意を決して店内に踏み入ると、「いらっしゃい!」という元気のいい店主の声が出迎えてくれた。
 中は小ぢんまりとしていて、小さなテーブルやカウンター席にはずらっとおじさんたちが座っていた。
 みな豪快にビールを飲み交わしている。

 なんだか大人な雰囲気だ。でも、これからどうしたらいいんだろう?
 店員さんに名前を告げれば、伝わるんだろうか?
 肩にかけたショルダーバッグのストラップを、ぎゅっと強く握りしめる。
 このまま突っ立っているのも不自然だ。だけど、声をかける勇気もでない。
 ああ、もう。帰りたい......。
 緊張で心臓がバクバクする。きっと僕の頬は紅潮しているに違いない。

「なんだ、君も飲みにきたの?」

 突然声をかけられて顔をあげると、僕とそれほど年齢の変わらなさそうな女性店員が、愛想のいい笑みを浮かべて立っていた。

「一人? 予約してくれてたっけ?」
「え? え、えっと」

 あ、そうか。彼女も友達化しているんだ。
 それを悟った直後、サッと血の気が引く。
 もしかして、人が多いところで飲むのはまずかったんじゃないか?
 ちらと店内を見回す。幸い、他の客は飲むのに夢中で、僕に気づいた人はいないみたいだった。
 でも、いつ声をかけられるかわかったもんじゃない。顔を隠すように、口元に手を当てる。

「あの......人と待ち合わせをしているんですけど」
「北村さん。ここだよ!」

 名前を呼ばれたほうを見やると、一番奥の席に座った前原さんが手を振っていた。
 人懐っこい笑みにほっとする。軽く頭を下げながらいそいそと彼に近づき、向き合うように腰を下ろした。
 テーブルには、すでに半分くらいの量になったビールジョッキが置かれている。

「お、お疲れさまです。前原さん」
「サンキュ。とりあえず、君もビールでいい?」
「あ、はい」

 前原さんはさっきの女性店員を呼んで注文をしてくれた。彼女は伝票を取る間も、僕へちらちらと意味深な視線をくれる。
 友達として声をかけたいけど、立場上控えている。......そんな様子だった。
 ふと、厨房に立つ店主に目をやると、頑固そうな彼の表情が和らぎ、親しげな笑みを返してくれた。その流れで目が合ってしまった他の客も、みな僕に気づいて軽く頭を下げる。
 どうやらこの店にいる人達は、全員僕の『友達』のようだ。
 望んで契約をしたにも関わらず、いざこうして見知らぬ人と『友達』になると、妙に居心地が悪く感じて、そわそわしてしまう。
 だけど前原さんは僕の事情など知るよしもなく、メニュー表を広げたまま、

「ここ、俺のとっておきでさ。何食っても美味いんだわ」
「そう、なんですね」
「何か食べたいもんある? アレルギーとかあったっけ?」
「なっ、ないです、全然」
「そっか。とりあえず刺し身の盛り合わせでいい?」
「はい、それで」

 本当はホタテのバター焼きも食べたかったけど、言い出せなかった。
 やがて運ばれてきたビールで乾杯すると、やっと飲み会らしくなってきたなと嬉しくなる。
 キンキンに冷えたビールが喉をするする伝っていく。
 前原さんは残っていたビールをガブガブと飲み切ると、「ぷはっ」と吐息をついた。

「やっぱ最高だわ。店のビールって、なんでこんなに美味いんだろうな」
「は、はい。そうですね。僕もそう思います」
「ってか、北村さんと飲んだの初めてだっけ?」
「そう、だと思います」
「隣に住んでるのに、なんで今まで飲みに行かなかったんだろうな」
「不思議ですね」
「北村さんからも誘ってくれたら良かったのに」
「そ、それはさすがに......」
「そう気を遣うなよ」
「......あ、あはは」
「............」
「............」

 ――沈黙。

 まずい。上手に返せなかった。
 前原さんは空になったビールジョッキの縁を指でなぞりながら、視線を泳がせる。
 次の話題を探してくれているのかもしれない。

 僕も会話を盛り上げなくては。

 でも、おかしな質問をして、なんだこいつって思われたらどうしよう?
 野球、宗教、政治の話はタブーって聞いたことがある。
 それなら、仕事の話? そんなに仲良くない自分が尋ねるのは図々しいだろうか。
 少しぐらいなら構わない? いや、やっぱりやめておこう。
 じゃあ、趣味の話はどうだ? 

 ......前原さんの趣味ってなんだ? 

 マイナーな趣味だったら、話を合わせられるだろうか。また一辺倒な返事しかできなかったら呆れられてしまうかも。
 そもそも普通の人たちはどんな会話をしているんだ?
 こんなとき、宮越くんならどんな話を振るんだろう。

 そうだ、猫! コパンの話をしてみよう。前原さんなら知っているかもしれない。

 よし、訊くぞ。

「あの......猫」
「え?」

 前原さんが不審そうに眉をひそめたのを見て、それ以上言葉を継げなかった。

「なん、でもない、です」
「そう」

 ますます空気が重たくなった。舌が痺れたようになって、頭の奥がぐわんと痛くなる。
 脳内では自分とマシンガントークを繰り広げているというのに、現実では一言たりとも喋ることができないでいる。緊張で、手のひらが汗ばんできた。
 店内は酔ったおじさんたちの声で騒がしいというのに、僕たちの周りだけ厚い油膜で囲われたみたいに静かだ。

「なんか、変な感じだな。暑いからかな? 頭が回んないんだよね」
「......ぼ、僕もです」

 違う、前原さんのせいじゃない。
 この居心地の悪い雰囲気をつくっているのは、きっと僕だ。
 嫌われたくない、変に思われたくない、空気を読めない会話をしたくない。
 そんなことばかりを一生懸命頭で考えているのだから当然だ。
 心なしか、胃も痛くなってきた気がする。

「そういや......北村さんは、何の仕事してるんだっけ」
「しょ、食品工場です。コンビニのお弁当を作ってます」
「へえ! コンビニ弁当なら、俺も世話になってるよ。北村さんが作ったやつも、食べたことあるかもしれないね」
「そ、そうかもしれないですね!」

 前原さんが話題を振ってくれたおかげで、少しだけ場の雰囲気が明るくなった。

「これから仕事なんでしょ? 夜勤って大変だよね」
「そっ、そんなことはないですよ。慣れちゃえば楽ですし。......どちらかというと、にっ、人間関係が悩みっていうか」
「へえ。まあ、みんなそんなもんじゃない?」

 つれない返事に、気持ちが少し波立つ。そんなもんなら、雇い止めなんかされてない。

「鬼塚主任っていう上司なんですけど‥...僕のことが気に入らないみたいで......。なんでいつも僕ばっかり怒られるのかが、全然わからなくて」
「ふうん」
「職場のグループチャットにも、今朝ようやく入れてもらえて......。半年も勤めていたのに、どうして教えてくれなかったんでしょうかね。毎日、仕事行くのも辛くて」

 誰かに胸の内を聞いてほしかったのかもしれない。
 舌の先から、ぽろぽろ言葉がこぼれおちる。
 今まで気づいていなかった、自分自身の『本音』。
 まるで他人の悩み相談を聞いているみたいで、おかしな感じがする。

「次の更新はないみたいで......これからどうしたらいいのか」

 直後、ドンッと前原さんが乱暴にビールジョッキをテーブルに置いた。はっとして前原さんの顔を見ると、彼は不愉快そうに僕を睨みつけていた。

「あのさ。飯がまずくなるから、愚痴るのやめてくれない? 嫌ならさっさと辞めたらいいじゃん」
「......あ」

 ガツンと頭にゲンコツを食らったような感覚。

「ごめんなさい」
「なんか楽しい話しようよ」
「そうですね。無神経でした」
「いや、もういいよ。それより俺、結婚を考えている女がいてさ」
「......はい」

 前原さんは、今の彼女と知り合った経緯を語り始めた。
 適当に相槌を打ちながら、僕は前原さんをとても遠くに感じていた。
 たしかに、愚痴を聞かされるのは不愉快なのかもしれない。
 でも、友達というのは悩みや相談を打ち明けるものなんじゃないのか? 
 そもそも惚気話なんて、僕にとっても興味がない。
 彼女のことが好きなら、さっさと結婚でもなんでもしたらいいじゃないか。
 喉の奥で、言葉がぐるぐるに絡まった毛糸玉みたいに突っかかる。
 こんな風にひねくれたことを思うから、僕には友達ができないのだろうか。
 普通の人たちの感覚がわからない。
 悪かったのは僕? それとも前原さん?
 酔いがまわってきたのか、前原さんの顔は徐々に赤らんでいき、やがて話題は彼の学生時代の武勇伝に変わっていた。
 前原さんに誘われて、ヨルを抱きしめんばかりにはしゃいでいた自分が滑稽に思える。
 こんな飲みの席が楽しいはずもなく、やがて僕たちの会話は徐々に尻すぼみになっていき、沈黙の時間が増えていった。
 一時間も経たないうちに、耐えきれなくなった前原さんが、

「そろそろ帰るか」

 と切り出した。僕たちは言葉も少なく、淡々と会計を済ませて店から出る。
 彼は「コンビニ行くから」とわざとらしい口実をつくって、そそくさと帰ってしまった。
 蝋燭の炎を吹き消すような、あっけなさ。
 僕は前原さんの背中を見送りながら、しばらく店の前で呆然と立ち尽くした。
 どうやら、さっそく友達を一人失ってしまったようだ。
 相性の問題はある、と頭では理解している。でも、どうすればもう一度前原さんと友達になれるだろうかという不毛なことを考えている自分がいる。

 ヨルの魔術さえあれば、すぐに『本当の友達』を作ることができると思っていたのに、結果はこのざまだ。
 もっと社交的な性格なら、うまく同調してすんなり友達になれたかもしれない。
 いや。そもそも、そんな才能があれば、悪魔契約なんてしていないだろうけど。 
 僕はつま先で、足元に転がっていた石を蹴っ飛ばす。

 やっぱり、僕は僕のままだ。

 うまくいかない。うまくいくはずって思っていた自分が、バカみたいだ。
 携帯電話で時間を確認すると、十九時を少し過ぎていた。すっかり日は落ちて、辺りはもう真っ暗だ。貴重な一日目を無駄にしてしまったという後悔で、つい舌打ちをする。
 すると、

「北村さん」

 とんとん、と肩を叩かれ、振り返った。
 そこには、大きく膨らんだトートバックと浮き輪を持ったヨルが立っていた。長い髪の毛は濡れそぼっていて、首元にはタオル、足にはサンダルをつっかけていた。
 どうやら海水浴をしていたようだ。
 僕が散々な飲み会をしているあいだに、趣味をエンジョイしているとは。

「ヨル......楽しそうだね」
「あら、お顔が暗いです。うまくいかなかったのですか?」

 答えに窮する。自分の不甲斐なさを赤裸々に話すのが恥ずかしくて、口ごもってしまった。そんな僕の態度にヨルはすべてを察したようで、気の毒そうな視線をくれる。

「そうでしたか。残念でしたね」
「ああ......うん。......まあ、しょうがないよ。帰ろうか」

 可愛そうだと思われたくなくて、無理やり作り笑いをする。僕の小さなプライドだ。
 情けなくて涙が出てきそうだけど。
 そんな僕を見つめながら、ヨルは不憫そうに眉尻を下げ、

「北村さん、今日は夜空がとてもキレイなんです。せっかくですし、海に行ってみてはいかがですか?」
「海?」
「はい。とても気持ちが良かったですよ。あ、ヨルの水着姿、見たかったですか?」
「い、いや! べつに」

 いや、嘘だ。本当はかなり見たい。

「今度、生着替えしてあげますね」
「ぜひお願いします......って、もう! からかわないでよ!」

 ふふ、とヨルは笑う。でも、彼女のおかげで、ささくれ立っていた心が、和らいでいることに気づく。
 悪魔とはいえ、彼女は彼女なりに僕を慰めようとしてくれているのかもしれない。

「ヨルの言う通り......海、行ってみようかな」
「それがいいですよ! ヨルは、お留守番してますね」