「泳いだら気持ちいいだろうね。僕は海で泳いだことないんだけどさ」
「わかる。そんなもんだよね」
「冬花ちゃんは、泳げる?」
「普通には」
「そっか。いつもどんな人と遊んでるの?」
「普通だよ、普通」

 さっきから、会話の返事が淡白すぎやしないか。
 ちらっと冬花ちゃんを見やると、彼女は一生懸命携帯電話をいじっている。

「冬花ちゃん。僕の話、ちゃんと聞いてる?」

 少しだけ口調が強くなってしまったかもしれない。冬花ちゃんは顔をあげると、気まずそうに眉尻を下げた。

「ごめん。グループチャットが、ちょっと盛り上がっちゃってて」
「ふうん」

 すぐにメッセージを返すのは人間関係においてとても大切なのかもしれない。

「友達が多いと大変だね」
「そうなのよ」

 大人げないかもしれないが、ちょっとした嫌味を言ってしまった。
 だけど、冬花ちゃんは気づかなかったようだ。
 そう言っている間にも携帯電話が振動し、彼女はいそいそと返信作業に戻ってしまう。
 いつの間にか生ぬるくなった酒を、口に含む。

 ......なんだか思っていたのと違うな。

 一昨日まで友達ゼロだった僕がこんなことを思うなんて、調子に乗りすぎかもしれない。
 こうして誰か――いや、相手は美人な冬花ちゃんだ――――と、二人きり飲んでいるというだけで奇跡なのかもしれない。
 でも、もっと楽しい時間を過ごせると期待していた。
 せっかく本当の友達になれるかもしれないと思ったのに。
 僕は、無意識に大きなため息をついてしまった。

 彼女に聞かせるつもりはなかったのだが、

「ごめん。怒ってる?」

 冬花ちゃんは、そそくさと携帯電話をポケットに仕舞いながら、僕の機嫌を窺うように尋ねてきた。

「そんなことはないよ」
「あたしが悪いね。せっかく付き合ってもらったのに。電源切っとく」
「そこまでしなくても」
「いいの」

 彼女はそのまま本当に電源を切ってくれた。その心遣いに、ちょっとだけほっとする。
 けれど会話は尻すぼみになっていき、冬花ちゃんは気まずそうに足元の缶に手を伸ばした。
 しかし、すでに中身は空っぽだったのだろう。レジ袋から新しい酒缶を取り出すと、迷うことなくプルタブを開けた。

「昨日も飲んでいたけど、そんなにお酒が好きなの?」
「うん。飲まないとやってられなくて」

 冬花ちゃんは、自嘲気味に笑う。癖になっているのか、ついさっき仕舞ったばかりの携帯電話を取り出す。だが、電源を切ったことを思い出したのか、不満そうに真っ暗な画面を指で撫でる。
 どうやら依存の対象は酒だけじゃないようだ。

「気になるなら、電源入れたら?」
「......あたし、ケータイ依存症なのかも」
「アルコールもじゃないの?」
「はー......ダメ人間すぎだね、あたし」

 フォローしたいが、どんな言葉をかけても薄っぺらくなりそうだ。

「ねえ。さっきの岡田さんって、どういう友達なの?」

 これ以上空気が重たくなるのは嫌だったので、話題を変えることした。

「うーん。飲むのは今日がはじめてなんだよね。たまたま声をかけられたから、遊んでみようかなって思っただけ」
「はじめてって......危ないよ。よく知りもしない人と二人で飲むなんて」
「北村くんだって、よく知りもしない人じゃない」
「う」

 それを言われたら、何も言い返せない。

「しょーがないよ。人間関係を広げようと思ったら、ある程度のリスクは伴うものだし」
「リスク?」
「そ。人間関係って、良くも悪くも、リスクありきじゃない?」
「そんな風に無理して人間関係を広げなくても、今いる友達を大事にしたらいいんじゃない?」

 冬花ちゃんは、電源の入っていない携帯電話に視線を落とす。

「みんな友達じゃないんだよね」
「どういうこと?」
「あたしがお金を出すから、それ目当てでタカってくるだけ。信用できる人なんていないの」
「信用できない人と、わざわざ付き合ってるの?」
「スペアをたくさん用意しておかないと不安なんだよね。一人疎遠になったら、一人補充するの。そうすれば、永遠にあたしは一人ぼっちにはならないでしょ?」

 キィンと、耳鳴りがした。
 浜辺は観光客たちの声や波の音で騒がしいはずなのに、僕の耳には遠く聞こえる。
 冬花ちゃんは、何を言っているんだろう?

「補充だなんて。まるで在庫管理みたいな言い方」
「やってることはそんな感じだよ」
「それって、友達って言えるの?」
「さあ、わかんない。誰でもそういうものかと思っていたんだけど、みんなもっと他人を信用しているんだよね。びっくりしちゃう。あ、もしかして引いた?」
「い、いや。全然」
「北村くんって、すぐバレるウソつく。でも、友達ってそんなもんじゃない?」

 大きく見開かれた黒い目が、まっすぐ僕を覗き込んでくる。
 わからない。友達がいない僕に、そんなことわかるわけがない。
 冬花ちゃんの言葉を借りるなら、僕はいつだって管理されるタイプの人間だ。
 必要がなくなれば、派遣の更新みたいにスパッと切られる。そして、気がつけばいつも独り。

「女の子って、いつも仲がいいものだと思ってた」
「女の友情なんか、あらゆる嫉妬をドロドロに混ぜ込んだスムージーみたいなもんだよ」
「じゃあ僕も、冬花ちゃんにとって誰かの替えなの?」

 口に出してから、すぐに後悔した。
 嫌味だっただろうか。なんだこいつ面倒くさいなって思ったにちがいない。

「ごめん、やっぱ今のなし」
「もう遅いよ」

 冬花ちゃんは、ふふふっと自嘲するように笑う。

「北村くんは、ちょっと違うかな。あんまり出会ったことがない人っていうか。特別枠、みたいな?」
「ふうん?」

 おそらく、ヨルの魔術のおかげなんだろう。

「あたし、さっきからすごい失礼なこと言ってるよね。北村くんの前だと本音が言えちゃうっていうか」
「それなら嬉しいけど」
「君は素直だから、あたしみたいな歪んだ人間と付き合わないほうがいいかもね」
「そんなことを言えちゃう冬花ちゃんも、素直なんじゃないかな」

 それは慰めでも、気休めでもない。紛れもない僕の本心だった。
 もしかしたら、僕は冬花ちゃんの危うさに惹かれているのかもしれない。

「冬花ちゃんは、僕からみても......その、魅力的、だと思うけどな」
「顔だけっていつも言われる」
「そんなこと」

 ない、と言い切れるほど、まだ彼女の内面について知らないことばかりだ。
 上っ面の言葉になりそうで、それ以上言葉を続けることができなかった。

「でもありがと。嬉しいよ、ふつーに」
「いつか、冬花ちゃんにも本当の友達ができるといいね」
「さあ、どうかな。蜃気楼みたいなもんだなって、諦め気味かも」

 蜃気楼か。僕はそんな蜃気楼に憧れて、悪魔と契約をした。
 そんなことを言ったら、頭がおかしいと思われてしまうだろうか。

「でも、こんなあたしでよかったら、これからも仲良くしてね」

 冬花ちゃんはにっこりと微笑むと、僕に握手を求めてきた。

「こちらこそ」

 恐る恐る握りしめた彼女の手は、とても冷たかった。

「ふふ。北村くんの手、冷たいね。風も出てきたし、少し冷えた?」
「冷たい缶を持っていたからだと思うけどね」
「たしかに。このまま飲み続けたら、さすがにお腹壊しちゃいそう」

 僕の手のひらから、冬花ちゃんの手がするりと逃げていく。
 まだ彼女に握られた感触が残っていて、僕はそれを確かめるように何度も拳を握り込んだ。

「そうだ。今さらだけど、連絡先教えてくれない? 暇なとき、連絡ちょうだい」
「こちらこそ......僕でよければ、いつでも」

 ぎこちなく差し出した僕の携帯電話に、冬花ちゃんは慣れた手つきで、チャットアプリのアカウントを登録してくれた。
 たった二日ですでに三人と連絡先を交換したことに、しみじみと感動する。
 やっぱり、ヨルの魔術はすごい。
 僕たちは、そのまま日が沈むまで他愛のない話をした。
 近所の工場がそろそろ潰れそうだとか、薄っぺらい政治批判とか、好きな音楽の話だとか。
 波打ち際の砂の城のように、満潮になれば跡形もなく崩れて消えてしまうような、中身のない空っぽな会話。

 でも、それで満足だった。

 いつも、自宅の窓から眺めているばかりだった理想のひとときを過ごしている。
 買った酒がすっかり無くなるころには、だんだん冬花ちゃんの呂律が回らなくなっていき、昨日と同じように甘えた口調へと変わっていった。
 わかっていたことだけど、どうやら彼女は相当な甘え上戸らしい。
 冬花ちゃんの携帯電話にはいつの間にか電源が入っていた。
 彼女はへらへらと上機嫌なままメッセージをせっせと返し始めた。
 冬花ちゃんの価値観を知ってから、なんとなく止めるのも気が引けて、僕はその様子を静かに見守った。
 冬花ちゃんは、きっと僕と同じくらい寂しい人なんだろう。
 お金持ちで、可愛くて、人気者なのに。
 心の底にあるものは、陰気な僕と同じ。

 人間というものは、意外とわからないものだ。

 × × ×

 すっかり酔っ払った冬花ちゃんを家まで送り届けた僕は、足早にアパートの部屋に戻った。

「お酒くさいです」

 ヨルは映画が映るテレビ画面から目を離さないまま、不機嫌そうに呟いた。

「やっぱりわかる?」
「びあがーでんで、たくさん飲まれたんですか?」
「会場ではそんなに飲んでないよ」

 僕はビアガーデンでのことをかいつまんで説明した。
 今まで冬花ちゃんと飲んでいたと告げると、ヨルの顔はみるみる綻んでいく。

「岡田さんって人に絡まれたのは災難でしたけど、冬花さんと海にまで行っちゃうなんて、いい感じじゃないですか」
「そうなのかな」

 僕はキッチンの冷蔵庫に、ヨルのお土産として買ってきたコンビニのスイーツを入れた。
 うがいのために水切りカゴからコップを探すと、見慣れない女子向けのマグカップが我が物顔で陳列されていて苦笑する。

「このまま、冬花さんと本当のお友達になれるといいですね」
「向こうはどう思ってるかなんてわからないけどね」
「またお誘いしてみたらどうですか?」
「そうだね」

 うがいをしながら、僕は頭のどこかで、冬花ちゃん一人に執着していていいのだろうかと考えていた。

 ――スペア。

 どうしても、僕は彼女の価値観に同意することが出来ない。
 友達というのは、そんなに軽い存在とは思えないからだ。
 これから、彼女ともっと仲を深めることができたとして。
 その時、僕はスペア以上のものになれるのか?

 ――蜃気楼みたいなもんだなって、諦め気味かも。
 ――友達なんて、メンドーなだけじゃないですか。

 冬花ちゃんと、宮越くんの言葉が頭の中でぐるぐると回る。
 ザラリとした違和感が、胸の奥から這い上がってくる。
 もしかして、僕は相当馬鹿げたことをしているんじゃないだろうか。

「ねえ、ヨル」
「はい、なんでしょう?」
「ヨルは、友達いる?」
「いません」

 即答だった。

「悪魔たちは性格が悪いので、あまり近づかないことにしているんです」
「そっか。でも、友達って必要だと思う?」

 僕の問いに、ヨルはスンと肩をすくめた。

「人間には必要なものだと思いますよ。人間関係で悩むということは、それほどまでにかけがえのないものだからでしょう?」
「そうだけどさ。なんか、よくわからなくなってきちゃって」
「みなさんから、何か言われたんですか?」
「まあ。いろんな価値観があるなって思っただけ。僕が勝手に悩んでいるだけっていうか」
「グダグダ悩まず、とりあえず色んな方と仲良くしてみてはどうですか?」

 言われてみればそうかもしれない。
 今まで友達ゼロだった僕が、日替わりのように他人と話をしているのだから、多少は周りの言葉に左右されて当然かもしれない。
 その時、ポケットに入れていた携帯電話が震えた。取り出してみると、冬花ちゃんからメッセージが届いていた。

『今日は岡田から助けてくれてありがとう! 海では変なこと言ってごめんね』

 前原さんや宮越くんから送られてくる簡素なメッセージと違って、キラキラした絵文字がたくさん使われていた。