こんなに満ち足りた気持ちで朝を迎えるのは初めてだった。

 もうすこしゆっくりしていきなよ、と冬花ちゃんは言ってくれたが、ヨルのことが気がかりで、僕はまた来ると言って彼女の家を後にした。

 今日は風が強い。

 僕は何度も向かい風にあおられて顔をしかめる。まるで行く手を阻まれているようだ。
 でも、そんなことは全然気にならない。むしろ、熱を持った頭を冷やすのにちょうどいいかもしれない。

 昨日は、とても楽しい夜だった。
 ソファに二人で腰を掛け、とりとめのない話をして、映画を観て、出前を取って、それからまた他愛のない話をする。
 そうしている間に空が白んで、僕らは短い仮眠を取って、眠い目を擦りながら「おはよう」と笑い合う。ただそれだけだった。
 僕たちは恋人同士じゃないから、色っぽい展開とは無縁だ。

 不思議なほど、彼女に触れたいとか、それ以上のことをしたいなどという欲求は湧いてこなかった。
 彼女といると、僕は自然体でいられる。

 『友達』という、僕の存在を認めてくれる人がいるだけで十分だ。

 ヨルの魔法が解けても、きっとこの気持ちは変わらないだろう。
 僕は、『本当の友達』を手に入れたのだ。

 ............。

 帰路を急ぐ足を止め、僕は自分の胸に手を当てた。
 ざわざわとした不安が、喉元までせり上がってくる。

 悪魔に支払う代償......。

 ヨルが僕に要求する代償は、一体なんだろう?

 ――『北村太一の命や、身体に関わるような代償は求めない』。

 彼女は僕とコパンの命に関しては保証すると約束をしてくれた。
 いや。何を今さら怖気づいているのだろうか。
 少しくらい大変なものでも、支払う覚悟は出来ている。
 それに、ヨルは僕に『本当の友達』をくれた悪魔......いや、天使なのだ。
 きっと、そんなものか、と思うようなものに違いない。
 ああ、そうだ。コパンにもちょっといいキャットフードをたくさん買ってあげよう。
 僕は再び足を踏み出す。
 途中、友達化した人たちから声をかけられたが、今までで一番愛想よく応えることができた。
 
 本当に、今日はいい朝だ。

 × × ×
 
 部屋に戻ると、ヨルはいなかった。
 代わりに、『海へ行ってきます』という下手くそな字の書き置きがテーブルの上に置いてあった。
 こんな風の強い日に海なんか行ったら危ないぞ。と思ったが、悪魔にそんな心配は無用かもしれない。
 ふと部屋の窓に目をやると、摺りガラス越しにコパンが座っているのが見えた。

「コパン、おはよう。いい餌を買ってきてあげたよ」

 声をかけながら窓を開けると、ちょこんと座っていた彼がビクリと毛を逆立てて飛び退いた。


「どうしたんだよ?」

 おずおずと手を伸ばしてみたが、コパンは低い唸り声をあげてこちらを威嚇する。
 喉元を撫でてやろうと触れた瞬間、鋭い爪が僕の手の甲を引っ掻いた。

「いたっ! 何するんだよ!」

 思わず声を荒げると、コパンはシャッと一鳴きし、素早くベランダから走り去ってしまった。
 ベランダには無惨に皿ごとひっくり返された餌と水入れが散乱している。

「......なんだよ、あいつ」

 舌打ちをしながら餌入れを蹴飛ばし、ため息をつく。
 せっかく高い餌を買ってきてやったのに。食べさせる気も削がれて、僕はそのまま乱暴に窓を閉めた。
 以前の僕なら、コパンが懐いてくれないことに不安を覚えたかもしれない。
 でも、今の僕には冬花ちゃんがいる。
 猫ごときに一喜一憂する僕ではない。

「............」

 ひゅっ、と息を飲む。

 猫ごとき?

 思わず口元に手を当てた。
 こんなこと、今まで考えたこともなかったのに。
 エアコンが起動していない部屋は茹だるほど暑いというのに、ゾッと鳥肌が立つ。

 僕は、何を考えた?

 いや。
 いやいや。

 理由もなく僕にそっけなくなったコパンのせいだ。
 懐かない猫なんて、可愛いと思わなくて当然だ。
 首を横に振って、不穏な思考を取り払う。

 海に行かなければ。

 × × ×

 海岸に着くと、すぐに波打ち際で遊んでいるヨルを見つけることができた。
 サンダルを片手に持ち、素足で濡れた砂の上を歩いている。
 麦わら帽子に白いワンピース。長く艶のある髪を潮風になびかせ、無邪気に浜辺で戯れる姿はとても愛くるしい。
 すっかり陽が昇った晴天の下で波がキラキラと照り、ヨルの白い肌がいつもより輝いてみえた。
 背中に羽根が生えていたら、天使と見間違えたかもしれないほどに。
 風が強いせいか、今日は人気がない。まるでプライベートビーチみたいだ。
 コパンのことがあって少し気持ちが沈んでいたが、彼女の姿を見ると少しだけホッとした。

「ヨル」

 後ろから声をかけると、彼女は動きを止め、ゆっくりと振り返った。
 赤い瞳が、僕を捉える。

「北村さん、おかえりなさい」

 ヨルはにっこりと形のいい唇を歪めて笑みをつくる。

「昨日はどちらへ?」
「ごめん。友達......冬花ちゃんの家に泊まったんだ」
「だと思いました。北村さん、すごく嬉しそうだから」
「わかる?」
「バレバレです。それより、本当の友だちは見つかりました? もう九日目ですよ」
「うん、見つかったよ」

 僕が言うと、ヨルの目がぱっと輝いた。

「やっぱり、冬花さんですか?」

 ヨルの声は弾んでいた。

「うん。ヨルのおかげで、楽しい人生を送れそうだよ」
「それはなによりです!」

 ヨルは自分のことのように嬉しそうに笑ってくれた。
 そのまま濡れた素足で、ぴょんぴょんと足踏みまでしている。
 まるで子供のように喜ぶ仕草が本当に可愛らしくて、照れくさくてむずむずする。

「北村さんの願いが叶って、ヨルは嬉しいです!」
「ありがとう」

 僕はコホンと咳払いをしながら、ゆっくりと彼女に近づいた。
 ヨルはくるぶしあたりまで海に浸かっていたので、僕も思い切って靴を脱いで裸足になる。
 生暖かい波に飲み込まれると、大きな手に撫でられたようで、ぞくぞくした。

 そのまま二人並んで水平線をぼんやりと眺めていたが、

「あのさ。そろそろ代償のことを聞いてもいいかな」

 ようやく切り出すことができた。

「あ、ちゃんと覚えていてくれたんですね」
「そりゃそうだよ」

 ヨルは僕をちらりと横目で見ると、唇を少し吊り上げる。

「代償のことなんですけど」
「うん」

 ヨルの目が、弓なりに細くなった。



「冬花さんの命をください」



 
 一瞬、何を言われたのか分からなかった。
 聞き間違いだろうか。
 呆然としながら、まじまじとヨルを見つめる。
 だが、彼女は笑みを湛えたまま口を開かない。

「ヨル?」
「聞こえませんでしたか?」
「いや、あの」
「だから、代償は冬花さんの」
「ヨル、やめてよ。そんな冗談、笑えないよ」

 自分でも、言葉尻が荒くなっているのがわかる。額に汗が浮かんで、顎から滴り落ちた。

「冗談?」

 彼女の顔から、サァと笑みが消えていく。

「冗談でこんなこと言うわけがないでしょう」

 冷淡な声だった。

「北村さんにとっての、本当の友だちの命。それが契約の代償です」

 カッと頭に血が上り。ヨルの肩を強く掴んだ。

「何言ってんだ、無理だよ。無理に決まってるだろ!」
「無理? あなた、勘違いしてはいませんか? ヨルは天使じゃありませんよ」
「それは」
「友だちがいない北村さんが、たくさんの友だちに囲まれて、この九日間楽しく過ごしたのでしょう?」

 ヨルは素っ気なく僕の手を振り払う。

「精算の時が来ただけです。それを他人の命で賄ってあげようって言っているのですから、ヨルは天使より優しいと思いますよ?」
「何をぬけぬけと......。最初から、僕に冬花ちゃん......友達を殺させるために、契約をしたの?」

 ヨルは答えない。

 だが、にんまりと心から楽しそうな笑みを浮かべる彼女の表情を見れば、一目瞭然だ。

『――今までの契約者さんたちは、すんなり部屋に置いてくれたのに』

 初めて会った日。ヨルはそう言って僕の部屋にあがりこんできた。

 ......ああ。彼女は初めてではないのだ。

「ヨルは九日目が一番好きです。みなさん、それぞれ反応が違うので。北村さんは、どんな顔をするんだろうってずっと楽しみにしていました」

 そこでヨルは、ぷっと吹き出し、くつくつと肩を震わせて笑う。
 徐々に声量が大きくなり、やがてお腹を抱え、身をよじって哄笑した。
 一体、何がそんなに面白いんだろう。

「明後日までに冬花さんを殺してください。さもなければ......」
「この悪魔め!」

 僕は力づくで彼女を押し倒した。大きな水しぶきがあがり、僕らはずぶ濡れになった。ヨルの黒い髪が海面を伝うように覆い、ゆらゆらと揺れる。

「ふざけるな! そんなこと出来るわけがないだろ!」
「じゃあ、あなたが死にますか?」

 淡々とした物言いに、言葉が詰まる。

「わかっているんです。たかが他人のために死ぬなんて、人間には無理です。今までもそうでした」

 肩を掴む手に力を込めた。しかしヨルは怯むどころか、挑発するように微笑む。

「悪魔との契約は絶対です」
「お前......」
「結果はわかりきっていますが、北村さんがどう行動するのかヨルは見守っています。今日を含めてあと二日あるんですから、ゆっくり殺し方を考えてみてはいかがですか」

 ヨルはそう言うと、僕の胸をやんわりと押し返してきた。
 触れられたことにゾッとして思わず飛び退く。
 だが、そんな僕の態度にもヨルはまったく動じず、濡れた髪の毛を絞りながらゆっくりと立ち上がった。

「冷えましたね。風邪を引いては大変です。お部屋に戻りましょうか、北村さん」

 そう言って、海の中で座り込む僕に手を差し伸べてくるヨルは、今までとまったく変わりなくて......僕は狂ったように叫び声をあげた。

 × × ×


 冬花ちゃんを殺さなければならない?

 ヨルの手を払い除け、僕は彼女から逃げるように海岸をあとにした。

 とんでもないことになった。
 取り返しのつかないことをしてしまった。

 心臓が早鐘を打つ。
 部屋に戻ろうかと思ったが、ヨルがいつ帰ってくるかわからない。二度とあの悪魔と顔をあわせたくなかった。
 転がるように無我夢中で走った僕は、気がつくと駅の改札をくぐっていた。
 ちょうど滑り込んできた電車に飛び乗ると、乗客たちが一斉に僕を見る。

 痛いくらいに突き刺さる視線と、今にも声をかけてこようと腰を浮かす人たちを見て、背筋がゾッとする。適当にあしらいながら、次の駅に着いた瞬間、我先にと車両から飛び出した。
 背中へかかる声を無視して、一気に駅の階段を駆け下りる。

 ただただ、気味が悪い。

 人がたくさんいるところに来れば少しは恐怖が薄れるかと思ったが、逆効果だった。
 友達化した人たちが全員ヨルの手下のように思えて、視線を感じるだけで吐き気がする。
 人気のない路地に逃げ込み、誰も通りかからないことを確認した僕は、ずるずるとその場に座りこんだ。
 目を閉じると、瞼の裏で冬花ちゃんの笑顔が弾けては消える。

 ――『冬花さんの命をください』

 茹だるほど暑いはずなのに、ヨルの声がリフレインするたび悪寒が走る。
 あの悪魔に、冬花ちゃんの命を差し出すわけにはいかない。
 なんとかしなければ。
 僕は携帯電話を取り出し、友達化した人たちの連絡先に、片っ端から電話やメールを送った。
 この中に、悪魔祓いについて詳しい人間がいるかもしれない。

 だが、結果的に期待するような返答は得られず、悪魔払いだの、宗教だの、エクソシストだのとしつこく尋ねる僕に、彼らの反応は二極化していった。

 一つは、「病院に行けば?」と一蹴する者。

 もう一つは、「それなら、私の教祖さまが」や、「地球と繋がれば、悪魔も滅せられる」などと、与太話に引き込もうとする者だ。
 いや、現に悪魔がいるのだから、彼らの中には本物がいるのかもしれない。
 しかし、今から一人一人に会って、効果を確かめるような時間は残されていなかった。

 それなら教会にでも行ってみようか。

 祓ってくれるかはわからないが、もしかしたら有益な助言が得られるかもしれない。
 僕は携帯電話で近場の教会を探した。
 もう日も傾きはじめている。早くしなければ、九日目が終わってしまう。

「無駄ですよ、北村さん」

 聞き覚えのある声と同時に、握っていた携帯電話を何者かに掴まれた。
 ハッとして振り仰ぐ。
 いつの間にか、僕を見下ろすようにヨルが立っていた。
 腰が抜けるほど驚いて、悲鳴をあげてしまった。ヨルは僕に構わず、奪った携帯電話の画面を見つめると、面白そうにほくそ笑む。

「今までも、彼らに頼った契約者達はたくさんいました。でも、ヨルは今ここにいる。どういうことかわかりますよね?」
「お前......」
「もう一度、読み返しますか?」

 ヨルが右手をかざすと、指先からボゥッと炎がゆらめいた。
 見つめている間にも、炎の中から焼き消されたはずの契約者が蘇っていく。
 すっかり元通りになったところで、僕に差し出してきた。

「い、いらない。こんなもの!」

 反射的に手で払う。

「北村さん。感情で動くクセ、直したほうがいいですよ」

 ヨルは呆れたように言いながら、契約書を拾い上げる。

「この契約は正当なものです。どんなに力のある退魔師がいたところで、悪魔との契約は破棄できません」
「......僕のこと、ずっと見張っていたの?」
「当たり前じゃないですか。まだ契約は終わっていないのですから」

 ヨルはゆっくり膝を折り、地面に座り込む僕の顔を覗き込んだ。まるでペットを慈しむように、僕の頬を両手で撫でる。
 赤い瞳の中に、怯えた僕の顔が映っていた。

「ヨルからは、逃げられません」

 瞬きをすると、ヨルの姿はもうどこにもなかった。
 足元には画面にヒビの入った携帯電話が落ちていた。 
 一筋の希望のように思えたが、ヨルの言う通り、悪魔契約は絶対なのだろう。
 十万人の友達がいたところで、悪魔には敵わない。

 代償を支払ってでも、友達が欲しいと望んだのは僕自身なのだ。
 悪魔契約など、するべきではなかった。
 歪んだ方法で、他人の心を手に入れようとしたばかりに、冬花ちゃんを巻き込んでしまった。

 一体どうしたらいいんだ。

 路地の隙間から、行き交う人たちをじっと見つめる。
 こんなにたくさんの人が存在しているのに、世界中で一人ぼっちになったような気がした。
 僕は、何のために契約をしたのだろう。
 ただ、友達が欲しかっただけなのに。
 冬花ちゃんの細い体にナイフを突き立てる自分を想像しただけで、ぞっとする。
 そんなこと出来るわけがない。

 誰か......誰か助けて。

 こんなとき、縋れる相手は一人しかいない。

 冬花ちゃん。

 彼女の声を聞きたくてたまらない。震える指先で、冬花ちゃんの電話番号に電話をかけた。


『北村くん、さっきぶり。どうしたの?』

 スピーカーから明るい声が聞こえた瞬間、ほっと全身の力が抜けていく。

「ごめん、突然電話しちゃって」
『ううん? それよりどうしたの。ちょっと声が変だよ?』

 優しい声音を聞いた途端、ぽろぽろと目尻から涙が溢れた。
 僕のことを気遣ってくれる、友達。
 親にも見捨てられ、大した人間関係を築くことが出来なかった僕。
 そんな僕を案じてくれる人がいる。
 僕のたったひとつの居場所......。
 ああ、無理だ。彼女を殺すなんて出来っこない。

「なんでもないんだ。ちょっと声が聞きたかっただけだから」
『北村くん? 本当に大丈夫? 今どこにいるの?』

 問いかけには応えず、電話を切った。
 すぐに冬花ちゃんがかけ直してきたが、それも無視し、電源を落とす。
 このまま通話していたら、うっかり悪魔のことを話してしまいそうだった。
 そんな与太話をして、頭がおかしいヤツだと思われたくはない。
 彼女の声を聞いて、僕は自分の中で踏ん切りがついたような気がした。

『――じゃあ、あなたが死にますか?』

 ヨルは、はっきりとそう言った。
 冬花ちゃんを殺す事ができないのであれば、自分が死ぬしか無いということだ。
 さっきは気が動転してはっきりと答えられなかったが、こうして落ち着いて考えてみれば、それが最善なのではないかと思う。
 そもそも、落ちるところまで落ちてやれと決意をしたからこそ、ヨルと契約をしたのだ。
 どうせ最初から大した人生じゃなかったではないか。
 何一つうまくいかない人生。家族も、恋人も、仕事も、友達も。僕は何一つ持っていない。
 そんな人生に、一体なんの価値がある?
 そもそも、僕のエゴのために悪魔契約をしたのだ。
 僕のしょうもない人生のために、冬花ちゃんを巻き込むことなんて出来ない。

 死のう。

 いい夢を見た。
 冬花ちゃんだけじゃない。宮越くんや職場の同僚たちも優しくしてくれた。
 もういいじゃないか。
 冬花ちゃんを失い、また一人ぼっちの人生に戻るなんて考えただけでぞっとする。
 ならば、ここでケリをつけよう。
 九日間の優しい夢を抱いたまま、この世界から消えよう。
 そう心の中で決めると、なぜかまた涙が滲む。
 自分でも、どうして泣いているのかわからない。
 決心したはずなのに、こんなにも生への執着があったなんて。

 だが、路地でむせび泣く僕に誰も気づかない。
 これが本当の僕。

 忘れていた、本当の僕なのだ。

 × × ×

 死に場所は、海に決めた。
 自分にとって、一番ふさわしいと思えたからだ。
 入水自殺が上手くいくのかはわからない。ただ、この世界からひっそりと消えたかった。
 海の藻屑になって消えるのが、北村太一という孤独な人間にはお似合いだ。
 海岸に戻ってきた頃には、すっかり夕暮れになっていた。

 嵐でも来るのだろうか。空は薄暗く、風が強いせいで雲の流れが早いし、波も高い。
 海岸に人の気配はない。風と波の音が鼓膜を震わすばかりだ。
 誰にも見咎められないのは都合がいい。顔を打つ砂の粒を払いながら、僕は一歩一歩、海に近づいていった。
 そういえば、コパンに餌をやっていなかった。
 ずっと世話をしてきた可愛い相棒だったのに。最後に頭を撫でてやればよかったかもしれない。

 ......いや、きっとあいつのことだ。僕じゃなくても飼い主になりたい人はたくさんいる。
 今頃、どこかの誰かに腹を見せて喉を鳴らしているに違いない。
 コパンも僕のことなど必要としていないだろう。
 今さらながら、彼に引っ掻かれた手の傷がズキズキと痛みだす。

 最期が喧嘩別れなんて、僕らしい。

 波打ち際までやってくると、生ぬるい波が僕の靴を舐める。
 誘われるように、一歩踏み出すと今度は勢いよく打ち付けた波で、くるぶしまで浸かった。
 ふと思い至って、携帯電話や財布を海の中へ放り投げる。

 死体があがったとき、身元がわかるのが嫌だったからだ。
 どうせ歯の治療痕や、指紋で判明するのかもしれないが。
 さらに一歩、もう一歩、とゆっくり海の底へ近づいていく。
 海水で濡れた下着が肌に張り付いて気持ちが悪い。だんだんと水も冷たくなっていき、体が震えてくる。
 腰の辺りまで海に沈んでくると、波に揉まれた瞬間、爪先が浮いた。
 ふわりとした浮遊感に、恐怖が這い上がってくる。
 このまま沖に向かって進めば、二度と戻れない。

 引き返すなら今だ。

 その時。ぽつりと冷たい滴が鼻先に落ちてきた。空を仰ぐと、厚い雲間から涙のような雨がぱらぱらと降ってくる。
 呆然と立ち止まっている間にも雨の勢いは増していき、あっという間に僕の体はずぶ濡れになっていった。
 人生最期の日にしては、あまりにも惨めだ。
 頬を伝う涙だけが熱を帯びていて、まざまざと生を実感する。
 僕は、まだ死にたくないのかもしれない。
 走馬灯のように、冬花ちゃんと過ごした思い出がよぎる。
 歯を食いしばりながら、恐る恐る一歩を踏み出す。

 さらに体が浮く。

 激しい波が、僕の体を飲み込む。
 もんどり打つように、僕は薄暗い海の中で溺れた。
 波に飲まれたとき、水を飲んでしまった。苦しい。
 反射的に抵抗しようと手足をばたつかせる。がぼがぼと、虚しく指が水を掻く。
 ほんのわずかに、爪先が海底に触れた。
 だが、ここで立ち上がってしまっては意味がない。
 少しの辛抱だ。

 ここで意識を失えば、全てが終わる。僕は冬花ちゃんを守って死ぬことができるのだ。

「北村さん、無茶なことをしますね」

 海中だというのに、その声は異様にはっきりと聞こえた。
 思わず目を開ける。真っ暗な闇の中で、赤く輝く二つの光があった。

 ......ヨル。

 その瞬間、ものすごい力で体が海面に押し上げられた。
 息を吸った瞬間、飲み込んだ海水が気管に入って激しく咳き込む。そんな僕の背中を、何者か――いや、ヨルが丁寧に撫でた。
 彼女は、まるで海水浴でも楽しむかのように、シュノーケルとゴーグルまでつけ、楽しそうに立ち泳ぎしている。

「いつからそこに」

 ぞっとする僕にも構わず、ヨルは朗らかに笑いながら、

「逃げられないって言ったじゃないですか」
「逃げたわけじゃない。僕は死のうと思ったんだ」

 ヨルは目を細め、ぱちぱちと拍手をする。

「お友達のためにここまでやったのは、北村さんが初めてです。ちょっとびっくりしました」
「お前......」
「でも、まだ九日目です。そんなに生き急がなくてもいいじゃないですか」
「僕はもう決めたんだ。大切な人を殺すぐらいなら、死んだ方がマシだ」
「北村さんは、本当にロマンチストですね。だから、いつまで経っても本当の友達が出来ないんですよ」
「なに?」
「そんなに怒らないでくださいよ。ヨルは北村さんと喧嘩をしたいわけじゃないんですから」
「いけしゃあしゃあと、よく言う......」

 ヨルは微笑みながら、僕の額を指で小突いた。
 あ、と思ったときには遅く、ぐるりと世界が反転したような感覚に陥った。

「もう少し楽しみましょう?」

 ヨルの声が、遠くなる。
 僕の意識は、そこで途切れたのだった。