放課後に寄った『Cafe Miracle』で、僕は深呼吸をした。僕の隣には、もじゃもじゃのフミヤ先輩が無言で座っており、そして目の前には何も知らされておらず、いまだ状況を理解できていない混乱気味のモモがいた。
「……あれ、もしかして今日って、『ただ三人で集まってお茶しよ~』って感じじゃ……ない、です?」
フミヤ先輩は深刻そうに「実は……そうなんだよね」とつぶやく。どうやら興味があるものにはどんな状況でも楽しんでしまう、先輩の悪い癖が出ているみたいだ。僕はこれ以上モモを脅かすのはかわいそうになって、
「えーと、僕たちからモモに報告があります」
と、話を切り出した。モモは真剣な僕とフミヤ先輩の態度を見て、ひどく身構えながら「え、何……」と視線をさまよわせる。
「このたび、フミヤ先輩と僕は……お付き合いすることとなりました」
言葉にした瞬間、頬が熱くなり、夢を見ているような感覚に襲われる。
昨日の放課後、僕とフミヤ先輩は恋人同士になった。自分自身もいまだに信じられないでいる事実をモモに伝えると、モモは驚いたような表情を浮かべて声を失う。
学校でも言えるタイミングはたくさんあったけれど、親友のモモにはきちんと僕とフミヤ先輩から報告がしたかった。
「……え、ほんとに?」
震える声で問いかけてくるモモに、フミヤ先輩は優しく「うん、ほんと」と微笑む。モモの興奮は収まる気配がない。目を丸くし、口をパクパクさせながら、次々と言葉を吐き出す。
「え、待って。さっちゃん、おめでとう! え、待って無理。なんでもっと早く言わないの!? もう、めっちゃビビったじゃん! え、待って、Wデート行こ! え、え、え、待って、やばい! 祝杯! え、待って、無理!」
まるで壊れたロボットのようだ。昨日の僕よりも、もしかしたら今のモモのほうが動揺しているかもしれない。僕の幸せを、こんなにも喜んでくれる友人がいることに、素直な感謝の気持ちが込み上げてくる。
「……やばい」
モモはぽつりとつぶやくと、今度は電池が切れたみたいに動かなくなった。心配して顔を覗き込む。モモはメイクが崩れるのも気にせず、涙をぽろぽろと流していた。感情の起伏が激しすぎる友人に、声を出して笑う。優しいフミヤ先輩は、すかさずモモにペーパーナプキンを渡していた。
「モモは感受性豊かすぎ。なんで泣いてんの」
僕の問いかけに、モモは鼻をすすりながら答えた。
「だって……ッ! ほんっとによかったねぇ、さっちゃん! なんかうち、ずっと、さっちゃんに恋人ができるなら、絶対百点満点……むしろ百点超えてくる男じゃないとやんねぇぞってオラついてたけどさ、フミヤ先輩なら全然
オッケーだし、むしろ早くもらってほしかったまである」
モモの言葉に、僕は心から同意した。隣にいるフミヤ先輩を見つめると、胸がキュンキュンしてしまう。本当に素晴らしい人と出会えたんだと、改めて実感していた。
「フミヤ先輩、さっちゃんのこと、よろしくお願いします」
モモはフミヤ先輩にぺこりと頭を下げた。
「うん、わかった。任せて、モモちゃん」
先輩はもじゃもじゃの前髪の奥で、涼しげな瞳を柔らかく細める。
「……ありがとね、モモ。いろいろ応援してくれて」
僕がうだうだと悩んで、心配をかけた時もたくさんあったけれど……。感謝の言葉を口にすると、モモは潤んだ瞳を輝かせて提案してきた。
「ふふ、お祝いしよー、さっちゃん。みんなでなんか食べましょー!」
僕は嬉しくなってうなずいた。そして、まだ笑いながら涙を流し続けるモモを見て、からかうように言う。
「ねー、泣くなって。モモの目が腫れたら、僕があさ子さんに怒られちゃうよ」
「こういう時くらいいいんだよ、幸朗ー。嬉しいんだから、泣かせろばかー」
僕たちは顔を見合わせて、ずっと笑い合っていた。そこに、エプロンを着けた三十代くらいの女性が慌てて駆け寄ってくる。
「フミヤ! せっかく寛いでるとこ、ほんとにごめん! 今、いい?」
「いいですけど……店長、どうしたんすか?」
どうやら彼女がこのカフェの店長らしい。モモと僕は目を丸くして、フミヤ先輩と店長を交互に見つめた。
「パートさん、子どもから風邪もらっちゃったみたいでさ。悪いんだけど、今からちょっとだけ、バイト出られる……?」
フミヤ先輩は店長にそう言われると、申し訳なさそうに僕のほうを振り向く。僕は先輩が言葉を発する前に、笑顔で言い放った。
「行ってください、先輩。僕、働いてる先輩を見るの大好きだから」
先輩はほっとしたように眉尻を下げる。
「ごめん、さっちゃん。モモちゃんも」
「ぜんぜん! またいつでも時間はありますし!」
モモの言葉に小さくフミヤ先輩はうなずき、さっと立ち上がった。手首につけたゴムを外し、いつものようにハーフアップに髪をセットする。もじゃもじゃだった先輩が、オンモードに変わる。カチッとスイッチが入った音が聞こえるみたいだった。
イケメンになった先輩は、「またあとでね、さっちゃん」と僕の耳にささやいてからカウンターへと向かう。カフェで働く先輩の姿は、やっぱりどうしようもなくかっこいい。
「もー、めちゃくちゃ好きじゃん、フミヤ先輩のこと!」
今度は僕がモモにからかわれる番だ。僕は真っ赤な顔でうなずいて、大好きなフミヤ先輩の後ろ姿を初めて会った時のようにずっと目で追っていた。
お昼休み。雲の隙間から眩しい夏の陽光が降り注ぐ屋上。空には澄み切った青空と入道雲。
僕とフミヤ先輩はいつもの指定席、給水タンクの影にふたり並んで座っている。あまりに熱かったら教室に戻って食べようと計画していたけれど、屋上に吹いている風は涼しくて、これなら大丈夫そうだと安堵する。
フミヤ先輩は手首につけていた髪ゴムを取り出し、僕のために髪をハーフアップにしてくれた。しかもヤキモチ焼きな僕のために、午後には髪型をもじゃもじゃに戻してくれるらしく、ちょっと……というか、かなり恋人に甘すぎるんじゃないかと思ってしまう。
この前だってそうだった。先輩を僕の家に招待した時の話だ。
夏の陽射しが強い午後、僕はフミヤ先輩を初めて自宅に招待した。玄関の扉を開けてエントランスホールに入ると、先輩は少し呆気にとられたようにつぶやく。
「さっちゃんち、めちゃくちゃでかいね。え……お城? さっちゃんキャッスル?」
先輩の感想を受け、少し照れくさくなる。たしかに、うちは一般的な家よりは大きいかもしれないけれど……。
「さすがにお城は大袈裟です」
笑いながら答えた僕は、先輩を家の中へ案内した。リビングルーム、庭のプール、書斎、ホームシアタールームにカラオケルーム、そしてランニングルームと順番に見せていく。それぞれの部屋に入るたびに、先輩の驚きの声が響く。案内を終えた最後、先輩はちょっと恐縮したように笑った。
「なんか、俺んちに招待したの申し訳なくなってきたわ」
先輩がさみしそうに笑うから、僕は少し焦ってしまった。そんな風に思わせるつもりじゃなかったのに。ぐっと唇を引き結び、先輩の指先に触れる。
「どうした、さっちゃん?」
「……そんなこと言わないでください。先輩が僕に教えてくれたように、僕も先輩に家のことを知ってもらいたかったんです。僕は、先輩の家に遊びに行けて、本当に嬉しかったので、……それだけはちゃんとわかってほしいです」
僕が真剣な表情で伝えると、先輩は僕の手を握り返して反省したように言った。
「あー、マジでごめん。今の発言はよくなかったね。俺も今日ここに来られてよかったし、さっちゃんに家に来てもらったのも、すげぇ嬉しかったよ」
ちゃんと言葉で伝えれば、先輩は僕の気持ちを受け取ってくれる。その強い信頼感とときめきは、ほかの誰にも感じられないことだ。
「それに、うちにはたこ焼き機がありませんし、たこ焼きを焼ける人間がひとりもいません」
「それは一大事だ。いつでも俺を呼んで」
「……ふふ。ねぇ、先輩、来てください。先輩に見せたいものがあるんです」
僕は彼を自分の部屋に連れていき、その日の目的だったものを見せた。若干緊張しながら、先輩の前に昔のアルバムを差し出す。
「えー、うれしい。俺に見せてくれるんだ、さっちゃん」
先輩は静かにアルバムをめくり始めた。一枚、一枚アルバムのページがめくられるたび、僕の緊張も増していく。
「うわ、ぷくぷくさっちゃんじゃん。想像以上にかわいいな、天使だ」
先輩が見ていたのは、オーバーオールを着て、ソフトクリームを食べている小学四年生の僕だった。じっとフミヤ先輩の表情を見据えたけれど、嘘を言っているようには見えない。どこかほっとして、僕は言った。
「この頃の僕は、マシュマロみたいな触り心地だったんですよ。前にも言いましたけど、この時はこの時で僕は自分のことが好きでした」
先輩はにこりと微笑み、
「へぇー触りてぇな。マシュマロのさっちゃん」
と、何の気なしに言った。先輩の言葉に、僕は思わず余計な想像をしてしまい、咳き込んでしまった。
先輩はおかしそうに笑って、「大丈夫?」と僕の背中をさする。
「……すみません。先輩の言葉が、なんかエッチに聞こえてしまって」
恥ずかしさと期待が入り混じった気持ちで、僕は正直に告白した。
「いや、そっちの意味に決まってるでしょ。そりゃあ、さっちゃん相手だもん」
先輩の爽やかな返事に、僕は内心で「さすがフミヤ先輩だ」と思わずにはいられなかった。こういう風に軽やかに言い退けるのが、貞文哉という人間なのだ。
その後、僕たちは部屋で少し……いや、たくさんキスをした。でも、それ以上進むことはなく、健全な時間を過ごせた、と思う。
帰り際、僕は先輩を両親に会わせた。うちのパパとママは世間的に言わせれば、かなりふくよかなタイプだ。でも、心が東京ドーム五十個分くらいに広すぎる先輩には、そんな事実はどうでもいいらしい。ママは僕の唇の形が、パパは僕の目の形がよく似ていると、楽しそうに話していた。
呆気にとられてしまうくらい、先輩はすぐにうちの両親に気に入られてしまった。さり気ない優しさと抜群のコミュニケーション能力。そういうところがオンモードの先輩の怖いところだ。懐が深すぎて、僕はいつか彼の心の中で溺れてしまうかもしれない。
屋上から見える空に、ゆっくりと雲が流れていく。僕はいつかの先輩の優しさを思い出しながら、興味津々になってフミヤ先輩に尋ねた。
「今日のお弁当はなんですか?」
先輩はもったいぶるように、にやりと口角を上げた。
「知りたい?」
「知りたいです! 早く、先輩」
「じゃじゃーん、今日のお弁当はヘルシーからあげ弁当でーす」
「……えっ!?」
弁当箱から漂う香ばしい匂いに、僕は思わず身を乗り出す。しかし、同時にかすかな不安も胸をよぎった。
「せ、先輩、これ」
「ほんとは世界で一番好きなんでしょ? 鶏胸だからカロリー控えめだよ、さっちゃん」
おいしそうなお弁当箱を覗いて、ぎゅっとフォークを握りしめる。
「一番大好きだけど、まだやっぱりちょっと怖いです。食べたら、またあの時の弱かった自分に戻っちゃうような気がして……」
好きなものを手放してしまった、過去の自分を思い出す。だけど、先輩の夏の空みたいにからりとした声が、僕の不安を打ち消してくれた。
「戻んないよ、さっちゃん。今の君は大丈夫。だめだったら言ってよ、俺が隣にいるから」
僕は笑ってうなずいた。たしかにそうだ、今の僕は違う。自分の好きなものがわかっているし、何より心強い恋人がいる。
「先輩、朝から僕のために揚げてくれたんですか……? こんな暑い中? 忙しいのに?」
「え、別にそんなたいしたことじゃないって」
「たいしたことですよ!」
僕の恋人は優秀すぎる。先輩への愛おしさで、泣いてしまいそうだ。
「フミヤ先輩、……先輩が食べさせてください」
僕はフォークを先輩に渡して、魅力的に見えるよう微笑んでみせた。実際にそう思われているかは知らない。先輩が笑ってくれればそれでいい。
「ははっ、あざと」
先輩は案の定、楽しそうに笑いながら、フォークにからあげを刺してゆっくりと僕の口に近づけた。
「あーん」
僕は大きく口を開け、からあげを頬張る。口の中に広がる懐かしい味。目を閉じて、久しぶりにじっくりと味わった。
「おいしい……。めちゃくちゃおいしいです……! 鶏胸なのにめちゃくちゃジューシー! 感動を覚えるレベルなんですけど! 先輩ってマジで天才!」
「よかった。さっちゃんが喜んでくれて」
先輩の優しいまなざしに包まれながら、僕は幸せを噛みしめる。青空の下、大好きな人と一緒に食べるお弁当、これ以上の幸せはきっとない。だからこそ、僕の心には小さな不安が芽生えていた。
「フミヤ先輩……」
「ん? 何?」
僕は姿勢を正し、フミヤ先輩と向き合った。周りの喧騒が遠く聞こえる中、ここではふたりだけの静かな時間が流れている。
「あの……僕といて無理してないですか? 先輩にたくさん優しくしてもらってるけど、僕は先輩に何も返してあげられてない気がします……」
言葉に詰まりながら、先輩の顔を見上げる。先輩は刹那の間、驚いたような表情を浮かべ、その後、心に染み入るような優しい笑顔を見せた。
「何言ってんの。全然無理してないって」
「……ほんとに?」
「ほんとほんと。俺の場合、やりたいこととやりたくないことが、ハッキリしてるだけだから。さっちゃんも俺の省エネ具合知ってんじゃん。やりたくないことはマジでなんもやってないよ。俺はいつもやりたいことしかできない」
先輩の言葉に、僕は少しだけ胸を撫で下ろした。たしかに、普段の先輩は驚くほど省エネな一面を見せることがある。でも、いつだって僕に対しては常に全力で向き合ってくれていた。嬉しさに顔がにやける。そんな僕の思いを察したのか、先輩は何か企みがあるような顔で笑った。
「でもさ」
「……でも?」
先輩の言葉に、僕は思わず身を乗り出す。
「お礼に、アレが欲しいかな」
「……アレ? なんですか?」
僕が戸惑いの表情を浮かべると、先輩は人差し指で僕の膝にちょこんと触れた。その仕草の意味を理解して笑みがこぼれる。
「そんなんでいいんですか?」
嬉しさと照れが混ざった声で言いながら、先輩に向かって膝を差し出した。
「どうぞ、お坊ちゃま」
「えぐい……メイドさん仕様じゃん。エッ――」
「『エッチだねおじさん』降臨させなくていいですから。先輩、早く」
「ははっ、じゃあ、遠慮なく」
先輩は長い足を伸ばして横になり、ゆっくりと僕の膝に頭を乗せた。その重みが、先輩の存在をより一層僕に実感させてくれる。
先輩の作ってくれたお弁当を手に取ると、幸せな気持ちに包まれていった。からあげの香ばしい匂いが鼻をくすぐる。もう一度、
「いただきます」
と、ありったけの感謝の気持ちを込めてからあげを頬張ると、先輩は笑いながら静かに目を閉じた。
屋上での幸せな時間が終わり、僕たちは非常階段を下りていた。先輩の作ってくれたからあげの味が、まだ口の中に残っている。その余韻に浸りながら、僕は階段を一段一段、軽快に下りていく。
先を歩いていた先輩が、ふと立ち止まって振り返った。その表情にはどこか楽しげな雰囲気が漂っている。
「ねぇ、さっちゃん。今度は鶏もも肉で作るから、揚げたて食べに来てよ。俺んちに」
先輩の誘いに、僕の心はますます躍った。
「行きたい! カンナちゃんとユキナちゃんにも会いたいです。あと先輩のママさんにも」
先輩のお母さんは無事に退院したらしい。怪我が治って一安心したのか、先輩の表情もいつもより明るい気がする。
浮かれた気分で階段を降りようとした瞬間、静かに手首を掴まれた。
「今度はする気あるし、する時はするけどね」
先輩の声は低く、少し掠れていた。その言葉の意味を理解するのに、少し時間を要する。
「……え」
目を細めた先輩を見つめ、僕は思わず息を呑んだ。先輩の部屋で聞いたあの時の言葉が、鮮明によみがえる。
――なんもする気ないけど、する時はするよ。でも、今はしない。
言葉の意味が染みわたり、僕の体温が一気に上昇する。頬が熱くなるのを感じながら、先輩の次の言葉を待った。
「もちろん焦るつもりはないよ。ほら、さっちゃんがたくさんからあげ食べられるように、運動もいろいろと付き合うよってことで」
実際には何もわかっていなかったけれど、
「……わ、わかりました」
僕はやっとの思いで返事をする。『いろいろと』の言葉の中にどんな行為が含まれているのか、今はまだ聞かないほうがいいだろう。
「はは、顔真っ赤」
「……ち、違います! これはチークです。ソフトモーヴピンクのやつ……」
明らかに嘘をついた僕を、先輩は決して咎めない。
「へぇ、ソフトモーヴピンク。初めて聞いた。何色なのそれ」
「くすみがかったピンクです。灰色がかった紫にピンクを足した感じ。上品で、甘くなりすぎない」
「うん、覚えた」
先輩は爽やかに笑いながら、僕の腰に手を伸ばした。驚いている間に、ぴったりと体が寄り添う距離まで引き寄せられ、僕は息が止まりそうになる。先輩が一段下にいるため、いつもより僕の目線が高くて、すぐ近くに先輩の瞳を感じられた。
「ソフトモーヴピンク色のさっちゃんがかわいいから、キスしたくなった。しちゃだめ?」
先輩はずるい。そんな風に優しく聞かれては、断る理由が見つからない。
「だ、誰も見てなかったら……いいですよ」
小さな声で答えると、先輩は周りを確認した。
「ん、大丈夫。誰もいない」
僕がこくりとうなずいたのを見て、先輩は軽く唇を重ねてきた。とても短い時間だったけれど、先輩の唇の感触がしっかりと僕の唇に刻まれる。
「先輩、なんか最近あざとくないですか……」
今でさえ大変なのに、これ以上好きにされては困ってしまう。唇を尖らせて僕が言うと、先輩はけらけらと笑った。
「そう? さっちゃんに似てきたかな」
返す言葉を失って、むっと唇を閉ざす。普段なら得意のあざとさを発揮できるはずなのに、今は顔を真っ赤にするばかりだ。
「俺のせいでリップとれたわ」
フミヤ先輩は躊躇なく僕の巾着袋に手を伸ばし、リップを取り出した。その自然な仕草に、僕は少し驚きつつも、先輩のされるがままになっている。
「こういうこと、今井にさせてない?」
僕の唇にリップを塗りながら、先輩が言う。
「……させてないです。どうして今井が出てくるんですか」
「さて、どうしてでしょうか」
先輩は逆に問いかけてくると、「これは何色?」とさらに尋ねてきた。
「コーラルピンクです」
「いい色だね」
以前塗ってくれた時より、少し手慣れてきたような気がする。あの時も、今も、指先から感じる優しさは変わらないけれど。
「よし、できた。似合うよ、さっちゃん」
僕は急に怖くなってしまった。先輩の制服のシャツを小さく握り、感謝より先に抗議の声を上げる。
「そうやって甘やかすの、やめてください! ……い、いつか先輩がいないとだめな人間になりそうで怖いです!」
こっちは真剣に悩んでいるのに、先輩はさらりと返す。
「なんで? なっちゃえばいいじゃん」
なんてことないように重いことを言い始めた先輩に、僕は呆気にとられて目を丸くした。
「言ったでしょ、重いって。さっちゃんはそういうの嫌い?」
そんなの決まってる。悔しさを隠しきれず、僕はつぶやく。
「……大好き、です」
「よかった」
先輩はにっこりと笑うと、ハーフアップにしていたゴムをするりと外した。整った髪型から、もじゃもじゃのフミヤ先輩に戻る。
「俺としては大歓迎なんだけどさ。でも、たぶんさっちゃんは、そういう人間にはなんないよ。自分で前に進む勇気がある人だから。かっこいいよね、ほんと」
かわいいはいくらでもあるけれど、先輩にかっこいいと言われたのは初めてだ。
「俺は、君のそういうとこにも惚れてる」
目頭が熱くなるくらい先輩の言葉は嬉しかった。
もう僕はだめだ。もじゃもじゃの髪だってなんだって、先輩がかっこよく見えて仕方ない。
賑やかな廊下をふたりで歩きながら、僕は先輩を横目で見続けていた。その視線に気づいたのか、先輩がささやくように言う。
「そんなに見てたら、またキスしちゃうよ、さっちゃん」
優しさと少しのいたずら心が混ざっているような先輩の笑顔。
「い、今はだめです……人がいるから。ぜ、絶対にだめ!」
僕の慌てた様子に、先輩は楽しそうに口角を上げた。
「我慢できるよ、俺。君より年上だから」
「……年齢関係ないし」
「ふたりっきりの時にさせて、たくさん」
やっぱり、先輩は僕に似てきている。ポケットに片手を突っ込んで歩く先輩の姿を僕はぎりぎりと睨みつけながら、先輩のあとを追う。
「夏休み、どこ行こうか、さっちゃん」
「あ、僕! 先輩と行きたいところ、たくさんあります! 動物園でしょ、水族館でしょ、あとプールに、……そうだ、モモの恋人のあさ子さんともWデートしたいです!」
僕の熱心な様子に、先輩が肩を揺らして笑った。
「じゃあ、まずは初デートしよう。どこがいい?」
フミヤ先輩と初デート。その言葉に、僕の胸がぎゅっと締め付けられる。長年の夢が、今まさに現実になろうとしている。
「実は僕、……ずっと好きな人と一緒に行きたかったところがあって……」
夏の陽気が教室の窓から差し込み、蝉の鳴き声が遠くに聞こえる。僕は胸がはちきれそうな幸せを抱えながら、教室に戻ってきた。
――花火大会? 俺もさっちゃんと行きたい。じゃあ、やくそく。
フミヤ先輩の優しい声が、まだ耳元で響いているようだった。
「モモ!」
真っ先に親友であるモモに駆け寄り、興奮気味に報告する。モモは「やったね!」と、強く僕に抱きついてきた。長く抱擁を交わしたあと、自分の席に戻る。鼻歌を歌いながら授業の準備をしていると、隣の席から声をかけられた。
「なぁなぁ」
横を向けば、今井が真剣な顔でこちらを見ている。
「さっちゃん、もしかしてフミヤ先輩と……付き合ってたりする?」
今井の言葉に、僕は思わずドキリとした。自分の顔が熱くなるのを感じる。どう誤魔化そうか一瞬考えたけれど、今井はいつも僕に親切にしてくれるいいやつだ。嘘をつくのは申し訳ない気がした。
「うん……そう。実はこの前から、フミヤ先輩と付き合ってるんだよね」
言葉にした途端、改めて幸せな気持ちが込み上げてきた。でも、同時に少し不安も感じる。
「てか僕、そんなに浮かれてるかな? やばい? 顔にフミヤ先輩好き好きオーラ出まくってる?」
両頬を手で挟みながら聞くと、今井は少し困ったような表情を浮かべた。
「出まくってるっつうか、俺、言われたんだよね、フミヤ先輩に」
「……え? 何を?」
「文化祭の時、フミヤ先輩がメイド喫茶に来てくれただろ?」
「う、うん……」
あの時のことを思い出す。フミヤ先輩と今井が妙に親しげに話していて、僕は嫉妬していたのだ。
「フミヤ先輩にそん時、肩を掴まれて『俺、さっちゃんのこと好きだから、応援してね』って」
「……は?」
今井の言葉は、まるでスローモーションのように僕の耳に届いた。脳が情報を処理しきれず、数十秒ほど固まってしまう。やがて、その言葉の意味が理解できた瞬間、僕の中で何かが爆発したような感覚があった。顔が真っ赤になり、心臓が激しく鼓動を打つ。
「ちょ、ちょっと待って! フミヤ先輩が、そんなこと言ったの!?」
僕の声が裏返る。今井は少し驚いたように僕を見つめている。
「うん、そうだよ。俺も驚いたけど……やっぱ、さっちゃん、知らなかった?」
「全然知るわけない……」
僕は呆然とした。フミヤ先輩が、そんなことを言っていたなんて。だとすれば、今井への嫉妬は、まったくの見当違いだったのだ。
「え、ごめん、さっちゃん。俺、もっと早く言えば良かった!?」
「……いい、大丈夫。マジで気にしないで、今井」
かわいい。愛おしい。今すぐ先輩のところに行ってぎゅっとしてあげたい。込み上げてくる愛しさが、笑い声になって口から漏れる。
「さっちゃん、あのさ」
今井は少し言いにくそうに、口ごもりながら続けた。
「たぶん……つうか、絶対俺、フミヤ先輩に嫉妬されてると思うんだよね。でも、マジでさっちゃんのことは大事な友達だと思ってるから、なんつうか配慮して離れるのもさみしいじゃん!?」
自分は人の気持ちに敏感なほうだと思っていたけれど、どうやらそうでもないらしい。今井に発したフミヤ先輩の言葉をひとつひとつ吟味していくと、なんだかくすぐったいような思いが湧き上がってくる。
僕は今井のほうを向き、にこりと笑って言った。
「普段どおりでいいよ。先輩もそこは気にしてないと思う」
「よかったー」
今井の表情が、まるで重荷を下ろしたかのように和らいだ。
「さっちゃん、改めましておめでとう」
「……ありがと!」
教室の喧騒の中、僕はスマホを取り出した。隠しきれない笑顔をたたえ、フミヤ先輩にラインを送る。
『フミヤ先輩、ずっと今井に嫉妬してたんですか?』
すぐに返信が来た。
『ようやくわかったの? 遅いよ、さっちゃん』
『今井はいいやつですよ』
『あー、またそういうこと言う』
『あと申し訳ないけど、今井は僕の趣味じゃないです』
『君の趣味は?』
『さだふみや』
『偶然、俺もその名前だ。付き合お、さっちゃん』
冗談めいた先輩の告白が、僕の胸を嬉しさで満たしていく。その時、またスマホが振動した。
『今井にごめんねって言っといて』『でもさっちゃんは俺の恋人だからよろしく』
立て続けに来たメッセージを見て、思わず笑う。どうせ僕はフミヤ先輩しか見えていないというのに。そのあと、またスマホが震え、僕は驚きのあまり、大声を出しそうになってしまった。
『もうひとつ、さっちゃんにネタばらし。実は俺さ、初めて会った時、さっちゃんがかわい過ぎて、パフェの名前ど忘れしたんだよね。知ってた?』
「……あれ、もしかして今日って、『ただ三人で集まってお茶しよ~』って感じじゃ……ない、です?」
フミヤ先輩は深刻そうに「実は……そうなんだよね」とつぶやく。どうやら興味があるものにはどんな状況でも楽しんでしまう、先輩の悪い癖が出ているみたいだ。僕はこれ以上モモを脅かすのはかわいそうになって、
「えーと、僕たちからモモに報告があります」
と、話を切り出した。モモは真剣な僕とフミヤ先輩の態度を見て、ひどく身構えながら「え、何……」と視線をさまよわせる。
「このたび、フミヤ先輩と僕は……お付き合いすることとなりました」
言葉にした瞬間、頬が熱くなり、夢を見ているような感覚に襲われる。
昨日の放課後、僕とフミヤ先輩は恋人同士になった。自分自身もいまだに信じられないでいる事実をモモに伝えると、モモは驚いたような表情を浮かべて声を失う。
学校でも言えるタイミングはたくさんあったけれど、親友のモモにはきちんと僕とフミヤ先輩から報告がしたかった。
「……え、ほんとに?」
震える声で問いかけてくるモモに、フミヤ先輩は優しく「うん、ほんと」と微笑む。モモの興奮は収まる気配がない。目を丸くし、口をパクパクさせながら、次々と言葉を吐き出す。
「え、待って。さっちゃん、おめでとう! え、待って無理。なんでもっと早く言わないの!? もう、めっちゃビビったじゃん! え、待って、Wデート行こ! え、え、え、待って、やばい! 祝杯! え、待って、無理!」
まるで壊れたロボットのようだ。昨日の僕よりも、もしかしたら今のモモのほうが動揺しているかもしれない。僕の幸せを、こんなにも喜んでくれる友人がいることに、素直な感謝の気持ちが込み上げてくる。
「……やばい」
モモはぽつりとつぶやくと、今度は電池が切れたみたいに動かなくなった。心配して顔を覗き込む。モモはメイクが崩れるのも気にせず、涙をぽろぽろと流していた。感情の起伏が激しすぎる友人に、声を出して笑う。優しいフミヤ先輩は、すかさずモモにペーパーナプキンを渡していた。
「モモは感受性豊かすぎ。なんで泣いてんの」
僕の問いかけに、モモは鼻をすすりながら答えた。
「だって……ッ! ほんっとによかったねぇ、さっちゃん! なんかうち、ずっと、さっちゃんに恋人ができるなら、絶対百点満点……むしろ百点超えてくる男じゃないとやんねぇぞってオラついてたけどさ、フミヤ先輩なら全然
オッケーだし、むしろ早くもらってほしかったまである」
モモの言葉に、僕は心から同意した。隣にいるフミヤ先輩を見つめると、胸がキュンキュンしてしまう。本当に素晴らしい人と出会えたんだと、改めて実感していた。
「フミヤ先輩、さっちゃんのこと、よろしくお願いします」
モモはフミヤ先輩にぺこりと頭を下げた。
「うん、わかった。任せて、モモちゃん」
先輩はもじゃもじゃの前髪の奥で、涼しげな瞳を柔らかく細める。
「……ありがとね、モモ。いろいろ応援してくれて」
僕がうだうだと悩んで、心配をかけた時もたくさんあったけれど……。感謝の言葉を口にすると、モモは潤んだ瞳を輝かせて提案してきた。
「ふふ、お祝いしよー、さっちゃん。みんなでなんか食べましょー!」
僕は嬉しくなってうなずいた。そして、まだ笑いながら涙を流し続けるモモを見て、からかうように言う。
「ねー、泣くなって。モモの目が腫れたら、僕があさ子さんに怒られちゃうよ」
「こういう時くらいいいんだよ、幸朗ー。嬉しいんだから、泣かせろばかー」
僕たちは顔を見合わせて、ずっと笑い合っていた。そこに、エプロンを着けた三十代くらいの女性が慌てて駆け寄ってくる。
「フミヤ! せっかく寛いでるとこ、ほんとにごめん! 今、いい?」
「いいですけど……店長、どうしたんすか?」
どうやら彼女がこのカフェの店長らしい。モモと僕は目を丸くして、フミヤ先輩と店長を交互に見つめた。
「パートさん、子どもから風邪もらっちゃったみたいでさ。悪いんだけど、今からちょっとだけ、バイト出られる……?」
フミヤ先輩は店長にそう言われると、申し訳なさそうに僕のほうを振り向く。僕は先輩が言葉を発する前に、笑顔で言い放った。
「行ってください、先輩。僕、働いてる先輩を見るの大好きだから」
先輩はほっとしたように眉尻を下げる。
「ごめん、さっちゃん。モモちゃんも」
「ぜんぜん! またいつでも時間はありますし!」
モモの言葉に小さくフミヤ先輩はうなずき、さっと立ち上がった。手首につけたゴムを外し、いつものようにハーフアップに髪をセットする。もじゃもじゃだった先輩が、オンモードに変わる。カチッとスイッチが入った音が聞こえるみたいだった。
イケメンになった先輩は、「またあとでね、さっちゃん」と僕の耳にささやいてからカウンターへと向かう。カフェで働く先輩の姿は、やっぱりどうしようもなくかっこいい。
「もー、めちゃくちゃ好きじゃん、フミヤ先輩のこと!」
今度は僕がモモにからかわれる番だ。僕は真っ赤な顔でうなずいて、大好きなフミヤ先輩の後ろ姿を初めて会った時のようにずっと目で追っていた。
お昼休み。雲の隙間から眩しい夏の陽光が降り注ぐ屋上。空には澄み切った青空と入道雲。
僕とフミヤ先輩はいつもの指定席、給水タンクの影にふたり並んで座っている。あまりに熱かったら教室に戻って食べようと計画していたけれど、屋上に吹いている風は涼しくて、これなら大丈夫そうだと安堵する。
フミヤ先輩は手首につけていた髪ゴムを取り出し、僕のために髪をハーフアップにしてくれた。しかもヤキモチ焼きな僕のために、午後には髪型をもじゃもじゃに戻してくれるらしく、ちょっと……というか、かなり恋人に甘すぎるんじゃないかと思ってしまう。
この前だってそうだった。先輩を僕の家に招待した時の話だ。
夏の陽射しが強い午後、僕はフミヤ先輩を初めて自宅に招待した。玄関の扉を開けてエントランスホールに入ると、先輩は少し呆気にとられたようにつぶやく。
「さっちゃんち、めちゃくちゃでかいね。え……お城? さっちゃんキャッスル?」
先輩の感想を受け、少し照れくさくなる。たしかに、うちは一般的な家よりは大きいかもしれないけれど……。
「さすがにお城は大袈裟です」
笑いながら答えた僕は、先輩を家の中へ案内した。リビングルーム、庭のプール、書斎、ホームシアタールームにカラオケルーム、そしてランニングルームと順番に見せていく。それぞれの部屋に入るたびに、先輩の驚きの声が響く。案内を終えた最後、先輩はちょっと恐縮したように笑った。
「なんか、俺んちに招待したの申し訳なくなってきたわ」
先輩がさみしそうに笑うから、僕は少し焦ってしまった。そんな風に思わせるつもりじゃなかったのに。ぐっと唇を引き結び、先輩の指先に触れる。
「どうした、さっちゃん?」
「……そんなこと言わないでください。先輩が僕に教えてくれたように、僕も先輩に家のことを知ってもらいたかったんです。僕は、先輩の家に遊びに行けて、本当に嬉しかったので、……それだけはちゃんとわかってほしいです」
僕が真剣な表情で伝えると、先輩は僕の手を握り返して反省したように言った。
「あー、マジでごめん。今の発言はよくなかったね。俺も今日ここに来られてよかったし、さっちゃんに家に来てもらったのも、すげぇ嬉しかったよ」
ちゃんと言葉で伝えれば、先輩は僕の気持ちを受け取ってくれる。その強い信頼感とときめきは、ほかの誰にも感じられないことだ。
「それに、うちにはたこ焼き機がありませんし、たこ焼きを焼ける人間がひとりもいません」
「それは一大事だ。いつでも俺を呼んで」
「……ふふ。ねぇ、先輩、来てください。先輩に見せたいものがあるんです」
僕は彼を自分の部屋に連れていき、その日の目的だったものを見せた。若干緊張しながら、先輩の前に昔のアルバムを差し出す。
「えー、うれしい。俺に見せてくれるんだ、さっちゃん」
先輩は静かにアルバムをめくり始めた。一枚、一枚アルバムのページがめくられるたび、僕の緊張も増していく。
「うわ、ぷくぷくさっちゃんじゃん。想像以上にかわいいな、天使だ」
先輩が見ていたのは、オーバーオールを着て、ソフトクリームを食べている小学四年生の僕だった。じっとフミヤ先輩の表情を見据えたけれど、嘘を言っているようには見えない。どこかほっとして、僕は言った。
「この頃の僕は、マシュマロみたいな触り心地だったんですよ。前にも言いましたけど、この時はこの時で僕は自分のことが好きでした」
先輩はにこりと微笑み、
「へぇー触りてぇな。マシュマロのさっちゃん」
と、何の気なしに言った。先輩の言葉に、僕は思わず余計な想像をしてしまい、咳き込んでしまった。
先輩はおかしそうに笑って、「大丈夫?」と僕の背中をさする。
「……すみません。先輩の言葉が、なんかエッチに聞こえてしまって」
恥ずかしさと期待が入り混じった気持ちで、僕は正直に告白した。
「いや、そっちの意味に決まってるでしょ。そりゃあ、さっちゃん相手だもん」
先輩の爽やかな返事に、僕は内心で「さすがフミヤ先輩だ」と思わずにはいられなかった。こういう風に軽やかに言い退けるのが、貞文哉という人間なのだ。
その後、僕たちは部屋で少し……いや、たくさんキスをした。でも、それ以上進むことはなく、健全な時間を過ごせた、と思う。
帰り際、僕は先輩を両親に会わせた。うちのパパとママは世間的に言わせれば、かなりふくよかなタイプだ。でも、心が東京ドーム五十個分くらいに広すぎる先輩には、そんな事実はどうでもいいらしい。ママは僕の唇の形が、パパは僕の目の形がよく似ていると、楽しそうに話していた。
呆気にとられてしまうくらい、先輩はすぐにうちの両親に気に入られてしまった。さり気ない優しさと抜群のコミュニケーション能力。そういうところがオンモードの先輩の怖いところだ。懐が深すぎて、僕はいつか彼の心の中で溺れてしまうかもしれない。
屋上から見える空に、ゆっくりと雲が流れていく。僕はいつかの先輩の優しさを思い出しながら、興味津々になってフミヤ先輩に尋ねた。
「今日のお弁当はなんですか?」
先輩はもったいぶるように、にやりと口角を上げた。
「知りたい?」
「知りたいです! 早く、先輩」
「じゃじゃーん、今日のお弁当はヘルシーからあげ弁当でーす」
「……えっ!?」
弁当箱から漂う香ばしい匂いに、僕は思わず身を乗り出す。しかし、同時にかすかな不安も胸をよぎった。
「せ、先輩、これ」
「ほんとは世界で一番好きなんでしょ? 鶏胸だからカロリー控えめだよ、さっちゃん」
おいしそうなお弁当箱を覗いて、ぎゅっとフォークを握りしめる。
「一番大好きだけど、まだやっぱりちょっと怖いです。食べたら、またあの時の弱かった自分に戻っちゃうような気がして……」
好きなものを手放してしまった、過去の自分を思い出す。だけど、先輩の夏の空みたいにからりとした声が、僕の不安を打ち消してくれた。
「戻んないよ、さっちゃん。今の君は大丈夫。だめだったら言ってよ、俺が隣にいるから」
僕は笑ってうなずいた。たしかにそうだ、今の僕は違う。自分の好きなものがわかっているし、何より心強い恋人がいる。
「先輩、朝から僕のために揚げてくれたんですか……? こんな暑い中? 忙しいのに?」
「え、別にそんなたいしたことじゃないって」
「たいしたことですよ!」
僕の恋人は優秀すぎる。先輩への愛おしさで、泣いてしまいそうだ。
「フミヤ先輩、……先輩が食べさせてください」
僕はフォークを先輩に渡して、魅力的に見えるよう微笑んでみせた。実際にそう思われているかは知らない。先輩が笑ってくれればそれでいい。
「ははっ、あざと」
先輩は案の定、楽しそうに笑いながら、フォークにからあげを刺してゆっくりと僕の口に近づけた。
「あーん」
僕は大きく口を開け、からあげを頬張る。口の中に広がる懐かしい味。目を閉じて、久しぶりにじっくりと味わった。
「おいしい……。めちゃくちゃおいしいです……! 鶏胸なのにめちゃくちゃジューシー! 感動を覚えるレベルなんですけど! 先輩ってマジで天才!」
「よかった。さっちゃんが喜んでくれて」
先輩の優しいまなざしに包まれながら、僕は幸せを噛みしめる。青空の下、大好きな人と一緒に食べるお弁当、これ以上の幸せはきっとない。だからこそ、僕の心には小さな不安が芽生えていた。
「フミヤ先輩……」
「ん? 何?」
僕は姿勢を正し、フミヤ先輩と向き合った。周りの喧騒が遠く聞こえる中、ここではふたりだけの静かな時間が流れている。
「あの……僕といて無理してないですか? 先輩にたくさん優しくしてもらってるけど、僕は先輩に何も返してあげられてない気がします……」
言葉に詰まりながら、先輩の顔を見上げる。先輩は刹那の間、驚いたような表情を浮かべ、その後、心に染み入るような優しい笑顔を見せた。
「何言ってんの。全然無理してないって」
「……ほんとに?」
「ほんとほんと。俺の場合、やりたいこととやりたくないことが、ハッキリしてるだけだから。さっちゃんも俺の省エネ具合知ってんじゃん。やりたくないことはマジでなんもやってないよ。俺はいつもやりたいことしかできない」
先輩の言葉に、僕は少しだけ胸を撫で下ろした。たしかに、普段の先輩は驚くほど省エネな一面を見せることがある。でも、いつだって僕に対しては常に全力で向き合ってくれていた。嬉しさに顔がにやける。そんな僕の思いを察したのか、先輩は何か企みがあるような顔で笑った。
「でもさ」
「……でも?」
先輩の言葉に、僕は思わず身を乗り出す。
「お礼に、アレが欲しいかな」
「……アレ? なんですか?」
僕が戸惑いの表情を浮かべると、先輩は人差し指で僕の膝にちょこんと触れた。その仕草の意味を理解して笑みがこぼれる。
「そんなんでいいんですか?」
嬉しさと照れが混ざった声で言いながら、先輩に向かって膝を差し出した。
「どうぞ、お坊ちゃま」
「えぐい……メイドさん仕様じゃん。エッ――」
「『エッチだねおじさん』降臨させなくていいですから。先輩、早く」
「ははっ、じゃあ、遠慮なく」
先輩は長い足を伸ばして横になり、ゆっくりと僕の膝に頭を乗せた。その重みが、先輩の存在をより一層僕に実感させてくれる。
先輩の作ってくれたお弁当を手に取ると、幸せな気持ちに包まれていった。からあげの香ばしい匂いが鼻をくすぐる。もう一度、
「いただきます」
と、ありったけの感謝の気持ちを込めてからあげを頬張ると、先輩は笑いながら静かに目を閉じた。
屋上での幸せな時間が終わり、僕たちは非常階段を下りていた。先輩の作ってくれたからあげの味が、まだ口の中に残っている。その余韻に浸りながら、僕は階段を一段一段、軽快に下りていく。
先を歩いていた先輩が、ふと立ち止まって振り返った。その表情にはどこか楽しげな雰囲気が漂っている。
「ねぇ、さっちゃん。今度は鶏もも肉で作るから、揚げたて食べに来てよ。俺んちに」
先輩の誘いに、僕の心はますます躍った。
「行きたい! カンナちゃんとユキナちゃんにも会いたいです。あと先輩のママさんにも」
先輩のお母さんは無事に退院したらしい。怪我が治って一安心したのか、先輩の表情もいつもより明るい気がする。
浮かれた気分で階段を降りようとした瞬間、静かに手首を掴まれた。
「今度はする気あるし、する時はするけどね」
先輩の声は低く、少し掠れていた。その言葉の意味を理解するのに、少し時間を要する。
「……え」
目を細めた先輩を見つめ、僕は思わず息を呑んだ。先輩の部屋で聞いたあの時の言葉が、鮮明によみがえる。
――なんもする気ないけど、する時はするよ。でも、今はしない。
言葉の意味が染みわたり、僕の体温が一気に上昇する。頬が熱くなるのを感じながら、先輩の次の言葉を待った。
「もちろん焦るつもりはないよ。ほら、さっちゃんがたくさんからあげ食べられるように、運動もいろいろと付き合うよってことで」
実際には何もわかっていなかったけれど、
「……わ、わかりました」
僕はやっとの思いで返事をする。『いろいろと』の言葉の中にどんな行為が含まれているのか、今はまだ聞かないほうがいいだろう。
「はは、顔真っ赤」
「……ち、違います! これはチークです。ソフトモーヴピンクのやつ……」
明らかに嘘をついた僕を、先輩は決して咎めない。
「へぇ、ソフトモーヴピンク。初めて聞いた。何色なのそれ」
「くすみがかったピンクです。灰色がかった紫にピンクを足した感じ。上品で、甘くなりすぎない」
「うん、覚えた」
先輩は爽やかに笑いながら、僕の腰に手を伸ばした。驚いている間に、ぴったりと体が寄り添う距離まで引き寄せられ、僕は息が止まりそうになる。先輩が一段下にいるため、いつもより僕の目線が高くて、すぐ近くに先輩の瞳を感じられた。
「ソフトモーヴピンク色のさっちゃんがかわいいから、キスしたくなった。しちゃだめ?」
先輩はずるい。そんな風に優しく聞かれては、断る理由が見つからない。
「だ、誰も見てなかったら……いいですよ」
小さな声で答えると、先輩は周りを確認した。
「ん、大丈夫。誰もいない」
僕がこくりとうなずいたのを見て、先輩は軽く唇を重ねてきた。とても短い時間だったけれど、先輩の唇の感触がしっかりと僕の唇に刻まれる。
「先輩、なんか最近あざとくないですか……」
今でさえ大変なのに、これ以上好きにされては困ってしまう。唇を尖らせて僕が言うと、先輩はけらけらと笑った。
「そう? さっちゃんに似てきたかな」
返す言葉を失って、むっと唇を閉ざす。普段なら得意のあざとさを発揮できるはずなのに、今は顔を真っ赤にするばかりだ。
「俺のせいでリップとれたわ」
フミヤ先輩は躊躇なく僕の巾着袋に手を伸ばし、リップを取り出した。その自然な仕草に、僕は少し驚きつつも、先輩のされるがままになっている。
「こういうこと、今井にさせてない?」
僕の唇にリップを塗りながら、先輩が言う。
「……させてないです。どうして今井が出てくるんですか」
「さて、どうしてでしょうか」
先輩は逆に問いかけてくると、「これは何色?」とさらに尋ねてきた。
「コーラルピンクです」
「いい色だね」
以前塗ってくれた時より、少し手慣れてきたような気がする。あの時も、今も、指先から感じる優しさは変わらないけれど。
「よし、できた。似合うよ、さっちゃん」
僕は急に怖くなってしまった。先輩の制服のシャツを小さく握り、感謝より先に抗議の声を上げる。
「そうやって甘やかすの、やめてください! ……い、いつか先輩がいないとだめな人間になりそうで怖いです!」
こっちは真剣に悩んでいるのに、先輩はさらりと返す。
「なんで? なっちゃえばいいじゃん」
なんてことないように重いことを言い始めた先輩に、僕は呆気にとられて目を丸くした。
「言ったでしょ、重いって。さっちゃんはそういうの嫌い?」
そんなの決まってる。悔しさを隠しきれず、僕はつぶやく。
「……大好き、です」
「よかった」
先輩はにっこりと笑うと、ハーフアップにしていたゴムをするりと外した。整った髪型から、もじゃもじゃのフミヤ先輩に戻る。
「俺としては大歓迎なんだけどさ。でも、たぶんさっちゃんは、そういう人間にはなんないよ。自分で前に進む勇気がある人だから。かっこいいよね、ほんと」
かわいいはいくらでもあるけれど、先輩にかっこいいと言われたのは初めてだ。
「俺は、君のそういうとこにも惚れてる」
目頭が熱くなるくらい先輩の言葉は嬉しかった。
もう僕はだめだ。もじゃもじゃの髪だってなんだって、先輩がかっこよく見えて仕方ない。
賑やかな廊下をふたりで歩きながら、僕は先輩を横目で見続けていた。その視線に気づいたのか、先輩がささやくように言う。
「そんなに見てたら、またキスしちゃうよ、さっちゃん」
優しさと少しのいたずら心が混ざっているような先輩の笑顔。
「い、今はだめです……人がいるから。ぜ、絶対にだめ!」
僕の慌てた様子に、先輩は楽しそうに口角を上げた。
「我慢できるよ、俺。君より年上だから」
「……年齢関係ないし」
「ふたりっきりの時にさせて、たくさん」
やっぱり、先輩は僕に似てきている。ポケットに片手を突っ込んで歩く先輩の姿を僕はぎりぎりと睨みつけながら、先輩のあとを追う。
「夏休み、どこ行こうか、さっちゃん」
「あ、僕! 先輩と行きたいところ、たくさんあります! 動物園でしょ、水族館でしょ、あとプールに、……そうだ、モモの恋人のあさ子さんともWデートしたいです!」
僕の熱心な様子に、先輩が肩を揺らして笑った。
「じゃあ、まずは初デートしよう。どこがいい?」
フミヤ先輩と初デート。その言葉に、僕の胸がぎゅっと締め付けられる。長年の夢が、今まさに現実になろうとしている。
「実は僕、……ずっと好きな人と一緒に行きたかったところがあって……」
夏の陽気が教室の窓から差し込み、蝉の鳴き声が遠くに聞こえる。僕は胸がはちきれそうな幸せを抱えながら、教室に戻ってきた。
――花火大会? 俺もさっちゃんと行きたい。じゃあ、やくそく。
フミヤ先輩の優しい声が、まだ耳元で響いているようだった。
「モモ!」
真っ先に親友であるモモに駆け寄り、興奮気味に報告する。モモは「やったね!」と、強く僕に抱きついてきた。長く抱擁を交わしたあと、自分の席に戻る。鼻歌を歌いながら授業の準備をしていると、隣の席から声をかけられた。
「なぁなぁ」
横を向けば、今井が真剣な顔でこちらを見ている。
「さっちゃん、もしかしてフミヤ先輩と……付き合ってたりする?」
今井の言葉に、僕は思わずドキリとした。自分の顔が熱くなるのを感じる。どう誤魔化そうか一瞬考えたけれど、今井はいつも僕に親切にしてくれるいいやつだ。嘘をつくのは申し訳ない気がした。
「うん……そう。実はこの前から、フミヤ先輩と付き合ってるんだよね」
言葉にした途端、改めて幸せな気持ちが込み上げてきた。でも、同時に少し不安も感じる。
「てか僕、そんなに浮かれてるかな? やばい? 顔にフミヤ先輩好き好きオーラ出まくってる?」
両頬を手で挟みながら聞くと、今井は少し困ったような表情を浮かべた。
「出まくってるっつうか、俺、言われたんだよね、フミヤ先輩に」
「……え? 何を?」
「文化祭の時、フミヤ先輩がメイド喫茶に来てくれただろ?」
「う、うん……」
あの時のことを思い出す。フミヤ先輩と今井が妙に親しげに話していて、僕は嫉妬していたのだ。
「フミヤ先輩にそん時、肩を掴まれて『俺、さっちゃんのこと好きだから、応援してね』って」
「……は?」
今井の言葉は、まるでスローモーションのように僕の耳に届いた。脳が情報を処理しきれず、数十秒ほど固まってしまう。やがて、その言葉の意味が理解できた瞬間、僕の中で何かが爆発したような感覚があった。顔が真っ赤になり、心臓が激しく鼓動を打つ。
「ちょ、ちょっと待って! フミヤ先輩が、そんなこと言ったの!?」
僕の声が裏返る。今井は少し驚いたように僕を見つめている。
「うん、そうだよ。俺も驚いたけど……やっぱ、さっちゃん、知らなかった?」
「全然知るわけない……」
僕は呆然とした。フミヤ先輩が、そんなことを言っていたなんて。だとすれば、今井への嫉妬は、まったくの見当違いだったのだ。
「え、ごめん、さっちゃん。俺、もっと早く言えば良かった!?」
「……いい、大丈夫。マジで気にしないで、今井」
かわいい。愛おしい。今すぐ先輩のところに行ってぎゅっとしてあげたい。込み上げてくる愛しさが、笑い声になって口から漏れる。
「さっちゃん、あのさ」
今井は少し言いにくそうに、口ごもりながら続けた。
「たぶん……つうか、絶対俺、フミヤ先輩に嫉妬されてると思うんだよね。でも、マジでさっちゃんのことは大事な友達だと思ってるから、なんつうか配慮して離れるのもさみしいじゃん!?」
自分は人の気持ちに敏感なほうだと思っていたけれど、どうやらそうでもないらしい。今井に発したフミヤ先輩の言葉をひとつひとつ吟味していくと、なんだかくすぐったいような思いが湧き上がってくる。
僕は今井のほうを向き、にこりと笑って言った。
「普段どおりでいいよ。先輩もそこは気にしてないと思う」
「よかったー」
今井の表情が、まるで重荷を下ろしたかのように和らいだ。
「さっちゃん、改めましておめでとう」
「……ありがと!」
教室の喧騒の中、僕はスマホを取り出した。隠しきれない笑顔をたたえ、フミヤ先輩にラインを送る。
『フミヤ先輩、ずっと今井に嫉妬してたんですか?』
すぐに返信が来た。
『ようやくわかったの? 遅いよ、さっちゃん』
『今井はいいやつですよ』
『あー、またそういうこと言う』
『あと申し訳ないけど、今井は僕の趣味じゃないです』
『君の趣味は?』
『さだふみや』
『偶然、俺もその名前だ。付き合お、さっちゃん』
冗談めいた先輩の告白が、僕の胸を嬉しさで満たしていく。その時、またスマホが振動した。
『今井にごめんねって言っといて』『でもさっちゃんは俺の恋人だからよろしく』
立て続けに来たメッセージを見て、思わず笑う。どうせ僕はフミヤ先輩しか見えていないというのに。そのあと、またスマホが震え、僕は驚きのあまり、大声を出しそうになってしまった。
『もうひとつ、さっちゃんにネタばらし。実は俺さ、初めて会った時、さっちゃんがかわい過ぎて、パフェの名前ど忘れしたんだよね。知ってた?』