映画が好きと言いながら、見るのは大きい映画館か配信ばかりで、規模の小さな映画館には行ったことがなかった。なんだかハードルが高くて踏み込むのに躊躇していたんだ。
 何回か二人で映画を見に行って、珍しく誠一郎からこの映画が観たいって提案があった。それは上映情報を見ても、この県ではやってないような映画。都心でもほとんどやっていない、いわゆる単館系、ってやつだ。
 馴染みのない駅で降りて、馴染みのない道を歩いて、小さな映画館。いつも行くシネコンとは全然違う雰囲気だった。
 上映中、の文字の上に貼られたポスター。
 雨に打たれた二人が見つめ合う写真だ。顔が血と雨で濡れている左側の男性と、その顔に手を添える右の男性。見つめ合って絡み合う視線。それだけで、彼らがなみなみならぬ関係なことはわかる。
 台湾で作られた映画。男性二人の逃避行を描いた話だった。
 この映画のことはもともと知っていた。映画サイトで記事を読んだから。それは多分偶然じゃなくて、きっと誠一郎と同じ理由だ。だから観に行きたいなと思って、それなら誠一郎以外とはありえなくて、誘おうかなと思ったけど、なんだかできなかった。
 この監督の別の作品を配信で見たことがあった。それは家族がテーマの作品で、少し変わった質感の映像が印象的だった。そう言えば、その映画にも一人、家族の中にそういう人――つまり、男性を愛する男性――がいた。その時はそれを強く意識していなかった。けれど、そうだ、確かにいた。
 俺はもう一度目の前のポスターに眼を向ける。
『果てしない疑心暗鬼、果てしない愛、その果てにあるものは?』
 添えられたキャッチコピーを見て、ロビーを見回した。この二人の間の果てしない愛――男性同士の愛についての映画だから、そういう人も来るのかな、と思っていた。だけど見た感じ、何も変わらない。大きい映画館との違いはむしろみんな落ち着いた感じってところで――それは別に、この映画だからじゃなくて小さい映画館だからなんだろうなと思う。
 そう思って、別にそういう人たちに何か目印があるわけじゃないし、パッと見てわかるわけでもないんだよな、と思い直す。
 若い二人組がロビーに入ってくる。今時の大学生って感じの二人組で、誠一郎が大学に入ったらこうなるのかな、みたいなこざっぱりした見た目だった。
 俺はその二人を見て、二人は普通に手を繋いでいて。
 ひゅっ、と視線がそこに吸い寄せられた。ぎりぎりに近づけた磁石がくっつくときみたいに、不思議な浮遊感で。そしてそこから目が離せなくなった。一人が俺の視線に気づいて、こっちを向いた。俺は視線をぐいっと無理やり剥がした。
 あんまり見るのは、失礼だ。
 視線を剥がして、あてもなくさまよわせていると、
「智志?」
 飲み物を買っていた誠一郎が戻ってくる。両手に抱えるコップを一つ受け取って、二人でシアターに入る。
 小さなスクリーン、数える気になれば数えられるくらいの座席数だ。
 誠一郎の隣の席に座る。俺たちの右後ろにあの二人組は座っていて、何かを話しているのが聞こえてくるけど、内容まではわからない。
 俺の頭の中にはさっき、二人がしっかり手を繋いでいたのが残っていた。
 暗くなって、スクリーンには予告編が流れだす。
 イタリア映画、スペイン映画、韓国映画。耳馴染みのない言葉たちの映画。ああほとんど知らない映画ばかりだ、と思う。俺の知らない映画は、まだいっぱいある。一生どれだけ時間をかけてもきっと観たい映画全部は観られない。そんなことを考えながら、ずっと心の中はあの二人の手につながっている。二人がちゃんと繋いでいた手の感触に思いを馳せている。俺は右に座る誠一郎を見る。誠一郎は真剣な表情でスクリーンを見つめている。その手が、手すりに乗っていて欲しい、と思ったけど、誠一郎の手は太ももの上にあって、俺の掴める場所にない。だから俺の手も俺の太ももの上にある。
 映画が始まった。

 ――主人公はヤクザな職業をしていて、組織の鉄砲玉みたいなことをいっぱいやらされている。
 どころかそういう処理とかもやらされている。かなりがっつり、直接的に性器は写ってないけど激し目のシーンがあって、俺は結構ドキっとする。それはなんか本当に『処理』って感じの乱暴さで、興奮を掻き立てるというよりゾッとする感じだ。
 そして挙句の果てにトップの犯した殺人の罪を負わされることになる。
 組織を追っている刑事はそれに気づいている。気づいているから主人公をすぐには捕まえない。だけど、それが刑事の立場を悪くする。
「さっさと捕まえればいい、俺を」
 主人公がそう言って、刑事はそれを拒否する。刑事をからかおうと主人公は刑事を誘って――それで結局二人は一緒に寝ることになる。
 それは同じ性行為だけど、その描写の違いから、その意味の違いは明らかで。
 主人公にとって、それはきっと救いだったんだろう。
 結局主人公は逃げるしかなくなって、刑事もそれに巻き込まれ二人の逃避行が始まって、結局それは頓挫する。主人公が警察にも組織にも狙われて、最終的に撃たれて死んでしまう、そして――。

 映画が終わって、劇場が明るくなった。
 エンドロールがあっという間に感じるくらいだった。流れていく漢字だらけのスタッフロールを見ながら、俺は今まで考えたことのないことを考えて、言葉にならないことを言葉にしようとして、まとまらない何か大きな感情をずっとこね回していた。
 劇場の中にはまだ緊張した空気が漂っていて、物語に全員が入り込んでいたのがわかる。そういえば、エンドロール中に立ち上がる人もいなかった。
 圧倒されてるんだ。
 そう思って、俺は何かにすがるような気持ちで右を見た。そこにちゃんと誠一郎がいて、ふう、とため息をついていた。誠一郎も同じくらい入り込んでいたみたいだ。俺の視線に気づいてこっちを見て、
「すごかった」
 と言った。俺は頷く。うん、すごかった。
 お互いになんだか余韻を味わっていたくて、しばらくじっと座っている。
 すごかった。すごくいい映画だった。割と激しい描写が多いのに、どこか落ち着いた空気があって――静謐、ってこういうことかもしれない。
 気がつけばもう劇場には誰もいなくて、スタッフが清掃のために入ってきて俺たちは慌てて立ち上がった。
 歩きながら感想戦。
 さっき余韻の中で整理したことを誠一郎に話す。
「同じ監督の他のもそんな感じだったんだ。なんか、ずっとどこか冷静な感じがして。それが魅力だなって思う。あ、でも疑問だったのは」
 俺は映画を見ながらずっと感じていたことを話す、
「刑事のはさ、親身だしかっこいいから主人公が好きになるのはわかるんだけど、刑事の人はなんで――」
 そう言いかけて、急に、つぷんと、心に小さな穴が空いた。
 ――なんで主人公のこと好きなんだろう? そこが、わかんなかった。
 そう言おうとして、俺は言えなかった。