夏空に打ち上げられる花火への期待が高まる中、街は熱気と喧騒に包まれていた。浴衣(ゆかた)を着た人々が行き交い、祭りの雰囲気が漂う駅前。
 銅像の前で待ち合わせをしていた僕は、少し緊張しながら先輩の姿を探していた。
 道の隅で邪魔にならないように鏡をチェックし、ふうと息を吐く。意を決してあたりを見渡した僕は、あっという間に先輩を見つけた。
 壁にもたれかかり、スマホを見ているフミヤ先輩。ハーフアップの髪型が、いつも以上に魅力的に見える。先輩はグレーの浴衣を来ていた。落ち着いた色合いが先輩の大人びた雰囲気を大いに引き立て、その姿は人混みの中でひときわ輝いて見える。
 僕の顔には自然と笑みが浮かび、喜々として先輩に近づこうとしたその時。思いもよらない光景が目に飛び込んできた。

「お兄さん、かっこいいですね。よかったら一緒に遊びませんか?」

 僕は思わず口を開けたまま立ち尽くしてしまった。まるでドラマのワンシーンのような光景。先輩のそばに、ふたりの美しいお姉さんが現れたのだ。とても信じられない。僕が先輩を見つけたこのわずか数秒の間に、先輩は年上の美人に声をかけられた。あまりにも(むご)い事実に頭がクラクラする。

「あー、すみません。人を待ってるんで」

 先輩は人好きのする笑顔を浮かべ、やんわりと彼女たちの誘いを断っていた。僕は安堵すると同時に、これからの人生の試練を思い知らされる。先輩を好きになる人は、今後もきっと現れるだろう。僕にできるのは、自分自身のかわいさを磨き続けることだけだと、強く心に刻む。
 先輩はふと顔を上げ、あたりを見回した。そして僕の姿を見つけると、嬉しそうに相好を崩し、手を上げて近づいてくる。

「おー、さっちゃん。やっば、浴衣姿かわいいね」

 先輩の言葉に、僕は自分の浴衣を見下ろす。淡い青地に白い(しょう)()の花模様が描かれた浴衣。モモと一緒に選んだ時の淡い期待がよみがえる。

「すごい似合ってる。さっちゃんのために作られた浴衣みたい」
「でしょう?」

 僕は少し得意げに答え、先輩の前でくるりと回ってみせた。半分は自分のため、そしてもう半分は先輩のためにオシャレをした。先輩は何度も「かわいい」と褒めてくれる。

「手、繋いでいこ。さっちゃん」

 先輩が差し出した手に、僕はためらわず自分の手を重ねた。汗をかくかもしれないと思ったけど、先輩にはきっとどうでもいいことだと思う。だって、先輩はどんな僕でも大きなスライムみたいに呑み込んでしまうのだ。
 歩き始めながら、僕はちらりと先輩を見つめた。

「フミヤ先輩、ナンパされてましたね」
「見てたの?」
「見てました。……わかってると思いますけど、嫉妬しました」

 包み隠さず報告にすると、先輩は「ははっ」と軽快な笑い声を上げる。

「でも、速攻断ったよ」
「……だけど、びっくりしたなぁ。僕が見つけた途端、アレだもんなぁ。ほんとに先が思いやられます。目眩がしましたよ、僕。今井どころの話じゃないですよね。信じられないなぁ、ほんとに」

 延々と文句を言う僕に、先輩はにっこりと笑顔を浮かべ、僕の手をぎゅっと握った。

「お兄さん、かわいいですね。俺と一緒に花火見ませんか?」

 さっきのお姉さんたちを真似たような、おどけた調子だった。僕は呆れて先輩を見上げる。先輩の目には、いたずらっぽい光が宿っていた。

「ほら、さっちゃんも俺にナンパされてんじゃん」
「……僕、人を待ってるんでお断りします」

 僕の言葉に、先輩はさらに楽しそうな表情を浮かべた。

「えー、マジか。断られた。じゃあ『エッチだねおじさん』でナンパしてもいい?」
「もっとお断りします」

 先輩に()られて思わず笑っちゃいそうになるのを必死で堪える。先輩のおどけた一面を見ると、嫉妬心が少しずつ溶けていくのを感じる。どんなに僕が(かた)く心のリボンを縛っても、先輩はするりとそれを(ほど)いてしまうのだ。
 夏の夜の空気がどんどん濃くなっていく。僕は先輩の手をしっかりと握り返した。先輩は僕の頭をそっと撫でる。

「僕のことめんどくさいって思ってます?」
「ううん。『めんどくさいって思ってるんだろうな』って拗ねてるさっちゃんが、マジでかわいなって思ってる」

 先輩の言葉ひとつひとつが、僕の体温を上げる。

「……なんとなく気づいてましたけど、先輩ってほんとに変」

 先輩はそんな僕にとどめを刺すべく、耳元で小さくつぶやく。

「変な俺も丸ごと愛してね、さっちゃん」




 祭りの賑わいの中、僕たちは出店が立ち並ぶ通りを歩いていた。夏の夜に提灯の明かりが柔らかくあたりを照らし、様々な屋台の匂いが混ざり合う。

「さっちゃん、これ食べる?」

 フミヤ先輩が指さした先には、色とりどりのかき氷が並んでいた。僕は二つ返事で、先輩にブルーハワイ味のかき氷を買ってもらった。先輩は最初に目が合ったマンゴー味を食べるらしい。さすが一期一会を大事にする男だ。

「冷たくておいしいですね、先輩」
「夏って感じでさ、いいよね。かき氷食べてる、さっちゃん」
「……みかん食べてる僕は?」
「冬って感じでかわいい」
「じゃあ、さつまいも食べてる僕は?」
「秋って感じでかわいい」
「……春キャベツ」
「春って感じでかわいいよね、春キャベツって」
「言うと思った!」

 先輩は今日もふざけている。
 僕たちは人混みを避け、かき氷を片手に道の端に立っていた。甘くて冷たい氷が、夏の夜の暑さを和らげてくれる。

「けっこう暗くなってきたね。花火もうすぐだな」
「これ食べたら、見えるとこ行きましょう!」
「そうしよう。あ、さっちゃんマンゴー味食べてみる?」
「食べたいです。先輩も食べますか、ブルーハワイ」

 あーん、とお互いに食べさせ合って、感想を言い合った。見つめ合い、楽しさを共有することがこんなにも幸せだと先輩は僕に教えてくれる。
 先輩と一緒にここに来られてよかった。好きになったのが先輩でよかった。それだけでも僕にとっては奇跡なのに、さらに先輩が僕を好きになってくれるなんて、本当にありえないくらいの奇跡だ。改めてそう感じていた時、突然、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「あ、貞を発見した! さっちゃんも発見!」
「ふたりで浴衣着てるし。かわいいかよ」

 振り向くと、キヨ先輩と土屋先輩が立っていた。見慣れない彼らの私服姿は新鮮で、思わず見入ってしまう。普段、先輩ばかり見ている僕だけど、改めてキヨ先輩と土屋先輩は顔も整っているし、長身だし、とてもモテるだろうなと思う。

「……なんで会うかなぁ」

 フミヤ先輩のぼやきに、僕は心の中で笑った。本当は会えて嬉しいはずだ、きっと。

「似合うね、さっちゃん」
「ありがとうございます」

 土屋先輩の褒め言葉に、僕は嬉しくなって笑顔で答えた。

「貞の浴衣姿が(かす)むわ。めっちゃかわいい。よーく見せて、さっちゃん」

 キヨ先輩が僕を覗き込むと、フミヤ先輩の表情がわずかに曇ったような気がした。僕の肩を掴んで引き寄せながら、不機嫌そうに言う。

「そのくだりさ、俺が十分やってるからもう大丈夫です」
「なんでだよ、俺らにも言わせろよ」
「そうだそうだ! 貞だけずりーぞ! 心が(せま)い恋人だと、さっちゃんに振られんぞ!」

 キヨ先輩が口にした「恋人」という言葉に、僕は思わずドキッとした。先日、フミヤ先輩に聞かれた言葉を思い出す。

 ――あいつらに付き合ってるって言っても大丈夫? 嫌なら、別に言わなくていいから。

 気づかいのできる先輩らしい台詞だった。僕は少し恥ずかしさを感じながらも、

 ――キヨ先輩たちだけじゃなくて、ほかの人に言っても僕は全然大丈夫です。僕も先輩と付き合ってること、みんなに言いたいです。

 そうはっきり宣言した。もしかすると紬先輩と気まずくなってしまわないかと一瞬脳裏を(よぎ)ったけれど、そのことはまだ先輩に聞けずにいる。

「てか、クラスのやつらも来てんだよ。ほら、あそこ」

 キヨ先輩の指さす方向に目を向けると、たこ焼き屋の近くに三年生の先輩たちが集まっていた。そのグループの中に、浴衣姿の紬先輩の姿が見える。
 心臓がドクンと大きく鳴る。彼女は明るく笑い、こちらに手を振っていた。フミヤ先輩は小さく手を上げて、紬先輩に応える。もし僕が彼女の立場だったら、あんな風に笑えただろうか。やっぱり紬先輩は、強くてかっこいい人だ。

「大丈夫だよ、さっちゃん。俺が好きなのはさっちゃんだけだから」

 彼らと別れ、花火が見える()(せん)(しき)まで移動した時、人々の賑わいの中で先輩は僕に伝えてくれた。

「一応ね、言っておこうと思って。俺の恋人は俺と同じぐらいヤキモチ焼きさんだから」

 きっと僕が紬先輩のことを気にしていると察したのだろう。実際そのとおりだった僕は、胸の奥にあるモヤモヤとした感情を言葉にすることにした。

「あの、僕のせいで……紬先輩と気まずくなってないですか……? 先輩の立場が悪くなったりとか……」

 言葉につまりながら、僕は先輩の表情を窺う。

「問題ないよ。さっちゃんは何も気にしなくていいことだから。これは俺の気持ちの問題だし、彼女もきっとわかってくれてると思う」

 先輩の言葉に、僕は小さくうなずいた。そんな僕の手を、先輩はそっと握り、指先をなぞりながら話を続けた。

「前に言ったでしょ。人を傷つける嘘が嫌だって」
「……はい」

 あの時の先輩が言った言葉。

 ――ひ、人を傷つける嘘って、たとえばどんな嘘ですか?
 ――……あー、そうだね。それについては、また今度話すわ。

 あれから何も言われなかったから、話したくないのだろうと思っていた。
 いつか紬先輩も言っていた。

 ――文哉も昔、いろいろあったから……。

 ずっと気にはなっていたけれど、無理に聞こうとは思わなかった。いつか話してくれたら……そう思っていた僕は、先輩が話す気になってくれたことが嬉しくて、真剣な表情で先輩の話に耳を傾ける。

「昔、とある人と付き合ってたんだ」

 こくりとつばを飲み込む。

「だけど、三股されてたんだよね」
「……さ」

 三股……? 予想外の言葉に、僕は思わず力のない声を漏らしてしまった。先輩にそんな過去があったなんて。

「情けないことに、俺はまったく気づいてなかった。その人はいつも俺のこと好きだって言ってくれたけど、結局、言葉だけでぜんぶ嘘だった」

 先輩の目に、わずかなさみしさが浮かぶ。

「だから、そういう嘘は辛いなって話」

 先輩の痛みに反応して、僕の心も切なく軋んでいた。

「さっちゃんが前に嘘をたくさんついたって言ってたけど、ああいうのは俺にとっては嘘じゃなくて、……なんつうか、『秘めごと』って感じ。ミステリアスな部分があっても構わないよ、俺は。……蓮くんに関しては、嫉妬したから聞き出しちゃったけどね」

 ぱっと明るい顔を作り出して、先輩は「昔話はこれでおしまい」とつぶやく。

「おもしろい話じゃなくてごめん。でもさっちゃんには言っておきたかったから」

 僕は思わず先輩の手を強く握り返した。怒りと悲しみが胸の中で渦巻く。

「先輩は、ちゃ、ちゃんとその人のこと怒ったんですか? 先輩、優しいから……なんか、そういうの言わなそうで――」
「すごい、よくわかってんね」

 感心したように目を見開き、先輩は続ける。

「お察しのとおり、なんか怒れなかったなー、あの時は」
「ど、どうして……」
「俺が重かったせいかもしれないし……もしかしたら、俺にも悪いとこがあったのかなって思ったんだ」
「そんなの、あるわけない!」

 僕の声は、自分でも驚くほど強く出ていた。
 その人の事情なんて知らない。先輩とその人がどんな言葉を交わしてきたのかも知らない。
 でも、先輩の過去の傷に触れ、先輩を傷つけたその人に対する怒りが、抑えきれなかった。言葉が堰を切ったように溢れ出す。

「先輩が悪いわけないです。ほかに好きな人ができたとしても、同時に付き合うなんて絶対間違ってますから! ていうか、三股ってなんなんですか、それ! むかつく……! 僕のフミヤ先輩に……なんてことを……!」

 涙が目の端に滲みそうになるのを必死で堪えながら、僕は声を震わせて続けた。先輩は少し驚いたような、でも優しい表情で僕を見つめていた。こんな時くらい怒ってほしいのに。その優しさが今は少し歯がゆい。

「なんで……? なんでですか……僕、悔しいです。その人も許せないし、あなたが傷ついていた時に、そばにいてあげられなかったことも悔しい……自分に腹が立ちます」

 言葉にするほどに、胸の奥で渦巻く感情が強くなっていく。先輩は遠くを見るように目を細め、柔らかな笑みを浮かべた。

「ほんとにかっこいいなぁ、さっちゃんは」

 その言葉に、僕は首を振った。かっこよくなんかない。むしろ、無力感に(さいな)まれる。先輩の過去の傷に対して何もできない自分に、ひどくもどかしさを感じていた。

「ありがとね、さっちゃん。でもさ、なんかさっちゃんに出会ってから、申し訳ないくらいハッピーなんだよね、俺」

 たくさんの愛情が込められた先輩の言葉。先輩の真摯なまなざしに、僕の中の激しい感情が少しずつ和らいでいく。

「好きだよ、竹内幸朗」
「……フルネームで呼ぶな」

 照れ隠しの言葉を口にしたものの、先輩にはすぐに見透かされてしまうだろう。

「さっちゃん、俺の前に現れてくれてほんとにありがとう。奇跡だって思うよ、毎日、毎秒」
「……そ、そんなの……僕の台詞なのに」

 僕は意を決して先輩の手を取り、小指を絡ませた。

「僕、先輩のこと傷つけません。幸せにします。だから、やくそく」

 僕は強い決意を胸にしながら、指切りげんまんをした。先輩のきれいな瞳が、ゆっくりと弧を描く。

「俺も、さっちゃんを大事にするよ、やくそく」

 ふたりで決めた大切な約束。心の中を温かな思いが通り抜けていく。きっと先輩も同じ気持ちを感じているはずだ。

「めちゃくちゃ人がいっぱいいるけど、俺からキスしてもいい? どうしても今、さっちゃんにキスしたい」

 切実な欲望のこもる熱いまなざしが、僕の心に火をつけるようだった。周りは薄暗いけれど、近くの人の顔はまだ認識できるほどの明るさがある。すぐ近くから聞こえてくる喧噪の声、祭り(ばや)()の音。理性と本能の(はざ)()で、じわじわと切なさに襲われる。

「……だめ、です」
「そっか、だよね。ごめん、忘れて――」

 フミヤ先輩は困ったように笑い、僕のためにすんなりと自分の欲求を諦めた。僕は熱くなった頬をどうすることもできず、先輩の浴衣の襟元(えりもと)を両手で強く引き寄せた。驚いた先輩が「あっ」と小さな声を出しながら、一歩僕に近づく。

「だって、僕からしたい」

 つま先立ちで、僕は先輩の唇に触れた。先輩の大きく見開いた瞳も、目を閉じてしまえば、もう見えない。周りの喧噪も、すべて消えていった。感じるのはフミヤ先輩の唇の温度と甘い吐息だけだ。
 そっと唇を離し、

「大好きです、フミヤ先輩」

 そう心のままに告げる。
 誰か見ていたかもしれない。キヨ先輩も、土屋先輩も、紬先輩だって。でも、そんなのどうだっていい。
 先輩は僕を抱きしめ、ゆっくりと笑い始めた。

「やばい、あざとすぎる。……さっちゃん、そのワザ何? すげぇやられたよ、俺」

 親指の腹で僕の唇に優しく触れながら、先輩は大人びた顔で笑っている。でも、僕は笑えなかった。もっと先輩を感じたくて、先輩の胸元にぎゅっとしがみつく。

「ぼ、僕はキスが下手なので、……もう一回、先輩からしてください。できれば……あの、ちょっとだけエッチなやつ」

 とってもエッチだと僕と先輩が、大変なことになってしまうかもしれない。そう思いながら、僕は先輩の浴衣の襟をさらに強く握りしめる。

「花火あがっちゃう……先輩、早く」

 きょろきょろとあたりを見回したあと、僕は上目づかいで先輩を見上げた。これは作戦でもなんでもなくて、本当に早くしないと花火が上がってしまうと焦っていたのだけれど、先輩に伝わったかどうかはわからない。

「君にはお手上げだよ、さっちゃん」

 先輩の言葉が終わるか終わらないかのうちに、大きな音とともに花火が上がった。歓声がひときわ大きく鳴る中、僕たちの唇が重なる。先輩の唇は柔らかく、さっき食べたマンゴーの甘くて爽やかな香りが僕の鼻をくすぐった。
キスをしていた僕たちは最初の花火を見られなかった。
 でも、それでよかった。花火大会はまた来年来ればいい。今は先輩の腕の中にいたい。
 やがてゆっくりと唇が離れ、先輩の整った瞳が僕を見つめる。その目があまりに大切そうに僕を映すから、僕はまるで自分が美術館で厳重に保管されている美術品になったような気がした。
 花火が次々と打ち上がる音が聞こえる。でも、もう一度先輩に唇を塞がれると、頭の中が真っ白になった。周りの音も消え、感じるのはドクドクと鳴り響く心臓の音だけ。
 先輩が僕の舌を吸い上げ、歯列をなぞり、(うわ)(あご)の裏側を舐める。先輩に自分の体を好きにされる恍惚(こうこつ)に、僕は思わず小さな声が漏れそうになるのを必死で押し殺していた。だんだんと息苦しくなってくるのすら心地よい。先輩の腕の中にいることが、こんなにも幸せで。だけど――。

「せ、せんぱい。もう、だめです、僕……」

 花火が夜空に大輪の花を咲かせる中、僕が先輩の胸を軽く押すと、先輩は意地悪な顔をして「あともうちょっとだけがんばろうね、さっちゃん」と僕の腰をきつく引き寄せた。

おわり