がぐわんぐわんと響いた。
お腹が痛すぎて、ひいひいと這いつくばる僕の目尻には、いつの間にか涙が滲む。
こんな風に笑ったのはいつぶりだろうか。
冬花ちゃんとは初対面のはずなのに、前原さんと向かい合った時のような緊張感はない。
臆病で他人の顔色を窺ってばかりの僕が、彼女の前では自然に笑うことができるなんて。
もしかしたら、僕たちは相性がいいんじゃないだろうか。
冬花ちゃんとなら、『本当の友達』になれる......?
そう思うと、パッと視野が広がったように明るくなった。
僕はウィスキーの瓶をテーブルの上に戻し、膝の上でそわそわと手を組んだ。
それなら、もっと彼女と仲良くならなければ。
「遊びに行こう」と誘ってみようか。
だが、いくら友達化しているとはいえ、所詮は『冠婚葬祭には呼ばないけど、仕事帰りの飲みくらいなら付き合ってくれるレベル』。
そう考えると図々しいかもしれない。もし断られたら、立ち直れる自信がない。
僕はなんとか彼女の関心を引けるものを知りたくて、ぐるりとリビングを見回した。
すると、高級感のあるリビングには似つかわしくないものが視界に映った。
ビアガーデンのチラシだ。壁にピン止めされていて、でかでかと表記された日付......八月十二日――明日だ――の部分が赤い丸で囲まれている。
開催地は、隣の駅。
「明日、ビアガーデンに行くの?」
チラシから目を離さず訊ねると、
「うん。北村くんも一緒に行く?」
「ふえっ?」
思いもよらない誘いに、声がひっくり返ってしまった。
「い、いいの?」
「うん。二人だけじゃさみしいなって思ってたんだ」
「二人?」
「そう、男友達」
喜びに膨らんだ僕の心は、しゅるしゅると萎んでいった。
仮に冬花ちゃんの友達が友達化していたとしても、いきなり初対面の人を相手に、会話ができるスキルなんて持ち合わせていない。
輪に入れなくて、自分だけちびちびビールを啜る姿が容易に想像できた。
それだけならまだしも、空気の読めないことを言って場を凍りつかせでもしたら、冬花ちゃんにも嫌われてしまうかもしれない。
ついさっき、前原さんを不快にさせてしまったみたいに。
「せっかくだけど、やめとく」
「そか。じゃあ、しょうがないね」
冬花ちゃんはさしてがっかりした様子もなく、さっさと引き下がった。
もう少し強引に誘ってくれてもいいのに、なんて僕のワガママなんだろう。
ちょうどその時、ズボンの尻ポケットに入れていた携帯電話が振動した。
前原さんと飲みにいく前に、楽しくて時間を忘れてはいけないとアラームを設定していたのだ。携帯電話の画面を見ると、二十一時を回っていた。
そろそろ帰らなければ。
アラームを止めて、重たい腰をあげた。
「もう帰るの?」
「うん。これから仕事だから」
「そっかあ。夜勤って大変だね」
冬花ちゃんに先導されながら、僕はリビングから長い廊下に出る。玄関ドアが目の前に迫ったところで、彼女の遊びの予定はおろか、連絡先すら訊いていないことに気づいた。
足を止めて、冬花ちゃんを振り返る。
「あの」
「どうしたの?」
言え、言うんだ。連絡先を教えてほしいと。
ぎゅっと拳を握りしめる。寒くもないのに、嫌な汗が首筋を伝った。
「いや、なんでもない」
「うん? そっか」
小首を傾げる冬花ちゃんへ曖昧に笑い返し、玄関のドアを開けた。
「またね、北村くん」
「うん。また、ね」
僕に手を振る冬花ちゃん。だけど、もう片方の手には、しっかりとウィスキー瓶が握られていて、つい苦笑してしまった。
この笑顔も見納めかもしれない。
「お邪魔しました」
頭を下げながらゆっくりとドアを閉めると、思った以上に音が響いてギクリとする。
もう二度とお前の入る隙はない、と言わんばかりだ。
彼女となら友達になれそうだったのに......僕に勇気がないばかりにチャンスを不意にしてしまった。
名残惜しくて、僕は門をくぐる間も何度となく玄関を振り返った。
僕に残された時間は、あと九日。
九日間のうち、再び彼女と話す機会なんて来るのだろうか。
僕は自己嫌悪に苛まれながら、とぼとぼとアパートへ戻った。
× × ×
「おかえりなさい、北村さん!」
アパートの部屋に戻ると、飛びつくようにヨルが駆け寄ってきた。
僕を待っている間、風呂にでも入ったのだろう。さらさらとした髪から、華やかなシャンプーの匂いがふわりと香った。
「た、ただいま」
「全然帰ってこないから心配してたんですよ!」
今にも僕を抱きしめんばかりのヨルを、慌てて押し返す。
彼女は太ももが露出した半ズボンのパジャマに着替えていた。
もともと端正な顔立ちのヨルは、それだけでセクシー女優さながらの色香が漂う。
水を弾くような白い生足は、男の僕には刺激が強い。少しだけ触れたヨルの肩も柔らかくて、ついドキッとしてしまった。
だが、服の胸元には『Kill You』という不穏な文字がプリントされていて、水玉だと思った絵柄もよく見るとドクロだった。
さすが悪魔。いい趣味をしている。
「北村さんのことだから、海で入水自殺でもしたのかと思いましたよ」
「大げさだよ」
といっても、包丁で首筋を切ろうとしていた僕に説得力はないが。
あまりじろじろと見つめるのも気が引けて、ヨルから素早く視線を外す。
「それで、どこに行っていたんですか?」
「えっとね......」