女に飲ませようとした試験管の中身も、おそらくは毒だろう。廊下に無造作に投げ捨てられたものが二つ。落ちても割れないということは、誤って落として割れたら危険だったのか。持ち主の男はガスマスクをしている。皮膚からも吸収するタイプか、マスクが見せかけなのか。
女を守る様に、業はガスマスクに向かい合う。階段の上と下。毒とナイフ。守るものがある業と、背後には何もなさそうなガスマスク。どちらが有利かは一目でわかってしまう。
「邪魔するなよぉー。脳筋馬鹿のくせにぃ。知ってるぞぉお。お前みたいな体がでかい奴はぁ、力でねじ伏せてくるんだぁぁぁああ。人が嫌がることについては頭の回転が速いんだぁ。だから今、僕の邪魔をしてるんだろぉぉお」
ゆらゆら。ゆらゆら。
白衣の体が左右へ揺れる。振り子のように不安定な体で、呪詛のような言葉を唱える。
女は震える手で業の服を握る。今はまだ目を逸らすわけにはいかない業は、感触だけで状態を推察する。震えているのだろう。微かに服を擦る感触する。同じようにガチガチと音もする。歯がぶつかっているのだろう。少し見た記憶を遡れば、業よりも何周りも、特に身長は頭一つ分は小さな体。よくこの時まで生き抜いたと感心に値する。うさぎのようにか弱い体。少なくとも今は、後ろから攻撃する気配はない。
さて、この女はどっちなのか。それがわかるのは現状が落ち着いてからだろう。
「あああああ、むかつくむかつくむかつくぅ……僕の邪魔するなよぉぉおおお……僕は何もしてないだろぉぉぉおお。なんだよぉ、なんなんだよぉおぉぉおぉぉぉおおおお。お前もアイツらと一緒だぁ……僕をいじめるアイツらと一緒だぁぁぁああああ……ころす……殺すしかないいぃぃぃぃぃぃぃいいいいいいい!!」
ブツブツ、ブツブツ。
ガリガリ、ガリガリ、ガリガリガリガリガリガリ。
マスクの隙間から言える残バラな髪を掻き毟る。雄たけびとともに懐から出された缶。普通の人間ならば缶としか思わなかっただろう。けれど、業は違った。多少なりとも裏の世界を見たことがある業には、それが『催涙ガス』だと瞬時に判断し、ナイフを投げた。投げたナイフは缶に当たり、階段の下へ落ちていく。
「あああっ、あああぁぁぁああああ!!」
無残にも落ちていく缶を目で追って、どうしたことか、ガスマスク――通称≪毒殺≫――は不格好に走って逃げた。
「お前も来い」
服を掴んでいた手を振りぬき、業は階段を駆け上がった。突き当りを曲がってガスマスクを追うが、そこにはもう、姿はない。
「……」
「あの……」
「中か」
二人は上を見上げる。『化学室』と書かれたプレート。締め切られた扉。運動していたとは思えない走り方だった。物が置いていない廊下で、そんなにすぐ身を隠せるわけもなく。出した結論は『安全圏に逃げ込んだ』。
「……どう、するんですか?」
女は思わず訪ねる。業は扉を睨みつけたまま、頭の中で考える。このまま出てくるのを待つか。他の得物を探すか。それとも――
「ついてこい」
「あ、はいっ」
返答は出さず、業は踵を返した。業よりも頭二つ分低い150cm台の、ボーイッシュな短髪はその後をついて行った。
✢
調理室。業と女が入った部屋だ。中は調理室らしからぬ、およそ調理器具とは言えないような刃物が多数。薄汚れ、染み付いた血痕。内臓。肉片。換気ができないゆえに篭った臭い。廊下には数時間前に多少の言葉を交わした女の体。今はもう死体と成り果てた≪絞殺≫が、床に這った状態でそのままだった。業にとっては学び舎。ここは業にとっての安全地帯。学科を学んだ場所だ。
チョーカーに反応し、扉が自動で開く。後をついてきた女は首にチョーカーはなかった。彼女に安全地帯は存在しない。業にとっての安全地帯も、彼女にとってどうかはわからない。けれど、踏み入れなければ危険であることには変わりない。数秒の躊躇いの後、意を決して足を踏み入れた。
「お邪魔します……」
異様な雰囲気なんて今更である。そんな中でも、自分を迎えてくれた場所というのはどうして微かな安心を感じてしまうのか。
業は床に座り、手入れの道具を取り出した。女は自動で閉まった扉の近くから離れられず立ち尽くす。
「あの……」
「出れなくなると思わなかったのか?」
「っ、ぁ」
前髪の隙間から、獰猛な目が覗く。小柄な女は見上げられることはそうそうなかった。この経験はいつぶりだったろうか。こんなにも背筋が逆撫でされるような不気味さを、果たして経験したことがあっただろうか。
喉が締まる感覚に、声が身から出てこない。震える手が喉に触れるも、頑なな声は身を潜める。だが、答えなければ。この場の強弱なんてあえて比べるまでもない。答えず、気分を害したら、どうなるか。想像に容易い。だからこそ、より喉が締まる。
「ぁ……の……」
「殺すつもりはない。ここにいたらいい」
「…………ぇ……?」
ようやく出たのは、素っ頓狂なそれ。鳩に豆鉄砲。女個人の感覚としては青天の霹靂にも等しい衝撃だった。睨み上げず、作業を再開した業を大きすぎる目が見つめる。この状況で自分を匿ってくれるこの人は、一体何なのか。疑問に思うしかない。
「わたし……シュナって言います」
「……」
「……お名前、聞いてもいいですか?」
「……業」
「なり、さん」
喋らせてくれる。
話させてくれる。
名乗らせてくれる。
構えを教えてくれる。
そんな、何も不思議ではない、ただただ普通のこと。普通じゃない場所で、そんな普通なことができるとは。名前も聞かず、話もせず、ただひたすらに殺し殺されていく数日間。シュナと名乗った女は、涙を零した。
「ありがとう、ございます……っ」
一瞬。業の手が止まる。目を閉じて雫を拭ったシュナは気付かなかった。業はシュナを一瞥し、悟られる前に作業を再開した。
女を守る様に、業はガスマスクに向かい合う。階段の上と下。毒とナイフ。守るものがある業と、背後には何もなさそうなガスマスク。どちらが有利かは一目でわかってしまう。
「邪魔するなよぉー。脳筋馬鹿のくせにぃ。知ってるぞぉお。お前みたいな体がでかい奴はぁ、力でねじ伏せてくるんだぁぁぁああ。人が嫌がることについては頭の回転が速いんだぁ。だから今、僕の邪魔をしてるんだろぉぉお」
ゆらゆら。ゆらゆら。
白衣の体が左右へ揺れる。振り子のように不安定な体で、呪詛のような言葉を唱える。
女は震える手で業の服を握る。今はまだ目を逸らすわけにはいかない業は、感触だけで状態を推察する。震えているのだろう。微かに服を擦る感触する。同じようにガチガチと音もする。歯がぶつかっているのだろう。少し見た記憶を遡れば、業よりも何周りも、特に身長は頭一つ分は小さな体。よくこの時まで生き抜いたと感心に値する。うさぎのようにか弱い体。少なくとも今は、後ろから攻撃する気配はない。
さて、この女はどっちなのか。それがわかるのは現状が落ち着いてからだろう。
「あああああ、むかつくむかつくむかつくぅ……僕の邪魔するなよぉぉおおお……僕は何もしてないだろぉぉぉおお。なんだよぉ、なんなんだよぉおぉぉおぉぉぉおおおお。お前もアイツらと一緒だぁ……僕をいじめるアイツらと一緒だぁぁぁああああ……ころす……殺すしかないいぃぃぃぃぃぃぃいいいいいいい!!」
ブツブツ、ブツブツ。
ガリガリ、ガリガリ、ガリガリガリガリガリガリ。
マスクの隙間から言える残バラな髪を掻き毟る。雄たけびとともに懐から出された缶。普通の人間ならば缶としか思わなかっただろう。けれど、業は違った。多少なりとも裏の世界を見たことがある業には、それが『催涙ガス』だと瞬時に判断し、ナイフを投げた。投げたナイフは缶に当たり、階段の下へ落ちていく。
「あああっ、あああぁぁぁああああ!!」
無残にも落ちていく缶を目で追って、どうしたことか、ガスマスク――通称≪毒殺≫――は不格好に走って逃げた。
「お前も来い」
服を掴んでいた手を振りぬき、業は階段を駆け上がった。突き当りを曲がってガスマスクを追うが、そこにはもう、姿はない。
「……」
「あの……」
「中か」
二人は上を見上げる。『化学室』と書かれたプレート。締め切られた扉。運動していたとは思えない走り方だった。物が置いていない廊下で、そんなにすぐ身を隠せるわけもなく。出した結論は『安全圏に逃げ込んだ』。
「……どう、するんですか?」
女は思わず訪ねる。業は扉を睨みつけたまま、頭の中で考える。このまま出てくるのを待つか。他の得物を探すか。それとも――
「ついてこい」
「あ、はいっ」
返答は出さず、業は踵を返した。業よりも頭二つ分低い150cm台の、ボーイッシュな短髪はその後をついて行った。
✢
調理室。業と女が入った部屋だ。中は調理室らしからぬ、およそ調理器具とは言えないような刃物が多数。薄汚れ、染み付いた血痕。内臓。肉片。換気ができないゆえに篭った臭い。廊下には数時間前に多少の言葉を交わした女の体。今はもう死体と成り果てた≪絞殺≫が、床に這った状態でそのままだった。業にとっては学び舎。ここは業にとっての安全地帯。学科を学んだ場所だ。
チョーカーに反応し、扉が自動で開く。後をついてきた女は首にチョーカーはなかった。彼女に安全地帯は存在しない。業にとっての安全地帯も、彼女にとってどうかはわからない。けれど、踏み入れなければ危険であることには変わりない。数秒の躊躇いの後、意を決して足を踏み入れた。
「お邪魔します……」
異様な雰囲気なんて今更である。そんな中でも、自分を迎えてくれた場所というのはどうして微かな安心を感じてしまうのか。
業は床に座り、手入れの道具を取り出した。女は自動で閉まった扉の近くから離れられず立ち尽くす。
「あの……」
「出れなくなると思わなかったのか?」
「っ、ぁ」
前髪の隙間から、獰猛な目が覗く。小柄な女は見上げられることはそうそうなかった。この経験はいつぶりだったろうか。こんなにも背筋が逆撫でされるような不気味さを、果たして経験したことがあっただろうか。
喉が締まる感覚に、声が身から出てこない。震える手が喉に触れるも、頑なな声は身を潜める。だが、答えなければ。この場の強弱なんてあえて比べるまでもない。答えず、気分を害したら、どうなるか。想像に容易い。だからこそ、より喉が締まる。
「ぁ……の……」
「殺すつもりはない。ここにいたらいい」
「…………ぇ……?」
ようやく出たのは、素っ頓狂なそれ。鳩に豆鉄砲。女個人の感覚としては青天の霹靂にも等しい衝撃だった。睨み上げず、作業を再開した業を大きすぎる目が見つめる。この状況で自分を匿ってくれるこの人は、一体何なのか。疑問に思うしかない。
「わたし……シュナって言います」
「……」
「……お名前、聞いてもいいですか?」
「……業」
「なり、さん」
喋らせてくれる。
話させてくれる。
名乗らせてくれる。
構えを教えてくれる。
そんな、何も不思議ではない、ただただ普通のこと。普通じゃない場所で、そんな普通なことができるとは。名前も聞かず、話もせず、ただひたすらに殺し殺されていく数日間。シュナと名乗った女は、涙を零した。
「ありがとう、ございます……っ」
一瞬。業の手が止まる。目を閉じて雫を拭ったシュナは気付かなかった。業はシュナを一瞥し、悟られる前に作業を再開した。