()()の湿った空気が教室に漂う六月。僕はA4のコピー用紙に描かれたメイド服を二枚並べ、完全に迷っていた。
 窓の外では、灰色の雲が重く垂れ込み、時折小雨が降ってはやむのを繰り返している。けれど、その憂鬱(ゆううつ)な天候とは対照的に、教室内は活気に満ちていた。
 クラスメイトたちはみんな、同じデザインのTシャツを着て、それぞれの持ち場で準備に励んでいる。ミシンの音、ペンキの匂い、そして興奮気味な会話が教室中に響き渡っていた。

「さっちゃんの案、どっちもいいよね~」

 モモの言葉に、クラスメイトたちは「だよねー」と深い共感を示した。
 メイド服の案はふたつだ。ひとつは(せい)()な印象の白を基調としたもの、もうひとつは少し大人っぽい黒をベースにしたデザイン。どちらも僕が何日もかけて考えたデザインだった。予算内で収めるために、(りょう)(はん)(てん)で売っているシンプルで安いメイド服を、僕好みにカスタマイズしようと考えている。

「ねぇ、今井と(なる)()! ふたりもこっち来てよぉ!」

 部活に行く準備をしていた男子生徒ふたりが、モモに呼ばれて教室の真ん中に集まる。サッカー部の練習に行こうとしていた今井は、僕の描いたメイド服を見比べ、思い切り肩をすくめた。

「……これさ、ほんとに俺らも着んの? さすがにキツくね?」

 今井の言葉に同意するように、鳴瀬も(じゅう)(どう)()が入っているリュックをぎゅっと握りしめ、そうだそうだとうなずいている。

「さっちゃんは美人だからいいよ!? でも、俺らのメイド服を見るやつら拷問(ごうもん)だろ!」
「さっちゃんはたしかに言うまでもなく……まぁ……アンタらは……うん……」

 女子生徒たちは今井と鳴瀬から目を逸らして、言葉を濁した。僕は今井と鳴瀬の顔を順番にじっと見上げる。

「さ、さっちゃん……何?」

 背が高く、(かっ)(ぷく)のいい彼らだが、見た目は整っているし、青ひげと伸ばしっぱなしの眉毛を整えればイケるはずだ。下地、ファンデーション、コンシーラー。頭の中でいくつものメイク道具が浮かんでは消える。
 僕は悪役みたいににやりと笑い、舌なめずりをした。(せん)(きょう)が不利であればあるほど、燃える性分だ。

「大丈夫。今井も鳴瀬も、僕が責任持って(ちょう)(ぜつ)美人メイドにしてあげるよ」
「お、俺たちが、超絶美人メイドに……!?」

 ある日突然、魔法少女に選ばれた女の子みたいに、今井は極限まで目を見開いて驚いていた。鳴瀬も大きな体を縮こまらせ、むぎゅっとリュックを抱きしめてつぶやく。

「さっちゃんって、見た目は(きゃ)(しゃ)なかわいさなのに、中身はマジで頼もしいよな……」

 うちの高校の文化祭は、地域でもかなり有名な恒例(こうれい)行事となっていた。しかもクラスごとに競い合い、特に(ゆう)(しゅう)な催しをしたクラスには賞が(あた)えられる。僕が目指すのは、もちろんトップ賞だ。

「え、今井たちずるーい! さっちゃん、うちも当日メイクして!」
「私も!」

 教室の飾り付けを担当している女子たちが、次々に僕に向かって手を上げる。

「ぜんぶ任せろ。お前ら、全員まとめて美人メイドにしてやるよ」

 きゃあああ、と黄色い声援が巻き起こった教室を、たまたま廊下を歩いていた生徒たちがなんだなんだと(いち)(べつ)してきた。

「さっちゃん、めっちゃ頼りになる~~!」
「なんかイケる気してきた」

 教室内がどっと盛り上がる。そんな中、僕の脳裏には、フミヤ先輩の姿が思い浮かんでいた。



 結局、メイド服の最終的な判断は僕に委ねられることになった。本当はそのまま自分で決めてしまってもよかったけれど、フミヤ先輩の意見も聞いてみたかったのだ。
 放課後。急いで新校舎の廊下を走った。先輩がまだバイトに行っていないことを祈りながら、三年の教室を覗く。

「あの、フミヤ先輩いますか?」

 ちょうど扉のそばにいた三年の女子生徒に聞くと、

「さだー! 一年生、来たよーって、貞いなくね?」

 とキョロキョロとあたりを見渡す。

「キヨ! 貞は?」

 キヨ、と呼ばれた黒髪の男子生徒はぱっとこちらを見据えた。以前、『土屋』と呼ばれていた茶髪の男子生徒も、気だるく顔を上げる。

「あいつ今、トイレ! あ、さっちゃんじゃん。すぐ戻ってくっから、ここで待ってなよ! こっちおいで、さっちゃん!」

 勢いよく名前を呼ばれ、僕はなんの考えもなしに彼らの元に近づいた。この前は話しかけづらかったけれど、会うのが二回目のせいか、今日は前よりも気後れを感じない。
 また雨が降り出したみたいだ。どんよりとした空を窓越しに見つめつつ、彼らの前に立つ。

「ここ、貞の席だから座って。ポッキー食う?」

 机の上に座っていた黒髪の彼は、にこにことお菓子を差し出してきた。ぺこりと会釈してフミヤ先輩の席に座り、僕はポッキーを一本だけもらう。一本で約十一キロカロリー。チートデーじゃないけれど、問題はないだろう。僕の体重からすれば、新校舎から旧校舎まで、約四分のウォーキングでチャラになる。

「……近くで見ると、さらに肌白いね、さっちゃんて」

 当然だ。三六五日、()(がい)(せん)ケアは欠かさない。

「なんか韓国のアイドルみてぇ。モデルとかそういうのやってんの?」
「やってないです」

 声をかけられたことは何度かあるけれど、すべて丁重にお断りした。

「えー、もったいねぇな」
「僕はどっちかと言うと、モデルよりも裏方に興味があります。メイクアップアーティストになりたいんです」

 メイクアップアーティストとは、テレビや雑誌などに登場するタレントや俳優にメイクを施す専門家だ。自分にスポットライトが当たるよりも、僕は表舞台に出るという強い覚悟を持った人たちの顔と人生を、鮮やかに彩りたい。

「しっかりしてんだね、さっちゃん」

 感心したように、黒髪の彼が言った。だけど現時点で、僕には感心してもらえるようなことなんて何もない。夢を語るのは簡単だ。実際に夢に近づくには、行動するしかないのだ。文化祭でみんなにメイクをするのも、僕にとっては今できることのひとつだった。だからこそ成功させねばと、誰よりも意気込んでいる。

「土屋先輩とキヨ先輩……ですよね?」

 上目づかいでポッキーを食べつつ、彼らに尋ねた。なぜ名前を知っているのか不思議そうにしていた土屋先輩が、()(てん)がいったように「ああ、貞か」とつぶやく。

「こっちが土屋。俺が(きよ)(かず)でキヨ。よろー!」

 キヨ先輩はさらさらの黒髪をかき分けて爽やかに笑い、対して塩顔イケメンの土屋先輩は、「うす」と小さく会釈をして耳にかかった茶髪を指先で直す。

「フミヤ先輩のこと名字で呼んでるんですね、おふたりは」

 とても仲が良さそうなのに、少し不思議な感じがして僕は尋ねた。土屋先輩は淡々とした口調で答える。

「クラスのみんなほとんど『貞』だよな。なんか高一の時からそうだから、今さら名前で呼ぶの()ずいっつうか。貞は貞っつうか」

 そうそうとキヨ先輩が笑ってうなずく。

「さっちゃんくらいじゃね、名前で呼んでんの。あーほかにもいるか、(つむぎ)ちゃんとか」

 ふいに女の先輩の名前が鼓膜を揺らし、一瞬心臓が波打った。動揺を隠すように、僕は笑顔でキヨ先輩の顔を見つめる。

「紬ちゃんと貞ってなんで仲いいんだっけ? 土屋、お前、知ってる?」
「たしか、中学から一緒だったんだろ」
「……へー、そうなんですね」

 できるだけ平静を装ったけれど、なぜかキヨ先輩も土屋先輩も僕の表情をじっと見つめてきた。何か勘づかれただろうか。僕は視線を逸らし、残りのポッキーをぽりぽりとハムスターのようにかじる。

「ちなみにさっちゃん、貞とはどういうご関係?」

 キヨ先輩が頬杖をついて楽しげに聞いてくる。心の中で『僕が先輩の仕事中にナンパした関係です』とつぶやいた。もちろん実際にそんなこと言えるわけもないので、愛想笑いで乗り切ろうと試みる。

「フミヤ先輩のバイト先で知り合ったんです。それから先輩にはよく面倒見てもらってます」
「あー、なるほどね。貞は面倒見がいいから」

 土屋先輩の飄々とした言葉に、小さくうなずいた。そう、フミヤ先輩は本当に優しくて、面倒見がいい。だからこそ、僕はその雰囲気に()かれてナンパしたのだ。

「ていうか、さっちゃんも貞のこと、けっこう面倒見てあげてるみたいだよね」

 土屋先輩の言葉に、僕は思わず顔を上げた。微妙ににやけているふたりの顔。フミヤ先輩のことが気になっているのを、彼らはわかっているのではないだろうか。そんな不安が頭をよぎる。

「そうですね、面倒……見てるかも、しれないような、気がしないでもない的な?」
「どっちだよ」

 言葉を濁す僕に、ふたりの先輩は優しく微笑んだ。よりにもよって膝枕をしてあげているシーンを思い出してしまった僕は、少しだけ頬が熱くなっている。

「そ、それより、かっこいいですね。土屋先輩のピアス」

 僕は土屋先輩の耳を指さした。話題を変えるためもあるけれど、実際、一目見た時からずっと気になっていたのはたしかだ。

「……どれ? これ?」

 左にみっつ、右にふたつ。彼の耳にはたくさん穴が空いていて、その中でも左にひとつだけつけられたフープ型のメンズピアスに目を奪われた。フープの表面に刻まれたシルバー特有の黒ずみ。シンプルな()りだけれど、()(こつ)さと色気が漂っていて土屋先輩の雰囲気にとってもぴったりだ。
 土屋先輩がフープ型のピアスに触れた時、僕はにこりと笑って言う。

「それです、そのフープピアス。よく似合ってます」

 土屋先輩はきょとんと目を瞬かせたあと、なんの迷いもなく僕に言い放った。

「あげる」
「えっ!? いいです! そんな意味で言ったんじゃないから! ほんとに! 待って、外さなくていいですって! いらない、いらない! よく見て、土屋先輩! 僕、ピアスの穴開いてないから!」
「穴開けたら、つければいいじゃん。あげる」
「いやいやいや! そういう問題じゃないですって!」

 焦る僕を尻目に、さっさとピアスを外そうとする土屋先輩と、「さっちゃん困ってんじゃん」とゲラゲラ笑っているキヨ先輩。

「……おい土屋、さっちゃんの初ピアスを俺から奪うなよ」

 そんな時、低い声が後ろから聞こえ、僕ははっとして振り向いた。フミヤ先輩が不機嫌そうに眉をひそめている。

「さっちゃんがピアスの穴開けたらぁー、俺が最初にプレゼントする予定なんでぇー、土屋くんは遠慮してくださぁーい」

 両方のズボンに手を突っ込んで、フミヤ先輩は冗談めかして口にした。
 はたしてそんな約束をいつしただろうか。どれだけ記憶を探してみてもわからないが、先輩にピアスをプレゼントしてもらえるのはやぶさかではないので、僕はちゃっかり黙っていた。

「あっそう」

 あっけらかんとそう言い、土屋先輩は何事もなかったかのように、片方だけ口角を上げて深く椅子(いす)に座り直す。若干、からかわれたような気がするけど、真相を知るのは土屋先輩だけだ。

「つーか、お前ら、なんで勝手にさっちゃんとたわむれてんだよ」
「お前のうんこがおせーからだろぉ」

 まるで男子小学生みたいなことをキヨ先輩が言う。

「違いますぅ! 男子ってすぐ不潔なこと言うぅ!」

 まるで女子小学生みたいな言葉を返したフミヤ先輩は、隣の椅子を引っ張ってきて、僕のすぐ近くに陣取った。

「キヨくん、ほんとに違うの。文哉は、私がゴミ捨て行くの手伝ってくれたんだって」

 いつの間に近くに来たのか、緩く長い髪を巻いた、誰が見ても美人と認めるような三年生の女子生徒が、頬を上気させながらフミヤ先輩のことを見やる。
 その甘ったるい視線に感謝以上の好意を見つけてしまい、僕は少しだけむっとして口を閉ざした。『文哉』なんて僕は一度も呼んだことがない。

「……へぇ。貞は相変わらず、やっさしいねぇ」

 新校舎のゴミ捨て場は、体育館の渡り廊下の先で、建物の外にある。気づかなかったけれど、たしかにゴミ捨てを手伝ってきたであろうフミヤ先輩の制服も髪も少し濡れていた。さりげない仕草で僕は彼女を見つめた。まったく水滴(すいてき)のついてない、彼女の制服、髪、足元。

 ――俺が持ってくから。
 ――え、でも……。
 ――いいよ、そこで待ってて。

 頭の中で、勝手に彼らの会話が流れる。わかっていたことだ。先輩は僕だけじゃなくて、世界中の誰に対しても平等に優しい。
 たとえ彼の前に突然宇宙人が現れて、

 ――ボクッテ……アナタノレンアイタイショウニハイリマスカ?

 そう尋ねたとしても、フミヤ先輩はきっと変わらない優しい瞳で受け入れるに違いない。

 ――ゆっくりお互いを知っていきましょう。……ね、やくそく。

 ざあざあと耳に雨音が響く。窓の外では相変わらず鬱陶(うっとう)しい梅雨の雨が、グラウンドを濡らしていた。

「ほんとにありがとね、文哉」
「マジでいいって、紬。ついでだから」

 この人が紬先輩。僕は意識的に彼女の名前を頭の中にインプットした。フミヤ先輩が呼び捨てにして、そしてフミヤ先輩に呼び捨てにされる関係性の人。
 はにかんだ笑顔を浮かべた紬先輩は、「じゃあ、また明日ね。文哉」とかわいらしく手を振る。控えめに光る桃色のグロスも、主張しすぎないブラウンのマスカラも、きれいな髪の毛のウェーブも、猫の目のように跳ねたアイラインも、僕の(しっ)()(しん)が邪魔しなければ絶賛していたはずだ。
 でも、今の僕はだめだ。バイセクシャルのフミヤ先輩は、女の子も男の子も選択肢になり得るのだ。そのことを否定したいわけじゃないし、これは僕の心の問題なのだとわかっている。ただどこか心細くて、胸が痛いだけだ。

「おー、またね」

 フミヤ先輩はフラットな態度で彼女に接したあと、すぐさま話題を変えるように僕の顔を覗き込んできた。

「さっちゃん、大丈夫? 俺がいない間、怖いことされなかった?」
「されてないですよ」

 嫉妬心を顔に出さないように、慎重に言葉を吐き出す。

「……貞くん? お前は僕たちをなんだと思ってんのかな?」
「俺に用事だったの?」

 キヨ先輩のツッコミを無視して、フミヤ先輩が尋ねてくる。そこで、ようやく僕は本来の目的を思い出した。

「文化祭でメイド服着るんですけど、どっちがいいか、フミヤ先輩の意見を聞きたくて」
「え、見る見る。見たい、見して」

 ノリ気なフミヤ先輩の様子に安堵しつつ、ポケットに入れていた紙を取り出して机の上に広げる。

「よかったら、キヨ先輩と土屋先輩も意見ください」

 キヨ先輩は「おー、いいよ」と身を乗り出し、土屋先輩は「俺らの意見でよければ」と答えた。
 教室のLED灯の下で、紙の上に描かれた二つのメイド服のデザインを並べる。自分の描いた絵を見られるのは、やっぱりどこか緊張した。

「すげぇ、さっちゃんがデザインしたの?」
「ちょこちょこアイデアを描き出しただけですけど」

 キヨ先輩は「それがすげぇんじゃん」と感心した声を出し、土屋先輩は真剣に二枚の絵を見比べている。フミヤ先輩は両手で口元を隠していて、どんな表情をしているのかよくわからない。

「いい? せーので指さしね。せーの!」

 キヨ先輩が声を上げる。

「これ!」
「こっち」

 キヨ先輩は白を基調とした清楚なメイド服、土屋先輩は黒をベースにした大人びたメイド服を指さした。肝心のフミヤ先輩は……。

「おい、何してんだよ、貞」

 先輩は先ほどと同じ姿勢で固まったままで、どちらも選んでいなかった。

「だって、迷うだろこんなん普通に」

 僕は意外にも、(ゆう)(じゅう)()(だん)なフミヤ先輩の新たな一面を知った。

「こっちは白のフリルがかわいいよね、あと白ってさっちゃんにめっちゃ似合いそうだし……。でー、えーと、こっちはスカート短いのもかわいいし、なんつうのこのニーハイとの絶対領域……? みたいなのが、……エッチだね」
「……うわ出た。『エッチだねおじさん』」

 おなじみのおじさんの登場に僕が半ば呆れていると、キヨ先輩は「ぶはっ」と噴き出していた。土屋先輩はわかりやすく不快感を露わにしている。

「貞、さっちゃんにセクハラすんのやめろよ……。今の、ほんとに……だめだぞ、お前。え、どうした? そんなん言うやつじゃねぇじゃん。俺の貞はそんなんじゃねぇよ……なぁ、目ぇ覚ましてくれよ、俺の貞……」
「誰がお前の貞だよ」

 一方で本気で説教している土屋先輩と、真面目につっこむフミヤ先輩の掛け合いがおかしくて、僕とキヨ先輩はけらけらと声を上げて笑ってしまった。

「さっちゃんが、笑ってくれたからいいものの、貞、お前ほんとに反省しろよ」
「やだよ。だってエッチなもんはしょうがないし、さっちゃんのエッチなメイドさん姿見たいし」
「さっちゃん、ほんと俺の貞がごめん」
「だから、誰がお前の貞だよ!」

 声を出して笑いながら、僕は見た目と中身のギャップのある土屋先輩のキャラをなんとなく理解し始めていた。ピアスをあげると言い張っていたのも、からかわれたに違いない。もちろん土屋先輩よりも一番ギャップがあるのは、オンモードではばっちばちに決まっているイケメンカフェ店員、オフモードはもじゃもじゃニキのフミヤ先輩だけれど。

「さっさと決めろって、貞。どっちにすんのよ」
「えー……どっちもいい……。どっちのさっちゃんも見たい……。さっちゃん、これさ、どっちも着てもらうわけには――」
「――いかないですね」
「あはははっ! 貞がキモすぎる! ほんとどーしたお前!」

 キヨ先輩がお腹を抱えて笑っている中、土屋先輩は「俺の貞……」といまだボケをかましている。
 リップサービスだとしても、先輩がどっちも見たいと言ってくれるのは悪い気がしない。二枚の絵を見比べているフミヤ先輩を、僕はにやけた顔で見つめた。

「そんなに悩むの珍しいな。初めて見た気がするけど……」

 土屋先輩がそう言うと、「えー、そう?」とフミヤ先輩が答える。

「選択するのも労力でめんどくせーから、とか言っていつも即決だもんね」

 と、キヨ先輩。

「コンビニで選ぶときも、貞って目に入ったもの買うんだよな。俺には理解できない」

 と、土屋先輩。

「え……そうなんですか?」
「そう! この前も味が好きとかじゃなくて、目が合ったアイス買ってて普通に引いた」

 キヨ先輩の言葉に、素直に驚いた。僕だったら、お気に入りのアイスを選ぶ。

「だってなんかご(えん)じゃん? (いち)()(いち)()じゃん?」
「意味わからん。自分が好きなのにしろよ」
「……てか、メイド服もそうしたらいいだろ。はい、目が合ったほうを選択!」
「……それはちょっと無理ッスね」
「なんでだよ」

 フミヤ先輩のバイトの時間が差し迫っていて、そのあとすぐに解散になった。

「一日ちょうだい。明日答えるから」

 別れ際、フミヤ先輩が申し訳なさそうに言い、僕は「迷いすぎですよ」とからかって笑った。
 その日の夜、ユキナちゃんとカンナちゃんと僕がメンバーのグループラインに、メッセージが来た。

 ――おにい、迷いすぎてて笑ってます。

 そんなメッセージのあとに送られてきたのは、真剣に悩んでいるフミヤ先輩の隠し撮りだ。頭を抱えながらフミヤ先輩が見ているのは、あらかじめスマホに撮影しておいた僕のメイド服のスケッチ。

 ――駆逐してぇ~~。

 ふたりのメッセージに、くすくすと笑いがこぼれ、顔に貼っていたパックが僕の太ももにひやりと落ちた。



 次の日の二時限目。
 体育の授業の終わりを告げるチャイムを、僕はテニスコートの近くにある日影でじっと待っていた。あと十分で終わりなのに、その十分が異様に長く感じる。

「誰か男子~、おっ竹内、お前なんでそんなとこに隠れてんだよ。悪いけどテニスボールを体育館の倉庫まで持ってってくれ」

 体育教師のお願いに、僕は愛らしい表情を作り出して肩をすくめた。

「……先生、大変申し訳ないんですが、信仰上の理由で、箸より重いものを持てないんです」
「……そうか、竹内。先生はお前の信仰を否定しないぞ」
「ありがとうございます。感謝します、先生」
「今からテニスコートでがっつり試合と、ボール片付け、どっちがいい?」

 地獄の二択だ。

「ボール片付けまーす……」
「おお、ありがとな! 気をつけて行ってこいよ、イケメン高校生、竹内幸朗!」

 本名で呼ぶな、と心の中でつぶやきつつ、イケメン高校生の僕は、先生の声に素直に応じた。重たいテニスボールの入った(かご)を抱え、体育館の倉庫へと向かう。外から扉を開け、入り口でシューズを脱ぐと、靴下のままペタペタと体育館に入った。
 その時、バスケットボールが弾む音と同時に、入り口に座っていた女子生徒たちの声が聞こえてくる。

「おい、さだー、やる気を出せ~~!」
「がんばれ、貞~~!」

 はっとして前方を見ると、女子が体育をしている反対側で、フミヤ先輩のクラスがバスケットをしていた。

「全然、やる気出さねぇ、ウケる」
「あいつ、ちゃんとすればマジでイケメンなのに、ほんともったいないよね」

 フミヤ先輩の教室内での評価が、ばっちりとわかる会話だった。体育の時間でも省エネモードなのが先輩らしい。
 僕は体育館倉庫にボールを片付けたあと、こっそりフミヤ先輩を見つめていた。体育館の喧騒(けんそう)の中、先輩の姿だけが僕の目に焼き付いている。

「先輩、がんばって」

 小さく声を出したが、声援が飛び交う体育館で、聞こえるわけがない。そろそろ戻ろうかと(きびす)を返そうとした時、だらだら立っていた先輩が髪をかき上げ、ふとこちらを見つめる。

「あ、さっちゃんだ」

 僕の心臓は大きく跳ねた。まるで奇跡のように、先輩が僕に気づいたのだ。はにかみながら、僕は小さく手を振った。
 先輩は口だけで「見てて」と僕に伝えると、手首につけていた髪ゴムで髪を後頭部でひとつに結び始める。

「お? ついに貞が髪の毛を結き始めましたよ」
「さだー! いけー! ほら、紬も」
「文哉ー! がんばれー!」

 紬先輩たちの声が響くタイミングで、先輩の目つきが一変した。いったい先輩は僕に何を「見てて」と言ったのか、そう不思議に思う暇もなく、先輩はすぐにバスケットボールを追いかける。
 バスケットゴールからリバウンドしたボールを奪うと、先輩の動きが一気に加速した。ドリブルをしながら、敵チームの選手たちを(たく)みにかわしていく。まるで水を得た魚のように。
 フミヤ先輩が目指すゴールは、僕のすぐ目の前だった。先輩は体育館シューズをキュッキュッと鳴らしながら、どんどん僕に近づいてくる。
 汗で濡れた前髪が風になびき、真剣なまなざしが輝いていた。半袖のジャージから見える引き締まった腕の筋肉。先輩の大きな手が、力強くボールを掴んでいる。
 そして次の瞬間、先輩は高くジャンプした。先輩の姿が、まるでスローモーションのように僕の瞳に映る。なんて(ちょう)(やく)(りょく)

「……う、わ」

 ボールを両手で掴んだまま、バスケットゴールに向かって上体を伸ばした先輩。
 ――ガシャーン!
 ボールがゴールを通過する音が、体育館中に響き渡った。フミヤ先輩のダンクシュートが決まった瞬間、つんざくような女子の歓声が広がってゆく。

「急にやる気出すんじゃねぇよ、さだあ! 出すなら始めから出せこらあ!」

 キヨ先輩が叫んでいるのをあっさりと無視して、ゴールから手を離した先輩が、床にすとんと着地する。心臓がバクバクと鳴る中、女子生徒たちの興奮した声が僕の耳を騒がせていた。

「すごっ」
「なんで? 貞が急にスイッチ入った!」
「やばい、めっちゃかっこいい!」

 僕の目の前でダンクシュートを決めたフミヤ先輩が、ゆっくりと近づいてくる。汗で濡れた髪が額に張り付き、乱れた息を整えながら歩いてくるフミヤ先輩の姿。僕は思わず見とれてしまい、その場から動けなくなっていた。

「さっちゃん、ここで何してんの」

 さっきのダンクシュートを決めた人間とは思えない、まるで(しゅう)(ちゃく)(しん)を感じさせない(たん)(ぱく)な声だった。

「あの、テニスボールを片付けに……。そ、それより! す、すごかったです。今のダンクシュート!」
「さっちゃんが見ててくれたから、やる気出た。かっこよかった?」

 冗談めかして首を傾げる先輩に、素直に感動を伝える。

「とっても、とってもとっても! かっこよかったです、フミヤ先輩!」

 僕の言葉を聞いて、フミヤ先輩は嬉しそうに笑った。その笑顔が、夏の陽射しのように僕の心を熱く照らす。

「ありがとう、さっちゃん。マジで、さっちゃんの(しょう)(さん)が一番疲れに効くわ」
「そんな、人をエナドリみたいに……」
「全然違うって。エナドリは飲みすぎ注意だけど、さっちゃんはいくら摂取しても大丈夫だから」

 さっきまで超絶かっこいい先輩だったのに、今や訳のわからないことを言っている。

「……先輩って、どこまでが本気かわかりませんよね」
「えー、なんで? ぜんぶ本気だよ。俺、嘘つくのも、嘘つかれんのも苦手だから」

 ささくれ立った部分をふいに触られたみたいに、ほんの一瞬だけ、心臓がずきりと痛みを感じた。

「あ、そうだ。悩みに悩んで出した、昨日の答え、今言わせて」

 フミヤ先輩は真面目な顔で、僕の目をまっすぐ見つめる。

「俺は黒のメイド服がいいと思う」

 決意がこもった瞳で宣言してきた先輩に、僕は一瞬戸惑った。ダンクシュートのインパクトがすごすぎて、メイド服のことをすっかり忘れていたのだ。
 先輩は考え抜いて、エッチな絶対領域がある黒のメイド服を選んだらしい。

「フミヤ先輩、正解です」

 僕のつぶやきに、フミヤ先輩は少し驚いたような表情を見せた。

「えっ、不正解もあったの? こえー、言ってよ、さっちゃん」

 体育館には、まだ興奮冷めやらぬ生徒たちの声が響いている。
 ねぇ知ってますか、フミヤ先輩。あなたが真剣に悩んでくれたから、どっちを選んだとしても僕にとってそれが正解だったんだって。