ヨルは嬉しそうに微笑みを浮かべた。悪魔なのに、愛想のいい子だなとつくづく思う。
 足取り軽くアパートへ帰っていくヨルの後ろ姿を見送りながら、僕は自分の頬を両手でぺちりと叩いた。
 何を悩む必要があるのだ、北村太一。
 まだ十万一千四五十三人も『本当の友達』候補は残っているじゃないか。

 これからのいい出会いに期待をしよう。

 × × ×

 あのアパートに引っ越した理由は、海が好きだったからだ。
 でも、毎日部屋の窓から海を眺めているせいなのか、実際に砂浜まで足を伸ばす機会はめっきり減ってしまった。
 だからこうしてヨルに勧められなければ、散歩をしようだなんて考えは浮かばなかったかもしれない。
 昼間は観光客たちで騒がしい海岸も、この時間になればひっそりと静まり返っている。
 辺りを見回しても、遠くに帰り支度をする家族連れがいるくらいだ。
 ほんのり温かい砂を靴底に感じながら、僕はゆっくり波打ち際まで進んでいった。重たい熱気を孕んだ海風が頬に心地よい。
 月明かりに照らされた夜の海は、なんとも神秘的で美しい。
 飲み込まれてしまいそうなほどに。

「うう」

 ふと、波音に混じって人のうめき声が聞こえたような気がした。
 声のする方を振り返ると、石畳の階段に人が倒れこんでいるのが見えた。とっさに辺りを見回すも、他に人影はない。どうやら、一人で海に来ているようだ。
 僕は砂に足を取られながら、急いで駆け寄った。

「だ、大丈夫ですか?」
「はぁ。ああ......しんどい」

 Tシャツとズボンという服装のため、男性かと思っていたが、どうやら女性のようだ。彼女の胸が苦しそうに上下するのが見えた。顔に髪の毛がかかっているせいで表情は窺えない。
 全身砂まみれになっているが、そんなことに気を回す余裕もないのだろう。
 片足のサンダルはすっぽ抜けて、少し離れたところで砂と同化していた。周りには空になったビール缶がいくつも転がっていて、ただの酔っ払いかと内心安堵する。
 放っておいてもよさそうだが、急性アルコール中毒という可能性もあるので、僕は携帯電話を取り出しながら、おそるおそる彼女の顔を覗き込んだ。

「救急車、呼びましょうか?」

 僕の問いかけに、彼女は呻きながら体の向きを変えて僕を見上げる。
 その大きな黒い瞳と目が合った瞬間、思わず「あ」と声を漏らしてしまった。
 彼女は、あの白壁の邸宅に住んでいる女性――浅利冬花だった。
 切れ長の目の縁には涙が溜まっていて、瞳がうるんでいる。白い頬は紅潮していて、どこか艶めかしい色気が漂っている。

「飲みすぎちゃったあ」

 浅利さんは口元を綻ばせ、人懐っこい笑みを浮かべた。そして、自分の頭をコツンと手で叩き、イタズラを咎められた子供のように、ぺろりと舌を出した。
 酔っていたとしても、美人がそんな仕草をするなんて反則だ。
 不意打ちにキュンとしてしまったじゃないか。
 僕は動揺を悟られたくなくて、携帯電話で口元を隠しながら咳払いをする。

「大丈夫そうなら、行くね」
「えー? やーだー。一緒に飲もうよー?」

 浅利さんは拗ねたように唇を尖らせると、むくりと起き上がる。ふらふらと上半身を揺らしながら、散らばっていた空のビール缶を強引に僕へ手渡してきた。
 それを受け取りながら、僕は確信する。
 ――彼女も友達化している。
 でも、前原さんと接していたときと比べて、不思議なほど彼女に対する嫌悪感や戸惑いは感じなかった。むしろ、親しみさえ覚える。
 それは彼女が美人だという理由だけではなく(それも少しあるけど)僕が彼女のことをずっと意識していたからなのかもしれない。
 彼女を見かける度、住む世界が違うと言い聞かせながらも、僕は彼女に密かな憧れを抱いていたのだ。
 心の奥底では、いつか接点を持ちたいと切望していたのかもしれない。
 言葉にすると気持ちが悪いが、有り体に言えば、ちょっとした片思いなのだ。
 でも、浅利さんは僕の胸中など知るよしもない。
 僕に無邪気に笑いかけながら、乱れた足取りで起ち上がったかと思うと、そのまま体勢を崩して僕にしだれかかってきた。

「うわっ」

 酒と香水と海の匂いが一緒くたになって、僕の鼻孔をくすぐる。両手で彼女の肩を支えると、柔らかな肌の触感が伝わってきて、呼吸が止まりそうになる。

「わー、目が回るー」
「しっかりして、浅利さん」
「んー? なんであたしの名前知ってんの?」

 あっ、しまった。浅利さんは目を細め、小首を傾げながら僕を見上げる。

「毎日、仕事であなたの家の前を通るから......その......時々見かけて......」
「......へ?」

 正直に言い過ぎただろうか。

「なーんだ。ストーカーかと思って、ちょっとびっくりしちゃった」
 浅利さんが「へへへ」と笑ってくれて、僕はほっと息をつく。
 友達化していて本当によかった。
 僕はぐったりする彼女を階段に座らせると、散らばっていたビール缶をかき集めた。打ち捨てられていたコンビニ袋に詰め込んでいったが、すぐにいっぱいになる。
 まさか、この量を一人で?
 砂に埋まっていたサンダルも掘り起こして浅利さんに手渡してやると、彼女は初めて自分が裸足だということに気がついたようだった。

「ありがとう。君って優しいんだねぇ」

 浅利さんはサンダルを履くと、座ったまま僕のシャツの裾を引っ張った。まるで恋人に甘えられているように感じて、ドキドキしてしまう。

「さっきから、距離近くない?」
「いいじゃない、これくらい。君、一人? 一緒に帰ろうよ」
「でも」
「お願い。もう真っ暗だし、心細いの」

 彼女は猫撫声で僕を誘う。僕があまり女性に免疫がないせいかもしれないが、こうやって女性から頼られるのは、悪い気はしない。
 むしろ、ちょっと喜んでいる自分がいる。もしかしたら、顔がにやけているかもしれない。暗くなっていてよかった。

「いいよ」
「わーい! じゃあ、お願いしまーす」

 両手を伸ばす彼女の手を掴んで、無理やり引き起こす。しっかりと繋がった手のひら。
 女性と手をつなぐのは二回目だけど(一回目は悪魔だし)、思っていたよりも冷えていて、少しだけ驚いた。海風の下で吹きさらしになっていたのだから、当然といえば当然かもしれないが。もっとこう......ロマンチックなものになるかと思っていたのに。
 よろよろと立ち上がった浅利さんは、ごく自然に僕の左腕に自分の両腕を絡ませると、すりすりと頬を摺り寄せてくる。
 いくら友達化しているとはいえ、ちょっとスキンシップが大胆じゃないだろうか。
 本来なら、浅利さんは僕のような男には微塵も興味を示さないはずなのに。
 ヨルの魔術のおかげとはいえ、悪魔の力を利用してこんなことをしていいのだろうか。

 ......いやいや、弱気になるな。

 異性だったとしても、きっと友達にはなれるはずだ。
 そうだ。これは本当の友達をつくるという夢のためには、必要なことなのだ。邪念は捨てろ。下心を吹き飛ばせ。ぶんぶんと頭を振る僕を、浅利さんは不思議そうに見上げてきた。

「そういえば、君の名前はなんだっけ?」
「あ。えっと、北村......たいち。漢字は、太くて一番って書く」
「北村くんだね、了解。近所に住んでるなら、もっと早く話したかったね」
「そう......だね」

 どうやら昨日の朝、僕を睨みつけたことはすっかり忘れているようだ。

「あたしのことは冬花でいいよ」
「え、でも」
「浅利さん、なんて堅苦しいじゃん。あたしたち、友達なんだからさ」

 そうか。友達なら、名前で呼び合ってもおかしくはない。表札を盗み見して知った彼女の名前だったけど、こうして面と向かって自己紹介を済ませたことによって、罪悪感が消えていった。
 ふゆか、ふゆか。冬花......。
 彼女の名前を口の中で反芻するたび、体の奥からむずむずしたものが沸き上がる。

 友達化、バンザイ。

 × × ×

 いまだに酔いが覚めない冬花ちゃんを引きずりながら、彼女の自宅へとたどりついた。
 夜空に浮かぶ月明かりのもと、うっすら浮かび上がる白壁の邸宅。
 改めて見上げると、建物の大きさに圧倒される。やっぱりこの田舎の風景にはそぐわない。
 窓には白いカーテンがかかっているが、どれもぴったりと閉じられているせいで、外界の関わりを一切拒絶しているように感じる。
 部屋の照明もすべて消えていて、それがより一層物寂しさを煽る。
 表札には、冬花ちゃんと一緒に名前が連なっている『浅利幸恵』さんも住んでいるはずなのに、人の気配が感じられない。
 まあ......まだ帰宅していないだけなのかもしれないが。
 僕の体へへばりつくように腕を回す冬花ちゃんをやや強引に引き離す。

「じゃあ、僕はここで帰るから」

 すると冬花ちゃんは頬を紅潮させたままぽかんと口を開き、呂律の回らない口調で、

「え? なんで? あがっていけばいいじゃん」
「いや、ご家族が帰ってくるでしょ」
「一人暮らしだよ」

 予想外の返答だった。
 こんな広い家に、たった一人で?
 思わず振り返り、しげしげと豪邸を見上げる。
 もしかして、訳ありなんだろうか。
 返答に困って黙り込む僕の肩を、冬花ちゃんは親しげに撫でた。

「だから気にすることないよ。はい、決まり」
「でも」
「いいから。ほら」

 冬花ちゃんは僕の呟きなど意に介さず、さっさと門を押し開いて誘うように手を振った。
 一人暮らしだと言われれば、断る理由もない。
 ......いや、むしろ断るべきなのかもしれない。
 だけど、友達の家に招かれるという特異な体験は、僕にとっては非常に魅力的だ。
 友達になったのだから、いいよね?
 そう自分に言い聞かせることで、心の天秤はまたもや簡単に傾く。

「それなら......お邪魔します」
「ふふ。どーぞ」

 白い歯を見せて微笑む冬花ちゃんに続き、僕は門をくぐった。
 冬化ちゃんが両開きのドアを開くと、僕の部屋ぐらい広さのある玄関があった。電気がつくと、さきほどまでの陰鬱な雰囲気からは一転し、華やかなや内装が目に飛び込んでくる。
 壁や床は白いタイルで統一されていて、二階へ続く階段の手すりはアンティーク調。
 吹き抜けになっているために天井はとても高く、はるか頭上でシーリングファンが回っていた。どうやって掃除をしているんだろう? と、真っ先に考えてしまうのは、僕が庶民である証拠だろうか。
 まるで、一等ホテルのエントランスのような高級感。
 だが......。
 足元にはハイヒールやスニーカー、潰されたダンボールに、黒いゴミ袋が乱雑に置かれていて、生活感が丸出しになっている。
 広々とした廊下にも、脱ぎ捨てられた衣服や高そうなカバンがあちこちで山積みになっており、足の踏み場がない。
 内装だけ切り取れば絵に描いたような豪邸に間違いないのだが、ここまで物が溢れかえっていると、情緒も風情もあったものではない。

「ちょっと汚いけど、あがって」

 冬化ちゃんは呆然とする僕に構わず、ふらふらとした足取りで部屋の奥へと進んでいく。しっかり床に捨てられた物を踏みつけているが、本人は気にならないようだ。
 戸惑いながらも、ここで引き返すわけにもいかない。足元を注視しながら、手で物をどかしつつ、彼女の背中を必死に追った。
 廊下は広々としたリビングに繋がっていた。
 大きな窓に、どっしりと据え置かれたソファとガラステーブル。それだけならモデルルームのような景観になったであろうに、廊下と同じく物やゴミ袋で溢れかえっているせいで台無しだ。
 冬花ちゃんは、「適当にかけといて」と僕に言い残し、さっさとキッチンに引っ込んでしまった。
 ソファの上にうず高く積まれた本や雑誌をどかしながら、おずおずと腰を下ろす。すると予想以上に尻が沈んで、つい声が出てしまった。僕のせんべい布団とは大違いだ。きっと値の張る代物に違いない。
 手持ち無沙汰のまま、僕はしげしげと部屋を見渡す。

「すごいな......」