東の空から柔らかな薄紅色(うすべにいろ)の光が広がり始め、ようやく明るさを増していく早朝五時半。本来ならば誰もいない、朝の静寂に包まれているはずの教室には、(せわ)しない生徒たちの声が飛び交っていた。
 教室の一角に設けられたメイクスペースで、僕は今井の顔を真剣なまなざしで見つめている。今井は生まれたての子鹿みたいに震えながら、前の席に座った。

「お、お願いします、さっちゃん。てか、ほんとに俺らで大丈夫なの……? ムリゲーじゃね? 俺、ネットで(さら)されて一生笑われるとかないよね?」

 今日は文化祭当日だ。この日のために、僕たちはいろいろ準備してきた。メイド服を着る予定の生徒全員に、前日、入念にパックをしてもらってきたほどの張り切りようだ。
 机の上に並べた化粧品の蓋を開け、僕はにこりと微笑む。

「この僕がメイクするんだから、大丈夫に決まってんでしょ。やるって決めたんなら、覚悟を決めろよ、今井」

 今井は「は、はい……!」と従順な返事をしたかと思うと、恐々(こわごわ)とした様子で瞳を閉じた。
 窓から差し込む柔らかな光が、今井の素顔を照らしている。まず、僕は指先に取った()湿(しつ)クリームを、今井の顔全体に優しく塗り広げていく。その瞬間、今井の表情がほんの少しリラックスしたのがわかった。

「なんか、……人に塗ってもらうのって気持ちいいわ」

 ぽつりとつぶやいた今井の言葉に、隣でメイクをしていたモモが、

「めっちゃわかる。さっちゃん触り方が優しいんだよね。言葉はエグいけど」

 と笑って相槌(あいづち)を打つ。

「つーか、俺にきびあるし、にきび(あと)もあるし、さっちゃん触んの嫌じゃねぇ?」

 (きょう)(しゅく)して目を閉じながら、今井が言う。僕はクリームの爽やかな香りを肺いっぱいに吸い込み、

「全然嫌じゃない。むしろ楽しいし、触らせてくれてうれしい」

 そう淡々と答えた。
 保湿した肌を少し乾かしてから、下地の入った容器をよく振り、手の甲に少し出す。肌の温度でなじませてから、今井の肌にスポンジで丁寧に伸ばしていく。今井の肌の質感が少しずつ変化していくのを、魔法をかけているかのような気分で見つめていた。
 全体に下地を塗り終えると、今度はファンデーションを手に取り、今井の肌色に合わせてブレンドしていく。ファンデーションブラシを滑らせるたびに、今井の肌に輝きが増していくのがわかる。それから、にきび痕とひげの痕をコンシーラーで整えて……。ピンクのチークで頬の血色感を出し、艶を残したい部分以外にフェイスパウダーを軽くたたく。

「俺、今どんな感じ? だ、大丈夫……?」
「大丈夫、大丈夫」

 モモと目を合わせて笑ったあと、僕はアイメイクに取りかかった。幅広でぱっちり二重の今井によく似合う、ベージュピンクのパレットできれいなグラデーションを作っていく。あえてアイラインは引かずに、アイシャドウの締め色で目の大きさを強調した。ビューラーでまつげを上げ、マスカラを慎重に塗る。そして最後にぷるぷるのリップグロスを唇に乗せたら完成だ。

「今井、目開けて」

 今井がゆっくりと目を開ける。「できたよ」と僕が言うと、にやにやと笑うモモに渡された手鏡を覗き込み、今井は驚きの声を上げた。

「俺、きれいじゃね……えっ、俺、めっちゃきれいじゃね!? さっちゃん、すげぇ! ちょっ、モモちゃん、見て! 俺、きれいじゃね!?」
「何回言うんだ、今井よ」

 モモがげらげらとツッコミを入れ、僕は満足げに微笑しながら、自分の作品を誇らしげに見つめた。やっぱりメイクの力はすごい。顔の印象だけではなく、自信さえも与えられる。

「今井、こっち見て」

 ぱっと振り向いた今井の肩を、つま先立ちして両手で掴む。

「メイクさせてくれて、ほんとにありがとう。きれいだよ、とっても」

 かぁっと今井の頬が赤くなり、その瞬間教室で準備をしていたクラスメイトたちがどっと歓声を上げた。

「さっちゃんすげー! マジで神じゃん!」
「今井、かわいい……俺、新たな扉開きそうなんだけど」

 調子に乗った今井が、メイド姿でくるりと回り、「うっふん」と男子生徒たちにウインクをする。

「……中身が今井だからやっぱ扉閉じたわ。ごめんな」

 なんでだよ、と今井が笑う姿を、ほっとして見つめた。彼にメイクをすることで、もし苦手意識を持ってしまったらどうしようと、本当は少しだけ不安だったのだ。不意打ちで「なんかメイク楽しいわ。今度、メンズメイク教えてよ、さっちゃん」そんな風に今井に言ってもらえたから、僕はほんの少しだけ泣きそうになってしまった。

「てか、さっちゃん、メイド服最高に似合ってんじゃん」
「ビジュ優勝してる」
「へへっ、ありがと!」

 自分でもよく似合っていると思う。ここのところ、一年の(ふく)(しょく)()のメンバーとともに、家でも学校でもずっと裁縫(さいほう)をしていた。
 首にしている艶やかな黒のチョーカーには、小さな銀色のチャームが付けられている。動くたびにふわりと広がるミニスカートと足のラインを強調する黒のニーハイソックス。ウエスト部分には、コントラストを付けるように白のエプロン。思い描いたとおりの完璧なメイド服だ。

「……竹内くんて自分に自信があっていいよね」
「ね、すごくない? ……私には無理。そんなに自信持てないもん」

 耳に入ってきた小さな声に反応したくなったけれど、僕は黙って教室の隅にいる彼女たちに微笑んだ。自分のことを自分で好きにならなきゃ、いったいほかに誰が好きになってくれるというのだろうか。
 言葉は魔法だ。「僕はかわいい」そう言い続けていれば、いずれ真実になる。

 ――俺、幸朗みたいなデブは無理!

 ふいに脳裏に浮かんだあの言葉。
 刃物で切られたみたいに心臓が痛くなって、思わず左胸を押さえた。どうして今思い出してしまったのだろう。今にもあの時の校舎裏の(にお)いが漂ってきそうで、ふるふると頭を振った。
 まだまだメイクが必要なクラスメイトがいる。けれど僕は、助けを求めるように、自撮りを一枚撮った。
『おはようございます、フミヤ先輩。メイド服、着ました』
 写真とメッセージを送ってすぐに、手の中のスマホがブブブブッと振動して驚く。フミヤ先輩からの着信だった。

「……もしもし、先輩?」

『おはよ、さっちゃん。もう教室いんだね、って俺らもだけど』
 先輩の後ろには、賑やかな声が絶えず聞こえている。
『すげぇかわいいよ、さっちゃん』
 朝早いからか、少しだけ(かす)れた先輩の低い声。

「……あ、ありがとうございます」

『さだー! こっち手伝ってー!』
『……あー、ごめん、呼ばれた。それだけ言いたかったから。じゃあまたあとでね』
 とても忙しない電話だった。たったひとこと「かわいい」と言うためだけに、先輩は電話してきたらしい。さりげない優しさに救われてしまった。先輩の声を聞いただけで、もう大丈夫だと思える。
 大丈夫、僕は今日もかわいい。



「ここのメイド喫茶、めっちゃいい!」
「男の子もメイド服着てんじゃん! ねぇ、入ろ入ろ!」

 教室の入り口には(ちょう)()の列ができ、廊下まで賑やかな声が響いている。僕たちのメイド喫茶は予想をはるかに超える(だい)(せい)(きょう)だった。
 教室内は甘い香りで満たされている。窓際にはレースのカーテンがかけられ、まるで別世界に迷い込んだかのような雰囲気だ。テーブルには水色のクロスが敷かれ、その上にかわいらしいパステルカラーの食器がテーブルを彩っていた。『うちらのクラス全員、マジで百均に足向けて寝るな』食器担当の友人たちによるありがたいお言葉だ。
 僕たちメイド担当はメイド服に身を包み、忙しく動き回っている。スカートがふわりと揺れ、ニーハイソックスが足元をかわいらしく演出していた。首元のチョーカーも、普段の僕たちよりどこか(ゆう)()な仕草に見せてくれている。

「お(じょう)様、おかえりなさいませ」

 僕が笑顔で迎え入れると、「きゃあ」と歓声が上がった。テーブルには、華やかなアイシングクッキーやかわいいデコレーションが施されたドリンクが並び、カメラを向ける人も多い。
 午前中のメイド喫茶は、まるで(あらし)の中にいるかのような忙しさだった。お客さんにたくさん写真をお願いされ、僕は愛想良く要望に応えていた。汗ばむ額を(ぬぐ)いながら、次々と押し寄せるお客さんに笑顔で対応していたら、見覚えのあるふたりが案内係のあとをついてくる。

「おお! さっちゃん、おつかれー」
「来てくれたんですか、先輩たち! うれしいー!」

 キヨ先輩と土屋先輩、ふたりの姿を認めた瞬間、僕の心臓がドクンと跳ねた。彼らと一緒にフミヤ先輩も来たかもしれないと思ったのだ。そんな僕の心を見透かしたのか、土屋先輩は、

「ああ、貞は午後ね。十四時から休憩時間」

 そうすかさず補足する。キヨ先輩も土屋先輩も「さっちゃん、ガチで似合ってるじゃん」と褒めてくれた。
 フミヤ先輩のクラスはお化け屋敷をしているみたいだ。しかも、先輩はお化け役で、「名字が貞で、髪も長いから、(さだ)()をやれ」と決められてしまったらしい。
 以前、一緒にお弁当を食べた際、なんの催しをやるのか聞いた僕に、

 ――俺らは……けっこう安直なやつをやるんだけど、うーん、まだ内緒。あんま期待しないで。

 と、先輩が微妙な顔をしていたのを思い出す。かわいそうだけれど、やっぱりちょっとおもしろい。

「貞は、いろんな意味で女の子をきゃあきゃあ言わしているよ」

 今まさにフミヤ先輩は貞男を(まっと)うしているらしい。そんな話を聞いたら、僕の好奇心を抑えられるわけがなかった。僕はさっそくみんなに許可を取り、休憩することにした。みんなは「さっちゃんは十分すぎるほど働いたから、自由にしていい」と口を揃えて言ってくれた。思えば夢中になるあまり、朝から働きづめでほかのクラスの様子もまったく見られていない。
 あとで行きたいクラスをチェックしながら、フミヤ先輩のクラスに向かっている途中、ふと声をかけられた。

「……あれ、幸朗?」




 喉がヒリヒリとひりつく。(れん)くんの声を久しぶりに聞いた瞬間、僕は体が凍りついてしまったような錯覚に陥った。

「……れ、蓮くん」

 なぜ彼がここに? 小学五年生の僕が初めて好きになった人――(すぎ)(やま)蓮くんがそこにいた。
 五年ぶりに会った蓮くんは、僕の記憶よりも男っぽく成長していた。声が低くなり、僕よりも身長が高くなっている。

 ――俺、幸朗みたいなデブは無理!

 過去の記憶が洪水(こうずい)のように押し寄せてくる。

「お、お前、すげぇ痩せて――」

 目を見開いている蓮くんの言葉を最後まで聞く前に、僕の体は勝手に動き出していた。廊下を走る足音が響く。心臓が耳元で激しく鼓動を打つ。

「ま、待てって、幸朗!」

 背後から追いかけてくる気配に、さらに恐怖が募る。

「こっちが入り口ですよ~! 今なら待ち時間なしで入れるよ~!」

 周りの音なんてよく聞いていなかった。前方に暗い入り口が見えた瞬間、僕は(ちゅう)(ちょ)なくそこに飛び込んだ。暗闇に包まれ、取り巻く空気が変わる。
 フミヤ先輩のクラスがやっているお化け屋敷の中だと気づいたのは、その数秒後だった。
 どうして、蓮くんがここにいるのだろう。二度と会いたくなかったのに。
 考えればわかることだ。文化祭は一般の人にも公開されていて、誰が来てもおかしくない。けれど、その時の僕には冷静に判断する余裕がなかった。
 冷たい空気が肌を刺す。どこからともなく聞こえる不気味な音。体から血の気が引いていく感覚がする。お化けが怖いんじゃない、先ほど会った蓮くんの存在に怯えていたのだ。
 小学五年生だった当時、僕と蓮くんは誰もが認めるほど仲が良かった。蓮くんはクラスの中でも活発なほうで、言いたいことははっきりと言う誰からも好かれる少年だった。僕は蓮くんが笑う時のくしゃっとした笑顔が好きだった。でも、蓮くんが好きなのは女の子だと知っていたから、誰にも言わずに僕の初恋は終わっていくはずだったのだ。あの夏の日がなければ。
 とても暑かったその日、校舎裏の水飲み場で僕と蓮くんは水を飲んで涼んでいた。

 ――幸朗って好きな人いんの?

 口からこぼれ出た水滴を手の甲で拭いながら、蓮くんが無邪気な様子で尋ねてくる。心臓が壊れそうになるくらい鳴っているのを感じていた。もし、ここで言わなかったら一生彼に思いを伝えることはないだろう。こくりと(つば)を飲み込む。

 ――ぼ、僕は……蓮くんが好き。

 長い沈黙のあと。

 ――ごめん。俺、幸朗みたいなデブは無理!

 あの時の僕はたしかにぽっちゃりしていた。ママが作ってくれるからあげが大好きで、毎日と言えるくらい食べていたのだ。でも、僕は自分のマシュマロみたいな手も、触ると心地いいほっぺも、嫌いじゃなかった。弾力のある太ももも、立派なおなかも、嫌いじゃなかった。なのに。
 ごめん。俺、幸朗みたいなデブは無理!
 好きな人のその言葉だけで、僕は僕の好きなものがわからなくなってしまった。自分の姿が猛烈(もうれつ)に嫌になって、その日から大好きだったからあげを食べることもやめて、学校へ行くのもやめた。
 家にひきこもり、食事も少ししか取らず、だんだんと痩せていく僕を見て、さぞかしパパとママは心配したことだろう。一ヶ月ほどたったある日、僕は鏡に映る自分を見て気がついた。いくら強引な方法で体重を減らしても、痩せられるわけじゃない、ただやつれていくだけだと。僕は鏡に映っている自分のことを、ちっとも愛せていなかった。

「僕は僕がかわいいと思える人間になる!」

 そう泣きながら宣言し、その日から運動を始め、健康的に理想体型へ近づく計画を立てた。僕は、自分の好きなものをこの手に取り戻したかった。それから、自分が納得できる理想の体型になれたのは小学六年生になった春頃だった。
 そして、猛烈に勉強し、誰も知り合いのいない私立の中学校へ入学した。そこでモモと出会い、一緒に(へん)()()が高く、さらに校則も緩い、パラダイスみたいな今の高校に入学したのだ。
 暗闇の中、震える手でメイド服の胸元を押さえた。心臓の鼓動が収まらない。
 僕が好きなものは……? 僕が好きな人は……?
 雑念が邪魔をして、またわからなくなる。
 暗闇の中、僕はふらつきながら前に進み始めた。こんにゃくがぶら下がっていたり、白い女の人が急に出てきたりしたけれど、何も感情がわかない。僕が好きなのは――。

「……幸朗ぉ。……待ってぇ」

 突然、背後から低い声が聞こえた。蓮くんが追いかけてきたのかもしれない。

「やっ、だ――!」

 咄嗟に手を振り上げて、後ろから迫る影を払おうとした瞬間、耳慣れた声が飛び込んできた。

「ごめん、待って、さっちゃん」

 暗闇の中で目を()らす。

「俺だって、俺。もじゃもじゃのフミヤ先輩」

 そこには、ホラー映画でおなじみな、貞子のコスプレをした先輩が立っていた。垂らしていた長い前髪をかき上げ、先輩が心配そうに顔を覗き込んでくる。先輩に会えた安堵感とともに、蓮くんのこととか、今までの出来事とかが一気に押し寄せてきて、心の中がごちゃごちゃになる。
 僕が好きなのは――。

「フミヤ、先輩……」

 涙がぽろりと頬を伝う。僕の口から漏れた不安げな言葉に、先輩の表情が明らかに曇った。

「やっべ……俺、そんなに怖がらせちゃった? さっちゃんが来てるって思ったら嬉しくて、ちょっとイタズラ心が――」

 先輩の言葉を最後まで聞く間もなく、僕は無意識のうちに先輩にしがみついていた。

「さっちゃん……?」

 先輩はびっくりした様子だったけれど、すぐに僕の背中に柔く手を回してくれた。

「ごめん。ごめんね、さっちゃん」

 先輩の声には申し訳なさが滲んでいた。僕は本当のことは何ひとつ言えず、ただ先輩の胸に顔を埋めて少しだけ泣いた。

「ほんとにごめんな」

 先輩の大きな手が、僕の背中をそっと撫でる。その優しさに、胸の奥が熱くなる。心臓の鼓動が、ゆっくりと落ち着いていくのを感じる。先輩の体温が、徐々に僕の恐怖を溶かしていく。しばらくそのままでいると、不思議と心が落ち着いてきた。そして、同時に忘れていた(しゅう)()(しん)が戻ってくる。

「す、すみません! 急に……抱きついたりして」

 目尻に浮かんだ涙を拭い、赤い顔で見上げると、先輩の優しい笑顔が目に入った。暗がりの中で、その笑顔だけは明るく輝いているように感じる。

「実物で見たらもっとかわいいわ。さっちゃんのメイド姿」

 こんな時でも先輩は褒めてくれる。貞子みたいな白い衣装を着ていても、ボサボサの黒髪でも、目の下に黒いクマの化粧をさせられていても。
 この人が好きだ、と思った。イケメンでも、もじゃもじゃでも、貞子の格好でも構わない。僕はフミヤ先輩が好きで、好きで、しょうがない。
 心の中の気持ちを認めてあげた途端、また心臓がドキドキしてくる。先輩の前で泣いてしまった後悔を隠すように、僕はわざと冗談っぽく言った。

「……ここ、エッチですか?」

 太ももの絶対領域を指さす。フミヤ先輩は「あー……」となぜか目線をさまよわせたあと、観念したように小さく笑った。

「そうだね。めちゃくちゃエッチ」

 僕と先輩が声を殺して笑い合っていると、奥から光が差し込んできた。(かい)(ちゅう)電灯を持った三年生の女子たちが、心配そうな表情で近づいてくる。

「どうしたの? ……文哉?」

 ひとりの女子が先輩に声をかける。この前会った紬先輩だ、そう認識した瞬間、別の女子が僕の存在に気がついた。

「あっ、一年生だ! てか、メイド服、かぁいい~!」

 僕は自分の泣き顔が見られないように笑顔を作り、ぺこりと会釈をする。

「俺、この子とちょっとだけ抜けるわ。すぐ戻るから」

 フミヤ先輩は紬先輩らのほうを向き、申し訳なさそうな表情で言った。「おっけー」と返事をするギャル風の先輩と、少しだけさみしそうにしている紬先輩。わかりやすいなと思う。彼女もきっと本気でフミヤ先輩が好きなのだろう。でも、僕だって好きだ。フミヤ先輩と出会って初めてわかった、僕はとても嫉妬深いのだと。
 先輩は僕と手を繋いで、お化け屋敷のゴールまで一緒に歩いてくれた。そして(ひと)()のない非常階段横のスペースに着くと、今度は僕の背中をとんとんと(なだ)めてくれる。喧噪(けんそう)から少しだけ離れた静かな空間で、先輩の優しさが染みわたった。僕の心臓の鼓動が、ゆっくりと日常を取り戻していくのを感じる。

「泣かせてごめんな。許して、さっちゃん」

 本当は先輩のせいじゃない。それでも、僕はまた嘘をつく。

「許しません」
「えー……」

 先輩の驚いた表情を見て、僕は続ける。

「僕と一緒に文化祭回ってくれないと……一生許しません」

 先輩の指先に、僕は自分の指先を絡めた。骨張った先輩の指。僕は僕の好きなものを、大丈夫、ちゃんとわかっている。

「ははっ、あざといな。つうか、そのつもりだったけどね」

 フミヤ先輩は楽しそうに笑った。先輩の笑顔に触れた分だけ、僕の心は軽くなっていく。

「さっちゃんはそうでなきゃ」

 先輩は僕のことをどう思っているんだろう? 少しは意識してくれているのだろうか。
 切れ長の瞳を細めて、先輩が意味ありげに笑う。

「この格好じゃ回れねぇから、教室で待ってて」





「さっちゃん、蓮ってやついなかったよ! 大丈夫だから、フミヤ先輩と一緒に行っておいで? てか、うちはさっちゃんの味方だし、お望みとあらば、そいつのこと、ぼっこぼこにできるから遠慮なく言って?」

 マシンガントークのモモを見ていたら、肩の力が抜けた。モモには中学の時、僕がゲイだと話した次の日に、蓮くんの話をしていた。あのあと、フミヤ先輩と別れてから、教室で待っていたモモに蓮くんと会ったと伝えたら、いつもは愛らしい彼女の顔が(おに)のような(ぎょう)(そう)になった。そして、学校の隅々(すみずみ)まで探してくれたのだ。それこそ自販機の隙間から、ごみ箱の中まで……。

「ありがと、モモ。でも、その気持ちだけで十分。モモを犯罪者にするわけにいかないし」
「そんなんいいよ! てか、うちも共演NGなやついっぱいいるし、やなやつのことは忘れてこ! ほら、メイク直さなきゃ! 待って、鼻テカってるから、とりま、あぶらとり紙貸す!」
「モモ、ありが――」
「あっ、ファンデもよれてる! 直すね! てかリップも塗り直すわ! さっちゃん、ちょっと黙ってて!」

 モモは矢継(やつ)ぎ早に言い放つと、勝手に僕の鼻の(あぶら)を取り、ファンデを直し、リップを塗ってくれている。彼女の手際の良さに感心しながら、僕は心の中でつぶやく。モモがいてくれて本当によかった。

「え、ごめん、聞こえちったわ。さっちゃん、なんか変なやつに絡まれた? 俺が話つけようか?」

 振り向くと、美人メイド姿になっている今井が、心配そうな顔で僕のところへ歩み寄る。
 どいつもこいつもいいやつだなとしみじみ思いながら、「大丈夫だよ、ありがとう、今井」と笑顔で返す。

「モモ、ついでに今井のメイクも直してあげて」
「おっけー! 今井、ちょっと(かが)んで。届かない」
「……ああ、ごめん」

 今井は足を思い切りガニ(また)にして、モモがメイクしやすいように顔を突き出した。あまりにもメイド服とミスマッチなその姿に、思わず笑みがこぼれる。
 和やかな空気の中、メイク直しを終えた僕たちのところに、クラスの女子たちが勢いよく駆けよってきた。興奮した様子で、息を切らしながら叫ぶ。

「聞いて聞いて! やばい! あっちの廊下に超絶イケメンがいた!」
「超絶イケメン……? 俺じゃなくて?」

 今井のふざけた発言に、モモは即座にツッコミを入れた。

「今井、ちょっと黙ってて」
「はーい……」

 モモの言葉に素直に従う今井。

「てか、うちの学校の上履きと制服だったよね!? え、あんな人、三年の先輩にいた!?」
「塩顔で笑顔がかっこよくて長髪で足長くて、マジでカンペキ! ちょー推すんだけど!」
「……は?」

 僕とモモは顔を見合わせて、おそらくまったく同じことを思った。まさか、そんな。

「さっちゃん」

 入り口から顔を現したフミヤ先輩の姿に、僕たちはぽかんと口を開けた。学校ではあのバスケの時しか見たことのない、イケメンバージョンのフミヤ先輩がそこにいる。
 スラリと伸びた手足。ただ扉の前で(たたず)んでいるだけなのに、その姿はまさにモデルのようだ。さっきまでもじゃもじゃしていた黒髪は今やきれいに整えられ、長髪の一部は後頭部でハーフアップに縛られている。
 日々隠れていた先輩の端正(たんせい)な顔立ちが、僕にも、そして僕のクラスメイトたちにも丸見えだった。高い鼻筋も、くっきりとした眉も、優しさの中に(しん)の強さを感じさせる瞳も。

「遅くなってごめんね」

 フミヤ先輩が楽しそうに僕に近づいてくる。クラスメイトもお客さんも、みんなの視線が彼の姿に集中しているのを感じ、僕は居心地の悪さを覚えた。

「あ、君が今井だ」

 フミヤ先輩は僕の隣にいた今井に視線を合わせ、どこかひんやりとするような、涼やかな笑みを浮かべる。

「へ……?」

 突然名指しされた今井は明らかに困惑した様子で、ぽかんと口を開けていた。

「覚えてない? この前、さっちゃんの膝を借りてたフミヤ先輩なんだけど」

 おそらく、今井の頭の中では僕の膝の上で寝ていたもじゃもじゃの先輩の姿と、現在のイケメンなフミヤ先輩の姿が徐々に(いっ)()しているはずだ。

「あっ、ああ、あの時の……! 覚えてます!」

 案の定、今井は大きく目を見開いて、何度もうなずいた。フミヤ先輩は今井に向かって、にこやかに話し始める。

「サッカー部一年、今井雅弘(まさひろ)。好きな食べものはオムライス。嫌いな食べものはピーマン。小中高とサッカーひとすじで、他校に二年の兄貴がいるんだよね? 中学では市の優秀選手にも選ばれてるし、ほんとすごいね、君」
「……な、なんでそれを……ご、ご存じで?」

 今井の驚きぶりに、僕も同感だった。クラスメイトの僕だって知らない今井の情報を、なぜフミヤ先輩が知っているのだろう。僕はすかさずモモの顔を見たけれど、彼女もわからない様子でふるふると首を横に振っていた。

「三年のキヨ……栗崎(くりさき)清一、知ってる? あいつが君のお兄さんの先輩で、いろいろ知っててさ、教えてもらった」

 にこにこと愛想のいい笑顔で、フミヤ先輩は今井の肩を抱き寄せた。僕はその光景を見て、胸がモヤモヤしていた。今井の耳元で何か言ったような気がしたけれど、僕にはよく聞こえない。今井は僕のほうを見て、「あ、そうなんスね」とぽつりと吐き出す。今井の顔がだんだんと赤くなり、さらにモヤモヤが募るばかりだ。

「ちょっと先輩、僕に用事なんじゃないんですか。構う相手、間違ってる……」

 我慢できなくなった僕は、フミヤ先輩のズボンのベルトをぐいぐいと引っ張った。今井に嫉妬する自分も大概(たいがい)だと思うが、先輩が今井にばかり話しかけて、構ってくれないのが悪い。
 フミヤ先輩は驚いたように僕を見つめ、そしてなぜか楽しそうに口角を上げた。

「ほんとにさっちゃんっておもろいね。なんつうか、俺が思ってるのと別の角度から来るっていうか」
「なんの話……」

 僕が不満げに聞くと、フミヤ先輩は「こっちの話」と笑いながら答える。

「そうだ、行く前にクッキー買っていきたいから、さっちゃん接客してよ。お店に行くって、約束したでしょ?」
「や、約束しましたけど……あの、改めて先輩の前でやるのは恥ずかしいんで、お断りします」
「こら、一年。先輩の言うことは聞かないと。俺だって貞男をやりきったんだからさ」

 先輩はなぜかノリノリだ。僕はいたずらっ子のようなフミヤ先輩をぎりぎりと(にら)みつけ、こうなったらヤケだと思いっきり笑顔を作り出した。

「おかえりなさいませ、お(ぼっ)ちゃま」
「はーい、ただいま、俺のメイドさん」

 先輩が余計なことを言うから、周りの女子から歓声が上がる。この人、わかってやってるんじゃないかと思い始め、僕は唇を強く噛みしめた。

「メイドさん、この()え萌えクッキーをひとつください」

 先輩の声には、どこか茶目っ気が混じっている。まるでこの状況を楽しんでいるかのようだ。……いや、絶対楽しんでる。

「はい、どうぞ。五〇〇円になりまーす!」

 先輩は代金を差し出し、僕からクッキーを受け取ると、「萌え萌えハート注入は?」と聞いてくる。

「……はい?」
「キヨと土屋が言ってた。『さっちゃんに萌え萌えハート注入してもらって、マジでかわいかった~』『あ、お前は貞男で忙しくて行けないか、かわいそう~』って、すっげぇうざマウントとられたからさ」

 涼やかな笑顔の中に、少しの(いや)()(いら)()ちを感じる。たしかにあの時、文化祭ハイだった僕はノリノリでやっていたかもしれない……。わざわざ遊びに来てくれたキヨ先輩と土屋先輩にはとても感謝しているが、お願いだから余計なことは言わないでほしかった。
 僕は無理やり口角を上げた笑顔を続け、

「萌え萌えハート注入~!」

 と両手でハートを作って、先輩のクッキーにおまじないをかける。こんなふざけた台詞を考えた今井の処遇(しょぐう)はあとで考えるとして、もっと問題なのはにやにやと笑っているフミヤ先輩だ。

「ありがとう、メイドさん。とってもかわいいクッキーだね。よかったら俺と一緒に食べない? ふたりっきりで」

 先輩の言葉に、僕はますます顔が熱くなるのを感じた。周りからの歓声がさらに大きくなる。

「先輩……もう勘弁してください……」

 小さな声でつぶやくが、先輩はにこやかな笑顔のままだ。

「えー、でもメイドさんのさっちゃんなんて、めっちゃレアだし。あと、困ってるさっちゃんもかわいいから、延長で。おじさん、さっちゃんのためにお金いっぱい持ってきたんだ」
「……あ、『エッチだねおじさん』の設定だったんだ」

 その時僕は、ようやく先輩のキャラ設定を理解したのだった。



 午後三時。梅雨の晴れ間の日差しが、雲の隙間から屋上を照らしている。僕とフミヤ先輩はたくさんのクラスを一緒に回ったあと、文化祭の喧騒から離れ、屋上で一緒に『萌え萌えハートクッキー』を食べていた。
 アイシングクッキーの甘い香りが()(くう)をくすぐる。ハート型のクッキーには、それぞれ淡いピンクや黄色、青や緑のアイシングが施されていた。表面には白い線で繊細なハート模様が描かれている。
 クッキーは見た目重視かと思えば、かなりおいしくて調理担当のクラスメイトたちに感心してしまった。一口かじれば、サクサクした食感と、口の中でほろりと溶けていくような甘さが広がる。

「おいしいですね、フミヤ先輩」
「だね。今日一日、貞男でがんばったから、甘いものが()みるわ」

 先輩の姿を横目で見ながら、僕は勇気を出して尋ねた。

「……どうして、急にイケメンバージョンで来たんですか?」

 フミヤ先輩は、クッキーを口に運びながらさらりと答える。

「さっちゃんは、こっちのほうが好きかなって思って」

 嬉しさと同時に、複雑な感情が湧き上がる。僕はずっとイケメンな先輩の姿を学校で見たかった。だけど、一緒にクラスを回っている最中、周りの女子も男子も先輩に夢中だった光景を思い出し、抑えきれない嫉妬心が込み上げてくる。

「やっぱり、みんなの前では、いつものもじゃもじゃのフミヤ先輩のままがいいです……」

 先輩は不思議そうな顔をした。屋上に吹く風が、先輩の整えられた黒髪を優しく揺らす。

「どうして?」

 その質問に、僕は思わず本音を漏らしてしまう。

「僕以外に見せちゃやです……」

 そう言いながら、僕は無意識のうちに先輩の服の袖を握っていた。自分の行動の浅はかさに、気づかないフリをしている。涼しい風が頬を撫でているけれど、僕の心にこもるばかりの熱は冷ませそうにない。
 先輩は僕の仕草を見て、優しく微笑んだ。その横顔は、一層大人っぽく魅力的に見える。

「さっちゃんが、またあざといこと言ってる」
「……嫌ですか?」
「嫌じゃないよ、全然」

 先輩の袖を握ったまま、顔を上げて先輩の目を見つめた。遠くで聞こえる文化祭の喧騒も、今はただのBGMだ。この瞬間、僕の世界には先輩しか存在していない。
 風に(あお)られて、髪が目に入りそうになった。先輩は僕の髪を()いて、

「さっちゃんさん、バイト中に髪を結ぶのはいいですか?」

 そんなことを言う。

「それはしょうがないから許します」

 本当は僕にこんなことを言う権利はない。お互いわかっていて、茶番を楽しんでいるだけだ。

「よかったー、許可出て。けっこう店長が喜ぶんだよね、客が増えるって」
「僕もそれで増えたお客さんですから」
「そう、さっちゃんは俺のお客様で、俺の後輩で、俺のメイドさん」
「メイドさんは今日だけですけど」
「えー、やだ。それこそ俺の前でだけやってよ。キヨたちにマウントとられた時、マジでキレそうになったからね」

 屈託なく笑っている先輩への想いが、この一瞬でさらに強くなっていくのを感じた。同時に、この気持ちを伝えるべきか、迷いも生じ始める。
 もう蓮くんの時みたいな思いは絶対にしたくない。伝えたらまたわからなくなってしまうのだろうか。先輩への愛しい思い。

「時々なら……いいですよ。メイドさん」
「やった。じゃあ、約束」
「約束はしません。だって、先輩と約束すると本当にやるまで終わんないんですもん」

 いい加減、僕もフミヤ先輩のことをちょっとずつ理解してきている。

「それが約束するってことじゃん」
「あっ、ちょっ、やだ!」

 じゃれ合いながら、結局僕の小指は先輩の小指と結ばれてしまった。また僕とフミヤ先輩の約束がひとつ増える。

「ねぇ、さっちゃん」
「なんですか?」
「本当は俺だって、君のメイド姿、ほかの男に見られたくなかったよ」

 先輩は笑っていなかった。指先にほんの少しだけ込められた力。不意打ちに放たれた言葉の()(りょく)たるや。僕は何も言い返せなかった。フミヤ先輩と僕は小指を絡め、先輩が次に言葉を発するまで、しばらくそのまま見つめ合っていた。



 一応、後日談がある。文化祭が終わる間際の閉会式のことだ。体育館に晴れやかな文化祭実行員のアナウンスが響き渡る。

(ゆう)(しゅう)(しょう)はメイド喫茶の1―A、代表竹内幸朗くん! そして、話題賞MVPはお化け屋敷で見事貞男役をやり切った3―B、貞文哉くん!」

 文化祭のトップ賞を勝ち取ってクラス代表で呼ばれた僕と、MVPを獲得(かくとく)したフミヤ先輩は(だん)(じょう)でハイタッチを交わした。
 割れんばかりの歓声の中、僕は思う。先輩のイケメンバージョンと、僕のメイド姿を学校で見られるのは、今日が最初で最後だ。僕と先輩、ふたりっきりの時は例外だけれど。