カフェの窓から太陽の光が差し込む、日曜日の午後。賑やかな話し声があちこちから聞こえてくる中、僕はテーブルに突っ伏して、人生で一度たりとも言うことはないだろうと思っていた台詞をぽつりとつぶやいた。
「先輩を好きになるのが怖い……」
「えっと、……どういう心理状態?」
メニュー表を見ていたモモが、戸惑いがちに僕に尋ねる。
「だから、先輩を好きになるのが怖いんだよ! ……なんか、僕では足りない気がする」
先輩が素敵すぎるのが悪いのだ。
フミヤ先輩は本当に優しい。先輩はこの前、傲慢だった僕を責めなかった。だけど、いくら計算してみても、僕が先輩にあげられるものはちっぽけなガラクタみたいなものだ。
「かっこいいなんて、誰でも言えるじゃん……! だって実際に先輩はかっこいいんだもん……!」
今日は先輩がシフトに入っていない日だけれど、先輩と出会えたこのカフェがあまりに愛おしく、今日もモモを連れて僕は『Cafe Miracle』に来ていた。先輩がいないのはさみしい。でもその分、聞かれたらまずいような内緒話が堂々とできる。
「よし! よくわかんないけど、今日はさっちゃんを元気づけるために、一日早いチートデーにしよ! うちはこの新作パフェにする。シトラスのやつ」
モモに同意し、こくりとうなずいた。
「……僕も、『シトラスティーパフェ』がいい。フミヤ先輩がおすすめしてくれたやつ」
「おっけー。注文しよ。店員さん、すみませーん!」
気だるく机に突っ伏した僕がふと顔を上げた瞬間、
「はい、お客様。ご注文をどうぞ」
上品に瞳を細めた先輩が、突如として目の前に現れた。
「び、びっくりしたー……。フミヤ先輩、こんにちはー」
モモが愛想笑いを浮かべ、若干棒読みで先輩に挨拶をする。
シフトが入っていないはずじゃとか、どこから話を聞いていたのかとか、僕は口をぱくぱくさせるだけで何も言えなかった。さすがモモだ。そんな僕の様子をすぐさま察知して、さりげないコミュニケーション能力で場を盛り上げる。
「さっちゃんから噂は聞いてますけど、フミヤ先輩ってほんとに学校で、もじゃもじゃバージョンなんですか? うち、まだ先輩と学校で会ったことないから、信じられなくてー」
「マジだよ、マジ。朝からもじゃもじゃにするために、三時間かけてスタイリングしてるから」
先輩は適当なことを言ってモモを笑わすと、いまだに何も言えない僕の顔を不思議そうに覗き込んできた。
「さっちゃん、どした? 具合悪い?」
「……ぜっ、全然、悪くないです。まったくもって、健康体です」
先輩は僕の言葉を信じていないのか、「んー」と首を傾げる。そして次の瞬間、周りの空気が一瞬で変わった気がした。フミヤ先輩の大きな手が、僕のおでこに触れたのだ。その動作ひとつだけで、僕は息の仕方さえ忘れそうになってしまう。
「熱はなし」
「……ほ、ほんとに元気です!」
まさかあなたのことで悩んでいますとは言えない。
「それならいいんだけど……」
先輩は少しだけほっとしたように眉尻を下げると、「注文はシトラスティーパフェふたつでいい?」と小さく首を傾げる。僕とモモは、大袈裟なくらい首を上下に振って答えた。
「かしこまりました」
オンモードの先輩は、学校にいる時よりもさらに大人びている。まっすぐな立ち姿、落ち着いた声のトーン。オシャレでレトロかわいい、そんなカフェの雰囲気を壊すことなく、むしろその良さを最大限生かして溶け込んでいた。
「……て、ていうか、フミヤ先輩、今日シフト入ってないはずじゃ……」
「パートさんの子どもちゃんが体調崩しちゃったみたいで、休みになったんだよね。だから、急きょピンチヒッター」
「そ、そうだったんですか……」
さっきはとても驚いたが、休日も先輩に会えた嬉しさが、じわじわと込み上げてきた。あまり顔に出さないように、僕は平常心を保ってにこりと口角を上げる。
「あ、そうだ。さっちゃん。明日一緒にお弁当食べない? 俺、弁当作ってくるからさ、アレルギーとかあったら教えて」
「えっ!?」
僕の平常心はどこへいったのか。半分くらい口約束だと思っていた僕は、とてもびっくりして先輩を見上げた。
「アレルギーはないですけど……ほ、ほんとにお弁当、作ってきてくれるんですか?」
「うん。屋上で食おうよ。よかったらモモちゃんも一緒に」
「はっ!?
なーに言ってるんですか! どーぞ、どーぞおふたりで! うち、たまにはひとりの時間作らないと、死んじゃうタイプなんで」
モモがドヤ顔でそう言うと、フミヤ先輩はまた疑うように瞳を細めて僕に問いかける。
「……さっちゃん、この子、嘘ついてない?」
おっしゃるとおり、嘘をついている。モモはみんなでわいわいするのが大好きな人種で、ひとりきりの時間がひどく苦手な子だった。先輩の鋭い洞察力に、僕は一瞬たじろぐ。嘘をつきたくない気持ちと、モモの気持ちを裏切りたくない気持ちの間で葛藤していた。
「あー……たぶん、嘘は、ついてないです。……だよね、モモ」
僕の言葉に、モモは首が取れそうなくらい肯定してみせる。
「……あの、フミヤ先輩、明日僕が迎えに行きます」
先輩はオンモードをわずかに解除したみたいに、とろけるような甘い笑顔を一瞬浮かべた。
「ほんと? じゃあ三年の教室来て。待ってる」
また凜々しい表情で業務に戻っていく先輩の後ろ姿を見送りながら、僕はもうすでに明日の先輩とのランチを心待ちにしていた。フミヤ先輩はふと振り返ると、
「あ、『シトラスティーパフェ』、今度は忘れないから」
ひとことそう言って、また歩き出した。
次の日の月曜日。モモはあさ子さんとビデオ通話を繋げて、中庭で食べるらしい。「嘘つかせてごめんね、モモ」と謝ると「逆にフミヤ先輩と食べないほうが怒るから」と勇ましい答えが返ってくる。
午後の柔らかな陽気が校舎全体を包み込む中、僕は緊張と期待が入り混じった心持ちで、三年生の教室がある新校舎に向かっていた。
新校舎の廊下を歩くたび、ピカピカと光るリノリウムの床や真新しい壁が目に飛び込んでくる。一、二年生が使っている旧校舎とは違い、新校舎は建物全体が輝いて見えた。
三年生の教室に近づくにつれ、僕の心臓の鼓動は速くなる。ドアの前で深呼吸をし、勇気を振り絞ってそっと中を覗き込んだ。
真ん中の列、後ろから三番目。
そこにいた先輩の姿は、いつもと少し違って見えた。友人たちに囲まれ、リラックスした表情で談笑している。背の高いフミヤ先輩とおそらく同じくらいの背丈だろう。ひとりは、黒髪で真ん中分けの見るからに陽キャっぽい男子生徒。もうひとりは、茶髪で耳にいくつもピアスがついている、細めでアンニュイなタイプの男子生徒。
一年生の僕と比べると、彼らは身長も、体格も全然違う。まるで大人と子どもだ。なんだか僕は彼らの姿に気後れして、声をかけられなかった。
どうにかチャンスを見計らいながら、じっと先輩の様子を窺う。
「――で、土屋が満員電車で、『人類は増えすぎた』とか真面目な顔で言ってさ」
黒髪を真ん中で分けている先輩が、けらけらと笑いながら言った。フミヤ先輩も机にだらりと突っ伏して、小さく肩を揺らしている。
「ほんとにあの満員電車なんとかしてくれよ。俺、こんなことするために人間に生まれたわけじゃねぇんだわ」
茶髪で耳にいくつもピアスがある先輩が、やけに感情を込めてつぶやく。
「じゃあなんのために人間になったわけ?」
黒髪陽キャ先輩が不思議そうに尋ねた。
「……今度みんなで、お泊まり会しよ」
茶髪アンニュイ先輩は、意外と交流を楽しむタイプらしい。
「だる」
フミヤ先輩がひとこと。
「真剣に聞いて損した」
と、陽キャ先輩。
「なんだよ。いいだろ、お泊まり会」
「やだ」
フミヤ先輩は机に突っ伏した状態で言う。
「なんだよ、やるかぁ? 俺怒らせたらやべーかんな? お前ら秒殺だよ?」
キレた演技で立ち上がる茶髪アンニュイ先輩に、陽キャ先輩が彼の腕を掴んで「全身、ほっそ!」と爆笑する。
彼らの大人びた見た目とは裏腹に、会話の内容はなんだかくだらない。
友人と一緒にいる時の先輩は、ユキナちゃんやカンナちゃんといる時とも違うし、僕といる時とも全然違う。
普段の丁寧な話し方ではなくて、飾らない先輩の一面が覗いていた。同級生が相手だとちょっと雑な感じで、それに返事も「んー」とか「あー」とか「わかる」とか「だる」とか、そんな必要最小限しか言葉にしないのだ。
僕は省エネ系男子高校生の神髄を特別に覗けた気がして、楽しくなってしまった。彼らの会話がまるで新鮮に聞こえ、ふっと笑みがこぼれる。そんな時。
「どうした? 誰かに用事?」
ひとりの男子生徒に後ろから声をかけられた。見知らぬ三年生だ、と認識する間もなく、彼がにかっと笑って言う。
「あ、さっちゃん?」
「え……?」
僕の中で小さな混乱が起きた。知らない人に名前を呼ばれている不思議。
「貞ー! お前が言ってた『かわいいさっちゃん』が来たぞ!」
次の瞬間、教室中の視線が一斉に僕に向けられた。貞って誰だろうと一瞬思考が飛び、フミヤ先輩の名字だと思い至る。
「おー、あれがさっちゃん。イケメンじゃん!」
「たしかに、さっちゃん銀髪だ」
フミヤ先輩の友人たちの声が、まるで波のように僕に押し寄せてきた。
ていうか、先輩はいったいほかの人たちに、僕のことをどんな風に伝えていたのだろう。動物園のパンダを見るような好奇心旺盛な瞳に射抜かれ、僕は思わず身を縮こまらせた。
フミヤ先輩はむくりとこちらを向き、さっきまでの気だるさが嘘のように、素早く立ち上がって口角を上げた。
「お前らさっちゃんて呼ぶな。さっちゃんさんて呼べ」
先輩は相当理不尽なことを言いながら、お弁当が入っていると思われる巾着袋をふたつ持って、僕のところに近づいてくる。
「さっちゃん、行こう」
いつも通りな先輩の優しい声が鼓膜を揺らし、僕はほっとして肩の力が抜けてしまった。
非常階段の重々しい鉄の扉を開けると、屋上の眩しい陽光が僕たちを包み込んだ。柔らかな風が頬を撫でる。青空が広がり、金網のフェンスの向こう側には小さな街の景色が一望できた。
「あ……」
だけど、所々に置かれたベンチには、すでに男女のカップルが陣取っていた。諦めそうになった僕を尻目に、フミヤ先輩はスタスタと給水タンクでできた影に座り、
「さっちゃん、ここおいで」
と、隣を指さす。
給水タンクの影は意外と穴場だった。ほかの人たちから見られないし、強い日差しが当たらないし、何より風が吹いていて心地がいい。
「さっき一緒にいた人たちって、先輩の友達ですか? 黒髪で真ん中分けの先輩と、おしゃれなピアスをつけてた茶髪の先輩」
「あー、キヨと土屋ね。……ダチだけど、さっちゃんは別に覚えなくていいよ」
「どうしてですか?」
「どうしても」
何を考えているのか、先輩は巾着袋を揺らすと、「それより、こっち」と無邪気に笑ってみせる。
「お口に合うか、わかりませんが……」
「やったー! ありがとうございます!」
手渡されたのは、かわいらしい猫のイラストが描かれた、パステルピンクのお弁当箱だった。先輩が持っているお弁当は色違いなのか、水色で同じように猫のイラストが描かれている。
明らかに先輩のイメージとかけ離れているのは、きっと妹さんたちのお弁当箱だからだ。僕がにこにこしていると、先輩はすぐに答えを教えてくれた。
「お察しのとおり、あいつらの弁当箱だから」
「だと思いました」
「それでは改めまして、どうぞ召し上がれ」
「ふふ、いただきます」
お弁当箱の蓋を開けた瞬間、香ばしい匂いが風に乗って僕の鼻をくすぐった。中身を見て、思わず感嘆の声を上げる。
「おいしそう!」
鮮やかな緑色のブロッコリーの和え物、オレンジ色の人参の飾り切り、真っ赤なミニトマト。その隣には、黄色い卵焼きがきれいに巻かれていた。隅には、濃い緑色のほうれん草のおひたしと、ふりかけがかけられた俵型の小さなおにぎりが三つ。
そしてメインのおかずには、こんがりと揚がったからあげが盛られていた。思わず口の中に唾液が溜まるのを感じる。そして当時に、不穏な痛みを心臓に覚えた。
もう自分には関係のない、終わったことだ。だけど、どうしても心が悲鳴を上げてしまう。
「さっちゃん?」
敏感な先輩が僕の心を見透かしてしまう前に、
「食べてもいいですか?」
そう言って、お弁当箱に箸を差し入れた。
先輩のお弁当は彩りも栄養もよく考えられていて、とってもおいしかった。僕の隣であっという間にお弁当を食べ終えた先輩は、購買で買っていたのか、追加の焼きそばパンを頬張っている。
僕は最後に残ったからあげふたつを、じっと眺めていた。箸を持つ手に汗をかいている。嫌な思い出が脳裏に浮かんでは、僕のことを責め立てる。
「どした? からあげ嫌い?」
本当のことを話すか迷って、結局、僕は嘘をつくことを選択した。
「す、すみません。僕、からあげが苦手で」
咄嗟に嘘をついてしまった自分に、じわじわと罪悪感が込み上げてくる。けれど、その罪悪感よりも、過去を知られてしまう恐ろしさのほうが勝ってしまっていた。
「あ、そうだったんだ。じゃあ次から違うおかずにするわ」
事実だけを受け取ってくれたフミヤ先輩は、けろりとした様子で僕のお弁当に残っているからあげをふたつ、ぱくりと食べた。
「ごめんなさい、先輩」
涼しい風が、僕たちの間を吹き抜けていく。フミヤ先輩は風で乱れた髪を、かき上げながら言った。
「なんで謝んの。言ってもらったほうが、次の精度上がんじゃん」
自然と期待してしまい、僕の口から傲慢な言葉が漏れる。
「……次も作ってくれるんですか?」
「いいよ。次はさっちゃんの好きなものたくさん入れるね。教えといてよ、好きなもの」
先輩は何気なく言っているようだったけれど、僕は泣きそうだった。
先輩の優しさと、僕の真っ赤な嘘。
焼きそばパンを何事もなかったように頬張る先輩の姿を見ながら、僕の中で後悔と感謝の気持ちが渦巻く。
「お礼に……僕の膝貸します」
冗談でかわされてもいい、本気にしてもらってもいい。とにかく僕は先輩にお返しがしたかった。お弁当箱を丁寧に巾着の中に片付けながら言うと、先輩はきょとんと目を丸くする。
「え、マジでいいの? 普通に遠慮しないけど」
「いいですよ」
少しだけ笑って、膝をぽんぽんと叩く。先輩は屋上の床に寝そべり、ゆっくりと僕の膝に頭を乗せた。
先輩の髪から甘いシャンプーの香りがする。僕は先輩の頭の重みを膝で感じながら、遠くの空を見つめていた。青空がきれいだ、なんてそんな理由じゃない。何かほかのことに集中しないと、うるさいくらい鳴っている心臓が壊れてしまいそうな気がしたからだ。
雲がゆっくりと流れ、風が優しく吹き抜けていく。遠くで鳴く鳥の声も、どこか遠い世界のもののように感じられる。
「さっちゃんの膝が一番いい」
ふいに先輩が言った。てっきり目を閉じていると思っていた先輩は、涼しげな目で僕の顔をじっと見据えている。
僕は動揺を隠すように、ゆっくりと乱れた呼吸を整えた。
「それって、僕以外に比べる対象があるってことですか。先輩ってやっぱモテるんですねー、へー!」
「あ、待って、違う違う。ないない。うちの母親にだってやってもらったことない」
「ふーん」
信じるか信じないかは僕の自由だ。
「さっちゃん、拗ねてんの?」
「拗ねてません」
「嘘だ。わかりやすくて、かわいいね、さっちゃんは」
先輩が長い腕を伸ばし、僕の髪に触れる。なんとなく慣れてる雰囲気を感じ取り、僕はますますわかりやすく拗ねることにした。
「先輩は僕と違って、かわいくないですね」
「それは初耳だわ」
うるさい先輩は放っておいて、僕は好き勝手に先輩の髪に触れることにした。先輩のおでこの髪の毛をあげると、もじゃもじゃで隠されていたきれいな瞳が見える。
「そういえば、もうすぐ文化祭だね。さっちゃんのクラスは何やんの?」
僕にされるがままになりながら、先輩が尋ねてきた。
「うちはまだ正式に決まってないんですけど、たぶんメイド喫茶だと思います」
「え、ガチ!?」
人が変わったような急激なテンションの上昇を受け、こっちのほうがびっくりしてしまった。
「……せ、先輩にしてはリアクションでかくないですか?」
不審がる僕に対して、先輩は軽い笑い声を上げ、「だってさ」と続ける。
「見たいでしょ、それは。さっちゃんのメイド姿。短いスカートとか穿くの? ニーハイも穿いちゃったり?」
「まぁ、たぶん」
この前クラスで話し合った時は、性別関係なくメイド服を着ようということに決まった。メイド服自体がかわいいし、やるならば徹底的にやるのが僕のモットーなので、一切妥協なしのガチンコ勝負で僕らしいメイド服に仕上げるつもりだった。
「エッチだね……。おじさん、お金たくさん持っていくわ……」
「ほんとにキモいおじさんみたいなこと言わないでくださいよ」
いったいフミヤ先輩は何を想像したのだろう。先輩の冗談に僕はドン引きしながらも、実は少しだけ嬉しかったりもする。本人には決して言わないけれども。
「カンナちゃんたちがいたら、『おにい、駆逐してぇ~~』って言われてますよ」
「絶対言うわ、あいつら。てか、さっちゃんに『おにい』って言われると、やっぱ……エッチだね」
「……『エッチだねおじさん』、うぜー」
ばかみたいな僕たちの会話がツボったのか、先輩はけらけらと目をつぶって笑い、そのたびに僕の膝が小刻みに揺れた。無邪気な先輩の笑い声。そんな風に、僕に素をさらけ出していいんですか? と問いたくなってしまう。
「先輩たちはなんの催しするんですか?」
「俺らは……けっこう安直なやつをやるんだけど、うーん、まだ内緒。あんま期待しないで」
なんだかよくわからないけれど、僕は「はーい」と返事をした。
「さっちゃんのクラス見に行く、絶対」
「僕も先輩のクラスに行きますね」
「よし、約束ね」
初めて会った時にカフェでしたように、僕たちは指切りげんまんをした。先輩と交わした約束がまた増えた。省エネだけれど、いつも有言実行のフミヤ先輩は、僕みたいに嘘をつかない。先輩がやるって言ったら絶対だ。そういうところがいいなぁと思う。
「今日もバイトですか?」
「……ん。午後四時から十時まで」
「大変じゃないですか?」
「んーん、慣れたし平気」
「えらいですね、先輩」
「ありがと。もっとよしよしして、さっちゃん」
冗談か、本気か、相変わらず飄々としていてわからない人だ。僕が適当に頭をよしよししてあげると、先輩は気持ちよさそうに笑い、今度こそ目を閉じた。
「寝てもいいですよ。チャイムが鳴る五分前に起こします」
「んー、ありがと……さっちゃん」
先輩の寝顔を眺めながら、僕はやっぱりせっかく先輩が作ってくれたあのからあげを、本当は食べたかったなと切なく思う。
フミヤ先輩の規則正しい寝息が聞こえてくる。先ほど食べられなかったからあげに対する未練が残っている僕は、時折、先輩のあどけない寝顔を眺めては心を静めている。
「あ、いたいた、さっちゃん!」
突然、騒がしい声が静寂を破った。
「俺、ずっと探してたんだよ。文化祭のことなんだけどさー」
屋上をきょろきょろと見渡していた同じクラスの今井が、テンション高く話しかけてくる。僕は慌てて人差し指を口元に当て、声をひそめて応じた。
「今井、静かに」
今井は驚いた表情を浮かべ、僕の膝ですやすやと寝ているフミヤ先輩の姿に気づく。
「え、……ごめん、って、この方は……どちら様?」
今井が怪訝そうに先輩を見下ろす。僕は説明に困り、「三年のフミヤ先輩」と事実だけを述べた。
「……付き合ってんの?」
急いで首を横に振る。心の中では「まだ」という言葉が浮かんでしまったが、口には出さない。
今井は困惑した様子で、僕の隣にそっと腰を下ろした。普通なら空気を読んでいなくなると思うが、彼はこういうところが本当に憎めない男だと思う。
「文化祭のメイク道具って、百均とかで買ったほうがいいかな? 会計の三浦が聞いてきてって」
今井はこそこそと話し、僕も彼の耳元でささやくように答えた。
「メイク道具は僕が用意するから買わなくていいよ」
「大変じゃねぇの? さっちゃん」
「いいよ、もともとたくさんあるし、モモもけっこう持ってるから、持ってきてもらう」
「了解、じゃあ三浦に言っとくね」
今井は立ち上がりかけたが、何か言い残したことがあるようで、再び僕の耳元に口を寄せた。
「付き合ってねぇなら、もっと自分大事にしろよ、さっちゃん。簡単に膝枕とかさせちゃだめだって」
思いがけない今井の言葉に、僕は笑いそうになってしまった。どうやら今井はフミヤ先輩のことを完全に誤解しているようだ。
「ちょっと笑わせないで。そんなんじゃないって」
「いや、俺はマジで言ってんだけど」
今井の気持ちは嬉しいけど、僕だって誰にでも膝を貸すわけじゃない。
「ほんといいやつだね、今井。でも、フミヤ先輩は大丈夫だから」
彼は少し不満そうに肩をすくめて言った。
「さっちゃんがいいならいいけどさ。……じゃあ、またあとで」
「おー、ばいばい」
今井はマジでおもしれえ男だ。彼が去ったあと、僕はひとりで思い出し笑いをして肩を揺らしていた。そんな時、突然フミヤ先輩の低い声が鼓膜に響く。
「誰、今の」
僕は驚いて先輩を見下ろした。ぱっちり開いた瞳が僕をじっと見つめている。
「あ……す、すみません、起こしちゃいましたか」
「大丈夫だよ。それより、今の男誰?」
フミヤ先輩の寝起きの声は、いつもより少し低く、笑顔には普段見せない鋭さが混じっていた。寝起きだから、もしかしたら機嫌が悪いのかもしれない。
「今井です。サッカー部の一年で、僕と同じクラス。天然……ってわけじゃないんですけど、なんか言うことが微妙におもしろいやつで、……ふふっ、さっきもばかなこと言ってました。そうだ、僕、今度の文化祭であいつにメイクする予定なんですよ。今井は磨きがいがあるから、ほんとに楽しみです」
「へぇ……」
何を考えているのか、先輩は噛みしめるようにそう言うと、おもむろに体を起こして僕の顔をじっと見つめる。
「な、なんですか?」
「俺もさっちゃんにメイクしてもらおうかな」
「絶対嫌です!」
「えー、どうしてー」
先輩の声には、子どものような甘えが混じっている。先輩にメイクするなんて緊張しすぎて、今の自分にはうまくできそうにない。逆に言えば、先輩以外なら誰だってやれそうな気がする。
「今井にはするのに、俺にはしてくれないのさみしいなー」
フミヤ先輩はさらりと今井のことを呼び捨てにしていた。
「急にわがままっ子みたいなこと言わないでくださいよ」
フミヤ先輩はむっと唇を尖らせ、拗ねているみたいな演技をする。普段見せない表情に戸惑いを覚えつつも、僕はいろいろと理解してしまった。
「やっぱり、寝起きだから機嫌が悪いんでしょう、フミヤ先輩。もしかして最近、ちゃんと眠れてないんじゃないですか?」
先輩は軽やかな笑いを漏らし、呆れたように僕を見つめる。その目には、僕には読み取れない感情が宿っているように思えた。
「さっちゃんっておもしろいね、やっぱ」
「……なんでですか」
「なんででも。さっちゃんがメイクしてくれないなら、俺がさっちゃんにメイクしようかな」
「な、何を急に……」
驚いている僕を尻目に、フミヤ先輩の指が僕の巾着袋を指し示した。
「いつもリップ塗ってるでしょ? それやりたい」
この中にリップがあることを知っていた先輩に、ちょっとだけ驚いた。カフェの仕事をしているせいか、先輩はいつも細かいところまでよく気がつく。
「お願い。やらせてよ、さっちゃん」
前髪の隙間から覗く先輩の切れ長の目が、穴が空くかと思うくらい僕のことを強く射抜いた。その視線の重みに、僕は気圧される。
「わ、わかりました。でも僕のリップなんか塗っても、楽しくないかも……」
「楽しいって」
どこか喜々とした表情を浮かべ、先輩が巾着袋のリップに手を伸ばす。リップを持っているフミヤ先輩の姿なんて見たことがない。とてもレアなシチュエーションで、僕はちょっとだけドキッとしてしまった。
「桃みたいな匂いすんね、これ。おいしそう」
「食べちゃだめですよ、先輩」
冗談っぽく笑って、「唇、貸して」と先輩が顔を近づけてくる。僕はいまだにどうしてこんなことになっているのか、よくわかっていなかった。強いて言えば、今井のせいのような気がする。
先輩の手が、ゆっくりと僕の唇にリップを塗っていく。今日持ってきたのは、ヌーディなグロッシーベージュの色つきリップだ。
「あ、色がついてきた」
きれいに整った先輩の顔が、すぐそこにある。
「……唇の色ムラとか、自然に補正してくれるんです。あんまり強くない色だからナチュラルだし……」
僕はなぜか言い訳のように早口になり、また大人しく唇を閉じる。
「なるほどね」
塗り終わった先輩は満足げに微笑み、リップを巾着袋に戻した。
「できた」
僕の顔をじっと眺め、先輩は言う。
「かわいいよ、さっちゃん」
先輩のいつもの褒め言葉に、今日は特別にドキドキしてしまった。いつもなら生意気な返事をするのだけれど、どう返事をしていいかわからない。
「今井にはやらせちゃだめだよ」
「……な、なんで今井なんですか。もちろん、やらせませんよ」
戸惑いを隠せない僕の返事に、先輩は安心したように「よかった」と微笑んだ。
「先輩を好きになるのが怖い……」
「えっと、……どういう心理状態?」
メニュー表を見ていたモモが、戸惑いがちに僕に尋ねる。
「だから、先輩を好きになるのが怖いんだよ! ……なんか、僕では足りない気がする」
先輩が素敵すぎるのが悪いのだ。
フミヤ先輩は本当に優しい。先輩はこの前、傲慢だった僕を責めなかった。だけど、いくら計算してみても、僕が先輩にあげられるものはちっぽけなガラクタみたいなものだ。
「かっこいいなんて、誰でも言えるじゃん……! だって実際に先輩はかっこいいんだもん……!」
今日は先輩がシフトに入っていない日だけれど、先輩と出会えたこのカフェがあまりに愛おしく、今日もモモを連れて僕は『Cafe Miracle』に来ていた。先輩がいないのはさみしい。でもその分、聞かれたらまずいような内緒話が堂々とできる。
「よし! よくわかんないけど、今日はさっちゃんを元気づけるために、一日早いチートデーにしよ! うちはこの新作パフェにする。シトラスのやつ」
モモに同意し、こくりとうなずいた。
「……僕も、『シトラスティーパフェ』がいい。フミヤ先輩がおすすめしてくれたやつ」
「おっけー。注文しよ。店員さん、すみませーん!」
気だるく机に突っ伏した僕がふと顔を上げた瞬間、
「はい、お客様。ご注文をどうぞ」
上品に瞳を細めた先輩が、突如として目の前に現れた。
「び、びっくりしたー……。フミヤ先輩、こんにちはー」
モモが愛想笑いを浮かべ、若干棒読みで先輩に挨拶をする。
シフトが入っていないはずじゃとか、どこから話を聞いていたのかとか、僕は口をぱくぱくさせるだけで何も言えなかった。さすがモモだ。そんな僕の様子をすぐさま察知して、さりげないコミュニケーション能力で場を盛り上げる。
「さっちゃんから噂は聞いてますけど、フミヤ先輩ってほんとに学校で、もじゃもじゃバージョンなんですか? うち、まだ先輩と学校で会ったことないから、信じられなくてー」
「マジだよ、マジ。朝からもじゃもじゃにするために、三時間かけてスタイリングしてるから」
先輩は適当なことを言ってモモを笑わすと、いまだに何も言えない僕の顔を不思議そうに覗き込んできた。
「さっちゃん、どした? 具合悪い?」
「……ぜっ、全然、悪くないです。まったくもって、健康体です」
先輩は僕の言葉を信じていないのか、「んー」と首を傾げる。そして次の瞬間、周りの空気が一瞬で変わった気がした。フミヤ先輩の大きな手が、僕のおでこに触れたのだ。その動作ひとつだけで、僕は息の仕方さえ忘れそうになってしまう。
「熱はなし」
「……ほ、ほんとに元気です!」
まさかあなたのことで悩んでいますとは言えない。
「それならいいんだけど……」
先輩は少しだけほっとしたように眉尻を下げると、「注文はシトラスティーパフェふたつでいい?」と小さく首を傾げる。僕とモモは、大袈裟なくらい首を上下に振って答えた。
「かしこまりました」
オンモードの先輩は、学校にいる時よりもさらに大人びている。まっすぐな立ち姿、落ち着いた声のトーン。オシャレでレトロかわいい、そんなカフェの雰囲気を壊すことなく、むしろその良さを最大限生かして溶け込んでいた。
「……て、ていうか、フミヤ先輩、今日シフト入ってないはずじゃ……」
「パートさんの子どもちゃんが体調崩しちゃったみたいで、休みになったんだよね。だから、急きょピンチヒッター」
「そ、そうだったんですか……」
さっきはとても驚いたが、休日も先輩に会えた嬉しさが、じわじわと込み上げてきた。あまり顔に出さないように、僕は平常心を保ってにこりと口角を上げる。
「あ、そうだ。さっちゃん。明日一緒にお弁当食べない? 俺、弁当作ってくるからさ、アレルギーとかあったら教えて」
「えっ!?」
僕の平常心はどこへいったのか。半分くらい口約束だと思っていた僕は、とてもびっくりして先輩を見上げた。
「アレルギーはないですけど……ほ、ほんとにお弁当、作ってきてくれるんですか?」
「うん。屋上で食おうよ。よかったらモモちゃんも一緒に」
「はっ!?
なーに言ってるんですか! どーぞ、どーぞおふたりで! うち、たまにはひとりの時間作らないと、死んじゃうタイプなんで」
モモがドヤ顔でそう言うと、フミヤ先輩はまた疑うように瞳を細めて僕に問いかける。
「……さっちゃん、この子、嘘ついてない?」
おっしゃるとおり、嘘をついている。モモはみんなでわいわいするのが大好きな人種で、ひとりきりの時間がひどく苦手な子だった。先輩の鋭い洞察力に、僕は一瞬たじろぐ。嘘をつきたくない気持ちと、モモの気持ちを裏切りたくない気持ちの間で葛藤していた。
「あー……たぶん、嘘は、ついてないです。……だよね、モモ」
僕の言葉に、モモは首が取れそうなくらい肯定してみせる。
「……あの、フミヤ先輩、明日僕が迎えに行きます」
先輩はオンモードをわずかに解除したみたいに、とろけるような甘い笑顔を一瞬浮かべた。
「ほんと? じゃあ三年の教室来て。待ってる」
また凜々しい表情で業務に戻っていく先輩の後ろ姿を見送りながら、僕はもうすでに明日の先輩とのランチを心待ちにしていた。フミヤ先輩はふと振り返ると、
「あ、『シトラスティーパフェ』、今度は忘れないから」
ひとことそう言って、また歩き出した。
次の日の月曜日。モモはあさ子さんとビデオ通話を繋げて、中庭で食べるらしい。「嘘つかせてごめんね、モモ」と謝ると「逆にフミヤ先輩と食べないほうが怒るから」と勇ましい答えが返ってくる。
午後の柔らかな陽気が校舎全体を包み込む中、僕は緊張と期待が入り混じった心持ちで、三年生の教室がある新校舎に向かっていた。
新校舎の廊下を歩くたび、ピカピカと光るリノリウムの床や真新しい壁が目に飛び込んでくる。一、二年生が使っている旧校舎とは違い、新校舎は建物全体が輝いて見えた。
三年生の教室に近づくにつれ、僕の心臓の鼓動は速くなる。ドアの前で深呼吸をし、勇気を振り絞ってそっと中を覗き込んだ。
真ん中の列、後ろから三番目。
そこにいた先輩の姿は、いつもと少し違って見えた。友人たちに囲まれ、リラックスした表情で談笑している。背の高いフミヤ先輩とおそらく同じくらいの背丈だろう。ひとりは、黒髪で真ん中分けの見るからに陽キャっぽい男子生徒。もうひとりは、茶髪で耳にいくつもピアスがついている、細めでアンニュイなタイプの男子生徒。
一年生の僕と比べると、彼らは身長も、体格も全然違う。まるで大人と子どもだ。なんだか僕は彼らの姿に気後れして、声をかけられなかった。
どうにかチャンスを見計らいながら、じっと先輩の様子を窺う。
「――で、土屋が満員電車で、『人類は増えすぎた』とか真面目な顔で言ってさ」
黒髪を真ん中で分けている先輩が、けらけらと笑いながら言った。フミヤ先輩も机にだらりと突っ伏して、小さく肩を揺らしている。
「ほんとにあの満員電車なんとかしてくれよ。俺、こんなことするために人間に生まれたわけじゃねぇんだわ」
茶髪で耳にいくつもピアスがある先輩が、やけに感情を込めてつぶやく。
「じゃあなんのために人間になったわけ?」
黒髪陽キャ先輩が不思議そうに尋ねた。
「……今度みんなで、お泊まり会しよ」
茶髪アンニュイ先輩は、意外と交流を楽しむタイプらしい。
「だる」
フミヤ先輩がひとこと。
「真剣に聞いて損した」
と、陽キャ先輩。
「なんだよ。いいだろ、お泊まり会」
「やだ」
フミヤ先輩は机に突っ伏した状態で言う。
「なんだよ、やるかぁ? 俺怒らせたらやべーかんな? お前ら秒殺だよ?」
キレた演技で立ち上がる茶髪アンニュイ先輩に、陽キャ先輩が彼の腕を掴んで「全身、ほっそ!」と爆笑する。
彼らの大人びた見た目とは裏腹に、会話の内容はなんだかくだらない。
友人と一緒にいる時の先輩は、ユキナちゃんやカンナちゃんといる時とも違うし、僕といる時とも全然違う。
普段の丁寧な話し方ではなくて、飾らない先輩の一面が覗いていた。同級生が相手だとちょっと雑な感じで、それに返事も「んー」とか「あー」とか「わかる」とか「だる」とか、そんな必要最小限しか言葉にしないのだ。
僕は省エネ系男子高校生の神髄を特別に覗けた気がして、楽しくなってしまった。彼らの会話がまるで新鮮に聞こえ、ふっと笑みがこぼれる。そんな時。
「どうした? 誰かに用事?」
ひとりの男子生徒に後ろから声をかけられた。見知らぬ三年生だ、と認識する間もなく、彼がにかっと笑って言う。
「あ、さっちゃん?」
「え……?」
僕の中で小さな混乱が起きた。知らない人に名前を呼ばれている不思議。
「貞ー! お前が言ってた『かわいいさっちゃん』が来たぞ!」
次の瞬間、教室中の視線が一斉に僕に向けられた。貞って誰だろうと一瞬思考が飛び、フミヤ先輩の名字だと思い至る。
「おー、あれがさっちゃん。イケメンじゃん!」
「たしかに、さっちゃん銀髪だ」
フミヤ先輩の友人たちの声が、まるで波のように僕に押し寄せてきた。
ていうか、先輩はいったいほかの人たちに、僕のことをどんな風に伝えていたのだろう。動物園のパンダを見るような好奇心旺盛な瞳に射抜かれ、僕は思わず身を縮こまらせた。
フミヤ先輩はむくりとこちらを向き、さっきまでの気だるさが嘘のように、素早く立ち上がって口角を上げた。
「お前らさっちゃんて呼ぶな。さっちゃんさんて呼べ」
先輩は相当理不尽なことを言いながら、お弁当が入っていると思われる巾着袋をふたつ持って、僕のところに近づいてくる。
「さっちゃん、行こう」
いつも通りな先輩の優しい声が鼓膜を揺らし、僕はほっとして肩の力が抜けてしまった。
非常階段の重々しい鉄の扉を開けると、屋上の眩しい陽光が僕たちを包み込んだ。柔らかな風が頬を撫でる。青空が広がり、金網のフェンスの向こう側には小さな街の景色が一望できた。
「あ……」
だけど、所々に置かれたベンチには、すでに男女のカップルが陣取っていた。諦めそうになった僕を尻目に、フミヤ先輩はスタスタと給水タンクでできた影に座り、
「さっちゃん、ここおいで」
と、隣を指さす。
給水タンクの影は意外と穴場だった。ほかの人たちから見られないし、強い日差しが当たらないし、何より風が吹いていて心地がいい。
「さっき一緒にいた人たちって、先輩の友達ですか? 黒髪で真ん中分けの先輩と、おしゃれなピアスをつけてた茶髪の先輩」
「あー、キヨと土屋ね。……ダチだけど、さっちゃんは別に覚えなくていいよ」
「どうしてですか?」
「どうしても」
何を考えているのか、先輩は巾着袋を揺らすと、「それより、こっち」と無邪気に笑ってみせる。
「お口に合うか、わかりませんが……」
「やったー! ありがとうございます!」
手渡されたのは、かわいらしい猫のイラストが描かれた、パステルピンクのお弁当箱だった。先輩が持っているお弁当は色違いなのか、水色で同じように猫のイラストが描かれている。
明らかに先輩のイメージとかけ離れているのは、きっと妹さんたちのお弁当箱だからだ。僕がにこにこしていると、先輩はすぐに答えを教えてくれた。
「お察しのとおり、あいつらの弁当箱だから」
「だと思いました」
「それでは改めまして、どうぞ召し上がれ」
「ふふ、いただきます」
お弁当箱の蓋を開けた瞬間、香ばしい匂いが風に乗って僕の鼻をくすぐった。中身を見て、思わず感嘆の声を上げる。
「おいしそう!」
鮮やかな緑色のブロッコリーの和え物、オレンジ色の人参の飾り切り、真っ赤なミニトマト。その隣には、黄色い卵焼きがきれいに巻かれていた。隅には、濃い緑色のほうれん草のおひたしと、ふりかけがかけられた俵型の小さなおにぎりが三つ。
そしてメインのおかずには、こんがりと揚がったからあげが盛られていた。思わず口の中に唾液が溜まるのを感じる。そして当時に、不穏な痛みを心臓に覚えた。
もう自分には関係のない、終わったことだ。だけど、どうしても心が悲鳴を上げてしまう。
「さっちゃん?」
敏感な先輩が僕の心を見透かしてしまう前に、
「食べてもいいですか?」
そう言って、お弁当箱に箸を差し入れた。
先輩のお弁当は彩りも栄養もよく考えられていて、とってもおいしかった。僕の隣であっという間にお弁当を食べ終えた先輩は、購買で買っていたのか、追加の焼きそばパンを頬張っている。
僕は最後に残ったからあげふたつを、じっと眺めていた。箸を持つ手に汗をかいている。嫌な思い出が脳裏に浮かんでは、僕のことを責め立てる。
「どした? からあげ嫌い?」
本当のことを話すか迷って、結局、僕は嘘をつくことを選択した。
「す、すみません。僕、からあげが苦手で」
咄嗟に嘘をついてしまった自分に、じわじわと罪悪感が込み上げてくる。けれど、その罪悪感よりも、過去を知られてしまう恐ろしさのほうが勝ってしまっていた。
「あ、そうだったんだ。じゃあ次から違うおかずにするわ」
事実だけを受け取ってくれたフミヤ先輩は、けろりとした様子で僕のお弁当に残っているからあげをふたつ、ぱくりと食べた。
「ごめんなさい、先輩」
涼しい風が、僕たちの間を吹き抜けていく。フミヤ先輩は風で乱れた髪を、かき上げながら言った。
「なんで謝んの。言ってもらったほうが、次の精度上がんじゃん」
自然と期待してしまい、僕の口から傲慢な言葉が漏れる。
「……次も作ってくれるんですか?」
「いいよ。次はさっちゃんの好きなものたくさん入れるね。教えといてよ、好きなもの」
先輩は何気なく言っているようだったけれど、僕は泣きそうだった。
先輩の優しさと、僕の真っ赤な嘘。
焼きそばパンを何事もなかったように頬張る先輩の姿を見ながら、僕の中で後悔と感謝の気持ちが渦巻く。
「お礼に……僕の膝貸します」
冗談でかわされてもいい、本気にしてもらってもいい。とにかく僕は先輩にお返しがしたかった。お弁当箱を丁寧に巾着の中に片付けながら言うと、先輩はきょとんと目を丸くする。
「え、マジでいいの? 普通に遠慮しないけど」
「いいですよ」
少しだけ笑って、膝をぽんぽんと叩く。先輩は屋上の床に寝そべり、ゆっくりと僕の膝に頭を乗せた。
先輩の髪から甘いシャンプーの香りがする。僕は先輩の頭の重みを膝で感じながら、遠くの空を見つめていた。青空がきれいだ、なんてそんな理由じゃない。何かほかのことに集中しないと、うるさいくらい鳴っている心臓が壊れてしまいそうな気がしたからだ。
雲がゆっくりと流れ、風が優しく吹き抜けていく。遠くで鳴く鳥の声も、どこか遠い世界のもののように感じられる。
「さっちゃんの膝が一番いい」
ふいに先輩が言った。てっきり目を閉じていると思っていた先輩は、涼しげな目で僕の顔をじっと見据えている。
僕は動揺を隠すように、ゆっくりと乱れた呼吸を整えた。
「それって、僕以外に比べる対象があるってことですか。先輩ってやっぱモテるんですねー、へー!」
「あ、待って、違う違う。ないない。うちの母親にだってやってもらったことない」
「ふーん」
信じるか信じないかは僕の自由だ。
「さっちゃん、拗ねてんの?」
「拗ねてません」
「嘘だ。わかりやすくて、かわいいね、さっちゃんは」
先輩が長い腕を伸ばし、僕の髪に触れる。なんとなく慣れてる雰囲気を感じ取り、僕はますますわかりやすく拗ねることにした。
「先輩は僕と違って、かわいくないですね」
「それは初耳だわ」
うるさい先輩は放っておいて、僕は好き勝手に先輩の髪に触れることにした。先輩のおでこの髪の毛をあげると、もじゃもじゃで隠されていたきれいな瞳が見える。
「そういえば、もうすぐ文化祭だね。さっちゃんのクラスは何やんの?」
僕にされるがままになりながら、先輩が尋ねてきた。
「うちはまだ正式に決まってないんですけど、たぶんメイド喫茶だと思います」
「え、ガチ!?」
人が変わったような急激なテンションの上昇を受け、こっちのほうがびっくりしてしまった。
「……せ、先輩にしてはリアクションでかくないですか?」
不審がる僕に対して、先輩は軽い笑い声を上げ、「だってさ」と続ける。
「見たいでしょ、それは。さっちゃんのメイド姿。短いスカートとか穿くの? ニーハイも穿いちゃったり?」
「まぁ、たぶん」
この前クラスで話し合った時は、性別関係なくメイド服を着ようということに決まった。メイド服自体がかわいいし、やるならば徹底的にやるのが僕のモットーなので、一切妥協なしのガチンコ勝負で僕らしいメイド服に仕上げるつもりだった。
「エッチだね……。おじさん、お金たくさん持っていくわ……」
「ほんとにキモいおじさんみたいなこと言わないでくださいよ」
いったいフミヤ先輩は何を想像したのだろう。先輩の冗談に僕はドン引きしながらも、実は少しだけ嬉しかったりもする。本人には決して言わないけれども。
「カンナちゃんたちがいたら、『おにい、駆逐してぇ~~』って言われてますよ」
「絶対言うわ、あいつら。てか、さっちゃんに『おにい』って言われると、やっぱ……エッチだね」
「……『エッチだねおじさん』、うぜー」
ばかみたいな僕たちの会話がツボったのか、先輩はけらけらと目をつぶって笑い、そのたびに僕の膝が小刻みに揺れた。無邪気な先輩の笑い声。そんな風に、僕に素をさらけ出していいんですか? と問いたくなってしまう。
「先輩たちはなんの催しするんですか?」
「俺らは……けっこう安直なやつをやるんだけど、うーん、まだ内緒。あんま期待しないで」
なんだかよくわからないけれど、僕は「はーい」と返事をした。
「さっちゃんのクラス見に行く、絶対」
「僕も先輩のクラスに行きますね」
「よし、約束ね」
初めて会った時にカフェでしたように、僕たちは指切りげんまんをした。先輩と交わした約束がまた増えた。省エネだけれど、いつも有言実行のフミヤ先輩は、僕みたいに嘘をつかない。先輩がやるって言ったら絶対だ。そういうところがいいなぁと思う。
「今日もバイトですか?」
「……ん。午後四時から十時まで」
「大変じゃないですか?」
「んーん、慣れたし平気」
「えらいですね、先輩」
「ありがと。もっとよしよしして、さっちゃん」
冗談か、本気か、相変わらず飄々としていてわからない人だ。僕が適当に頭をよしよししてあげると、先輩は気持ちよさそうに笑い、今度こそ目を閉じた。
「寝てもいいですよ。チャイムが鳴る五分前に起こします」
「んー、ありがと……さっちゃん」
先輩の寝顔を眺めながら、僕はやっぱりせっかく先輩が作ってくれたあのからあげを、本当は食べたかったなと切なく思う。
フミヤ先輩の規則正しい寝息が聞こえてくる。先ほど食べられなかったからあげに対する未練が残っている僕は、時折、先輩のあどけない寝顔を眺めては心を静めている。
「あ、いたいた、さっちゃん!」
突然、騒がしい声が静寂を破った。
「俺、ずっと探してたんだよ。文化祭のことなんだけどさー」
屋上をきょろきょろと見渡していた同じクラスの今井が、テンション高く話しかけてくる。僕は慌てて人差し指を口元に当て、声をひそめて応じた。
「今井、静かに」
今井は驚いた表情を浮かべ、僕の膝ですやすやと寝ているフミヤ先輩の姿に気づく。
「え、……ごめん、って、この方は……どちら様?」
今井が怪訝そうに先輩を見下ろす。僕は説明に困り、「三年のフミヤ先輩」と事実だけを述べた。
「……付き合ってんの?」
急いで首を横に振る。心の中では「まだ」という言葉が浮かんでしまったが、口には出さない。
今井は困惑した様子で、僕の隣にそっと腰を下ろした。普通なら空気を読んでいなくなると思うが、彼はこういうところが本当に憎めない男だと思う。
「文化祭のメイク道具って、百均とかで買ったほうがいいかな? 会計の三浦が聞いてきてって」
今井はこそこそと話し、僕も彼の耳元でささやくように答えた。
「メイク道具は僕が用意するから買わなくていいよ」
「大変じゃねぇの? さっちゃん」
「いいよ、もともとたくさんあるし、モモもけっこう持ってるから、持ってきてもらう」
「了解、じゃあ三浦に言っとくね」
今井は立ち上がりかけたが、何か言い残したことがあるようで、再び僕の耳元に口を寄せた。
「付き合ってねぇなら、もっと自分大事にしろよ、さっちゃん。簡単に膝枕とかさせちゃだめだって」
思いがけない今井の言葉に、僕は笑いそうになってしまった。どうやら今井はフミヤ先輩のことを完全に誤解しているようだ。
「ちょっと笑わせないで。そんなんじゃないって」
「いや、俺はマジで言ってんだけど」
今井の気持ちは嬉しいけど、僕だって誰にでも膝を貸すわけじゃない。
「ほんといいやつだね、今井。でも、フミヤ先輩は大丈夫だから」
彼は少し不満そうに肩をすくめて言った。
「さっちゃんがいいならいいけどさ。……じゃあ、またあとで」
「おー、ばいばい」
今井はマジでおもしれえ男だ。彼が去ったあと、僕はひとりで思い出し笑いをして肩を揺らしていた。そんな時、突然フミヤ先輩の低い声が鼓膜に響く。
「誰、今の」
僕は驚いて先輩を見下ろした。ぱっちり開いた瞳が僕をじっと見つめている。
「あ……す、すみません、起こしちゃいましたか」
「大丈夫だよ。それより、今の男誰?」
フミヤ先輩の寝起きの声は、いつもより少し低く、笑顔には普段見せない鋭さが混じっていた。寝起きだから、もしかしたら機嫌が悪いのかもしれない。
「今井です。サッカー部の一年で、僕と同じクラス。天然……ってわけじゃないんですけど、なんか言うことが微妙におもしろいやつで、……ふふっ、さっきもばかなこと言ってました。そうだ、僕、今度の文化祭であいつにメイクする予定なんですよ。今井は磨きがいがあるから、ほんとに楽しみです」
「へぇ……」
何を考えているのか、先輩は噛みしめるようにそう言うと、おもむろに体を起こして僕の顔をじっと見つめる。
「な、なんですか?」
「俺もさっちゃんにメイクしてもらおうかな」
「絶対嫌です!」
「えー、どうしてー」
先輩の声には、子どものような甘えが混じっている。先輩にメイクするなんて緊張しすぎて、今の自分にはうまくできそうにない。逆に言えば、先輩以外なら誰だってやれそうな気がする。
「今井にはするのに、俺にはしてくれないのさみしいなー」
フミヤ先輩はさらりと今井のことを呼び捨てにしていた。
「急にわがままっ子みたいなこと言わないでくださいよ」
フミヤ先輩はむっと唇を尖らせ、拗ねているみたいな演技をする。普段見せない表情に戸惑いを覚えつつも、僕はいろいろと理解してしまった。
「やっぱり、寝起きだから機嫌が悪いんでしょう、フミヤ先輩。もしかして最近、ちゃんと眠れてないんじゃないですか?」
先輩は軽やかな笑いを漏らし、呆れたように僕を見つめる。その目には、僕には読み取れない感情が宿っているように思えた。
「さっちゃんっておもしろいね、やっぱ」
「……なんでですか」
「なんででも。さっちゃんがメイクしてくれないなら、俺がさっちゃんにメイクしようかな」
「な、何を急に……」
驚いている僕を尻目に、フミヤ先輩の指が僕の巾着袋を指し示した。
「いつもリップ塗ってるでしょ? それやりたい」
この中にリップがあることを知っていた先輩に、ちょっとだけ驚いた。カフェの仕事をしているせいか、先輩はいつも細かいところまでよく気がつく。
「お願い。やらせてよ、さっちゃん」
前髪の隙間から覗く先輩の切れ長の目が、穴が空くかと思うくらい僕のことを強く射抜いた。その視線の重みに、僕は気圧される。
「わ、わかりました。でも僕のリップなんか塗っても、楽しくないかも……」
「楽しいって」
どこか喜々とした表情を浮かべ、先輩が巾着袋のリップに手を伸ばす。リップを持っているフミヤ先輩の姿なんて見たことがない。とてもレアなシチュエーションで、僕はちょっとだけドキッとしてしまった。
「桃みたいな匂いすんね、これ。おいしそう」
「食べちゃだめですよ、先輩」
冗談っぽく笑って、「唇、貸して」と先輩が顔を近づけてくる。僕はいまだにどうしてこんなことになっているのか、よくわかっていなかった。強いて言えば、今井のせいのような気がする。
先輩の手が、ゆっくりと僕の唇にリップを塗っていく。今日持ってきたのは、ヌーディなグロッシーベージュの色つきリップだ。
「あ、色がついてきた」
きれいに整った先輩の顔が、すぐそこにある。
「……唇の色ムラとか、自然に補正してくれるんです。あんまり強くない色だからナチュラルだし……」
僕はなぜか言い訳のように早口になり、また大人しく唇を閉じる。
「なるほどね」
塗り終わった先輩は満足げに微笑み、リップを巾着袋に戻した。
「できた」
僕の顔をじっと眺め、先輩は言う。
「かわいいよ、さっちゃん」
先輩のいつもの褒め言葉に、今日は特別にドキドキしてしまった。いつもなら生意気な返事をするのだけれど、どう返事をしていいかわからない。
「今井にはやらせちゃだめだよ」
「……な、なんで今井なんですか。もちろん、やらせませんよ」
戸惑いを隠せない僕の返事に、先輩は安心したように「よかった」と微笑んだ。