隅の方に『ごめんね』と書かれた算数ドリルの一ページは、小学五年生の秋からずっと、黒田世那(くろだせな)の学習机と透明マットの間に挟まれたままだ。

好きなアニメのキャラクターカードも、推しのアイドルの生写真も、母が一方的に押し付けてくるなんとか賞を受賞したなにかの先生の新聞記事の切り抜きだって、いつの間にかなくなっていたのに、だ。

世那は今でも、その算数ドリルの一ページだけは、そこに挟んだままだった。





「世那~?ちょっと洗濯物取り込んでおいてよ~」

階段の下から大声で、わざわざ指名する必要があるのだろうか。そこで足を止める間に自分でやればいいじゃないか。けれどそう言い返すことすら面倒だ。読んでいた漫画に帯を挟んで、仕方なくベッドから身体を起こそうとしたまさにその時。

「ちょっと!聞いてる!?」

ノックもなしに雑に開けられたドアの向こうには、エプロン姿の母。

「……うっせーんだよ、今やろうとしてんだろ!!」

(このクソババア!!)

世那はわざとらしく大きな足音で隣の部屋へ向かい、力いっぱいに網戸をスパーンと開け放った。まだ二階にいた母がなにか文句を言っている声が聞こえている。

(文句があんなら自分でやれよな)

世那はここ最近ずっと、本当にずっと、苛ついていた。どうして周りはこうも自分の神経を逆撫でしてくるのか。もう放っておいてくれ。そんな気持ちで日々をやり過ごしている。

ようやく秋めいてきた乾いた空気が、多少その心を落ち着けてはくれるが、それも世那にとっては気休めでしかない。バスタオルにくっついたカメムシを、そっと手すりの向こうへと落とす。

(馬鹿だよなあ。木とタオルの区別もつかねーんか)

そうして顔を上げた瞬間だった。見慣れた隣の家の窓に、ちらりと人影が写る。
その家の住人はもうずっと前…世那が小学五年生だから六年前の夏だ。六年前の夏に引っ越して、それからずっと空き家だった。

世那は一瞬、まさかと思った。しかし、もしあいつがここへ戻ってくるのなら母がそれを知らないわけがないし、知った上で黙っていられるような人でもない。普通に考えて買い手がついたとか、そういうのだろう。

それでも、ドキドキと胸が高鳴っていた。世那は、じいっとその窓を見つめる。もう一度、確かめたい。あいつじゃないと確かめないと、今日はたぶん眠れない。

(そんなわけ、ない。あるわけないだろ)

ぎゅっと握りしめたバスタオルから香る、フローラルな柔軟剤の残り香に苛立ちを募らせたその瞬間。窓に、もう一度人影が写った。今度はそれがこちらへ近づいてくる。世那の胸の高鳴りは最高潮に達していた。

(……そりゃあそうだよな)

窓の向こうの人物に、見覚えはない。ただ、まだあどけないその女の子は照れ臭そうにお辞儀をしてくれていたから、世那も一応それにお辞儀をし返した。

はあ、と大きな溜息。見上げた空は皮肉にも綺麗なオレンジだった。





その次の日、学校から帰ると世那の家の前には見慣れた顔がいくつもあった。

(よくも毎日話すネタがあるもんだよな…)

その光景は世那にとってあまりに見慣れたもので、とにかく寝ているとき以外はずうっと何かを喋っている母は、近所でも評判のババアなのだ。それを取り巻く近所のおばさんたちも、小さい頃はよく一緒に遊んだ幼馴染の親だったりする。だから妙に馴れ馴れしくされるのが、世那は苦手だった。

「あ!!世那世那っ!!」

近所の本屋にでも寄ろうと来た道を引き返そうとしたが、ババアは目ざとい。あの馬鹿でかい声を無視するのもさすがに不自然だ。手をこまねく母は、年甲斐もなくぴょんぴょんと跳ねていた。

(なんでアレから自分が生まれるのだろう…)

世那が渋々その集団に近づくと、輪の中から昨日の女の子が顔を覗かせた。

「あっ」

声を揃えてしまうと、母たちは一層うるさい。

「なに、知り合いなの?こちら昨日隣に引っ越してきた田中さんよ」

(田中……?)

「ほら、覚えてないの?櫂くん。田中櫂(たなかかい)くんって同じクラスにいたでしょう」

ドクドクと脈打つ感覚が気持ち悪い。田中櫂という男のことを忘れるはずがない。世那はリュックの肩紐を目いっぱいに握りしめた。

「田中さんね、再婚されて戻ってこられたのよ。もーほんっとびっくりよねえ」

ねえー?と、たぶん世那がくるまでに十回は繰り返されただろう会話。それに嫌気が差す間もない。世那の頭はもう、櫂のことでいっぱいだった。

「初めまして。田中です。櫂くん今ちょっと学校に教材とか取りに行っていて…この子は娘の紗枝っていいます」

櫂の新しい母親は、昨日の小さい女の子をそう紹介した。紗枝もぺこりと頭を下げて、母親の後ろに半分隠れながらも世那を見つめている。

「……あっ、はい。黒田世那です。よろしくお願いします…」

「やーねえ、もう本っ当に!昔はこんな陰気じゃなかったんですよ~騒がしくって子ザルみたいな…ねえ~?」

「うちの子と櫂くんと三人でよく裏山行って怒られてたわよねえ~」

「あ…ははは…そうだったっけ…」

(もう黙ってくれ…)

世那は心底そう願っていた。だってその話、新しい母親の前でわざわざする必要ないだろう。マウントってわからずマウントとるのが、ババアたちのタチの悪いところだ。

「世那!!!」

微妙な空気に困り果てていた世那を呼んだ声は、聞き覚えのない声だった。だが状況的に今自分をそう呼ぶのは、まるで浮かれたような弾んだ声でそう呼ぶのは、一人しかいない。

「櫂…?」

振り向いたその先にいた男は、世那の記憶の中の櫂とは、到底結びつかなかった。

クラスでも一番背が低く、いつも世那の後ろをついて回っては怪我して泣きべそかいてるような、まるで女の子みたいなやつだった。しかし今目の前にいる櫂は、世那よりもずっと背が高そうで、髪の毛は銀色で左耳に大きなピアスをつけて、シンプルな服装なのに自分は絶対的な存在だと主張するような、煌びやかなオーラを纏っていた。

(おま、誰だよ…?)

「やーだっ!!櫂くん!?男前になっちゃってー!!」

ババアたちは大騒ぎだ。しかしこのときばかりは、世那もその気持ちに完全同意だった。片田舎のこの町には到底似つかわしくない男に成長した櫂は、へらへらと笑いながら世那に近づく。

「なっ、なんだよ」

「久しぶりだね、世那」

ふわりと風にのって香った、櫂の大人みたいな香水の匂い。そんなの漂わせて、懐かしさなんて微塵も感じるはずがなかった。





櫂は偶然にも同じ高校に編入してきた。地元から通える高校はそう多くないから確率としてはありえなくはないけれど、まさかクラスまで同じとは。

編入初日の朝、櫂は世那の家のインターホンを鳴らし「一緒に行ってくれない?」などと子犬のように迫ってきたのだ。銀色だった髪の毛は校則に則り黒に戻っていて、その姿がほんの少しだけ昔の櫂を彷彿とさせたからか?世那は二つ返事に頷いていた。

「おはよー世那」

「はよ」

(こいつ、また…)

なんとなくそれから毎朝一緒に登校するようになったが、櫂の首筋には赤紫色のそれが…キスマークがついていることが度々ある。随分と束縛の激しい彼女がいるのだろうか。世那は櫂の首筋に目がいってしまうたび、罪悪感に苛まれる。

こんなこと、高校二年生にとっては普通のことなのだろう。ましてこの男だ。女の子が放っておくわけがないじゃないか。

(陰キャが変な妄想してごめんな…)

いつからか世那は、櫂を遠い世界の人間だと思うようになっていた。

「ねえ今日放課後ひま?」

突然、櫂が背を丸めて顔を覗き込む。なんというか、あざとい。世那は使う機会があれば真似しようなどと考えていた。

「委員会あるわ」

「何時に終わる?」

「あー…三十分くらいじゃん?なんかあんの?」

世那の問いに少しの間黙ってから、おずおずと「裏山に行きたい」と言う櫂。裏山といえば、この地区の子どもたちの裏定番の遊び場だ。割と急斜面な場所もあったりで、親や先生たちはそこへ遊びに行くことを咎めるのだが、それがまた子ども心に火をつけてしまうわけで。

しかし、それは子どもの頃の話。こんなに図体の大きくなった男たちが行っても、大して面白みはないが…。

「いいけど…なんで裏山?」
世那は「タイムカプセルはもう掘り起こしちゃったぜ」と続けた。

「……いいんだよ。今どうなってるか見てみたいだけ」

その横顔に既視感のあった世那は、柄にもなく吹き出していた。

「お前っ…そんなでかくなったのに、中身変わんねーのな」

悔しそうに唇を噛んでそっぽ向く櫂に、あの頃の姿を見たからだ。

(そうそう。よわっちいくせに人一倍負けず嫌いなんだよな)

まだ可愛かった頃の櫂が、今隣を歩くやけに垢抜けた男の中にもいるのだと思うと、世那はなんとも言えない気持ちに包まれていた。





一応制服から汚れても差し支えのない私服へ着替えて、待ち合わせの裏山へと続く鳥居に向かう。こうしてあの場所まで自転車を走らせると、何もかもが宝石のように輝いていたあの頃に戻ったみたいだった。

(あの頃は楽しかったなあ)

運動神経のよかった世那は小学生時代は無敵のリーダー的存在で、その隣にはいつも櫂がいた。クラスの女の子たちよりもずっと可愛くて幼気で、それでいて女の子みたいに面倒なことは言わないし、意外と負けん気が強いから一緒にいて気を遣わなくてよかった。
思い返せば櫂は、世那たちの間では都合のいいヒロインみたいな存在だった気がする。

自転車を走らせて十分。階段の端っこに身体を丸めて座る、元ヒロインの姿が見えた。

「櫂。ごめん、ちょい遅れた」

「んーん。案外近かったわ」

(そりゃお前がでかくなったからな…)

「行くか?」

そのとき、つい昔のように手を差し出してしまったのだ。世那は慌ててそれを引っ込めようとしたが、櫂はためらうことなくその手を握る。

「は、いやお前…」

「ほら、行こうぜ。暗くなったらやべーって」

(暗くなったって、別に俺たちもう大人だろーが…)

世那は渋々、櫂の左手をほんの少しだけ握り返して、数百段の階段を上り始めた。昔となにも変わらないはずだ。すぐ転ぶしすぐ疲れたと言う櫂の手を引っ張っていくのは、世那の役目だったから。

(……汗、やべえ)

山に入れば少し肌寒いくらいなのに、世那の手はじっとり湿っていた。背中にも嫌な汗を感じる。それなのに櫂は手を離したりしないのだから、余計に変な汗をかくのだ。

「あれ、金木犀?」

櫂の指差す先には、十一月なのにまだ綺麗なオレンジ色の花を咲かせている金木犀の樹があった。

「最近暑かったからかな」

「暑いと咲く時期長いんだ?」

「……ババアの受け売りだから、詳しいことは知らねえ」

「なんだよ~」とけらけら笑う顔に抱く感情は、やっぱり今も同じだ。櫂の笑顔が他となにが違うのかよくわからないけれど、櫂が笑うと安心する。

「ふふ。世那が笑うとなんか俺嬉しくなんだよね」

「……は?」

「なんでだろーね」

櫂の方を向けなかった。今目を合わせてしまったら、全部台無しになると思った。もうずっと昔の、忘れかけていた記憶。

「ほら。もう着くからいいだろ」

(頼むからもう、やめてくれ。離してくれ)

「……世那。昔ここで話したこと、まだ覚えてる?」

しかし世那の願いは半分しか叶わなかった。手を離す代わりに、櫂があの日のことを話し始めたからだ。

裏山の頂上には本当に小さな見晴らし台があって、小学五年生の夏休み、世那たちはそこで自由研究の観察日記に使うクワガタを探していた。その日はちょうど花火大会があって、夕方になる頃には一緒にきていた友人たちは皆家へと帰り、世那と櫂だけがそこに残っていたのだ。

「なんだったっけ」

(その話したら、また同じじゃねーか。なんでだよ櫂)

「覚えてないかあ。俺は割と…うん、ずっと。後悔してたんだけど」

随分と痛んだ木製のベンチに大の男二人が腰かけるのは、些か不安だ。櫂はそこに座ったが、世那はベンチの前に設置された心もとない柵にもたれ掛って立っている。世那から櫂の表情を覗うことは難しい位置関係だった。

(後悔って…お前が言い出したんだろうが。今更なかったことにしたいって?だったらずっと忘れてろよ。忘れたフリしてろよ。なんでわざわざ掘り返すんだよ)

世那の悪い癖がその片鱗を見せ始めていた。苛立ちが向かう先は目の前の櫂しかないのだから、絶対にそれを発動させるのは避けたい。世那は櫂に背を向けて、街を見下ろした。

「……なんだかわかんねーけど、俺もう覚えてないから。忘れりゃいいよ」

(そうだ。忘れればいいんだ。そしたらまた俺たちは…)

幾分浅くなった呼吸は、きっと最近運動不足だったせいだ。高校に入ってからは野球もやめたし、部屋で漫画ばかり読んでいたからな。裏山なんてトレーニングにうってつけだ。
世那はなるべく違うことを考えるようにした。その間ずっと、櫂は黙ったままだ。

「櫂、そろそろ…」

沈黙に耐えかねた世那が、意を決して振り返ったときだ。

(なっ…はあ!?)

世那と櫂の体格差が明確になった。櫂が世那をすっぽり覆った腕に力を込めると、世那は息が出来ない。櫂の肩から顔が出ないほどの身長差があったらしい。

「ごめん、嘘。違う…」

身体はそんなに大きくなったというのに、この泣き虫なところはなんにも変っていなかった。小さく震えて絞り出した声がその証拠だ。世那は一抹の悔しさを胸に、櫂の背中をさすった。

「わかったから。泣くなって」

そう言う世那の声も、震えていた。





夢を見た。クワガタ採りに行ったあの日の夢。櫂はまだ小さくて可愛かった。けれどあの瞬間に感じた“可愛い”はそれまでのそれとはほんの少し違う気がした。世那はそれが怖かった。

(なんっだよあの夢…。どんなご都合主義じゃ)

夢での結末は到底現実世界とは違っていて、世那は欲望をそのまま投影したかのような夢に情けないやら恥ずかしいやらで、頭を抱えていた。

「世那~!櫂くんきたわよ~!!」

(いちいち声がでけーんだよ!)

母に理不尽な怒りを抱きつつ、世那は一階へ降りた。
今日は、引っ越してきたばかりの櫂に、授業を受けていないところのテスト範囲を教える約束をしていたからだ。満足に教えられるような秀才でもないのだが、近所の幼馴染と知るや否や担任にゴリ押しされた。

リビングのソファーに腰かける櫂は、あれやこれやと母に質問責めを受けている。まったくどうしてうちの母はああなのだろうか…。

「櫂、上行くぞ」

「なーに、リビングで勉強したらいいじゃない!ねえ!」

(その下心丸出しの顔やめろよな…)

「うるさくて集中できねーわ。こっちのことは気にしなくていいから。昼とか茶とかまじでいいからな」

これだけ念押ししても無遠慮に部屋に入ってくるのが母なのだが。くすっと笑った櫂に目をハートにしている母を尻目に、世那たちは二階の部屋へ向かった。

「うわ、世那の部屋だわ」

「そんな変わってないっしょ」

「うん。でもなんか…落ち着いたかんじ」

「櫂が遊び来てた頃なんて、布団カバーとかくそダサかったもんな」

「星と野球柄のやつでしょ」

「あ?俺あれ気に入ってたんだけど…!?」

「あはははは!ごめんごめん」

櫂はあの裏山に行った日から、より一層世那の知る櫂の面影を感じさせる。今こうして無邪気に笑うのもそうだ。再会したばかりの頃は、妙に大人びた顔で笑っていたのに。

(そういえば香水の匂いもしなくなったな)

ぼんやりと、目の前に座る櫂の顔を眺めていた。

(まつ毛なげー…鼻ちっせえのに鼻筋通ってて羨ましいな…櫂のお母さんにそっくりだ)

「世那?聞いてる?」

「あっ、わり。聞いてねえわ」

不意に顔を上げた櫂と目が合った。昔はまんまるくて子犬みたいな可愛らしい目だったのに、今やその中にも男を感じさせる、中性的な顔立ちに成長して。現に櫂はあっという間に学校中の憧れの的だ。世那の知る限りでも、すでに五人の同級生が櫂に告白して撃沈していた。

「……なあ櫂」

「んあ?」

「お前彼女いんの?」

口に出した瞬間に脳裏をよぎった、櫂の首筋のアレ。それがもう答えなのに、世那は自分の不躾さに腹が立った。

「いや、ごめん!ほら引っ越したら色々大変なんじゃないのかなーとか思ってつい…」

やけに饒舌になってしまった世那のことを、櫂はじっと見つめているだけだった。

(なっ、なんだよ…童貞だからってバカにしてんのか…!?)

櫂は一度視線をノートに落としたあと、そのまま「いないよ」と答えた。

「あっそう…?なの…?」

(え、じゃあアレはなに…?そういうかんじなのお前…?)

世那はそれ以上は聞けなかった。どう考えても経験値が違う。今の櫂と恋バナなんてできるわけがないし、知りたくもないと思ったからだ。

それからしばらくの間、櫂は黙々と世那のノートを写し、世那はその目の前で、楽しみにしていた漫画の新刊を読んでいた。途中予想通り母の邪魔が入ったが、その母も向かいの瀬野さんに呼ばれて家を出てから帰ってこない。たぶん夕飯までコースだろう。

「あ、飲み物取ってくるわ」

空になったグラスを二つ持って、世那は階段を下りた。キッチンにはおそらく母が食べようとしていたであろうスナック菓子と饅頭が置かれていて、世那はついでにそれも部屋へ持って行くことにした。

(櫂、あんこ好きだったよな。今も変わってなきゃいいけど)

「櫂~。饅頭あったけど食う?」

そう言いながら足でドアを開けたときだ。

あの算数ドリルの一ページを手に持った櫂の背中が、目に飛び込んできた。

「はっお前…!なに勝手に見てんだ…!」

慌ててそれを奪い取ろうとすると、櫂はくるりと身を翻してそれを拒む。背の高い櫂が手を上に伸ばせば、到底世那には届くはずもなかった。

(くそっ…!無駄にでかくなりやがって!!)

「おい櫂!子どもみてーなことすんな!」

必死の様子の世那に反して、櫂は言葉を発しなかった。ただ手に持ったそれだけは決して世那に返してくれない。

「お前まじでさ…いい加減にしろって」

いよいよジャンプでは届かないことを認めた世那は、櫂の身体にがっしりとしがみついた。そしてまるで上り棒のように、櫂の身体を上ろうとしたのだ。

「ちょっ…世那!危ないって!」

さすがの櫂も多少ふらついていた。しかし世那はとにかく必死だ。そんなのお構いなしにぐいぐいと足に力を込めている。

「わかった、わかった!返すから!ほんとにあぶな…っ」

先に限界が来たのは、櫂だった。世那の脚力に耐え切れず体制を崩した二人は、あろうことか世那のベッドに倒れ込む。

(なんだよこの王道展開…!!)

横向きに倒れた二人だが、世那の腰はがっちりと櫂の腕に支えられていた。そのままの体勢で黙って見つめ合う時間が気恥ずかしいのに、世那はそれよりもずっと、あの日から捨てられずにいたそれを、本人に見られてしまったことの方がいたたまれなかった。

「……忘れたんじゃなかったの」

先に口を開いたのは櫂だ。ほんのわずかに唇を突き出してそう言った。

「なんでもいーだろ別に…」

まったく答えになっていないことは世那もわかっている。けれども強がる以外の防御方法がわからなかったのだ。

「覚えててくれたんだね」

もう目を合わせることもできないほどの恥じらいだ。世那はベッドに顔を突っ伏して固まっている。

「…俺、ずっと会いたかったんだ。あんなこと言って世那のこと困らせて、引っ越すときも…なにも言えなくて」

櫂が言葉を振り絞るたび、世那の記憶が鮮明に呼び起される。あのときの気持ちが、なに一つ欠けることなく心に落ちてくる。

「あのときは…ほんとにごめん」

(なんで…なんでお前が謝るんだよ。謝るのは俺の方だろうが)





クワガタ採りに行ったあの日、綺麗なオレンジの夕焼けを背に、櫂は『世那が好き』と言ってくれた。世那はそのままの意味で『俺も!』と答えたが、どうやらそうじゃないことは櫂の顔を見たらわかった。

世那はそのときのわずかな憂いを帯びた表情が、困ったような笑顔が、たまらなかった。櫂のその顔を知っているのが自分だけなのだと思うと、可愛くて仕方なかった。まだ恋は知らなかったけれど、なんとなく友達に抱くそれとも、クラスの女の子に抱くそれとも違った『好き』なのかもしれないと思った。

今になって思い返せば、それが怖かったのかもしれない。ともかく世那はその日から夏休み終盤の登校日まで、櫂とはまともに顔を合わせられなかった。

そして登校日。結局これが櫂と顔を合わせた最後の日になるのだが、当時の世那はそんなことは知らない。

隣の席の人と交換して丸つけをするように言われて、世那は櫂に算数ドリルを渡した。
そして返ってきたそれに書かれていた『ごめんね』の四文字に、世那は上手く頷けなかったのだ。自分でもその理由はわからなかった。ただ、怒ってるわけじゃないのに、とは思っていた。

二学期の始業式に、櫂の姿はなかった。先生は『おうちの事情』で東京に転校したと言った。隣に住んでいるのに、まったく気が付かなかったのだ。帰宅してすぐに母にそのことを話すと、母もまったく知らなかったと言った。

櫂の家の庭には、プランターのパンジーも、学校から持ち帰った朝顔も、よくみんなで遊んだ水鉄砲やビニールプールだってそのまま置かれていた。まるでまだそこに帰ってくるみたいに。

けれど櫂は、いつまで待っても帰ってこなかった。世那の記憶の最後は、今にも泣きだしそうな情けない顔の櫂だ。

「謝んな。別に困ったとか怒ってるとか、そんなんじゃない」

世那はもぞもぞと顔を半分あげて、櫂を見つめる。

「……わかんなかったんだよ、どうしたらいいか。ただそれだけ」

(目、潤んでるな…。泣き虫なとこ変わってねえ)

「その顔やめろって…こっちまで泣きたくなる」

世那の手が櫂の瞼にそっと触れる。櫂がそれに応えるように、わずかに頬をすり寄せた。

「……忘れてねーよ。ずっと忘れてない。櫂にまた会いたいって思ってたよ」

(そうだ、そう思っていたんだ。また会えたら、そのときはちゃんと言おうって)

「あのとき、好きになってくれてありがと」

目からぽろぽろと涙の粒が零れた。昔からそうだ。櫂が泣くときは大抵、赤ん坊みたいなんじゃなくて、映画の女優みたいに綺麗に泣く。

「……世那…抱き締めていい?」

「ふっ。なんじゃそりゃ」

世那はぐっと櫂に近づいて、またすっぽりその腕の中に収まった。





テストも終わり、世間はすっかりクリスマスムード一色だ。この片田舎の商店街でもそれは同じ。シャンシャンという鈴の音と、サンタらしきおじいさんの声が日が暮れるまで流れ続けていた。

「世那もクリパくるんだよね?」

そうして櫂とも相変わらず、なんだかよくわからない『距離感おかしい幼馴染』としてそれなりにうまくやっている。

「あー…俺は行かないよ」

「え!?なんで!?」

「そういうの苦手。陽キャこわい」

信じられない、といった顔で櫂は恨めしそうに世那を睨んだ。おそらく主催者たちに、世那も来るからなどと上手いこと騙されたのだろう。

「えー嘘だろー…世那がいないなら行く意味ないじゃん…」

(この人…一体俺のなんなのよ…)

「楽しんでくりゃいーじゃん。カラオケだっけ?いいじゃんいいじゃん」

「全然心こもってないんですけどー」

ぶすくれて膨らんだ頬をつまんだら、櫂は気の抜けたように笑った。

(かわいーなあ)

ここ最近、再会した頃の妙に大人びた櫂は姿を消している。首元のアレも見なくなったし、香水の香りもしない。少なくとも世那といるときには、無邪気に笑うようになった。
体格こそ自分よりも随分大きくなってしまったが、世那も昔のように櫂を可愛がるような関係だ。

「世那ぁ。クリパ終わったら会おーよ」

「何時に終わんだよ」

「えわかんないけど、一時間くらいで抜けるから。ね?いいっしょ?」

集合して一時間でこの人気者が抜けるなんてことは、あまり現実的な提案ではなかったけれど、世那は「いいよ」と口元を引き締めてから答えた。

(クリスマスに会うとかさー…えー…??)

商店街で延々と流れ続けるクリスマスソングとサンタの煽りをこんなにも嬉々として耳に入れたのは、たぶんこれが初めてじゃないか…?世那は浮かれすぎないよう、当日も連絡はこないものと自分に言い聞かせつつ、櫂からの連絡をどこか心待ちにしていた。



そして迎えた、クリスマス当日。

『あ、もしもし。世那?今抜けたからさー裏山行く?』

(う、う、裏山!?)

概ね約束通りの時間に、櫂は本当にクリパを抜けたらしい。が、想像とは違う提案に少し戸惑った。

(裏山か…俺らの遊び場そこしかないんか…)

やや落胆したものの、そこくらいしか遊び場がないというのも半分正解なのだ。駅前のカラオケやボウリング場は同じように学生たちが占拠しているだろうし、そこ以外で遊べるところなどゲーセンくらい。ファミレスすらない。

世那は自転車に跨り、待ち合わせの鳥居へと向かった。

「あれ、櫂!」

その道すがら、信号待ちで櫂と鉢合わせた。櫂はこの寒空に手袋もマフラーもせず、寒々しい装いで自転車を走らせている。ピンク色に染まった鼻の頭が愛らしい。

「世那だ!おつかれー!」

そうして二人で自転車を並べて走るのは、意外とよかった。顔中を冷たい風が突き刺すのに、なぜだかそれがちょうどいい。笑うたびに白い息を吐く櫂が、異様に儚く見えたりした。

世那たちは適当な場所に無造作に自転車を止め、真っ赤な鳥居をくぐる。数百段の石段を前に、隣を歩いていた櫂が、ちらちらとこちらを見ていた。

「……なんだよ」

「手、繋いでよ」

やたらと強気な物言いのわりに、小指に軽く引っ掛けただけの手は遠慮がちで、そのちぐはぐな態度が可愛くて、愛おしくて、世那はどうしようもなかった。

(もう俺これさあ……)

再会して三か月、今まで離れていた時間を取り戻すような日々を過ごしてきた。今こうしていい歳した男二人が手を繋いで石段を上っているのだってそうだ。付き合っているとか、好き合っているとかじゃない。ただ昔からそうしていたから、だ。

あれだけ行く気がなさそうだったくせに、行ってみれば楽しかったのだろう。上機嫌にカラオケでの出来事を教えてくれる櫂の横顔を、可愛いと思うのと同じくらい恨めしく見つめてしまうのだって、たぶんそうなのだ。

「え、うわ!世那!見てみて」

見晴らし台に着くと、櫂は空を見上げてそうはしゃいだ。

「すげー!!星ちけーな!」

言われた通りに見上げた空には、冬の澄んだ空に光る無数の星と満月。
思い返せば、暗くなった裏山にきたのは初めてだ。なにもないがある、なんて眠らない街に住む人がつけた陳腐なキャッチコピーを思い出す。これはまさにそれだ。

「夜の裏山やべーな?」

隣の櫂の顔を見上げた。きっと子どもみたいな顔してはしゃいでいるのだろうと思っていた。

「そうだね」

なのに櫂は、えらく優しい顔で世那を見下ろしている。

(お前さっきまで、流れ星~!とかはしゃいでたじゃねーか)
(大体、その顔なんだよ。最近やっと可愛くなったっていうのに…)

絶え間なく吹く北風が頬を刺す。キンキンに冷えている左手とは裏腹に、右手だけはずっと暖かい。櫂がいるから。櫂のポケットにはカイロが仕込まれていたからだ。

「……あ、のさ…」

言いたい、と思った。たとえこれが独りよがりでも。もうこの体温を失いたくないと思った。

(櫂もあの日、こんな気持ちだったのかな)

「好き…なんだけど」

怖くって、櫂の顔は見れなかった。このときばかりは背の低い自分に感謝した。まっすぐ見つめていれば櫂の肩しか見えないのだから。

「……えっ、え…?星…?」

間抜けな返事が、櫂らしかった。

「ちげーよ!お前だよ!」

ぱっと見上げた顔が、あの日の櫂と重なる。憂いを帯びて困ったような笑顔。

「別に…言いたかっただけだから」

視線を下に向けると、櫂は言葉の代わりに世那を抱き寄せた。けれど世那は、言葉が欲しかったのだ。

(櫂はずっと、こんな気持ちだったんだ)

六年前の罪が今、自分に跳ね返ってきていた。





年の暮れ、世那は一人家で年越しそばの作り方を調べていた。

(なんかもう、カップ麺でいい気してきたわ…)

父と母は、例年通り父方の祖父の家に帰省している。もちろん世那も誘われたわけだが、ようやく今年は一人でこの家に残ることを許されたのだ。
どこの大学を受けるのかとか、彼女はいるのかとか、不躾な質問を受けるのは毎年のことだったし、とにかく一言で言えば面倒。あっちからもこっちからも説教ばかりされるのだから。

ふう、と静かなリビングのソファーに身を預ける。今自分しかこの家にいないことが、この上なく幸せだと思った。なにをしても、しなくても、誰にも文句を言われない。

(大学入ったらぜってー一人暮らししよ)

その一瞬、櫂の顔が頭を過る。
あの日から何度か顔を合わせたものの、特段クリスマスの日のことに触れるわけでもなく、相変わらず『幼馴染』の世那たちは、どちらかがここを離れたら、また会うこともなくなるのだろうか。

(それは……嫌なんだけどな)

世那は手に持っていたスマートフォンをなぞり、ほぼ無意識のうちに櫂へ電話をかけていた。

『もしもし?』

電話越しの櫂の声は、いつもよりも低く落ち着いて聞こえるものだから、妙な気分にさせられる。

『あー…今なにしてんの』

『……なんも。ごろごろしてた。世那は?』

『俺も。暇すぎる』

『ふふ。いつ帰ってくんの?初詣いこー』

『帰ってない。家にいる』

『え!?』

そう言えば、櫂が来てくれることはなんとなくわかっていた。素直に会いたいとでも言えば、櫂も少しは揺らいでくれたり…は、しないか。

(俺との経験値の差、半端なさそうだもんな…)

電話を切って数分後、家のインターホンが鳴る。ドアを開けたそこに立つ櫂の姿が、どうしたって輝いて見えるんだから、自覚するって恐ろしいことだと思った。

「俺、てっきり帰省してるんだと思ってた。車ないし」

「今年はようやく人権与えられたの。何年かかったかな…」

「ははっ。世那まだ反抗期引きずってんの」

「は!?反抗期とかじゃねーわ」

いつもなら世那の部屋に直行するが、今日ばかりは誰もいないのだから、リビングを占拠できる。部屋にテレビがないせいで、ずっと櫂とゲームができていなかったことを思い出した世那は、それを提案してみた。

「えっ!いいね!やりたいやりたい」

(……あー……好きだなあ)

無邪気な櫂の笑顔が、いつかどこかの誰かのものになるのかもしれない。それでも世那は、昔のように失うよりはマシだと思っていた。失うくらいなら、ずっとこのよくわからない距離感の幼馴染でいいと思っていたのだ。

「なにやる?つっても最近のあんまねーけど」

「スマブラ!!昔超やったじゃん」

「お前、くそ弱いのにいいの?」

「は!?んなことないわ、俺だって上達してます~」

「どうだかな…。負けても泣くなよ」

勝負は案の定、十戦十勝。相変わらず櫂はゲームがへたくそだった。

「ほらな」

「うるせー…もう一回だよ…!」

昔もしょっちゅう負かされては「もう一回ぃぃ!!」って泣きべそかいて悔しがっていたっけ。

(ほんと、変わってねーな)

「ねえ世那!ちょっとは味方してよ!」

「はあ?チーム戦じゃねえって」

「俺がコンピューターにやられてもいいのかよ!」

弱いくせに負けず嫌いで、勝つまで何度でも勝負を挑んでくる櫂のことを世那はおもしろくて気に入っていたし、だけど自分以外に泣かされている櫂を見ると、途端におもしろくなくなったことを、ふと思い出した。

「……しょうがねーなあ」

(なんか俺って結局ずっと、櫂ばっかりなんじゃね?)

ちらりと横目に映る櫂の姿が、ほんの少しだけ触れ合っている右肩が、自分を狂わせていくのがわかる。なにも嘘なんかじゃない。ずっとこの距離に櫂がいてくれる方が、絶対幸せなはずなのに。

(……俺のになってよ、櫂)

「あっ!世那落ちた!!っしゃ!!」

「……だな」

あの頃と変わらないのは、櫂のゲームの下手さと無邪気な笑顔だけだ。





「櫂んちは帰省とかしねーの?」

家にあったインスタントラーメンを作るため、世那はキッチンに立っている。
櫂はダイニングの椅子に座り、漫画越しに時々こちらを見てくるから、てっきり暇なのかと思って声を掛けたが、その問いに返事はなかった。

(なんだ、集中して読んでんじゃん。やっとあの戦闘シーン入ったのか?)

ぶくぶくと沸いたお湯の火を、少し弱めたときだった。

「俺以外は帰ってるよ」

「え?」

「キョウコさんの実家。鹿児島なんだけどさ」

キョウコさん、というのはたぶん、櫂の新しい母親のことだろう。世那はカウンターの向こう側に座る櫂の顔は覗けなかったが、なんとなく声色で察していた。

(そういえば俺、櫂の家のことなんも聞いたことなかったな…)

小学五年生の夏、どうして櫂が突然引っ越すことになったのか。どこへ引っ越してそこでどんな暮らしをしてきたのか。どうしてまたこっちへ帰ってくることになったのかも。

「……つか、なら一緒にいればよくね?俺も一人、お前も一人なんだし」

「えっ」

「なんだよ、嫌なの?今日泊まって、明日一緒に年越しして、そのまんま初詣いこーぜ」

できあがったラーメンを器に盛り、それをテーブルに運ぶとき、世那はなるべく視線を上げないようにしていた。櫂がどんな表情を浮かべているのか、知るのが怖かったからだ。

「てか年越しそばもさ、二人いれば作れそうな気するわ」

いつになく饒舌だった。櫂に拒否権を与えないことに必死だった。

「あ、泊まるって言っても、あれだよ。別に一緒に寝ようとか言わねえから」

(そうだった。俺、櫂に告白したんじゃん。そんな相手に泊まり誘われるとか怖いか…?)

「……一緒に寝てくれるなら、泊まる」

しかし予想に反して、櫂は小さな声でそう呟いた。

「……櫂がいいならいいけど。じゃ決まりな」

櫂は昼間でも一人で寝るのが苦手だった。きっとあの頃から、そんなところも変わっていないのだろう。

(別に、深い意味なんてない。ないない。一緒に寝るくらい、今までだって数えきれないほどしてきたことじゃんか)

世那が作った具なしの質素なラーメンを、満面の笑みで頬張る櫂の言うことに、深い意味なんてない。世那は何度も何度も、自分にそう言い聞かせた。

「世那のラーメン、うまい」

「……そ。ならよかった」





真っ暗闇の中、唸る声で目が覚めた。

(櫂…、泣いてる)

大の男が二人、シングルベッドで肩を寄せ合って寝ているのだから、嫌な夢を見てしまうのも無理はなかった。ただあまりにも苦しそうに泣くものだから、つい、手が伸びてしまったのだ。

「櫂…大丈夫だよ。大丈夫大丈夫」

同じシャンプーを使ったはずなのに、櫂の髪は世那よりもずっと柔らかく手触りがよかった。

(こんなでかくなったくせに、本当、たまに子どもみてーなんだよな)

そんなところがたまらなく愛おしい、と思うことは心の中でさえ憚られる。少しでも意識してしまったら、歯止めが効かなくなりそうだ。

「……世那ぁ…」

(?起きたか?)

櫂の小さな声を聞いて、顔を覗き込もうとしたときだった。

(………は……?)

後頭部に添えられた櫂の大きな手が、自分よりも力強くなったことは、今知った。綺麗なピンク色の唇が、見たまんま柔らかいことも、今知った。その唇がどんなキスをするのかも、だ。

「おまっ…は!?櫂!起きろ!!」

背中を何度か叩いてようやく解放された世那は、咄嗟に櫂から距離をとった。壁にもたれかかった世那は、まだベッドに横になる櫂を注意深く見ていたが、ぴくりとも動かない。

(こいつ…まじで寝てんの?寝ててあれなの?やばくない…?)

バクバクとうるさい心臓。少しでも油断したら絆されてしまいそうな自分の理性。

そして、もうすっかり忘れていたはずなのに脳裏に過った、櫂の首筋のアレと香水の香り。

「……起きてるよ」

むくりと身体を起こした櫂は、目をごしごしと擦っていた。

「はぁ!?お前なにして…」

「ごめん。やな夢みた」

「やな夢って、失礼だろーが」

しばらくの沈黙の後、櫂は「真っ暗はやっぱだめかも」と呟いた。

(寝る前に聞いただろーが。まったくこいつ…無駄にかっこつけやがって)

「ん!豆電でいい?」

照明のリモコンをピッと一度押すと、オレンジ色の明かりが点いて、少しだけ櫂の顔が見えるようになった。

「……櫂」

「……」

「こっちこい」

「……むり」

「いーから」

引き寄せた櫂の身体は、自分よりもずっと大きくなったはずなのに、あまりにも頼りなく弱弱しく感じた。

(なんでこいつ、なんも言わねーの)

なんだってするのに、櫂が昔のように頼ってくれたら、なんだって。世那はやりきれない思いをすべて、腕の力に込めた。

「……櫂がすぐ泣くのも、ゲーム下手くそなのも、火通ってないネギが嫌いなのも、一人で寝るの苦手なことも、暗いとこ無理なのも、俺は知ってんだよ」

「……泣いてないし」

「ほんとは寂しがりで甘えたのくせに、人一倍負けず嫌いで強がりなのも、俺は知ってる」

「全然ちがう。寂しいとか思ったことない」

そう言いながら頭をすり寄せてくるのが答えだろう、と世那の口元はわずかに緩んでいた。

「お前がどんなにかっこつけたってな、俺からすれば、ちっこくて泣き虫で守ってやんなきゃって思ってたあの頃と、そんなにかわんねーんだよ」

「……なにそれ。今は世那の方が全然ちっこいくせに」

「うるせー」

鼻をすする音が、いやに耳に響いた。なにがこんなに櫂を苦しめているのだろう。こんなふうに静かに涙を流す櫂に、今の自分ができることなんて、もしかしたら一つだってないのかもしれない。

「……なにがどうとか、言わなくてもいいけど」

(本当は知るのが怖いんだ、たぶん。櫂がこの六年どんな思いを抱えてきたのか知ってしまったら、俺はきっと俺を許せないから)

「でも、しんどいときはしんどいって、俺には言え」

(だけど、向き合いたい。これからは逃げない。櫂のこと、もう手放したくないから)





「え、出掛けんの?」

翌朝、櫂は世那よりも早く起きて身支度を整えていた。

「うん。ちょっと前から約束してたから」

「…ふーん」

(大晦日に会う約束…ねえ)

なんだかおもしろくない世那は、もう一度布団にもぐりこんだ。

「……世那。服貸して」

「はあ?やだよ。てかサイズあわねーだろ」

(嫌味か、こいつ…)

「じゃあ、マフラー。貸して」

布団の上から全体重でのしかかってきた櫂に、世那は「ぐえっ」と声を漏らした。

「重い!!」

「はははっ」

(……ったくよー。なんだよ、すっきりした顔しやがって)

「……そこにかかってるやつでいいなら」

世那は部屋のドアの方を指差した。

「いつも世那が巻いてるやつだ。ありがとー」

「……臭かったらごめんな」

「え、それはやだ」

「おい!」

「ふふっ。夜までには帰るから。天ぷら一緒に買いに行こ」

もういつ買ったのかもよく覚えていない、よれよれの紺色のマフラー。それを手に満足げな顔を浮かべる櫂。そんな櫂を見やって、だらしなく鼻の下を伸ばす世那。

(俺まじで櫂のこと好きなんだな……)

櫂が出て行ったあとの自分の家は、がらんとして寒々しくて、居心地が悪かった。あんなに一人が優雅だと思っていたのが、嘘みたいだ。

そのとき、世那のスマートフォンが鳴る。

「……行くか」

数少ない友人の一人、カズマからの誘いだった。当日の誘いなど、普段なら面倒で絶対に行かないが、一人で家にいるのがいたたまれない今は、それが有難いまである。

「えー!?レアキャラいるじゃん!」

「まじだ!なんで!?今日櫂くんいないのに!」

「……カズマに誘われたんだけど…」

(なんだよこれ…)

待ち合わせのカラオケ店の前には、複数の男女の姿。クラスメイトの知った顔もあれば、見たこともない顔も何人かいる。世那が一番苦手とする、大人数の集まりだ。

「まさかほんとに世那がくるとは思わなかったんだよ!でも誘わないのも違うじゃんって思って…」

「有難いけどさ…俺がこーゆうの苦手なの知ってんだろーよ…」

カズマは「まあまあ」などと適当な相槌を打ち、すぐに別の友人のところへ呼ばれてしまった。

(俺、ぼっち確定じゃんか。やっぱ帰ろっかな…)

世那が空を仰いだときだ。

「あの、黒田くん…だよね?」

「……え、はい…」

まったく知らない顔だが、相手はどうやら世那のことを認識しているらしい。冬休みの間だけなのだろうが、茶色のロングヘアーから香る甘い香りが、いかにも女の子らしい子だ。

「隣のクラスの市原です。今日、黒田くん来てくれると思ってなかったけど…会えてラッキーだなって思って。隣取られる前にきちゃった」

「いや別に…ぼっちですよ俺。カズマ幹事っぽいし」

「カズマくんと仲いいよね。最近は櫂くんといるところ、よく見かけるけど」

「あー…そう。幼馴染。俺ら三人。まだあと何人かいるけど」

「えっいいなあ。幼馴染ってなんか特別な感じする。あたし親が転勤族だから、幼馴染とかいないんだよね」

「そうなんだ」

(だからこんなコミュ力たけーんだな…。俺が話しやすいってことはかなりのコミュ強だ)

「今日は櫂くん一緒じゃないんだよね?」

「え?うん。なんか用事あるって」

「そっか。よかったぁ」

(よかった?)

世那が首を傾げると、市原はにこりと微笑んだ。

「櫂くん、目が笑ってなくてちょっと怖いんだもん。いつも黒田くんの隣死守してるし」

「死守って大袈裟な…」

目が笑っていない、そう言った市原の言葉が妙にしっくりきてしまうのが悔しい。世那が再会したときの櫂の大人びた笑顔は、まさにそれだった。世那はそれを『大人びた』と表現するようにしていたが、心のどこかではそう感じていたのだろう。

(あの笑顔、最近俺の前ではしなくなったけど…。それにしても市原さん、よく櫂のこと見てんだなぁ)

自分が目を逸らしてきた事実。離れていた六年間のこと。

世那は、自分の独りよがりな気持ちを伝えるよりも前に、もっとやるべきことがあったことに気が付いた。

「……市原さんって、人間観察が趣味なの?」

「え!?そんなことないよ!?」

「よく見てるなと思って。櫂のこと好きとか…?」

(いやいや、だとしても譲らねえけどな?)

「ちがっ…えぇ…?黒田くん、天然なの…?」

市原はそう言って上目遣いに、世那を見つめる。そんな視線に慣れていない世那は、ぱっと目を逸らし、ちょうど近くを通ったカズマに助けを求めた。

「カズマ!俺やっぱ帰る!」

「は!?なんで!もう揃ったから店内入るよ?」

「そうだよ、黒田くんもちょっとだけ行こ?ね?」

(なんか俺…、どうしよ。めっちゃ櫂に会いたい)

アウターの袖をちょんっと掴んだ市原の小さな手を、かわいいと思わないわけじゃなかった。世那にしては珍しく、話しやすい相手でもあった。けれども世那は、ここで時間を潰すくらいなら、帰って慣れない夕飯の支度でもしながら櫂を待つ方がよっぽどいいと思ってしまったのだ。

「ごめん。俺やっぱ……」

そう言いかけたところで、聞き慣れた声が世那を呼ぶ。

「あれー!櫂くんだ!やばー!!」

櫂が姿を見せただけで、周囲がわっと盛り上がる。そういう男なのだ、田中櫂は。本来なら世那のような陰気な男とつるんでいるのが、不思議なほどに。

「世那、なにしてんの」

「え、今…」

「櫂くん。黒田くんちょっとだけ貸して?」

市原の言葉に乗じて、カズマも「そうだそうだ」と加勢してきた。一人でも多い方が、割り勘するのに好都合なのだろう。それでも世那がそれを断ろうと、市原の手を振りほどいたときだった。

「……無理。世那は俺のだから」

(なっ……はあ?お前、俺が好きだって言ったの覚えてねーのかよ…!?)

無駄に期待させられるのは癪だった。……癪だったが、どうしたってそれに抗えないのが、恋ってものなんだろう。

カズマの野次を振り切って、櫂の大きな手が世那の左手を包んでいた。

「……なあ。俺、物じゃねーんだけど?」

こんなふうにしか言えない。本当はたまらなく嬉しいくせに。櫂の大きな手がこんなに特別なこと、どうやったら伝わるのだろうと、世那はもどかしくてしかたなかった。

「わかってる。……ごめん、無理矢理」

(しょぼくれた声。かわいい)

「無理矢理じゃねー。俺帰ろうとしてたんだから、むしろ助かったけど」

「えっ。帰ろうとしてたの!?」

「そうだよ。俺がああいうの苦手なの、お前もわかってきただろ?」

「昔はああいうのの真ん中にいるタイプだったのにねぇ…」

「うるせ。いつの話してんだ」

なにがあったわけじゃない。ただ周りが変わっただけだ。櫂がいなくても当然のように同じ遊びを繰り返して、繰り返して、そのうち櫂なんて初めからいなかったみたいになっていくのが、嫌だった。

そしてそれはきっと櫂だからじゃなくて、たとえ自分でも同じなのだろうと気付いたら最後。世那は人付き合いに時間を割くことを、この上なく煩わしく感じるようになった。

「……俺、たぶん元からそうなんだよ。ずっと勘違いしてただけ」

「えー?世那はリーダー気質だよ。面倒見良くて、割となんでもこなしちゃうし」

「そう思ってんのはお前だけだよ」

(櫂は知らない。お前がいなくなってから、俺が何度友達だと思ってた奴らと揉めたか。陰口を言われ、疎まれてきたか。でもそれは、知らなくていいんだ。お前にはあんまり、知られなくない)

「…てか櫂さ、帰りだいぶ早くない?夜までには帰る~とか言ってたじゃん」

「早く帰ってきたの。カズマから連絡きたから」

「ああ。櫂も合流する予定だったんだな」

(なら別に帰らなくたってよかったじゃんか)

まだずっと繋がれたままだった手に、ぐっと力が入ったかと思えば、櫂はなにやら不満げな顔で世那を見下ろしていた。

「え…なに?」

「……べっつにー。世那は苦手苦手言いながら合コンとか行くんだなぁって思っただけ」

「合コン!?」

(今日のあれ、合コンだったのか!?あれが…噂の…)

「まじで知らなかっただけだよ…!カズマが口足らないの想像つくだろ」

「…さあ?俺には、世那も合コンに来るって普通に言ってきたけど?」

「はあ!?俺には、ほら!見ろよ!」

そう言ってメッセージアプリの画面を見せようとするが、櫂はぷいっと顔を背けてそれを見ようとしない。

「なあ、櫂!見ろってー」

ぐいぐいっと繋いだ手を引く。ようやくこっちを向いた顔が、にんまりほくそ笑んでいて、世那は恥ずかしいやら嬉しいやら悔しいやら、色んな感情がどっと押し寄せていた。

(ほんっと…!惚れた弱みってこういうことか…)





年の瀬のスーパーで二人、年越しそばに乗せる天ぷらを選ぶ。繋いだ手はスーパーに入るや否や、櫂の右ポケットにすっぽりしまわれていた。

「世那は海老だめだったよね」

「うん。俺かぼちゃとさつまいも」

「芋芋しいな」

「それがいいんだろ。蕎麦に海の味はいらん」

「ふははは。じゃあ俺も海老じゃなくてちくわにしよー」

「……ちくわも海じゃね?」

「え?」

櫂となら、こんなどうでもいいくだらない話さえ楽しい。櫂も同じ気持ちだったらいいのに、などと欲をかくくらいには、世那は浮かれていた。

しかし、忘れてはいない。櫂に会ったらちゃんと聞こうと思っていたこと。

「……なあ。帰ったらちょっとだべってから夕飯にしよーぜ」

「ん?いいけど。じゃあお菓子も買ってこー」

「おう」

世那たちは両手に余るほどのお菓子と食糧を買い込み、世那の家に帰宅した。

(ちゃんと、聞く。無理矢理聞き出したりしないけど、見て見ぬフリはもう終わりだ)

世那はそう心に決めて、ソファーに腰を下ろした櫂の隣に座った。その一瞬だ。

「……お前さあ。今日どこ行ってたの」

「どこって…言わなきゃだめ?」

「だめってことはねーけど」

(だって、この匂い)

世那はぐいっと櫂の着ていたタートルネックの首元を引っ張った。

「ちょっ、なんだよ」

(やっぱりな)

首筋にぼんやりついた赤紫色のそれは、昨日の夜にはなかったものだ。

「……これ、なんなの。彼女いねーって言ってなかった?」

今にも掴みかかってしまいそうな衝動を、必死に押さえつけていた。世那は櫂のただの『幼馴染』だ。彼氏でもなければ、なにか特別な存在なわけでもない。そんなことは自分が一番よくわかっている。それでも、だ。

「なんでだよ。お前、どこでなにしてんだよ」

(こんなの、違うだろ。櫂はそんな奴じゃない。……そんなの、嫌だ)

櫂は下を向いたまま、なにも言わない。また泣きだすのかと、もし泣かれたらもう自分は何も言えないだろうと、世那も次の手を考えるのに必死だった。

「……世那は、かわいい俺がいいんだよね」

「……は?」

「昨日も言ってた。泣き虫でよわっちい俺がいいんでしょ」

(そんなこと言ったか…?こいつ、変な解釈してね?)

「そんなこと言ってねえよ」

「……俺、もう世那が知ってる俺じゃないんだよ。ずるくて汚くてどうしようもない、ゴミみたいな奴だよ」

櫂はそう話しながらも、決して顔を上げようとしなかった。それがやっぱり世那には、昔となにも変わらない姿に映ってしまうのだ。

「……じゃあ、そんなゴミのこと好きな俺はクズってこと?」

「なんでそうなんだよ。世那は俺に騙されてるって言ってんの」

「はあ?お前が俺のこと騙せるわけねーだろ。舐めんな」

「舐めるよ!だって世那、なにも変わってない。純粋で鈍感で嘘がつけなくて…真っ直ぐなままじゃん。そんな奴騙すの、もう俺平気でできるんだよ」

(ふざけんな、こいつ。俺のことなんにも見てねえじゃん)

「……どこがだよ。どこが純粋?俺がどんなみっともない気持ち抱えてお前の隣にいるかわかんねーの?」

世那の悪い癖がとうとう発動してしまった。言葉の最後、「めんどくせえ」といつもの余計なひと言が出てしまったのだ。

(やべっ…違う。そんなこと言いたいわけじゃない)

「めんどくさいよな。…俺も同じだよ。世那といるとめんどくさい」

くしゃくしゃっと髪をかいた櫂。前髪が目にかかり、とうとうその表情を窺い知ることはできなくなった。世那も世那で自分に返ってきたその言葉が胸にグサリと突き刺さり、思考回路がストップ状態。

二人の間には、長い沈黙が続いた。




(待て待て待て。なんでこうなった?……俺か。俺が余計なこと言ったから?でも櫂にとって俺が面倒なのは、売り言葉に買い言葉とも限らない。大体俺みたいな陰キャとつるんでて、楽しいわけないんだ。だったら……)

「……いや。違うわ」

だったら、もう離れる?一瞬そう過った。でも、そうじゃない。『ごめんね』と書かれた色あせた算数ドリルをずっと机に挟んでいたのは、ずっと後悔していたからだ。あの日、きちんと櫂に向き合えなかったこと。怖くなって逃げてしまったこと。

「俺、もう嫌だ。櫂と離れるの嫌だから」

隣に櫂がいることが、当たり前だと思っていた。これからもずっと、そうやっていられると思っていたんだ。それが当たり前じゃなくなること、突然絶たれることを、もう世那は知っている。櫂だって同じはずだ。自分が今の櫂にとって特別な存在だとは思っていないが、少なくともあの頃、小学五年生の夏。櫂は世那を同じように好いて、大切に想っていてくれたはずなのだから。

耳を疑うように顔を上げた櫂の目は、涙に滲んでいた。

「ごめんな。めんどくさいとか…思うけど、思ってないから…」

「…ふっ。なにそれ、意味わかんね。やっぱ世那、嘘つけないじゃん」
櫂は「今のは嘘でも、面倒なんて思ってないって言うところだよ」なんて伏し目がちに呟いた。

目に溜まったそれを溢れさせないよう、唇を噛む癖は昔と同じ。その姿を目の当たりにして、抱き締めるなというほうが無理な話だ。世那は、されるがままの櫂を抱き寄せた。

時計の針が進む音だけが部屋に響く。もうどれくらいこうしているのかわからない。でもその間ずっと、本当にずっと、櫂は肩を震わせていた。そして世那は、今朝まで同じ香りのした櫂の髪を、飽きもせず撫で続けている。

(なんかもう…これだけでいいのにな)

でもそれは、世那だけの気持ちだ。櫂はきっと、もうずっと、一人で抱えてきたんだ、色んなことを。ほんの少しでいいから、自分にも分けて欲しい。支えるとか大袈裟なことは言えないけれど、せめて一緒に背負わせてくれたらいいのに。ただただ涙を流す櫂を見るのは、自分以外に泣かされている櫂を見るのは、悔しい。

「今の櫂のこと知りたいよ、俺は」

世那の言葉を聞いて、少し身体を離した櫂は、なにかを言葉にしようとするたびに、うつむいては目を擦る。それを何度も繰り返していた。





「俺……あんまりよくないこと、してる。お金のために」

「……うん」

「でももうやめるって言った、今日。……世那と一緒にいたかったから」

「ん…!?」

「……ねえ世那。ほんとに全部言っていいの?絶対嫌になるよ」

(そんな前置きされると余計こえーけど…)

「…いいよ。めんどくさいより傷つくことねーもん」

ごめんて、と力なく微笑んだ櫂は、言葉を続けた。

「俺、最初は母さんと暮らしてたんだ。でも中二くらいのときに帰ってこなくなって、最初は一人でそこ住んでたんだけど、さすがに学校にバレて。それで父親に引き取られたの」

帰ってこなくなった、と櫂は淡々と告げたが、世那にはそれが一番きつかった。櫂は母親のことが大好きだったはずだ。いつも学校の手紙は母親宛てだったし、絵が上手な櫂が決まって一番最初に描くのは、いつだって母親の顔だったことを知っているから。

「父親は再婚しててさ。キョウコさんの娘までいて、そんなとこに突然俺が来て、ぜんっぜん、上手くいくわけないじゃん?居心地最悪だし、早くお金貯めて家出たかったんだよ」

「うん」

「まあそれで…色々、よくないこととかして…。やっと家出れると思ってたときに、ここに戻るって聞いたんだよ」

櫂の指が、ほんの少しだけ世那の指に触れた。氷みたいに冷えたそれを、世那は力いっぱいに包んだ。

「……ふはっ。こんなことになるなんて、正直思ってなかった。世那には普通に彼女とかいて、友達もいっぱいいて、学校中の人気者みたいな、俺はその幼馴染でまぁそれなりに学校生活うまくいくみたいな、そういう想像してた」

「悪かったな!!」

「……かわいい…」

(いやいやいや、なんでそこで髪撫でるんだよっ…!!ディスっておいてそれはずりぃだろ……)

「離れたかった、家族と。てかもう俺の家族なんて、どこにもいないんだけど。……でも、世那に会いたくて」

世那には昔の櫂の姿が、走馬灯のように駆け巡っていた。少年野球のコーチをしていた櫂の父親には何度も野球を習ったし、櫂の母親とうちの母親は飽きもせず昼はランチ、夜はどっちかの家で飲んだくれて。昔からの友達みたい、なんて二人で騒いでいたことをよく覚えている。その傍らで、世那と櫂はいつも一緒にいた。あの頃の笑顔を、幸せを、どうしてだ。

(なんで、全部櫂から奪うんだ。櫂はなにも悪いことしてねーのに…)

「世那にもう一度だけ会いたいなって思って、俺はここにきたの。ちょっとしたらまた東京戻ろうって決めて」

「は!?」

「ね、やばくない?めちゃくちゃ重いっしょ。ストーカーみたいじゃん。だからずっと…なんか言えなかった」

(いや、そこじゃねーわ!!)

「お前、なに!?東京戻る!?は!?」

思考が追いつかなかった。今聞いた櫂の話すべてを一旦横に避けておきたくなるほどに。

(また離れるってなんだよそれ…。でも、櫂にとってはそれが一番いいんだよな、きっと…)

「……でもお前、一人で寝れなくね?」

「寝れます~」

「この前も泣いてたじゃん」

「はあ?泣いてません」

「……もう俺んち住めば?」

「いや無理でしょうよ」

握りしめたこの手をまた離すことなんて、到底今の世那にはできそうにない。しかし、家族とも呼べない人たちと一つ屋根の下で暮らすのがどれほどの苦痛か、世那にもわからないわけじゃなかった。血がつながっていたって、こんな平凡でありふれた家庭に暮らす自分だって、決して居心地がいいわけでもないからだ。

「……えー……俺も東京行く…」

「ん…?」

「嫌すぎ…無理…」

「ふはははっ。かわいー世那かわいーねー」

(馬鹿にしやがって…。なんでそんな大事なこと、ずっと黙ってんだよ。俺には言えって昔っから言ってんだろーが)

どうして自分たちは、こんなにも無力なのだろう。奪われるばかりなのだろう。世那は柄にもなく櫂の胸に身を預けていた。この体温を独り占めにしたいし、櫂を独りにしたくない。自分にできることは、やっぱり何一つないのだろうか。

「櫂が好きだよ」

「……今の話聞いても?」

「ん。全然好き。むしろ好き」

「ねえ、語彙力やばいよ」

「うるせえ」

櫂の手が、世那の髪を優しく撫でた。まるでひどく大切なものに触れるみたいに、そっと、優しく。

「俺も、世那のことが好きだよ。ずっと……ほんとにずっとね」

「……え?」

「当たり前じゃん。ずっと世那だけだよ」

(なっ…はあ!?じゃあなんであのとき……)

「クリスマスの日、なんも言わなかった!」

「だって、びっくりして。だし、なんか勘違い?してんじゃないかなーとか勘ぐっちゃって」

そんなはずないのだが、櫂がそう思ってしまうのも無理はなかった。世那が口に出すのは昔の面影を感じたときばかりで、今の櫂に対して、好意を言葉にしたことはなかったように思う。

「……ごめん。でもわかんだろ、勘違いじゃねーよ。めっちゃ好きだよ」

「ね、そうみたいだね」

「余裕かよ、腹立つ…」

顔をぐりぐりと櫂の胸に押し付けた。速くなっている心臓の音は、自分のものなのか櫂のものなのか、よくわからない。でもそれが心地良いことだけは確かだった。





「あと一年、待ってろよ」

「え?」

「俺、東京の大学行く。絶対。で、一緒に住も」

(今、俺にできることがないなら、作るしかないだろ。六年も離れてたんだ、一年くらいどうにか…)

しかし櫂は、世那の渾身の決め台詞に吹き出したのだ。

「はあ!?お前俺が真剣にっ…!!」

「や、ごめんごめん…。なんかほんと、やっぱ世那は変わってない。俺のヒーローだわ」

「なんだそれ!まじでお前、最低すぎ」

「世那こそ、俺の渾身の言葉聞き逃してる」

「は?」

「俺が今日全部やめてきたのは、世那と一緒にいたいからって言ったよ」

(……あ?そういえばなんか…そんなこと…)

「え、だって…東京戻るって…」

「そのつもりだった、って話。無理でしょ、初恋叶っちゃったんだもん」

無邪気に笑う櫂の顔を、これほど憎らしいと思ったのは今初めてだ。櫂はどうやら話の途中から、なんとなく世那が勘違いしていることに気付いていたらしい。

(こいつほんっとにさぁ!!)

世那が櫂をじろりと睨みつける。櫂はそれを見下ろして、満足げに微笑んだ。

「ありがと、世那」

「はいはい」

「だいすき」

「ハイハイ!」

「大学入ったら同棲しよーね」

「……はいはい」

まったく、やっぱり経験値が違うと世那は悟った。





二人で作った年越しそばを並んですすって、気が付いたらそのままソファーで眠っていて。目を覚ましたら、すでに年が明けて数時間経った真夜中だった。櫂の腕の中にすっぽり収まってしまう自分が情けないのに、妙にしっくりくるのが不思議だ。

「櫂~。ベッド行こうぜ…」

眠い目をこすって櫂の身体を揺らしたが、起きそうな気配はない。夜のうちに初詣に行こうなどと話していたくせに、自分の方が寝落ちしやがって。ほんの少しだけ開いた口元が可愛いなぁと、世那はじっくりその寝顔を観察していた。

「……世那ぁ」

「ん!?」

「そんな見ないでぇ」

(こいつ…!!)

「起きてんのかよ!」

ふははは、と櫂のよくする笑い方が、なんだか特別愛おしい。さっきまであんな絶望の淵に立たされていたことが嘘みたいに、世那はただただ愛おしく櫂を見つめていた。

「やっと俺のだ」

何気なくそう呟いた世那の唇に、櫂の唇が重なる。

「ずっとそうだよ。これからも」

なにがなくなったって、櫂のことだけはもう二度と手放したくない。もう絶対に離れたくない。そう願えば願うほど、未来が恐ろしくなった。『ごめんね』の四文字が、脳裏を過る。

「……お前さ、ごめんねじゃ済まねえよ次は。死ぬまで追いかけるからな」

「ふはははっ。最高じゃん」

そう笑った櫂の目にはまた涙が溜まっていて、それを見つめる世那の視界も滲んでいた。

「初詣は…明日だなぁ」

ぐいっとそれを拭ってくれた櫂の両手が、そのまま世那の頬を包んだ。

「キスしていーっすか」

「……どうぞ」

「……もっかい?」

「どうぞ!」

「…え、何回までいいの?」

「何回でもいーよ!いちいち聞くな!」

何度だっていい。何度でもしよう。この恋だけは終わらない。終わらせない。

(何度だって、俺があがいてやるよ。もう絶対に櫂を一人になんてさせないから)

「……ほんとに、ずっと一緒だからな」

「あっっま!!世那ってそういう感じなの?」

「お前のせいだろ」

「……ふはっ。そうだね、俺のせいだ」