でも、これ以上騒ぎが大きくなってしまったら、この不自然な顔の広さに言い訳が出来なくなる。
 僕は話しかけてこようとする人たちを振り切り、

「ふたりとも、帰ろう!」

 宮越くんと冬花ちゃんは、互いに目配せをすると、ぎこちなく頷く。
僕は人混みをかき分けるように、無理やりビアガーデンの出入り口へ向かって足を早める。

「待て、北村ァ! ぜってぇ許さねえからな!」

 岡田さんの怒鳴り声が、会場中に響き渡った。

 × × ×

 僕たちは互いに口も利かないまま、駅まで戻ってきた。
 構内の冷たいクーラーの風を受けたところで、ようやく宮越くんが大きな息をつく。

「はぁ、びっくりした。あんなことでキレるなんて、ヤバい人でしたね。北村さん、服は大丈夫ですか?」

 指摘されてから、そういえば、と気づく。岡田からビールをぶっかけられたせいで、胸元はびっしょりと濡れている。

「暑いし、そのうち乾くと思うけど」
「風邪引かないようにしてくださいよ。冬花ちゃんも、大丈夫?」
「あたしは、全然」

 冬花ちゃんは困ったように微笑む。
「ごめん。あたし、止められなくて」
「いやいや。あれは女の子にも手をあげるタイプだから、下手に手を出さなくて正解だよ。北村さんも、殴られなくてよかったですね」
「う、うん」

 宮越くんの言うとおりだ。
 情けないが、友達化した人たちの助けがなければ、どうなっていたのかと考えるだけで、ゾッとする。

「でも、意外と世の中捨てたもんじゃないですよね。あんなにたくさんの人が止めてくれるなんて思わなかったですよ」

 ギクリ、と体が強張った。

「ああ、うん。そう、だね」
「あたしも。びっくりしちゃった」

 ああ、よかった。心配していたほど、二人はあの異様な状況を気にしていないようだ。
 あれが本当に人々の善意からくる行動だと思っているのだろう。
 当然といえば、当然なんだけど。
 宮越くんは額に滲んだ汗を拭いながら、冬花ちゃんに向き直る。

「っていうか、あの人、友達? 付き合う人は選んだほうがいいよ」
「そうよね。反省する」
「飲みたくなったら、いつでもオレを呼んで?」
「......宮越くん、プライベートでは飲まないんじゃなかったっけ?」
「女友達は別腹です」
「ふふ。調子のいいこと言ってる」
「......」

 おや。いつの間にか、宮越くんは僕よりも冬花ちゃんと仲良くなっているような気がするのは気のせいだろうか。

「ねえ、これから三人で飲み直さない?」
「えっ?」

 さっきまで顔色が悪かったのに、冬花ちゃんは世間話をするように、自然な調子で言った。

「あいつのせいで、二杯しか飲めなかったの」
「僕でいいなら、行くけど」

 たらふくビールを飲んだあとで大分気分が悪かったが、せっかくチャンスを不意にするわけにはいかない。

「ほんと? ありがとう、北村くん!」
 冬花ちゃんは、ためらいもなく僕の手をぎゅっと握りしめた。友達化しているからだと頭でわかってはいるが、やっぱり美人にこんなことをされたらドキドキしてしまう。

「みっ、宮越くんも行くよね?」
「いや、オレは結構飲んでるんで、今日は帰ります」
「え」
「そっかー。残念。じゃ、二人で飲も、北村くん」
「僕と二人でいいの?」
「もちろん」

 一瞬、二人きりならナシで。と言われるんじゃないかと思ってヒヤリとしてしまった。
 同時に、骨の髄まで嫌われ者根性が染みついているなと我ながら嫌気がさす。

「じゃあ、お二人は楽しんで。オレはここで失礼します」

 宮越くんは言いながら、ICカードを取り出した。僕はハッとして、

「宮越くん。今日はごめんね?」
「へ?」
「僕がビアガーデンに誘ったばかりに、おかしなことになっちゃったから」

 北村といたせいで、災難に巻き込まれたと思われたくなかった。彼と飲むことは二度とないかもしれないが、彼に嫌われたくはない。
 宮越くんは不思議そうに僕の顔を見つめていたが、すぐにふっと柔らかな笑みを浮かべた。

「北村さんのせいじゃないですよ。また飲みましょう」

 彼は言いながら僕を励ますように、バンバンと背中を叩いてくる。その朗らかな宮越くんの態度に、僕は安堵の息をついた。
 それから三人で改札を抜けると、宮越くんは「それじゃ」と軽く頭を下げて、ホームに続く階段をのぼっていってしまった。
 彼の姿が見えなくなるのを見届けて、僕と冬花ちゃんも反対方面行きの階段に向かった。
 休日の昼間だというのに、ホームで電車を待つ人の数はまばらだ。
 その人たちも熱心に携帯電話をいじっているため、僕に気づく人はいなかった。
 ほっと胸を撫で下ろす。
 念のため、僕は深く帽子をかぶり直し、出来るだけ人の視線から逃れるように、さりげなく柱を背にして立った。ちらりと傍らの冬花ちゃんを見やると、彼女は不安そうに辺りを見回している。

「岡田さんなら、さすがにもう追ってこないんじゃないかな」

 冬花ちゃんは、ハッとしたように僕を振り返ると、ぎこちない笑みのまま、「そうよね」と呟いた。
 すっかり岡田のことなんて忘れていたように見えたが、あんなことがあった後では、さすがに気が気ではないだろう。
 だが、僕がそう言っても冬花ちゃんは自分の髪の毛を指先で弄びながら、つま先でコンクリートの地面をコツコツと落ち着きなく叩いていた。
 電車が来るまで、まだ数分ある。
 改めて、こうして二人きりになると何を話していいかわからない。いや、むしろここは黙っていたほうがいいのか? うるせえヤツだと思われたくはないし......。でも、つまらない男、と思われるのも......ああ、どうしよう。何を話したら......。
 そんなことを考えていると、不意にシャツの裾がツンと引っ張られた。

「北村くん、助けてくれてありがとね」

 冬花ちゃんは、つま先に視線を落としたまま、独り言のように呟いた。

「い、いや。僕は、何も」

 なんだか恥ずかしくなって、僕は首の後ろを撫でる。

「人として、当然のことをしただけ、だよ」
「謙虚なんだね」
「あ、あはは......」
「ねえ。ビアガーデンに来たのは、あたしに会うため?」

 冬花ちゃんは顔を上げ、大きな瞳で僕を覗き込む。

「えっ、ちがうよ。ただの偶然で......」
「うそつき。さっき、宮越さんに謝っていたじゃない。僕がビアガーデンに誘ったばかりにって」
「あっ」

 自分の体温が、かーっとあがっていく。僕の頬は、さぞ赤くなっていることだろう。

「でも、北村くんが来てくれてよかった。あたしも会いたかったから」
「僕に? ほんとに?」
「あたし、うそは言わないわ」

 くすくす、と面白そうに微笑む冬花ちゃん。そんな彼女を見ていると、僕までおかしくなってきて、二人で笑いあった。

「あ、そうだ。飲むなら居酒屋探さなきゃ」

 冬花ちゃんの提案に、ぎくりとする。

「あ、あんまり人が多いところはちょっと嫌だな」

 友達化している人たちが大勢集まるところに、冬花ちゃんと出向くのは危険すぎる。
 今度こそ大きなトラブルに発展しかねない。

「そうね。あたしも静かなところがいいな。天気もいいし、海で飲もっか」
「い、いいね。僕も賛成だよ」
「やったぁ。じゃ、決定!」

 冬花ちゃんは、僕の腕にするりと自分の手を絡みつかせた。

「ちょっと。距離近くない?」
「そう? 友達ってこんなもんじゃない?」
「それが普通なの?」
「うーん? 普通ってのがわかんないけど。北村くんはいや?」
「全然いやじゃないです」
「あはは。なんで敬語なの」

 こんな美人な友達が腕を組んでくれるなんて経験、一生に一度しかないかもしれない。
 ちらと顔をあげると、ホームにいた数人と視線が合う。
 ニヤニヤと笑っている人もいれば、ぎょっとした表情を浮かべる人もいて、いつの間にか僕らは注目の的になっていたことに気づいた。
 気恥ずかしくて、僕は何度も帽子を被り直す。でも、嫌じゃない。
 むしろ、小気味がいい。これが優越感というかもしれない。

「ねえ、冬花ちゃん。僕たち......」

 恋人同士に見えるかな? と、調子づいたことを言おうとした寸前で、彼女の携帯電話が震えた。

「ごめん。ちょっとメッセージ返してもいいかな?」
「もちろん。気にしないで」

 冬花ちゃんは、するりと僕の腕から手を引き抜いた。
 そのまま、いそいそとズボンのポケットから携帯電話を取り出すと、アプリを起動して文字を打ち込み始める。
 危ない、危ない。つい有頂天になって、余計なことを言うところだった。
 他人のプライベートを覗き込むのも気が引けて、彼女から視線を逸らす。
 しかし、自分のトークスキルの無さに絶望する。
 冬花ちゃんの返信作業が終わったら、少し相談してみようか。彼女になら、本音を打ち明けることができるかもしれない。
 僕はそわそわと冬花ちゃんが携帯をポケットに戻すのを待った。
 しかし、いつになっても終わる様子がない。
 やがて滑り込んできた電車に乗り込み、最寄り駅に着いた。
 その間も彼女はずっと携帯をいじっていて、僕らは一切口を利かなかった。

 × × ×

 海岸は、思っていたよりも人が少なかった。

 そもそも、わざわざこの海岸にやってくる人たちは市外からの観光客が多いので、友達化している確率は低いだろう。
 地元の主婦たちは砂浜に立てたパラソルの下で子供を遊ばせていて、僕に気づいた様子はないし、サーフボードを抱えたサーファーたちは、波に夢中で他人のことなど眼中になさそうだ。
 最初こそ、誰かに声をかけられるんじゃないかとビクビクしていたが、その可能性が低いことがわかると、だんだん清々しくなってくる。

 僕らは暑い暑いと言いながら、波打ち際まで進んでいった。
 熱せられた砂浜は、スニーカーの靴族越しでもジンジンと足裏を灼く。
 じわじわと汗の粒が滲み、額から伝ってくる度、目にしみる。
 帽子の中が蒸されて、気持ちが悪い。人の目は気になるものの、不快感に堪えられなくて脱いだ。

「ここでいっか」

 冬花ちゃんはギリギリ波が届かないところで足を止めると、躊躇いなくトートバックを砂浜に敷き、その上に腰を下ろした。
 僕は一つしか持っていない鞄が砂まみれになるのが嫌で、直に座ろうとしたが、あまりにも砂が熱くて、すぐに鞄を尻の下に敷いた。

「北村くん、お酒ちょうだい」
「ああ、うん」

 僕は胸に抱いたレジ袋を砂浜の上に置いた。中には近くのコンビニで買った酒がたっぷり詰まっている。

「持ってくれてありがとう。......これだけじゃ、足りなかったかな?」
「十分すぎると思うけど」

 飲み直すとは言っても、せいぜい二、三缶かなと思っていたのに、袋の中には500mlの酒缶が10缶近く入っている。
 僕はその中でも一番アルコール度数が低い酒を選び取る。冬花ちゃんは唇に指を当てながら少し考えていたが、一番度数の高そうな酒を掴んだ。「乾杯」の言葉もなく、彼女は流れるようにプルタブを開けると、水でも飲むように一気に煽る。

 僕も一口飲んでみたが、アルコールの匂いだけでむせ返りそうだ。胃の中には、ビアガーデンで飲んだビールがしこたま溜まっている。
 喉を鳴らして飲み干す冬花ちゃんの姿を見ているだけで、気分が悪くなってきそうだ。
 缶の縁をぺろりと舐めただけで、そのまま足元に置く。

「はあ、海で飲むお酒はおいしい」

 すでに中身が半分以下になっていそうな缶を振りながら、冬花ちゃんはしみじみと呟いた。

「冬花ちゃんは、よく海に来るの?」
「うーん、気が向いたときに来る感じかな。......あ、ごめん。ちょっとメッセージ返してもいい?」

 僕が返事をする前に、彼女の手にはすでに携帯電話が握られている。

「北村くんの話は、ちゃんと聞いてるから」

 少し不満を感じたが、こんなことぐらいで文句を言って嫌われたくはない。
 ざぶん、ざぶんと豪快に寄せては返す波を見つめながら、僕は間を繋ぐ話題を必死に考える。

「波の音って、なんでこんなに落ち着くんだろうね」
「うん、そうだね」