本当に神様のバツが下ったのは、その十日後のこと。
あのお泊まり会の日から、僕の体は重く、心はまるで大きな荷物を背負っているかのようだった。夏の始まりの蒸し暑さが、僕をさらに息苦しくさせる。
――さっちゃんどうした? 最近、なんか元気ないね。
またお弁当を作ってきてくれた先輩が、顔を覗き込んで言う。
――……だ、大丈夫です。ちょっと早い夏バテかもしれないです。
そんな風にフミヤ先輩には、また小さな嘘を重ねてきた。モモにも心配をかけてばかりだ。特にモモは、
「あさ子さんもわかってくれるし、今はさっちゃんと一緒にいる」
今日の放課後デートをキャンセルするとまで言ってくれたけれど、僕は絶対にだめだと断った。自分の気持ちに正直になれない僕が、今、モモの優しさにすがるのは卑怯だと思ったのだ。
思えば、僕は見せかけの姿しか先輩に見せられていなかった。それに比べて先輩は、いつも僕に嘘偽りのない姿を見せてくれる。オンモードのカフェ店員の時も、モジャモジャの省エネ系男子高校生の時も、家族のことも、生い立ちだって包み隠さずに。
いつまでも先輩に嘘はついていられない。でも、自分のことを何もかも晒すのは僕にとってとても難しいことだった。素顔も、素のままの心も、好きな人に見せるのはどうしようもなく怖い。
本当はフミヤ先輩と一緒に帰りたかった。誘おうとしたラインを書いては消して、結局、諦めた。放課後、小さなため息を吐き、ひとりで校門を通りすぎようとした時。
「幸朗!」
突然の呼びかけに、僕は驚きのあまり鞄を落としてしまった。振り返ると、そこには思いもよらない人物が立っていて、心臓が悲鳴を上げる。
「……蓮くん」
僕の声は明らかに震えていた。蓮くんの姿を見るのは、あの文化祭の日以来だ。蓮くんが僕の目をしっかりと見据えて言う。
「ちょっとでいいから、話聞いてくれねぇかな。頼むよ、幸朗」
切実さが滲む彼の声に、僕は一瞬躊躇した。でも、彼の真剣な表情に心を動かされたのもたしかだった。
「こ、こっちきて」
フミヤ先輩に見られたくない一心で、僕は蓮くんの腕を掴み、人気のない校舎裏まで引っ張っていった。夕暮れ時の校舎裏には、まだ日中の暑さが残っている。夕日に照らされた蓮くんの長い影。
オレンジ色の光が淡く降り注ぐ中、僕は蓮くんと向き合っていた。頭からつま先までじっと視線を這わされ、ひどく落ち着かない気持ちになる。
「すげぇ変わったな、幸朗。めちゃくちゃかっこいいよ、お前」
「……ありがと」
おそらく蓮くんの記憶にある僕とは、似ても似つかないであろう今の僕の姿。
僕は心の中で、昔の自分を思い出していた。蓮くんのことが好きだったあの時の記憶が、僕の胸を強く締め付ける。
「この前、文化祭でお前に逃げられて、もしかしたらそっとしておくのが、幸朗にとってはいいのかもしれないって思った。でも、やっぱ俺はどうしても謝りたくて」
蓮くんは深呼吸をして、真剣な表情で僕に向き直った。
「幸朗、ごめんな。……せっかく告白してくれたのにひどいこと言って」
僕は何も言わなかった。蓮くんの瞳を眺め、次の言葉を待つ。
「あの時……俺は女の子が好きで、でも幸朗にそれを言ったらもっと傷つけるような気がして、咄嗟にデブだからだめってことにしたらそんなに傷つかないかもって思ったんだ」
申し訳なさそうに、蓮くんが目を伏せた。初めて知る事実に、僕は驚きを隠せなかった。
「は、はぁ……!? な、なんで? んなわけないじゃん! 僕、めっちゃ傷ついたんだけど! そりゃあ急に告って驚かせたかもしんないけど、女の子が好きなら素直にそう言ってくれればいいし、なんで嘘つくの!」
思わず声を荒らげると、親友だった昔に戻ったみたいに、蓮くんは苦笑いをこぼす。
「だよなー……。冷静に考えたらそうなんだよなー。だけどさ、俺ら、じいちゃんになるまで親友だと思ってて、なのに急に告られてさ、ビビり散らかしちまって……なんか本当のことを言うのが怖くなって……」
蓮くんの言葉に、はっとして口を噤む。僕だって、同じだ。
「あのあと、お前をすごく傷つけたってわかったから、何回も家に行ったんだ」
僕は静かにうなずく。蓮くんが謝りに来てくれていたのを、何度もカーテンの隙間から覗いていた。手紙だって彼は何度もくれたけれど、読まずに捨てていたのだ。あの時の僕はひどく傷ついていて、頑なに会いたくないと突っぱねたのを覚えている。
「……僕は、蓮くんのあの言葉を、一生許せないと思う」
いい思い出だなんて笑って言える未来は絶対来ない。
でも、いい加減、僕は許したかった。言葉を間違えた蓮くんのことも、たかが蓮くんのたったひとことに負けて、好きだったものをすべて放り投げて逃げ出したあの時の僕のことも。
「ぽっちゃりだったあの時の自分も、僕は大好きだった。でも、今の自分のほうがもっと好き」
蓮くんはこくりとうなずく。その瞳の真剣さには、僕をわかってあげたいという蓮くんなりの優しさが見える。
「蓮くんのおかげで今の僕があるなんて絶対言いたくないし、僕は僕がしたいように生きたから今の僕なんだと思ってる」
傲慢な僕の言葉に、蓮くんはおかしそうに笑う。
「うん、わかってるよ、幸朗」
風が強くなり、僕の銀色の髪が揺れた。昔と違う、今の大好きな髪色。
「僕さ、今はさっちゃんなんだよね。だから、蓮くんもさっちゃんって呼んで」
蓮くんは間髪をいれずに、きっぱりと言う。
「嫌だよ。俺ン中で、幸朗は幸朗だから」
すげなく断られ、僕は思わず「ぷっ」と噴き出してしまった。さっきまで全力で謝っていたくせに、本当に悪いと思っていないことには絶対に自分の意志を曲げないのだ。忘れていた蓮くんの強さを改めて思い出し、僕は苦笑いをこぼす。
あんなに暖かった風が、少し冷たくなり始め、僕の頬をかすかに撫でる。蓮くんは柔らかな表情で僕を見据えた。
「好きになってくれてありがとな、幸朗。……あと、たくさん間違えて本当にごめん」
五年越しの謝罪を受け入れ、胸の奥がじんわりと温かくなる。僕は少し照れくさくなって、早口で答えた。
「うん、僕もごめん。謝ってくれたのに、ずっとガン無視して」
蓮くんがくしゃっと笑う。その笑顔は、昔僕が好きだった笑顔そのものだ。
「いいよ、そんなの」
僕たちは笑い合い、ゆっくりと握手を交わした。その瞬間、過去の痛みが少しずつ癒えていくのを感じる。
「僕、蓮くんのその笑った顔が好きだった」
思わず口に出してしまった僕の言葉に、蓮くんは驚いたような、でも少しだけ嬉しそうな表情を見せる。
「でも、今は……もっともーっと好きな人がいるから安心して」
「そっか。よかったな、幸朗。……じゃあ俺、行くわ」
僕はうなずき、小さく手を振った。
「またな、幸朗! あ、お前のメイド姿、マジでかわいかった!」
「ありがと! ばいばい、蓮くん!」
蓮くんの背中が遠ざかっていく。その姿を見送りながら、僕の中で何かが静かに終わりを告げたのを感じていた。
深呼吸をして、帰ろうと踵を返した瞬間、僕の心臓がまた別の意味で大きく跳ねる。
「せ、せせせせ、先輩!?」
そこに立っていたのは、フミヤ先輩だった。壁にもたれかかり、何かを考え込むような表情をしている。いったいいつから彼はここにいるのだろうか。
動揺と恥ずかしさで頬が熱くなる。蓮くんとの会話を聞かれていた可能性を考え、僕は慌てて言葉を紡いだ。
「き、聞こえちゃいましたか……今の話」
お願い、聞いてないって言ってほしい。僕は強く神様に祈った。ほかの誰に知られたっていい。でも、フミヤ先輩の前だけは、生まれた時から今の今までなんの失敗もない「超絶かわいい完璧な男の子」でいたかったのだ。僕のわがままな願いを神様が叶えてくれるはずがない。
先輩は笑っていない顔を僕に向け、静かな声で答えた。
「ううん。聞こえちゃったんじゃなくて」
混乱している僕に、先輩は続ける。
「ごめんね、さっちゃん。ぜんぶ聞いてた。俺の意思で聞きたくて、勝手にぜんぶ聞いた。ちょうど君を見かけて一緒に帰ろうって誘おうとした時に、さっきの男の子の手を引いてるの見たから」
嘘のない告白に、僕の心は激しく動揺した。フミヤ先輩が意図的に聞いていたなんて。
夕日に照らされた先輩の顔からは、何も感情が読み取れない。僕は言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
空は深い紫色に染まり始め、風はまた少し冷たくなる。フミヤ先輩との沈黙が続く中、僕の心臓は激しく鼓動を打っていた。どれだけの時間が過ぎたのだろう。時間の感覚もわからない。僕はずっとうつむいて、自分のシューズの先を見ていた。
無言の先輩の視線を強く感じる。その視線に押されるように、震える声で言葉を絞り出した。
「せ、先輩には……聞かれたくなかった、です」
「そっか。でも、俺はさっちゃんの口から、今の話をちゃんと聞きたいかな」
先輩の言葉に、僕ははっとして顔を上げた。そして初めて気づいた。バイト用にセットされたハーフアップの髪型。いつもは癖のある前髪で隠れている涼しげな目が、まっすぐに僕を見つめている。そのまなざしの強さに、僕の心臓がまた暴れ出す。
「あの男の子のこと、好きだったの?」
僕はこくりと唾を飲み込んだ。答えたくない。今すぐに逃げ出したい。でも先輩が好きだからこそ、それはできない。
「バイトに行くまで、あと一時間あるよ」
先輩の言葉に、僕の心の中で何かが動き始めた。深呼吸をして、ようやく覚悟を決める。
「……今から、僕の話を聞いてくれますか? ちょっと長くなりそうですけど」
先輩は深くうなずきながら答えた。
「もちろんです、さっちゃん」
一番星が瞬く夕暮れの空の下、僕たちは校舎の壁に寄りかかっていた。風がまた少し冷たくなり、僕の肌をそっと撫でる。
僕は何から話せばいいのか戸惑いながら、たどたどしく昔話を始めた。小学生の時、今の二倍くらいは太っていたこと。でもその姿も嫌いじゃなかったこと。だけど初めて好きになった蓮くんにデブは嫌だと言われて、その日から不登校になったこと。一度好きなものをすべて手放し、また最初から集め直したこと。今は努力をしてかわいい姿を保っていること。そしてさっき、ようやく蓮くんと和解できたこと。
おもしろくもなんともない、あざとさの欠片もない、ただただ僕の恥ずかしい話を、何も繕わず、正直でありのままに話した。フミヤ先輩は茶化さずに、「うん」と相槌を打ちながら、真摯な態度で話を最後まで聞いてくれた。
「ありがとう、さっちゃん。俺に話してくれて」
先輩がどう感じたのか、僕にはさっぱりわからない。でも、まだ言わなければいけないことがある。
「……雨の日」
「ん?」
僕は涙目になって先輩を睨みつけた。
「カンナちゃんたちの傘を借りたあの雨の日、ほんとは鞄の中に折りたたみ傘持ってました」
「……え、そうなの?」
先輩の驚いた表情を見つめ、僕はさらに言葉を重ねた。
「それにモモはひとりの時間なんて大嫌いだし、ひとりになると死んじゃうし、本当は先輩が作ってくれたからあげも死ぬほど食べたかった!」
「え? でも、さっちゃんからあげは苦手だって……」
「またあの頃の弱い自分に戻っちゃうかもって思ったら、食べられなかったんです! 先輩の作ったからあげ食べたかったのに! この世の食べ物の中で一番からあげが大好きなのに!」
言葉が止まらない。今まで取り繕って隠していたすべての感情が、堰を切ったように溢れ出す。
「それにお化け屋敷で泣いてたのは先輩のせいじゃなくて、蓮くんと鉢合わせして動揺してたからだし! 先輩が紬先輩に告白されたのも、モモに聞いて知ってたし! フミヤ先輩が取られちゃうってすごく嫉妬したし! でも紬先輩のこと振ったって聞いて、心の中ですごく喜んじゃったりして……ほんとに、僕は嫌なヤツで……」
涙がぽろりと頬を伝う。感情が抑えきれない。水分で曇る視界の中、フミヤ先輩の姿がぼんやりと揺れている。
「ほ、ほかにもいっぱい嘘つきました! 先輩によく思われたくて、もっと近づきたくて、たくさん嘘をつきました……! 今だって、シフォンブラウンのカラコンしてるし、アイラインで目もでかく見せてるし、ハイライトも入れて鼻も高く見せてるし……色つきのリップだって……してるし……」
心の奥底にあったすべてが剥がれ落ちていくみたいだ。僕は立っていられなくなり、地面に倒れるようにしゃがみ込んだ。冷たい土と草の感触が、僕の手のひらに触れる。
「ごめんなさい…… ゆ、許してください……先輩」
声が震える。メイクは崩れ、鼻水まで垂れてきて、最悪な姿だとわかっていた。だけど、もう取り繕う力も残っていない。
修繕のしようもないほどに嫌われたかもしれない。
さっちゃんのことはこれ以上何も知りたくない、そう言われるかもしれない。
でも、僕は心からフミヤ先輩が好きだった。どんなに拒絶されたとしても、僕のフミヤ先輩に対しての『好き』はもう二度と揺るがないだろう。
怖いけれど、僕はフミヤ先輩が好き。
小さくしゃくり上げた僕の隣に、フミヤ先輩がしゃがみ込んだ。夜の風が先輩の黒髪を軽く揺らしている。
「いいよ、許す」
先輩の声は、驚くほど軽やかだった。
「そ、そんな……簡単に」
僕は信じられない思いで先輩を見上げる。
「別に全然許せる嘘だよ。俺が悲しくなるのは、人を傷つける嘘だから」
先輩の言葉を受け、小さな希望が僕の心に灯った。でも、まだ不安が消えたわけじゃない。
「ひ、人を傷つける嘘って、たとえばどんな嘘ですか?」
「……あー、そうだね」
先輩は言いづらそうに苦笑いをこぼすと、「それについては、また今度話すわ」とお茶を濁すように言う。僕は少しだけ引っかかったものの、それよりも別のことが気になっていた。
「じゃあ、……ぼ、僕が小学生の頃、太ってたって……フミヤ先輩に黙ってたのは嫌じゃないんですか?」
恐る恐る聞く僕に、先輩は優しく微笑んだ。
「嫌なわけないじゃん。写真ある? ぷくぷくさっちゃんも見てみたい」
まさか、この人は、すべてを受け入れるつもりなのだろうか。信じられない思いで、僕は彼を見つめた。
「ていうか、それも気になるんだけどさ、さっちゃん。さっき言ってた『もっともーっと好きな人』って誰のこと?」
急に路線変更された突然の質問に、僕は顔が熱くなるのを感じた。でも、隠す手立ては何も持っていない。
「……それは――」
フミヤ先輩のことです、そう言おうとした僕を遮り、先輩はからりとした笑顔を浮かべた。
「ごめん、待って。やっぱ、俺から言わせて」
先輩はしゃがんでいた僕の腕を引いて立たせると、ふうっと少しだけ息を吐き、意を決するように僕を見る。
「……俺さ、なんか空っぽの人間なんだよね。バイト入れないとマジでやる気出ないし、母親が入院してからはますますバイト以外やる気出なくて鬱っぽくなってた。でも、今はさっちゃんがいるからがんばれてる」
僕はひっそりと息を呑んだ。フミヤ先輩の心の内を、初めて知ったような気がした。先輩の目には、どこかさみしそうな、でも温かな光がある。
「さっちゃんが初めて俺に声をかけてくれた時、どれほど勇気を出してくれたんだろうっていつも考えるよ」
フミヤ先輩の言葉が、静かに夜風に乗って僕の耳に届いた。
「君の勇気は、泣きたくなるくらいかわいい」
心臓が激しく鼓動を打つ。期待と不安が入り混じり、胸が破裂しそうだ。
「うれしかったんだ、俺。さっちゃんが今まで俺に言ってくれた言葉、ぜんぶ覚えてるよ」
僕だって覚えている。先輩が言ってくれた言葉。先輩との思い出が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
――よしよし、さっちゃん。がんばっててえらいね。
あの時の先輩の大きな手の温もりが、今でも肌に残っている。
――謝んないでよ、さっちゃん。その分、かっこいいって言って。さっちゃんが言ってくれたら、もっとがんばれるよ、俺。
ふたりきりで歩いたあの夜の匂い。
――さっちゃんの膝が一番いい。
僕が拗ねているのに、楽しそうに口角を上げていた先輩。
――本当は俺だって、君のメイド姿、ほかの男に見られたくなかったよ。
ふいに感じた、男らしくて強いまなざし。
「さっちゃんに出会ってから、毎日楽しい。これってすごいことだよ。こんなに楽しいって思えるのは、君がいるからだ。怒ってるさっちゃんも、泣いてるさっちゃんも、いじけてるさっちゃんも、笑ってるさっちゃんも、あざといさっちゃんも、ぜんぶぜんぶ俺が欲しい」
僕だって、僕だって、僕だって。心ばかりが焦って、何も言葉にならない。止まったと思った涙が、またじわじわと込み上げてくる。
「ゆっくりお互いを知っていこうって、前に約束したね」
あの日の約束を思い出す。僕を優しく包み込んでくれた先輩の甘い声。
――ゆっくりお互いを知っていきましょう。……ね、やくそく。
「けっこう、お互いのこと、わかってきたと思うんだ。どうかな?」
僕は、涙で濡れた顔で、先輩の言葉に小さくうなずいた。
「さっちゃん」
先輩の目が、情けない僕の姿を映し出す。
「俺はさっちゃんが好きです。俺と付き合ってください」
誠実で、とてもシンプルで、かっこいい。フミヤ先輩らしい告白だった。
時が止まったかのような静けさ。先輩は僕の返事を、ずっと待ってくれている。僕は激しく鼓動する心臓を押さえ、何度も嗚咽を繰り返した。そして、やっとのことで言葉を絞り出す。
「……はい」
何、この奇跡。
先輩が僕を好きだなんて、こんな奇跡ありえない。
「やった」
フミヤ先輩の嬉しそうな笑顔が、学校の外灯に照らされて輝いて見える。僕の胸の中で、喜びと恥ずかしさと動揺が、ぐるぐると駆け回っている。視線がまるで定まらない。挙動不審な様子で周りを見回しながら、僕は言葉を紡いだ。
「ぼ、僕だって、すごく嬉しいです! ……で、でも、メイクぐちゃぐちゃだし……鼻水垂れてるし……僕のタイミング的にどうかなって思うんですよね! ……い、いったんメイク直してきてもいいですか? 先輩の前では常にかわいくいたいので、……い、今の状況は大変遺憾です!」
文句を口にした瞬間、予想もしなかったことが起こった。フミヤ先輩の唇が近づき、そっと僕の唇に触れ――なかった。
「あっぶねぇ……」
フミヤ先輩は唇が触れ合うギリギリで一歩後ずさり、僕との間にわずかな距離を作った。僕は何が起きたのか理解できず、ただ呆然と先輩を見つめるばかりだ。
「今のはマジでやばかった。……さっちゃんがかわいすぎて、勝手にキスするとこだったわ。ほんとごめんね、さっちゃん」
先輩は自分自身を落ち着かせるように深呼吸をすると、僕に真面目なまなざしを寄越した。
「改めまして……さっちゃん、キスしてもいい?」
丁寧で、優しい声色。彼の瞳に映る思いの深さに、僕は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。先輩への思いが溢れる。やっぱり、フミヤ先輩はとことん誠実で優しい人間だ。
僕も、先輩とキスがしたい。
頬を赤く染めながら小さくうなずくと、先輩は嬉しそうに僕に近づいた。ぴったりと寄り添うように触れ合う僕たちの体に、心臓が痛いほどにわななく。
「あの、でもメイクがぐちゃぐちゃ――」
直前で怖気づいた僕の言い訳は、先輩の唇に塞がれてしまった。後頭部に差し入れられた先輩の長い指先。ほんの一秒の、小さな触れ合い。でも、その一瞬で僕の体は、真夏のチョコレートみたいにどろどろに溶かされてしまった。
唇を離した先輩が、吐息の伝わる距離でささやく。
「かわいいよ、さっちゃん。メイクぐちゃぐちゃでも、鼻水垂れてても。俺の思うさっちゃんのかわいさって無限大だから」
悪びれもせずそう言う先輩に、僕の顔はさらに紅潮していった。思わずフミヤ先輩の腕を軽く叩いてしまったが、力が入っていなかったのか、先輩は嬉しそうに僕の手を捕まえて笑っている。
「キスされたあとのさっちゃんもすげぇかわいいわ。ちょっと世間には見せられないレベル」
「先輩、意味わかんないし……」
どうしたって力が入らない。先輩は僕の手に指を絡ませ、さらに優しい笑顔を浮かべる。
メイクは崩れ、鼻水が垂れていても、フミヤ先輩の目に映る僕は、どうやらかわいいらしい。信じられない話だけれど、僕はもう疑うのはやめにした。だって、フミヤ先輩はいつだって僕に嘘をつかない。
勇気を振り絞って、フミヤ先輩の目をまっすぐ見つめた。
「フミヤ先輩」
言葉が喉まで出かかり、一瞬躊躇う。でも、もう後戻りはできない。
「今さらですけど、……僕、重くてすごくめんどくさいですよ」
僕は先輩をちらりと見据えながら、鞄からティッシュを取り出した。先輩は流れるような動作で僕の手からティッシュを奪うと、優しく丁寧に僕の涙と鼻水を拭い始める。僕は目を閉じて、先輩の手に身を委ねた。
「んー? 『あざとい』って思ったことはあるけど、さっちゃんに対して『重い』とか『めんどくさい』っていう感情にはなったことがないから、わかんねーわ」
「……えー」
おもむろに目を開ける。先輩の言葉に、僕は驚きを隠せなかった。
「モモには『さっちゃんはめんどくさい』っていつも言われてますよ、僕」
こんなにも広い心を持った人がいるのかと、一般人である僕の基準がばからしくなるほどだ。先輩の僕に対する評価は、まるでがばがばで心配になってしまう。
「……嫉妬もすごくします」
小さな声で告白すると、先輩は意外な反応を見せた。
「それは知ってる。だから、俄然燃えるんだけど」
知られていたのか。そう思う羞恥心と、言動から見え隠れする先輩の雄々しさに、胸がギュンと激しい音を立てるようだった。
「拗ねてる時わかりやすいから、誰かさんは」
からかうような目線を投げられ、ドクンと心臓が跳ねた。いったいどれだけ見透かされていたのだろう。目を合わせて探ろうとしたら、先輩の切れ長で涼しげな瞳に、危うく吸い込まれそうになる。
「俺からも言わせて、さっちゃん」
フミヤ先輩の表情を見て、冗談ではない真剣な感情が宿っているのを察知した。
「たぶん俺のほうが、はるかに重い」
どこか切実さが混じっている先輩の声。
「俺より先に死んだら許せないし、急に俺の前からいなくなったら見つかるまで探すし、車の自損事故とかマジでやめてね」
「……な、なんの話ですか、それ」
「俺の周りにいる大人の話」
その瞬間、先輩の心の奥底に潜む深い孤独のようなものが、ふっと僕の心に伝わってきた。亡くなってしまった先輩のお父さん、いなくなってしまった次のお父さん、自損事故に遭ってしまったらしい先輩のお母さん。先輩は普段、家族について話すことはなかったけれど、日々僕が知らないさみしさに触れているのかもしれない。こんなのただの想像だ。でも、愛おしさがいくつも込み上げ、無視できなくなっている。
先輩の手に触れた。その手を強く握って誓う。
「僕は先輩より先に死にませんし、急にいなくなりませんし、車の自損事故はしません。ていうか、免許は先輩が取って、僕をドライブに連れていってください。フラワーガーデンとか、おいしいパフェがあるお店とか、アウトレットモールとかがいいです。よろしくお願いします」
強張っていた先輩の表情が、ほっとするくらい柔らかくなる。
「いいね。一緒に行こう、さっちゃん」
フミヤ先輩の顔に浮かぶ、力の抜けた少年のような笑顔。その表情を今、この瞬間、僕だけが独占しているのだと思うと、胸が高鳴り、嬉しさで目眩すら感じてしまう。
僕は上目づかいで先輩の瞳を覗き込んだ。リップが取れてしまった唇を小さく舐めながら、震える声で言う。
「……先輩、もう一回」
「ん?」
先輩の困惑した表情に、さらに勇気を出して続ける。
「もう一回、……キスしてください、先輩」
先輩は小さく息を吐くと、神妙な顔つきで僕の体を引き寄せた。先輩の舌が僕の口の中に入ってくる。誰もいない校舎裏の隅っこ。遠くに聞こえる生徒たちの声も、野球部のかけ声も、もはやどうでもいい。先輩の体にしがみつき、僕はまぶたを閉じて先輩の舌の感触を味わった。
先輩の肩甲骨、背骨、腰の筋肉。自分ではない、先輩の体に触れるたび、自分の中の細胞が新しく作り変えられていくみたいだった。恋しくて、愛しくて、自分以外の誰かに、こんなにも影響を受けてしまっていることへの出口のない怖さと喜びを強く実感する。
貪るようにキスを交わすうちに、息苦しさを感じ始める。息を切らして、先輩の胸を強く押し返すと、フミヤ先輩は、
「苦しくなっちゃった?」
と、まるで子どもをあやすように尋ねてきた。
目に見えてわかる経験の差に、苛立ちともどかしさを感じる。でも、ここのところいろいろと学んだ僕は、取り繕うことなく、素直に言葉を吐き出した。
「ぼ、僕にはレベルが高いので、今日はもうおしまいにします……」
きっと次はもっと上手にできるはずだ。
「……ん、わかった」
そんなに愛おしそうに笑わないでほしい。思わず照れくささに視線をさまよわせ、僕は学校の時計塔に目を合わせた。その途端、現実に引き戻される。
「せ、先輩、大変です! バイトの時間……!」
バイトが始まるまで、あと二十分もない。名残惜しいけれども、ゆっくりもしていられそうになかった。僕が歩き出すと、先輩はなぜか僕の手を掴んでもう一度僕を抱きしめた。
「え、ちょ、先輩……?」
「えー、やばい、バイト行きたくない……。俺、初めて思ったかも」
「……何を言って」
「さっちゃんと一緒にいたい。やだ。行きたくない」
冗談さを感じられない、本気の言葉。先輩の台詞に驚きつつも、なんだかかわいらしく感じてしまう。本気で駄々をこねるフミヤ先輩はとても珍しくて、僕はにやけ顔を抑えながら「でも、行かないと」そう発破をかける。
「俺にバイト行きたくないって思わせた唯一の男、それが竹内幸朗」
「フルネームで呼ぶな……」
照れを隠すように言い返しつつ、僕は先輩の背中に両手をぎゅっと伸ばして励ました。
「がんばってください、フミヤ先輩。バイトしてる時の先輩って、めちゃくちゃかっこよくて大好きです。……今日も見てます、僕。あの席に座って先輩のことずっと」
カフェで店員をしているフミヤ先輩に出会ったあの日から、僕はあなたに夢中だ。愛しい気持ちを込め、心から先輩を尊敬の目で見つめると、先輩は観念したみたいに笑った。
「……今のは効いた」
ぐぐっと背伸びをして、首をポキポキと鳴らすと、「うっしゃ、やるか」と先輩がオンモードに変わる。
「おいで。一緒にバイト先まで行こう。俺のお客様で、俺の後輩で、俺のメイドさんで、俺の恋人のさっちゃん」
僕は先輩に向かって元気いっぱいに言う。
「なげーよ!」
あのお泊まり会の日から、僕の体は重く、心はまるで大きな荷物を背負っているかのようだった。夏の始まりの蒸し暑さが、僕をさらに息苦しくさせる。
――さっちゃんどうした? 最近、なんか元気ないね。
またお弁当を作ってきてくれた先輩が、顔を覗き込んで言う。
――……だ、大丈夫です。ちょっと早い夏バテかもしれないです。
そんな風にフミヤ先輩には、また小さな嘘を重ねてきた。モモにも心配をかけてばかりだ。特にモモは、
「あさ子さんもわかってくれるし、今はさっちゃんと一緒にいる」
今日の放課後デートをキャンセルするとまで言ってくれたけれど、僕は絶対にだめだと断った。自分の気持ちに正直になれない僕が、今、モモの優しさにすがるのは卑怯だと思ったのだ。
思えば、僕は見せかけの姿しか先輩に見せられていなかった。それに比べて先輩は、いつも僕に嘘偽りのない姿を見せてくれる。オンモードのカフェ店員の時も、モジャモジャの省エネ系男子高校生の時も、家族のことも、生い立ちだって包み隠さずに。
いつまでも先輩に嘘はついていられない。でも、自分のことを何もかも晒すのは僕にとってとても難しいことだった。素顔も、素のままの心も、好きな人に見せるのはどうしようもなく怖い。
本当はフミヤ先輩と一緒に帰りたかった。誘おうとしたラインを書いては消して、結局、諦めた。放課後、小さなため息を吐き、ひとりで校門を通りすぎようとした時。
「幸朗!」
突然の呼びかけに、僕は驚きのあまり鞄を落としてしまった。振り返ると、そこには思いもよらない人物が立っていて、心臓が悲鳴を上げる。
「……蓮くん」
僕の声は明らかに震えていた。蓮くんの姿を見るのは、あの文化祭の日以来だ。蓮くんが僕の目をしっかりと見据えて言う。
「ちょっとでいいから、話聞いてくれねぇかな。頼むよ、幸朗」
切実さが滲む彼の声に、僕は一瞬躊躇した。でも、彼の真剣な表情に心を動かされたのもたしかだった。
「こ、こっちきて」
フミヤ先輩に見られたくない一心で、僕は蓮くんの腕を掴み、人気のない校舎裏まで引っ張っていった。夕暮れ時の校舎裏には、まだ日中の暑さが残っている。夕日に照らされた蓮くんの長い影。
オレンジ色の光が淡く降り注ぐ中、僕は蓮くんと向き合っていた。頭からつま先までじっと視線を這わされ、ひどく落ち着かない気持ちになる。
「すげぇ変わったな、幸朗。めちゃくちゃかっこいいよ、お前」
「……ありがと」
おそらく蓮くんの記憶にある僕とは、似ても似つかないであろう今の僕の姿。
僕は心の中で、昔の自分を思い出していた。蓮くんのことが好きだったあの時の記憶が、僕の胸を強く締め付ける。
「この前、文化祭でお前に逃げられて、もしかしたらそっとしておくのが、幸朗にとってはいいのかもしれないって思った。でも、やっぱ俺はどうしても謝りたくて」
蓮くんは深呼吸をして、真剣な表情で僕に向き直った。
「幸朗、ごめんな。……せっかく告白してくれたのにひどいこと言って」
僕は何も言わなかった。蓮くんの瞳を眺め、次の言葉を待つ。
「あの時……俺は女の子が好きで、でも幸朗にそれを言ったらもっと傷つけるような気がして、咄嗟にデブだからだめってことにしたらそんなに傷つかないかもって思ったんだ」
申し訳なさそうに、蓮くんが目を伏せた。初めて知る事実に、僕は驚きを隠せなかった。
「は、はぁ……!? な、なんで? んなわけないじゃん! 僕、めっちゃ傷ついたんだけど! そりゃあ急に告って驚かせたかもしんないけど、女の子が好きなら素直にそう言ってくれればいいし、なんで嘘つくの!」
思わず声を荒らげると、親友だった昔に戻ったみたいに、蓮くんは苦笑いをこぼす。
「だよなー……。冷静に考えたらそうなんだよなー。だけどさ、俺ら、じいちゃんになるまで親友だと思ってて、なのに急に告られてさ、ビビり散らかしちまって……なんか本当のことを言うのが怖くなって……」
蓮くんの言葉に、はっとして口を噤む。僕だって、同じだ。
「あのあと、お前をすごく傷つけたってわかったから、何回も家に行ったんだ」
僕は静かにうなずく。蓮くんが謝りに来てくれていたのを、何度もカーテンの隙間から覗いていた。手紙だって彼は何度もくれたけれど、読まずに捨てていたのだ。あの時の僕はひどく傷ついていて、頑なに会いたくないと突っぱねたのを覚えている。
「……僕は、蓮くんのあの言葉を、一生許せないと思う」
いい思い出だなんて笑って言える未来は絶対来ない。
でも、いい加減、僕は許したかった。言葉を間違えた蓮くんのことも、たかが蓮くんのたったひとことに負けて、好きだったものをすべて放り投げて逃げ出したあの時の僕のことも。
「ぽっちゃりだったあの時の自分も、僕は大好きだった。でも、今の自分のほうがもっと好き」
蓮くんはこくりとうなずく。その瞳の真剣さには、僕をわかってあげたいという蓮くんなりの優しさが見える。
「蓮くんのおかげで今の僕があるなんて絶対言いたくないし、僕は僕がしたいように生きたから今の僕なんだと思ってる」
傲慢な僕の言葉に、蓮くんはおかしそうに笑う。
「うん、わかってるよ、幸朗」
風が強くなり、僕の銀色の髪が揺れた。昔と違う、今の大好きな髪色。
「僕さ、今はさっちゃんなんだよね。だから、蓮くんもさっちゃんって呼んで」
蓮くんは間髪をいれずに、きっぱりと言う。
「嫌だよ。俺ン中で、幸朗は幸朗だから」
すげなく断られ、僕は思わず「ぷっ」と噴き出してしまった。さっきまで全力で謝っていたくせに、本当に悪いと思っていないことには絶対に自分の意志を曲げないのだ。忘れていた蓮くんの強さを改めて思い出し、僕は苦笑いをこぼす。
あんなに暖かった風が、少し冷たくなり始め、僕の頬をかすかに撫でる。蓮くんは柔らかな表情で僕を見据えた。
「好きになってくれてありがとな、幸朗。……あと、たくさん間違えて本当にごめん」
五年越しの謝罪を受け入れ、胸の奥がじんわりと温かくなる。僕は少し照れくさくなって、早口で答えた。
「うん、僕もごめん。謝ってくれたのに、ずっとガン無視して」
蓮くんがくしゃっと笑う。その笑顔は、昔僕が好きだった笑顔そのものだ。
「いいよ、そんなの」
僕たちは笑い合い、ゆっくりと握手を交わした。その瞬間、過去の痛みが少しずつ癒えていくのを感じる。
「僕、蓮くんのその笑った顔が好きだった」
思わず口に出してしまった僕の言葉に、蓮くんは驚いたような、でも少しだけ嬉しそうな表情を見せる。
「でも、今は……もっともーっと好きな人がいるから安心して」
「そっか。よかったな、幸朗。……じゃあ俺、行くわ」
僕はうなずき、小さく手を振った。
「またな、幸朗! あ、お前のメイド姿、マジでかわいかった!」
「ありがと! ばいばい、蓮くん!」
蓮くんの背中が遠ざかっていく。その姿を見送りながら、僕の中で何かが静かに終わりを告げたのを感じていた。
深呼吸をして、帰ろうと踵を返した瞬間、僕の心臓がまた別の意味で大きく跳ねる。
「せ、せせせせ、先輩!?」
そこに立っていたのは、フミヤ先輩だった。壁にもたれかかり、何かを考え込むような表情をしている。いったいいつから彼はここにいるのだろうか。
動揺と恥ずかしさで頬が熱くなる。蓮くんとの会話を聞かれていた可能性を考え、僕は慌てて言葉を紡いだ。
「き、聞こえちゃいましたか……今の話」
お願い、聞いてないって言ってほしい。僕は強く神様に祈った。ほかの誰に知られたっていい。でも、フミヤ先輩の前だけは、生まれた時から今の今までなんの失敗もない「超絶かわいい完璧な男の子」でいたかったのだ。僕のわがままな願いを神様が叶えてくれるはずがない。
先輩は笑っていない顔を僕に向け、静かな声で答えた。
「ううん。聞こえちゃったんじゃなくて」
混乱している僕に、先輩は続ける。
「ごめんね、さっちゃん。ぜんぶ聞いてた。俺の意思で聞きたくて、勝手にぜんぶ聞いた。ちょうど君を見かけて一緒に帰ろうって誘おうとした時に、さっきの男の子の手を引いてるの見たから」
嘘のない告白に、僕の心は激しく動揺した。フミヤ先輩が意図的に聞いていたなんて。
夕日に照らされた先輩の顔からは、何も感情が読み取れない。僕は言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
空は深い紫色に染まり始め、風はまた少し冷たくなる。フミヤ先輩との沈黙が続く中、僕の心臓は激しく鼓動を打っていた。どれだけの時間が過ぎたのだろう。時間の感覚もわからない。僕はずっとうつむいて、自分のシューズの先を見ていた。
無言の先輩の視線を強く感じる。その視線に押されるように、震える声で言葉を絞り出した。
「せ、先輩には……聞かれたくなかった、です」
「そっか。でも、俺はさっちゃんの口から、今の話をちゃんと聞きたいかな」
先輩の言葉に、僕ははっとして顔を上げた。そして初めて気づいた。バイト用にセットされたハーフアップの髪型。いつもは癖のある前髪で隠れている涼しげな目が、まっすぐに僕を見つめている。そのまなざしの強さに、僕の心臓がまた暴れ出す。
「あの男の子のこと、好きだったの?」
僕はこくりと唾を飲み込んだ。答えたくない。今すぐに逃げ出したい。でも先輩が好きだからこそ、それはできない。
「バイトに行くまで、あと一時間あるよ」
先輩の言葉に、僕の心の中で何かが動き始めた。深呼吸をして、ようやく覚悟を決める。
「……今から、僕の話を聞いてくれますか? ちょっと長くなりそうですけど」
先輩は深くうなずきながら答えた。
「もちろんです、さっちゃん」
一番星が瞬く夕暮れの空の下、僕たちは校舎の壁に寄りかかっていた。風がまた少し冷たくなり、僕の肌をそっと撫でる。
僕は何から話せばいいのか戸惑いながら、たどたどしく昔話を始めた。小学生の時、今の二倍くらいは太っていたこと。でもその姿も嫌いじゃなかったこと。だけど初めて好きになった蓮くんにデブは嫌だと言われて、その日から不登校になったこと。一度好きなものをすべて手放し、また最初から集め直したこと。今は努力をしてかわいい姿を保っていること。そしてさっき、ようやく蓮くんと和解できたこと。
おもしろくもなんともない、あざとさの欠片もない、ただただ僕の恥ずかしい話を、何も繕わず、正直でありのままに話した。フミヤ先輩は茶化さずに、「うん」と相槌を打ちながら、真摯な態度で話を最後まで聞いてくれた。
「ありがとう、さっちゃん。俺に話してくれて」
先輩がどう感じたのか、僕にはさっぱりわからない。でも、まだ言わなければいけないことがある。
「……雨の日」
「ん?」
僕は涙目になって先輩を睨みつけた。
「カンナちゃんたちの傘を借りたあの雨の日、ほんとは鞄の中に折りたたみ傘持ってました」
「……え、そうなの?」
先輩の驚いた表情を見つめ、僕はさらに言葉を重ねた。
「それにモモはひとりの時間なんて大嫌いだし、ひとりになると死んじゃうし、本当は先輩が作ってくれたからあげも死ぬほど食べたかった!」
「え? でも、さっちゃんからあげは苦手だって……」
「またあの頃の弱い自分に戻っちゃうかもって思ったら、食べられなかったんです! 先輩の作ったからあげ食べたかったのに! この世の食べ物の中で一番からあげが大好きなのに!」
言葉が止まらない。今まで取り繕って隠していたすべての感情が、堰を切ったように溢れ出す。
「それにお化け屋敷で泣いてたのは先輩のせいじゃなくて、蓮くんと鉢合わせして動揺してたからだし! 先輩が紬先輩に告白されたのも、モモに聞いて知ってたし! フミヤ先輩が取られちゃうってすごく嫉妬したし! でも紬先輩のこと振ったって聞いて、心の中ですごく喜んじゃったりして……ほんとに、僕は嫌なヤツで……」
涙がぽろりと頬を伝う。感情が抑えきれない。水分で曇る視界の中、フミヤ先輩の姿がぼんやりと揺れている。
「ほ、ほかにもいっぱい嘘つきました! 先輩によく思われたくて、もっと近づきたくて、たくさん嘘をつきました……! 今だって、シフォンブラウンのカラコンしてるし、アイラインで目もでかく見せてるし、ハイライトも入れて鼻も高く見せてるし……色つきのリップだって……してるし……」
心の奥底にあったすべてが剥がれ落ちていくみたいだ。僕は立っていられなくなり、地面に倒れるようにしゃがみ込んだ。冷たい土と草の感触が、僕の手のひらに触れる。
「ごめんなさい…… ゆ、許してください……先輩」
声が震える。メイクは崩れ、鼻水まで垂れてきて、最悪な姿だとわかっていた。だけど、もう取り繕う力も残っていない。
修繕のしようもないほどに嫌われたかもしれない。
さっちゃんのことはこれ以上何も知りたくない、そう言われるかもしれない。
でも、僕は心からフミヤ先輩が好きだった。どんなに拒絶されたとしても、僕のフミヤ先輩に対しての『好き』はもう二度と揺るがないだろう。
怖いけれど、僕はフミヤ先輩が好き。
小さくしゃくり上げた僕の隣に、フミヤ先輩がしゃがみ込んだ。夜の風が先輩の黒髪を軽く揺らしている。
「いいよ、許す」
先輩の声は、驚くほど軽やかだった。
「そ、そんな……簡単に」
僕は信じられない思いで先輩を見上げる。
「別に全然許せる嘘だよ。俺が悲しくなるのは、人を傷つける嘘だから」
先輩の言葉を受け、小さな希望が僕の心に灯った。でも、まだ不安が消えたわけじゃない。
「ひ、人を傷つける嘘って、たとえばどんな嘘ですか?」
「……あー、そうだね」
先輩は言いづらそうに苦笑いをこぼすと、「それについては、また今度話すわ」とお茶を濁すように言う。僕は少しだけ引っかかったものの、それよりも別のことが気になっていた。
「じゃあ、……ぼ、僕が小学生の頃、太ってたって……フミヤ先輩に黙ってたのは嫌じゃないんですか?」
恐る恐る聞く僕に、先輩は優しく微笑んだ。
「嫌なわけないじゃん。写真ある? ぷくぷくさっちゃんも見てみたい」
まさか、この人は、すべてを受け入れるつもりなのだろうか。信じられない思いで、僕は彼を見つめた。
「ていうか、それも気になるんだけどさ、さっちゃん。さっき言ってた『もっともーっと好きな人』って誰のこと?」
急に路線変更された突然の質問に、僕は顔が熱くなるのを感じた。でも、隠す手立ては何も持っていない。
「……それは――」
フミヤ先輩のことです、そう言おうとした僕を遮り、先輩はからりとした笑顔を浮かべた。
「ごめん、待って。やっぱ、俺から言わせて」
先輩はしゃがんでいた僕の腕を引いて立たせると、ふうっと少しだけ息を吐き、意を決するように僕を見る。
「……俺さ、なんか空っぽの人間なんだよね。バイト入れないとマジでやる気出ないし、母親が入院してからはますますバイト以外やる気出なくて鬱っぽくなってた。でも、今はさっちゃんがいるからがんばれてる」
僕はひっそりと息を呑んだ。フミヤ先輩の心の内を、初めて知ったような気がした。先輩の目には、どこかさみしそうな、でも温かな光がある。
「さっちゃんが初めて俺に声をかけてくれた時、どれほど勇気を出してくれたんだろうっていつも考えるよ」
フミヤ先輩の言葉が、静かに夜風に乗って僕の耳に届いた。
「君の勇気は、泣きたくなるくらいかわいい」
心臓が激しく鼓動を打つ。期待と不安が入り混じり、胸が破裂しそうだ。
「うれしかったんだ、俺。さっちゃんが今まで俺に言ってくれた言葉、ぜんぶ覚えてるよ」
僕だって覚えている。先輩が言ってくれた言葉。先輩との思い出が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
――よしよし、さっちゃん。がんばっててえらいね。
あの時の先輩の大きな手の温もりが、今でも肌に残っている。
――謝んないでよ、さっちゃん。その分、かっこいいって言って。さっちゃんが言ってくれたら、もっとがんばれるよ、俺。
ふたりきりで歩いたあの夜の匂い。
――さっちゃんの膝が一番いい。
僕が拗ねているのに、楽しそうに口角を上げていた先輩。
――本当は俺だって、君のメイド姿、ほかの男に見られたくなかったよ。
ふいに感じた、男らしくて強いまなざし。
「さっちゃんに出会ってから、毎日楽しい。これってすごいことだよ。こんなに楽しいって思えるのは、君がいるからだ。怒ってるさっちゃんも、泣いてるさっちゃんも、いじけてるさっちゃんも、笑ってるさっちゃんも、あざといさっちゃんも、ぜんぶぜんぶ俺が欲しい」
僕だって、僕だって、僕だって。心ばかりが焦って、何も言葉にならない。止まったと思った涙が、またじわじわと込み上げてくる。
「ゆっくりお互いを知っていこうって、前に約束したね」
あの日の約束を思い出す。僕を優しく包み込んでくれた先輩の甘い声。
――ゆっくりお互いを知っていきましょう。……ね、やくそく。
「けっこう、お互いのこと、わかってきたと思うんだ。どうかな?」
僕は、涙で濡れた顔で、先輩の言葉に小さくうなずいた。
「さっちゃん」
先輩の目が、情けない僕の姿を映し出す。
「俺はさっちゃんが好きです。俺と付き合ってください」
誠実で、とてもシンプルで、かっこいい。フミヤ先輩らしい告白だった。
時が止まったかのような静けさ。先輩は僕の返事を、ずっと待ってくれている。僕は激しく鼓動する心臓を押さえ、何度も嗚咽を繰り返した。そして、やっとのことで言葉を絞り出す。
「……はい」
何、この奇跡。
先輩が僕を好きだなんて、こんな奇跡ありえない。
「やった」
フミヤ先輩の嬉しそうな笑顔が、学校の外灯に照らされて輝いて見える。僕の胸の中で、喜びと恥ずかしさと動揺が、ぐるぐると駆け回っている。視線がまるで定まらない。挙動不審な様子で周りを見回しながら、僕は言葉を紡いだ。
「ぼ、僕だって、すごく嬉しいです! ……で、でも、メイクぐちゃぐちゃだし……鼻水垂れてるし……僕のタイミング的にどうかなって思うんですよね! ……い、いったんメイク直してきてもいいですか? 先輩の前では常にかわいくいたいので、……い、今の状況は大変遺憾です!」
文句を口にした瞬間、予想もしなかったことが起こった。フミヤ先輩の唇が近づき、そっと僕の唇に触れ――なかった。
「あっぶねぇ……」
フミヤ先輩は唇が触れ合うギリギリで一歩後ずさり、僕との間にわずかな距離を作った。僕は何が起きたのか理解できず、ただ呆然と先輩を見つめるばかりだ。
「今のはマジでやばかった。……さっちゃんがかわいすぎて、勝手にキスするとこだったわ。ほんとごめんね、さっちゃん」
先輩は自分自身を落ち着かせるように深呼吸をすると、僕に真面目なまなざしを寄越した。
「改めまして……さっちゃん、キスしてもいい?」
丁寧で、優しい声色。彼の瞳に映る思いの深さに、僕は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。先輩への思いが溢れる。やっぱり、フミヤ先輩はとことん誠実で優しい人間だ。
僕も、先輩とキスがしたい。
頬を赤く染めながら小さくうなずくと、先輩は嬉しそうに僕に近づいた。ぴったりと寄り添うように触れ合う僕たちの体に、心臓が痛いほどにわななく。
「あの、でもメイクがぐちゃぐちゃ――」
直前で怖気づいた僕の言い訳は、先輩の唇に塞がれてしまった。後頭部に差し入れられた先輩の長い指先。ほんの一秒の、小さな触れ合い。でも、その一瞬で僕の体は、真夏のチョコレートみたいにどろどろに溶かされてしまった。
唇を離した先輩が、吐息の伝わる距離でささやく。
「かわいいよ、さっちゃん。メイクぐちゃぐちゃでも、鼻水垂れてても。俺の思うさっちゃんのかわいさって無限大だから」
悪びれもせずそう言う先輩に、僕の顔はさらに紅潮していった。思わずフミヤ先輩の腕を軽く叩いてしまったが、力が入っていなかったのか、先輩は嬉しそうに僕の手を捕まえて笑っている。
「キスされたあとのさっちゃんもすげぇかわいいわ。ちょっと世間には見せられないレベル」
「先輩、意味わかんないし……」
どうしたって力が入らない。先輩は僕の手に指を絡ませ、さらに優しい笑顔を浮かべる。
メイクは崩れ、鼻水が垂れていても、フミヤ先輩の目に映る僕は、どうやらかわいいらしい。信じられない話だけれど、僕はもう疑うのはやめにした。だって、フミヤ先輩はいつだって僕に嘘をつかない。
勇気を振り絞って、フミヤ先輩の目をまっすぐ見つめた。
「フミヤ先輩」
言葉が喉まで出かかり、一瞬躊躇う。でも、もう後戻りはできない。
「今さらですけど、……僕、重くてすごくめんどくさいですよ」
僕は先輩をちらりと見据えながら、鞄からティッシュを取り出した。先輩は流れるような動作で僕の手からティッシュを奪うと、優しく丁寧に僕の涙と鼻水を拭い始める。僕は目を閉じて、先輩の手に身を委ねた。
「んー? 『あざとい』って思ったことはあるけど、さっちゃんに対して『重い』とか『めんどくさい』っていう感情にはなったことがないから、わかんねーわ」
「……えー」
おもむろに目を開ける。先輩の言葉に、僕は驚きを隠せなかった。
「モモには『さっちゃんはめんどくさい』っていつも言われてますよ、僕」
こんなにも広い心を持った人がいるのかと、一般人である僕の基準がばからしくなるほどだ。先輩の僕に対する評価は、まるでがばがばで心配になってしまう。
「……嫉妬もすごくします」
小さな声で告白すると、先輩は意外な反応を見せた。
「それは知ってる。だから、俄然燃えるんだけど」
知られていたのか。そう思う羞恥心と、言動から見え隠れする先輩の雄々しさに、胸がギュンと激しい音を立てるようだった。
「拗ねてる時わかりやすいから、誰かさんは」
からかうような目線を投げられ、ドクンと心臓が跳ねた。いったいどれだけ見透かされていたのだろう。目を合わせて探ろうとしたら、先輩の切れ長で涼しげな瞳に、危うく吸い込まれそうになる。
「俺からも言わせて、さっちゃん」
フミヤ先輩の表情を見て、冗談ではない真剣な感情が宿っているのを察知した。
「たぶん俺のほうが、はるかに重い」
どこか切実さが混じっている先輩の声。
「俺より先に死んだら許せないし、急に俺の前からいなくなったら見つかるまで探すし、車の自損事故とかマジでやめてね」
「……な、なんの話ですか、それ」
「俺の周りにいる大人の話」
その瞬間、先輩の心の奥底に潜む深い孤独のようなものが、ふっと僕の心に伝わってきた。亡くなってしまった先輩のお父さん、いなくなってしまった次のお父さん、自損事故に遭ってしまったらしい先輩のお母さん。先輩は普段、家族について話すことはなかったけれど、日々僕が知らないさみしさに触れているのかもしれない。こんなのただの想像だ。でも、愛おしさがいくつも込み上げ、無視できなくなっている。
先輩の手に触れた。その手を強く握って誓う。
「僕は先輩より先に死にませんし、急にいなくなりませんし、車の自損事故はしません。ていうか、免許は先輩が取って、僕をドライブに連れていってください。フラワーガーデンとか、おいしいパフェがあるお店とか、アウトレットモールとかがいいです。よろしくお願いします」
強張っていた先輩の表情が、ほっとするくらい柔らかくなる。
「いいね。一緒に行こう、さっちゃん」
フミヤ先輩の顔に浮かぶ、力の抜けた少年のような笑顔。その表情を今、この瞬間、僕だけが独占しているのだと思うと、胸が高鳴り、嬉しさで目眩すら感じてしまう。
僕は上目づかいで先輩の瞳を覗き込んだ。リップが取れてしまった唇を小さく舐めながら、震える声で言う。
「……先輩、もう一回」
「ん?」
先輩の困惑した表情に、さらに勇気を出して続ける。
「もう一回、……キスしてください、先輩」
先輩は小さく息を吐くと、神妙な顔つきで僕の体を引き寄せた。先輩の舌が僕の口の中に入ってくる。誰もいない校舎裏の隅っこ。遠くに聞こえる生徒たちの声も、野球部のかけ声も、もはやどうでもいい。先輩の体にしがみつき、僕はまぶたを閉じて先輩の舌の感触を味わった。
先輩の肩甲骨、背骨、腰の筋肉。自分ではない、先輩の体に触れるたび、自分の中の細胞が新しく作り変えられていくみたいだった。恋しくて、愛しくて、自分以外の誰かに、こんなにも影響を受けてしまっていることへの出口のない怖さと喜びを強く実感する。
貪るようにキスを交わすうちに、息苦しさを感じ始める。息を切らして、先輩の胸を強く押し返すと、フミヤ先輩は、
「苦しくなっちゃった?」
と、まるで子どもをあやすように尋ねてきた。
目に見えてわかる経験の差に、苛立ちともどかしさを感じる。でも、ここのところいろいろと学んだ僕は、取り繕うことなく、素直に言葉を吐き出した。
「ぼ、僕にはレベルが高いので、今日はもうおしまいにします……」
きっと次はもっと上手にできるはずだ。
「……ん、わかった」
そんなに愛おしそうに笑わないでほしい。思わず照れくささに視線をさまよわせ、僕は学校の時計塔に目を合わせた。その途端、現実に引き戻される。
「せ、先輩、大変です! バイトの時間……!」
バイトが始まるまで、あと二十分もない。名残惜しいけれども、ゆっくりもしていられそうになかった。僕が歩き出すと、先輩はなぜか僕の手を掴んでもう一度僕を抱きしめた。
「え、ちょ、先輩……?」
「えー、やばい、バイト行きたくない……。俺、初めて思ったかも」
「……何を言って」
「さっちゃんと一緒にいたい。やだ。行きたくない」
冗談さを感じられない、本気の言葉。先輩の台詞に驚きつつも、なんだかかわいらしく感じてしまう。本気で駄々をこねるフミヤ先輩はとても珍しくて、僕はにやけ顔を抑えながら「でも、行かないと」そう発破をかける。
「俺にバイト行きたくないって思わせた唯一の男、それが竹内幸朗」
「フルネームで呼ぶな……」
照れを隠すように言い返しつつ、僕は先輩の背中に両手をぎゅっと伸ばして励ました。
「がんばってください、フミヤ先輩。バイトしてる時の先輩って、めちゃくちゃかっこよくて大好きです。……今日も見てます、僕。あの席に座って先輩のことずっと」
カフェで店員をしているフミヤ先輩に出会ったあの日から、僕はあなたに夢中だ。愛しい気持ちを込め、心から先輩を尊敬の目で見つめると、先輩は観念したみたいに笑った。
「……今のは効いた」
ぐぐっと背伸びをして、首をポキポキと鳴らすと、「うっしゃ、やるか」と先輩がオンモードに変わる。
「おいで。一緒にバイト先まで行こう。俺のお客様で、俺の後輩で、俺のメイドさんで、俺の恋人のさっちゃん」
僕は先輩に向かって元気いっぱいに言う。
「なげーよ!」