お昼休み。スマホの画面に表示されたラインの通知に驚き、僕は持っている紙パックのジュースをこぼしそうになってしまった。
『さっちゃん。俺、今日バイト休みだから、一緒に帰んない?』
フミヤ先輩からのお誘いメッセージに、思わず顔がにやける。
『OKです!』
そうスマホに入力し、送信しかけたところで、ふと思い悩んだ。このメッセージだと、なんだか僕だけが張り切っているみたいだ。感嘆符を消して、『OKです』と送信した。けれど、送ってからすぐに、このメッセージだけだと簡素すぎるかもしれないと考え直す。急いでかわいい猫のスタンプも一緒に送ると、間も置かずに、すぐ先輩から返信が来た。
『放課後、三年の教室で待ってる。迎えに来て、さっちゃん』
まるで甘えるような先輩のラインに、「ふふ」と喜びを隠しきれない僕。
「最近いい感じじゃーん」
隣の席で一緒にお昼を食べていたモモは、にんまりとからかうように言った。僕は「まあね」と自信たっぷりに見えるように笑いながら、心の中で本当にそうだといいなと強く願う。
蓮くんとの過去はまだ吹っ切れていないけれど、フミヤ先輩を好きだと認めてから、少しだけ心が軽くなったような気がする。
夕暮れが迫る放課後。モモと別れ、オレンジ色に染まった廊下を歩きながら、僕の心臓は少し速く鼓動していた。入念にメイク直しをしていたら、教室を出るのが遅くなってしまった。
三年生の教室に近づき、そっと覗き込む。シンとした教室に佇む人影がひとつ。けれど、その影はフミヤ先輩のものではなかった。
紬先輩だ。彼女は静かに窓際に立ってスマホをいじっていた。窓から差し込む夕日に照らされた彼女の姿は、まるで絵画のようにきれいで、僕は思わず息を呑む。
紬先輩が僕に気づき、穏やかな微笑みを浮かべた。
「……あ、もしかして、文哉探してる? 幸朗くんだよね? 文化祭の時に名前呼ばれてたから」
我に返った僕は、少し慌てて答える。
「あの、……はい。フミヤ先輩はどちらに……?」
紬先輩の表情が一瞬曇ったように見えた気がした。けれど、すぐに優しい笑顔に戻る。
「文哉なら、さっき担任に呼ばれてたから、たぶんまだ戻ってこないと思う」
「そう、ですか。ありがとうございます」
僕は少し落胆しながら答えた。気まずい沈黙がふたりの間に流れる。
教室に戻ろうか、それともここに残ろうか。不安になった僕は、スマホを取り出してラインを確認した。フミヤ先輩からのメッセージが一通届いている。
『たんにんによばれた。すぐもどるからおれのきょうしつでまってて』
全部ひらがなで、急いで打ったようなメッセージ。僕のことを考えて、慌てて連絡をくれたのだろう。その思いやりが愛おしくて、思わず「ふふ」と笑みがこぼれる。
「文哉からラインきてた?」
紬先輩の声に、思考が中断した。
「あ、はい。教室で待っててくれって」
僕は少し緊張しながら答えた。そして、勇気を出してフミヤ先輩の席に座る。紬先輩の視線が、まるで蔦のように僕の体に絡みついてくるような気がした。
「最近、よく一緒にいるんだね。文哉と」
彼女がフミヤ先輩を呼び捨てにするたびに、心を爪で引っかかれたような小さな痛みが生じる。でも、弱音を吐きたくなくて、リップを塗った唇をしっかりと上げ、強がりでも構わないと笑顔を作った。
「そうなんです。フミヤ先輩がお弁当を作ってくれて、時々一緒に食べてます」
言葉を発した瞬間、己の醜さに気づく。これが卑怯なマウントだということに、紬先輩はきっと気づいてしまっただろう。でも、僕だって何もなかったように引き下がるわけにはいかない。
「私も食べたことあるよ。文哉のお弁当って、おいしいよね」
紬先輩は苦笑いしながら答えた。
「文哉ってみんなに優しいから」
はたして彼女の言葉は、本当に僕に向けられた言葉だったのだろうか。もしかしたら彼女自身、僕と同じような切なさを抱いているのかもしれない。ふたりともフミヤ先輩の優しさに触れ、その心を求めている。平等に向けられた優しさの中で、たったひとつだけ特別な感情を探して。
また沈黙が教室を包む中、ふいに紬先輩の声が静寂を破った。
「私ね、文哉のこと好きなんだ」
はっきりと声に出して言われた真実に、僕は尻込みした。紬先輩の瞳には、僕がまだ持つことのできない決意が宿っている。心臓が激しく鼓動し、何も言葉にならない。
「私が昔、友人関係で悩んでた時、すごく力になってくれたの。電話で泣いてたら、夜中なのに会いに来てくれて、文哉のそういう優しいとこ、本当に大好き。幸朗くんは聞いてるかな? 文哉も昔、いろいろあったから……今度は私がそばにいてあげたいなって」
フミヤ先輩から直接聞く事実以外は、僕にはなんの価値もない。そう頭では理解しているのに、彼女から聞かされるふたりの関係性にひどく劣等感を覚えている。
「文哉とは中学からずっと一緒なんだ。ははっ、あいつが泣いてるのも見たことあるんだよ?」
これ以上何も聞きたくない。ここから逃げ出してしまいたい。
「文哉が一番嫌いなもの、なんだかわかる?」
紬先輩が静かに続ける。柔らかなその声に、僕の心臓は抉られるような感覚がした。
「嘘をつかれること」
どうしてそんなことを僕に言うんだろう。
僕は机の上でぎゅっと手を握った。紬先輩の真意はわからない。だけど、どんなに僕が嘘に紛れたとしても変わらない気持ちがある。フミヤ先輩への思いだけは、僕の胸の中にもちゃんと。
「……僕も、フミヤ先輩が好きです」
言葉がようやく口からこぼれ出た。紬先輩の澄んだ瞳が、まっすぐに僕を射抜く。
「文哉のどんなところが好き?」
「先輩の好きなところはいっぱいあります。でも、それは僕だけの想いだから、あなたには言いません」
「……そっか」
僕と紬先輩は、じっと互いを見据える。
「なんだか、ドラマみたいだね、私たち」
「……そうですね。それはちょっとだけ、思います」
「ドラマだったら、私のこと誰に演じてほしいかなぁ……。強気な女の子がいいな」
「僕は、イケメンがいいです。できれば、色白の」
「じゃあ文哉は? イメージできる俳優さんいる?」
「フミヤ先輩は……わかりません。だって、フミヤ先輩はフミヤ先輩だから、誰も代わりなんてできない」
「そうだよね、わかるよ……。文哉は特別だもん」
どちらからともなく、ふっと苦笑いをこぼし合った。ライバルであり、同じ気持ちを抱える仲間でもあるという奇妙な連帯感が、ふたりの中で生まれているような気がした。
そんな時、廊下から急ぐような足音が近づいてくる。
「さっちゃん、ごめん。お待たせ」
教室の入り口からフミヤ先輩の声が響いた。僕と紬先輩は、一瞬目を合わせ、そして同時に振り返った。フミヤ先輩は、少し息を切らしながら教室に入ってくる。
「おー、紬。まだいたんだ」
フミヤ先輩の声には、少し驚きの色が混じっていた。
「……うん。文哉と一緒に帰ろうと思って待ってた」
「え、マジ?」
先輩の笑顔は、いつもと変わらず優しい。
「ごめんな、紬。さっちゃんと約束してるから」
まっすぐに紬先輩を見て、フミヤ先輩は言った。少しの申し訳なさは感じられるものの、淡々とした物言いはフミヤ先輩らしい後腐れのないもので、僕はまるで自分が断られたかのように胸がぎゅっとなる。
「残念。じゃあまたね」
紬先輩が小さく手を振ると、
「行こう、さっちゃん」
フミヤ先輩が僕の顔を覗き込んで笑う。「はい」と返事をして、鞄を手に持った。
ふたりで廊下を歩きながら、フミヤ先輩の横顔を盗み見る。フミヤ先輩は、紬先輩と僕がどんな会話をしていたのか知る由もなく、今日あったキヨ先輩たちのおもしろエピソードを楽しげに話している。
――文哉も昔、いろいろあったから……今度は私がそばにいてあげたいなって。
紬先輩の声が頭から離れない。
昔、何があったんですか? いつか僕にも話してくれますか?
僕自身、フミヤ先輩に過去をさらけ出せないくせに。
言えない言葉は、僕の心の中で募っていくばかりだ。
「……僕、終わったかも」
モモの部屋のベッドに倒れ込み、天井を見つめながらぐったりとつぶやいた。
金曜日の夕方、モモの家でお泊まり会をするのを前から楽しみにしていたのだけれど、外はあいにくの曇り空だ。モモといれば、晴れだろうが雨だろうがいつだって楽しい時間を過ごせる。天気なんかよりも、問題は別にある。
「でもさ、あっちの先輩は関係なくない? 大事なのはさっちゃんとフミヤ先輩がどうかってことなんだし」
モモの声を打ち消すように低い雷鳴が部屋に響き、一瞬、部屋が青白い光に包まれる。
窓ガラスに雨粒が打ち付ける音が、ポツポツと聞こえ始める。降り始めた雨は、次第に激しさを増していった。僕の胸の内にある、抑えきれない感情の高まりを後押しするように。
僕は身を起こし、窓際に歩み寄った。ガラス越しに外を見ると、重々しい灰色の空から激しい雨が降り注いでいる。通りを歩く人々が、慌てて傘を広げていた。
「……はあ」
胸が苦しい。
時は数時間前まで遡る。廊下の角から僕とモモは、探偵のようにこそこそと様子を窺っていた。心臓がドキドキと鳴る中、僕は小声でモモに尋ねる。
「どの先輩?」
「今、自販機でカフェオレ買った人。ほら、緩く髪巻いてる」
友人と笑いながらカフェオレのパックにストローを差した、三年生の姿を捉えた。緩やかに巻かれた長い黒髪。愛らしくてぱっちりお目々の純情そうな横顔。華奢な体に鈴を転がすような声。
「ああ、やっぱり紬先輩じゃん……」
その瞬間、僕の中で何かが崩れ落ちた。その場にしゃがみ込み、胸の痛みを抑えようとする。
「さっちゃーん……」
心配したモモが、僕の横に座って顔を覗き込んできた。すべては今日のお昼休み、モモが語り出した衝撃的な出来事から始まった。
「言いづらいんだけどさ、実は昨日、見ちゃったんだよね……フミヤ先輩が女の先輩と一緒にいるとこ」
放課後、職員室へ向かっていたモモは、三年の教室でフミヤ先輩と紬先輩がふたりきりで話をしているのを目撃したという。話を聞いていた僕は最初、何でもないことだと思おうとした。だってクラスメイトなんだから、放課後に話をすることもあるだろう。
けれど、次にモモの口から語られた真実が、僕の心を凍らせたのだ。
「告白してたんだよね、その女の先輩」
――好きなの、文哉が。
紬先輩の声が、頭の中で鮮明に再現される。
――文哉にとって、ただの友達なのは知ってる。でもゆっくりでいいから、意識してくれないかな、私のこと。
僕がもたもたしている間に、いつの間にか彼女は僕を追い越してしまった。紬先輩に強烈な嫉妬心が浮かび上がる。認めたくないけれど、彼女のほうがよっぽど勇気があるじゃないか。先輩には選択肢がある。女の子の紬先輩も、男の子の僕も。
「さすがにこれ以上聞くのはまずいなって思って、帰ったんだよね……。だから、そのあとフミヤ先輩がなんて答えたかはわかんないんだけど」
優しいフミヤ先輩の返事が、脳内で勝手に捏造されていく。
――ゆっくりお互いを知っていきましょう。……ね、やくそく。
想像の中のふたりが甘ったるく約束を交わす。まるで心臓を誰かに絞られているみたいに、じわじわと痛みが広がっていった。
窓の外の雨を見ながら、僕はベッドの上にあるアルパカの形をしたクッションを抱き寄せた。アルパカの愛らしい顔が、腕の中でいびつに歪んでいく。
「僕さ、フミヤ先輩が好き……。誰にも渡したくないくらい、本当に好き」
「え、知ってるし。チョー今さらなこと言うじゃん……」
「今さらじゃない! 好きだってちゃんと確信したのは、二週間前の文化祭の時だもん!」
気になることと、好きになることは、僕の中ではまったく別物で明確な違いがある。けれど、モモの中ではどっちも一緒らしく、理解しがたいというように「ええ~?」と首を捻っていた。
雨音を背中に感じながら、僕は深いため息をついた。心の中の激しい葛藤が、言葉となって口をついて出る。
「でも、……なんか、もうやめたい」
その言葉を聞いた瞬間、モモの表情が一変した。彼女はベッドの上に飛び乗り、僕の肩をがくがくと揺さぶる。
「は? 何言ってんの!?」
モモの声には、驚きと怒りが混ざっていた。僕は目を伏せ、胸の痛みを抑えながら言葉を絞り出す。
「だって、なんか怖くなった……。小学生の時、僕が太ってたって知ったら、フミヤ先輩『無理』って言うかもしれないじゃん! 僕よりもかわいい紬先輩のほうがいいって言うかもしれないじゃん! 嫌われたら嫌だ……もうわかんない。なんか胸が苦しくて……辛い……」
現実の声となって僕の言葉が空気を震わすたびに、胸の痛みは増していく。以前は、ただはしゃいで先輩のことを気にかけていただけだった。カッコイイカッコイイと遊ぶように言い合っていた時は、もっと気楽で、単純だったのだ。でも今は、先輩への気持ちの重さに僕自身が押しつぶされそうで、怖くて仕方がない。
「さっちゃん……」
モモは僕の目を覗き込むようにしっかりと見つめ、確かめるような口調で言った。
「じゃあやめんだね? うちだって、さっちゃんが辛いのやだし!」
「……うぅぅぅ、やめなぁいぃ! モモのばか!」
抱きしめていたアルパカのクッションをモモに向かって投げつける。僕は情けなくモモに甘え、八つ当たりをしていた。モモはそこそこ威力のある攻撃をお腹で受け止め、思い切り眉根を寄せる。
「いった! 理不尽きわまりないんだけど!」
彼女は怒ったように声を荒らげたけれど、一瞬、どこか安心したみたいに目を細めたことを知っていた。やめたい、でもやめられない。僕の性格を誰よりもモモはわかっている。
「ちゃんと好きって言いなよ! ほんとさっちゃんはめんどくさい!」
お返しとばかりに、思い切りアルパカのクッションを投げられる。顔面で受け止めたけれど、まったく痛くはなかった。髪がボサボサになっただけだ。
「やだやだやだ! 怖くて言えるか、そんなの!」
「はぁ!? 出会ってすぐ、恋愛対象に入るかって聞いてた男の言葉とは思えないんだけどぉ!?」
「恋愛対象聞くのと、好きって言うのとは全然違うし!」
蓮くんに自分の気持ちを告げて振られた時、僕は僕の好きなものが次々に崩壊し、自分の好きがわからなくなった。もし同じようにフミヤ先輩に否定されて振られたら、僕はまた僕の好きなものをすべて見失ってしまうかもしれない。
「告るのも、諦めんのも、辛いのも、ぜんぶやだあ!」
もう一度モモにクッションを投げる。往生際が悪い僕の叫びに、モモは力強く返してきた。
「たったひとりライバルが現れたくらいでガタガタ言ってんなよ! 竹内幸朗! お前ちんこ付いてんだろ! しっかりしろ!」
「本名で呼ぶなぁ! ちんこって言うなぁ!」
僕たちがじゃれ合うようにクッションを投げ合っていると、突然テーブルの上でスマホが鳴り始めた。僕と同じようにぼさぼさ頭のモモが画面を覗き込み、極限まで目を丸くする。
「ね、ねぇ、さっちゃん! 先輩! フミヤ先輩から! と、取って! 今すぐ出て!」
スマホの画面に浮かび上がる『フミヤ先輩』の文字に、僕の心臓が跳ねた。
「てか、ビデオ通話だよ、さっちゃん!」
「先輩って、なんでこんな時に限っていっつもビデオ通話なわけ!?」
軽いパニックが僕たちを襲う。僕はベッドから飛び降り、姿見に映る自分を見つめた。銀色の髪は先ほどのモモとのバトルと雨の湿気のせいで膨らみ、リップは無残に取れて、目尻は赤くなっている。
「ビジュ死んでる……終わった……」
「うちが髪やるから、さっちゃん顔面整えて!」
「……うぅ、ありがとモモ」
モモが急いで僕の髪をブラシで梳く間、僕は震える指でマットタイプのリップティントを塗った。血色のなかった唇が、粘膜色の絶妙に色気のある唇に変身していく。鏡に映る自分を見て、少しずつ自信が湧いてくる。大丈夫、僕は今日もかわいい。
そうしてどうにか着信が切れる前に、通話を繋げることができた。
画面に映るフミヤ先輩の爽やかな笑顔に、心臓が高鳴る。
『さっちゃん、おつかれ。すげぇ雨だね、そっち平気?』
「へ、平気です。……フミヤ先輩、あの、ど、どうしたんですか……?」
必死にいつもどおりの自分を装ったけれど、もしかしたら先輩にはお見通しかもしれない。
どうやら先輩はバイトへ行く直前のようで、ハーフアップにきっちりと髪を整え、今日も悔しいくらい完璧なイケメンの姿になっている。駅の中にある通路の端でビデオ通話を繋いでいるらしく、画面の背景には、時折傘を手に忙しなく行き交う人々の姿が映った。
『ちょっとさっちゃんと話したくて……あれ、なんか部屋がいつもと違くない?』
さすが観察力が鋭い先輩だ。
モモは自分の姿が映らないよう、ベッドの隅っこに座っていた。さっきまでの僕たちの慌ただしさがよほどおかしかったのか、アルパカのクッションを強く抱きしめ、うつむいて必死に笑いを堪えている。クッションはぎゅうぎゅうに押しつぶされ、もはや原形をとどめていない。
「今、モモの部屋にいるんです。今日はお泊まり会で……あ、もちろん、モモとはお友達なんで、泊まりっていってもなんもないんですけど……ご、ご存じのとおり僕はゲイなので……男の人の体にしか、興味がないっていうか、……あ、でも別に男の人全般ってわけじゃなくて……ちゃんと人は選んでるんですけど……」
何言ってんだ、僕のばか。言葉が滑らかに出てこない。なぜこんなことを説明しているのか、自分でもよくわからなくなっていた。
『お泊まり会いいね。土屋が羨ましがるわ。あと、さっちゃんがゲイなのは、結構前から知ってるから大丈夫』
先輩の口元がゆっくりと緩んでいく。白い歯が少し覗く程度の、控えめでありながら魅力的な笑顔。
『モモちゃんもそこにいる? やっほー、モモちゃーん』
モモはぼさぼさの頭を揺らしてけらけら笑いながら、指先でバッテンの形を作った。
「今はビジュが悪いから、出演NGだそうです」
『ははっ、なんだそれ。じゃあ、また今度オファーすんね』
画面越しの先輩をじっと見つめながら、体が強張るのを感じていた。先輩はいったい何の用事で電話してきたのだろう。
僕の不安とは裏腹に、フミヤ先輩の声が画面越しに柔らかく響く。
『ラインより、直接、顔見て話したほうがいいと思って』
フミヤ先輩のそういう律儀なところがやっぱり好きだと感じた。そして、それと同時に、最悪の想像が頭をよぎる。
――ごめんね、さっちゃん。俺、彼女ができたから、これからはこんな風に電話できない。
喉の奥に石でも詰まったみたいに、うまく声が出せなかった。
『実は昨日、告白されたんだけどさ』
さらりと告げられた台詞に、全身の血が騒ぎ出す。雨は一層激しさを増し、部屋の空気が一瞬で重くなったように感じる。
「……あ……そ、そう、だったんですか」
咄嗟に知らないフリをした。また嘘をついた自分に対して、少しの嫌悪感を覚える。
『その子には、俺の正直な気持ちを伝えたから』
フミヤ先輩の隣に立つ、紬先輩の姿が脳裏に浮かんだ。嫌だ、先輩が誰かのものになってしまうなんて。そう思った瞬間、先輩の次の言葉が耳に入る。
『ほかにちゃんと知り合いたい子がいるから、ごめんって』
「……え?」
言葉の意味がよく理解できない。僕は目を見開いたまま、言葉を失った。
『話はそれだけ。あ、やば、普通に遅れるわ。バイト行ってくる。あ、さっちゃん、がんばれって言ってくれる?』
いたずらっ子のように先輩が笑い、僕は話の内容が理解できていない状態で、「が、がんばってください」と口にしていた。先輩が嬉しそうにうなずく。
『ありがとう。じゃあ、またね、さっちゃん』
返事をする暇もなく、ぱっと通話は切れた。僕はまだ呆然としたまま、暗くなったスマホの画面を見つめている。
「よかったじゃん、さっちゃん! 秒で解決してんのウケる!」
話を隅で聞いていたモモが、満面の笑みで僕に話しかけてくる。
「やっぱフミヤ先輩だよね! あはははっ、なんか、うち泣きそうになってきた。ほんっとに誠実だよ、あの人! マジであの先輩にならさっちゃん任せられるって思った」
モモの言葉に、複雑な感情が込み上げてくる。
「……無理だよ」
「何が?」
「僕ってほんとに嫌なヤツだ……」
先輩が誠実であればあるほど、僕の心に染みついた黒さが浮かび上がるのだ。
楽しそうにしていたモモの顔から、笑顔がゆっくりと消える。
胸が苦しくてしょうがない。すごく傷ついた女の子が存在するのをわかっているのに、心の中では喜んでしまっている。フミヤ先輩にはとても見せられそうもない、醜くて、いびつな僕の心。
「フミヤ先輩はいつも嘘がなくて、誠実で……でも僕は、先輩みたいにきれいじゃいられない……」
素直な気持ちを吐露すると、モモは必死に僕を励ましてくれる。
「何言ってんの? どこが? 好きなんだから、ヤキモチ焼くのも、取られたくないって思うのも当たり前じゃん!」
強く首を振って否定する。
今まで先輩に好かれようとしてついてきたたくさんの嘘が、まるで足元に溜まっていくみたいだ。どんどん体を埋め尽くして、今や息さえできない。心配してくれているモモにしがみつき、僕はきつく目を閉じた。
「……どうしよう、モモ。僕は、……先輩に優しくしてもらえるような男の子じゃない……」
いつかきっと神様のバツが下る。
『さっちゃん。俺、今日バイト休みだから、一緒に帰んない?』
フミヤ先輩からのお誘いメッセージに、思わず顔がにやける。
『OKです!』
そうスマホに入力し、送信しかけたところで、ふと思い悩んだ。このメッセージだと、なんだか僕だけが張り切っているみたいだ。感嘆符を消して、『OKです』と送信した。けれど、送ってからすぐに、このメッセージだけだと簡素すぎるかもしれないと考え直す。急いでかわいい猫のスタンプも一緒に送ると、間も置かずに、すぐ先輩から返信が来た。
『放課後、三年の教室で待ってる。迎えに来て、さっちゃん』
まるで甘えるような先輩のラインに、「ふふ」と喜びを隠しきれない僕。
「最近いい感じじゃーん」
隣の席で一緒にお昼を食べていたモモは、にんまりとからかうように言った。僕は「まあね」と自信たっぷりに見えるように笑いながら、心の中で本当にそうだといいなと強く願う。
蓮くんとの過去はまだ吹っ切れていないけれど、フミヤ先輩を好きだと認めてから、少しだけ心が軽くなったような気がする。
夕暮れが迫る放課後。モモと別れ、オレンジ色に染まった廊下を歩きながら、僕の心臓は少し速く鼓動していた。入念にメイク直しをしていたら、教室を出るのが遅くなってしまった。
三年生の教室に近づき、そっと覗き込む。シンとした教室に佇む人影がひとつ。けれど、その影はフミヤ先輩のものではなかった。
紬先輩だ。彼女は静かに窓際に立ってスマホをいじっていた。窓から差し込む夕日に照らされた彼女の姿は、まるで絵画のようにきれいで、僕は思わず息を呑む。
紬先輩が僕に気づき、穏やかな微笑みを浮かべた。
「……あ、もしかして、文哉探してる? 幸朗くんだよね? 文化祭の時に名前呼ばれてたから」
我に返った僕は、少し慌てて答える。
「あの、……はい。フミヤ先輩はどちらに……?」
紬先輩の表情が一瞬曇ったように見えた気がした。けれど、すぐに優しい笑顔に戻る。
「文哉なら、さっき担任に呼ばれてたから、たぶんまだ戻ってこないと思う」
「そう、ですか。ありがとうございます」
僕は少し落胆しながら答えた。気まずい沈黙がふたりの間に流れる。
教室に戻ろうか、それともここに残ろうか。不安になった僕は、スマホを取り出してラインを確認した。フミヤ先輩からのメッセージが一通届いている。
『たんにんによばれた。すぐもどるからおれのきょうしつでまってて』
全部ひらがなで、急いで打ったようなメッセージ。僕のことを考えて、慌てて連絡をくれたのだろう。その思いやりが愛おしくて、思わず「ふふ」と笑みがこぼれる。
「文哉からラインきてた?」
紬先輩の声に、思考が中断した。
「あ、はい。教室で待っててくれって」
僕は少し緊張しながら答えた。そして、勇気を出してフミヤ先輩の席に座る。紬先輩の視線が、まるで蔦のように僕の体に絡みついてくるような気がした。
「最近、よく一緒にいるんだね。文哉と」
彼女がフミヤ先輩を呼び捨てにするたびに、心を爪で引っかかれたような小さな痛みが生じる。でも、弱音を吐きたくなくて、リップを塗った唇をしっかりと上げ、強がりでも構わないと笑顔を作った。
「そうなんです。フミヤ先輩がお弁当を作ってくれて、時々一緒に食べてます」
言葉を発した瞬間、己の醜さに気づく。これが卑怯なマウントだということに、紬先輩はきっと気づいてしまっただろう。でも、僕だって何もなかったように引き下がるわけにはいかない。
「私も食べたことあるよ。文哉のお弁当って、おいしいよね」
紬先輩は苦笑いしながら答えた。
「文哉ってみんなに優しいから」
はたして彼女の言葉は、本当に僕に向けられた言葉だったのだろうか。もしかしたら彼女自身、僕と同じような切なさを抱いているのかもしれない。ふたりともフミヤ先輩の優しさに触れ、その心を求めている。平等に向けられた優しさの中で、たったひとつだけ特別な感情を探して。
また沈黙が教室を包む中、ふいに紬先輩の声が静寂を破った。
「私ね、文哉のこと好きなんだ」
はっきりと声に出して言われた真実に、僕は尻込みした。紬先輩の瞳には、僕がまだ持つことのできない決意が宿っている。心臓が激しく鼓動し、何も言葉にならない。
「私が昔、友人関係で悩んでた時、すごく力になってくれたの。電話で泣いてたら、夜中なのに会いに来てくれて、文哉のそういう優しいとこ、本当に大好き。幸朗くんは聞いてるかな? 文哉も昔、いろいろあったから……今度は私がそばにいてあげたいなって」
フミヤ先輩から直接聞く事実以外は、僕にはなんの価値もない。そう頭では理解しているのに、彼女から聞かされるふたりの関係性にひどく劣等感を覚えている。
「文哉とは中学からずっと一緒なんだ。ははっ、あいつが泣いてるのも見たことあるんだよ?」
これ以上何も聞きたくない。ここから逃げ出してしまいたい。
「文哉が一番嫌いなもの、なんだかわかる?」
紬先輩が静かに続ける。柔らかなその声に、僕の心臓は抉られるような感覚がした。
「嘘をつかれること」
どうしてそんなことを僕に言うんだろう。
僕は机の上でぎゅっと手を握った。紬先輩の真意はわからない。だけど、どんなに僕が嘘に紛れたとしても変わらない気持ちがある。フミヤ先輩への思いだけは、僕の胸の中にもちゃんと。
「……僕も、フミヤ先輩が好きです」
言葉がようやく口からこぼれ出た。紬先輩の澄んだ瞳が、まっすぐに僕を射抜く。
「文哉のどんなところが好き?」
「先輩の好きなところはいっぱいあります。でも、それは僕だけの想いだから、あなたには言いません」
「……そっか」
僕と紬先輩は、じっと互いを見据える。
「なんだか、ドラマみたいだね、私たち」
「……そうですね。それはちょっとだけ、思います」
「ドラマだったら、私のこと誰に演じてほしいかなぁ……。強気な女の子がいいな」
「僕は、イケメンがいいです。できれば、色白の」
「じゃあ文哉は? イメージできる俳優さんいる?」
「フミヤ先輩は……わかりません。だって、フミヤ先輩はフミヤ先輩だから、誰も代わりなんてできない」
「そうだよね、わかるよ……。文哉は特別だもん」
どちらからともなく、ふっと苦笑いをこぼし合った。ライバルであり、同じ気持ちを抱える仲間でもあるという奇妙な連帯感が、ふたりの中で生まれているような気がした。
そんな時、廊下から急ぐような足音が近づいてくる。
「さっちゃん、ごめん。お待たせ」
教室の入り口からフミヤ先輩の声が響いた。僕と紬先輩は、一瞬目を合わせ、そして同時に振り返った。フミヤ先輩は、少し息を切らしながら教室に入ってくる。
「おー、紬。まだいたんだ」
フミヤ先輩の声には、少し驚きの色が混じっていた。
「……うん。文哉と一緒に帰ろうと思って待ってた」
「え、マジ?」
先輩の笑顔は、いつもと変わらず優しい。
「ごめんな、紬。さっちゃんと約束してるから」
まっすぐに紬先輩を見て、フミヤ先輩は言った。少しの申し訳なさは感じられるものの、淡々とした物言いはフミヤ先輩らしい後腐れのないもので、僕はまるで自分が断られたかのように胸がぎゅっとなる。
「残念。じゃあまたね」
紬先輩が小さく手を振ると、
「行こう、さっちゃん」
フミヤ先輩が僕の顔を覗き込んで笑う。「はい」と返事をして、鞄を手に持った。
ふたりで廊下を歩きながら、フミヤ先輩の横顔を盗み見る。フミヤ先輩は、紬先輩と僕がどんな会話をしていたのか知る由もなく、今日あったキヨ先輩たちのおもしろエピソードを楽しげに話している。
――文哉も昔、いろいろあったから……今度は私がそばにいてあげたいなって。
紬先輩の声が頭から離れない。
昔、何があったんですか? いつか僕にも話してくれますか?
僕自身、フミヤ先輩に過去をさらけ出せないくせに。
言えない言葉は、僕の心の中で募っていくばかりだ。
「……僕、終わったかも」
モモの部屋のベッドに倒れ込み、天井を見つめながらぐったりとつぶやいた。
金曜日の夕方、モモの家でお泊まり会をするのを前から楽しみにしていたのだけれど、外はあいにくの曇り空だ。モモといれば、晴れだろうが雨だろうがいつだって楽しい時間を過ごせる。天気なんかよりも、問題は別にある。
「でもさ、あっちの先輩は関係なくない? 大事なのはさっちゃんとフミヤ先輩がどうかってことなんだし」
モモの声を打ち消すように低い雷鳴が部屋に響き、一瞬、部屋が青白い光に包まれる。
窓ガラスに雨粒が打ち付ける音が、ポツポツと聞こえ始める。降り始めた雨は、次第に激しさを増していった。僕の胸の内にある、抑えきれない感情の高まりを後押しするように。
僕は身を起こし、窓際に歩み寄った。ガラス越しに外を見ると、重々しい灰色の空から激しい雨が降り注いでいる。通りを歩く人々が、慌てて傘を広げていた。
「……はあ」
胸が苦しい。
時は数時間前まで遡る。廊下の角から僕とモモは、探偵のようにこそこそと様子を窺っていた。心臓がドキドキと鳴る中、僕は小声でモモに尋ねる。
「どの先輩?」
「今、自販機でカフェオレ買った人。ほら、緩く髪巻いてる」
友人と笑いながらカフェオレのパックにストローを差した、三年生の姿を捉えた。緩やかに巻かれた長い黒髪。愛らしくてぱっちりお目々の純情そうな横顔。華奢な体に鈴を転がすような声。
「ああ、やっぱり紬先輩じゃん……」
その瞬間、僕の中で何かが崩れ落ちた。その場にしゃがみ込み、胸の痛みを抑えようとする。
「さっちゃーん……」
心配したモモが、僕の横に座って顔を覗き込んできた。すべては今日のお昼休み、モモが語り出した衝撃的な出来事から始まった。
「言いづらいんだけどさ、実は昨日、見ちゃったんだよね……フミヤ先輩が女の先輩と一緒にいるとこ」
放課後、職員室へ向かっていたモモは、三年の教室でフミヤ先輩と紬先輩がふたりきりで話をしているのを目撃したという。話を聞いていた僕は最初、何でもないことだと思おうとした。だってクラスメイトなんだから、放課後に話をすることもあるだろう。
けれど、次にモモの口から語られた真実が、僕の心を凍らせたのだ。
「告白してたんだよね、その女の先輩」
――好きなの、文哉が。
紬先輩の声が、頭の中で鮮明に再現される。
――文哉にとって、ただの友達なのは知ってる。でもゆっくりでいいから、意識してくれないかな、私のこと。
僕がもたもたしている間に、いつの間にか彼女は僕を追い越してしまった。紬先輩に強烈な嫉妬心が浮かび上がる。認めたくないけれど、彼女のほうがよっぽど勇気があるじゃないか。先輩には選択肢がある。女の子の紬先輩も、男の子の僕も。
「さすがにこれ以上聞くのはまずいなって思って、帰ったんだよね……。だから、そのあとフミヤ先輩がなんて答えたかはわかんないんだけど」
優しいフミヤ先輩の返事が、脳内で勝手に捏造されていく。
――ゆっくりお互いを知っていきましょう。……ね、やくそく。
想像の中のふたりが甘ったるく約束を交わす。まるで心臓を誰かに絞られているみたいに、じわじわと痛みが広がっていった。
窓の外の雨を見ながら、僕はベッドの上にあるアルパカの形をしたクッションを抱き寄せた。アルパカの愛らしい顔が、腕の中でいびつに歪んでいく。
「僕さ、フミヤ先輩が好き……。誰にも渡したくないくらい、本当に好き」
「え、知ってるし。チョー今さらなこと言うじゃん……」
「今さらじゃない! 好きだってちゃんと確信したのは、二週間前の文化祭の時だもん!」
気になることと、好きになることは、僕の中ではまったく別物で明確な違いがある。けれど、モモの中ではどっちも一緒らしく、理解しがたいというように「ええ~?」と首を捻っていた。
雨音を背中に感じながら、僕は深いため息をついた。心の中の激しい葛藤が、言葉となって口をついて出る。
「でも、……なんか、もうやめたい」
その言葉を聞いた瞬間、モモの表情が一変した。彼女はベッドの上に飛び乗り、僕の肩をがくがくと揺さぶる。
「は? 何言ってんの!?」
モモの声には、驚きと怒りが混ざっていた。僕は目を伏せ、胸の痛みを抑えながら言葉を絞り出す。
「だって、なんか怖くなった……。小学生の時、僕が太ってたって知ったら、フミヤ先輩『無理』って言うかもしれないじゃん! 僕よりもかわいい紬先輩のほうがいいって言うかもしれないじゃん! 嫌われたら嫌だ……もうわかんない。なんか胸が苦しくて……辛い……」
現実の声となって僕の言葉が空気を震わすたびに、胸の痛みは増していく。以前は、ただはしゃいで先輩のことを気にかけていただけだった。カッコイイカッコイイと遊ぶように言い合っていた時は、もっと気楽で、単純だったのだ。でも今は、先輩への気持ちの重さに僕自身が押しつぶされそうで、怖くて仕方がない。
「さっちゃん……」
モモは僕の目を覗き込むようにしっかりと見つめ、確かめるような口調で言った。
「じゃあやめんだね? うちだって、さっちゃんが辛いのやだし!」
「……うぅぅぅ、やめなぁいぃ! モモのばか!」
抱きしめていたアルパカのクッションをモモに向かって投げつける。僕は情けなくモモに甘え、八つ当たりをしていた。モモはそこそこ威力のある攻撃をお腹で受け止め、思い切り眉根を寄せる。
「いった! 理不尽きわまりないんだけど!」
彼女は怒ったように声を荒らげたけれど、一瞬、どこか安心したみたいに目を細めたことを知っていた。やめたい、でもやめられない。僕の性格を誰よりもモモはわかっている。
「ちゃんと好きって言いなよ! ほんとさっちゃんはめんどくさい!」
お返しとばかりに、思い切りアルパカのクッションを投げられる。顔面で受け止めたけれど、まったく痛くはなかった。髪がボサボサになっただけだ。
「やだやだやだ! 怖くて言えるか、そんなの!」
「はぁ!? 出会ってすぐ、恋愛対象に入るかって聞いてた男の言葉とは思えないんだけどぉ!?」
「恋愛対象聞くのと、好きって言うのとは全然違うし!」
蓮くんに自分の気持ちを告げて振られた時、僕は僕の好きなものが次々に崩壊し、自分の好きがわからなくなった。もし同じようにフミヤ先輩に否定されて振られたら、僕はまた僕の好きなものをすべて見失ってしまうかもしれない。
「告るのも、諦めんのも、辛いのも、ぜんぶやだあ!」
もう一度モモにクッションを投げる。往生際が悪い僕の叫びに、モモは力強く返してきた。
「たったひとりライバルが現れたくらいでガタガタ言ってんなよ! 竹内幸朗! お前ちんこ付いてんだろ! しっかりしろ!」
「本名で呼ぶなぁ! ちんこって言うなぁ!」
僕たちがじゃれ合うようにクッションを投げ合っていると、突然テーブルの上でスマホが鳴り始めた。僕と同じようにぼさぼさ頭のモモが画面を覗き込み、極限まで目を丸くする。
「ね、ねぇ、さっちゃん! 先輩! フミヤ先輩から! と、取って! 今すぐ出て!」
スマホの画面に浮かび上がる『フミヤ先輩』の文字に、僕の心臓が跳ねた。
「てか、ビデオ通話だよ、さっちゃん!」
「先輩って、なんでこんな時に限っていっつもビデオ通話なわけ!?」
軽いパニックが僕たちを襲う。僕はベッドから飛び降り、姿見に映る自分を見つめた。銀色の髪は先ほどのモモとのバトルと雨の湿気のせいで膨らみ、リップは無残に取れて、目尻は赤くなっている。
「ビジュ死んでる……終わった……」
「うちが髪やるから、さっちゃん顔面整えて!」
「……うぅ、ありがとモモ」
モモが急いで僕の髪をブラシで梳く間、僕は震える指でマットタイプのリップティントを塗った。血色のなかった唇が、粘膜色の絶妙に色気のある唇に変身していく。鏡に映る自分を見て、少しずつ自信が湧いてくる。大丈夫、僕は今日もかわいい。
そうしてどうにか着信が切れる前に、通話を繋げることができた。
画面に映るフミヤ先輩の爽やかな笑顔に、心臓が高鳴る。
『さっちゃん、おつかれ。すげぇ雨だね、そっち平気?』
「へ、平気です。……フミヤ先輩、あの、ど、どうしたんですか……?」
必死にいつもどおりの自分を装ったけれど、もしかしたら先輩にはお見通しかもしれない。
どうやら先輩はバイトへ行く直前のようで、ハーフアップにきっちりと髪を整え、今日も悔しいくらい完璧なイケメンの姿になっている。駅の中にある通路の端でビデオ通話を繋いでいるらしく、画面の背景には、時折傘を手に忙しなく行き交う人々の姿が映った。
『ちょっとさっちゃんと話したくて……あれ、なんか部屋がいつもと違くない?』
さすが観察力が鋭い先輩だ。
モモは自分の姿が映らないよう、ベッドの隅っこに座っていた。さっきまでの僕たちの慌ただしさがよほどおかしかったのか、アルパカのクッションを強く抱きしめ、うつむいて必死に笑いを堪えている。クッションはぎゅうぎゅうに押しつぶされ、もはや原形をとどめていない。
「今、モモの部屋にいるんです。今日はお泊まり会で……あ、もちろん、モモとはお友達なんで、泊まりっていってもなんもないんですけど……ご、ご存じのとおり僕はゲイなので……男の人の体にしか、興味がないっていうか、……あ、でも別に男の人全般ってわけじゃなくて……ちゃんと人は選んでるんですけど……」
何言ってんだ、僕のばか。言葉が滑らかに出てこない。なぜこんなことを説明しているのか、自分でもよくわからなくなっていた。
『お泊まり会いいね。土屋が羨ましがるわ。あと、さっちゃんがゲイなのは、結構前から知ってるから大丈夫』
先輩の口元がゆっくりと緩んでいく。白い歯が少し覗く程度の、控えめでありながら魅力的な笑顔。
『モモちゃんもそこにいる? やっほー、モモちゃーん』
モモはぼさぼさの頭を揺らしてけらけら笑いながら、指先でバッテンの形を作った。
「今はビジュが悪いから、出演NGだそうです」
『ははっ、なんだそれ。じゃあ、また今度オファーすんね』
画面越しの先輩をじっと見つめながら、体が強張るのを感じていた。先輩はいったい何の用事で電話してきたのだろう。
僕の不安とは裏腹に、フミヤ先輩の声が画面越しに柔らかく響く。
『ラインより、直接、顔見て話したほうがいいと思って』
フミヤ先輩のそういう律儀なところがやっぱり好きだと感じた。そして、それと同時に、最悪の想像が頭をよぎる。
――ごめんね、さっちゃん。俺、彼女ができたから、これからはこんな風に電話できない。
喉の奥に石でも詰まったみたいに、うまく声が出せなかった。
『実は昨日、告白されたんだけどさ』
さらりと告げられた台詞に、全身の血が騒ぎ出す。雨は一層激しさを増し、部屋の空気が一瞬で重くなったように感じる。
「……あ……そ、そう、だったんですか」
咄嗟に知らないフリをした。また嘘をついた自分に対して、少しの嫌悪感を覚える。
『その子には、俺の正直な気持ちを伝えたから』
フミヤ先輩の隣に立つ、紬先輩の姿が脳裏に浮かんだ。嫌だ、先輩が誰かのものになってしまうなんて。そう思った瞬間、先輩の次の言葉が耳に入る。
『ほかにちゃんと知り合いたい子がいるから、ごめんって』
「……え?」
言葉の意味がよく理解できない。僕は目を見開いたまま、言葉を失った。
『話はそれだけ。あ、やば、普通に遅れるわ。バイト行ってくる。あ、さっちゃん、がんばれって言ってくれる?』
いたずらっ子のように先輩が笑い、僕は話の内容が理解できていない状態で、「が、がんばってください」と口にしていた。先輩が嬉しそうにうなずく。
『ありがとう。じゃあ、またね、さっちゃん』
返事をする暇もなく、ぱっと通話は切れた。僕はまだ呆然としたまま、暗くなったスマホの画面を見つめている。
「よかったじゃん、さっちゃん! 秒で解決してんのウケる!」
話を隅で聞いていたモモが、満面の笑みで僕に話しかけてくる。
「やっぱフミヤ先輩だよね! あはははっ、なんか、うち泣きそうになってきた。ほんっとに誠実だよ、あの人! マジであの先輩にならさっちゃん任せられるって思った」
モモの言葉に、複雑な感情が込み上げてくる。
「……無理だよ」
「何が?」
「僕ってほんとに嫌なヤツだ……」
先輩が誠実であればあるほど、僕の心に染みついた黒さが浮かび上がるのだ。
楽しそうにしていたモモの顔から、笑顔がゆっくりと消える。
胸が苦しくてしょうがない。すごく傷ついた女の子が存在するのをわかっているのに、心の中では喜んでしまっている。フミヤ先輩にはとても見せられそうもない、醜くて、いびつな僕の心。
「フミヤ先輩はいつも嘘がなくて、誠実で……でも僕は、先輩みたいにきれいじゃいられない……」
素直な気持ちを吐露すると、モモは必死に僕を励ましてくれる。
「何言ってんの? どこが? 好きなんだから、ヤキモチ焼くのも、取られたくないって思うのも当たり前じゃん!」
強く首を振って否定する。
今まで先輩に好かれようとしてついてきたたくさんの嘘が、まるで足元に溜まっていくみたいだ。どんどん体を埋め尽くして、今や息さえできない。心配してくれているモモにしがみつき、僕はきつく目を閉じた。
「……どうしよう、モモ。僕は、……先輩に優しくしてもらえるような男の子じゃない……」
いつかきっと神様のバツが下る。