神様の代行者 ー 殺人資格の専門校 ー

 ×月 ×日。
 ■■県の○○○私立中学校で男子生徒がいじめを受け、一昨年10月に転校を余儀なくされた問題で、☆☆校長は+日、「いじめられた生徒に寄り添えなかったことは誠に遺憾であり、恥ずべき事態であると認識している。再発防止に努めたい」と述べました。

 男子生徒は同学年の生徒から、物を隠されたり、席や靴を紛失されたり、制服や体操服を切り刻まれたり、給食に虫や異物をのせられて食べることを強要されたり、接着剤を付けた椅子に座らされて親が来るまで放置されたりと、壮絶ないじめにあっていました。

 専門家は「いじめは暴力の一つであり、『子ども同士の戯れ』と判断するには度が過ぎていることが多い。早急かつ適切な対応、いじめをした側もされた側もメンタルケアが必要」とコメントしています。
 女に飲ませようとした試験管の中身も、おそらくは毒だろう。廊下に無造作に投げ捨てられたものが二つ。落ちても割れないということは、誤って落として割れたら危険だったのか。持ち主の男はガスマスクをしている。皮膚からも吸収するタイプか、マスクが見せかけなのか。

 女を守る様に、業はガスマスクに向かい合う。階段の上と下。毒とナイフ。守るものがある業と、背後には何もなさそうなガスマスク。どちらが有利かは一目でわかってしまう。

「邪魔するなよぉー。脳筋馬鹿のくせにぃ。知ってるぞぉお。お前みたいな体がでかい奴はぁ、力でねじ伏せてくるんだぁぁぁああ。人が嫌がることについては頭の回転が速いんだぁ。だから今、僕の邪魔をしてるんだろぉぉお」

 ゆらゆら。ゆらゆら。
 白衣の体が左右へ揺れる。振り子のように不安定な体で、呪詛のような言葉を唱える。
 女は震える手で業の服を握る。今はまだ目を逸らすわけにはいかない業は、感触だけで状態を推察する。震えているのだろう。微かに服を擦る感触する。同じようにガチガチと音もする。歯がぶつかっているのだろう。少し見た記憶を遡れば、業よりも何周りも、特に身長は頭一つ分は小さな体。よくこの時まで生き抜いたと感心に値する。うさぎのようにか弱い体。少なくとも今は、後ろから攻撃する気配はない。
 さて、この女はどっち(・・・)なのか。それがわかるのは現状が落ち着いてからだろう。

「あああああ、むかつくむかつくむかつくぅ……僕の邪魔するなよぉぉおおお……僕は何もしてないだろぉぉぉおお。なんだよぉ、なんなんだよぉおぉぉおぉぉぉおおおお。お前もアイツらと一緒だぁ……僕をいじめるアイツらと一緒だぁぁぁああああ……ころす……殺すしかないいぃぃぃぃぃぃぃいいいいいいい!!」

 ブツブツ、ブツブツ。
 ガリガリ、ガリガリ、ガリガリガリガリガリガリ。
 マスクの隙間から言える残バラな髪を掻き毟る。雄たけびとともに懐から出された缶。普通の人間ならば()としか思わなかっただろう。けれど、業は違った。多少なりとも()の世界を見たことがある業には、それが『催涙ガス』だと瞬時に判断し、ナイフを投げた。投げたナイフは缶に当たり、階段の下へ落ちていく。

「あああっ、あああぁぁぁああああ!!」

 無残にも落ちていく缶を目で追って、どうしたことか、ガスマスク――通称≪毒殺≫――は不格好に走って逃げた。

「お前も来い」

 服を掴んでいた手を振りぬき、業は階段を駆け上がった。突き当りを曲がってガスマスクを追うが、そこにはもう、姿はない。

「……」
「あの……」
()か」

 二人は上を見上げる。『化学室』と書かれたプレート。締め切られた扉。運動していたとは思えない走り方だった。物が置いていない廊下で、そんなにすぐ身を隠せるわけもなく。出した結論は『安全圏に逃げ込んだ』。

「……どう、するんですか?」

 女は思わず訪ねる。業は扉を睨みつけたまま、頭の中で考える。このまま出てくるのを待つか。他の得物を探すか。それとも――

「ついてこい」
「あ、はいっ」

 返答は出さず、業は踵を返した。業よりも頭二つ分低い150cm台の、ボーイッシュな短髪はその後をついて行った。


     ✢


 調理室。業と女が入った部屋だ。中は調理室らしからぬ、およそ調理器具とは言えないような刃物が多数。薄汚れ、染み付いた血痕。内臓。肉片。換気ができないゆえに篭った臭い。廊下には数時間前に多少の言葉を交わした女の体。今はもう死体と成り果てた≪絞殺≫が、床に這った状態でそのままだった。業にとっては学び舎。ここは業にとっての安全地帯。学科を学んだ場所だ。

 チョーカーに反応し、扉が自動で開く。後をついてきた女は首にチョーカーはなかった。彼女に安全地帯は存在しない。業にとっての安全地帯も、彼女にとってどうかはわからない。けれど、踏み入れなければ危険であることには変わりない。数秒の躊躇いの後、意を決して足を踏み入れた。

「お邪魔します……」

 異様な雰囲気なんて今更である。そんな中でも、自分を迎えてくれた場所というのはどうして微かな安心を感じてしまうのか。
 業は床に座り、手入れの道具を取り出した。女は自動で閉まった扉の近くから離れられず立ち尽くす。

「あの……」
「出れなくなると思わなかったのか?」
「っ、ぁ」

 前髪の隙間から、獰猛な目が覗く。小柄な女は見上げられることはそうそうなかった。この経験はいつぶりだったろうか。こんなにも背筋が逆撫でされるような不気味さを、果たして経験したことがあっただろうか。

 喉が締まる感覚に、声が身から出てこない。震える手が喉に触れるも、頑なな声は身を潜める。だが、答えなければ。この場の強弱なんてあえて比べるまでもない。答えず、気分を害したら、どうなるか。想像に容易い。だからこそ、より喉が締まる。

「ぁ……の……」
「殺すつもりはない。ここにいたらいい」
「…………ぇ……?」

 ようやく出たのは、素っ頓狂なそれ。鳩に豆鉄砲。女個人の感覚としては青天の霹靂にも等しい衝撃だった。睨み上げず、作業を再開した業を大きすぎる目が見つめる。この状況で自分を匿ってくれるこの人は、一体何なのか。疑問に思うしかない。

「わたし……シュナって言います」
「……」
「……お名前、聞いてもいいですか?」
「……業」
「なり、さん」

 喋らせてくれる。
 話させてくれる。
 名乗らせてくれる。
 構えを教えてくれる。

 そんな、何も不思議ではない、ただただ普通のこと。普通じゃない場所で、そんな普通なことができるとは。名前も聞かず、話もせず、ただひたすらに殺し殺されていく数日間。シュナと名乗った女は、涙を零した。

「ありがとう、ございます……っ」

 一瞬。業の手が止まる。目を閉じて雫を拭ったシュナは気付かなかった。業はシュナを一瞥し、悟られる前に作業を再開した。

 
     ✢


 部屋に時計はない。時計の音の代わりに、刃を磨く不規則な音が室内に広がる。業はサバイバルナイフを丁寧に磨き、拭く。その場に順応したシュナは小さく縮こまり、黙々と作業をする業を見つめていた。その間はアナウンスですらも無言で、故障でない限りは動きはないのだろうと判断する。
 最後の一本の手入れが終わった。業は自分の衣服のいたるところに仕込んでいく。なぜ何十本も仕込めるのかと、シュナは疑問に思った。けれど、そんな些細なことを聞く度胸はなく、ただ口を噤む。業はこの時のために準備をしていただけのことなのだが、それを知る由はない。それだけ、業はこの時のために時間を費やしてきたのだ。

「……業さん」

 シュナに背を向けていた業が振り返る。まだ片付けられていないサバイバルナイフがその手に握られていて、名前を読んでしまったことを後悔しそうになった。けれど、刃は地面を向いている。自分に向けられているわけではない。シュナは自分に言い聞かせ、固くなった顔と、舌と、頭を無理に動かす。

「なんで、参加したんですか?」

 シュナを見る業の目に光はない。業の背後にある光が、鈍く光っていた。しかりに寄って象られる業は、何故かとても、とても(くら)い。表情は見えない。おそらく無表情。けれど何も考えていないとは考えられない。そういう内容だからだ。ただ殺し合いがしたいだけではないのは、シュナが生きていることが一番の証明だ。何か理由があるのは間違いない。無表情にさせる理由が、シュナには想像できない。

「……お前は」
「は、い」
「囚人だな」

 どちらかの胸が、大きく鼓動を打つ。問われたシュナは大きすぎる目をより大きくして、きらりと光を反射した。
 業の疑問には、返答せずとも答えが出ている。シュナにチョーカーはついていない。チョーカーは参加者の証だ。チョーカーがあるから、安全圏がある。チョーカーがないのは、安全圏がない。つまり参加者側ではない。なにかしらの罪を、それも死刑に相当する罪を犯した囚人だ。
 シュナは、ただ復讐の復讐のために用意された、生きる標的、囚人だ。

「はい」

 今までではっきりと答えた一言だった。どこか自信を持っているようにも見える表情。力強い目をしていた。

「そうか。どんな罪を犯した」
「罪……」
「……答えられないのならばいい」

 物言いた気に表情を曇らし、目線を落とした。業は少し待ってから、シュナを見るのをやめた。背を向けたときに「あ……」と声を漏らしたが、業は背を向けたまま、再度振り向くことはなかった。
 どちらの質問にも答えず、沈黙がやってきたとき――

 ―― 200ポイントー!! ≪模倣犯≫! 復讐者たちを差し置いて200ポイントに到達しましたー!!! ――

 特にテンションの高い声が鼓膜を射す。一人桁違いな人物が、業が0ポイントである裏で暗躍し、暴虐の限りを尽くしている。
 アナウンスが流れた場所を見上げながら、シュナはぽつりとつぶやく。

「≪模倣犯≫……」
「シュナ」
「は、はい!」

 ぬっ、という効果音とともに、シュナの顔に影が射した。しゃがんでいてもガタイが大きいことを知らしめる業が、目の前に迫っている。先程とは違った様子で目を見開いたシュナは、ついつい大きい声を出してしまい、咄嗟に口を押えた。

「情報を寄こせ」
「じょう、ほう……?」
「なんでもいい。ゲームが始まって五日間、どんなことがあったのか。誰がどんな武器を使っているのか。特に高得点者の奴らについて、何か知っているか?」
「あ……えと、はいっ」

 シュナは知る限りの情報を、手早く伝えた。

 ≪模倣犯≫。アナウンスで特に流れてくる囚人。その名の通り、殺人は『模倣』している。本やニュースで語られた殺害方法を、時と場合によって使い分けている。ただこだわりがあってその方法にあてはめているのではない。状況に合わせた殺し方を取捨選択している。本土では罪に囚われたが逃走していた者を見つけ出して殺していたという。本人も追われる立場になってもその行動は続いていた。恐ろしいほどに臨機応変な対応力こそが、≪模倣犯≫の恐ろしい所。罪人や、未遂であってもその気がある人間に対しては容赦しない。

 ≪銃殺≫。ゲームが開始して数日は名前が挙がっていた復讐者。業が動きだした日にはもう名前を聞くことはなくなっていたのだが、シュナ曰く死んではいないだろうとのこと。それは、上から発砲音が聞こえることがあるからと。業とは全く逆の行動をしている。初日からポイントを集めた後、自分に有利な場所を陣取っているのだという。それは屋上で、一つしかない入り口に狙いを定めている。銃という距離と威力、そして場所というアドバンテージを活用しているらしい。相手が来ない以上は荒稼ぎもしないつもりなのだろうというのはシュナの見解だ。

 ≪撲殺≫。野蛮な風体と言動の復讐者。復讐者というよりはただ殺し合いや戦いが好きなようで、標的を見つけたら一目散に追ってきて、笑いながら人間をミンチにしている。ただし分の悪い戦いは避ける冷静さはあり、≪銃殺≫とは戦っていなさそうだという。逆に≪模倣犯≫とは何度も()りあっており、≪模倣犯≫が≪撲殺≫から距離をとっている様子。

 ≪毒殺≫。先程、自身の安全圏に逃げ込んだ復讐者。基本、安全圏周辺でしか活動していない様子。かつ、シュナのような女を中心に襲っているらしい。安全圏周辺には女の死体が多く転がっていたが、いつの間にかなくなっている。もしかしたら≪毒殺≫が何かに使っているのかもしれない。対象を絞っているうえによく引きこもるので、アナウンスでは名前は流れにくい。

「差し出がましいようですが、もし今から殺しに行くならば、私は≪模倣犯≫を推します」
「理由は」
「厄介であることと、ポイントをたくさん持っているからです。≪模倣犯≫を殺せたら≪毒殺≫のように引きこもっていてもいいかと思います。もしくは≪毒殺≫が出てくるのを待つか、と思います」
 ふむ、と、業は情報を整理する。危険人物の情報を手に入れ、勝利するのに必要な道筋を頭の中で計算する。
 ≪模倣犯≫を殺すことはマストだろう。もしかしたら誰かが殺してくれるかもしれないが、期待しすぎないでいたい。好戦的だと言う≪撲殺≫との戦闘は避けるべきだろう。一度見つかったら長引く可能性がある。業もボクシングを習っていた分、パワフルさやタフさは想像に容易い。かつ一般人よりも戦闘慣れもある。

 ≪毒殺≫は隙さえつければ容易いだろう。けれど毒というのは一撃でも食らえば終了の可能性が高い。慎重さと大胆さが明暗をわけるだろう。
 ≪銃殺≫も同様。どんな銃を使っているかはわからないが、狙い撃ちができ、人数も多くない、協力プレイというのも考えにくいことから、殺傷能力の高いものを使っている可能性は十分にある。真正面しか行けないならば、安易に手を出すべきでないのは明らか。
 となると――

「≪模倣犯≫、か」

 消去法。他の生き残っているプレイヤーの情報がない分、選択肢はそれしかなかった。
 そうと決まっても慎重に。業は立ち上がり、部屋の隅に手を伸ばした。何をやっているのだろうとシュナが見つめていると、不意に振り向いた業が何かを投げてきた。自分の眼前まで迫ってきた、と思ってようやく手が伸びる。

「わわっ」
「食べておけ」
「たべ……え?」

 両手で勢いあまって潰してしまった、それ。よく見ればラップに包まれたおにぎりだ。誰が作ったのかわからない。少なくとも業でないことは確かだ。この場に食材なんて持ち込めるはずがないのだから。

「な、ん……なんで? だって……なにも、持ってこれないはずじゃ……」
「配られたものをとっておいた。多少の傷みは自分で除けろ」
「……食べて、いい……ん、ですか?」
「早くしろ」

 同じものだろうか、大口でおにぎりを齧る。シュナはその様子を呆気にとられた顔で見つめ、自分の手の上のおにぎりを見つめ、もう一度業を見つめ。微かに震える手でラップを外し、小さな口で啄んだ。三粒。少し開いた口で、十粒。噛み付く様にして食い散らかした。

 囚人の状況は、業にはわからない。実のところは扱いは良いものではなく、突然連れて来られ、突然校舎内の一角でルールを聞かされ、唐突にゲームが始まり、一瞬で殺される。食事なんてゲームが始まる前に食べたきりだった。水は水道があれば飲めていたが、もちろんそこには人が集まる。囚人同士で争いもあったし、復讐者が笑いながら虐殺していくこともあった。

 人によっては「死刑に値することをした奴がそんなことで嘆くな」というだろう。シュナはそれを言われずともわかっているつもりだった。これは自分が進んで選んだ道で、自分の現在の立場ならば仕方がないこと。受け入れなければ。けれど殺されたくはない。逃げなければ。食事も睡眠もままならない。疲労は堪るばかり。5日目にして絶体絶命。そんなときに、救われた。
 塩味の濃いおにぎりは、あっという間に胃に入っていった。


     ✢


「本当に来るのか」
「はいっ」

 扉を前にして、二人は心身の準備を整えていた。業はシュナに「部屋に残っていてもいい」と言った。けれどシュナは共に行くことを選んだ。業としては部屋に残っていてほしかった。折角見つけた、気弱な囚人(・・・・・)。もう一人で会えるとは限らない。シュナの様にほとんど無傷であるとも限らない。守る必要があると業自身も危険な目にあいかねない。ついてくることにメリットはない。けれど、許容するしかなかった。部屋の主がいない部屋が安全である保障もなかったから。

「離れるなよ」
「は、い」

 緊張を含んだ返事を聞いて、業は扉を開けた。
 すぐに体は出さず、まずは音を探る。誰もいない。視界も知る上では変化はない。柄の長い刃物の刃だけを出して、反射で不自然な動きがないかを確認する。何もない。身を小さくして、出る。業が周囲を確認して、続けてシュナも出た。近くからも遠くからも人の気配はない。

「≪毒殺≫の部屋とは反対側から行く」
「はいっ」

 その言葉を皮切りに、二人は黙々と進んでいった。業は息を潜ませ、周囲に神経を張り巡らせながら進んでいく。シュナは五日間生き延びた実績もあり、迂闊な行動は控えて着実に業について行った。
 目の前に階段がある。シュナと≪毒殺≫がいた階段とは別の場所だ。ここも他と違わず、所々血に濡れ、肉片らしきものが散乱している。

「止まれ」

 声がかかる。動きと、空気が止まる。シュナは業の後ろから、先に注意を向けた。

「……なにか、ありましたか」
「黙れ」
「っ」

 業からは尖った声が出た。シュナは肩を揺らし、身を縮めた。業は脇目もふらずに階段の先を見つめている。シュナは諦めて業を見つめた。次の指示があるまでは余計なことをしないでおこう、耳だけ澄ませてみよう。そう思った。

 上方から、声がする。
 瓦礫が落ちてきた。
「下がれ!」

 冷静に、それでいて早急な対応が必要だった。人間は目で見た情報に即材に対応しようと思っても、そううまくはいかないものだ。だが、声ならば。聴覚を刺激した命令や指示というものは反射的に行動してしまうもの。この場にきて一番大きい声を出した業と、その声を聴いたシュナは即座に来た道を逆走した。といっても、教室一つ分のみ駆けただけである。

 隠せるもののない廊下で、落ちてきたがれきによって沸き起こった埃を見つめる。何があったのか。何が起きていたのか。誰が(・・)何人(・・)、いるのか。共闘という手段はほとんどない。あるのは殺すか、逃げるかのみ。要注意人物たち以外ならば殺そう、業が考えているとき、ゆらり、と何かの影が動いた。

「ふぅ、やれやれ。ひどいなぁもう」

 若そうな男の声がする。瓦礫とともに落ちてきたとは思えない、呑気な声だ。例えば、トラックが通り過ぎて水溜まりが自分にはねた時のような。学校の友達に教科書を貸したら、忘れられたか落書きをされたような。困りはするがどうにかならないこともないような。こんな殺伐とした空間で、どうしてこうも日常でちょっとばかしひどい扱いをされたような声が出せるのか。

 業の警戒心が警告を出す。『悟られる前に逃げろ』『もう悟られているかもしれないから迂闊に背中を見せるな』。二つの指示が頭の中でせめぎ合う。握り拳から手汗が滴り落ちた。頭の中が煮えるように熱いのに、頭と額は冷たくて気持ち悪い。視界が狭い。暗い。いや、白い。目の前がかすかに揺れている気がする。目が乾くのに、瞼は怯えて頑なに動こうとしない。それを責めることはできない。なんせ、業自身、動くことができていないのだから。

「埃だらけだな。きれいな着替え、まだあったかなぁ。……あれぇ?」

 気付かれた。

「やあ、シュナ。元気にしてたぁ?」
「っ、あ……うん……なんとか……」

 シュナを知っている。親しそうだ。つまり、やはり若かったこの男は、囚人。
 ようやく眼球が動いた。シュナを見ようとしたが、眼球の動きだけでは表情まではわからなかった。けれど業の服を掴み、そしてその手は小刻みに揺れている。かつての知り合いと出会えたからだろうか。それとも、親しい風に見えても恐怖の対象なのだろうか。顔が見えないことには察することもできない。聞いたとしても、それを鵜吞みにするほど二人の関係性は出来上がっていない。

「元気ならよかったよぉ。心配してたんだよ。そっちの人は?」
「あ、えと……たすけて、くれたひと……」
「……ふーーーん、そうなんだぁ……」

 足が動く。男は踏み込んで、業たちとの距離を詰めてきた。砂利や瓦礫を踏む音が、二人の心臓の音に重なる。距離が縮まる度に重圧が増す感覚。業は少しだけ回った頭で、サバイバルナイフの場所を確認する。迂闊に動くな。けれど、向こうよりも早く動け。そう念じて、一挙手一投足、目に映る現象をただ飲み込む。少しの違和感も見過ごさないように。自分の本能に語り掛けた。

「シュナ、助けてもらったんだねぇ。そんな危ない状況になってただなんて……シュナ、君って子は……」

 業の有効範囲まで……あと、8歩。7歩。6歩。
  5歩。
     4歩。
        3歩。
 2歩。

「ありがとうございます」

 男は深く頭を下げた。

「え……」

 つぶやいたのはシュナだ。約45度のお辞儀を、二人は見つめるしかできなかった。二人に与えていた重圧が、その行動に疑問しか抱かせない。油断を誘っているのだろうかと、逆にあからすぎる様子に、二人の思考は停止した。
 頭を下げたまま、男は語る。

「この子は僕にとって特別な人なんです。このゲームが始まってすぐはぐれてしまって、ずっと心配していたんです。助けてくださって、本当にありがとうございます」

 言い切って、顔を上げた。男の顔は清々しい表情をしていた。栗毛色の明るめの髪と瞳に、垂れた目つき。線は細いが無駄なものがなさそうな体形。少し高めの声色。気持ち程度に上がった口角。『優しそう』、そう思わするに十分な見た目と雰囲気を放っていた。それを、全身にまとった大量の血液がぶち壊している。誰の血かなんてわからないが、動きや見た目から想像するに、本人の血ではなさそうだ。

 業の警戒心もいつの間にか緩んでいる。完全ではないにしろ、いわゆる達人といわれるような人間がこの場にいたとしたら。業は大なり小なり怪我を負っていたかもしれない。

 眉根を寄せた業は、不愉快そうに唇を嚙んだ。目の前の人物に呑まれている自分が情けない。緊張も、油断も。相手の意のままになっている現実。この時、業は一度死んだ気分になっていた。

「あなたはいい人だ。こんな現状だけど、せめて今は殺したくないんだよねぇ。だから――シュナを連れて、逃げてください」

 にっこり、と。人のよさそうな笑顔の後ろで、また砂埃が舞った。その直前に、大きな何かが落ちた音がしていた。

「逃がさねぇぞクソが!!」
「やぁ、来ると思ってたよ、≪撲殺≫くん」

 筋骨隆々。まさにその言葉通りな、いや、むしろその言葉を人間にしたような人物が蟹股で姿を現した。ところどころに白く、大体は赤黒いタンクトップを着て、はち切れんばかりのハーフパンツを履いて。黒光りする皮膚が筋肉をより一層主張する。

「行ってください。巻き込まれますよ」
「……行くぞ」
「……はい……」

 共闘の意思はない。それは双方、共通認識だった。1対1対1も、2対1も、漁夫の利も、どれも確実ではないし、リスクのほうが高い。まだリスクをとらなければならない状況ではない。業はシュナを連れ、今度こそ逆走していった。
 途中、業は怒号と轟音を聞きながら、シュナに尋ねた。

あいつ(・・・)は何者だ」
「……あの人は……――」

 ≪模倣犯≫、その人である。
 背後の音が小さく響く。結局、業の安全圏内まで戻ってきてしまった。ここまで来たとしても、二人が争ったままここまで来る可能性もある。生きる残ることを考えればチョーカーを使って室内に入るべきだろう。業は、部屋を通り過ぎた。

「業さん……」
「行くぞ」
「誰を狙うんですか?」
「≪毒殺≫」
「どうやって……?」
「お前に動いてもらう」
「……私?」

 業はシュナに耳打ちした。

「……本当に?」
「ああ」
「でも……え、でも、や、それは……最悪、死にますよ?」
「だからどうした」
「え……」
「そんなのは今さらだ。人間はいつでも死ぬ。殺しあわずとも、どこかで誰かが死んでいるし、殺されているんだ」

 そう言い放った業の目には、光が宿っていた。黒く光り、何かを思い出すような、決意したような、決して揺るがない強い光だった。

 作戦を聞いて、さらにそんな様子の業を見て、シュナは(おぞ)ましく思った。このゲームに参加している人間だ。遊び半分で申し込むものはいても、参加し、ここまで生きている人間で執念のない者はそうそういないだろう。業という人間は、どうしても人間らしい。驚くし、脅えるし、固まるし、逃げるし、疑うし、信じる。むやみに殺したがらない。殺そうとはしているが、あくまでこのゲームに勝ち抜こうとしているのだ。勝つために、最小限の活動、最小限の非情を持っている。きっと根は優しいのだろう、そう、勝手に思った。助けられた恩が、『復讐者』に優しいというレッテルを張り付けた。


     ✢


 コンコンコン。
 控えめなノックが、無音の通路に響いた。あるものを片手に化学室前に一人、シュナが佇んでいる。扉はオートロックだが、構造は特別なものではない。防音とはいえノックすれば中の人間は気づくだろう。ただし、防音のため声は届かない。届くように大きい声を出せば、ほかの生き残りが寄ってくる可能性がある。シュナは何度かノックする。反応はない。仕方なく、扉の目の前に持っていた物を置いて、離れた場所、しかし動きがわかる場所まで引いた。

 ――数十分後。扉が開いた。シュナは三角座りのまま、扉を見つめる。人の頭がありそうなところにそれがない。引いているのかもしれない。立ち上がり、扉に近づいた。

「くくくくくくるなよおおぉぉぉぉぉおお!!」
「! す、すみません……!」
「おま、おまおまおまえええ!?」
「あ、あの、話を聞いてほしくて……!」
「死ねええええええええっ!!」
「助けてください!!」
「っ!?」

 叫びの応酬の後の、静寂。≪毒殺≫は自身の耳を疑った。まさか。自分が殺そうとした相手が、助けを求めてきた。かつて自身をいじめていた人間たちと、世代はそう変わらないだろうと思っていた相手が。惨めに苦しめてやろうと思っていた相手が。
 戸惑いは口を噤む。その様子を見て、シュナは口を開く。

「さっきの人……私を……わ、わたし、を……っ、脱がせ……て、ぅ……」
「……ぁ」

 涙を流すシュナ。ガスマスクの内側で顔面を白くする≪毒殺≫。自身のトラウマが蘇ったのだ。自分が復讐したいと思っている相手にされたこと。一番嫌だったこと。一番ではなくとも思い出したくない記憶。相手の笑い声が聞こえてくる。幾重にも重なった不快な音。

 あの時の記録媒体はどうなったのだろう。ネットに上がっていないか、怖くて確認した。自分のは見つからなかったが、似たような動画がたくさん出てきた。自分に置き換えてしまった。見つけてないだけで、同じようにアップされているかもしれない。それを見た人が、さらに笑っているかもしれない。怖い。いやだ。怖い。怖い。いやだ。怖い。怖い怖い怖い怖い。いやだこわいこわいいやだこわいやだ。

「お願い!!」
「ひっ!?」

 シュナが抱き着いた。腰の引けている≪毒殺≫を、力強く抱きしめる。

「私、あなたが落とした薬を、あの人にかけたんです!」
「な……」
「そしてらあの人苦しみだして……その隙に逃げてきたんです! でも……あの人に追いかけられたらもう逃げる自信がなくて……今のうちに殺さなきゃと思って……お願いします! あの人を殺してください! でないと……私、またあの人に……っ」

 嗚咽が漏れる。抑えているつもりなのだろうが殺し切れていない声が漏れる。
 ≪毒殺≫にとって、こんな風に人に頼られたのは初めてだ。虐げられてばかりだった。だから、自分の手で復讐しようと思った。自分をいじめた人間も。自分を見えない振りをした人間も。

「……お前も……」

 僕と、同じなのか。ふとして沸いた、同族意識。自分を重ねる。誰にも助けてもらえなかったかつての自分。今の自分には、助けられる力がある。
 シュナの両肩を、そっと抱いた。

「どこに、いる?」
「……この階の、真ん中あたり」

 シュナは≪毒殺≫の手を引いて、反対側の階段の方向へ歩き出した。


     ✢


「ぐ……ぁ……」
「ほ、本当に……やったんだな」
「はい」

 二人の目の前に蹲る業。浅い呼吸を繰り返し、息苦しいのか喉を引っかいている。すぐ近くにいる二人に気付く余裕がないのか、猫が地面で転がる様に(うご)いている。

「ちなみに中身は何だったんですか?」
「……メタノール」
「……メタノールってああなるんですね……」

 消毒液で有名なものではない。もちろんだが、基本的に飲むものではない。視神経を侵す猛毒だ。目の周囲を強く握り、苦しそうにもがいている。

「り、量にもよる……普通に死ぬこともある……」
「思いっきりぶっかけました」
「……このまま死ねば君が殺したことになる」

 囚人にも殺すメリットはある。≪毒殺≫は一応の懸念(メリット)を口にした。シュナは考えるそぶりを見せた後、一歩後ろに引いた。

「このまま死ぬのを待っているのも怖いんです……。確実に死ぬとも限らない。もし死ななかったら……私は……」

 報復を恐れるのは当然だ。業はガタイがよく、小柄なシュナでは敵わないだろう。むしろ一度でも逃げられたのが奇跡にも近いほどだ。そして≪毒殺≫も、恵まれた体格ではないので、毒がなければ負ける可能性が高い。
 今は、その可能性がひっくり返ったまたとないチャンス。

「……よし」

 唾液を二度飲み込んで、小股で近づく。胴体の下に頭を潜り込ませて小さくなった業を、ガスマスクが見下ろす。白衣のポケットから取り出した瓶。その中に、ビニール袋。ビニール袋の中には粉が入っている。
 固く締められた瓶を開け、袋を取り出す。また唾液を飲み込んだ。忍び足ならぬ忍び腕で、苦しむ業の上に袋をひっくり返――

「わあああああああ!!」
「っ!? な、え!?」
「よくやった」
「お、おま、おまええええええええ!!! だま、だ、だっ、騙したなあああああ!!? っんご!!?」

 シュナが後ろから抱き着いて、意表をついた。その隙に業が立ち上がって脱いで抱え込んでいた上着越しに毒の袋を掴む。反対の手で腹に拳をねじ込んだ。意識を飛ばしかけ、四肢が脱力する。毒の入った袋を奪い、上着で両腕と胴体を拘束した。ガスマスクを外し、毒を使うことを躊躇わさせた。

「あの……」
「行くぞ」
「え」

 どこに、と問う前に、業は歩き出した。それは初めて通る通路のはずで、さっき行き損ねた場所。
 下の階から、人の争いで起こるとは思えなさそうな音と振動が響く。逃げたはずなのに。逃がされたはずなのに。業は進んで、地獄に進んでいく。

 目の前には階段。なぜか下り階段が抜け落ちてしまっているという目を疑う状況。業は奪い取った毒の袋を瓶に詰め直した。
 そして≪毒殺≫を揺さぶり叩き起こす。呻き声をあげてもぞもぞと身を捩ったところで、耳に口を寄せ、本人にしか聞こえないように囁く。

「下には≪撲殺≫と≪模倣犯≫がいる。生き抜きたければ殺せ」
「な、にを……っ、ぅああああああああああっ」

 業は≪毒殺≫を突き落とした。時間差で、毒の入った瓶を包んだ上着も投げ捨てる。
 人間が二階から落ちた時、打ち所が悪ければもちろん命も落とす。業は足から着地できるよう、≪毒殺≫を足から落とした。
 だが、腹を殴られた鈍痛が残り、かつパニックになっている。さらには≪模倣犯≫と≪撲殺≫によって階段は瓦礫の山となっているのだ。
 お世辞にも体育会系の体つきとは言えない≪毒殺≫。不器用に体を強張らせ、()足首(・・)をつけた。

「ぃぃいいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!!!」

 まるで毒虫のような汚い叫び。歯を食いしばり、足首が受けた衝撃を発散する。残念なことに、両足は骨がむき出しになっている。骨によって解放された傷口は感染症のにかかりやすい。さらに残念なことに、彼は≪毒殺(・・)≫だ。
 さて、彼の持つ独が傷口に触れてしまったら、どうなるだろうか。
 業は1階に落とした≪毒殺≫が生きていることを確認し、吹き抜けとなったその穴から身を引いた。1階から聞こえていた音が消えたのだ。音を出していた誰かが、事態に気が付いた。未だに鳴き続ける≪毒殺≫は、目と鼻の先の気配にも気付いていないが。

「おい」
「ぃうぇ!?」

 襟首を掴まれた。立つ力などない≪毒殺≫の体が、自動で起き上がる。いや、足元が宙に浮く。人一人を軽々と持ち上げた≪撲殺≫は、腹を膨らまして息を吸い、一時貯め――

「う る っ せ え () () () () () () () () () () () () () () () ()!!!!!!」

 声は木霊した。1階に。2階に。屋上に。
 業と。シュナと。≪模倣犯≫と。≪銃殺≫と。もしかしたらどこかで見ている運営側にも。
 この鼓膜を破るに留まらず、空気すらも退けてしまいそうな声を、耳を塞いで聞いているかもしれない。

「テメェのせいで≪模倣≫のヤローにまた逃げられたじゃねぇか。ふざけんじゃねぇ」

 そんな殺人的な怒号を至近距離で聞かされた≪毒殺≫は、鼓膜を破るまではいかずとも正気を失いかけた。耳元で放たれた空気砲は、≪毒殺≫の脳を直接揺さぶった。
 静かになったことに満足した≪撲殺≫は≪毒殺≫を投げ捨てた。死にかけたように動かすことがままならない体。それでもぴくぴくと、少しずつ、着実に、≪撲殺≫から距離をとろうと這いずる。

「ゃ……め、て……ころさ……ぃ、で……」

 何人も殺してきた人間の、窮地の言葉。それは自身が投げかけられてきた言葉と相違ない。言われたからと言って覚えていたわけではない。これは、≪毒殺≫も言ってきた言葉だ。
 かつていじめられていた。ひどく、惨たらしく、悍ましく、悲惨な記憶。「こんなこと、よく同じ人間にやろうと思ったな」と、誰かが言っていた。同じ人間として認識している者もいた。けれど、主犯格は、違ったのだ。
 人間と思っていなかった。だからできた。

「ふん、まるで虫だな。気持ち(わり)い」

 …………。
 動きが止まる。腹が痛むのか、ダンゴムシのような体勢で制止した。

「……   (僕を)
「あ?」

「虫って、言うなあ () () () () () () () () () () () () () () () () () ()!!!!」

 手でつかんだ業の服を、這いつくばりながら後ろにいる≪撲殺≫に向けて投げつけた。



 蹲っている間に瓶の蓋を、そして袋の縛りを解いていた。服と一緒に浮いた粉の入った袋は、ガスマスクのガラス越しに舞う。≪撲殺≫はそれを素手で払い、より粉は辺りに拡がっていく。

「ぺっ、なんだこれ。鬱陶しい!」

 少量が口の中に入った。砂利を口に含み、唾液とともに吐き出した。変な匂いがする。鼻から吸い込んでしまったかもしれない。何かをされたのは間違いがない。こんな、虫みたいなやつに。

「うぜえ!!」
「ぐああああぁぁぁぁぁぁぁぁああああ!!!」

 踵が顔に向いていた。小枝のような足を、丸太のように太い足が踏みつけた。骨が折れる時の音とはまた違う。砕かれた音というのは思いの外小さい。叫び声が木霊する。≪撲殺≫の怒号ほどではないにしろ、高い声はより遠くまで響いた。

「ぎ……ひぃ……ぶっ」
「小細工!! しやがって!! もっと!! 堂々と!! ()りに!! こいってんだ!!」
「っ、がっ! ……んんっ……ぐぁ!」

 殴る。殴る。殴る。熊が馬乗りになって、か細い猿を蹂躙する。テンポよく、太い両の腕で痛めつける。抵抗せず、固定された相手を殴るのはひどく簡単だ。簡単すぎてつまらない。子ども遊びのようなものだ。≪撲殺≫にとってはゲームでもそうでなくとも、なんどもやってきた。プロだった。

 ≪撲殺≫には復讐相手はいない。≪撲殺≫はうわさを聞きつけ、適当に理由をでっち上げたのだ。もちろん、運営側は調査している。でっち上げに気付いたうえで、『この人物は面白いだろう』と期待を込めて招待としたのだ。

 運営側の気を引き付けたのは、≪撲殺≫の経歴。≪撲殺≫は『地下闘技場』の常連選手だ。ここ数年では負けたことがない。地下闘技場の運営側から、このままでは賭け事がうまく成立しない、一方的な状態であることを懸念する声があった。運営の一人が『復讐者専門学校』の運営とつながっていたため、内容を聞いたことで「ここでも負けはしないだろうが、怪我でもしてハンデを負えば今後面白くなる」と考えた。だから、運営は≪撲殺≫に『復讐者専門学校』の話をした。『地下闘技場』では一方的、かつ瀕死の状態で終わってしまうこともあり、不完全燃焼の燻りが≪撲殺≫を焦がしていた。本人としては「つまらない」「もっと強い相手を」「もっと強い刺激を」と考えての応募だった。

 ゆえに、≪撲殺≫は招待されたことに悦びを感じていた。景品なんてどうでもいい。肌が痺れて、脳が焼けて、身を焦がすような強い刺激が得られるのなら。そして出会えた。≪撲殺≫が本気でかかっても仕留めきれない、同等に渡り合う≪模倣犯≫。
 遠距離恋愛中の恋人との逢瀬を邪魔された気分の≪撲殺≫の怒りは、言葉の通り凄まじかった。

「……、……」

 ≪毒殺≫は虫の息だった。ガスマスク越しに殴られていたはずだが、マスクは変形し、壊され、顔が露出している。露わになった顔は赤く、青く、白く、黒く、少しだけ肌の色が見える。容赦のない殴打は輪郭を倍以上に膨らませ、眼球は潰してしまった。ガスマスクのレンズが砕かれ、顔も、口腔内も鋭く傷つけた。足の痛みは、もう感じなかった。

 さらに不幸なことは、それでも意識があることだろう。痛みで朦朧とし、けれど意識は飛ばない。自分にかかる重みが内臓を圧迫する。内臓すらも吐き出しそうだ。吐くほどの体力も残っていないのだが。

「クソ。何の抵抗もなしかよオイ!」

 ここまでやっているが、≪撲殺≫は『蹂躙』が好きなわけではない。自分に予想のつかない反撃が来ることを期待していた。最初の粉は何だったのか? 体は不調を感じていない。ブラフか? はっきりしない状況が、苛立ちと再認識を強める。

「やっぱり、俺の相手は≪模倣犯(アイツ)≫だけだ!! どこだああああああああ!!!!」

 立ち上がった≪撲殺≫は、片足で≪毒殺≫を踏み台にして叫ぶ。すでにその場を離れた≪模倣犯≫にも、届いていることだろう。逃げるならばよし。追うだけだ。
 一歩目で内臓を踏み潰し、二歩目で頭蓋骨を踏み潰した。≪撲殺≫は一階の奥へと進んで行く。足跡には血液以外にも付着していた。

 二階から様子を伺っていた業とシュナは、巨獣の足音が遠ざかってから大きく息をした。距離が離れているとはいえ、人を殴る音、それも他生の音の変化で状況がわかってしまうのは、呼吸すらも忘れてしまうほどの恐怖だった。

 二人の服は汗でじっとり濡れている。寄りかかった壁は湿っていた。離れた背中がシュナは青白い顔で歯を食いしばっていた。歯が当たる音ですら立てることができなかったから。しかし。業は、表情を消していた。がちがちに固まった首を動かして業の様子を見たシュナは、抑制のきかなくなった頭で考えたことを問うた。

「怖く、ないんですか?」
「……半分」
「半分?」

 片膝を立てて座る業を、膝を抱えたシュナは覗き込む。

「強い相手は怖い。だから極力戦いは避ける。生き残るのが目的だからな。死んだら参加した意味がない」
「……そんなに、報酬が欲しいんですか?」
「欲しい」

 立てた膝に、腕をのせた。拳は強く握られる。拳の奥に見える表情(カオ)は半分以上は見えない。唯一見える眉は、深く寄り、根を上げていた。

「あいつを、絶対に殺す」
「でも」

 シュナからは業の様子は反面しか見えず。刻まれた皺も、食い込んだ爪も、どれも見えない。正面を向いて、まるで独り言のように呟く。

「得点を得ないと、負けちゃいますよ?」
「わかってる」

 握る力が抜けた。爪には血が付着していた。業は立ち上がり、背を伸ばす。シュナの方を振り返らず、歩き出した。

「行くぞ」
「どちらへ?」

 シュナも立ち上がる。軽やかに駆け寄り、後ろで手を組む。
 ショッピングにでも行きそうな足取りだった。表情からはもう、恐怖は消えていた。

「≪模倣犯≫を探す」

 崩壊した階段から離れて行く。足音が響かない廊下の先は暗い。
 業の後ろをついて歩くシュナは、口を歪めた。


     ✢


「だあああああああ!!! どこ行った≪模倣≫おおおおおぁあああああああああ!!!!」

 一階。二階。三階。四階と。≪撲殺≫はただ一つの目的のために歩き回った。≪模倣犯≫という想い続ける相手を探す。そして楽しく殺し合う。仲良くなりたい相手を見つけて遊びに誘おうとしている。
 教室を見ることはできない。腕自慢故にこじ開けようとしたが、できなかった。ただ歩いて、気配を感じたら見て確認するまで追い続ける。人数が減ってたので、気配は少ないが当たりの確率は高くなった。けれど、≪毒殺≫を殺してからというもの、姿も気配も何もなくなってしまった。

「タマるぜ。先アイツと遊ぶ(やる)か」

 ≪撲殺≫の頭に浮かんでいるのは、≪銃殺≫。≪撲殺≫という徒手格闘の手練れは飛び道具の経験が少ない。警戒する頭はある。そのための対策も一応考えた。≪撲殺≫のほうも(たま)は集まってきた。できないことはない。
 思うように殺せないのはむしろ楽しい。けれど、殺したいのに殺せないのはストレスが溜まる。≪毒殺≫を殺したとしても、すぐにフラストレーションは蓄積してしまう。
 何かで、誰かで発散しなければならなかった。頭が破裂しそうだと。他の生き残りを探すよりも、居場所がわかっている相手の方が手っ取り早い。

「ぅし! 行くか!」

 一番価値のあるものはしっかり楽しみたい。今のまま≪模倣犯≫に会ったら、待ちわびたばかりに楽しむ前に殺してしまうかもしれない。自分の性格を加味しての判断。

 ≪撲殺≫は自分が与えられた部屋である体育館に来た。
 扉を開ければ、積み上げられた計三十人超えの死体の山。
 首を二つずつ脇に挟み、両手で一人ずつ服を掴む。計六人を屋上の目の前に運んだ。乱雑に積み直した死体を前に何かの達成感を得た≪撲殺≫は、途端にやる気を出した。≪模倣犯≫にしか感じなかった高ぶり。≪銃殺≫は間違いなく強者だ。経験の少ない銃との戦い。戦闘狂の≪撲殺≫にしては珍しく作戦を考え、準備を整えた。満を持して戦いを挑む時、胸の高鳴りは最高潮に達する。

「おい」
「あ? っ、なんだ!?」

 屋上に繋がる扉の、さらに上(・・・・)。物置スペースになっている場所から、業が飛び降りた。
 ≪銃殺≫よりも狙いやすそうな丸腰の相手。狩猟者の思考が優先順位を変えた。戦闘へと意識を切り替えた≪撲殺≫は階段下にいる業へ駆けた。

「てぇやぁぁああああ!!!!」

 人の頭ほどの傷だらけの拳が業に振り下ろされる。業は直線的な攻撃をひらりと冷静に避ける。拳、そして反対の手を床につき、丸太よりも太い足が体を捻って業の頭を狙う。
 風を切った足を、身を小さくして避けた。足の遠心力で姿勢を取り直した≪撲殺≫の背を、汗を垂らしながら睨みつけた。

「テメェ、よく避けるじゃねぇか」
「……どうも」
「いいぞ。さっさとくたばらないだけ、他の虫どもよりも楽しめるのは確かだ。お前で遊んでやる」

 正面から向き合い、相手の出方を窺う。≪撲殺≫は拳を構える。業は身を低くして、相手の動きを見極めるために瞬きをやめた。

 ……。
 …………。

 …………。
 ……………………。

 ……。

 業は背中を向けて走った。

「逃げるなぁぁぁあああああ!!!」

 何度目かの怒号を巻き散らしながら、大男が大男を追いかける。階段を駆け下り、廊下を渡り、階段を下りる。初めにいたのは屋上前。戦闘開始は4階。今は走って2階にきた。その間、業は時折後ろを振り向き、距離を詰められているのを確認しながら走り続ける。≪撲殺≫は律儀にも叫び声を上げながら追いかけている。

「クソが!!! 殺されろぉぉぉおおおお!!!」

 聞く耳を持たず、業は1階に降りた。業の安全圏を通り過ぎる。その時点で大きく息を吸い込み、スピードを上げた。突き当たり。そこには無残な≪毒殺≫の姿がある。
 業は≪毒殺≫の服を脱がす。服越しに腕についた()を剥がして、振り向いた。
 多少息を上げた≪撲殺≫が、目を血走らせている。

「逃げ回るんなら出てくんじゃねぇよ雑魚が!! くたばってろ!!!」

 唾を吐き散らした罵声が、業の鼓膜を刺す。業は口を開かず、その手に握られた袋、そして試験管を放り投げた。
 それは、≪撲殺≫には見覚えがある光景だった。自身が殺した≪毒殺≫がやっていたような行動。『警戒』するという言葉を忘れてしまった≪撲殺≫は、舞い散る粉を吸った。追って顔周りにかかる液体。
 瞬間、喉に焼き付くような痛み。

「っ!」

 体が身を引いた。不気味な粉と水分が業の姿を眩ませる。凝らしてみれば、穴の開いた階段から垂れる何か。落ちていく粉とは逆の方向に動いたせいで露になる、業の姿。

「逃げるなあああああああ!!!!」

 叫ぶも、不気味な粉には近寄れない。廊下に粉の層ができたことで、≪撲殺≫は足を踏み出すのをやめた。ただ見つめるしかできない方向には、≪模倣犯≫とともに行動していたはずの女の姿がある。

「テメェら……!」

 業は2階に到達した。垂らされたものは紐状の何か。その状況だけで手を組んでいることがわかる。二人が自分に何かをした。殺したいのに殺せない。相手に何かを仕組まれている。≪撲殺≫の苛立ちは最高潮に達した。

「ぶっ殺おおおぉぉぉぉぉぉぉおおおおっす‼︎‼︎‼︎」

 ≪撲殺≫は来た道を戻った。今度は声を上げず、ひたすら足を動かした。自分の身に何かが起こる可能性を考えず。